インド・ケーララ州のキリスト教

その多様性とアラビア海交易

 

 

川島耕司

 インド南西端に位置するケーララ州は多くのキリスト教徒が居住していることでよく知られている。

 一九九一年のセンサスによるとキリスト教徒人口は州総人口約二九〇〇万人の一九・三%に及んでいる。他地域と同様、このケーララのキリスト教徒コミュニティは決して一様ではなく、非常に多くの集団に分かれている。おそらく最もよく知られているのが、シリアン・クリスチャンと呼ばれる人びとであろう。彼らは最も早くキリスト教を受け入れた人びとの子孫であり、一二使徒の一人である聖トマスによって改宗した人びとの末裔であるという伝承をもっている(彼らはそれゆえ聖トマス・クリスチャンとも呼ばれている)。

 しかしこのシリアン・クリスチャンもまたさまざまな集団に分かれている。後に述べるように、彼らはシリア正教系、ローマ・カトリック系、プロテスタント系に大別できるが、こうした宗派的区分とは別にユダヤ系キリスト教徒であるクナナヤ・クリスチャンと呼ばれる人びともいる。

 また、シリアン・クリスチャンの他にもケーララには、主にカトリックの宣教師によって「異教」から直接改宗したラテン・カトリックと呼ばれる人びと、そしてイギリス時代に主に低位カーストからプロテスタントへと改宗した人びとがいる。

 こうしたケーララのキリスト教徒の多様性は、紀元前から行なわれてきたこの地域のアラビア海交易の長い歴史と深く関わるものである。本稿では二〇〇一年一二月に行なった調査旅行をもとにして、このケーララのキリスト教徒社会の多様性の一端をみていきたい。


 ――聖トマスとシリアン・クリスチャン

 ケーララに伝わる伝承によれば、聖トマスは西暦五二年にコドゥンガルール(Kodungallur)という港町に上陸した。これはイギリス時代にはクランガノールと呼ばれたところであり、現在のケーララ最大の港湾都市コチ(Kochi, Cochinとも呼ばれる)の四〇キロほど北にある。ここはかつてはアラビア海交易におけるケーララの重要港であり、その後さまざまな文化や人が上陸した地点でもある。聖トマスがこの港町に来たのは、当時ここに大きなユダヤ人のコミュニティがあったからだともされている(実際このあたりにはユダヤ人たちの居住地がいくつかあり、たとえば、コドゥンガルール付近のチェンナマンガラムには、次頁の写真にみるようにシナゴークやヘブライ語の石碑なども確かに残っている)。聖トマスはマラバール地方に七つの教会を設立し、その後東海岸(現在のタミル・ナードゥ州)に向かい、チェンナイ(マドラス)郊外のマイラポール地区において死去したとされている。聖トマスは布教の際にさまざまな奇跡を行ない、それを見たバラモンやナーヤルなどのいわゆる高位カーストがキリスト教に改宗したといわれる。シリアン・クリスチャンはケーララ社会において社会的に高位の地位を占めているとみなされているのであるが、その根拠の一つはそこにある。

キリスト教の長い歴史を反映して、ケーララには多くの古い教会が残されている。コーッタヤムから30キロほど内陸部に入ったパーラという町にあるワリヤパッリ(大きな教会)という名のこの教会はそうしたものの一つである。この教会は1002年につくられ、18世紀に再建されたと記録されている。
 現在、この聖トマス伝承を実証する十分な証拠はないとされているが、逆にこの伝承を否定する根拠もみあたらないといわれる。ケーララと西アジアとの間ではすでに紀元前から活発な交易がなされており、聖トマスがインドに来ていたとしても不思議ではない。胡椒、ターメリック、カルダモン、シナモンといった香料などを求めて、アラブ人、アッシリア人、バビロニア人、フェニキア人、ユダヤ人、ギリシア人、ローマ人などがケーララを訪れていたという。特に紀元前一世紀にエジプトがローマの手に落ちてから、ローマはこの香料貿易に活発に参入した。紀元後の三世紀の間、ローマとの交易はきわめて増加し、ローマの金貨が大量に流れ込んでいた。実際南インドなどでローマのコインが大量に発見されていることはよく知られている。こうした交易の流れのなかで多くの人びとが行き来していたことは間違いないし、聖トマスがそのルートに乗り、新たな布教地を求めたとしてもまったく不思議ではない。

 聖トマス伝承の真偽はともかく、キリスト教が非常に古い時期からケーララに根づいていたことは確かである。西暦六八年にコドゥンガルールに来たユダヤ人による記録には、ここにキリスト教徒コミュニティが存在しているとあり、二世紀にケーララを訪れたアレクサンドリアの学者もこの地のキリスト教について記録しているとされる。またこのキリスト教徒たちが聖トマス伝承をもっていることもかなり以前から知られていた。たとえば後にも触れるモンテ・コルヴィーノのヨハネ(John of Monte Corvino)は一二九一年にマラバール海岸に到着し、そのことを記している。


 ――クナイ・トマンの来航と東シリア教会の影響

 こうしてケーララに根づいたキリスト教は紀元四世紀に新たな展開をむかえた。
チェンナマンガラムから見たペリヤール川。聖トマスが上陸したとされるコドゥンガルールはここから少し上流(この写真では右方向)に行った対岸にある。古代以来多くの外国船がここを通った。
西暦三四五年に西アジアからケーララに移住したクナイ・トマン(Knai Thomman, カナのトマスとも呼ばれる)が東シリア教会をここに設立したのである。クナイ・トマンの来航に関しては次のような伝承が残されている。商人として西アジアからマラバール海岸にやって来た彼は、木製の十字架を身につけた人びとを発見した。彼らはキリスト教徒を自称していたが、クナイ・トマンの目にはイエス・キリストを異教の神とする異教信仰のように映った。そこでトマンは、エデッサ(今はウルファと呼ばれるトルコ領内の都市)の東シリア教会の主教にその状況を報告し、状況の改善を訴えた。
チェンナマンガラムに残るシナゴーク
その後彼はこの主教の支持を得て、ケーララへと移住する人びとを集めた。こうしてエデッサ、エルサレム、バグダッドなどから選ばれた人びと、七二家族計四〇〇名が七隻の船に乗ってケーララの主要港であった前述のコドゥンガルールへと向かった(その中には数名の聖職者が含まれており、また彼らは後述するようにユダヤ系のキリスト教徒であった)。クナイ・トマンはこうして東シリア教会の信仰をケーララのキリスト教徒たちに伝えた。その後も聖トマス・クリスチャンたちと東シリア教会との関係は続いた。彼らをシリアン・クリスチャンと呼ぶおそらく最大の理由はそこにある。

ヘブライ語が書かれた石碑。シナゴークは今では使われておらず、補修もされていない。今にも崩れそうになっている。
 クナイ・トマンは当時のケーララの王であった有名なチェラマン・ペルマルから、土地や多くの特権を与えられたという。彼らが与えられた特権は、たとえば税の軽減、ターバンや腰のベルトの着用、ゾウに乗ること、車で移動すること、絨毯の上を歩くこと、楽器を使うことなど多岐に及んだ。こうした特権はケーララのユダヤ人たちに与えられた特権と同じであったとされている。彼らは当初コドゥンガルールに居住していたが、ムスリムの侵入以降はコーッタヤム(Kottayam)やその他の地域(Thodupuzha, Chingavanam, Ranni)に居住地を移したと思われる。現在はコーッタヤムがこのコミュニティの中心地となっているようである。

クナナヤ・クリスチャンの子どもたち(コーッタヤム)
 ところでクナイ・トマンおよび彼とともに来た七二家族は、このように聖トマス・クリスチャンたちと東シリア教会とを結びつける働きをしたのであるが、その後彼ら自身は内婚規制を保ち続け、彼らと地元のキリスト教徒などとの結婚は厳しく制限された。そのため彼らの容貌は一般のケーララの人びととはかなり異なっているようにみえる。肌は比較的白く、顔つきは西アジア的な印象を受ける(実際この肌の白さは、彼らのアイデンティティの中核部分を占めているともいう)。この内婚集団は一般にクナナヤ・クリスチャンと呼ばれ、ケーララ社会の中で独自の地位を保っている。現在このクナナヤ・クリスチャンのコミュニティは二〇万人以上になるといわれ、インドだけでなく北米など世界各地に居住している。彼らの宗派はローマ・カトリックとシリア正教に分かれている。コーッタヤムのクライスト・ザ・キング大聖堂はシロ・マラバール教会(ローマ・カトリックを信じるシリアン・クリスチャンの教会で、ローマ法王の許可の下で一部シリア式の典礼が取り入れられている教会)であるが、運営の主体はクナナヤ・クリスチャンとなっている。


 ――ポルトガルによる支配とシリアン・クリスチャンの分裂

 ポルトガル人たちはシリアン・クリスチャンたちのコミュニティにきわめて大きな影響を与えた。彼らは、一四九八年にヴァスコ・ダ・ガマがコーリコードゥ(カリカット)に到達して以来、ケーララ、そして南アジアにおける勢力を拡大した。彼らが来航したころ、ケーララは多くの国に分かれていたが、なかでも比較的強大であったのは伝統的にザモリン(マラヤーラム語ではサームーディリ、海の王)と呼ばれるコーリコードゥの支配者であり、その他のコチ、コドゥンガルール、コッラム(クイロン)などのより弱小の王たちが彼に対立していた。強大な海軍力をもっていたポルトガルは、その後の植民地列強と同様、こうした対立を利用して影響力を高めていった。

コチのBishop's Houseの壁の一部。壁にはさまざまな表や地図が描かれてあり、インドにおけるローマ・カトリックの歴史を知ることができる。これは南アジアがゴア司教区とコチ司教区に区分されていた1557年の状況を示す地図
 ポルトガル人が当初標的にしたのはコーリコードゥであったようである。ヴァスコ・ダ・ガマの第一回目の航海の後にポルトガル王が送り出したペドロ・アルバレス・ガブラルもまたコーリコードゥへ寄港した。彼はこの時ザモリンとの間に協定を結び、コーリコードゥに商館を建設する許可を得た。しかしポルトガル人の勢力拡大を危惧するアラブ人との対立が拡大した。こうしたなかでポルトガル人たちはいくつかのアラブ人の船を拿捕し、乗員を虐待するという行為を行なった。この時の野蛮な行為に怒った人びとがポルトガルの商館に押しかけ、陸上にいたポルトガル人の半数を殺したという。この事件をきっかけにカブラルはコーリコードゥを去り、一五〇〇年一二月にザモリンと敵対していたコチへ向かった。コチがその後ポルトガルの主要な拠点になった経緯の一つはそこにある。コチの王はこのポルトガル人艦長を歓待し、商館の設立を認めた。カブラルはまたケーララ北部のカンヌールや南部のコッラムの支配者からも招待状を受け取ったという。

クライスト・ザ・キング大聖堂で日曜のミサに参加しているカトリック信者たち(コーッタヤム)
 ヴァスコ・ダ・ガマの二度目の航海は一五〇二年二月に開始された。彼はこの時もまたコーリコードゥへ寄港したが、ガマの態度は明らかに挑戦的であった。彼はまずザモリンにこの都市からすべてのムスリムを追放するよう要求した。この要求が却下されると、ポルトガル人たちはコーリコードゥを砲撃し、米を積んだいくつかの船を拿捕し、乗員の手や耳や鼻を切り落とすといった蛮行を行なった。ガマはその後コチへ向かい、王に金の王冠などを献上した。コチの王はこうして領土内にいくつかの商館を設立し、駐屯地を設けることを許可し、また王とポルトガル人との間で定められた価格で香料を買い付ける権利をポルトガル人たちに与えた。もちろんコチの王は明らかにポルトガル人の力を利用しながらザモリンによる支配を拒否しようと考えたのであるが、こうしたなかでポルトガルの影響力は着実に高まっていった。ポルトガルはまた、コッラムの支配者とも同様の関係を結び、さらに一五〇四年にはザモリン軍と戦い、コドゥンガルールからザモリン軍を追放した。コドゥンガルール王はこうしてザモリンへの封建的忠誠の義務を放棄し、ポルトガルとの関係を強化した。

ディアンパーの宗教会議が開催されたことを示す記念碑
(ウダヤンペルール)
 ところでポルトガル人たちは、一六六三年にケーララの地を去るまでの一世紀半の間に、さまざまなものをもたらした。カシューナッツ、タバコ、パイナップル、パパイヤといった作物はその一部である。彼らはまた胡椒などの新しい栽培法を持ち込んだ。香料などのケーララの産物はヨーロッパとの直接取引によって交易量が増し、多くの人びとがこれらの栽培を行なうようになった。ココナッツの改良種もまた持ち込まれ、ココナッツ繊維は主要な輸出品となった。

 宗教的側面に関しても、ポルトガル人たちはケーララに大きな変化をもたらした。彼らが「異教徒」をどのように改宗させていったのかは必ずしも明らかではないが、かなりの熱意をもって布教したことは間違いない。特に有名なフランシスコ・ザビエルはケーララでの布教にも力を注いだ。彼らの手によってローマ・カトリックへと改宗した人びとは後にみるようにラテン・カトリックと呼ばれている。ただ、こうした布教活動の中で、彼らとヒンドゥー教徒たちとの間にはかなりの対立が生まれたことは間違いない。いく人かのポルトガルの総督たちはコッラムやコチ付近のヒンドゥー教寺院の破壊を行なったようである。また、一五七〇年代にはポルトガル人の影響力が拡大しすぎるのを恐れたウェーナードゥ(トラヴァンコール)の支配者が警告を発し、こうしたなかで(コッラムの南にある)アーティンガルという地域で三つの教会が焼き払われるという事件もあった。

 ポルトガル人たちはシリアン・クリスチャンたちに対してもその宗教的熱意を強く注いだ。しかしこうした彼らの宗教的情熱の結果、シリアン・クリスチャンたちは分裂し、カトリックと非カトリック(主にヤコブ派)という大きな区分がつくられることになった。

 一五九九年に開かれたディアンパー(Diamper)の宗教会議は、ポルトガル人たちのシリアン・クリスチャンたちに対する宗教活動の最大の成果であるともいいうる。この宗教会議が行なわれた町は現在はウダヤンペルールと呼ばれており、コチの南一四キロのところにある。この宗教会議では、ポルトガル人のコチ総督、軍の幹部などの出席の下で、ケーララのキリスト教の「誤り」を正し、教会の「ラテン化」を進めることが決議された。これは例えばポルトガル人司教の採用、典礼の変更、ローマ式の法衣の着用などであった。また妻帯を続ける聖職者は破門され、さらにポルトガル人の監視の下で教会内の古代シリア語で書かれた「異端」の書は焼き捨てられた。

 しかし、この宗教会議の成果は長続きしなかった。まもなくシリアン・クリスチャンたちとポルトガル人たちとの間には激しい議論が続くようになり、シリアン・クリスチャンたちは彼らの伝統的典礼の継続と、ローマ・カトリックに代わる宗教的権威を求めるようになった。こうしたなかで一六五三年にバビロンのヤコブ派の総主教はアハタッラという主教をケーララに送った。影響力拡大を恐れるポルトガル人たちはこの主教を拘留した。アハタッラのその後の運命については三つの説がある。一つは海に落とされ溺死させられたというもの、二つ目は、ゴアに連れて行かれ、審問の後に焼き殺されたというもの、三つ目が、ポルトガルに送られる途中に死んだというものである。シリアン・クリスチャンたちの多くは第一の溺死説を信じたとされる。いずれにせよ、このポルトガル人たちの行為に憤慨した多くの人びとはこれをきっかけとしてカトリックの大司教には従わないことを宣言し、それ以後は彼ら自身の長輔祭(Archdeacon)に従うことに決めた。こうしてシリアン・クリスチャンたちは、カトリックのロモ・シリアン(Romo-Syrians)とヤコブ派(Jacobite Syrians)に分裂した(ヤコブ派とはシリア正教内の一派で、その信者たちは西アジアではトルコ国境付近のカメシュリ周辺に集中して居住している。その名は創始者ヤコブ・バラダエウスから来ており、キリストは神性と人性をもつのではなく、その人格は単一であるとするキリスト単性論を信じている人びとであるとされる)。

 こうしてローマ・カトリックの教えに従おうとしない多くの人びとは、アンティオキアの西シリア・ヤコブ派教会(West Syrian Jacobite Church)に加わった。ところでこのヤコブ派は一九世紀にさらに分裂した。まず、マールトーマ派(Marthomites)と呼ばれる人びとは、イギリス国教会派の影響で、このヤコブ派教会から分離した。さらにその後、西シリア・ヤコブ派教会は、インド・シリア正教会(Syrian Orthodox Church of India)とインド・ヤコブ派シリア正教会(Jacobite Syrian Orthodox Church of India)に分裂した。この分裂は、インド人の総大主教(Catholicos)に従う人びとと、シリアのアンティオキアの総主教(Patriarch of Antioch)に忠誠を誓う人びととの間で生まれたもので、教会施設の管理などを巡って現在に至るまで争いが続いている。この二つの教会はそれぞれ約一〇〇万人の信者をもっており、シリアン・クリスチャンの宗派の中でも最大級のものである。上記のマールトーマ派の信者は約五〇万人だといわれている。


 ――ラテン・カトリック・コミュニティ

 ポルトガルはまた、ラテン・カトリックと呼ばれるコミュニティの拡大に大きな貢献をした。ケーララにおけるラテン・カトリックの起源は一二九一年に前述のモンテ・コルヴィーノのヨハネという人物が中国への航路の途中にマラバール海岸に立ち寄り、数カ月滞在したときに人びとをカトリックに改宗したことにあるとされている。しかしこのコミュニティの飛躍的な発展はポルトガル時代にもたらされた。その時代の宣教師として特によく知られているのがフランシスコ・ザビエルである。彼は一五四二年にコチと並んでポルトガルの重要な拠点の一つであったゴアに到着し、一五四三年にカニャクマリからトゥティコリンといったタミル地方での布教に従事し、その後トラヴァンコール(ケーララ南部に位置した王国)に移り精力的に活動した(ザビエルは特にカニャクマリとコッラムとの間の地域で活動したといわれる)。

コーッタヤムのマール・エリヤー大聖堂。この大聖堂はシリア正教のもので、伝統的な建築様式を踏襲しながらもかなり近代的なつくりとなっている。
 このラテン・カトリック・コミュニティはかなり大きなもので、約一七〇万人の信者がいるともいわれており、ケーララ各地に多くの教会が存在しているのであるが、その実態は今まで十分には明らかにされてこなかった。その理由は必ずしも明らかではないが、このコミュニティが信者たちの出身階層などの点においてかなり多様なものであり、一つの「コミュニティ」としての求心力が十分でなかったことがその要因の一つであることはおそらく間違いない。実際、ラテン・カトリックのコミュニティには、ポルトガル時代にラテン・カトリックへと宗派を変えた聖トマス・クリスチャン(シリアン・クリスチャン)、アングロ・インディアン(イギリス人の祖先をもつ人びと)、そしてキリスト教以外の宗教から直接改宗した多数の人びとが含まれる。この最後のグループには、以下のカースト集団などからの改宗者が含まれている。

コーッタヤムのマール・エリヤー大聖堂。日曜日の礼拝。内部はカトリックの大聖堂と比べ非常に明るい。
 まずパラヴァ(Parava)またはバラタ(bharatha)と呼ばれるカースト集団の多くがラテン・カトリックへと改宗した。彼らの多くはタミル語を話す漁民である。ムックヴァンと呼ばれるカーストはもともとは真珠取りを職業とするタミル語を話すコミュニティであるが、彼らの多くもラテン・カトリックに改宗した。トラヴァンコール藩王国の一九三一年のセンサスによると、このカーストのうちキリスト教徒は三万五三九人で、ヒンドゥー教徒は五九六人であった。その他、タミル語を話すカーストとしては、ナーダールやヴェッラーラといったカーストにもラテン・カトリック信者がいる。また、マラヤーラム語地域ではプラヤやパラヤといった最底辺の不可触カースト(ダリート)からも改宗者が多く出ている。彼らは厳格なケーララのカースト制度の中で厳しい差別を受けてきた人びとである。カトリック教会内におけるカーストの問題は、他のキリスト教の宗派においてと同様、容易には克服しがたい問題となっているようにみえる。たとえばイーラワー・カーストからの改宗者は自らをイーラワー・ラテン・カトリックと呼んでいるといわれる。ナーダール、プラヤ、パラヤといったカーストからの改宗者も同様の習慣を保持しているとされている。いずれにしてもこのカースト問題も含め、このコミュニティに関しては知られていないことが多い。


 ――ケーララとクリスマス

 ところで今回の調査旅行はちょうどクリスマスの時期に当たった。キリスト教徒にとって非常に重要なこの行事がどのように行なわれるのかを観察する機会があったので、その点について記しておきたい。

ティルヴァナンタプラム(トリヴァンドラム)郊外の海岸沿いにあるラテン・カトリックの教会
 ケーララでは、クリスマスは、八月から九月にかけてのオーナム祭や、マラヤーリの新年を祝う四月一四日のヴィシュ祭と並んで、宗教とは比較的無関係に多くの人びとによって祝われる一大行事である。ケーララの学校ではクリスマスの聖歌を歌う会が催され、さまざまな宗教の子どもたちが参加するという。商店ではクリスマスケーキが売られている。聞いてみるとヒンドゥー教徒なども買うのだそうだ。「クリスマス・スター」(キリストが生まれたときに現れたとされる大きな星で「ベツレヘムの星」とも呼ばれる)という星形のクリスマス用の装飾品を売っている店の主人に聞くと、買うのはキリスト教徒だけではないそうだ。その他、クリスマスセールの張り紙が出されたりしている。このようにケーララでもクリスマスはかなりの程度世俗化している。

ティルヴァナンタプラム市内にあるラテン・カトリックの聖ジョセフ大聖堂
 しかしこうした世俗化もかなり近年のことであるらしい。マラヤーラム語の短編作家であるN・モーハン氏は、『デイリー・スター』紙(一九九八年一二月二六日、インターネット版)に次のように語った。「子どものころ私は、クリスマスというものを聞いたことすらなかった。年がたつにつれ、クリスマスは私の家族の中でますます重要で楽しい行事となった。私の読者の多くは私にクリスマスカードを送ってくれる」。クリスマスカードの交換がキリスト教徒以外でどの程度行なわれているかは明らかではないが、(明らかにヒンドゥー教徒である)モーハン氏にクリスマスカードを送る人びとがそれを特に宗教的行為だと思っていないことは確かであろう。

 ところで、このようなクリスマスの世俗化が、商業主義の展開や新しいミドル・クラスの台頭、あるいはグローバル化といった現象と関連するものであることは間違いないであろう。しかしこうした現象は他方でヒンドゥー・ナショナリズムの台頭の基礎となるものであるし、実際ケーララでもその兆候はかなりの程度現れてきている。世俗化と宗教的ナショナリズムの勃興の連関に関しては十分に注目する必要があるだろう。

街角では多くの「クリスマス・スター」が売られている(ティルヴァナンタプラム市内)。
 ただ、いかにクリスマスが世俗化しようとも、キリスト教徒たちにとってはクリスマスがイエス・キリストの生誕を祝う重要な行事であることは確かである。

 私はコーッタヤムにおいて、カトリックとシリア正教会のクリスマス儀礼を見る機会を得た。

コーッタヤムのクライスト・ザ・キング大聖堂。聖夜だけ電球で飾られた。
 コーッタヤムで訪れたカトリック教会は、クライスト・ザ・キング大聖堂というものである。これは前述のクナナヤ・クリスチャンの中のカトリックの人びとが中心となって運営している教会であるが、教会に来るのはクナナヤの人びとのみではないという。この教会では日曜日にはすべて午前に、五時半からと七時からと八時半から三度の礼拝が行なわれる。平日は午前五時四五分からと午前六時半からとなっている。日曜日の五時半からの礼拝を見た。早朝にもかかわらず約一〇〇人ほどの人びとが熱心に祈っている。男女の列は分かれ、祭壇に向かって左側に女性、右側に男性ということになっている。女性は、パンジャビ・ドレスかサリーという格好であるが、全員が布で頭を覆うようにしている。男性は上がワイシャツで、下がルンギーという格好がほとんどである。

マール・エリヤー大聖堂のクリスマス儀礼。午前3時半頃。
 一二月二四日にはこのカトリックの大聖堂は一日中開いていた。多くの人びとが集まり、各自がひざまづいて静かに祈っている。聖職者に罪の告白をする人びともあった。深夜のミサは一二月二五日の午前〇時から始まった。オルガンやドラムに合わせて聖歌が歌われ、楽しくにぎやかな雰囲気であった。三〇分ほど経過した後、皆が外に出た。用意してあったヤシの葉に火がつけられ、その周りを回る儀式が行なわれた。その後キリストの生誕を模したまぶねに電気がつけられた。二時頃にミサは終わり、一人一人にケーキがふるまわれた。その後教会の庭で盛大な花火大会が行なわれた。

 私が訪れたシリア正教会の施設はマール・エリヤー大聖堂(Mar Elia Cathedral, Marとは古代シリア語でLordという意味)という。前記のカトリックのクライスト・ザ・キング大聖堂が西洋式の建築様式であったのに対して、マール・エリヤー大聖堂はケーララの伝統的な教会建築の様式を引き継いでいる。しかしとてもモダンな建物で、窓が多いため内部はクライスト・ザ・キング大聖堂よりもはるかに明るい。一二月二三日日曜日の午前八時からの礼拝に参加した。はじめは参加者は少なかったが、次第に増え、最後には入りきれなくなった。ここではどういうわけかカトリックとは逆で、男が左、女が右になっている。服装はカトリックの方と変わらない。ここでもまた人びとが熱心に祈る姿が印象的であった。

マール・エリヤー大聖堂前の敷地内にて
 シリア正教会においてはクリスマスの深夜のミサは一二月二五日午前二時三〇分から、つまりローマ・カトリックよりも二時間半遅れて始まった。この教会においても音楽は重要な役割を果たしているようにみえたが、前記のカトリックのミサとは違い、楽器演奏を伴わないもので、静かで厳かな印象を受けた。三時三〇分頃から全員が列をなして外へ進み、地面の上で火がたかれ、その周りを人びとが回った。その後聖職者がその火の前で何かを読み上げた(この儀式はティアラッカル thiarrakal と呼ばれる)。その後人びとは教会の周りを列をつくって回り、大聖堂内に入った。その後も儀式は続き、人びとは長い朗読風の歌を歌った。私は午前四時頃までこの大聖堂にいたが、その後ホテルに帰った。人びとは儀式終了後各家庭に帰って食事をとるのだそうだ。

 

 本稿でみたようにケーララのキリスト教は非常に長い歴史をもち、アラビア海交易を中心とするさまざまな影響のなかで多様な側面をもつものとなってきた。このキリスト教徒コミュニティに関しては今まで多くの研究がなされてきたのであるが、まだ十分に知られていないことも多いように思われる。本稿でみたようにラテン・カトリックやクナナヤ・クリスチャンといったコミュニティに関してはほとんど知られていない。また、教会とカーストとの関係も、イギリス時代の研究はある程度はあるものの、インド独立後の状況に関しては十分に考察されていないように思われる。さらに最近の傾向であるケーララにおけるBJPなどのヒンドゥー・ナショナリスト勢力の台頭とキリスト教徒コミュニティの対立についても今後さらに調べられるべきであるように思われる。


かわしま こうじ
一九五八年生まれ。国士舘大学政経学部助教授。

 

 《参考文献》

 V. Nagam Aiya, Travancore State Manual (1906, reprinted New Delhi: Asian Educational Service, 1989), vol.2.

 M. Arattukulam, The Latin Catholics of Kerala: Communalism versus Chrisitian Parity (Kottayam: Pellissery Publications, 1993).

 Francis Day, The Land of the Permauls or Cochin its Past and its Present (1863, reprinted New Delhi: Asian Educational Service, 1990).

 A. Sreedhara Menon, A Survey of Kerala History (Madras: S. Viswanathan, 1984).

 Richard M. Swiderkski, The Blood Weddings: The Knanaya Christians of Kerala (Madras: New Era Publications, 1988).

 Jacob Vellian, Knanite Community: History and Culture (Kottayam: Jyothi Book House, 2001).

 Susan Visvanathan, The Christians of Kerala: History, Belief and Ritual among the Yakoba (Madras: Oxford University Press, 1993).

 

 《参考にしたウェブサイト》

 The Syro Malabar Church に関するサイト

   http://www.thesyromalabarchurch.org/

   http://members.aol.com/smalabar/churhist.htm

 Knanaya Catholic Community に関するサイト

   http://www.ghg.net/knanaya/comm/