和光大学表現学部・人間関係学部紀要別冊『エスキス2002』pp.180-182.

ネズミと「アングラ」

 堂前雅史(人間関係学部講師)

 私が大学に入ったのは、一九七八年のことで、間もなく芝居見物の道楽にはまった。しかも、高校の生真面目な先生が眉を顰めそうな、当時の語で言う「アングラ芝居」 (*1) を観ることに。当時、全共闘運動から一〇年、学生運動は下火になり、六〇年代文化は昔のものとなっていた。同世代の者からは、あんな時代遅れな薄汚い品のないものに、まだ気があるのかという目で見られた。

 もともと育った家庭環境が、小学生の頃には、「お人形劇を観に連れて行ってあげるからね」と言われて喜々として親について行ったら人形浄瑠璃『ひらかな盛衰記』だったり、高校生の頃には、試験前日に「試験なんぞ何度でも受けられる。歌右衛門は綺麗な内に観ておかなくちゃだめだ」と母親から説教食らい、試験勉強をほっぽり投げさせられて劇場へ連れ出されるような、芝居見物のためなら子供も騙くらかすような家であった。

 長ずるに及んで観た新劇が不満であった私にとって、「アングラ芝居」への期待は高かった上に実際にこれがまた面白かったものだからたまらない。当時の紅テント (*2) も黒テント(*3) も私には「歌舞伎のように」おもしろかった。自分もあんな世界に入ってみたいものとキャンパスをうろうろしていると、黒テントや紅テントよりも面白い芝居に突き当たった。野田秀樹が率いる「夢の遊眠社」という劇団であった。

 スピード感あふれる一方で、身体性を重んじる、まるでスポーツのような演劇は、舞踊の基盤の上に成り立つ旧劇に親しんだ私にはかえってしっくりと来るものがあった。稽古場を覗き込んだのが縁で「遊眠社」の美術スタッフをしているうちに、いつの間にか劇場使用の公演スケジュールについて劇団間の調整をやる小屋主のようなまねをしていた。当時の東大駒場キャンパスは、他にも如月小春、堤泰之、宮城聰といった後年に演劇界を支えた人々が24時間学生管理の劇場で活躍していたのだから、これが面白くなかろうはずはなかった。古びて汚い学生寮の片隅で、当時の人のほとんどが知らぬ、そんな活きの良い世界を満喫できたのは思えば幸運なことだった。お陰で、四年生を二度やることにはなったが。

 やがて八〇年代に入ると小劇場ブーム。「夢の遊眠社」は世に知られるようになり、仕事に集中すべく周囲の者も次々と大学を中退していき、演劇に人生を掛けるのか、学生のままでいるのか、二者択一を迫られた。特に才能もない以上、大学の卒業証書が惜しかった私はどっちつかずの生活が苦しくなった頃でもあった。そんな頃、遊び半分のつもりで、合宿制の生物学臨海実習を選択した。風光明媚な海辺の臨海実験所、魅力的な実験所の生活、教員と杯を交わしながら朝まで続く議論、磯で採集した不思議な動物たちの数々。ウミウシ、ユムシ、ケヤリムシ…動物たちは子供の頃に図鑑で観た時よりも、ずっとずっと不思議で異様な姿、生態をしていた。彼らを前にして、山野で小動物を相手に育った子供の頃の興奮が蘇りあふれかえってきた。そうだ、私はこういうことが好きだったんだ。私は演劇よりも面白いと思えるものに出会ってしまったらしい。

 かくして、卒業研究はヒトデの精子を使って発生学、大学院はハツカネズミを使って動物行動学をやることになった。世をあげてバイオテクノロジーが期待され、分子生物学が時代を切り拓くと言われていた時代、動物行動学はコンラート・ローレンツ (*4) らの時代から一世代経ち、流行遅れな博物学的な学問と見られがちだったが、私はだからこそ動物行動学へと向かった。ところが、実はこの頃、動物行動学は骨董ではなくなっていた。一九七六年にリチャード・ドーキンスが著した『利己的遺伝子』 (*5) が話題を呼び始めていた。遺伝子と進化論から複雑な生命現象を解き明かす論理の明快さは魅力的だった。新しい進化の考え方を取り入れて、行動学、生態学、分類学と言った学問が「時代遅れの学問」から脱皮しつつある時期であったのだ。

 学問の黎明期と言うものは面白いもの。セミナー発表で紹介される学術雑誌の論文はいずれも新しい発想のものばかりで、院生が付け焼き刃で読み込んだような紹介発表でも、教授たちを唸らせるには十分であった。設立後まだ間もない日本動物行動学会の大会では、これからの動物行動学はどうあるべきかがラウンドテーブルで議論され、ベテラン教授も新入り院生も対等にやりあっていた。

 野性的な分野のせいか、集まってくる人々は野武士的な人々が多かった。山林に調査に行ったきり帰ってこない院生もいた。夜行性昆虫を扱っていた院生は生活パターンが夜にずれ込み、「寝坊したために終電に乗り遅れて大学へ来られず、昨夜は実験しそこねた」という失敗談が誕生した。夜行性のハツカネズミに生活を合わせて夜に実験を始めるのが習慣だった私も、実験待ち時間に他の研究室を覗いては、酔って議論する教員と学生・院生の輪に巻き込まれ、気が付くと朝だったということも珍しくなかった。今思えば、そんな中で物事を疑う科学の論理、その科学をまた疑う科学論の考え方をたたき込まれることになった。

 やがて学問分野が成熟してくると「何をすべきか」が自明になってくる。他の分野の生物学も遺伝子の時代になると、個人プレイの研究はすたれ、チームワークと資金調達がものを言う、効率が重んじられる雰囲気になってきて、どうも私には魅力が薄れてきた。一方で遺伝子から行動を解き明かす論理の問題、例えば人格が遺伝子で決まるという俗流の遺伝子決定論が世間に流布していることが気になり始めた。科学の責任について気になるところを友人と議論している内に、そのネタで論文を書いてみないかと言われ、書き始めたところ意外にも頂戴した好評に悪のりし、やがて幸いにも生命倫理学や科学論の教員として本学のお仲間に入れていただくことになった。

 本学に来て、自分でできる授業よりも、自分で受けてみたい授業をやろうと思ったのだが、これが失敗であった。人と動物の関係史も、様々な生物の進化的起源も、先端医療技術も、遺伝子技術が急速な進歩を遂げたこの数年の知見の拡大、技術の進展は目を見張るものであった。授業の前日は、その日までに集めた論文や資料のコピーの山を前に徹夜仕事であった。さながら院生時代のゼミ発表前夜に戻った心境になれた。

 徹夜仕事をしようとする私の前に立ちはだかった、思わぬ障壁は和光大学の管理の厳しさであった。研究室はもとより、図書室も閲覧だけなら二四時間営業であった世界から来た私には、夜一〇時には退出を迫られる規則はかなりのきついものに思える。以前の生活では、夜一〇時は議論がこれから盛り上がるというタイミングだった。大学院を作ろうという声もある中で、時間無制限に議論が出来る環境にないキャンパスというものはいささか窮屈なものに思えてならない。

 元気で伸びやかな学生達と、多才で個性的な教員を揃えておきながら、なにやらもったいない気がしてならないのは私だけであろうか?「自由な大学」を標榜していた和光大学なればこそ。



*1 アンダーグラウンド演劇のこと。アンダーグラウンドとは、六〇年代に起こる、商業性を無視した前衛芸術ないし実験芸術の風潮。日本のアングラ演劇は「小劇場運動」とも呼ばれ、六〇年代に登場した唐十郎らの第一世代、七〇年代に始まるつかこうへい、山崎哲らの第二世代、野田秀樹、鴻上尚史らの第三世代からなるとされる。


*2 唐十郎が一九六二年から率いた劇団状況劇場の別称。同劇団が六七年の新宿花園神社公演以来、赤色のテント劇場で公演を打ったことに由来する。後述の「黒テント」、寺山修司の「天井桟敷」、鈴木忠志の「早稲田小劇場」と並んでアングラ芝居の代表とされた。警察沙汰になることも辞さぬ過激な姿勢は世の良識派の顰蹙を買った。八八年に解散。唐が再結成した「唐組」は現在も紅テント芝居を継承している。

*3 一九六八年に三劇団の連合組織として発足した「演劇センター68」(後に「演劇センター68/71」)が七〇年以後に黒色テントで全国移動公演を行ったことからの別称。後に「黒色テント」や「黒テント」が正式名称になるも、現在はテント興行は休止、下北沢などの劇場で公演している。紅テントよりも知的なイメージがあった。初期公演は津野海太郎表現学部教授も演出している。

*4 Konrad Lorenz(一九〇三ー一九八九)オーストリアの動物行動学者。本能行動の研究などで動物行動学の基盤を確立し、一九七三年ノーベル医学生理学賞を受賞。著書に『ソロモンの指輪』(ハヤカワ文庫、一九九八年)など。

*5 Richard Dawkins, 1976, The Selfish Gene, Oxford University Press. 最初の邦訳は『生物=生存機械論』紀伊國屋書店、一九八〇年。新版邦訳は『利己的な遺伝子』紀伊國屋書店、一九九一年。

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