報告2 傀儡師たちの道 バローチスタン南西部の音芸

村山和之

以下の東部バローチ語による詩編は、バローチ民族の英雄の一人バラーチが復讐の戦いに出かけるときに歌ったとされている部分である。イラン高原最東部の険しい山岳地帯に住む彼らバローチ族の「山koh」に対する思い入れの深さが伺える好例である。

 Balach gushi:

Kohant Balochani Kelat

An ban az banzgiran gehant

Burzen hashi hamsayaghant

Ambrah berahen garant

Af bahokhen chashma bant

Khodi phishen khundalant

Nishtejan Kharkavaghant

Bauf dighari thahthaghant

 バーラーチは言った

あの山々こそ我らバローチ族の砦なり

その頂は一軍団より強く

そびえたつ高き峰は我らが同志

何人も通さぬ岩壁は我らが戦友

乾きを湧き出る泉にいやし

野のヤシの葉で清水をすくい

茨の灌木に身を横たえ

大地を枕とせん

 イラン・パキスタン・アフガニスタンに跨りバーラーチが歌った通りの光景が実在するバローチスタンは、北東から南西に連なる険しい山並みによって阻まれ、南北軸に沿っての移動・交通が困難な地であった。古来より、山に囲まれた峡谷部の低地、河床を移動するのが常とされ、駱駝・ロバ・馬が輸送の主役であり、現在でも、舗装されたごくわずかの街道から一山越えて隣の峡谷にある村へ行こうとするとき、たいてい徒歩か動物の乗り物に頼るよりほかはない。文明社会から見ればまだ未開なこのような土地で、昨年に続き、カラート(Kalat)やフズダール(Khuzdar)の町を拠点に中央ブラーフィー山脈に点在する聖地・聖廟の所在を確認・記録するために踏査を行なった。

 本年度は、外国人の入域に中央政府からの許可を必要とする南西部マクラーン管区(Makran)の、峡谷および海岸の数区域まで射程を広げることによって、昨年度に調査したヒンドゥー巡礼地ヒングラージ(Hinglaj)と、より西方の聖地との関係を探ろうと試み、調査地点各所では二次的に民俗学的資料の蒐集をも行なった。具体的にはその土地土着の聖者および民族の守護聖者に関する宗教歌謡、そして民族的英雄叙事詩の伝承者集団によるパフォーマンスの記録作業である。ここでは、本年度踏査の折りに接触・記録したバローチスタンの民俗音楽文化について民族誌と絡めながら紹介することとしたいが、その中でも特に州都クエッタ以南の、インダス右岸からイラン東部にかけて広く東西にかけて分布するブラーフィー人(ブラーフィー語話者.Br)とバローチ人(バローチー語話者.Bal)からなるバローチ民族の音の伝承者たちを取り上げる。

 現在、歌謡を含めた音楽がバローチ民衆の日常の中でどのように機能しているのだろうか。教義的には歌舞音曲を喜ばないイスラームの教えを守りながらも、人生の節目である冠婚葬祭と結びついた特定のレパートリー、娯楽として楽しむ民謡・大衆歌謡などは他のどの地域とも同様に生活に根ざして存在する。民間医療の一手段として悪魔祓いの儀式に用いられるヒーリング音楽(グワーティー/Gwati)や、一七世紀からほんの二〇年ほど前までの戦いの中で勇敢に死んでいった義賊・英雄たちを讃える叙事詩(シェィル/Sheir)などは、比較的バローチ民族の血が強く脈打っている領域である。出自と関係なく自ら望んで音楽の道に入った一握りの楽士たち(アターイー/`Atai)、そしてマクラーン地方の一部で宗教歌謡を担うシェイパルジャー(Sheyparja)のグループを除けば、この地域の楽士たちは一般的に特定の職能集団に属するものたちである。

 東部バローチスタンでは、男女ともに歌手であり女性は産婆でもあるドーンブまたはドーム(Domb/Dom)が、それ以外の地では、もともとバローチ族ではないが彼らの宿営地や村落に付随して鋳掛屋や鍛冶屋、大工、雑役などを営みながら楽器を弾き歌をうたう集団ローリー(Lori)が、音楽現場で活躍する中心的存在となっている。彼らは、歳入の大部分を音楽活動から得ていることでプロフェッショナルとみなされる。

 いずれも共同体の周縁に粗末な住居を構え、あるいは仕事道具一つで移動して歩く、非農耕・非牧畜民であり、ヨーロッパにまで流れたジプシーの源流とも見られている。彼らはこの種の職業に従事する人間として、社会的に不可欠な存在であるにもかかわらず、一般に蔑まれる身分に属しているのはこの地でも同様である、彼らの墓が他の村人たちと同じ領域にたてられることはない。したがって出自が明確であっても、自らローリーを名乗る楽士たちはなく、他のバローチ族と同じく本拠地にしている土地の名称などを名前に使い、部族名として広義の「バローチ」を称しているのが現実である。

 総体としてのローリーは、演奏する楽器や伝承する歌謡スタイルの差異によって内部でさらに細分化され、日常的にはそれらの個別名称で呼ばれている。例えば、両面太鼓ドール(Dhol)とオーボエ状の笛スルナ(Surna)からなる二種類の組み合わせで、祝祭の舞踏チャープ(Chap:バローチ族)やアタン(Atan:パシュトゥン族)の伴奏を担当するローリーは、「ドーリー:太鼓打ち(Dholi)」と呼ばれ、最も下位にランクされる楽士たちである。なぜこれらの楽器担当者群が演奏技量に関わりなく差別を受けるのかは、ギリシア神話でアポローンの竪琴(弦鳴楽器)とマルシアスの縦笛(気鳴楽器)が命がけの演奏勝負をしたときの結末が未だに尾をひいている。スルナは二枚リードで鳴る笛だが、笛の構造上どうしても口にくわえねばならず、唾で汚れる楽器である。唾などの体液は精液とのつながりを連想させ、笛吹きは下世話な言い方で「男のモノをくわえている」イメージと重ねられる。一般に趣味で楽器を習う機会にドーリーの楽器を選ぶ者はいない、ラバーブ(Rabab:琵琶)やベンジョー(Benjo:大正琴)などの弦楽器か、太鼓でも小型のドーラク(Dholak)かタブラ(Tabla)を選ぶ。

 ローリーの中で、歌手の総称は「詩(sheir/shair:Arabic)を語る者」の意味で、シャィルパーローク(Shair Palok:Br)、シャーィル(Shair:Br.)、シェィルジャン(Sheirjan:Bal.)であるが、その中でも、英雄たちの叙事詩を臨場感あふれる肉声で聞かせる歌手たちを特にパーラヴァーン(Palavan: Bal)「勇士」の名で呼んでいる(写真1)。文頭にあげたバーラーチの詩は、パーラヴァーンたちの重要な演目の一つである。歌唱者はダンブーラグ(Dhamburag)をギターのようにかき鳴らし、縦型のヴァイオリンであるサルーズ(Saruz)が伴奏のいっさいを引き受ける。彼らの晴れ舞台は、有力な族長たちの会談や祝いの席(Diwan)の余興として、夜を徹して彼らの先祖たちの武勇伝を披露するときであろう。実際、こういう機会で歌を披露すること自体、大変名誉なことであり、名高い族長から褒美を贈呈された記憶は楽士らの勲章になっている。パーラヴァーンは、今は亡きパキスタンの国民的歌手であったフェイズ・ムハンマド・バローチ(Faiz Muhammad Baloch)が頂点を極めたあと、彼のスタイルを受け継ぐ中堅の楽士たちによって現在まで生き続けており、地域的にはカラチからアラビア海に沿って西に広がるマクラーン地方のバローチー語圏で人気のあるジャンルである。今回私たちは、バローチー語が話される港町グワーダル(Gwadar)において、かつてフェイズ・ムハンマド・バローチの伴奏も担当したことがあるサルーズ弾き(Nako Arz Muhammad)と、フェイズの孫弟子にあたる歌手(Muhammad Amin)からなるパーラヴァーンのパフォーマンスを記録することができた。彼らは、パフォーマンスで得た報酬を対等に五分五分の割で分けていたが、楽士の稼ぎも思うほどに少ないものではなく、この場合約二時間の仕事(お茶、休憩付き)で、肉体労働者が朝七時から夕方五時まで働いて支給される日雇い料金の半分にも相当する。

 ローリーの演奏に立ち会う機会はもう一度あった。中央ブラーフィー山脈の山道、パンドラーン(Pandran)という村落への入り口で、楽器をサドルバッグに入れ騎乗して移動中の三人のローリー楽士とたまたま遭遇し、幸運にも記録させてもらった(写真2)。彼らは、昨年度、同じルートにあるニチャーラ(Nichara)部落を訪問したとき、歓迎の演奏を聞かせてくれた楽士とその仲間(Bajo Khan, Ghulam Sarwal, Abdul Satar)であった。彼らの移動は近隣部落なら馬に乗る。遠くへ呼び出されることはまず少ないが、そのような時は車道でヒッチハイクする。今回は、パンドラーン村のサイード(預言者ムハンマドの血を引く家系に属す者、もともと「長老」を表すアラビア語)の家から呼ばれて演奏に来たのである。路傍で、ブラーフィー語でこの地の英雄叙事詩と短いかけ合い歌の演奏を聞かせてもらったあと、サイードの家で落ち合うことにして、私たちはトラックに彼らは馬に乗り込んだ。部落において、族長や政府の地方行政執行官などの有力者が存在しない場合、外交の窓口となるのはサイードや、ムッラーと呼ばれるイスラーム僧である。彼らは、善意や客人歓待の習慣からだけではなく、村人に対して自らの力を誇示するためにも、よそ者や貧者に気前よく振る舞うパフォーマンスを演じる。未知なる部落に立ち入ったとき、まずこの種の人間たちを訪問して仁義をきるのは、その文脈で保護を求めるためである。今回は、全く予告なしの訪問であったにもかかわらず、昼食・音楽会に快く私たちを同席させてくれた。この地における社会構造とローリーの位置について、一つの着眼点を得られた。



 ローリーと違ったパフォーマンス集団としては、ラスベーラ地区(Las Bela)のベーラ(Bela)で見た「ムンガルマーニー(Mungar-mani)」、そしてマクラーン地方の中心地トゥルバット(Turbat)で記録することができた「シェイパルジャー(Sheyparja)」らの歌謡・舞踏グループがあげられる。両グループには幾つか共通点がある。一つは、パフォーマンスの時に舞台の中央に柱のように立てられる駱駝の皮を張ったムンガルマーンとかムグルマーンと呼ばれる大太鼓の使用とアフリカ的なリズム、二点目は集団の成員がローリーとは呼ばれないものの各地域共同体における底辺に位置する職能カーストに属していることである。必ずしも断言はできないが、彼らの中には、人種的にアフリカ黒人または黒人との混血が見られる。アラブ人による奴隷貿易で南アジアのアラビア海沿岸部には、インドのグジャラートからスィンド、バローチスタンにかけて大量のアフリカ人が輸入された。スィンドではシーディー(Shidi)やハブシー(Habshi)、バローチスタン南部ではナキーブ(Naqib)やダルザーダ(Darzada)、ゴラーム(Ghulam)と呼ばれる人たちが彼らの子孫となる。

 ムンガルマーニー・グループの一一人は、ベーラから五〇キロ離れた貧しい村に住んでいるが、地方行政執行官の鶴の一声で、私たちのために連れてこられたのだった。編成は、曲によって交替もするが、リズムの主導をムンガルマーン奏者(写真3)、その他にドール奏者が二人とドーラク奏者が一人、あとはコーラスと手拍子そしてダンサーからなる。徐々に胸が高まるような躍動的なドラムサウンドと強力な手拍子つきの合唱、それらをバックに波の中をかき分けて歩くときのような身振りで踊り続けるダンサー、長いときは九時間くらいは続けてパフォーマンスをすることもあるという。このレーヴァ(Leva)と呼ばれるダンスの見せ場は、ダンサーの肩から背中にかけての痙攣にも見える柔軟な動きである。踊りの身体現象の中で、肩部の運動にポイントを設定するのは現在のアフリカ人とも合致する。

 歌の言語は土地の言葉ラッスィー語(Lasi)とバローチー語、時には地元の人間も判読不可能の言語が混じるという。歌の内容は宗教的な色合いが割合強く、スィンド州のセヘワーン(Sehwan)に祀られる聖者ラール・シャハバーズ・カランダル(Lal Shahbaz Qalandar)の名を唱えたレパートリーが多かったこともシェイパルジャーと共通している。

 シェイパルジャーはケーチ・マクラーン地方を本拠地とする合唱と集団舞踏のグループである。彼らはパンジャーブ州パークパッタン(Pakpattan)で眠る聖者シェイフ・ファリード・ガンジシャカル(Sheikh Farid Ganj-shakar)の信奉者を自認している。グループの中心人物はハリパまたはアリパ(halipa/ailpa)と呼ばれる座長兼主唱者である。ハリパはアラビア語のカリフ(Khalifa)が崩れたかたちで、意味のとおり「神の代理人」よろしくグループの最高権威者である。ハリパは新しいハリパを育て任命する責任を負い、その位は世襲制ではなく技量が基準となっている。メンバーは通常肉体労働や病院などの下働きをしている。中規模の村落に一つぐらいはシェイパルジャーのグループが存在し、人気のあるハリパに率いられたグループは遠くまで興業の旅をする。彼らの演目は、聖者を讃える歌と踊りが中心であり、長旅から無事帰ったり願い事が叶ったりというめでたい席の余興として(縁起物?)、お座敷がかかるのである。私たちはムハンマドという名前のハリパに率いられたシェイパルジャーの延々三時間からなるパフォーマンスを、調査のためイタリアから一時帰国していたバローチ人学者バダル・ハーン博士(Dr.Badal Khan Baloch)と、トルバットの識者タージ・バローチ氏(Dr.Taj Baloch Gichki)の協力により記録することができた。

 満天の星空のもと、広げられた茣蓙の上にはハリパとドール奏者がムグルマーン太鼓を中心に立ち、この中は聖域となる。そこではハリパによって、キサーンクール(Kisankur)という乾燥させた香草の粒が焚かれ、炭ときつい匂いが合わさった白い煙が漂う。この煙は病気の時に枕元で焚かれることから分かるように、場を清浄にし、ジン(Jinn)などの悪精を寄せ付けぬ効用が信じられている。パフォーマンスの開始は「ビスミッラーヒル、ラフマーノー、ラヒーメー(慈悲ふかく慈愛あまねき神の御名において)」というハリパの第一声からである。両肘を押さえるように前に腕組みしてこの合図を待っていた踊り手たちは、ハリパに対して横一列に並んで向かい合っており、同じ歌詞を復唱しながら前後ステップを繰り返したあと方向を変えると聖域の周囲を左回りに歩き始める。ハリパやドール奏者たちは列とともに同方向について歩き踊り手たちを鼓舞する。テンポは徐々に速くなり、歌いながらの踊りとなる(写真4)が、これらのペースを作るのはムグルマーン奏者をはじめとする太鼓奏者たちの役目である。舞台から少し離れた暗闇の中から、屋敷内の婦女子らが大勢見ていたのは印象的であった。

 以上は、本年度の踏査から垣間見た楽士たちの生業の側面である。現時点では、「バローチスタンの音楽的世界」について本格的に取りかかることは時間的にも無理があり、今後の補足調査に先送りすることとなった課題のリストでもある。私個人としては、アフリカン・パキスタニーに対しても文化人類学的興味は尽きないが、フォークロアの人間国宝的な存在である老ローリーたちと行動をともにして、歌い語られる「山国バローチスタン」の英雄たちの活躍を記録するだけでなく、楽しめるようにさらなる努力をすべきであると痛感している。ドーム、ローリー、シーディーなどバローチスタン音楽の底辺を支える人びとに関する基礎的な情報・知識の集積が求められる分野である以上、現地研究機関、研究者、郷土史家たちとの永続的な協力関係が何よりも大事である。幸い私たちは、理解ある良き協力者たちに恵まれたおかげで、一定の成果をあげることができた。

 この場を借りて感謝の意を表するとともに、どのようにこの成果をバローチスタンにお返しすることができるのか考えているところである。

 

 Numa Bhaz Bhaz Mehrbani ki Nana Karemna Madat-o-Kumak Karenure.

 Shomay baz baz Mehrbani ki May Kare Kumak Kurtagit.




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