インド南西端に位置するケーララ州は多くのキリスト教徒が居住していることでよく知られている。
一九九一年のセンサスによるとキリスト教徒人口は州総人口約二九〇〇万人の一九・三%に及んでいる。他地域と同様、このケーララのキリスト教徒コミュニティは決して一様ではなく、非常に多くの集団に分かれている。おそらく最もよく知られているのが、シリアン・クリスチャンと呼ばれる人びとであろう。彼らは最も早くキリスト教を受け入れた人びとの子孫であり、一二使徒の一人である聖トマスによって改宗した人びとの末裔であるという伝承をもっている(彼らはそれゆえ聖トマス・クリスチャンとも呼ばれている)。
しかしこのシリアン・クリスチャンもまたさまざまな集団に分かれている。後に述べるように、彼らはシリア正教系、ローマ・カトリック系、プロテスタント系に大別できるが、こうした宗派的区分とは別にユダヤ系キリスト教徒であるクナナヤ・クリスチャンと呼ばれる人びともいる。
また、シリアン・クリスチャンの他にもケーララには、主にカトリックの宣教師によって「異教」から直接改宗したラテン・カトリックと呼ばれる人びと、そしてイギリス時代に主に低位カーストからプロテスタントへと改宗した人びとがいる。
こうしたケーララのキリスト教徒の多様性は、紀元前から行なわれてきたこの地域のアラビア海交易の長い歴史と深く関わるものである。本稿では二〇〇一年一二月に行なった調査旅行をもとにして、このケーララのキリスト教徒社会の多様性の一端をみていきたい。
――聖トマスとシリアン・クリスチャン
ケーララに伝わる伝承によれば、聖トマスは西暦五二年にコドゥンガルール(Kodungallur)という港町に上陸した。これはイギリス時代にはクランガノールと呼ばれたところであり、現在のケーララ最大の港湾都市コチ(Kochi, Cochinとも呼ばれる)の四〇キロほど北にある。ここはかつてはアラビア海交易におけるケーララの重要港であり、その後さまざまな文化や人が上陸した地点でもある。聖トマスがこの港町に来たのは、当時ここに大きなユダヤ人のコミュニティがあったからだともされている(実際このあたりにはユダヤ人たちの居住地がいくつかあり、たとえば、コドゥンガルール付近のチェンナマンガラムには、次頁の写真にみるようにシナゴークやヘブライ語の石碑なども確かに残っている)。聖トマスはマラバール地方に七つの教会を設立し、その後東海岸(現在のタミル・ナードゥ州)に向かい、チェンナイ(マドラス)郊外のマイラポール地区において死去したとされている。聖トマスは布教の際にさまざまな奇跡を行ない、それを見たバラモンやナーヤルなどのいわゆる高位カーストがキリスト教に改宗したといわれる。シリアン・クリスチャンはケーララ社会において社会的に高位の地位を占めているとみなされているのであるが、その根拠の一つはそこにある。
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キリスト教の長い歴史を反映して、ケーララには多くの古い教会が残されている。コーッタヤムから30キロほど内陸部に入ったパーラという町にあるワリヤパッリ(大きな教会)という名のこの教会はそうしたものの一つである。この教会は1002年につくられ、18世紀に再建されたと記録されている。 |
聖トマス伝承の真偽はともかく、キリスト教が非常に古い時期からケーララに根づいていたことは確かである。西暦六八年にコドゥンガルールに来たユダヤ人による記録には、ここにキリスト教徒コミュニティが存在しているとあり、二世紀にケーララを訪れたアレクサンドリアの学者もこの地のキリスト教について記録しているとされる。またこのキリスト教徒たちが聖トマス伝承をもっていることもかなり以前から知られていた。たとえば後にも触れるモンテ・コルヴィーノのヨハネ(John of Monte Corvino)は一二九一年にマラバール海岸に到着し、そのことを記している。
――クナイ・トマンの来航と東シリア教会の影響
こうしてケーララに根づいたキリスト教は紀元四世紀に新たな展開をむかえた。
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チェンナマンガラムから見たペリヤール川。聖トマスが上陸したとされるコドゥンガルールはここから少し上流(この写真では右方向)に行った対岸にある。古代以来多くの外国船がここを通った。 |
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チェンナマンガラムに残るシナゴーク |
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ヘブライ語が書かれた石碑。シナゴークは今では使われておらず、補修もされていない。今にも崩れそうになっている。 |
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クナナヤ・クリスチャンの子どもたち(コーッタヤム) |
――ポルトガルによる支配とシリアン・クリスチャンの分裂
ポルトガル人たちはシリアン・クリスチャンたちのコミュニティにきわめて大きな影響を与えた。彼らは、一四九八年にヴァスコ・ダ・ガマがコーリコードゥ(カリカット)に到達して以来、ケーララ、そして南アジアにおける勢力を拡大した。彼らが来航したころ、ケーララは多くの国に分かれていたが、なかでも比較的強大であったのは伝統的にザモリン(マラヤーラム語ではサームーディリ、海の王)と呼ばれるコーリコードゥの支配者であり、その他のコチ、コドゥンガルール、コッラム(クイロン)などのより弱小の王たちが彼に対立していた。強大な海軍力をもっていたポルトガルは、その後の植民地列強と同様、こうした対立を利用して影響力を高めていった。
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コチのBishop's Houseの壁の一部。壁にはさまざまな表や地図が描かれてあり、インドにおけるローマ・カトリックの歴史を知ることができる。これは南アジアがゴア司教区とコチ司教区に区分されていた1557年の状況を示す地図 |
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クライスト・ザ・キング大聖堂で日曜のミサに参加しているカトリック信者たち(コーッタヤム) |
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ディアンパーの宗教会議が開催されたことを示す記念碑 (ウダヤンペルール) |
宗教的側面に関しても、ポルトガル人たちはケーララに大きな変化をもたらした。彼らが「異教徒」をどのように改宗させていったのかは必ずしも明らかではないが、かなりの熱意をもって布教したことは間違いない。特に有名なフランシスコ・ザビエルはケーララでの布教にも力を注いだ。彼らの手によってローマ・カトリックへと改宗した人びとは後にみるようにラテン・カトリックと呼ばれている。ただ、こうした布教活動の中で、彼らとヒンドゥー教徒たちとの間にはかなりの対立が生まれたことは間違いない。いく人かのポルトガルの総督たちはコッラムやコチ付近のヒンドゥー教寺院の破壊を行なったようである。また、一五七〇年代にはポルトガル人の影響力が拡大しすぎるのを恐れたウェーナードゥ(トラヴァンコール)の支配者が警告を発し、こうしたなかで(コッラムの南にある)アーティンガルという地域で三つの教会が焼き払われるという事件もあった。
ポルトガル人たちはシリアン・クリスチャンたちに対してもその宗教的熱意を強く注いだ。しかしこうした彼らの宗教的情熱の結果、シリアン・クリスチャンたちは分裂し、カトリックと非カトリック(主にヤコブ派)という大きな区分がつくられることになった。
一五九九年に開かれたディアンパー(Diamper)の宗教会議は、ポルトガル人たちのシリアン・クリスチャンたちに対する宗教活動の最大の成果であるともいいうる。この宗教会議が行なわれた町は現在はウダヤンペルールと呼ばれており、コチの南一四キロのところにある。この宗教会議では、ポルトガル人のコチ総督、軍の幹部などの出席の下で、ケーララのキリスト教の「誤り」を正し、教会の「ラテン化」を進めることが決議された。これは例えばポルトガル人司教の採用、典礼の変更、ローマ式の法衣の着用などであった。また妻帯を続ける聖職者は破門され、さらにポルトガル人の監視の下で教会内の古代シリア語で書かれた「異端」の書は焼き捨てられた。
しかし、この宗教会議の成果は長続きしなかった。まもなくシリアン・クリスチャンたちとポルトガル人たちとの間には激しい議論が続くようになり、シリアン・クリスチャンたちは彼らの伝統的典礼の継続と、ローマ・カトリックに代わる宗教的権威を求めるようになった。こうしたなかで一六五三年にバビロンのヤコブ派の総主教はアハタッラという主教をケーララに送った。影響力拡大を恐れるポルトガル人たちはこの主教を拘留した。アハタッラのその後の運命については三つの説がある。一つは海に落とされ溺死させられたというもの、二つ目は、ゴアに連れて行かれ、審問の後に焼き殺されたというもの、三つ目が、ポルトガルに送られる途中に死んだというものである。シリアン・クリスチャンたちの多くは第一の溺死説を信じたとされる。いずれにせよ、このポルトガル人たちの行為に憤慨した多くの人びとはこれをきっかけとしてカトリックの大司教には従わないことを宣言し、それ以後は彼ら自身の長輔祭(Archdeacon)に従うことに決めた。こうしてシリアン・クリスチャンたちは、カトリックのロモ・シリアン(Romo-Syrians)とヤコブ派(Jacobite Syrians)に分裂した(ヤコブ派とはシリア正教内の一派で、その信者たちは西アジアではトルコ国境付近のカメシュリ周辺に集中して居住している。その名は創始者ヤコブ・バラダエウスから来ており、キリストは神性と人性をもつのではなく、その人格は単一であるとするキリスト単性論を信じている人びとであるとされる)。
こうしてローマ・カトリックの教えに従おうとしない多くの人びとは、アンティオキアの西シリア・ヤコブ派教会(West Syrian Jacobite Church)に加わった。ところでこのヤコブ派は一九世紀にさらに分裂した。まず、マールトーマ派(Marthomites)と呼ばれる人びとは、イギリス国教会派の影響で、このヤコブ派教会から分離した。さらにその後、西シリア・ヤコブ派教会は、インド・シリア正教会(Syrian Orthodox Church of India)とインド・ヤコブ派シリア正教会(Jacobite Syrian Orthodox Church of India)に分裂した。この分裂は、インド人の総大主教(Catholicos)に従う人びとと、シリアのアンティオキアの総主教(Patriarch of Antioch)に忠誠を誓う人びととの間で生まれたもので、教会施設の管理などを巡って現在に至るまで争いが続いている。この二つの教会はそれぞれ約一〇〇万人の信者をもっており、シリアン・クリスチャンの宗派の中でも最大級のものである。上記のマールトーマ派の信者は約五〇万人だといわれている。
――ラテン・カトリック・コミュニティ
ポルトガルはまた、ラテン・カトリックと呼ばれるコミュニティの拡大に大きな貢献をした。ケーララにおけるラテン・カトリックの起源は一二九一年に前述のモンテ・コルヴィーノのヨハネという人物が中国への航路の途中にマラバール海岸に立ち寄り、数カ月滞在したときに人びとをカトリックに改宗したことにあるとされている。しかしこのコミュニティの飛躍的な発展はポルトガル時代にもたらされた。その時代の宣教師として特によく知られているのがフランシスコ・ザビエルである。彼は一五四二年にコチと並んでポルトガルの重要な拠点の一つであったゴアに到着し、一五四三年にカニャクマリからトゥティコリンといったタミル地方での布教に従事し、その後トラヴァンコール(ケーララ南部に位置した王国)に移り精力的に活動した(ザビエルは特にカニャクマリとコッラムとの間の地域で活動したといわれる)。
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コーッタヤムのマール・エリヤー大聖堂。この大聖堂はシリア正教のもので、伝統的な建築様式を踏襲しながらもかなり近代的なつくりとなっている。 |
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コーッタヤムのマール・エリヤー大聖堂。日曜日の礼拝。内部はカトリックの大聖堂と比べ非常に明るい。 |
――ケーララとクリスマス
ところで今回の調査旅行はちょうどクリスマスの時期に当たった。キリスト教徒にとって非常に重要なこの行事がどのように行なわれるのかを観察する機会があったので、その点について記しておきたい。
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ティルヴァナンタプラム(トリヴァンドラム)郊外の海岸沿いにあるラテン・カトリックの教会
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ティルヴァナンタプラム市内にあるラテン・カトリックの聖ジョセフ大聖堂 |
ところで、このようなクリスマスの世俗化が、商業主義の展開や新しいミドル・クラスの台頭、あるいはグローバル化といった現象と関連するものであることは間違いないであろう。しかしこうした現象は他方でヒンドゥー・ナショナリズムの台頭の基礎となるものであるし、実際ケーララでもその兆候はかなりの程度現れてきている。世俗化と宗教的ナショナリズムの勃興の連関に関しては十分に注目する必要があるだろう。
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街角では多くの「クリスマス・スター」が売られている(ティルヴァナンタプラム市内)。
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私はコーッタヤムにおいて、カトリックとシリア正教会のクリスマス儀礼を見る機会を得た。
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コーッタヤムのクライスト・ザ・キング大聖堂。聖夜だけ電球で飾られた。
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マール・エリヤー大聖堂のクリスマス儀礼。午前3時半頃。 |
私が訪れたシリア正教会の施設はマール・エリヤー大聖堂(Mar Elia Cathedral, Marとは古代シリア語でLordという意味)という。前記のカトリックのクライスト・ザ・キング大聖堂が西洋式の建築様式であったのに対して、マール・エリヤー大聖堂はケーララの伝統的な教会建築の様式を引き継いでいる。しかしとてもモダンな建物で、窓が多いため内部はクライスト・ザ・キング大聖堂よりもはるかに明るい。一二月二三日日曜日の午前八時からの礼拝に参加した。はじめは参加者は少なかったが、次第に増え、最後には入りきれなくなった。ここではどういうわけかカトリックとは逆で、男が左、女が右になっている。服装はカトリックの方と変わらない。ここでもまた人びとが熱心に祈る姿が印象的であった。
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マール・エリヤー大聖堂前の敷地内にて |
本稿でみたようにケーララのキリスト教は非常に長い歴史をもち、アラビア海交易を中心とするさまざまな影響のなかで多様な側面をもつものとなってきた。このキリスト教徒コミュニティに関しては今まで多くの研究がなされてきたのであるが、まだ十分に知られていないことも多いように思われる。本稿でみたようにラテン・カトリックやクナナヤ・クリスチャンといったコミュニティに関してはほとんど知られていない。また、教会とカーストとの関係も、イギリス時代の研究はある程度はあるものの、インド独立後の状況に関しては十分に考察されていないように思われる。さらに最近の傾向であるケーララにおけるBJPなどのヒンドゥー・ナショナリスト勢力の台頭とキリスト教徒コミュニティの対立についても今後さらに調べられるべきであるように思われる。
かわしま こうじ
一九五八年生まれ。国士舘大学政経学部助教授。
《参考文献》
V. Nagam Aiya, Travancore State Manual (1906, reprinted New Delhi: Asian Educational Service, 1989), vol.2.
M. Arattukulam, The Latin Catholics of Kerala: Communalism versus Chrisitian Parity (Kottayam: Pellissery Publications, 1993).
Francis Day, The Land of the Permauls or Cochin its Past and its Present (1863, reprinted New Delhi: Asian Educational Service, 1990).
A. Sreedhara Menon, A Survey of Kerala History (Madras: S. Viswanathan, 1984).
Richard M. Swiderkski, The Blood Weddings: The Knanaya Christians of Kerala (Madras: New Era Publications, 1988).
Jacob Vellian, Knanite Community: History and Culture (Kottayam: Jyothi Book House, 2001).
Susan Visvanathan, The Christians of Kerala: History, Belief and Ritual among the Yakoba (Madras: Oxford University Press, 1993).
《参考にしたウェブサイト》
The Syro Malabar Church に関するサイト
http://www.thesyromalabarchurch.org/
http://members.aol.com/smalabar/churhist.htm
Knanaya Catholic Community に関するサイト
http://www.ghg.net/knanaya/comm/