報告4 遊牧社会における民族関係 ホロンボイル草原

ロバートリケット 人間関係学部教授

 一九九六年の三月に、私は和光大学モンゴル学術調査団に参加し、日本人、韓国人、モンゴル人、アメリカ人の七名の研究者チームで、中国内蒙古自治区(以下、内モンゴルという)のホロンボイル草原を訪ねました。ほぼ二週間にわたって広範な地域を列車や車で回り、さまざまな民族に出会い、遊牧社会における民族関係について、自由インタビュー方式で聴き書き調査を試みました。私は出かける前には、若干の戸惑いがありましたが、実際に足を運んで、社会主義を基盤とする中国に、民族自治に基づいた民族間関係の在り方を垣間見ることができました。それは、少数民族を排除と同化で交互に追い込んできた資本主義社会には存在しないものでした。また、目新らしい「発見」とともに、日本やアメリカ合州国にない矛盾にも気づかされました。

 

 内モンゴルは、中国革命最中の一九四七年に、中国最初の民族自治区となりました。一九九〇年現在、中国の「モンゴル族」と識別されている人びとの七〇パーセント(三三八万人)がここに住んでおり、隣のモンゴル国の約二二〇万人のモンゴル人より多いのです。ホロンボイル草原は内モンゴルの東北部にあるホロンボイル盟(呼倫貝尓盟)の西部に位置します。

 ホロンボイル草原は盟の総面積の約半分(一〇万ヘクタール)にわたる、内モンゴルの二大草原のひとつであり、世界にも例の少ない広大な美しい高原です。そして、バルガ草原とも呼ばれているように、バルガ・モンゴル族の故郷となっています。調査団のフフバートル氏の調べによると、バルガ・モンゴル族は一八世紀前半にロシアのバイカル湖地方から清朝の国境警備隊として移住した人びとと言われています。

 ホロンボイル盟は、西部のバルガ草原地帯、中部を東北から西南に横ぎるヒャンガン(興安)嶺という山岳地帯、東部の農村地帯の三つの生態区域からなりたっています。ここでは、ロシアとモンゴル国境に臨むホロンボイルの多文化的・多元性を反映して、エヴェンキ、オロチョン、ダフールの三つの小さな民族の「自治旗」も含めて、合わせて三三の異なる民族が各区域に点在し、緊張関係の中で互いに協力しながら暮らしています。

 

 調査団は、ハルビン(哈尓浜)市を出発し、旧北満鉄道の線路を辿って東部にあるジャラントン(扎蘭屯)市のチンギス・ハーン(成吉思汗)鎮を訪ね、そのなかの紅光村(一九二戸)の朝鮮族を中心に調べました。この地域はダイナミックな農村地帯であって、漢族、朝鮮族、満族、ダフール族の村落が混在しています。そのなかでも、水田を基盤とする朝鮮族の集落は、麦などの穀物を主に作る他民族の集落よりこぎれいでよく整っており、豊潤な印象を与えます。一戸当たりの平均作付け面積は一・五ヘクタールですが、六〜八ヘクタールをもっている農家も少なくなく、都市工場と契約を結び、東北地方で有名な「朝鮮米」を直売している家も多いのです。

 その一方で農民層の分化もみられました。聞いたところでは、手作業に頼る農家がまだ多くある一方で、機械化が進んでおり、機械や水田の貸し出しも盛んになっているとのことです。この数年間に兼業農家や、労働力を雇う農家も増加してきました。村人の平均年収は全自治区の農民・遊牧民の平均である千数百元にほぼ等しいのですが、一九九〇年には、村の総戸数の約一割が年収一万元に達しました。こうした事情は経済改革下での朝鮮族の勤勉さを物語っていますが、その裏面にある貧富の差については、口をつぐんだままでした。雇われる季節農業労働者の人数と、その民族的構成などを調べられなかったのが残念です。



 旅行の後半、調査団はホロンボイル盟から南下して、隣のヒャンガン(興安)盟へと移動し、ウランホト(烏蘭浩特)市近郊の三合村を訪問しました。三合村(三五七戸)は現在、朝鮮族(人口の六二%)、漢族(二三%)、モンゴル族(九%)、満族(六%)の四つの民族で構成されています。

 主な生産活動は水田稲作ですが、モンゴル人は農業と遊牧を兼業する場合が多いようです。戸別の所有水田面積が小さい(一、二ヘクタール)割には機械化が進んでおり、独自の稲作技法をもつ朝鮮人は、小型耕運機、脱穀機、稲刈り機などを導入し、漢人とモンゴル人、満人を手助けし、密接な協力関係を結んでいるそうです。一九九〇年の調査によると、全戸数の一割は一万元以上の年収を得ています。また、三合村は国や自治区から「民族連帯」や生産向上の功労を表彰された他、多くの賞を受けています。

 紅光村と三合村の朝鮮族の特徴は、巧みな伝統的水田経営、民族教育の重視や伝統文化の保護に見られます。その民族的「アイデンティティ」は、今では分断されている祖国への帰属意識にも根ざしていると感じました。この数年間、先進工業国の韓国にあこがれ、ソウル、釜山などへ出稼ぎに行く若者が増える一方で、現に三合村にも、家族が韓国へ行っている家が五戸あるということでした。韓国への旅や出稼ぎは民族教育に対する意欲と無関係でないのかもしれません。いずれにせよ、時によって韓国の政府や民間企業も、経済大国のイメージをことさら強調して、こうした動向を促しています。調査団のユ・ヒョヂョン氏によると、数年前、これが韓国と中国の間の外交問題となったこともあります。調査団と村人たちとの交流会などでのくつろいだ時の発言によると、労働力の大量流出には、経済的に「遅れた」中国のマイナスイメージ、海外の高賃金へのあこがれ、内モンゴルの政治状況・民族関係の将来への危惧の影響が感じられました。

 

 中国共産党は、抗日戦争時代から、少数民族の自決権(独立権)は認めない一方で、統一国家内での民族自治権は保障する方針をとってきました。一九四七年に内モンゴルが民族自治区になって以来、モンゴル族は、原則として、教育、就職、地方自治の運営などの面においては「主体」民族としての特権を享有してきました。しかし主体民族といっても、一九九六年現在、ホロンボイル盟の総人口の八〇パーセントを漢族が占めているのに対し、「主体」民族のモンゴル族は一六パーセントにすぎません。

 一九六〇年代後半から、文化大革命(以下、文革という)のなかで、モンゴル族の自治権は大幅に浸食されました。大勢の紅衛兵などが内モンゴルに入植し、モンゴル文化を「反動的」な遺物と呼び、それを守ろうとする人びとに「民族主義者」や「分離主義者」などのレッテルをはりました。文革の後半にはラマ僧、教員、文化人、幹部など、二万人以上のモンゴル人が殺されたとも言われています。

 民族教育権も大きく侵害されました。今回の調査で、文革中に、ウランホト市の民族学校のモンゴル人と朝鮮人の生徒がばらばらに漢族学校に通わせられていたことがわかりました。民族教育がよみがえったのは、一九七三年だったそうです。この時期に朝鮮人がウランホト市内の朝鮮学校の校長になったことは、この復活を強く印象づけます。

 文革が内モンゴルの民族関係に深い溝を掘り、少数民族が言葉に表現できないほど辛い目にあったことから、この時期についてははっきり語ろうとしませんでした。民族間の緊張した関係は、後遺症としていまだに残っており、私たちも何度もそれを感じました。

 とはいえ、七〇年代後半の経済改革以来、モンゴル人は徐々に自治権を取り戻してきました。一九八二年の新中国憲法によって保障されている特権は、おおむね政治的、社会的、文化的権利の三つに分けられます。

 自治区政府は、政治的権利として、民族政策の決定権、地方財政、治安管理などに対する広い裁量権をもっています。

 つぎに社会的権利としては、共産党幹部、自治区政府職員などの雇用枠が挙げられます。現在、地方政府関係者の二三パーセント(一七万人)はモンゴル人もしくは自治旗の主要少数民族です。また、「一家に一子」という厳しい出産制限についても、少数民族にはふたり目の子どもが認められており、内モンゴルでは、実際三人目の子どももめずらしくないようでした。小さな民族グループの場合には、産児制限はありません。

 文化的権利としては、民族教育権が決定的な意味をもちます。徹底した民族教育を行なっているヒャンガン盟の例を挙げましょう。盟の教育委員会によると、ウランホト市のモンゴル人の就学率はきわめて高く、小学校は一〇〇パーセント、中学校は八〇パーセント、高等学校は二五パーセント、大学・専門学校は高校の卒業生の三〇パーセントです。教員はモンゴル人で、その多くが大学あるいは師範学校の卒業生か、公務員の職歴をもっており、全員が国費で雇われています。モンゴル人は幼稚園から大学まで民族教育を受けることができ、さらに大学・専門学校への入学にあたっては「民族枠」もあり、大学試験を漢語で受けると、加算点(一〇点)が与えられます。

 こうした優遇政策の結果として、モンゴル人の多くは、モンゴル語の新聞や雑誌を読み、モンゴル語のラジオ・テレビで民族放送を楽しみ、モンゴル語で日々の暮らしをしています。私たちの通訳はモンゴル語でメモをとったり、仕事の合間にモンゴル語の雑誌や本を読んだりしていました。日本やアメリカではめったに見られない、広い地域に堂々と生きている少数民族の素顔は、私にはたいへん新鮮に映ったのでした。

 

 調査団は、ホロンボイル盟のジャラントン市から、ヒャンガン山脈を越え、西部のなだらかに起伏するバルガ草原をわたり、その中心部にあるハイラル(海拉尓)市を訪ねました。そして、ハイラル近辺のエヴェンキ(鄂温克)自治旗のシネヘン(錫尼河)にあるブリヤート・モンゴル人の小さな集落で家庭を訪問しました。

 フフバートル氏の研究によると、ブリヤート・モンゴル人はロシアのバイカル地方から移住してきました。一八世紀まで同じ地方を故郷としたバルガ・モンゴル人に最も近いモンゴル族と言われています。一九一八年〜一九二二年に、ロシア革命を逃れて、多くのエヴェンキ族と一緒にホロンボイル草原に入り、牧草地を与えられたそうです。

 それ以来、ブリヤート・モンゴルとエヴェンキは密接な関係を結んできました。エヴェンキ自治旗のモンゴル学校には、モンゴル人(生徒二一〇人、教師二〇人)、エヴェンキ人(それぞれ二〇〇人と一〇人)、ダフール人(八〇人と三〇人)、オロチョン人(生徒二〇人)、漢人(生徒二人)がいました。多くの異なる民族が一緒に仕事をしたり、勉強したりしている姿は、感動的でした。

 この地域では、日常生活を営むのに四つの言語(モンゴル語、エヴェンキ語、ダフール語、漢語)が必要とされています。漢語を別にして、それはそれほどむずかしいことではありません。というのも、アルタイ言語体系のモンゴル語と、ツングス言語体系のエヴェンキ語、ダフール語やオロチョン語は長い歴史を共有し、それぞれからの借用語が多く、互いに通用する表現や文形も少なくないのです。こうした文化的相互性や民族的「共生」は深い印象を与え、「異文化」コミュニケーションのテーマに富んでいます。

 中国の少数民族には、日本やアメリカのような政治的表現の自由が保障されていない反面、日本やアメリカにない民族自治や民族文化の表現の自由があります。しかし今回の調査では、こうした優遇政策の実践に多くの問題が含まれていることにも気づきました。ここでは、三つの例を取り上げたいと思いますが、いずれの場合も、結論ではなく、再確認すべき問題として提起します。

 教育は民族自治権のよりどころとも言えますが、モンゴル語と朝鮮語の教科書は、中央政府の認定する一般向け教科書の翻訳にすぎず、歴史、文化などの民族的内容に欠けています。民族教育は、言語や文化活動(芸術、音楽、踊りなど)に限定されており、理科系科目などは漢語で教えられ、高校以上は重要科目が漢語で行なわれます。

 さらに、主体民族でない他の少数民族は、民族教育を受ける権利があっても、優遇政策の対象にはなっていない、とある民族学校の先生に教えられました。朝鮮人学校は若干の国費と助成金を受けています(教員数名分の給料の半分だけ保障されている)が、かなりの部分を自分たちの資金に頼らざるをえません。そのためこの学校は、四ヘクタールの水田や化学肥料工場を経営し、その利益で運営費を補っているそうです。

 また、教育の現場では、漢族との関係が微妙な圧力を加えています。例えば、ウランホト市では、生徒はどの学校に通うかを選ぶ権利をもっていますが、自分の子どもを民族学校へ通わせているのは朝鮮人の親の約半分だけです。つまり、多くの子どもたちは漢人学校に行っています。そして朝鮮人学校で、主体民族のことばを教えていない点にも、「漢化」の傾向が見られます。

 最後に、小さな少数民族は、その地域の最も大きな少数民族の学校か、漢人学校に行かざるを得ません。例えば、エヴェンキ自治旗では、エヴェンキ人、ダフール人などがモンゴル民族学校に通っています。私たちが訪ねた小学校では、さすがにエヴェンキ人やダフール人の先生が多いものの、エヴェンキ語やダフール語が文字表記化されておらず、教科書も言語文化科目もありませんでした。民族的アイデンティティと言語保持は必ずしも一致するものではないとはいえ、このような状況のなかで、エヴェンキ語、ダフール語、オロチョン語などが次第に消えつつあるという指摘が気になります。 

 

 もう一つ矛盾があります。多くの研究者から指摘されてきた問題ですが、ここ数年間、内モンゴルの漢人の多くが自分の民族籍を大きな少数民族のそれに切り替えています。ホロンボイル盟においては、一九八二年から九〇年の間に、漢族の人口の増加率は〇・八パーセントだったのに対して、モンゴル族はほぼ四パーセントの増加率を見せました。現在民族籍の移動は厳しく規制されていますが、優遇政策の裏面としてのこうした傾向は、少数民族の「漢化」を促しうることを考えれば、民族関係に影響を及ぼすものと思われます。

 満族の場合、人口増加率は八・五パーセントにも及びますが、満語を喋れる者は珍しく、民族学校もきわめて少なくなっています。数が増えている一方で、満族として生きようとする人がほんの少数になっています。

 しかし、モンゴル人の場合は明らかに違います。モンゴル人は、チベット人やウイグル人とともに、漢民族による巧みな、かつ絶え間ない同化への圧力に対して十分な抵抗力をもつ三大少数民族をなしています。ロシア、モンゴル、中国の三つの国境をまたいで分布するモンゴル人たちは、自己確認を共有しているでしょうか。

 共通点としては、チンギス・ハーンの子孫であること、モンゴル語を話せること、民族文化への愛着などが挙げられます。しかし、国家をもたず、しかも大多数民族である漢人に包囲されて暮らさざるを得ない内モンゴルのモンゴル人の心情には複雑なものがあるはずです。一定の自治権をもちながらも、自決権に触れることは禁忌となっており、そうした状況に対して不満を感じる人びとは多いでしょう。その一方で、中国の科学技術や巨大な「国力」によって、脱社会主義国のロシアやモンゴル国に対して微妙な優越感を抱くモンゴル人も少なくないはずです。

 中国政府の民族政策は、民族識別制度、優遇政策などによって結局は、少数民族を「少数者」という枠組みに固定してきた、という見方もできます。つまり、民族関係へのこうしたアプローチは、「少数民族」を意識的にも政策的にも強調することによって、結果的には「多数民族」の自己意識をも強化し、「少数者」と「多数者」との間の「差」をいっそう広げる危険性をはらんでいます。中国当局は少数民族の言語文化や民族的表現の自由を保障しながら、少数者を巧妙に管理している、という印象が強く残りました。


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