報告2 世界のモンゴル人 モンゴル的ディアスポラの現在

ユ ヒョ ヂョン 人間関係学部助教授

 人間関係学科のユです。「世界のモンゴル人――モンゴル的ディアスポラの現在」という題で、モンゴル人と呼ばれる、またはモンゴル系と分類される、あるいはみずからをそのような系統のものとして意識する人びとの、民族としての生活とそれにかかわる諸状況を理解していくために、必要と思われる基礎的事項について概略的にお話ししたいと思います。



 まず、モンゴル人の居住地域は、モンゴル国と、その北方にあるロシア、そしてその南の中華人民共和国の三つの国に大きく分れます。中国とロシアにおいては、モンゴル人が多民族国家のなかの少数民族として居住しているのにたいして、モンゴル国においては、逆に多数民族として人口の圧倒的な部分を占めており、世界のモンゴル諸族の精神的中心として意識されることが多いといえます。

 モンゴル国は、「外モンゴル」または「外蒙古」と呼ばれることもありますが、これはその南の地域を指す「内蒙古」、または「内モンゴル」という呼び方とともに、中国の立場からみた名称でありまして、どちらかとすれば当のモンゴル人自身はあまり好ましく思わない呼び方だといえます。かれらは、「内」「外」のモンゴルをそれぞれ「南」「北」モンゴルと呼び、区別しています。この状況は、中国人が、まもなくおとずれる香港にたいするイギリスの植民地支配の終結と中国への復帰を、けっして「返還」といわずに(中国への)「復帰」または「回帰」と呼んでいる状況と似ているといえます。

 北モンゴル、つまりモンゴル国には合計約二二〇万人のモンゴル人が住んでいますが、その部族的構成からすればハルハ(部族)と呼ばれる人びとがもっとも多く、全体の七割を占めています。モンゴル国、またはモンゴル共和国という現在の国名は、一九九二年一月に、それまでのモンゴル人民共和国を改めたもので、この変更は、それまで社会主義的国際関係という建前のもとで、あるいはそれを盾にした形でのソ連の支配のもとで、民族的なものが抑圧されていた状況からの脱却という大きな変化を象徴するものということができます。

 つぎにロシアには、モンゴル国のすぐ北の地域に、バイカル湖を東からかこむ形で形成されているブリヤート共和国と、遠くカスピ海沿岸、ヴォルガ河のほとりにあるカルムイク共和国の二つの共和国を中心にそれぞれブリヤート人(四二万一〇〇〇人、八九年)、カルムイク人(一七万四〇〇〇人)と呼ばれるモンゴル系の民族がいます。この内、前者のブリヤート人は、一九五七年まではブリヤート・モンゴル人と呼ばれ、またその居住地域も、自治共和国の名称も、言語もブリヤート・モンゴル、ブリヤート・モンゴル自治共和国、ブリヤート・モンゴル語と呼ばれていましたが、五八年にこれらすべてから「モンゴル」が取られ、今日に至っています。ペレストロイカのなかでブリヤートにおいても五八年にとられたこの措置の不当性を指摘し、「モンゴル」を取り戻そうと動きがあらわれ、議会にもそれが提案されましたが、すでにロシア人が多数派になっている同共和国の最高会議はこれを否決しました。

 話が前後しますが、いまのブリヤート地域がロシア領に編入されたのは、一七世紀終わりころで、そしてその南の地域、つまり南北モンゴルが数十年の時差をおいて清朝の支配下に入ったのは、それより少し早い一七世紀前半から後半にかけての時期です。「内」「外」の区別は、この清朝支配下への編入の時差にちなんだものでして、これとも関連して両地域の間には支配のあり方においても違いがありました。いまのモンゴル国は、この内、北の部分=「外蒙古」が、一九一一年のモンゴルの自治宣言からはじまる一連のプロセスを経て、一九二一年に独立したものです。ここで重要なことは、モンゴル人ないしモンゴル系諸族が、今日のように、中国、ロシア、モンゴル国などに分かれているのは、モンゴル人自身の意志によるものではなかったということであります。モンゴル高原を取り巻く大国や大きな民族の関与がなかったら、かれらは、他の諸民族の例のごとく、統一に向けての行動をつづけてきたはずです。

 一方、カルムイクは、部族的には、ハルハ、ブリヤート、それに中国内蒙古自治区に多いチャハルとともにモンゴル人のいわゆる四大部族とされるオイラート――この部族は中国の新疆ウイグル自治区とそれと隣接している各省に集住していますが――の血を引く人びとで、一六三〇年頃に清朝の支配を逃れていまのところに移動し、その一四〇年後、再びもとのところに戻る際、戻れずに残された人びとの子孫たちです。そのとき戻った人びとの子孫がいま新疆ウイグル自治区の最北端のホボクサイル草原にすんでいる人びとで、したがって、この人びととカルムイク人とはオイラートのなかでももっとも近い関係にあります。またカルムイク人は、第二次世界大戦中の一九四三年に、ソ連と敵対していたドイツに協力したことにたいする懲罰として、中央アジア、シベリアに民族まるごと強制移住させられ、五〇年代に復権されてもとの居住地に戻ったという体験をしています。近年、民族の自由の拡大、民族生活の再生のなかで同胞の新疆ウイグルのオイラート・モンゴル人との再会、交流も活発に行なわれていると聞いています。

 中国は、一九九〇年段階で四八〇万の「モンゴル族」がいるモンゴル人最大の居住国です。しかも中国には、現在「モンゴル族」ではなく、ちがう民族として識別されている、つまりそれぞれ別個の民族として分類されているいくつかのモンゴル系またはモンゴル語系の集団があり、それらを加えるとモンゴル人またはモンゴル系の人びとの数はさらに大きくなります。

 中国内モンゴル族の最大の集住地域は、モンゴル国との接壤地域にある内蒙古自治区(中国建国二年前の一九四七年に成立)でありまして、ここに三三八万人のモンゴル族がいます。しかしこの数は、自治区全体の人口の一四%を占めるにすぎず、また全体として漢族との混住地域が多いことなどから、民族の自治区域にもかかわらずモンゴル族の民族としての生活は容易でない状況にあるといえます。こうした状況は改革・開放の進展、市場経済化によっていっそう加速化され、草原から農耕地または都市部への移動、漢語習得の必要性の増大などによる民族語教育機会の減少といった、いわゆる漢化が急ピッチで進んでいるように思われます。もとより、こうしたことはひとり内蒙古自治区にかぎらず、他の省のモンゴル族さらには少数民族一般にたいしてもいえることであり、市場経済化のなかでの少数民族の民族生活のありようという大きな問題を提起しているといえます。ちなみに、内蒙古自治区は、一九六〇年代半ばからのいわゆる文化大革命の期間中の約一〇年間、その面積の半分以上を、同自治区を囲んでいる五つの省に切り取られ、その後回復した経緯があります。

 さきほども申しましたように、中国には「モンゴル族」以外に五つのモンゴル系ないしモンゴルと関係の深い民族、より正確にいえばモンゴル語系のことばを使っている民族があります。これらの諸民族は、甘粛省、青海省の西北地方(東郷=トンシャン、土=トゥ、保安=ボウナン、裕固=ユーグ各族)と内蒙古自治区の東北部と黒龍江省(達斡爾=ダフール族)に集住しています。これらの諸民族は、モンゴル語系に属することばを使っている共通点をもっている一方、生業、宗教、住居生活などにおいてはモンゴル族またはモンゴル高原のモンゴル人のそれらとは異なる様相を示すものも多く、なかには色目人の末裔とされる東郷族の例のように出自そのものがモンゴル系でない集団もあります。おそらくこれらの点が、中国当局がこれらの人びとをそれぞれ個別の民族として識別=認定する有力な根拠となったと思います。といって、識別作業は簡単ではなく、ダフール族のように、モンゴル族の支族かそれとも別個の民族なのかをめぐって複雑な議論が行なわれたケースもあります。この議論は、ある意味ではいまもつづいているといえます。ちなみに、モンゴル国などではこれらの集団も一律モンゴル人として見なされているようで、日本のほとんどのモンゴル研究者もこの捉え方をしています。

 このような集団の形成には、広大な地域におよんだモンゴル帝国の広がり方および崩壊のしかたが深くかかわっているといわれます。つまり、優れた機動性をもって、広域にひろがったモンゴル人が、その過程で各地の異民族を自分たちのなかに組み入れ、同化させた結果として、または当のモンゴル人自身が、展開した地域にそのまま定着したり、または逆に戦争に敗れて逃走し、その地に定着した結果、このような「飛び地の捨て子」が生れたものと考えられています。アフガニスタンの奥地に約三千人がいて、同じくモンゴル語系のことばのモゴール語を使っていると伝えられるモゴール族や、モンゴル草原から遠く離れた中国の雲南、四川両省の六〜七万のモンゴル族の場合も同様の状況が生んだものといわれています。ただし後者の内かなりの部分は、モンゴル人の末裔としての意識はともかく、言語、名前、その他のほぼすべての面においてモンゴルらしきものはほとんど残しておらず、それゆえつい最近まで漢族その他の民族として識別されていました。それが、八〇年代に自らの申請によってモンゴル族として「再発見」され、モンゴル族への族籍変更が認められたユニークなケースです。それ以来、モンゴルらしさを取り戻すための取り組みが精力的に行なわれているといわれます。

 このモンゴルらしさの取り戻しには、内蒙古自治区を中心とした中国内の他の地方のモンゴル族からの協力が大きな力となっているようですが、もとよりこうしたモンゴル人どうしの交流と協力、または、その中心的な内容をなすモンゴルらしさの再生、回復のための努力は、この例に限るものではない。こうした動きは、いままで申しましたモンゴル系またはモンゴル語系の諸民族集団ほぼ全体にわたって見られる共通したものといえます。

 必ずしもうまく行っているとはいえませんが、モンゴル国におけるモンゴル文字復活運動や、ラマ教再生運動に象徴されるモンゴル的要素、モンゴルらしさの再生、回復のための運動はわりとよく知られています。文字復活運動の促進のために中国のモンゴル人のなかから教師を招聘しようとする計画もあったようです。同様の動きはブリヤートやカルムイクにもあり、この内、ブリヤートでは一時モンゴル国への編入を求める動きさえあらわれたといわれます。

 九三年九月にウランバートルで開かれた第一回世界モンゴル人大会は、民族としての自己の再生にかけるモンゴル人たちの意気込みがいかに熱いものなのかを示すと同時に、しかしその前途がけっして楽観できるものではないことを物語っていると思います。

 『朝日新聞』の報道(九三年九月一四日付け)によりますと、「世界各地に散らばって住んでいるモンゴル族の代表が一三日……『世界モンゴル族大会』を開いた。大会には民族服に身を包んだオチルバト大統領らが出席し、ジンギスカンの生まれた故郷に帰ってきたモンゴル族を歓迎するとともに、世界のモンゴル族の団結と協力を訴えた。ロシアのブリヤート、トーワ各共和国から公式代表団が参加したのをはじめ、米、仏、インド、ネパール、台湾などから各地のモンゴル族組織の代表が参加した。微妙な関係にある中国の内モンゴル自治区からは正式代表団は来ず、個人の代表が参加した。」とあります。また、この大会を予告した同じく『朝日新聞』の四月七日付けは、「経済・文化・言語などでの交流を強める」この大会は、モンゴルの民間団体が企画したもので、「中国・内モンゴルでのモンゴル系住民への人権・民主化運動抑圧なども重要なテーマになる見通し」だと報じていました。中国からの正式代表団が参加しなかったあるいはできなかったのも、また第二回大会がいまだに開かれないのも、おそらくこの辺に最大の理由があると思われます。

 こうした状況をめぐっては、民族生活または国家と民族の複雑な関係についてのそれぞれ異なった立場からのさまざまな意見、評価があると思います。しかし、仮にモンゴル人たちのある動きが、ある国の安定と統合を脅かしかねないものとして否定的に捉えられることはあっても、それまで国境の壁によって引き裂かれ、互いの安否を確認することすらままならなかった諸民族の同胞どうしが、交流を再開し、助け合おうとする動きそのものまでもが危険視され、否定的に捉えられてはならないと思います。それとは逆に、そうした離散民族をめぐる状況を理解し、必要な手助けを可能なかぎり行なっていく姿勢こそ、求められているといえましょう。

 ディアスポラとしてのモンゴル系またはモンゴル語系諸民族の歴史と現状は、私たちにモンゴル人とは何か、さらには民族とは何かという複雑で難しい問題をあらためてなげかけるとともに、モンゴル系諸民族を含めて諸民族の今後の民族としてのあり方やそれと関連したさまざまな模索が、けっしてそれらおのおのの民族だけの問題だけではないということを物語っているように思います。


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