報告1 古代史の中のマクラーン、バローチスタン

前田龍彦

 前五二二年、アケメネス朝ペルシアの帝位についたダレイオス大王は精力的に遠征を繰り返し、広大な版図を支配下に収めた。そして、ベヒストゥンと呼ばれる大摩崖碑文に、自分が帝位に登ったいきさつやみずからが従えた国々のことを刻ませた。

 その第一欄六に、大王の治下におかれた二三の邦ぐにの一覧があり、その最後に名を挙げられている「マカ」がマクラーンであったと考えられている*1。古代におけるマクラーン、あるいはバローチスタン南部に関する記述は、これ以降、ギリシア語資料に頼らざるをえない。

 

ヘロドトス (伝四八四〜四二〇BC)

 ヘロドトスの『歴史』(III,94)に書き留められた、ダレイオスが制定した二〇の徴税区の中に「マクラーン(おそらくマクル人の国)」の名は出てこない。しかし、第一七徴税区に、「パリカニオイ(人)」と「アジアのエチオピア人」がいて四〇〇タラントン納めたとある。これら二民族はバローチスタンにいたと考えられている*2。「アジアのエチオピア人」については「言語と頭髪の二点以外はエチオピア人と外貌は何ら異なるところがなく」(VII,70)、「皮膚の色は黒い」(III,101) と記されている*3。

 現在、マクラーンからラス・ベーラに至る海岸一帯には「黒人」が数多く暮らしている。今回の調査でも数多くの「黒人」と出会っただけでなく、彼らの音楽資料を採取することもできた。しかし、「東エチオピア人」の髪はまっすぐであるが、エチオピア人のものは「世界でもっとも 縮れた髪」だという。我々が出会った人びとの髪は縮れており、ここに言及された者たちとは異なった。

 また、海岸線一帯は第一四徴税区の「紅海上の諸島嶼の住人たち」に含まれるかもしれない。というのも、当時の「紅海」は紅海・ペルシア湾・インド洋沿岸地域をも含んでいたからである*4。実際に含まれていたという確証はないけれども、興味深いのは、この地区の住人が「イラン高原西部にいた比較的民度の低い遊牧民」と考えられているサガルティオイ、サランガイ、タマナイオイ、ウティオイ、ミュコイといった人びとや、王によって移住させられた「強制移住民」であったからであり、バローチスタンには、現在も自分たちを「クルド」すなわちいにしえの「メディア人」(イラン西部の民族)と関係づける者たち(ブラーフィー)がいるからにほかならない。

 また、バローチでもブラーフィーでもない民族に、「メード」(メディア?)「サングル」(サガルティオイ?)という気にかかる名前をもった民族がいるからである。

 彼らがメディア人と関係するというのであれば、現在イラク北部およびイラン北西部に跨って暮らしているクルド人とどういう関係にあるのか、いつどのようにして別れたものか、その起源をめぐる問題はまったくわからないままである。ひょっとすると、この一節がこの難問解決に一役買うことになるかもしれない。

ストラボン (六四BC〜AD二一)

 彼の『地誌』(XV,ii)によれば、マクラー

ンはアリアネ地方に入る。アリアネ地方は、北はヒンドゥークシュ山脈、東はインドス河、西はカルマニア(現ケルマーン)の東限にいたる広大な地方であり、『漢書』にみえる烏弋山離国であると思われる*5。その南辺を限っているのがインドス河口からはじまってカルマニア地方に達する海岸線であり、アラビス(現ハブ)川を挟んで東にアラビエス(人)、西にオレイタイ(人)、さらにその西にイクチュオパゴイ(魚食人)が住む。マケドニア軍の船隊を率いたネアルコスによると、それぞれの海岸線の長さは一〇〇〇、一八〇〇、七四〇〇スタディオンあるという(ii,1)。

 

 マクラーン地方を史上有名にしているのは、アレクサンドロスの遠征の退路としてであり、これにより多くの直接的な情報が西方世界にもたらされることになった。かつてのアケメネス朝ペルシアの広大な版図を手中にしたアレクサンドロスは、インド侵攻を断念、バビロンへの帰途にあった。インドス(インダス)河口に形成された大三角州の頂点に位置するパタラを発ち*6、アラビオス川を渡ってインド人の住む地域を離れたマケドニア軍は、オレイタイ(人)の国を征服し、現在のバローチスタンに第一歩を標した。前三二五年初旬、西方遥かなバビロンを目指してバローチスタン南部をさらに前進した。

 ストラボン『地誌』(XV,ii,4)によれば、アレクサンドロスは軍を三つに分け、クラテロスに一軍をつけて内陸地方(アラコシアほか)経由で先発させ、一軍はネアルコス指揮下の水軍とし、王みずからも一軍を率いてゲドロシア地方を通過したという。ゲドロシアとは「イクチュオパゴイの地方より上の方」にあり、「インド地方ほどではないものの、ほかのどこより暑く、夏以外には収穫物も水も乏しい」地方である(ii,3)。そして王がこの条件の悪い退路を選んだ動機として、「セミラミスはインド族の地方から敗走し二〇名ほどの部下とともに命拾いしたし、キュロスのごときは部下七名になった、というたぐいの評判が世間に広まっているのへ挑戦した」のであって、「これほどの大軍を率いながら両者と同じ地方を無事に通過し、しかもその途中で上記の種族にも勝利を収めることができはすまいか、と思った」(ii,5)と語られている*7。

 セミラミスとは、シリアの女神デルケトの娘で、二番目の夫にアッシリアのニヌスをもち、バビロン市の創建者とも考えられていたなかば伝説的な女王であり*8、キュロス(五五九・五二九BC)は広大な領土を取り込んだアケメネス朝ペルシアの初代帝王であった。

 クルティウスによれば、王がこのふたりこそ「その心ばえの高邁と、功業の華々しさという点で、他にはるかに抜きんでた人物」と考えており、誰よりまして尊敬していたという*9。この両者を「超える」ことはアレクサンドロスにとって名実ともに「偉業」であった。しかし、バビロンへ向かうアレクサンドロスの一軍がとった道筋については、まだはっきりと跡付けされてはいない。

 

アリアノス (二C.AD)

 アリアノスは、陸路バビロンを目指したアレクサンドロスにかかわる『アナバシス』、沿岸沿いに海路をとったネアルコス率いる船隊について記した『インディカ』の二書を著している。前書によれば、ヘーパイスティオンにオレイタイ最大の村ラムバキアの築城整備を任せたアレクサンドロスは「ゲドロシア人とオレイタイの境界へ向けて」発った。そして次のように報告されている。「〔ゲドロシアへの〕通り抜けは狭間になっていて、ゲドロシア人とオレイタイは一緒になり、アレクサンドロス率いるマケドニア軍阻止のため峡谷の手前に野営した。彼らは実際に集結したが、王が近くにいるという知らせを聞いて、彼らの大半が峡谷から逃げ出した」(VI,xxii,1-2)という。この条は、王がオレイタイの土地からゲドロシアへ向かったときにとった道の特徴を伝えている。つまり、境界は隘路になっており、しかもそのすぐ手前に人びとが集結することができるだけのちょっとした開けた土地があったということである。

 それから先「アレクサンドロスはガドソロイの土地を悪路伝いに、糧秣にもこと欠きながら進んでいった」が、それも「海からかなり隔たったところを踏破しなくてはならなかった。しかもなおアレクサンドロスとしては何とか海沿いの土地を進んで、あちこちに港があるのを確認し、道々艦隊のために井戸を掘ったり、どこか適当なところには交換市とか船泊まりを設営するなどして、できるかぎりの準備をしておいてやろうと一生懸命であった」(xxiii,1)という。しかし「ガドソロイの土地の沿岸一帯はまったくの砂漠であった」(xxiii,2)。さらに、偵察に出たトアスの報告によれば、彼が出くわした漁民たちの住む小屋というのは「貝殻を塗り固めてこしらえ、屋根も魚の背骨を利用して葺いたもの」(xxiii,3)であった。そのうち「穀物にも比較的恵まれたところ」までたどり着くと、徴発した物資を海まで運搬するよう命じたが、「宿営地にまでも行き着かないうちに」(xxiii,4)、飢えにひどく苦しんでいた警護兵らによって平らげられてしまったという。

 さらに前進を続けたアレクサンドロスは、オレイタイの土地を発ってから六〇日かかって、ガドソロイの首邑プラにたどり着いたという(xxiv,1)。「噂」に違わぬ艱難辛苦の道のりであった。しかし記述はきわめて簡略であり、アレクサンドロスのとった退路をはっきりと特定できるような記述はどこにもない。

 ホルディッチ(Holdich)は、オレイタイとゲドロシア人がアレクサンドロスの進行を阻止しようと集結した場所を、ポル川源流域に求めた。そこからヒンゴル河口に下り、ヒンゴル川を遡ってパルキーニー流域を経てオールマーラにはいったとする。

 これに対しスタインは、ホルディッチのいう道筋を実際に歩いてみて、荷役の動物にはむかないほど道は狭く、また付き従っていた多くの女子どもには険しすぎるという理由で、ホルディッチ説に異議を唱える。そして彼の出した結論は、ラムバキア(現ベーラ)*10を発って西へ向かったアレクサンドロスはベーラの西、ウェルパットからハラ(Hala)山脈を越え、ヒンゴル川上流の平地ジャウ(Jhau)を経てのち、山間を流れるヌンダラ川を渡り、アワーランあたりで広く開けたコルワ(Kolwa)盆地へ入った。さらにそこから広々として豊かなケーチ(Kech)川・ダシュト(Dasht)川流域が造り出す回廊内を導かれるようにトゥルバットに至り、そこから海岸の町パスニーへ下って、ここからグワーダルまで海岸線をたどったのち、内陸にある首邑プラに至った、というものであった。スタインは、プラの位置をイランのバンプール〜イーラーンシャフルあたりに求めている。スタインがこの行路を選んだ理由として、上述の「女子供が付き従っていた」(xxv,5)ことだけでなく、不毛な沿岸部には大軍をまかなえるだけの食料がまったくないと考えたのである。

 しかし、スタインの説では、動機として語られているセミラミスやキュロスの物語が生まれることはなかったであろう。そればかりか、アリアノスが「あらかたは砂漠である」(xxii,3)「何とか海沿いの道を進んで、あちこちに港があるのを確認し、道々艦隊のために井戸を掘ったり……船泊まりを設営した」(xxiii,1)といっていることと符合しない。あるいはまた、ストラボンの記すところとも一致しない。

 今回の調査では、トゥルバットからケーチ川に沿ってサーミの東方わずかなあたりまでしか行かれなかったが、そこには荒れ地もあるものの、わりあい豊かであり、「砂漠」と呼べるものはみられなかった(写真1)。おそらくこのような景色が東方奥深くにまで続いているものと思われる。となれば、スタインの示した道がたどっているのは、「あらかたは砂漠であった」とは言えないのである。

 これに対し、沿岸部には砂丘がみられただけでなく、パスニーに入る手前では太陽がかすんでみえるくらいの砂嵐にも出会うほどであった。またストラボンによれば、王の軍勢がたどった道は「ほとんどのところでは海から五〇〇スタディオンも離れたあたり」であったが、再三「海に接した進路をもとった」といい、さらに「岬になったところは道もなく岩がちで険しかった」という。スタイン説では、この岩がちであったという岬を越えるルートをまったくカバーしていない。

 また、五〇〇スタディオンというのは、九〇q(一スタディオン=一八〇m)である。しかし「一日あたりの行軍距離も二〇〇・四〇〇スタディオンから時には六〇〇スタディオン」(ii,6)にもなったという。六〇〇スタディオンといえば、一〇八qにもなる。この一〇八qというのは、一日一五時間歩いたとしても、一時間あたり七・二q歩かねばならない距離であり、もし普通の速度、つまり一時間あたり四q歩いたとしたら、二七時間もかかる距離である。

 アリアノスが「深い砂が造りなした小高い丘に行き当たりでもすると……柔らかな雪の中に踏み込んだように、身体が砂の中へめりこむのだった」といっている砂漠を、荷車を引き、武器甲冑を携えての行軍で、このような数字が可能であったとは思えない。どう多く見積もったところで、一スタディオン=一〇〇m以下であったと思われる*11。すべてが「感覚的な」数字でしかないけれども、マケドニア軍が通った道は海から二・三日のところ、あるいは条件がよければ一日で到達可能なところであり、上述の「実距離」を考慮するならおそらく海から五〇q以内のところであったと考えられる。この条件もまた、スタインの説にはまったく当てはまらないものである。

 さらに「雨は〔ゲドロシアの平野部より〕もっと北の高地帯で山脈のすぐそばにあたる区域に降り、河川があふれるから海に近い平野部も水に潤い水場でいっぱいになる」(ii,3)とあることから、ゲドロシアの平野部はマクラーン沿岸山脈より北側であったとは考えがたいのである。アリアノス(xxv,4-5)によれば、「ある夜軍勢が、いまはわずかな水しか流れていないが、雨期になると出水をみる川の畔に露営したことがあった……夜中の第二刻頃降った雨のため川が突然増水して膨れ上がり、鉄砲水となって押し寄せた結果、軍に同行していた女子供大多数の命が奪われ、王のための行李も……押し流されてしまった」といい、また「雲は山々の頂を越えてゆかずにその手前側で雨を降らせる」ともいっている。

 すなわち、軍勢は内陸のケーチ川・ダシュト川流域と海岸地帯とを区切っている山々の頂よりも南側つまり海岸側を行軍していた時期があるということである。このことは、スタインの示した内陸説があり得ないものであることを示していよう。

 おそらく、オレイタイとガドソロイの国境は現在のラス・ベラとオールマーラ地方の行政分界と同じであり、その南端が海に突き出たマラン岬であった。このことは、アリアノスの『インディカ』(xxv,1)にマラナ(マラン岬)は「オレイタイの土地のはずれ」にあると記されていることからもはっきりしている。しかし、ここは山脈が海岸までのびているために沿岸を進むことができない。そこで、アゴルからヒンゴル川*12を少し遡り、マラーンを経由し(写真2)、ブジー峠を抜けてマニージ川に沿って下りオールマーラ*13に至ったと思われる。すなわち、スタインが最初にオールマーラへ抜けた道である*14。この道をとれば、峠という「道もなく岩がちで険しかった」「隘路」があり、「多くのものが身を置くことができる」だけの開けた場所もある。

 スタインが報告しているように*15、道に沿って印欧電信局の電線が敷かれていたことから、近年、人が往来した道であったことは確かであり、古来の道筋であった可能性もある。ここからオールマーラの海に出た王は、「海に大きく突き出た、高く険しい*16」オールマーラ岬(Ras Ormarah)の北側を迂回せねばならなかったと思われる。そしておそらく「海から遠く隔たった」山の南の端に沿って西へ向かい、ラムブラから少し内陸に入って山を越え、パスニー*17へ出た*18(写真3)。そしてパスニーから良港グワーダル*19(写真4)へは海沿いではなく、山の中を通ったと思われる。



 今回の調査でも、海岸に近い道は状態が悪く使えないということで、カッパルから北へ大きく遠回りして山中を進まねばならなかった。言い換えれば、山中にも古道が存在していた証となろう。この道は以外と広く、険しいものではなかったが、水はまったく見あたらなかず、パウダーのような砂が舞い上がる道の連続であった(写真5)。

 残念ながら、昨年度と今年度の調査では、ヒンゴル川から西、オールマーラ、パスニーに至る地域を未踏査であり、この間の地域に関しては地図に記された情報を読むしかない。

 

 アリアノスの『インド誌』には、マクラーンに関する興味深い記述が二つある。それは「大魚」(xxx)と「魚食人」(xxxi)についてである。

 

大魚

 外洋には、まるで旋風の力で巻き上げられでもしたかのように、水を海から吹き上げる化け物のような大魚が棲息しているが、中には、岸辺に乗り上げたまま、あるいは陸に打ち上げられて死んで腐ってしまうものがあり、その残った骨を人が住み家をつくるのに、あばら骨の大きいものは梁材、小さいものは埀木に、顎の骨は出入り口に使われるというのである。グワーダルで我々の宿となったモーテルの前庭には、そこより四〇q余り西に位置するジワニーに打ち上げられていたという鯨の骨がおかれており(写真6)、ネアルコスの見た光景を彷彿とさせてくれた。

 

「魚食人」の伝説

 本土からおよそ一〇〇スタディア離れたところに無人の島がある。この島にはネレイデスの一人が住んでいた。この島に近づく男という男は誰彼の別なく彼女と交わる仕儀となったが、その上で彼女は相手の男を人間から魚に変えて海に投ずるのであった。

 太陽神は、この彼女に不快を覚えて島から立ち退くよう命じた。彼女は自分ゆえの災難の解消を乞い、太陽神はその願いをいれ、彼女によってこれまで魚に変えられていた者たちをもとの人間の姿に戻してやった。「魚食人」の種族はその彼らにはじまるというのである。

 この舞台となった島が、オールマーラとパスニーの中程に浮かぶアストラ島*20である。別の箇所では、そこは太陽神の聖地で、島の名はノサラといい、「近づいた者は神隠しにあう」という(xxxi)。またカルニネ島とも呼ばれている(xxvi,6-7)。

 現在この島は、昨年調査したヒングラージに次ぐヒンドゥー教の聖地となっていて、ハフトラール島と呼ばれている。今回パスニーでおこなった聞き取り調査によれば、島には七つのヒンドゥー教聖所があるという。島に渡ることはできなかったが、幸運にも、パスニーからカラチへ戻る飛行機の窓を通してこの島の姿を目にすることができた(地図参照)。右上にわずかな砂浜が見えるが、それ以外は断崖絶壁となっているのがわかる。プリニウスがこの島が「ニンフの寝床」とも呼ばれていたことを伝えているが*21、まさしくその名にふさわしいものであった。

 



《注》

*1 この一覧に関しては、『古代ペルシア』二二―二三頁参照

*2 『歴史』三四八頁註一三参照

*3 肌の黒さは、「南方のインド人とも同じ色」である。

*4 『歴史』III93。「紅海」の範囲については同書三四八頁註九参照

*5 巻96上、西域傳66上。大ブリニウス(23/4 -79)はこの地域を「アリアナ」と呼んでいる(『自然博物誌』VI,93-98)。

*6 パタラは現在のハイデラバードに同定されている。しかし、アレクサンドロスは航路を見極めるため、まず「パタラの周辺で〈二本の〉巨大な川に分岐し……海に至っている」(xviii,2)インドス河の「右手の川筋」(xviii,4)を河口まで下り、パタラに立ち戻ったのち、今度は「別の河口を大洋まで」(xx,2)下ってパタラに引き返しており、ハイデラバードでは河口からあまりに遠い気がしてならない。さらにパタラは三角州の「島」(xviii,3)であったこと、「パタラから四〇〇スタディアで、海風に磯の香りが感じられるようになった」(クルティウス IX,ix,6)ことなどを考えあわせると、パタラをハイデラバードに求めるよりもタッタあたりに求める方がよいと考える。

*7 同様の話がアリアノス『アナバシス』(VI,xxiv,2-3)にもみられる。

*8 The Oxford Classical Dic ionary,`Semiramis'

*9 Quintus Curtius,VII,vi,20. 訳文は、『東征記』註一四二から引用した。

*10 町を載せたマウンドの高さは遠くからでも認められるほどであり、その東と南側をナッラク川が限っている。

*11 ネアルコスの用いたスタディオンについて、ノイベルトは「一〇〇m未満」と推定している。『インド誌』(大牟田)註一〇八参照

*12 『インド誌』(xxiv,1)にみえるトメロス川に同定されている。

*13 その東入り江は同書(xxvi,2)のバギサラに同定されている。

*14 シュトラスブルガーの説に同じである(大牟田、註一二六参照)。

*15 Stein,p.204

*16 『インド誌』(xxvi,2)、オールマーラ岬に同定されている。

*17 同書(xxvi,8)のカルビスに同定されている。

*18 シュトラスブルガーは、バソル川沿いにコルワ盆地へ北上したとする(大牟田、註一二六参照)。

*19 同書(xxvii,2)のバルナに比定されている。

*20 プトレマイオス『地理誌』(VI,xxi,6)に、「ゲドロシア近海の島」としてアスタラ(Asthala)の名がみえる。

*21 プリニウスは、この島が「太陽の島」とも「ニンフの寝床」とも呼ばれ、「すべての動物が例外なく死ぬ」島と記している(『博物誌』VI,97)。また、ピロストラトスは「聖なる島であり、ネレイスの住処」である島セレラ(Selera)を記している。

 

《主要参考文献》

アリアノス『アレクサンドロス東征記』(大牟田章訳)東海大学出版会(『インド誌』を含む)

ストラボン『地誌』

プリニウス『博物誌』

ヘロドトス『歴史』上・中・下巻(松平千秋訳)岩波文庫

Quintus Curtius, History of Alexander, trad. by J.C. Rolfe, Loeb.

Holdich, A retreat from India, p.118

A. Stein, An archaeological tour to Gedrosia, 1931

A. Stein, On Alexander’s route into Gedrosia : an archaeological tour in Las Bela,

The Geographical Journal, Vol CII, nos 5,6(Nov.-Dec. 1943), p.193-227


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