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益田事件
――私的なノート笹本征男* 占領史研究者はじめに一九四九年一月二五日夜半から二六日にかけて、いわゆる益田事件が起こった。益田とは、島根県西部の日本海に面した現在の益田市のことであり、事件が起きた当時は美濃郡益田町であった。一九五二年八月一日、益田町は八町村が合併して益田市となった。県庁がある松江市までは約一五〇キロ以上あり、県境を接する山口県の県庁がある山口市の方がはるかに近い位置にある。益田は島根県西部の交通、商業の中心地である。この小論は、私の益田事件ノートである。
このような地域で起こった、益田事件といわれる出来事を考えるにあたって、私は個人的な話から始めたい。私は日本海側の益田市から約二〇キロ入った中国山地の美濃郡匹見下(ひきみしも)村――一九五六年四月一日に三村が合併して匹見町となる――で幼少期から中学校時代までを過ごした。一九六〇年四月、益田市にある県立益田高等学校に入学したので、市内に下宿した。それから高校を卒業するまで、三年間を事件の舞台となった場所で過ごした。
私が高校時代に益田事件のことを知っていたかというと、まったく知らなかった。事件のことを知るようになったのは、三〇歳近くになって、戦後の日本の占領時代のことに興味を持ち始め、「思想の科学研究会」の占領史研究サークルで、占領時代の島根県について調べ始めてからである。その時、私は東京にいたのであるから、益田からずいぶん遠く離れた場所にいたことになる。占領史研究サークルでは益田事件についてまとめたいと思ったが、資料的な制約などからまとめることができなかった。結局、島根県の占領について「地方軍政部――島根県の場合」[1]としてまとめた。それ以来、益田事件のことは私の心の片隅にあった。
島根県の占領について調べている時、私が益田事件の記述に出会ったのは、『益田市史』[2]という本であった。著者は益田地方の郷土史を専門とする矢富熊一郎という人物であった。この本の事件の部分は「鮮人(ママ)の暴動」という見出しが付けられているように、益田事件のみを特別な事件として描いているだけであり、益田事件にいたるまでの益田町における在日朝鮮人の歴史、さらに事件後の在日朝鮮人の歴史はまったく書かれていない。『益田市史』の基本的な歴史観は、当時の在日朝鮮人が突如「暴動」を起こし、それを警察側が取締り、裁判で朝鮮人側が敗訴したというものであった。
私は高校時代を含め、益田事件、在日朝鮮人について、当時の大人たちから何も聞かされていなかったことに思いあたるのである。それはこのような市史の歴史記述がなされている益田地方の状況を反映したことであった。以下、私は自分のことを振り返り、益田事件の検証に入っていきたいと思う。故郷の朝鮮人と日本人の「沈黙」――伯父の証言
私が育った匹見下村には、益田事件が起きた一九四九年当時、どのぐらいの数の朝鮮人がいたのかは現在のところわからない。先にも述べたように、匹見下村は益田町から約二〇キロ中国山地に入ったところにある。私の父・勇治は戦後間もない頃から、父の故郷の匹見下村の中国電力澄川発電所に定年で退職するまで三〇年近く勤務した。この発電所は戦時中の一九四一年頃から建設され、一九四三年に発電を始めたが、当時は日本発送電会社澄川発電所であった。
私が在日朝鮮人の歴史に興味を持ち始めた二五、六歳頃から、故郷の発電所のことが気になりだした。戦時中の発電所工事に朝鮮人が強制労働させられていたのではないか、ということである。私は具体的事実を検証する手掛かりを見つけることができないままでいた。『匹見町史』などの地方史の本には、まったく朝鮮人のことは触れられていなかった。父は私が二〇歳の時に死去していたから、私は父に故郷の朝鮮人のことを聞き出すことは出来なかった。ただ、農業をしていた父の兄・寺戸健一が健在であり、私はこの伯父に、年一回、正月に東京から帰省する時、それとなく故郷の朝鮮人のことを聞いた。しかし、聞くたびに伯父は表情を固くして、「何も知らない」とにべもなかった。そのようなことが何度か繰り返された。
一九八〇年一月の三日と四日、私は伯父の家で伯父の一代記を聞いていた[3]。そして、今年もだめだろうと思いながら、澄川発電所建設工事と朝鮮人のことを聞いた。すると伯父はすらりと朝鮮人のことを語り始めた。私はあっけにとられた。それまであれほどかたくなに証言を拒否してきたのにどうしたことだろうか。
以下、すこし長くなるが、朝鮮人についての伯父の聞き書きの部分を再現しておく。匹見弁のままだが、意味は分かると思う。笹本 話が飛ぶんじゃけど、この澄川の発電所ができたのはいつ頃なんかね?
伯父 それが昭和一五年にとりついてなあ、始めて、奥の方から隧道を掘ったりして、それからそこをやりはなえて(やり始めて)、一八年に発電ができはなえた。一八年に運転開始よ。
笹本 そのころの事は、伯父さんこっちにいたから、当時のことは見とったでしょう。いろんな人夫が沢山よそから来たんじゃね?
伯父 朝鮮人がよほど、なんじゃなあ、仕事に来とったなあ。
笹本 朝鮮人はどの辺に住んどったんかね?
伯父 朝鮮人か、皆飯場を作って。
笹本 かたまって新(あたらし)し屋(屋号)の上とか?
伯父 そこの奥とか、それからこっちに地方の家を借りとった。
笹本 土井ノ原(匹見下村にある伯父と父たちが住んでいた場所の地名――澄川発電所はここにある)で?
伯父 今、お宮(神社)の上に横屋(屋号)があろう、横屋ちゅうが空き家があらあ、あれらあに借って入とった。そりゃあ、監督するような人がいたが。あそこにシバトミちゅうていうのがおって、それに監督がついとったりした。朝鮮人には土方で働く人は、あの奥に飯場を作って、奥に通う人がおる。そこの発電所をやるのは、そこの発電所の下(しも)に飯場を作っておった。
笹本 あんなところに?
伯父 それから、そこの今住宅を作ったろう、社宅があらあ、あがあな方に作っておった。発電機を置いとるところは、よほど深う掘ったんじゃけえ。それをやるには、皆朝鮮人がやったんじゃけえ。まあ、監督もおったがなあ、こっちの日本人の監督も。
笹本 伯父さんたちは最初から知っとたんかね? それが朝鮮人だったちゅうのは知っとったんかね?
伯父 朝鮮人ちゅうのがなあ。朝鮮人ちゅうても日本人がやったんじゃああるけえじゃが。監督がそれじゃけえ、使う人は朝鮮から来た人が多い。
笹本 昭和一八年に完成するまで、飯場におったんじゃね? 飯場から逃げたりちゅうようなことはなかったかね?
伯父 そがあなことはなかった。
笹本 比較的におとなしかったんかね?
伯父 わりにおとなしい。あの頃は大分開けとったけえ、土井ノ原も。
笹本 伯父さんからそういう話を聞いたのは、初めてじゃし、親父からも聞いたことはなかった。そうかね、あんまり厳しい隔離をしとったわけじゃあないんじゃね。自由に飯場と現場とを行き来しとったわけかね? 朝鮮人が何人ぐらいいたかね? 伯父さん覚えとるかね? 飯場に何人いたか。
伯父 その事をわしはようは知らんいいね。二〇〇ぐらいおったかも知れんね。諸方へ分かれとるんじゃ。隧道をやる、そこをやるんじゃけえ。
笹本 それは全部飯場が違うわけじゃね。
伯父 うん、違う。
笹本 そういう人たちは祭りだとか、正月の時には飯場を出られんかったんかね?
伯父 そりゃあ、祭りも同じようになあ、寒参りもしようし、地下(じげ)ものもするし。朝鮮人は当時は仕事に行ったら、うちうちで朝鮮人は朝鮮人で酒も飲んだりしよったろう。朝鮮人はあの頃、朝鮮の小麦を挽いて、それを作って酒を作りよったんじゃ。
笹本 どぶろく?
伯父 ええ酒を買(こ)うて飲もうにも、その頃には酒を作れん(作ることができない)。米がないんじゃけえ。小麦を挽いてだんごにして、蒸すやら寝せるやらしてなあ、それを今度、こうじやらなにやら混ぜて、水を注いでなあ。
笹本 そういう時、小麦を買いに行くのは正栄堂(土井ノ原にあるただ一軒の雑貨屋の名前)?
伯父 酒なんかは買いに行きよった。
笹本 飯場の人たちだけで、正栄堂なんかに?
伯父 うん。
笹本 伯父さんたちは当時、飯場の人たちには悪い印象はなかったんかね?
伯父 うん。その頃はあっちこっちから来る人も、守りが厳重じゃけえなあ。「いね!(帰れ)」ちゅうて言えば儲けをせんこうに帰らにゃあやれんようになる。まじめに仕事をしよったけえ、あんまり騒動はなかった。昭和の一七、八年頃になってはねえ。
笹本 伯父さんがこんな話をしたには初めてじゃなあ。伯父さんから今聞いた話は、伯父さんの年の人でないとちょっと分からんわね。飯場の話なんてのは。『匹見町史』なんか読んでも書いとらん。全然わからん。書き物では残っとらん。伯父さんは朝鮮人を見て怖いとは思わなかったかね? 怖いような気持ちはせんかったかね?
伯父 いいや、しなかった。そりゃこっちもやさしうやるし、こっちもあんまり無茶苦茶は言はん。こうしてくれんかちゅあ、そうするし。
笹本 それはみんな日本語で分かっとんかね?
伯父 みんな日本語があらましは分かりよった。
笹本 若い人が多かったかね?
伯父 そうじゃなあ、あまり若い人はえっとはおらんかった。なかには言葉の分からん人もおるが、分かる人もおるけえ、それに監督がおるけえ。
笹本 監督は厳しかったんじゃねえ。
伯父 言うことを聞かなきゃあ、監督が言うけえなあ、「お前よそへ行け!」ちゅうて言われる。そうすりゃあ困る。
笹本 伯父さんの話してくれたことは、今聞いとかんとね。おそらく伯父さんの年の人で生きてる人は土井ノ原ではあんまりおらんでしょう。
伯父 おらんなあ。
笹本 三年間の工事中に逃げ出して連れて戻されたりして、いろいろ痛めつけたちゅう話は知らんかね? そういうことはなかったんかね?
伯父 そりゃ知らん。朝鮮人がそがあなことをしたことはない。
笹本 土井ノ原の人は皆、当時のことは知っていたわけじゃね。飯場がここにあったり、朝鮮人が来てたということは。
伯父 知っとるいね。伯父は一八九九年生まれであり、戦時中のこの時代には、四〇歳半ばの働き盛りであった。しかし、伯父は私が聞き取りをした年の四月に脳溢血で倒れ、意識不明のまま静かに眠るように死去した。
この聞き書きは明治人の伯父が甥の私に残してくれた遺言となった。伯父の証言に出てくる飯場のあった場所は、子どもの時の私たちの遊び場の一つであったが、子どもの頃にも、その場所には朝鮮人飯場の跡はなにひとつなかった。
私にとって漠然としていた、朝鮮人と澄川発電所建設工事との関係は、伯父の証言で具体的な手掛かりを得た。だが、小さな故郷の村だけで八〇年の生涯を生きた伯父にとって、戦時中の朝鮮人の存在を甥の私に語るのが、人生の最後でなければならなかったということは、いったい何を意味するのであろうか。なぜ伯父は朝鮮人について口が重かったか。ここに朝鮮人に対する日本人の精神の典型を見る思いがする。この日本人の朝鮮人に対する「沈黙」は何度も検証される必要がある。
この伯父の証言との出会いから約一〇年経って、私は澄川発電所建設工事における朝鮮人の強制労働の事実を、『日本海地域の在日朝鮮人』[4]に収められた官憲側の資料によって知り、伯父の証言を裏付けることができた。『日本海地域の在日朝鮮人』には、「一七年七月、島根県美濃郡匹見下村の日本発送電澄川発電所建設工事に一九六人の朝鮮人を連行してきたが、『到着後二週間を出でざるに、隊長以下三三名逃亡したり』という報告が『特高月報』にみえる」[5]「匹見下村の日本発電の発電所工事は四〇〇人が承認されており」[6]という記述がある。これらの記録では、朝鮮人の数字については、伯父の記憶の約二〇〇人というのは、一九四二年の連行分の人数と符号している。
しかし、強制労働させられた朝鮮人の状況は、伯父が語ったものとはかなり違うようである。前述したように、『特高月報』では連行されてきた朝鮮人たちは、二週間も経たないうちに「隊長以下三三名」が逃亡した。伯父の証言では、逃亡のような事実はなかったとなっている。さらに、『日本海地域の在日朝鮮人』には、一九四二年三月、報国隊の名で匹見下村の澄川発電所の工事に従事させられていた、崔海出の記録が紹介されている[7]。彼は二〇〇人の朝鮮人と働かされており、森本組配下の金村飯場にいた。そして、日本人の左官職人の中村セツオの手引きで脱走に成功したという。
「彼のことばを借りれば、深山幽谷≠フ地、匹見峡での一年六カ月は、まさに地獄の日々であった。朝六時からの一二時間労働、コンクリートをこね、砂利をはこび、大雨が降ったとき以外は一日の休日もない。雪の日も仕事である。フトンはひとりに一枚ずつ、それをあわせて二人いっしょに寝るのだ。コタツはあったが、四〇人いる飯場にひとつ、ひどいバラック建だったから、朝起きると隙間からはいった雪がフトンを白く包んでいることもあった。
そこでの日当が日本人は八円、そして彼等は二円八〇銭、三カ月ごとに二〇銭あがって三円二〇銭で打ちどめというわけであったが、食事、宿泊費に衣服、日用品のたぐいから、例の愛国貯金まで差引かれると、いくらも残らなかった」
崔海出が入れられていた金村飯場が、匹見下村のどの地域にあったのか、この証言だけでは分からない。伯父が朝鮮人労働者の強制労働の実態や飯場における生活を、当時、どれほど具体的に知ることができたのか分からない。私も伯父に聞いた時、それらのことを深く追究しなかった。だが、狭い村のことである。強制労働のことはかなり村人に知られていたのではないかと考えられる。朝鮮人の同級生たち
さらに、私の故郷の朝鮮人については、小学校と中学校の同級生に在日朝鮮人が多くいたことを思い出す。特に、中学校時代では、四〇人足らずの学級に女子の吉村文子さん、山中恵子さん、林美恵子さん、男子の林久俊君、金茂平君の五人が在日朝鮮人であった。金君はたしか二年の時転校してきて、三年になる直前かに、また転校していった。山中恵子さんは二年の時、お父さんが亡くなって、私が担任の土江淳夫先生とクラスを代表して、彼女の家にお悔みのあいさつに行ったことを覚えている。お母さんの側に神妙に座っていた彼女の姿を忘れられない。その彼女も中学校を卒業する前に転校していった[8]。匹見町立澄川中学校は、一九八五年三月二二日、廃校になった。人口の減少によって、生徒数が確保できないからであった。閉校記念誌には年度別の卒業者名簿がある。しかし、山中恵子さんと金茂平君は卒業前に転校していったから、名簿に名前はない。あえて私は同級生としてここに彼らの名前を記録しておく。
名前を考えると、金君が朝鮮名であったことはわかった。しかし、その他の同級生は日本名、いわゆる「通名」であったと思われる。私の友人の福原孝治氏は、島根県益田市でこの一七年あまり、「日本と朝鮮の生活を語る会」の代表として、その他の市民とともに、益田地方を含めた石西地域の在日朝鮮人と日本人との共同作業を続けてきた。福原氏たち「日本と朝鮮の生活を語る会」が、吉村文子さんのお父さんの聞き書きをしていた。
それによると、吉村さんのお父さんは、一九二五年、朝鮮に生まれ、一九三一年、六歳の時、母親と日本に渡ってきた。一九五一年、彼は「土建業李工務店」を開業した。そして、一九七七年、「『李乙鎮』は日本に帰化した。日本名、吉村三郎。子どもの将来、就職を考えぬいての決断だった」[9]。私は吉村さんのお父さんが工務店を経営していることは、中学校時代から知っていたが、吉村さんが「李さん」という朝鮮名であったことは、この聞き書きで初めて知った。実に、中学校を卒業して吉村さんと別れてから三〇年近く経ってからのことである。
吉村さん以外の同級生については、詳しいことは分からない。今から考えると、中学校時代にも担任の先生を含む、周囲の大人たちはだれも、在日朝鮮人の同級生の歴史については、私たちに何も語ってくれなかった。このように中学生の私は、日本人の「沈黙」の中にいたのである。
林さんと林君のお父さんは、背の高い人でよく覚えている。そして、お父さんは炭焼きの親方をしていた、ということを中学校を卒業してから聞いた。林君たちのお父さんがどのような経過で炭焼きをしたのか、詳しいことは聞く機会はなかった。しかし、その後、ある在日朝鮮人からの聞き取りの中で、林君たちのお父さんのことに出会った。「炭焼きの親方は、父の友人で林尚美といって、その遺族は澄川(前出の土井ノ原を含む地域名――引用者)に帰化している。親方が資金を出してくれて、焼子は炭一俵何円で焼いた。(以下略)」[10]。なお、この聞き取り調査は、内藤正中氏が一九八七年に益田事件に関して、季丙元氏(当時六三歳)に対して行なったものである[11]。林君の父君は、すでにこの時には亡くなっていたのである。ちなみに私の伯父も農業のかたわらに炭焼きをしていたことがあった。私の子ども頃まで、匹見町では炭焼きが盛んであった。
島根県の在日朝鮮人の歴史には、戦前から戦後にかけて、炭焼きに従事した多くの朝鮮人がいたことが、『日本海地域の在日朝鮮人』に記述されている。特に、戦時中の一九四四年に島根県は「薪炭緊急増産施設助成要綱」によって、「半島労務者の内地移入」に県が費用助成措置をとっていた[12]。『朝日新聞』の石見版が、一九九七年一二月五日付から、島根県鹿足郡柿木村に暮らす、在日韓国人一世の具性熈さんと李三変さんの夫婦の記録を「『在日一世』の八七年 柿木村に生きる」として連載している。その第二回(一二月六日)、第三回(一二月七日)、第四回(一二月八日)には、夫婦がどのように炭焼きに従事しなければならなったかという歴史が克明に語られている。この記事も福原孝治氏が提供してくれたものである。
これらの在日朝鮮人の同級生について、今、このように整理して語ることが出来るが、中学生の時代には、担任の先生やその他の先生、私の両親、村の大人たちはだれも、在日朝鮮人としての私の同級生の歴史を語ってはくれなかった。これまで伯父のこと、私の小学校と中学校の在日朝鮮人のことを語ってきたのは、私が育った小さな村において、いかに在日朝鮮人の存在が語られてこなかったかを、明らかにしておきたかったからである。繰り返せば、日本人の朝鮮人に対するこのような「沈黙」を考えることから、私は益田事件に向かいたいからである。「ヤミ物資摘発」事件
益田事件については、すでに、岡崎勝彦氏と内藤正中氏の詳細な先行研究がある[13]。私はこれらの研究を参考にして、このノートを続けたい。
益田事件が起きた当時、益田町には約七〇〇人の朝鮮人が居住しており、島根県全体では約五五〇〇人がいた[14]。益田事件といわれる出来事は、「ヤミ物資摘発」事件と「益田署」事件に分けられる。
「ヤミ物資摘発」事件とは、一九四九年一月二五日午前一〇時三〇分ごろ、島根県軍政チームのパレット少尉とフェリー伍長が島根地方経済調査庁の原田調査官他二名とともに、益田町大字高津の朝鮮人集落を令状なしに捜索しようとしたことに端を発した。捜索の容疑は、「一月二五日夜半に高津川口からヤミ物資を積んだ船が出港する。積込物資は高津川浜寄りの朝鮮人集落に隠してある」という島根県軍政チームが得た情報にもとづいていた[15]。
朝鮮人側は令状がない捜索は違法であると、捜索を拒否した。しかし、パレット少尉は原田調査官に捜索を強行するように命令したので、朝鮮人側数名と押し問答となったが、少尉は原田の仲介で納得した。フェリー伍長と原田は検察庁に令状発付を要請しに行くが、パレット少尉は武装警察官一〇名を派遣するように益田警察署に依頼することも原田に命令した。原田が検察庁に行く途中、益田警察署に立寄り、「署長が不在であったが七名の警察官の応援」を得た。フェリー伍長は令状を待たずに警察官とともに現場に戻った。パレット少尉は「軍政部将校が命令する。令状は到着しなくても良いから、容疑家屋を捜索して違反物資を押収せよ」と命令した。警察官は八戸の家屋を捜索し、柳行李やトランクなど七個、密造酒樽七個などを押収した[16]。
原田調査官が令状を持って現場に戻ってきた時には、捜索は終わっていた。パレット少尉の命令で、押収物件をトラックに積込み、引揚げようとした時、朝鮮人七、八〇名が物件を取り返そうとした。数名の朝鮮人はトラックに飛び乗り、酒樽の容器を投げて破壊し、他の物資や容器を取り返した。パレット少尉は拳銃二発を威嚇発射したところ、「一人の朝鮮人が胸を開いて『ここを射て』と居直ったため、発射をやめたところますます騒然となり、警察官や調査官が直接暴行を加えられるに及び、事態は険悪化した。このため空行李一個と紙包二個を押収して午後一時ごろ益田署に引き揚げた」[17]。
これまでが「ヤミ物資摘発」事件の前段である。「空行李一個と紙包二個」の押収が、松江市からの軍政部員の出張の成果であったとは、いささかお粗末すぎる結果である。ことがこれで終わっていれば、その後の大事件にはならなかったのである。
事件の発端について、私は次のような疑問を持つ。つまり、従来の益田事件の記録には、事件の前における占領軍、および日本側の動きに関する情報がないことである。
事件を扱った代表的なものは、刊行の順にみれば、『益田町史 下巻』(一九五二)[18]、『益田市史』(一九六三)、『益田市誌 下巻』(一九七八)[19]、『島根県警察史 昭和編』(一九八四)[20]があり、そのいずれにも事件の前の占領軍、日本側の動きは記述されていない。
さらに、島根県軍政チームがある松江市から、益田町まで約一五〇キロもある。それを軍政部員が、わざわざ益田町まで捜索に出向いたということが私には不思議である。当時、列車に乗っても、松江市から益田町まで五、六時間はかかったであろう。ずいぶんとご苦労なことだと思う。これだけの苦労をするのであるから、占領軍側にもたらされた情報は確実なものでなければならない。しかし、事件の経過から分かることは、ヤミ物資の積出しの事実はなかったように、情報はきわめていい加減なものであった。
益田警察署に引き揚げた後、パレット少尉は、署長に「警察官が事件を処理しないのなら自分は第二四師団の軍隊を出動させるつもりだ」と強硬に申し入れた。そしてモーサット島根県軍政チーム隊長に状況を電話で報告した。モーサットは、県警察隊長に対し「朝鮮人の行為は日本法規に反している。直ちに警察官を派遣して即時犯人を逮捕せよ」と命令した[21]。
当時、日本側の警察機構は、一九四七年一二月に公布された警察法にもとづいて、自治体警察と国家地方警察に分かれていた。自治体警察は市および人口五〇〇〇人以上の市街的町村区域に設置され、市町村公安委員会がこれを管理した。一方、国家地方警察は自治体警察の管轄に属さない地域を管轄するために設置され、国家公安委員会がこれを管理した[22]。
モーサット軍政チーム隊長から命令を受けた後、警察側は美濃地区以西の国家地方警察と自治体警察一〇署からなる、第一次応援部隊九〇名と第二次応援部隊八三名の警察官を動員した。一月二五日夜、美濃地区署長門脇憲次郎と益田署長安部藤一が、在日本朝鮮人連盟(朝連)美鹿支部委員長金泰斗ほか二名の幹部と会談し、朝鮮人側が自発的に暴行の責任者と奪還した物資を警察に提出することを条件に話し合い、一月二六日未明までに回答するように決めた。しかし、朝連側は責任者の出頭のみについて回答したため、交渉は決裂した[23]。警察側は益田町高津の朝鮮人集落を再度急襲した。その結果、午前一一時までに令状にもとづき、主要な被疑者九名を逮捕し、容疑物資の押収を終えた[24]。この時の被疑者の逮捕は、貿易臨時措置令違反と公務執行妨害容疑であった。これまでが「ヤミ物資摘発」事件の後段である。「益田署」事件
その後、朝連県本部の幹部ら一〇名が、交渉委員として益田警察署を訪れた。彼らは朝連美鹿支部の決議を基に逮捕された被疑者全員の釈放を署長に要求し、交渉した。なお、これらの交渉委員とは別に共産党員と称する一組も介入し交渉した。署長は「被拘束者中女四名は同日中に釈放するが、男五名についてはなおも取調中であり、同日中に釈放することは困難である」と回答した。一方、違法捜査の情報を聞いた在日朝鮮人たち八、九〇名が、益田駅前の朝連美鹿支部事務所に集合していた。彼らは益田警察署長の回答と交渉委員の交渉に対して不満をいだき、皆で警察署に押しかけて交渉するほかないと、一月二六日午後九時頃、事務所を出発した。途中から参加した朝鮮人を含め、総勢百数十名(前掲、『島根県警察史 昭和編』では二〇〇名)が午後九時四〇分頃、警察署正門前に到着した[25]。
益田警察署長は警察構内入口正門に益田警察署員と応援の警察官を配置して、朝鮮人の動きを阻止しようとした。双方が対峙した後、警官が警棒を使い始め、それに対して投石等が始まった。警官約一〇〇名(前掲『島根県警察史 昭和編』では六〇名)と乱闘が起こり、朝鮮人側と警察側に多数の負傷者が出る緊迫した事態となった[26]。
今回、この時の様子を覚えているという証言が得られた。私が卒業した益田高校の三年先輩に其原豊氏がいる。其原氏は現在、神奈川県に在住しているが、同氏は益田事件が起きた時、小学校一年であり、彼が通学している益田小学校は益田警察署のはす向かいにあった。現在、益田警察署は当時の場所にはない。益田警察署の横を益田川が流れ、川向うに日本画と造園で有名な雪舟ゆかりの万福寺がある[27]。其原氏は「事件当時、万福寺の前を通っていると境内の縁側にゲートルを巻いた警察官が休息しているのを見たことを覚えている」と私に語ってくれた。この時の警察官は応援に来た警察官であった可能性がある。「益田警察署長は武器の使用も止むを得ないと判断しけん銃の威嚇発射をしたが、かえって事態を悪化させることとなった」[28]。なお、当時の益田警察署では、拳銃を保持していたのは署長のみで、一般の警察官は保持していなかった。福原孝治氏の父親は、当時、益田警察署に勤務した警察官であったが、福原氏に聞いたところ「父も拳銃は持っていなかったという思い出がある」ということであった。
このような緊迫した状態の中、益田町の警察官が召集され、消防団約一五〇名と消防車三台が出動した。さらに益田警察署は那賀地区警察署、浜田警察署の応援を求めた。この時の状態を松江地方裁判所の判決は「非常サイレンを吹鳴して、その非常召集を行うのやむなきに至らしめて、同警察署及び附近一帯の静謐を攪乱する程の騒擾行為をしたもの」と認定した[29]。このような状態は午後一〇時頃まで続いたが、「時あたかも同町に出張中の軍政部員ニップ氏が突如来署」し「軍政部隊長の命令である、退去せよ、しからざれば厳重処罰する」と命令した。その結果、朝鮮人側と警察側は再び交渉を始めたが、朝鮮人側の全員釈放の態度はくずれず、警察は島根県軍政チームに連絡し、パレット少尉の意向をただした[30]。
一月二七日午前零時に至り、「逮捕者のうち女四名は取調べが終わったので直ちに釈放、男六名は同日午後五時釈放、また連盟の責任において、警察署前に集合の朝鮮人は直ちに解散すると同時に、各地から集結中の朝鮮人も解散する」という条件で交渉が成立し、朝鮮人も零時半過ぎ解散した。この事件の負傷者は、朝鮮人一九名、警察官二名、その他の日本人一名であった。さらに、動員された島根県の警察官は、国家地方警察(定員四六九名)と自治体警察(定員三七八名)の総定員八四七名の中の二七〇名に及んだ[31]。
一月二七日午後五時までに、前記「ヤミ物資摘発事件」の朝鮮人被疑者五名は、全員釈放され、同事件の捜査は打ち切られた。この後、「ヤミ物資摘発事件」を意図的に切り離し、「益田署事件」の捜査が全力で行なわれた。国家警察県本部では、「断固検挙しなければその威信を失墜する」として、一月二八日未明、国家警察県本部刑事部長と松江地方検察庁次席検事などとの秘密会議に基づき、一月二六日夜半の集団行動は、騒擾罪、または建造物侵入罪で責任者の追及、徹底検挙の方針を決定した[32]。
警察は美濃郡内で三二名、浜田市内で九名の逮捕状発付を受け、二五〇名の検挙隊を編成し、逮捕後の移送、警戒計画も立てた。町内に武装警官、消防団員、青年団員を動員して昼夜兼行の厳重な警戒体制を布いた。一月二八日午後二時半、二八日付島根県軍政チーム民間情報課発表による「第一軍団の命令により今後、公共建築物の前において公衆はいかなる種類の示威行為といえども行ってはならぬ」という京都にある第一軍団命令が警察の手で町内各所に掲示された[33]。
一月二九日、朝鮮人三〇名が逮捕され、そのうち一八名に勾留状が執行された。同夜、一八名は松江と浜田の両刑務所に九名ずつ分散して収容され、残りの一二名は釈放された。一月三一日までに被疑者全員を逮捕し、被疑者は三次にわたり松江刑務所に移送収容された。二月一日になって益田町の町内は平静になった。最終的に逮捕された被疑者は四一名であったが、八名は容疑薄弱のために即日釈放された[34]。
一九四九年二月一一日、九名が起訴され、一九五〇年五月二九日、松江地裁は八名に騒擾並びに建造物侵入罪で有罪の判決を下した。姜示範(通名・白川玉基)は懲役一〇カ月執行猶予三年、他の七名は懲役六カ月執行猶予三年、一名は無罪であった。この事件は広島高裁松江支部に控訴されたが、一九五一年四月二三日、控訴は棄却され、刑が確定した[35]。朝鮮人側の抗議
一九四九年一月二七日、朝連美鹿支部委員長金泰斗の談話が新聞に載った。
「二五日朝警察が行った押収捜索は違法であった。警察は令状なくして強権を発動したからわれわれは執行を拒んだ。ところがその拒んだことを公務執行妨害だといって関係者を逮捕した。昨夜(二六日)警察に押しかけたのは不法逮捕されたものの即時釈放要求であって襲撃や留置人の奪還ではない。われわれは無手で行ったのに警察がピストル、コンボウでわれわれを威かくし同胞二〇名を傷つけた。われわれは事を好まぬが、警察側の出方いかんでは今後の措置をとる」
(『島根新聞』一月二八日)[36]浜田市では、一月三〇日、九名が逮捕され、六名が松江刑務所に送られた。朝連浜田支部の朴煕澤委員長が抗議の談話を発表した。
「今回の益田事件の端緒は明らかに違憲行為であり、第二次検挙もこの不法を合理化さそうとの検察側の謀略によるもので、われわれは人権擁護のために斗う覚悟だ。もしこれに対し検察側の誠意が認められなかった場合は、一県下の問題に止まらず中国協議会に提訴してその結果を待ち、あくまで斗うつもりである」[37]
松江市では、朝連県本部などが二月一日付で抗議の声明書を発表した。
「声明書
声明書では、占領軍軍政部将校の関与の指摘、彼らに対する抗議は言及されていない。
親愛なる日本の皆様
圧迫と搾取からのがれ自由と平和を渇望する吾々の前に今や再びファッショ軍国主義が陰謀を以て擡頭して来た。
去る一月二五日、突如経済調査官並びに警官数名が益田町高津に来り、木村某が密貿易容疑物資を所持して居るとの理由で、捜索令状も持たず当地の朝鮮人家屋を片端から土足で上がり込み、タンスやコーリは勿論家財道具を一切不法にも捜索し始めた。当地の朝鮮人は驚いて「何故令状もなく捜索するか」と問ふと、「生意気なだまって居れ」と恐喝し乍ら、質問した婦人を身動きも出来ない様にしばりつけて、そこらにあった生活必需品まで没収した上、朝鮮人九名を連行し立ち去った。これを見た近所の朝鮮人及び日本人までが激昂して、二六日益田署へ当局の不法を訴へ不当拘束者を解放してもらふべく行ったのであります。
そこで当局は、朝鮮人は暴動を起こしたとか、警察を焼打ちするとかの流言を飛ばして、武装警官数百名を動員し警鐘を鳴らして消防団、青年団迄も招集して、あたかも一大戦争でも起こったかの如く宣伝し、手に何ももたない朝鮮人にピストルを乱射し或いは棍棒を振るって、男女を問わず片端から暴行を加へ三〇余名の重軽傷者を出したのであります。
問題の重要性と悪化を憂ひ警察当局と善後策を協議する為、朝聯益田支部及び浜田支部の幹部が行った所、その人達まで重傷を負はす等事態を拡大さしたのであります。処が朝聯はあくまで平和的解決を期して当局と交渉した結果、前記九名の解放条件を以て一段落を付けたのであります。処が当局は二九日突然建造物不法侵入との理由で二四名(女子四名)を松江刑務所へ収容したのであります。
当局が千数百名の動員と其の為に百万円に上る費用を使って敢てデッチ上げた此事件は、先に朝鮮人学校閉鎖問題或いは各地に於る朝鮮人弾圧等を合せて考へて見る時、これは明かにファッショ軍国主義の再現と云はざるを得ません。尚ラジオや新聞等を通じて如何にも朝鮮人が暴動を起したかの如く宣伝して居るが如きは、日本人民と我々が相提携して平和と民族独立の為に戦ふ両民族を離間し弾圧せんとする当局の陰謀であります。
親愛なる皆様
吾々は決して非を正当化するものではありません。故に此の真相を明かにすると共に、本事件の全責任が彼当局にある事を主張し、拘束者の即時釈放と不法弾圧責任者の厳罰を要求するものであります。更に吾々は民主主義と平和擁護の為にあく迄闘ふであろう事を茲に声明するものであります。
一九四九年二月一日
在日本朝鮮人聯盟島根県本部
在日本朝鮮民主青年同盟島根県本部
在日本朝鮮民主女性同盟島根県本部」 [38]
さらに、朝連県本部は、二月五日、松江警察署に対して「生活擁護のため」という目的で開催予定の集会届を出している。集会は二月一一日、松江市雑賀小学校から殿町大手前広場の間で行ない、声明書を出した三団体と中国地方五県朝連本部も参加する一三万二〇〇〇名の大集会の予定であった[39]。二月一四日、松江市の湖畔亭で島根県朝鮮人生活防衛闘争委員会が主催して、「益田事件真相を語る会」が日本人も招待されて開かれ、県下の民間団体に対して真相を明らかにするとともに支援要請を行なった[40]。日本人側の支援問題
一月二七日、石橋共産党益田地区委員長の談話が新聞に載った。
「吾々が今回の騒擾の後押をして居るとデマがとんで居る様であるが実に馬鹿馬鹿しい。我々としてはただ朝鮮人連盟側から今回の事件に関して円満解決の相談を受けたので、朝鮮人とは平素より融和して居る間柄なので仲介に入る事が適当と思って今度の行動に出たわけだが、警察側の態度にも遺憾の点があったが、安部署長の立場も同情に値すると察している。事件を追求しようとは思わぬが事件について今一歩進んで大局的に研究究明すべき点があると思う。何れ党中央機関にはかった上で態度を決めたいと思う」
共産党の動きについては、石橋益田地区委員長の談話しか資料がないので詳しいことは判明しない。したがって、共産党中央がどのような対応を示したのかも分からない。ただ談話を見る限り、事件の真相究明はそれほど積極的ではなかったことが想像される。「共産党にとっては、当時、島根県の場合もそうであったように朝連の幹部達のほとんどが党員であったことが周知の事実であったことからすれば、事件の真相究明についてもっと積極的発言があっても不思議ではなかったのではなかろうか」と岡崎勝彦氏は述べている[42]。
(『石見タイムズ』一月二九日)[41]
松江市では、二月一九日、島根県労働組合総連合は、益田事件調査報告を議題とする第一回執行常任委員会を開いた。総連合の大木重義委員長は、二月一四日の「益田事件真相を語る会」に出席しており、益田事件の調査報告を行なった。執行委員会では、「朝聯に利用されているような誤解を招き、下部から浮き上がりも現れ易いので慎重にすべきである」という意見が出された。結局、執行委員会は次のような結論に達した。
a 基本目標を設定すること。
1 人種的偏見をなくするような啓蒙。
2 世界の労働者としての立場から考える。
b 労連としての声明書などの意見発表は必要ない。真相は知らせる。
c 真相発表の形式は関係方面が微妙な情勢下にあるので、無用の刺激を招く方法はとらないし、全部も発表を控える。労働問題と類似点をニュースとしてつけ加える。
(『労連ニュース』第四二号二月二二日)[43]この結論には次のようなコメントが付いていた。
「(イ)益田町に於ける朝鮮人と町民との感情対立、一般労働者に根強く残っている人種的偏見、一般朝鮮人が終戦直後にとった非文化的行動の批判が生理的に残っている。之等の現実は誤った事柄であるが、否定することは出来ない。この事実の上に立って判断すべきものである。
(ロ)占領軍、日本官憲、朝鮮人の相互関連性の上に立って事件は進展、拡大されて来たという事実」[44]これが日本人の支援を訴えた朝連側の要請に対する日本人の対応であった。岡崎勝彦氏は「あまりに一般的で現象的でありしかも消極的に過ぎるものといえよう。しかし、これは当時の状況を知る上で貴重な資料となるものである」[45]と述べている。
以上がこれまでの益田事件研究において検証できる、日本人側の支援問題に関する記録である。岡崎勝彦氏や内藤正中氏などの事件研究が発表されたのは、一九四九年に事件が起こってから、実に四〇年近くも経ってからであった。この四〇年の間に益田地方の日本人は、事件の意味を正確に語り継いできたのであろうか。『益田市誌』問題
一九七八年に発行された『益田市誌』(下巻)という本がある[46]。この本では、益田事件は「騒乱罪適用不法事件」という見出しで記述されている。すでに検討したように、益田事件は(1)ヤミ物資摘発事件と(2)益田署事件からなっていた。騒擾罪が適用されたのは、(2)益田署事件についてであった。しかし、『益田市誌』は(1)ヤミ物資摘発事件と(2)益田署事件とが一体となって騒擾罪が適用されたという重大な事実誤認の上に益田事件を記述しているのである。しかも、事件の発端となった高津における朝鮮人に対する、発砲を伴う捜索令状なしの違法捜査については、まったく言及していないのである。その他、単純な事実関係についても誤りがある。『益田市誌』は「その記述が全く信用することができない。なんとなればこの事件の構造そのものについて誤解があるばかりか、日時、人数等に多くの間違いがあるからである」と岡崎勝彦氏は批判している[47]。
さらに、『益田市誌』には、これ以外にも『益田市史』にもない朝鮮人に対する差別的な表現がある。
「これに先立ち集結した朝鮮人集団は、益田町内各地に放火を宣伝するなどし、町民の動揺も極めて色濃くなってきたため、益田市消防長は、二十六日午後十時五十分、消防団員三四名を出動させ警戒に当たった。
このような『益田市誌』などに見られる朝鮮人に対する差別的な記述に対して、現在益田市に住む在日韓国人の安成甲氏が、一九九六年一一月二九日、田中八洲男市長と田中稔教育長に記述の訂正を求める要望書を提出した。要望書には、益田事件を研究してきた岡崎勝彦氏の論文が添付されていた。
一月二十八日以降になっても平静に戻る気配もなく、朝鮮人側の町内官公署その他への放火説、暴力行為の徴候もあって」[48]
安さんは、
「混乱時に、朝鮮人が放火するというデマが飛ぶのは、六千人以上の朝鮮人が虐殺された関東大震災の教訓で分かっているはず。違法捜索の事実を省いてまで、なぜ、このような偏った記述をするのかと悲しくなる」
と新聞で語っている[49]。
また、『益田市誌』は『益田市史』と同じように、益田事件の前後の益田地方の在日朝鮮人の歴史については記述していない。それだけに、朝鮮人が突然「騒乱罪」を適用されるような事件を起こしたという『益田市誌』の事件に関する記述は、在日朝鮮人に対する偏見を増長していることになる。私も益田市当局が十分な検討を行ない、記述を訂正することを要望したい。おわりに
私は益田事件に関する、この私的なノートを故郷の朝鮮人のことから始めた。それは日本人の朝鮮人に対する「沈黙」の問題を考えたいからであった。私の故郷のような小さな村においてさえも、私の身近な日本人たちは在日朝鮮人の存在を語ってこなかった。その故郷から二〇キロしか離れていない益田市で起きた益田事件についても、日本人の「沈黙」が通底していると考える。確かに、事件に対する警察、検察など官憲側の日本人の記録は、これまで検討してきたように残されている。しかし、一般の益田町民、益田市民の事件に関する記録はほとんどない。
私は中学校の同級生の林君のお父さんのことを語った。そのお父さんと父親が友人であった李丙元氏は、「二四年一月の益田事件の時には、益田に行って二時間ぐらい騒いだ。警察に一〇〇人か一五〇人でワァーと押しかけた。警察も県内から応援で二〇〇人は集めていた。進駐軍に刃向かった事件だ」と事件について証言している[50]。林君、お父さん、李丙元氏、そして益田事件というつながりがわずかに私に見えてきた。
私はこのノートでは、益田事件のその他の多くの側面については触れなかった。例えば、占領下における日本政府と占領軍と益田事件との関係、在日朝鮮人に対する政府と占領軍の弾圧政策と益田事件との関係などである。今後、このような側面にも検証の足を延ばしてみたいと思っている。
最後に、福原孝治氏を中心として活動している「日本と朝鮮の生活を語る会」が、一九九六年一二月九日、先の安成甲さんなどを招いて『「益田事件」学習会』を開いているという事実を紹介したい。一般の市民の間で益田事件が語られ始めたということは、日本人の朝鮮人に対する「沈黙」が、少しずつではあるが、破られていっている証しであるように私には思える。
この原稿を書いた後、安成甲氏が益田市長と教育長に出した、記述の訂正を求める要望書に対して、益田市当局は『益田町史・益田市史・益田市誌下巻における「益田事件」に対する益田市の見解』(編集・発行 益田市人権擁護推進委員会、二〇〇〇年一月三一日)を公表した。この冊子の「はじめに」において、「一九九六年一一月安成甲氏から問題提起された『益田町史』・『益田市史』・『益田市誌下巻』における「益田事件」の内容は、記述に誤りがあるだけでなく、在日韓国・朝鮮人に対する偏見と民族差別を助長するものであり、安成甲氏から指摘があるまで見過ごしてきた益田市行政としての認識不足を痛感するものです」と書かれてある。益田市が全面的に記述の誤りを認めたのである。
* ささもと・ゆくお
一九四四年、島根県生まれ。中央大学法学部卒業。啓明会学院講師。在韓被爆者問題市民会議会員。占領史研究通信同人。占領・戦後史研究会員。著作に『米占領下の原爆調査――原爆加害国となった日本』新幹社、一九九五年。他、論文多数。[1] 思想の科学研究会編『共同研究 日本占領軍 その光と影 上巻』徳間書店、一九七八年、所収。
[2] 矢富熊一郎『益田市史』、益田郷土史矢富会、一九六三年。
[3] 私は伯父・寺戸健一の聞き書きをもとに、伯父や父たちの家族の歴史をまとめたことがある。笹本征男「うけおい長男の話」『あすあすあす』第九三号、一九八二年六月。
[4] 内藤正中『日本海地域の在日朝鮮人』多賀出版、一九八九年。
[7] 内藤、107頁。この記録は、織井青吾『いつか綿毛の帰り道』192頁からの引用である。
[8] 澄川中学校一三期卒業生名簿、閉校記念誌部会編『あしあと 澄川中学校閉校記念誌』閉校記念事業実行委員会発行、一九八五年二月、所収。
[9] 日本と朝鮮の生活を語る会編『石西に生きる在日韓国・朝鮮人』同会発行、一九九三年五月、22〜23頁。
[10] 岡崎勝彦「『益田事件』について(続)――在日朝鮮人運動とGHQ地方軍政部チームとの関わりに則して」『経済科学論集』(島根大学法文学部)一五号、一九八九年、88頁
[11] 内藤正中「石見の朝鮮人」『郷土石見』二〇号、一九八八年三月号。
[12] 内藤、前掲「石見」67〜70頁、91頁、109〜110頁、113〜118頁、185〜189頁。
[13] 岡崎勝彦『益田事件について――占領期在日朝鮮人の法的地位の一研究素材」『山陰地域研究』(島根大学山陰地域研究センター)第三号、一九八七年。岡崎、前掲「『益田事件』について(続)」。内藤、前掲書『日本海地域の在日朝鮮人』。
[14] 岡崎、前掲「『益田事件』について(続)」43頁。同論文44頁に所収の「図1 市 町村別在住朝鮮人の推移(島根県)」によれば、昭和二五年(一九五〇)には、島根県全体では五、四三五人、益田市では六八一人となっている。
[15] 岡崎、前掲「『益田事件』について」18頁。岡崎、前掲「『益田事件』について(続)」47頁。内藤、前掲206頁。
[16] 岡崎、前掲「『益田事件』について」18〜19頁。岡崎、前掲「『益田事件』について(続)」47頁。内藤、前掲206〜207頁。
[17] 岡崎、前掲「『益田事件』について(続)」47〜48頁。岡崎、前掲「『益田事件』について」18〜19頁。内藤、前掲207頁。
[18] 矢富熊一郎『益田町史 下巻』益田郷土史矢富会、一九五二年。
[19] 益田市誌編纂委員会編『益田市誌 下巻』益田市誌編纂委員会事務局、一九七八年。
[20] 島根県警察史編さん委員会編『島根県警察史 昭和編』島根県警察本部、一九八四年。
[21] 岡崎、前掲「『益田事件』について」19頁。岡崎、前掲「『益田事件』について(続)」48頁。内藤、前掲207頁。
[22] 岡崎、前掲「『益田事件』について(続)」78〜81頁。
佐々木毅他編『戦後史大事典 増補縮刷版』三省堂、一九九五年、306、377頁。[23] 岡崎、前掲「『益田事件』について」19頁。内藤、前掲208頁。
[24] 岡崎、前掲「『益田事件』について」20頁。岡崎、前掲「『益田事件』について (続)」48頁。内藤、前掲208頁。
[25] 岡崎、前掲「『益田事件』について」21頁。岡崎、前掲「『益田事件』について (続)」49頁。内藤、前掲208頁。
[26] 岡崎、前掲「『益田事件』について」21頁。岡崎、前掲「『益田事件』について(続)」49頁。内藤、前掲、208頁。
[27] 矢富厳夫・文、岡田憲住・写真『ガイドブック 益田』益田市観光協会、一九八八年、111頁。
[28] 岡崎、前掲「『益田事件』について」21頁。岡崎、前掲「『益田事件』について(続)」46頁。内藤、前掲208〜209頁。
[29] 岡崎、前掲「『益田事件』について」21頁。岡崎、前掲「『益田事件』について(続)」49〜50頁。内藤、前掲208頁。
[30] 岡崎、前掲「『益田事件』について」21〜22頁。岡崎、前掲「『益田事件』について(続)」50頁。内藤、前掲209頁。
[31] 岡崎、前掲「『益田事件』について」22頁。岡崎、前掲「『益田事件』について(続)」50頁。
[32] 岡崎、前掲「『益田事件』について」22頁。岡崎、前掲「『益田事件』について(続)」50頁。内藤、前掲209頁。
[33] 岡崎、前掲「『益田事件』について」24頁。岡崎、前掲「『益田事件』について(続)」51頁。内藤、前掲210頁。
[34] 岡崎、前掲「『益田事件』について」24〜25頁。岡崎、前掲「『益田事件』について(続)」51頁。
[35] 岡崎、前掲「『益田事件』について」27〜31頁。岡崎、前掲「『益田事件』について(続)」51頁。内藤、前掲213頁。なお、松江地裁と広島高裁松江支部の判決原本は、岡崎勝彦「『益田事件』について(続)」89〜98頁に掲載されている。
[36] 岡崎、前掲「『益田事件』について」22頁。内藤、前掲209頁。
[37] 岡崎、前掲「『益田事件』について」24〜25頁。内藤、前掲211頁。
[38] 岡崎、前掲「『益田事件』について」26頁。内藤、前掲211〜212頁。
[39] 岡崎、前掲「『益田事件』について」27頁。内藤、前掲212頁。
[40] 岡崎、前掲「『益田事件』について」27頁。内藤、前掲212頁。
[41] 岡崎、前掲「『益田事件』について」23頁。内藤、前掲210頁。