報告1 モンゴルへの思い

針生一郎 名誉教授

 私はウランバートルの歴史資料研究所長に会ったとき、モンゴル族はもともとノマド、つまり遊牧民族だから、国家という形になじまない、いま共和国のほかロシア、中国に散在しているモンゴル族の統一もすぐには困難で、まず文化的統一を強めていくべきではないかといったら、それでも我々は自立国家を求めた以上、国家体制を整備する必要があるという答えでした。たしかに、モンゴル族は西方遠征でほとんどユーラシア大陸を支配する巨大帝国を築いた。「世界史」という思想はあの時期に形成されたという説もあるほどで、単純に国家に不向きともいえません。

 モンゴル族の源流は明確ではありませんが、中国では古く匈奴、月氏、突厥、女真、契丹、などとよばれたアルタイ系北方遊牧民族の一つで、イラン系、トルコ系諸民族とも隣りあい、まじりあっていたようです。一三世紀初頭にテムジンがモンゴル族を統一してチンギス・ハーンと名のると、牧民を九五個の千戸群に再編して右翼を息子たち、左翼を弟たちに統括させる「ウルス」という国家体制をつくったが、宮廷の「ネケル」とよばれる幕僚にはそれらの近親のほかに、女真人、契丹人も加わっていたことが注目されます。金王朝に対する情報と戦略をもつ契丹人の耶律阿海と禿花の兄弟が手引きして、内蒙草原の契丹系騎馬軍団をそっくり吸収したことが、対金戦略の勝利の一因で、契丹軍団はそのままモンゴル軍に組み込まれます。だからモンゴルとは最初から、ハイブリッドな多民族集団だったのです。

 もともと遊牧は馬だけでは成り立たず、馬、牛、羊、山羊、ラクダの五畜で成立する。しかも、遊牧生活に必要な人間の食糧、道具などは自給自足できず、周辺に定住農耕集落やオアシス都市が必然的に要求されます。だからモンゴル族も遊牧騎馬軍団だけではなく、集落、都市の支配経略を早くからもっていたと思われます。じじつ彼らの遠征は、まず偵察と諜報を兼ねた通商使節団を送り、相手が通商をことわると集めた情報と下工作の結果をクリルタイという作戦会議で検討し、寝返る可能性のある者を工作して投降させた上、一点に兵力を集中して一挙に攻撃するのです。しかも占領地では、既成の宗教は一切自由、フビライになると各宗教に本山のほか、モンゴルの首都カラコルムにもう一つ本部を置かせて管理する以外自由とする。さらに中国の三大発明といわれる火薬、羅針盤、印刷術、またのちに景徳鎮などで生産される青い釉薬を塗った青花白磁を西洋に伝えたのは、モンゴル人のネット・ワークだといわれます。つまりモンゴル帝国全体が各パートの自主性を尊重したゆるやかな諸民族連合で、武力支配だけでなく情報、文化支配だったといえます。

 宗教といえば、モンゴル族の原始宗教はシャーマニズムで、のちに定着したラマ教の仏画をみても、シャーマニズムに近づけて受容されていると思われます。いまソ連型社会主義から離脱したモンゴル共和国では、ラマ教の勢力が復興されつつありますが、やがてもっとさかのぼって詩や踊り、文学や美術にもシャーマン的呪力が復興される日も来るでしょう。私は福岡市美術館の第四回アジア美術展で、モンゴルの女性画家の描いた荒野のかなたに崖がみえ、その崖の中央に巨大な女神の上半身がうかび、その肩から胸に瀧が流れおちる幻想的な風景画をみて、そんなことを考えました。やはり社会主義からの離脱後、共和国では幼時経験した遊牧生活に戻る人がふえたそうですが、聞いてみるともと官僚、医者などかなり経済的余裕のある階層の一家しか遊牧に入れない。しかも、いまのところ土地は国有だから、季節ごとに別の草原に移る遊牧が可能ですが、土地私有となると自由に移動できない。多くのゲルにテレビはあるが、自家発電だから年に一、二度祭りのときだけつけてみるという。資本主義と工業化社会にむかうには、さまざまの未解決の問題があります。

 ただ私の友人でもあったフランスの精神分析学者あがりのフェリックス・ガタリと、二年ほど前自殺した哲学者ジル=ドゥルーズが、共同で書いた多くの本のうち最後の本『千のプラトー』で、さまざまの時代、さまざまの問題をプラトー(高原)として焦点にしながら、人類史を遊牧=逸脱=変革派と農耕=定住=秩序派の相克としてとらえ、マルクス主義と異なる変革の展望を描いたことに、私が十分理解できたか、説得力が十分かどうかはともかく共感します。いま冷戦の崩壊とともに、フランス革命のかかげた「民族自決」の理念も再検討を迫られているとき、モンゴル族の政治的統一は早急には困難としても、その文化的統一の強化を通して、国家をこえた諸民族連合のさきがけとなりうるはずで、私はそれに大いに期待しています。


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