新しい神話研究の可能性
                                   松村一男(和光大学)
 ○新しい神話学の模索
 「神話」という対象を定義することは、「宗教」の定義の場合と同様に簡単ではない。「宗教」の場合、その対象の多様さに呼応するように、宗教現象学、宗教社会学、宗教哲学、宗教心理学など多様な方面からの研究方法が用いられる(注2)。同様に、神話研究においても19世紀以来の歴史学、文献学、民族学(文化圏学派、伝播論)に加え、20世紀になって誕生した深層心理学、構造主義人類学などの手法によって様々な視点からの分析が試みられている。こうした多様な手法による研究が可能なのは、対象の現れ方が多様だからとも、あるいは対象自体が定義の難しい曖昧なものだからとも説明できるだろう。
だから定義に関わっていると対象の意味を分析する段階まで進みにくい。そこで伝統的に「神話」と呼ばれてきて、「神話」であることに異論がないような「ギリシア神話」とか「日本神話」といった伝統的な素材を、上記のようなさまざまな手法で分析するいわゆるのがいわゆる「神話学」である。こうした「神話学」は、依然として安定した研究成果を生み出している。そしてこれまでの神話学の成果については、日本を代表する二人の神話学者による見事な対談が最近上梓された(大林・吉田1988)。
 しかし個人的には、神話学がこのまま伝統的な素材を対象にした研究を続いていくことでよいのだろうか、という疑問がある。それは人類学や民俗学の抱える問題と同根の性格を神話学が抱えていると思うからに他ならない。伝統的な神話の残る地域はほとんど消滅しつつあるからだ。伝統的な「神話」のジャンルに当てはまる物語は今後増えることはないだろう。材料も料理法も変わらないならば、神話学は人類学や民俗学と並んで訓古学とならざるをえないのではないだろうか。そうした意識のもとに新しい神話研究の対象を考えてみたい。神話を人間が生きていく上で必要とされる神聖な価値を示す物語とするなら、それが伝統的な社会以外に現代社会においても存在するはずである。伝統的な神話以外の神話を神話学の対象とすべきなのである。神話学とはそうしたより大きな可能性をもった研究方法であろう。もちろん以下で述べるような新しい神話学の試みが伝統的な神話学に代わるものであると主張する意図など毛頭ない。神話学の対象を広げて従来は対象とされていなかったものも含めるべきではないかという提言を行っているだけであり、その妥当性については識者の批判を受けて、さらに展開していきたいと願っている。

 ○「神話」の定義の再検討
 神話は、形式面からは、「神々が主人公で、太古の世界での物事や制度の始まりについての物語」という風に定義できるだろう。しかし内容の面から神話を定義することは形式的な基準で判断することよりは難しい。だから、こういう神話という形式についての定義をよく見る。しかしよく見かけるからといって、それが神話の本質の理解に役立っているとはただちにはいえない。便宜的なものという気もする。あるいは綺麗にまとまっているが真剣に考えているとは思えない役人の作文のような気もする。
 では内容から考えるとどうだろう。ここでは伝統的な神話と現代における神話を一応区別して考えてみたい。伝統的な神話とは普通に私たちが神話と了解しているもの、そして現代における神話とは、普通は神話と思っていないものである。
 さて内容から見た神話の定義だが、「荒唐無稽な物語、何がいいたのか分からない物語」というものを仮説的に提示してみたい。あまり学問的・知的とはいいがたいが、それこそが意図するところである。なぜなら、いままでの神話学での定義はあまりに学問的な装いに捕らわれていて、きれい事過ぎたと感じているからだ。かつてドイツロマン派が唱えたような、深淵で神秘的な人類の過去の英知を秘めたものという神話の見方(これはユングあたりの神話観にいまだに漂っている雰囲気である)は、単なる思いこみだという可能性だって考慮されてしかるべきだろう。
 ではなぜ神話をそうした高尚なものと学者たちは説明してきたのだろうか。それは無意識のうちに神話は昔話より高級であると思ってきたからだろう。昔話が女子供のものであるのに対して、神話は集団の権力者集団の男子成人(ロマン主義の場合なら「選ばれた聖職者階級」)によってのみ伝えられてきたという「イメージ」があったのだ。
 しかし現在の飲み屋でのおじさんたちの話を聞いていれば分かるように、おじさんたちは必ずしも立派な話をしているわけではない。話の程度で言えば、女子供と変わらないだろう。では何が違うのだろうか。それはおじさんたちが女子供よりも社会において権力を握っている場合が多いということだろう。おじさんたちは権力の話に熱中するのである。
 その結果おじさんたちは行動を起こす。その行動がすべての人々から支持されるものならば、弁明は不用だろう。しかしおうおうにして、その行動は反対の意見の一派あるいはさらに広く世間一般から非難を浴びる場合がある。そうした場合には、自分たちの行動、行為を正当化する必要が出てくる。それを正当化するおじさんたちの言説が実は「神話」なのではないか。
 それには何か特別な神秘的な意味があると思わせる必要がある。しかし実際にはそこに自分たちの主張に都合のいい物語を忍び込ませられればよいだけである。どのようにしたらそれが可能だろうか。それにはもともとの物語が曖昧であればよいのだ。解釈によって自分の都合のいい言説の証拠となるような物語が「神話」となるのではないか。
 こう考えるなら、ある種の権力者集団が他の人々の集団を攻撃したり、支配したり、搾取したり、抑圧したりする際に根拠として持ち出されてくる物語は神話といえるだろう。また、男性が女性に対してある種の行為を禁じたり、女性をある種の場所や行為に限定したりする理由として持ち出されてくる物語も神話ということになるだろう。
 たとえば『古事記』のイザナギ・イザナミの国生みの場面において女性のイザナミから声をかけたのが原因で未熟児あるいは不具の子であるヒルコが生まれたとなっているから、女性は男性より出しゃばっては行けないという主張がなされるなら、これは神話であろう。形式の問題ではなく、内容の問題として神話と呼びたい。この話の意味は『古事記』自体には書いてない。男性優位であるという解釈は、テキストの曖昧さにつけこんで自己正当化のためになされている。
 同じように『古事記』において天皇家の支配の物語があるから、日本という国家は天皇を戴くべきだという主張や、同書の記述にもとづいて古墳を天皇墓として認定する作業も、また旧約聖書に述べられているからパレスチナの地はユダヤ人のものであるという主張も「権力による神話の利用」といえるのではないか。
 以上、内容から定義した場合の伝統的な神話とは、「現在ではその主張が曖昧で、そのために都合良く解釈できて自己正当化のために利用できる伝統的物語」と言い換えることもできるだろう。

 ○伝統的神話
 ここで伝統的な神話の代表として、まず日本神話と旧約聖書を例に考えてみよう。両者は自分たちの支配の正統性の主張という目的がはっきりしているテキストである。しかし問題とすべきは、たとえば上記のイザナギとイザナミの声をかける順序という、支配者の正統性という本筋以外の部分の記述が、男女の優越の主張の根拠として持ち出されるような状態なのである。旧約聖書にしても数千年後になって子孫と称する人々が土地の権利を主張するために書かれているものではない。それらが本来の目的とは異なる用途において正当化のテキストとして用いられるのは、単にそれらがロマン主義的な夢想において古くから連綿とつづく民族の魂の産物と見なされ、そう主張されて意義づけられてきたからに他ならないだろう。これらの神話にそれらが編まれた時代における本来の目的以外にも、後代の社会において価値を与えてきたのはこうした意義づけである。
 これに対していわゆるギリシア神話には特定の単一の目的は見当たらない。それは種々のテキストの寄せ集めの総称であり、単一の視点からの編纂物ではない。だから相互に矛盾した言説が見受けられる。そしてそれはそれで大変に利用しがいがあるのだ。女性を蔑視する神話、女神と賞賛する神話、どちらもあるからだ。状況に応じて自己の意見の正当化にそのどちらかを利用すればよいわけだ。しかもさらに手の込んだ利用法も可能である。女性を賞賛する神話をまず出しておいて、しかし実は、といって女性の恐ろしさの神話を付け加えるという手法である。これは女性を両義的あるいは表面と内面の分離した危険なあるいは男性とは異なる種族の存在と位置づけることを可能にする。
 つまりギリシア神話は統一のないテキスト群で、しかも西洋文化の故郷と位置づけられているギリシア・ローマ時代の産物として、規範的(クラシックス)という評価を得ているから、そのなかから自分に都合のいい神話だけを選び出して並べて、自己の主張の根拠とすることは大変に便利に違いない。

 ○意味の劇場のセットとしての神話
 以上、ある意味で神話は、「見た目はきちんとしているが中を覗くとからっぽ」な物語ともいえる。映画やテレビの大道具、セットみたいともいえる。自分に都合のいい場面を作るためにいかにもそれらしく見えるように大急ぎで作り上げられる。しかし裏に回れば実態は何もないのだ。そしてからっぽであるがために、そこに目的に応じて勝手に意味を付与して、自分たちの行動を正当化することができるというパラドクスを含むのである。自分自身の意味をもたないから利用価値が高いというあたりはまるで天皇のようである。そして同じようにだからこそ崇拝されたり特権的テキスト化されるのだろうけれども。
 イオアン・クリアノもファウスト「伝説」を例として、そこに時代毎にさまざまな政治的イメージが仮託されてきたことを指摘している(Couliano 1990)。なお付言すれば、形式的な分類で「伝説」とされているファウストの物語をクリアノが「神話」として論じている点にも注意されたい。問題は表面的な形式ではなく、内容あるいは役割としての「神話」なのである。
 こうした神話の見方は邪道、亜流であろうと思う。たしかに教科書的な記述ではない。しかしこうした側面を神話がもち、こうした側面において利用され、問題になってきたということも否定できないのではないだろうか。それに神話が曖昧性を特徴とするテキストだということは、実は学説史を復習しても傍証が見つかる。それは古来から神話の解釈として行われ、いまだに続いているという二つの老舗、つまりアレゴリーによる解釈とエウヘメリズムである。いうまでもなく前者は、神話とは何かの寓意とか象徴だという説である。つまり神話とは本来の意味を解釈されるべき性質のテキストと見なされているのだ。ユング派の元型論による解釈はまさにこれである(注3)。またエウヘメリズムも神話は歴史の変形された姿であるという考え方であるから、神話を解凍して本来の歴史の姿を復元すべきということになる。日本神話の研究ではこれはいまでもおなじみだ。そしてこちらも神話は何か別のものを象徴しているのだ、という理解においてはアレゴリー的解釈と変わらない。呉越同舟なのである。古来、神話のもつ曖昧性を説明することが、その本質を明らかにすることと目されてきたのである。だからその曖昧性を利用しうる権力者には神話は便利な権力の手先であった。自己の理想の主張の道具として使えたのである。
 もちろんすべての人間集団や社会が権力者を頂点とする階層をなしているわけではないから、地位がより平等に近い小規模な集団や社会では、こうした神話の曖昧性を利用した権力的操作は神話の特徴とはならないかも知れない。しかし権力構造の目立つ社会と目立たない社会があるとして、そのどちらに力点を置いて考えるべきかといえば、私は権力構造のある社会における神話を問題にしたい。「かの時」を夢想する「永遠回帰の神話」をパラダイムとした神話学は採らない。それはむしろ神話学にとって有害な考え方だったとさえ、今は思っている。

 ○神話研究の危険性
 エリアーデについては、青年時代にルーマニアで全体主義思想をいだいていた可能性、そしてそれが彼の宗教理論にも影響している可能性が死後に論じられている。余談だが、日本の宗教学会はこれには余り反応していない。もちろんそれには理由があるだろう。エリアーデの思想についての指摘は必ずしも客観的・学問的とばかりはいえないが、その問題を故意に無視するのも非客観的・政治的だろう。もっともここで問題にしたいのはそうした神話研究における仲間意識の弊害ではない。エリアーデの宗教・神話理論において語られる理想的な神話・宗教複合は「宇宙的キリスト教」と呼ばれるが、これは19世紀ルーマニアの農民の宗教が意識的にか無意識的にかモデルになっているというアメリカの宗教学者ロバート・エルウッドの指摘である(Ellwood 1999)。
 この指摘を私は正しいと思う。そしてそれを、神話の曖昧さは権力による利用の他にも、研究者に神話の理論という形で無意識のうちに自分の理想を語らせてしまう可能性をもつという風に読み替えたい。なおエルウッドはこうした自己の理想を神話に投影した研究者としてエリアーデの他に、ユングとキャンベルを挙げている。つまり三人とも過去の失われた時代の価値観を現代のそれよりも評価しており、現実にそうした過去の時代に立ち返ることの不可能さは承知していても、少なくとも神話の中にそうした自分の理想を意識的には無意識的にか探し求めて、それを美しいイメージに乗せて語り、人々を引きつけているという共通点を有するというのである。私も神話の学説史をまとめたおりに、エリアーデとキャンベルにはユングの元型論の影響が強いと述べたが(松村1999)、三者の共通性はむしろそのロマン主義的な過去への思慕にあるという説明の方がより納得できる。そしてなぜ神話がこうした過去を右翼的にあるいは民族的に懐かしむ人々によって賞賛されるのか、その理由が実理想に都合のいいように解釈することを可能にする神話の曖昧さにあるのではないか、という地点にまで到達したのである。

 ○現代の神話
 さて次に現代における神話の問題に移ろう。もっとも現代の神話も伝統的神話と格別に構造において違いがあるわけではない。やはり張りぼてである。それに伝統的神話と現代における神話は綺麗に線引きや分類ができるものでもない。両者は入り交じっている。ただし伝統的社会が「おじさん」つまりは一部男性集団によって支配され、彼らの主義主張を正当化する物語としての神話、つまり「伝統的神話」が多かったという傾向があるのに対して、「現代の神話」とはそうした特定のジェンダーや階級に限られない神話であるといえよう。もちろん、伝統的な「おじさん」の神話は現代でも残っている。しかしそれ以外の見えない神話としての「現代の神話」は女性にも若者にもおじさんにも等しく影響を与えていると感じる。
 また現代の神話については二つの問題点があると思われる。第一の問題点は、神話によって操作され、特定の価値観を押しつけられた側が、その価値観を取り込んでしまい、その後は無意識にそれを支えとして生きるという皮肉な事態である。たとえば女性は美しい、美しい以上つねに化粧をしているべきだ、というファッションや化粧品やダイエット食品やエステ産業のメッセージである。これはアメリカのフェミニズム研究者のリタ・フリードマンが指摘するとおり、「女性は美しい性である」とする神話による操作である(フリードマン 1994)。
 男女という二つの性のうち、美しさは女性のみの属性であると決めつけることには何ら生物学的な根拠はない。女性には美しさという男性とは違う価値を与えて女性を男性から区別、差別して女性にはその美しさを口実として、男性とは異なる役割をあてがうという操作が長らく行われてきた。そして女性の多くがこの価値観を無意識のうちに受け入れて成長し、それゆえそれなしでは不安になるという状態になっている。
 第二の問題点は、やはりコマーシャリズムに関わるが、第一の問題とはやや異なる。コマーシャリズムによって新たに創造されるお祝いとかプレゼントにまつわる神話がそれである。たとえば、「ダイヤモンドは給料の三ヶ月分」とか「スィートテン・ダイヤモンド」というコマーシャルがあった。結婚の折には夫の親族側が妻の親族側に婚資(ダウリー)を支払うという風習が伝統的に広く見られるが、しかしエンゲイジ・リングとは別に宝石を贈ることには特別な根拠はない。しかし「ダイヤモンドは永遠」という比喩を交えた広告とともにコマーシャリズムによる刷り込みは、いつしか無視しがたいものになっていく。反発をしながらも次第に既成事実になっていく。誰もがコマーシャルによって漠然と知ることになる知識、それに反する行動が無知として嘲笑の対象にならないか、という漠然たる不安、そしてそれが購買への無言の強制力となるとすれば、「神話」と呼べるであろう。
 また母の日、父の日、ヴァレンタインデー、ホワイトデーなどの記念日が提唱され、人々がコマーシャリズムによってプレゼントすることが奨励されるようになった。さらにキリスト教国ではある程度は伝統的だが、日本においては格別宗教的ではないクリスマスも恋人どおしの特別のデートの機会とか高価な贈り物の機会として、コマーシャリズムによってレストランやホテルやブランドものの売り込みに利用されている。これも立派な現代の「神話作り」であろう。
 ただしこれは第一のタイプの現代の神話と微妙な点において異なると思われる。つまり人々の願望を利用して生まれているという側面があるからだ。人々には自分が関心のある人々と交流を持ちたいという願望がある。それには口実があった方がやりやすい。たとえば気持ちを直接に言葉で伝えるのではなく、物品を贈ることで間接的に伝えるというやり方である。しかもそれが贈り物を贈ることが社会的に認知されたあるいは半ば強制された場面であれば、心理的に一層楽である。そうした人々の願望を適切にとらえ、それにふさわしい場を「神話」という物語を添えて提供したのが第二のタイプともいえる。それは有能なビジネスマンによる「神話」の創造と考えられる。

 ○結語
 以上で述べてきたことは、神話とは「こじつけの物語」であるという風に聞こえるだろう。しかしだとしたら、神話研究の価値が軽減したり、消失したりすることになるだろうか。私にはそう思えない。むしろ、伝統的な範疇としての「形式的な」神話を論じるだけでなく、現在、知らぬ間に作り上げられ、無意識のうちに受容して、その神話を生きているような「現代の神話」のメカニズムを指摘することは大変に意味のある研究だろうと思っている。

 <参考文献>
 ドッズ、フランソワ(清水正・佐山一訳)『構造主義の歴史 上:記号の沃野 1945-1966』国文社, 1999
 フリードマン、リタ(常田景子訳)『美しさという神話』新宿書房、1994
 井本英一『夢の神話学』法政大学出版局、1997.
 大林太良・吉田敦彦『世界の神話をどう読むか』青土社、
 松村一男『神話学講義』角川書店、1999.
 松村一男「研究動向 神話学」『エスキス』99(2000)164-169.
 篠田知和基『人狼変身譚』大修館書店、1994.
 山口昌男『歴史・祝祭・神話』中公文庫1978.

 Couliano, Ioan P. "Dr. Faust, Great Sodomite and Necromancer", Revue de l'Histoire des Religion 207(1990), 261-288.
Doniger, Wendy. The Implied Spider: Politics & Theology in Myth. Columbia U.P. 1998.
Ellwood, Robert. The Politics of Myth: A Study of C.G.Jung, Mircea Eliade, and Joseph Campbell. State University of New York Press, 1999
Fraser, Robert ed.. Sir James Frazer and the Literary Imagination. St.Martin's Press. 1990


 (注2)神話の諸理論について:今日、マックス・ミュラーの手法を真正面から大真面目に踏襲する研究者はいないであろう。しかし後述のように、フレイザーならいる。またイェンゼン、ユング、レヴィ=ストロース、デュメジルなどは定番であり、一時の熱狂はないにしても、今なおそれぞれの理論の信奉者をもち、それぞれの手法による神話研究が現在も生み出されている。
 個人的には、レヴィ=ストロースとデュメジルから発展させたフランス(およびその影響下にあるアメリカ)のギリシア学者たち(ジャン・ピエール=ヴェルナン、ニコール・ロロー、フロマ・ゼイトリン、チャールズ・シーガル、ピエトロ・プッチら)が手法的には現在もっとも安定した正統的な神話研究ではないかと思っている。それは一言で言えば、歴史性を無視しない、文献学者や歴史学者によるマイルドな構造主義である。折衷主義の産物ともいえるが、しかし破綻のない、多くの支持を受ける手法であることは間違いない(この学派の手法は「歴史人類学」との称される。学派として概観した研究はまだないようだ。代表的研究者ヴェルナンについてはとりあえず、ドッズ 1999: 266-269を参照されたい)。
 またここでフレイザー的手法についても触れておくことにしよう。フレイザーの歴史的・文化的差違のコンテクストを無視した世界規模の部分的類似への注目と、強引な進化論的普遍化(こうしたフレイザー的手法を山口昌男は「コラージュ的手法」と呼び、ドニガーはmacromythと呼ぶ。山口1978:19; Doniger 1998: 92)はさすがにそのままでは現在のところ追従者を見ていない。しかし部分的類似から壮大な歴史的伝播の図式を描く傾向は、フレイザーだけでなく、文化圏学派のアドルフ・バスティアンやレオ・フロベニウスにもあったもので、多方面に関心を有する研究者なら、かなり強い誘惑を覚えるはずである。事実、エリアーデの宗教現象学やキャンベルの神話学にはその名残が感じられる。日本ではイラン学者の井本英一、フランス中世文学の篠田知和基などがこの流れに属すると思われる(井本1997; 篠田1994)。比較の厳密さが低い(意図的に低くしている可能性もある)ので、類似例が次々の無限に繰り出される。その学識は驚くべきもので、賞賛を禁じ得ないが、しかしそれによって何が分かったのかというと、どうも似た例がたくさんあるなあ、という以上にはならないのである。現象の普遍性の指摘がなされることは、現象を特殊性の枠に閉じこめず、したがって特殊な意義づけを避けるために大事だろうし(たとえば天皇制)、それによって不明の部分の意味が解明できることも多いのだろうが、他方あまりに具体性の程度が低くなって、個別の問題性が薄まってしまう。どこにでもあることなら珍しくなくなってしまうのだ。何事もほどほどが肝要であって、フレイザーの手法はよほど注意していないと博識の落とし穴に陥ってしまう(フレイザーについて比較的新しい論文集としてFraser ed. 1990がある)。
 (注3)心理学的神話研究とくにユング心理学からの研究について:フロイトであれユングであれ無意識の心理学の立場からの神話研究について、ここでは触れていない。それは私の中に心理学的な神話研究の前提に対する疑問があるためである。理論的な展開あるいは粉飾は別として、心理学は基本的に個人の無意識を問題にする。そうした立場から神話を論じるとき、それは個人の魂の表現あるいは発現であり、社会性はあまり視野に入っていない。フロイトの場合には明確にそうだし、ユングはかつてゲルマン的およびユダヤ的民族心性を比較して論じたが、いうまでもなくそれは不適切かつ不正確なものであって、かえって心理学からの神話研究の妨げとなるので、その後はユングはそうした問題については口をつぐんだ。
 個人の魂からの無意識の発現であれば、夢、妄想、幻想、狂気、信念、偏見などさまざまな名前で分類される神話以外のものがある。それらと神話は同じなのだろうか。私はそう思わない。神話は物語であり、さらに社会や集団において認知された物語である。そうした社会性を問題にしない心理学的な神話解釈は疑わしいと感じる。
 次にユング心理学にかぎっていえば、「元型」の概念の有効性に疑問がある。まずそれは科学的に検証できない仮説である。さらに「元型」と神話の性質とが折り合いが悪いことも理由となる。
 私は神話について本質論には立っていない。神話に本質があるか分からないし、あるとしてもそれを明らかにできるとは考えない(その根拠については松村1999参照)そこで神話を他の言説と区別するものはその機能である、という機能論の立場に立っている。だから、神話とはまず集団におけるイデオロギーや行為や主張の正当化という目的のために動員される言説であり、そのためには由来が分からない古い物語で、内容が曖昧でどうにでも解釈できるほど便利である、というのが私の神話の定義である。それは言葉を換えていえば神話の社会性の重視であり、したがって心理学的解釈への疑問となる。
 こうした立場からすると神話におけるモチーフには必然性がないことになる。身の回りにあるものや現象から適当に選んで、よく語られる話形を借用し(だから神話、伝説、民話はみんな似ている。似ているのは話形は神話にとってどうでもいいものだからではないだろうか)作り上げられただけということになる。もちろんそのモチーフや話形のレヴェルでの分析は可能だし、有意義である。しかしそこに「元型」的なもの、つまり老賢者、永遠の少年、太母などと呼ばれるものを見いだして、そこから神話の本質を語ることはどうもずれているのではないだろうか。本来意味のない部分に勝手に意味を見つけてそれが神話であると得々と説教している感じをもつ。