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山口県における民族教育擁護運動

瀬上幸恵 小学校教員
 はじめに

 朝鮮人学校は、現在、各種学校として認可されているが、実際は法律・行政上疎外されている状況にあり、その現状や沿革についてもあまり知られていない。こうした現象はどうして生まれてきたのか。本稿は一地域における朝鮮人学校の設立から閉鎖、再建にいたるまでの流れを描くものに過ぎないが、朝鮮人学校に関して再考の機会となれば幸いである。
 一九四八年春に全国的に起こった朝鮮人学校閉鎖令に対する教育闘争は、大阪、神戸での闘争が「阪神教育闘争」として有名であり、多くの研究成果が発表されているが、大阪、神戸以外でも活発な教育闘争が展開された地域は多い。本稿ではその中のひとつ、山口県に焦点をあて、当時の体験者の証言をもとに、どのような形で民族教育が始まり、抑圧に対してどのように闘ったのか、できるだけ明らかにしたい。

 朝鮮人学校の設立

 在日朝鮮人の民族教育は、一九四五年八月一五日の解放とともに、朝鮮語講習所が日本全国の朝鮮人の居住地で作られ、子どもたちに朝鮮語を教えることから始まった。それは、帰国するための準備教育として始められたものでもあるが、日本の同化教育によって名前も言葉もとりあげられた朝鮮人たちが、失われたものすべてを取り戻す意欲に燃えて始めたものであった。解放以前の状況について当事者の姜海洙さんは次のように語る。

 「日本にきて何年かしているうちに、朝鮮語に疎くなって、親との対話も充分できなくなりました。朝鮮で長い間暮らした人にとっては、日本語はなかなか難しくて、日本で生まれた世代とは会話ができず、ただ、親子の間で通じる『あうん』の関係で生活しとったわけです」[1]

 同じ屋根の下に住んでいながら会話が通じないという、奇妙な現象が生じたのである。そういう状況の中で、在日朝鮮人一世たちは、祖国の独立のためにも民族教育は重要な課題であり、朝鮮語を知らない子どもたちに朝鮮語や朝鮮の歴史を教えなければならないということを、姜海洙さんのことばで言えば、「自分の生死に関わる問題として痛切に感じ」ていたのである。それゆえ、発端は、朝鮮語を知っている人が率先して子どもたちを集め、個人の家で毎日毎夜教えるという寺子屋式、勉強会形式の国語(朝鮮語)講習会として始まった。山口県下では下関市、宇部市など朝鮮人多住地域(表1)のほか、佐波(さば)郡、厚狭(あさ)郡、特に同郡の埴生(はぶ)地方などの山間部でも講習会が開かれ、正確な数は不明だが、おそらく何十カ所もあったという。
 これらの講習所は、一九四五年一〇月に結成された在日本朝鮮人連盟(朝連)の指導の下に組織されていった。朝鮮人の帰国の見通しが困難になり始めると、朝連は運動を長期的な展望にたつものとして切り替え、講習所は本格的に学校としての形態を整えるようになる。初・中・上の三級制の朝連学校へ改編され、教員養成機関の開設も進められた。一九四七年の初めには、朝連第九回中央委員会で「当面の教育綱領」が決定された。また、指導の体系、学校の種別、教員の資格、入学・修業・卒業の規定、科目および授業時間数などを定めた「教育規定」も策定された[2]
 山口県でも、県内に何十ヵ所とあった国語講習所が、朝連初等学校へと改編されていった。一九四七年の一〇月までに三三校の初等学校が設立され、二八三六人の児童が通っていた(表2)。朝鮮語(国語)、歴史、公民、地理、算数、理科、音楽、体育、日本語などが教えられ、国語講習所で教えていた講師のうち、比較的若い者が教壇に立った。朝連では、教員の質的な向上を図るために朝連中央師範学校を設置し、夏休みを利用した夏期講習会を全国各地で実施している。
 校舎は、個人の家を改造したり、廃屋の木材を寄せ集め、寄付金を集めて建てたりしたものが多かった。山口県の朝連下関小学校の校舎は、戦前日本の特高警察の管轄下にあり、強制連行してきた朝鮮人の宿舎として使用されていた「昭和館」を解放後に解放救援会が買い取り、校舎に改造したものである。また、下関市大坪町で夜間国語講習所として使用されていた「東和館」は、遠方から通学する生徒たちの寄宿舎として使用されていた[3]。学校の運営は、父母たちから集められた寄付金で運営された。朝連は日本教育当局に対し、財政上の援助を請願する運動を続けていたが、実際に援助がされたか否かについては明らかではない。実際、解放直後の切迫した生活環境において、多くの日本人よりさらに貧しい状況に置かれていた朝鮮人にとって、他からの援助をいっさい受けずに、学校を運営していくことは、かなり困難だったに違いない。それでも、「金のあるものは金を、力のあるものは力を、知識のあるものは知識を」集め、民族教育への情熱を結集させた学校を建てた。一九四六、七年には県内のほぼ全域に朝鮮人学校が設立され、民族教育の営みを着実に進めていったのである。

 占領下の朝鮮人学校

 朝鮮人学校が本格的に学校としての形態を整え始めた頃、日本政府も消極的ながらも在日朝鮮人の自主的な教育活動を認めようとしていた。一九四七年四月一二日、政府は文部省学校教育局長通達で、日本に在留する朝鮮人は、日本の法令に服し、日本人と同様に就学させる義務があることを明らかにすると同時に、「朝鮮人学校の認可も差支えない」と言明している[4]。全国各地で朝鮮人の民族教育が盛んになってきたため、政府も、当初の放任的な態度をあらため、朝鮮人は「日本の法令に服さなければなら」ない、「日本の児童と同様に就学させる義務があ」る、としながらも朝鮮人学校の各種学校としての認可は認めていたのである。
 しかし、山口県では一九四七年四月、山口県米軍政チーム[5]が第八軍の中国地方軍政本部からの指令で、朝連山口県本部委員長に、「朝鮮人学校は山口県教育局の管轄にあり、県教育局で登録・認可されなければならない」と通告している。朝連山口県本部委員長は、この指令に従う、と回答し、朝鮮人学校の登録と教員の資格審査に応じることを確約した。が、実際には登録・資格審査のための手続きを行なわなかったため、山口県軍政チームは九月二三日、再び「一一月一日までに登録をしなかったら閉鎖する」と通告している。この通告で三三校すべてが山口県教育局に、各種学校としての設立許可の登録手続きを行ない、一〇校が認可された[6]。残り二三校も引き続き授業を行なっていた。
 山口県教育局は一九四七年一二月一日、山口県下の朝鮮人学校の設立問題について協議するための会議を開き、各朝鮮人学校長を召集したが、一人の参加者もなかった。教育局長が、ある朝鮮人学校に不参加の理由を尋ねると、「朝連山口県本部から参加する必要はない、という指示を受けたから」という返事が返ってきた。朝連側では、この時期には日本政府が朝鮮人学校を統制しようとする明確な政策を出していないので、朝鮮人学校の問題については朝連が主導権を握っている、と判断したからであろう。中国地方軍政本部は、その後山口県軍政チームが朝鮮人学校に関与し、違反者を逮捕することができるために、政府が朝鮮人学校に対する政策を立て、法的根拠を持つ通告を出すよう要求している。一二月一五日、教育局長は二度目の会議を開いて、出席を拒否するなら何らかの措置をとる、と言明したが、この会議に出席があったかどうかについては明らかでない。
 政府が朝鮮人学校に対して、明確な政策を立て、以前のように「各種学校」として朝鮮人学校の存在を認めるのではなく、明らかに抑圧へと方針を変えたのは次の指令が発せられてからである。一九四七年一〇月、GHQの民間情報教育局(CIE)が「朝鮮人諸学校は正規の教科の追加科目として、朝鮮語を教えることを許されるとの例外を認められる他は、日本すべての指令に従わしめるよう日本政府に指令する」[7]と通告したのである。GHQは、朝鮮人の民族教育を日本国家の規制下におこうとしていたのである。

表1 山口県の国籍別人口(1947年)

表2 山口県の朝鮮学校の推移

 一九四八年になると、政府は先の指令に従って、朝鮮人学校を抑圧する方針を明確にうち出した。一月二四日、文部省は、各都道府県知事に対し、次のように通達した。「朝鮮人の子弟は日本人と同様、[日本の学校に]就学させなければならない。各種学校の設置は認められない。私立の小学校・中学校には[日本の]学校教育法が適用される。なお、朝鮮語等の教育は課外に行う」[8]。さらに、三月二四日には、「先の通達に服さなければ、朝鮮人学校を閉鎖する」との通達を出した。民族教育は課外で行なうことしか許されず、日本人の教育を規定している一九四七年三月三一日に公布された教育基本法・学校教育法に従わせようとしたのである。同年四月一二日の通達で「朝鮮人学校を認可しても差し支えない」と表明して、一年もたたないうちに手のひらを返すような政策転換がされたのはなぜだろうか。
 一九四七年は、占領軍が朝連の活動を抑制しはじめた時期でもある。そのころの朝鮮半島の情勢は大きく揺れていた。米ソの外交関係は悪化し、朝鮮半島の南北分断への動きは二大国の対立によって一層強められていった。アメリカ政府は極東戦略の破綻をまき返すため日本を基地化し、占領政策を転換した。朝連は本国の反米勢力と同調して、民主統一政府の樹立促進、日本の民主化などに積極的に取り組んでいたため、アメリカの対日占領政策を阻害するものとみなされてしまったのである。そして、朝連の主な活動だった民族教育も弾圧の対象となるにいたった。
 朝連中央本部は一九四八年二月一六日、「在日朝鮮人の民族教育に日本の教育法を無理に適用させようとすることは、歴史と現実を無視したやり方である」との抗議声明を発表した[9]。朝連山口県本部でも、「山口県教育対策委員会」を組織し、県当局との交渉を続けた。三月末、文部省通達を受けた山口県では、当初慎重に討議を重ねていたが、山口県軍政チームからの強い勧告を受け、三月三一日を期限に朝鮮人学校の閉鎖命令を出した[10]。これに対して朝連は、三月三一日夜、「人民大会」を開いて、積極的な擁護闘争を展開した。翌四月一五日付けの『解放新聞』(朝連の機関紙)は、この夜の様子を詳しく述べている。

 「三月三一日を期して県下三万[11]同胞は、山口県庁を取り囲み、徹夜二四時間闘争を敢行した。各地から動員した学父兄、一般同胞らは、山口市に集まって、日本友誼団体代表も参加して、林立するプラカードのもとに、朝鮮人教育不当干渉反対人民大会を開いた。一三名の交渉委員が県庁に先発し、人民大会を終えた群集は、『朝鮮人民共和国万歳』をさけんで県庁にデモ行進した。先着した交渉委員は、[田中]知事病気のため、青柳副知事、古海教育部長、柳田学務課長と面会し、この仮交渉委員会中には日本人も参加して、血と涙の交渉を始めた。日本共産党、山本利平[12]は、朝鮮人に市民権も与えずに義務のみ過重に強要することは不当である、と追及し、県当局は正しく答弁もできなかった。(中略)六時半ごろになって昼ご飯しか食べられなかった大衆は、野宿することができないので、県庁の建物の開放を要求することになったが、相談しようと外出した副知事は、七時半に全員屋外退去を命令した。日はすでに落ちて、暗黒の中で解散命令を受けた大衆はこの場で死んでも、満足な解決をみるまで闘おうと、オモニは赤ん坊を胸に抱いて、毛布一枚もなしに、この寒い晩を徹夜、その場を動かなかった」

 また、大会開催時に現場で指示を与えていた人は、その時の様子を同紙にこう語っている。

 「夕方になって消防署の放水車が出動し、人々を解散させようとして水を撒きました。夜はものすごく冷えたので、朝になってみると、あちらこちらで人が倒れていました。夜中過ぎに武装したMPが四〜五人やってきて、私にピストルをつきつけ、『責任者はお前か、即全員解散させろ』とおどしました。それがかえってみんなの意気をさらに盛り上げて、MPは手を出せず、帰っていきました」

 午前零時二〇分過ぎ、山本利平から再び青柳副知事に会見の申し込みがあり、「三一日の期限を無期延期にしてもらいたい」との申し出がなされた。これによって県側との交渉が再開され、副知事は、「最後に今一度再考し、協議した上できるだけ早く返答する」と答えた。県側の首脳部は深夜の協議に入り、翌四月一日の午前一一時四〇分、「教員の水準、教科内容および教育設備の不十分なものは閉鎖を延期することはできない。しかしながら県側では視学を派遣して実情を調査した上で適当なものは存続を許可する方針で、その決定まで従来どおり継続を認める」との回答を示した[13]。閉鎖令の撤廃という、当初の要求に応えるものではなかったが、交渉委員は人民大会にはかった結果、「以後は新方針の下に闘争を行う」という決議をあげ、午後一時四〇分に解散した。
 四月一日の夜、山口県軍政チームは非常事態[14]に対応するよう命令を出し、一九四七年一二月の新警察法の下に改正されたばかりの国家地方警察(国警)県本部と山口市自治体警察は、警備部隊を編成して待機したが、変った様相はなく、負傷者も逮捕者も出なかった。県当局は民族教育や学校の実状に対しての理解がなく、文部省からの通達を一方的に押しつけ、朝鮮人学校問題は治安上の問題としてとらえていたことが分かる。
 朝連山口県本部では、三月三一日の闘争について部分的ではあるが、閉鎖令を解除し、闘争自体は県当局や軍政チームを圧倒するほどの勢力を結集し、全国に先駆けた。姜海洙さんによると、教育闘争は「大きなのろしを上げたという成果があった」と評価されている。
 他の府県では、岡山、兵庫、大阪、東京などで閉鎖令が通告され、他は各学校の調査、日本の学校への就学を促すことにとどまっている。閉鎖令が通告された都府県では、反対闘争が展開され、特に兵庫・大阪では、占領軍と日本の警察による苛酷な弾圧が行なわれ、大きな社会問題となっていた。三月三一日の徹夜闘争の後、朝連山口県本部は闘争委員会で数回会議を重ね、県下の朝鮮人の結束をつよめ、闘争体制を強化していった[15]。一方、山口県教育局による、朝鮮人学校の実態調査が行なわれ、施設・設備が水準に満たないという理由で、一〇校に閉鎖指令が発せられた[16]。文部省からは森戸辰男文部大臣が直接山口県の朝鮮人学校を視察し、学校施設と教授内容を細密に再調査している[17]。その結果、朝鮮人学校の充実した教育内容と教材の優秀さに驚嘆し、四月二〇日に閉鎖令を解除し、朝鮮人児童の待遇も日本人児童と同等に扱い、積極的に援助していくことを言明している(援助を受けたかどうかは明らかでない)。
 一九四八年五月五日、東京で森戸文部大臣と朝連教育対策委員会責任者、崔根との間で覚書が交わされ、一応全国各地で起こった教育闘争は終結した。覚書の内容は、教育基本法に従うこと、私立学校として認可を申請することなど、自主教育の範囲が日本当局と占領軍に制約されるものだった。山口県では、五月二五日に県教育部長と朝連県本部委員長崔民煥との間で認可問題、設置基準、教科内容、教員資格について協議が行なわれた[18]。朝連は、各学校の教育設備の水準を向上させるため、分校を統合・整理し、六月二日に県に認可申請の書類を提出した結果、教員の資格認定、県の監督下に学則の変更を行なうことで、七月三一日から一応認可されることになった。八月七日には四校、一七分校、五分室の初等学校が認可された(表3は一一月現在の情況を示す)。一九四九年一月二四日、山口県教育局長から文部省学校教育局長に送られた書簡[19]は、県当局と文部省の見解をよく表している。

 「設置基準には満たない点もあるが、特に朝鮮人学校の特殊性を考慮し、左記事項を履行することを条件として一応認可した。(中略)学校教育法第二条により、法人設立認可申請書を提出すること。教職員はすべて教員適格審査を受け、適格の確認証を得たものでなければ採用してはならない。法人の設立認可については、設置者より期限の延期について申請があったので、審査の結果真情やむを得ざるものを認め、九月末日までの期限を附し延期した。その後関係者より該書類を提出してきたので調査したが、書類が不備で現在に至るもその運びになっていない」

表3 山口県の朝鮮人学校一覧(1948年11月

 文部省は同年四月二〇日、先の報告書への返答を次のように述べている[20]

 「山口県の朝鮮人学校は学校教育法第二条により、財団法人設立の認可申請を提出することを条件として設置の認可をしたが、関係者より期限の延期申請があったので延期した。その後、申請書を提出してきたが調査したところ書類が不備であるのでまだ認可の運びになっていない。これは、学校設置認可の条件に違反するものとして認可を取り消すことはできないか。期限経過後もなお財団法人の設置が認可されていないのになぜ放任しておくのか。朝鮮人が日本の法律を理解していないこともあって、朝鮮人学校の財団法人設立認可の手続きは他の府県の場合にも、なかなかはかどっていないのが実情である。山口県も現在に至るまで認可にならないのは遺憾であるが、できるだけ早く書類を整備させて手続きを促進するよう山口県に勧奨したい」

 この書簡では、申請書類を提出すれば、私立学校として認可されていたことが分かる。しかしCIEは、これに対し、朝鮮人学校に視学を派遣し、詳細な実態調査を行なっていた[21]。その結論によると、「学校は朝連の支部と同じ建物の中にある。占領軍の命令に反して、[北]朝鮮旗を挙げている。学校では一般の授業のほか、共産主義思想も教えられている。朝連下関中学校で開かれた展覧会で展示された作文や書道は明らかに北朝鮮を賛美するものだった。山口県教育局が支給した教科書は日本語の教科書を除いて、ほとんど子どもの机の中に置き去りにされていた」というように、「親北朝鮮・共産主義の教育」が行なわれているという主張であった。しかし、東京地方裁判所検事の古川健二郎の調査報告書[22]では、学校の教育内容ではなく、認可の手続きがまだであること、教職員適性審査に合格していない教員の存在を問題にしている。
 一九四八年一二月末、山口県知事田中竜夫は再び閉鎖を言明し、警察権力の補強計画、朝鮮人児童の分散入学計画を立てた[23]。が、計画は警察の組織的強化が実行されるにとどまった。同時期に朝連山口県本部は、朝鮮人学校の経費補助、参政権の付与、不当課税などの反対をスローガンにし、「生活権擁護大会」を宇部市、小野田市、徳山市などで開催した[24]。しかし、翌一九四九年八月、南北朝鮮の分断を機に、下関市でいわゆる「下関事件」、小野田市でも同様の事件が発生し、警察が言うには「不穏な空気」が流れはじめた。李承晩政権支持の右翼テロ集団「白骨団」が下関に潜入し、朝連のメンバー数人を日本刀で斬ったり、ピストルで撃ったりしたという。朝連は組織を守るために在日本大韓民国居留民団(民団)の集落に逃げ込んだ白骨団を追っていって、白骨団の挑発によって民団との抗争になってしまったのである[25]
 この事件で朝連のメンバーが逮捕され、幹部は長い間拘束されたので、この時期の在日朝鮮人運動はかなりの打撃を受けた。親たちとともに粘り強く続けられてきた民族教育にとっても、大きな痛手だった

 朝連の解散と朝鮮人学校の第二次閉鎖

 朝鮮人学校の閉鎖をめぐる全国各地の事件とその後の朝鮮人団体を含む左翼関係団体の動向は、GHQにとって治安上強い警戒心をかき立てられるものとなっていた。一九四九年に入るとアメリカは、対中国政策の破綻が決定的になり、極東政策における日本の地位をますます重視し、政策の進行を阻害しようとする団体の規制を日本政府に指示した。政府は一九四九年四月四日、「団体等規正令」を交付し、同年九月八日に朝連・在日本朝鮮民主青年同盟(民青)の全組織と民団・朝鮮建国促進青年同盟(建青)の一部の組織に解散命令を下し、幹部の公職追放、財産の没収措置をとった。翌一〇月一三日、文部省管理局長、法務府特別審査局長の共同通達で、「旧朝鮮人連盟の本部、支部等が設置していた学校については、設置者を喪失し、当然廃校になったものとして処置する。(中略)廃校となる学校及び事実上経営困難となる学校に在学する児童、生徒については、これをできる限り、公立学校に収容するよう」指示している。これによって、一〇月一九日、全国いっせいに九二校の朝鮮人学校に閉鎖命令、二四五校に改組命令が下され、わずかな例外の他はすべて事実上閉鎖されることになった。山口県下の朝連の組織は下関市の県本部の他、二三支局、一五七分会(一万九三九八人)が存在していた。民青は、下関の県本部の他、二二支局、四分会(一〇六人)が存在した[26]。九月八日、午前一一時から山口県下いっせいに事務所の閉鎖、ならびに財産接収が開始され、一三日に全組織の接収が完了した[27]。山口県の朝鮮人学校(小学校二五校、中学校一校)にも一〇月一九日午後三時を期して閉鎖命令が発せられ、建物、机、教材設備など全財産が没収された。こうして、解放以来あらゆる困難を乗り越えて守られてきた学校は閉鎖され、父母たちが苦しい生活の中からお金を出し合って建てた校舎も机も黒板も、すべて没収されてしまった。そのときの様子を知る人はこう語る[28]

 「子どもが『警察がきた』といって泣きながら帰ってきたので、学校へ行ってみると、トラックに四〜五台も警官がきていて、先生を連れ出そうとしていました。警察と集まってきた人びととの間でもみ合いになり、警官は『死んでしまえ』と言うばかりに、棒で殴りました。(中略)学校からものを持ち出そうとしたので車の前に横たわり、泣きながら止めさせようとしました。警官は大人でも子どもでも棒で殴りつけ、頭から血が流れました」

 朝鮮人の児童はすべて、県当局の計画どおり、日本の公立学校に分散入学させられた(表4)。保護者たちは子どもたちをひとつの学校に一括収容すること、民族的な教育が施されることを希望していたが、山口県教育委員会は、学区制を無視する一括収容は原則としてありえないと反対していた。しかし日本の小学校では、朝鮮人児童を受け入れる準備も心構えもできておらず、日本人の保護者の中には日本の公立学校に朝鮮人児童・生徒が入ることに反対する者もいた[29]。いわれなき差別に傷つけあったり、トラブルはたえなかった。そのため、途中で退学したり、自然に学校に行かなくなった子どもが少なくなかったが、特に学校で対策も立てられず、放任されることが多かった。朝鮮人の父母から、集団入学を許可すること、民族性を尊重するような教育的配慮をすること、朝鮮人教員を採用することなどが当局や学校に対して要求されていたが、すべて無視され、門前払いあつかいになった。当時の状況を知る人は、こう語る[30]

 [日本の学校に分散して入れられても]「中途半端だから。朝鮮の児童を受け入れず、差別するから、実際には不可能な方針ですから。日本の学校にもなじめず、朝鮮の学校もできず、学校をやめた人は多いですよ。家庭の事情がよいところでは一五歳くらいになって朝鮮の学校に行って今の総聯の幹部になった人もいます。そうでない人は車の運転とか土方とか、まともに新聞も読めない、そういう人は力仕事をするしかないですから。現在四〇代半ばの人たちは学校がなかった時期に育っている人たちですから、日本に帰化した人は多いです。私自身日本の学校へ通っていて朝鮮人は汚い、臭いといじめられ、なぜ日本人に生まれなかったのかと思っていました。自分が朝鮮人でありながら自分を拒否するほど悲しいことはありません。自分の国の言葉・歴史をならって私はやっと人間になれたのです」

 その後、日本の学校に民族学級を作ったり、夜間の民族小学校が設立され、夜間小学校は警察の弾圧を受けながら生徒数を増やしていった。一九五五年には、旧朝連系の在日本朝鮮人総聯合会(総聯)が結成され、その下に新たな朝鮮人学校組織活動がはじまった。これらは、文部省も教育委員会も県私学課も関係を持たず、実態さえ知られていない無許可校であった。
 政府はこういった自主学校に対して、きわめて抑圧的な態度をとった。そのうちの大きな事件が一九五五年の東京都立民族学校の廃校問題と一九六六、七年通常国会に提出され、二度とも廃案になった「外国人学校法案」である。政府が、朝鮮人たちを日本人に同化、帰化させることで、在日朝鮮人問題を解決しようとしてきたことが明るみになった事件である。
 今現在、全国レベルでは朝鮮人学校は各種学校として認可されている。総聯系の学校が約一五〇校、民団系の学校が二校あり、二万人の子どもが民族教育を受けており、約一三万人が日本の学校に通っていると推定される。山口県では総聯系の小学校が、下関に二校、宇部、岩国に一校存在する。
 また、日本の学校で学ぶ朝鮮人児童が、日本人の朝鮮民族に対する理解、認識不足によって起こる心ない偏見、蔑視に傷つけられている例も少なくない。これは日本人児童にとっても不幸なことである。日本の学校で学ぶ朝鮮人が民族性を失い、日本人と同化していくことに何の不思議さも持たない人間になってしまうおそれもある。日本人が、古代からもっとも身近で親密な関係を保ってきた朝鮮民族について日本の学校で教えられることはあまりにも少ない。他民族を理解し、受け入れようとすることは、今日よく聞かれる「国際化」への欠かせない姿勢である。在日朝鮮人の民族教育に対する理解と、日本人、朝鮮人の意識レベルでの交流や、朝鮮人学校の見学など、文化面での交流の機会が積極的に持たれることを期待したい。しかし、朝鮮半島が南北に分断されている状況で、一般の日本人が朝鮮民主主義人民共和国との交流を持つことは難しい。朝鮮人学校の問題は在日朝鮮人問題の解決の前提ともなる、国際関係の改善や南北朝鮮の統一とも、関わりのある問題ではないだろうか。

表4 朝鮮人学校の児童転入計画(1948年12月)

 おわりに

 山口県の民族教育闘争については、これまで「小規模で平穏に終結し」た闘争である、と言われてきたが、体験者の証言などを聞くと、山口県軍政チーム、警察によって厳しく弾圧され、激しく闘われた事件であったことが分かる。また、「下関事件」との関係も複雑である。本稿作成のための証言も氷山の一角で、埋もれた証言や事実はまだまだたくさんあると思われる。特に「下関事件」についてや自主学校時代の話など、今後の調査に期待するところである。最後に本稿作成のために多大な協力をして下さった在日朝鮮人の方々に心から感謝したい。


証言―――姜海洙さんのお話

 どのような形で民族教育がスタートしたのか、どのような教育活動を行なっていたのかということ、これが第一の部分ですね。
 [一九四五年]八月一五日で解放されたでしょ。朝鮮人が解放されると同時に、すべてのものを取り戻さにゃあいけん。それは基本的には独立をかちとるという根本的な問題から出発して、まず言葉の問題でした。それ以前は名前も言葉も文字も、もちろん全部、皇民化教育で失っていった。失われたもの、取られたものを取り戻す運動のなかで一番痛切に感じたのは、自分の名前はもちろんのこと、やはり言葉、文字のことでした。
 話が横道にそれるけど、戦後、解放後、四〇何年たってもまだ朝鮮語が分からない、一世に近い年齢の二世の方でも、言葉の問題を無視した形で民族運動をしようという方もおるわけです。失われたものを基本的に取り戻さないまま、自分の持っているもので運動に参加しようという素朴な形ではなくて、それを意識した上で、自分は日本語でも日本の文字でもと、そういう形で参加する人もおるんですね。
 これはごく少数であって、基本的には祖国の独立と言葉と文字、教育問題は切り離せない問題で、民族性を取り戻すための基本になるわけですから、そのなかで自然発生的に起こったのが教育問題なんです。八月一五日以降、山口県の場合、どういう形で表れたかということですが、それがいちばん大事なことだと思いますね。
 初めから朝鮮の言葉がなかったわけじゃない、人為的に抹殺しようとしたわけなんじゃから、その条件が変わればそれが復活するというのは、当然の原理なんです。
で、どういう形で生まれたかというと、寺子屋形式で、あっちこっち、県下でおそらく何十カ所。たとえば下関市大坪という、今、小学校になっているところに建物があった。それから、園田町、楢崎という田舎の村ですね。

――下関市ではないんですね。

 市ではないんだけれども、下関に所属する地形になっているわけです。それ以外でも個人の家で、今でいうサークル式に、大人に朝鮮の字、言葉を教えた。一世の人は言葉はもちろん知っていますけど、字の分からない人が多かったですね。

――字の分からない人が多かったんですか。

 ええ、多かったです。それは習いたくなくて分からなかったんじゃなくて、学校の門をくぐれなかったんですね、経済的に。
 あの当時はほとんど一世か二世でしょ。私たちなんか一〇歳の時まで、むこう、故郷で育って、そして一家親子でこっちに来たわけですが、日本にきて何年かしているうちに、朝鮮語に疎くなって、親との対話も充分できなくなりました。朝鮮で長い間暮らした人にとっては、日本語はなかなか難しくて、日本で生まれた世代とは会話ができず、ただ、親子の間で通じる『あうん』の関係で生活しとったわけです。親子の絆、愛情、習慣、これだけで生活しとったわけです。これは私の家だけのことじゃなかった。
 特に、下関の場合は、そういう人たちが密集しとったわけです。自分の故郷をここに移し替えたという生活をしとったのです。たとえば大坪あたりには市場があって、朝鮮の食べ物は何不自由ないところでね。朝鮮人だけの交流で生活できる環境があったんですよ。
 だから、そういう状況のなかで、不自由をあまり不自由と感じない、そういう主観的な考えを持ちながら生活できた。客観的には、理解できないことでしょうがcc。
 そういう状況のなかで、一世であれ二世であれ、在日朝鮮人の親たちは、言葉と文字を取りもどさにゃいけんと、そういうことが自分の生死に関わる問題であると痛切に感じたわけですよ。だから、朝鮮語、朝鮮の字を知っている人は、誰かに教えなきゃいけない、若い人たち、特に小さい子どもさんに教えなきゃいけないということで、それこそ雨後のたけのこのように学校を作った。朝鮮の字を知っている人が先生ですよ。これは、山口県の下関だけじゃない。

――知っている人が誰にでも教えていたのですか。

 知っている人が率先して、その近所の子どもさんに教えようという意欲を持っていたということです。これは慈善事業とは全然ちがう。いわゆる民族意識から出てくる痛切な要求だったわけです。だからその密集して住んでいるところでは比較的大規模に、そうでないところでは二、三人でも集めて毎日毎晩教えるという、そのような状態で始められたわけですね。

――それは戦前はもちろん行なわれていなかったわけですね。

 行なわれていなかった。日本ではそういうことは、到底難しかったです。ところが戦前でも、私の故郷あたりではありましたね。六人兄弟で、姉が四人おりますけど、上と下で十何歳ちがうでしょ。だから物心ついたときには、嫁にいったり、日本に来ていたりで、私に近い年齢の姉たちはみんな、夜学校で字を習いました。私は、まだ幼い子どもで背負われていましたから、分からなかったけど、先生が留置所か刑務所にしょっちゅう引っ張られていった。姉が勉強に行くのに背負われていったんだから(笑)。そこでは、ノートとか鉛筆を無償でくれて、青年が皆、小さい子どもたちを教えていたわけですね。近くには、公立学校があるわけです。日本人が経営している朝鮮の公立学校があるけど、そこは月謝を払わにゃいけん。あの当時、五〇銭か六〇銭。高い。あのころはね、現金というものはあまり見たことがないです。
 というのは、みんな百姓をしているでしょう。そして、自分で作った穀物を市場に持っていって、麦を買ってきて、麦飯を三六五日食べたのですからね。私たちは、幼いときから麦飯以外ほとんど食べていないです。麦でもありつけばいいけど、農閑期、境目になって、米がない時期になると、麦もなくなって、麦の糠を団子にして。親がどれだけ苦しかったか、ですね。それを一日置くと石のように固まってしまうわけです。だから一日置いたらもう、それは捨てにゃあいけん。そういうことは話せばきりのないことで、誰もが経験していることですからね。
 そういう状況のなかで学校が自然発生的に生まれた。下関は一番朝鮮に近いでしょ。戦時中抑圧されて、それでも青年はみんな集落で集団生活しているし、差別を受けている状況のなかで、どうしても民族意識というものが出てくるわけです。二世でありながら、朝鮮語を知らない、字も知らないまま、民族意識というものが芽生えていくわけですよね。
 これがやっぱり、今の日本人化されつつある若い人たちとは違いが出てくるわけです。それはまあ、あなたのように、日本の学校に行きながら朝鮮の問題を研究している人とは志向がまた違いますから。いわゆる帰化、同化ヘ意識的に持っていく家庭もあるし、そういう子弟もいる。そういう状態のなかで県下の田舎の山奥にあっちこっちに、ちょうど同じ状態で寺子屋式の学校ができたわけです。
 徳山の相当山奥ですよ。あそこにも学校があったくらいですからね。あそこは朝連の支部がありましたからね。数えればもうキリがないですよ。何十カ所、間違いなくありました。だから、ほとんどの子どもが網羅された。
 それと下関の場合、特に言えることは、八月一五日以後、帰国する人を世話する活動を若い人たちが自然発生的に始めたことです。解放救援会という組織――サークルのようなものですけど――そういうのを作ってちゃんと腕章をはめて、そして下関の埠頭にどんどん押し寄せる人たちを全部整理して、ちゃんと帰れるようにしたわけです。それから左翼研究会というのもありました。それから西日本同盟、これは本部が大阪にあったんでしょう、支部が下関にありました。その他にも小さいサークルがいろいろありましたね。それを全部統合して朝鮮人連盟が誕生したわけです。朝連です。

――朝連の県本部は、下関に置かれたのですか。

 山口県本部が下関にあって、その下に下関支部というのが別にありました。

――帰国船は下関のほかにも仙崎にあったと思うのですが。

 仙崎にもありましたし、下関からも出ました。

――いつごろまで下関から帰っていたのですか。

 いつごろまでという期限はないですよね。というのは、下関の場合、それぞれが小さい漁船をチャーターして帰りましたから。だから、途中で難破して死んだ人もたくさんおりますよ。仙崎もあったというだけで、仙崎から出港した人よりも下関のほうが多いですね。主に下関からですね。

――資料では、仙崎のほうが多いようですが。

 結局、日本政府が集計した出港数の資料なんですよ。下関では手続きなんて何もなかったですよ。ちょうど劇場で入場券を買って順番に入るように、次は何人、次は何人と、その世話をわれわれ青年がみな自発的にやったわけです。日本の政府は何もしてないですよ。ただ船を提供しただけですよ。それも途中で座礁する。朝鮮に行くような船じゃあないんです。ちょうど関門汽船とか、遊覧船のような、あの程度の船です。座礁してから岸壁についとったくらいですからね。

――船を待つのにかなり時間がかかったと思いますが。

 時間はもう何時間もかかっとったです。帰国される人たちは下関の今の郵便局の山のあたりに厚生会館という建物があって、小さい講堂のような建物に入っとったり、そうでない人は野天にテントを張って、当然そのまま寝起きしていたのです。もう雨が降ったときはすごかったですね。その当時は便所もなけりゃ、洗面所もないでしょ、これに困ったわけです。
 それにそこで病気にかかって死んだ人がまあ、死骸がそのまんまで、その横でご飯を食べたりね。日本の政府なんか救護するとか整備するとか、そういう力はぜんぜんなかったし、じっさい怖くてよう入らんかったじゃないですか。山本イサオという自分のところの所長が、悪いことをして留置所に入っとったくらいですからね。むこうも空中分解ですから、こっちはもう自治活動をするしかやり場がなかったんですよ。

――出港する人のための講習会というのはなかったのですか。

 そういうのはなかったです。皆さん明日はもう出られるか、明日は出られるんじゃないか、とのびのびになって何カ月もかかるわけでしょ。とうていそういう気持ちの余裕はなかったです。

――生きるのが精一杯という……。

 一日でも一時間でも早く帰りたい気持ちで野宿しとったのですからね。特に食べる物も着る物も不自由するでしょう。もうそれこそ必死の思いですからね。
 教育問題にもどりますけど、朝連ができてから、朝連学校というのが中央にできました。教員を養成するというか、講習会のようなものですね。そういう機関ができまして、初めて全国的な規模で、教員としての資格でいわゆるイロハからちゃんと児童を教えられるような体系にもっていったわけです。
 そして、下関では、もう亡くなりましたがチョウヒロシ、あの人が先生だったわけです。最初は寺子屋みたいな感じで始まって、朝連ができてから学校としての形ができてきたわけです。若い人が中心になって講習を受けて、ちゃんとした先生の資格を取ってきたわけです。
 朝鮮人は県下で三万人おりましたからね。この他に密航で来た人もおるし、統計外[徴用などで来た]の人数も入っていない。下関だけで一万五〇〇〇人おりました。帰るために下関に来て、そのまま居座った人もおります。朝連のとき調査しましたから、三万人は間違いないでしょう。

――闘争のときの様子を聞かせて下さい。

 『解放新聞』は私たちの機関紙ですから、この通り間違いないです。これは私の記憶より確かです。付け加えるとすれば、直接参加した雰囲気を話します。
 一万人の人民大会です。子どもも年寄りも含めて、山口県の全朝鮮人が三万人ですから、子どもはもう、おんぶしたり手を引いたりして、ほとんど参加していますが、年寄りのいる家は子どもを置いて留守番をしていましたし、地理的な条件もありましたからね。だからその当時としては、不参加というのがそれなりの理由があって、理由というのがほとんど留守番です。一つの部落に二、三人置くとか、それで集まった人が一万人なんです。動員してみると、二万人も無理ですね。
 その当時、下関周辺では汽車を貸し切って小郡まで行きました。車両が何台か覚えてないけど、全部汽車でね。大会は一日で終わる予定だったんですが、向こうが強硬に出たから、みんなが我慢できんで、そのまま座り込んで夜をあかしたわけですよ。だから、大会がすむまで汽車もそのまま小郡駅に待機しとったくらいですからね。汽車もバスも、とにかく山口県始まって以来という大騒動でした、日本人社会も含めて。
 そうして集まって、交渉の過程で向こうは問答無用だ、即時解散しろと、だから閉鎖令はそのまま強行すると言うのですね。それを前提にして、こっち側は許可を取って大会を開いているのに、途中で向こうは解散命令を出したんですよ。相手は副知事が出ました。

――知事は病気ということでしたが……。

 病気か何か知らないけど、こっちはまあ、逃げたんだろうと。副知事が出て、こっちが言うことを聞かないものだから、とうとうGHQの誰か分からんけど、GHQの山口県駐在の最高責任者が出てきました。日本の自治体は権限も何もなかったですからね。そうしてしまいには「こっちの責任者は誰か」って言って、部下を連れて、乗り込んで来たんですよ。執行部に来て、下関の責任者だった民青の○○○のところに行って脅しをかけたわけです。そしたら責任者は自分ではないと(笑)。内部でしか分からんことでしょうけど、その当時○○○が事実上、責任を持っていたのです。まあ、死んだ人のことを言っちゃ悪いけど、それを私のところに連れてきたわけです。この人が責任者じゃ、いうて。そしたら、そのGHQのえらいさんが拳銃を私に突き付けて、解散させえ、というのです。証人もおります。私は自分の一存では決めかねると、皆さんにきいてみなきゃわからんと言って、みんなの前で、「今、拳銃を突きつけて解散しろと言ったけど、皆さんおそらくきかんじゃろ」と言うと、もう拍手喝采ですね。みんながワーと盛り上がって、そうしたら向こうは恐れて逃げてしまって、それで結局あの大会をかち取ったわけです。おまえら、好きにせえ、とぶつぶつ言いながら引き揚げてしまったのですよ。

――何人くらい来ましたか。

 四、五人、全員武装して来ました。しかし、結局逮捕者もでなければ、負傷者も出なかったわけです。ただ、この夜通しは三月のことですから、夜はものすごく冷えて、朝見たら、子どもやら赤子やら抱えてあっちもこっちもばたばた倒れているんです。その前に解散させると言って来た消防署の放水車に水をかけられて、ぬれねずみになって夜通し座り込みをやったでしょ。食べるものもよう食べんでね。
 あくる朝、小野田と宇部、小郡の奥からトラックに握り飯を満載して、補給してくれまして。それが印象的でしたね。

――婦人部の方がですか。

 そりゃあ、山口県の伝統がありますよ。全県から祖国愛に燃えた人が集まったわけですから。あの熱狂的な雰囲気は今では味わえんですね。
 日本人の人たちは、交渉は同じ場ではしなかったですね。日本人の立場で副知事に会う、連帯意識を持って抗議を申し込むということでした。

――どういう状況で解散しましたか。

 あくる朝、GHQは逃げ出して、こっちは座り込んでいるでしょう。何とか、具体的に要求をかちとらんといけん、閉鎖令を徹回させにゃあいけんと、ようやく副知事をつかまえたら、「どうにもならない、日本の自治体ではどうしようもない」と言われました。交渉の相手が逃げてしまって会ってくれない、いなくなってしまったので、そうしてしかたなしに解散するようになってしまったわけです。

――新聞では、その日のうちに閉鎖令を撤回した、ということでしたが。

 だから、その当時の交渉では県当局はどうにもならんということです。私の記憶は間違いないでしょう。だから、あと再閉鎖が起こったり、全国の闘争が起こっているんです。警察の資料というのは、GHQとの関係で、何かすぐ実力行使に出たら大きな被害が出て終始がつかんということを考慮して、内部的にそうしたんじゃないですか。他に交渉の場はなかったですからね。実状に応じて考慮するとか何とか、各種学校の形にするとか、日本の学校に行かした上で朝鮮語教室を別に設けるとか、そういうのはずっと後のことですから。実状に応じて考慮するとか、向こうがしたなら、私が報告しているはずですから。山口県では涙をのんで解散しました。
 その後[一九四八年四月以降]、部分的に警察が動員されたり、介入してきたわけです。たとえば下関の学校なんかでも、警察がやってきて、それを女性同盟[在日本朝鮮民主女性同盟]とか父兄が身を呈して阻止したんです。警察が武装してトラックに乗りつけて学校を閉鎖しろと。それをトラックの前に寝転んで阻止したのです。四、五月のことです。
 このようないきさつで、とうとう学校が閉鎖され、その建物は警察の寮になっていました。その前は、日本の特高警察の管轄にある建物で、日本に強制連行した朝鮮人を収容する建物だったのです。朝鮮人に縁のある建物だということで、例の解放救援会が強制的に摂取したわけです。そして私たちの学校にしたわけです。そして人数が多くなったから、木造の大きな講堂を造ったのです[昭和館、現在は廃屋になっている]。

――四月一日、警察によると軍政チームが非常事態宣言を出したということでしたが。

 山口県では、相手が手を出せないほど、意気が盛んだったということではないでしょうか。閉鎖令の撤回はできなかったが(全国的な方針だから)、闘い自体は圧倒していた。闘いには勝った。教育に関する自治運動をかちとる面では、大きなのろしを上げたという成果があったわけです。ここを原点に運動が広がったのですから。



 せがみ・さちえ
一九六六年、広島県生まれ。一九八九年に京都橘女子大学文学部歴史学科を卒業後、教職に就く。本稿は橘女子大学在学中に水野直樹先生の指導の下に卒業論文として書いたものに基づいている。現在は愛知県の小学校に勤務している。


[1] 下関市中央町在住、一世の姜海洙(カン・ヘス)さんのインタビューによる証言。一九四八年三月三一日の山口市での人民大会で、在日本朝鮮人連盟のメンバーとして参加し、現場で指示を与えていた。

[2] 梁永厚「在日朝鮮人子女の教育問題」磯村英一他編『講座 差別と人権│民族』雄山閣出版、一九八五年、一三六頁。

[3] 在日朝鮮人一世 李南周さんのインタビューによる証言。教育闘争時二二、三歳で、学校閉鎖時警察側の暴力介入を体験した方である。

[4] 一九四七年四月一二日、文部省学校教育局長通達「朝鮮人児童の就学義務に関する件」。

[5] 連合国占領軍の地方機関の一つ。本誌のリケット論文を参照。

[6] GHQ/SCAP Records, CIE (c) 04235(国立国会図書館憲政資料室作成によるマイクロフィッシュ、以下 CIE (c) 04235 と略記する)。一九四七年一二月四日、中国地方軍政部司令官から第八軍司令官への特別報告」。
なお、朝鮮人学校の教員に適用された資格審査は、GHQが日本の軍国主義者を教職から追放するための指令に基づいたものであった。同指令(「教員及び教育関係者の調査、資格審査及び証明など」)は一九四五年一〇月に発せられたが、これは一九四七年暮れから在日朝鮮人の民族学校の発展を妨げるために復活された。この措置は、一九四九年秋からはじまるレッドパージ(赤狩り)の前兆と見てよいだろう。
[7] GHQ民間情報教育局の指令。Tokyo Liaison Office to OFA, USAMGIK, Weekly Report, July 1947, pp 14 - 20.

[8] 文部省学校教育局長通達「朝鮮人設立学校の取扱いについて」官学第五号、一九四八年一月二四日。

[9] 特集「資料 在日朝鮮人」、季刊『三千里』第四八号、一九八六年一一月、93頁。

[10] 山口県警察史編さん委員会編『山口県警察史』下巻、山口県警察本部発行、一九八二年、809頁。資料2を参照。

[11] 大会参加者の証言によると、約一万人の朝鮮人が集まっている。山口県警察も同数字を出している。

[12] 山本利平は、戦前から在日朝鮮人の生活権擁護運動、部落解放運動に携わり、戦後日本共産党に入党し、県会議員を連任した。

[13] 『防長新聞』一九四八年四月二日付。

[14] 『山口県警察史』によると、山口県軍政チームはこのさい非常事態宣言を出したが、占領通史では、占領期で唯一の非常事態宣言は同年四月二四日の「神戸事件」のときのみであった。山口県の非常事態宣言はどういういきさつや形で、どの程度のものか、また誰の権限で発令されたのかなどは不明であり、今後の研究課題として残っている。資料2を参照。

[15] 『解放新聞』一九四八年四月二五日付。

[16] 『山口県警察史』下巻、八〇九頁。閉鎖指令が出された学校は、朝連田耕小学校、同殿居校(四月二八日)、朝連小野田小学校、同有帆分校、東山分校、厚狭分校(四月三〇日)、生田分校、船木分校、朝連岩国小学校、小野田青年同盟学院 (五月一日)の一〇校。

[17] 『解放新聞』一九四八年四月二五日付。

[18] 『山口県警察史』下巻、810頁。

[19] CIE(c)04235: 教学一四六号一九四九年一月二四日付「文部省学校教育長宛、朝鮮人学校の実情報告について 山口県教育局長」。

[20] CIE(c)04235: 一九四九年四月二〇日付「山口県教育局長宛、山口県の朝鮮人設置の学校について文部省学校教育局長」。

[21] CIE(c)04235: 一九四九年二月一七日付「CIE局長宛、山口県の朝鮮人学校の調査報告、Theodore A. Faulkner(GHQのCIE教育課連絡調査係の地方連絡官)による」。

[22] CIE(c)04235: 一九四九年五月五日付「第八軍宛山口県朝鮮人学校の調査報告」。

[23] CIE(c)04235:一九四九年二月一七日付(前掲。)

[24] 『山口県警察史』下巻、811頁。

[25] 下関市在住、一世の金光培さんのインタビューによる証言。

[26] 『山口県警察史』下巻、818頁。

[27] 同右。

[28] 下関市在住、一世の李南周さんのインタビューによる証言。

[29] 金太基『戦後日本政治と在日朝鮮人問題――SCAPの対在日朝鮮人政策1945〜1952年』勁草書房、一九九七年、605〜606頁。

[30] 下関市在住、沈盛久さんのインタビューによる証言。沈さんは当時、朝連県本部の宣伝部長だった。



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