私は美術や宗教の歴史が担当ですので、今日は「草原のなかの象徴図像」という題で、とくにウランバートルに関わりながら、現在のモンゴル国についてお話ししたいと考えています。
さて、ウランバートルという名前は「赤い英雄」という意味です。これは一九二四年に制定された名前で、まだ五、六〇年しかたっていないような非常に若い名前です。モンゴルが独立して採択された名前がウランバートルでした。チンギス・ハーンがモンゴル草原から現在のウィーンあたりまで走り抜け、非常に大きな国家をつくった時代は一三世紀ですから、その流れから見るとごく短い時間がウランバートルという世界の時間です。
この都市はユーラシア大陸のど真ん中に位置しています。海はありません。三方を山に囲まれ、そして南は広大なゴビ砂漠が中国との国境を形づくっています。山もあり、川もあり、また草原もあり、砂漠もあり、大変複雑な地勢を持っています。現在、ウランバートルにはいくつも博物館がありますが、一番の売り物は恐竜の巨大な骨でした。そういう意味では、人間以前からこの世界は大きな生き物の動き回る世界であったということがわかります。
そして、遊牧の時代が大変長いです。国家としてモンゴルとして立ち上がる以前から、この土地には数多くの民族が生きていました。いわゆるステップの世界、草原の世界というものが、ロシアのバイカル湖のほとりからはるかヨーロッパのふもとまで広がっています。
ゴビ砂漠の南に天山山脈があります。その山脈とヒマラヤ山脈の間の一帯を抜けていくキャラバンルートがシルクロードというわけですけれども、さらに北、天山山脈の向こう側に大きなステップ・ルートがあって、古代から人びとはその道を歩いていたたことがわかります。例えば突厥と呼ばれる人びとがいました。突厥というのは、おそらくはトルコを意味するチュルクということばから由来していますが、現在のトルコ人は、出身がバイカル湖のほとりであったと言われています。それが数千年かけてバイカル湖のほとりからゆるゆると西へ移動し、現在の地中海の面する半島にまで進んでいたのです。
そこではトルコ人たちは東から西へ移ったのですが、また西から東へと移る人びとも数多くいたであろうと思います。非常に多くの民族がこの中を動いている。やはり同じように、現在モンゴルと呼ばれている周辺の世界にも数多くの民族がいたことが確認されます。そういう人びとが遊牧をしている。小さい天幕を持ってあちこちに移動し、土地の神々に捧げ物をしたりしていたのだろうと思います。
そういう人びとが大きな宗教、つまり組織化され、ある意味で世界宗教を目指すような大きな宗教と出会うきっかけをつくった事件が生じます。それはチンギス・ハーンが西へと走った、そのことに起因します。まず、一二〇六年、チンギス・ハーンがモンゴルを統一したというところから始めなければなりません。そして彼はインドに走り、西域を抜けてヨーロッパのほうまで行くんですが、その中にはいくつかの伝説があります。非常に早い時期にチンギス・ハーンはある一人のラマ僧に深く帰依したという伝承もあります。しかしこれは確認できません。かなり早い時期にチベットを制圧しているわけですから、当然チベット仏教というものを目にしたでしょうし、またそれが何であるか、当然調べただろうと思います。
チンギス・ハーンに関しては、確かに大きく走りはしたけれども、やがてそれが、国家という体制に育つには、第五代のフビライ=ハーンまで待たなければなりません。
モンゴルの仏教から考えた歴史の中で、おそらく大きなポイントは四つあります。一つは、チンギス・ハーンが西へ走ったということ。第五代のフビライ=ハーンが国家をつくったということ。一九二一年から二四年にかけて新たな近代の国家をつくったということ。それから、ここ何年かの経済開放、政治開放の流れということになるかと思います。少なくとも仏教に関して言えばのことですが。
つまりチンギス・ハーンが走り出したことで仏教と出会い、そして国家をつくる際に仏教を選択したということがなかなか微妙なところです。
一二四四年、チベット密教のカギュ派というグループがモンゴルの王室に強く接近してきます。これはほかのさまざまな宗教との覇権争いでした。一三世紀半ばですから、モンゴルという新しい国家、そして世界帝国になるであろう大きな国家に向かって最も強く働きかけたのは、もう一つ、イスラームがあります。七世紀アラビアに起こったイスラームは、同じように世界帝国の可能性を秘めていた。そして、彼らは国家としてよりも宗教として展開していくわけですから、その中で当然モンゴルにも改宗を求める力がやってくる。イスラーム教徒の多くがモンゴルのハーンに会いに行きます。そしてその中で仏教徒とイスラーム教徒、あるいはキリスト教徒、それから中国の道教もかんできますが、そういう人びとの宗教論争というものがあって、何代かのハーンとしては、さて、どっちが勝っても私は知らないよという感じで、わりと冷やかに見つめていた。
ところが、フビライになったときに突然、仏教を選択するわけです。それが一二六〇年ですが、フビライ=ハーンが即位して、これもチベット密教の一つの宗派ですけれども、サキャ派というグループのパスパという人物を国家お抱えの宗教者として承認することになります。そしてこの瞬間、モンゴルは一種の仏教国となることになりました。ところが、これがなかなか単純な話ではありません。なぜチベット密教がそのときモンゴルに接近したのかというと、一つはチベット自身の問題でもあったわけです。チベットはこの時点で大きく宗教改革というものをねらっています。とくに黄帽派との闘争がありました。紅い帽子は、僧侶がかぶる決まりの帽子です。これは古いチベット仏教のグループがかぶっていたものです。ところが、長い間一定の宗派が生きていると、当然堕落であるとか教条主義であるとか、そういうものがはびこってきます。それを打開するために、ツォンカパという人が新たな宗派を起こそうとしたわけです。そして紅い帽子をわざと裏返して、裏の黄色い地を出してみんなの前で説教した。そしてそれに賛同した者は、自分たちも帽子をひっくり返して黄色い帽子をかぶり、古い宗派から新しい宗派へと、新たなチベット仏教の展開ということを決意として示しました。これがチベット密教の宗教改革だったわけです。
そして重要なことは、これが仏教がモンゴルへ働きかけた時期と一致するということです。釈迦を生み落としたインドでは、すでに仏教は壊滅状態でした。ヒンドゥー教が勢力を回復し、さらに西方の、イラン、アラビア、中央アジアでは、イスラームの力が広がっていた。ひしひしと東に迫っていたわけです。仏教はなくなる、イスラームは強くなるという状況の中で、仏教がただ一つ持っていた根拠地がチベットだったのです。
そして、実は現在ウランバートルと呼ばれている土地が歴史の中に湧き上がってくるのは、まさにこの時代です。現在のウランバートルの地に最初の都市が建設されたのは一六五〇年ごろ、おおよそ三四〇〜五〇年以前ということになります。
当初この都市は「大野営地」とか「大草原」を表す「イェケフレー」という名で呼ばれていました。移動式の天幕が集合しただけの場所から、徐々に固定された建物が登場してくる時期というようなものだろうと思います。
そしてその後に、重要な名前ですが、中国などでは「庫倫(クーロン)」という名前が別名として伝わっています。そしてモンゴルにおける初代ラマ、活仏ジェプスン・ダンパが後にウランバートルとなる場所を自分の住まいの土地だと定めたわけです。そしてそのときに初めて、この地は現在のモンゴルの首都になるような基礎を築くことになるわけです。
その後も、オルゴー、イェケフレー、イェケフレーホタ、ニースレルクレーと名前は変わりますが、一九二四年にウランバートルという名前を取り出すことになるわけです。
これが、特に宗教と政治の絡みから見たウランバートルの設定のいきさつです。
そしてもう一方ではウランバートルは昔から商業的な交通の要所で、大きな経済交換の場所になっていたということがわかります。そのことでは、唐や宋の時代の長安であるとか、あるいはローマであるとか、そういった都市と似たような形で、東北アジアにおける最も重要な国際都市という商業的な機能もここにあったわけです。当然さまざまな民族、さまざまな宗教を持っている人がここを往来し、あるときはキリスト教の修道院が建ったり、いろいろなことがここにはあったようですけれども、そういう流れを背景に持っています。
ウランバートルのすぐ西にハルホルム(カラコルム)がありますが、これが実はウランバートル以前の古い首都です。こちらには非常に古い寺院の遺跡などがありますが、歴史とともにカラコルムからウランバートルへと移っていったわけです。
当然、仏教美術もいろいろと発達してきます。大変すぐれた建築、あるいは仏像などがありますが、これはおおむねチベットの僧侶、あるいは仏師たちがつくったもので、すぐれた仏教の美術が導入されているということがわかります。
つまりそれは国家の宗教としての仏教ですが、実はもう一つの仏教がモンゴルにはあります。近代の話です。モンゴルが民族の自立を目指して改革を行なおうとするときに、当然それは仏教というものと向き合わなければなりませんでした。ところが、公の仏教、つまり帝国が提唱する、あるいは国王自らが活仏として支配するような国家宗教としての仏教ではなくて、非常に素朴なシャーマニズムをベースにした、ある意味での貧しい人びとの仏教というものが存在していたわけです。
これは一七世紀から一九世紀にかけてのことですが、いわゆる国家の宗教とは別に、公の僧侶ではなくて、非公認の僧侶、つまりプライベートというか、遊牧しているグループのなかに、国家の威信とは関係なしに僧侶の役割を果たす人びとがいて、彼らが実は、後の人民革命といいますか、新しい世界をつくろうというときに大きな力になっているということがわかります。むしろ国家が選び取った仏教ではなくて民衆の中に根づいている仏教、そういう二重構造が存在しています。
つまり上から下ろされた仏教と、下からわきあがってくる仏教という、その二つがあったということです。その後、社会主義体制下では仏教は大変厳しく弾圧されますし、いろいろなことがありました。上からの仏教は帝国主義的潜勢力として、下からの仏教は迷信もしくは反革命勢力として、きびしく解体されてゆきました。唯一お寺として機能していた寺院はウランバートルにあるガンダン寺というお寺だけであったと言われていますし、全国でも機能を保った寺は五つもなかったであろうと言われています。それが、ここ数年に至って非常に発達を始めている。建物が回復するというようなことがあります。
それは一方ではモンゴル国の文化振興政策みたいなことと対応してはいるんですけれども、その一方にやはり素朴な民衆の中から湧き上がってきた仏教への回帰というものも働いていることがあります。それがどういう形で今後動いていくのか私にはわかりませんけれども、少なくともざっと走って歴史を見た限りでは、仏教の問題というのは抜きにはできない。しかも公の歴史の中の仏教ではなくて、そういう中で細々と生きてきた仏教というものが重要だと思います。