1996年・春 バンコク
王と僧の都に二大学とスラムを訪ねる

和光大学総合文化研究所C系 「高等教育の総合的研究」チーム

Release: 1998.06.16


本文にある通りこれは、研究所のプロジェクトチームの一つ、略称「高総研」が1996年3月に行なったタイ大学訪問の報告書です。研究所の規定によりこの年からチームごとに印刷物が出せなくなったため、原稿のままになっていました。これも内規により同チームが同年度で解散したあとを承けて、「アジアの教育−研究と交流」チームが96年11月に発足しましたが、その源流は明らかにこのときのタイ訪問にあります。そこで、いわば「アジアの教育」プロジェクト研究の前史として、保存版を作っておくことにしました。

(1997年6月)

1.はじめに − なぜタイの大学か

わが共同研究グループ「高総研」(別名「入門研」「授業研」)の外国大学訪問も、これで4カ国目になった。和光大学教員有志10名ほどから成る自主的な研究組織で、1986年の発足以来、主な研究領域は二つある。授業参観法(大学段階では珍しい)を用いた大学授業の研究と、国内外の大学訪問調査とである。後者は、国内では毎年数校ずつ沖縄から北海道までのべ50大学余の訪問をし、93年度からは外国の大学にも手を広げた。変革期にある日本の大学のあり方を考えるには、国内諸状況の把握と並んで、わが姿を映すいわば鏡として他国の様子も知ることが、有効と考えたからである。
そこで日本と関係の深い国々から始めるのが順当、ということになり、まず中国へ、翌年にはアメリカ、3年目は韓国、と歩を進めた。第4の訪問国はとなってわれわれは、これまでとやや趣の違う東南アジアの国、タイを選んだ。
なぜタイか、の理由はいくつかある。まず最近アジアの国々の経済的発展が急速で、そうした成長真盛りの国で大学が果たす役割を実見したい、ということである。それだけなら該当国のどれでも良さそうだが、すでに行った中国と韓国が東アジアだから、その先の南方へとねらいをつけた。となると、ASEANの代表国の一つであるタイあたりが、まあ妥当だろう。第2に、中国、韓国が近代日本の侵略相手でいろいろ苦い思いの残る地域だったから、今度はかつて同盟関係にありその意味で対等公平につきあえそうな国を、ということである。第3は、タイが今も王権の安定した国で、天皇制が保たれている日本と、世界中でそう多くはない共通点を持つからである。
ところがそう決めて準備を始めてみて、まず突き当たったのは日本におけるタイ情報の乏しさだった。アメリカに関する情報は多すぎて選択に困るほどだったし、韓国もメンバー中に共同研究相手を彼地に持つ者がいて、訪問先の大学との連絡はスムーズに行った。情報ほとんどゼロで海を渡ったのは初年度の中国だが、大学所有の宿舎に泊まれたのを幸い、着いてから訪問の交流をするなどして、ぶっつけ本番でも何とか三大学やれた。タイに関しては、企業進出やビジネス関係の実用書はいっぱいあるが、教育状況やまして大学に関する本は乏しく、訪問先を頼めるツテもない。日本でのアジア情報の偏りを実感することになったが、今さら文句を言っても始まらない。中国の経験を生かせば、何とかなるだろう、と肚を決めた。
そこで考え出した新しい方法は、次のようである。タイのいくつかの大学に日本語科があるから、そこに勤務する日本人あるいは日本に留学経験のあるタイ人の教員の名簿を手に入れて、めぼしい相手に直接電話する、という大胆なやり方である。ところがなかなかつながらなかったり、旅行中とかすでに日本に帰った(数年契約で交替するのが一般的とあとで知った)など続出で、ようやくタイの代表的な国立大学2校と連絡がついた。前記第一の目的にはまあ合うかな、とこれでスタートすることにした。
これまでの各国でもやってきた通り、正式の依頼状に訪問月日や予定人数、さらに「お聞きしたいこと」5項を英文で書いて、先方へ送った。
1)学生の動向について。社会階層、卒業後の進路など。
2)学部教育のシステムやカリキュラムについて。日本語教育を含む。
3)大学教育の質を高めるために、大学当局あるいは先生方はどのような努力をしていられますか。
4)学生による授業評価について。
5)もし授業をいくつか参観させて頂けるとありがたいのですが。
結果論だがこの旅には、当初予想もしなかった第3の訪問が現地で実現でき、思いがけない大きな収穫となった。それは発展盛んな国に必ず生ずるといっていい取り残された貧しい人びとのための、民間の財団と日本のNGO団体による教育施設である。国立二大学は社会最上層のエリート養成機関だから、対照的に底辺層の人々の生活と教育の状況を見ることができ、それを助ける日本を含む国際的なボランティアの活動状況に、直接触れることができたのだ。
この民間教育施設の所在地がタイの首都バンコクの港に近い地域だったし、国立二大学は都心あたりにあったから、結局われわれの行ったところはバンコク市内とその近郊に限られることになった。発展真っ最中の国はどこも同じだが、首都やそれに次ぐ都市への人口集中はすさまじいほどだ。居場所を見つけ損ねた人々が集まるいわゆる「スラム」は、タイでは数百カ所に及ぶという。また増える車に道路の整備が追いつかず、至る所での交通渋滞はこれまでにわれわれが訪れた各地、上海やソウルやサンフランシスコのそれらにまさるものだった。本当は地方の農村なども訪れたかったが、それは次の機会にゆずるほかはなかった。

2.国立大学は社会の指導役、 しかし問題も

1、に述べた通り情報不足のまま行くことになったから、行く先々で質問して得た情報を合成して、タイの現在の大学の全体像をわれわれ自身で作り上げるほかはなかった。だから数字的な正確さを欠いた大体のところだが、現在タイには大学は全部で約50校、うち四年制と二年の日本でいえば短大はほぼ半々で、四年制大学のうち国立大学は約10校という。タイの全人口は5千万人余だから、多いとはいえないし、しかもその大半がバンコクとその近郊に集まっているとのことだった。

<「タイの東大」チュラロンコン大学>

その頂点に立つのが、最も古く1902年創立のチュラロンコン大学だ。行ってみるとバンコクの王宮その他から少し東南に行った市内中心部に、パヤ・タイ通りをはさんで広がる広大なキャンパスは、南国らしい緑にみちていた。
「明治大帝」に似た創学百年
略してチュラ大は、ラーマ5世が創立した最初の国立大学である。タイの現王朝は1782年以来二百年余りで、現九世まで同じ「ラーマ」に背番号がついている。中でも中興の祖といえるラーマ5世は英邁な君主で、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、アジア各地に欧米列強の植民地化圧力が増すなかで、巧みな外交と思いきった国内の近代化政策とで、タイの独立を守り抜いた。国立大学の創設が、そのための人材育成を願ってのことだったのは、疑いない。ちょうど年代も重なるし、明治初年に幕府の学問所を元に創学された東京帝国大学と、似た面を多分に持っている。
創立時の十数年は文理、政、工、医の4学部だけだったが、次第に学部が増え文理は分離して、現在は16学部、これも東大と見合う堂々たる総合大学である。学生総数は約2万2千人余、うち学部生は1万6千人余、院生のうち博士課程は二百人余と少ない。各学部の中はこまかく学科に分かれ、例えば文学部は哲学、歴史、地理、言語学等10学科で、珍しいところでは演劇学科の名も見える。日本語科は10学科の一つである東洋言語学科に属し、他に西洋言語学科もある。
全国共通の学年暦は、日本と大分違っている。新学年は6月で、10月前半までの4カ月余が前期、短い休みが入って同月末には後期が始まる。2月末から3月中旬にかけて期末試験があり、終わると6月上旬までの2カ月余が長い休暇である。日本では一番快適な4〜5月が、何しろ赤道間近の常夏の国だから盛夏、従って夏休みなのである。毎日カンカン照りで、雨はほとんど降らない。6月〜10月つまり、大学では前期が雨季で、連日一時間ほど豪雨が降るそうだ。11月から2月が一番過ごしやすい涼季だが、それでも平均気温26度というから、日本の冬とは大違いだ。われわれの行った3月半ばは、日本でいえば6月末から7月にかけてのむし暑さの感じで、体が暑さに慣れていないためもあって大分参った。なにより夏休みにモロにぶつかって、キャンパスには教員学生とも姿はチラホラ、情報不足をここでも痛感したのだった。

日本語科は女性優位

われわれ訪問団に応待してくれたのは、日本語科の主任をしているという助教授で、40歳を出たかどうかと見える女性だった。さすがに全部日本文のパンフレットを用意していて、テキパキ流暢な日本語で説明があった。
日本語科は、東洋言語学科の中にあって中国語、サンスクリット語、マレー語、韓国語等と並ぶ、日本風にいえば「専攻」で、これを主専攻とする学生は各学年25〜35名ほどである。文学部の94年度学部卒業生は291名とパンフにあったから、10学科の中のさらに1専攻としては、学生が多い方だろう。しかも主専攻(メジャーという)を決めるのは1年後期で、この時期前日本語志望者は英語に次ぐ多さだが、日本語の言い回しの微妙さや片カナ平カナ漢字併用の複雑さに閉口して、結局は半減するという。ふみとどまった者のうち男子は例年数名、と少数である。この教員、学生ともに見られる女性の量的質的優位は、前年までの訪問で中国、韓国の日本語科にも見られた共通の現象である。
日本語科の専任教員は11名で、うち日本人は2名、非常勤教員6名は全員日本人で、この方は年限つきの交替制である。
もらったパンフには、95年度後期の時間割もついていた。縦軸は月〜金曜、横軸は午前8時から午後5時まで1時間刻みの表で、ざっと見たところ2時間続きが多い。基礎日本語、読み方書き方、翻訳、作文、会話・・・・と多彩で、所々に文学史や言語構造論の名もあるが、全体として実用的な日本語の習得が中心と判る。高校までに既習の者は少ないそうだから、4年間で日本語をとにかくマスターすることをめざす、かなりハードなスケジュールなのだろう。卒業論文は課していない、とのことだった。
この訓練が功を奏してか現在の経済情勢の影響か、日本語科の卒業生は日本関連の企業を中心に就職状況は上々で、これがまた志望者を増す要因でもあるのだろう。大学院も近年中にできる予定で、計画が進んでいるという。

政権に近く、しかし多忙の悩み

大学共通の制度や日本語科の話が一通りすんで、当方の主要目的の一つである国や社会と大学との関わりについて、さぐりを入れた。「日本語科以外のことは分かりません」とガードが固かったが、少しずつ何とか話を引き出すことができた。
東大と同様に、チュラロンコン大学の教員には独特の誇りがあるらしい。国立大学の間にも明白な順位があり、私立大学はその下に位置するらしいことが、慎重な言葉の端々から分かってきた。これらを反映して、高校生も優秀な者はチュラロンコン大をめざす気運で、従って受験者の範囲は全国だが、やはり経済的な躍進著しい都市部に偏りがちとのことだ。最近は浪人しても再挑戦する組が増える傾向にあり、予備校繁栄のきざしありと、興味深い話が出てきた。おまけに、チュラ大めざすなら××高校、その一段前は○○中学と、内部のつながりは全くないのに「一流校のハシゴ」が勝手にできつつある、とのことだ。
それでは私立大学に、入試の苦労を避けるエスカレーター方式が生まれるのでは、と質問したら、言下に「全くありません」との答え。タイの大学界では私大の地位は高くないので、そのようにして入学を確保する意味はない、学費は高いし、と彼女はあっさりと言い切った。私大の教員もチュラロンコン大学出身者が多く、やがては母校に花咲くことを求めて精進する傾向がある、との話だった。
その一方で少なくともチュラ大では、教員集団の意思決定つまり教授会の権威は、かなりあるようだ。例えばアメリカ式の学生による授業評価のことは、当方の「お聞きしたいこと」にも入っていた一項だが、これを全科目に実施するか、さらに結果を教員個々の人事にも関わらせるかを、教授会でオープンに議論したという。その結果文学部では、制度化しない決定を下したそうで、他学部と結論が違っても一向にかまわない、という。開発盛んな国にありがちな学長ほか管理者の専権や上意下達の慣習は、なさそうだ。といっても私大などの様子は分からないが。
さらに最近、研究業績や能力重視で、若い人をどんどん要職につける気風が強まってきて、20年ほど前までは一般的だった年功序列式は影をひそめつつある。定年間近の古い型の教員が助教授で、教え子のまた弟子が教授、という例さえあるそうだ。しかしどの学部でも、職員の数が少なくて教員が日常の雑用を兼ねなくてはならない。特に日本語科が属する語学系の学科や専攻では、教育熱心で学生に力をつけることに時間とエネルギーを注ぐ教員が多く、その分自分の研究を進めまとめるのが難しくなり、教授資格者が減る。では教員が連帯して職員増を例えば日本でいえば文部省あたりと交渉すればいいのでは、と言ったら、そう簡単には行かない、と笑って答えられた。
その一方でチュラロンコン大の教員が、政府の諸種審議会や首相の諮問機関などに求められて入り、意見を述べる機会はさすがに多い。聞いた限りでは、日本の大学より多い感じだ。その意味ではタイの国立大学の少なくとも上層部分では、自分たちの研究や識見を国や社会の進路に反映させ示唆指導する役割を、しっかり持っているといえそうだ。しかしそうした教授たちはさらに忙しくなり、先ほど聞いた教員一般のとはまた別の悩みも、あるらしかった。
<「タイの京都大学」か −タマサート大学の活気>

タイで二番目の大学

タマサート大学は、王宮に近いバンコク中心部にある。チュラロンコン大に比べると小じんまりして、色とりどりのタテカンが並び、休暇中ゆえ学生の姿はやはり少ないが、ラフな服装で明るく談笑する姿は、日本でいえば立命館大あたりのキャンパスを連想させる。1934年創学、チュラロンコン大に続く二番目に古い国立大学で、同じように多彩な11学部から成る総合大学だ。学生総数2万人足らず、うち80%が学部学生というのも似た比率である。
しかしここは、王様お声がかりの創立ではない。1932年はタイで民主化革命が起こり、現王朝は続くが前近代的な専制政治だったのを、立憲君主制へと移行した年だ。この体制変革の立役者だった政治家の尽力によるそうで、これ又日本でいえば東京帝大の権威に対抗して、西日本の大学の雄として京都大学が誕生した経緯と似ている。このときの民主化革命の成功を記念する大きなモニュメントが、王宮からもタマサート大からも程近い交差点のど真ん中に、堂々と建っている。政治への直接関与からは退いたが、タイの王制はその後も、というよりいっそう国民の親和の中心として生き続けているという。
ここでは日本語科は教養学部に属し、教員11人でうち日本人は4人、ほかに現地採用の非常勤3人は日本人、という構成はチュラロンコン大とそっくりだ。学生数も1学年30〜35人で男子は少数、英語科に次ぐ人気で、しっかり日本語の実力をつけて卒業したら、日系企業を中心に就職は万全である。大学院を近年中に開設予定とのことも、二大国立大学は共通だ。ついでだが私立大学にも、需要を反映してか日本語科をおく所が増えてきた。しかし多くは最近の設立で、小規模とのことである。

学生の授業評価、学生の気風など

ここでは、今日本でも問題になっている学生による授業評価について話を聞き、実物も見せてもらえた。前後期終わりに全科目実施となっていて、教員人事にも使うというから、アメリカ式に制度化している。A4版の2枚綴りで、前文に続いて11項目が並び、それぞれ5段階評定で○をつける式だ。2枚目は自由記述式で6項あるが、すべてタイ文字なので読めない。続いて渡されたのはある科目の評価結果処理ずみの表で、こちらは英語なので分かる。
見ると担当教員名と科目名の欄は空白で、やはりプライバシーへの配慮なのだろう。受講学生は12人で、1から5までの○の数と、平均に標準偏差まできちんと書いてある。全体に右寄り、つまり良い評価が多い。12人全員が5とした項目が一つあって、「先生は熱心に教えましたか」だ。次に高得点の項目は「分かりやすかったか」と「順序よく教えたか」で、逆に平均点の低い方から拾うと、「質問を促したか」「討論させたか」である。いくら熱心に分かりやすく教えても、学生の授業参加への工夫が足りないと、たちまち評価にひびくということの表れだろう。しかし同種の39科目のうち総平均で3位とあるから、やはり良い例にちがいない。
創立時の事情からも推測される通り、ここの学生は進歩的な気風が強く、この20数年に起こった大小の民主化運動にも参加が多かった。1992年に王宮広場で起こった30万人デモの流血事件のときもそうだったが、今は平穏とのことだ。面白かったのは、国立大学では学生の制服が決まっていて、しかしタマサート大では学生の要求による交渉の結果、試験期間のみ着用義務があることになった、という話だった。もう期末テストがすんで夏休みだから、皆のびのびとラフな私服だったのだろう。

大学の将来を憂える

懇談相手の助教授は、高等学校を出てすぐ日本に留学して教育学を学んだそうで、その年号で数えると40歳近いがそうは見えない、スリムで若々しい女性だった。日本茶を自分で入れてくれたりして話すうち打ちとけて、タマサート大に限らずタイの大学の未来を憂える打ちあけ話をしてくれた。というのは、大学教員の給与水準が低く、同年輩で企業に勤めれば3〜5倍にはなるそうだ。しかもこの格差はここ4〜5年に明確になっただけでなく、さらに強まる方向にある。従って優秀な学生・院生が実務へと流れて、研究を志す者が減っている。このままでは大学の未来が心配、というわけだ。
今いる教員たち自身も内職に精を出しがちで、例えば経営学部なら企業の講師、日本語科だと通訳で、通訳を3〜4回やれば教員1カ月分のカネが稼げる。日本企業のバラまき癖が、罪の一端なのかもしれない。副業に忙しい教員たちは、週三日決まった曜日しか大学に来ず、学生との間も疎遠になりがち、というまじめな嘆きである。日本の文部省に当たる官庁は高校以下とは別の大学庁で、あまりパワーがないので圧力をかけてこない代わり、待遇改善等を訴えてもあまり頼りにならない、とのことだ。こうして話し合ってみれば、日本の大学とも共通なあるいは異なる悩みがいろいろ出てきて、興味深かったしはるばる来た甲斐もあった。

3.スラムの天使と会い、日本人協力者たちと語る

本当は国立大学だけでなく、私立大学それも和光大学と似た規模や成り立ちの所に行きたかったのだが、ツテがなく連絡がとれなかったから仕方がない。とりあえず今回はこれで一応満足することにして、予定の二大学訪問を終えた翌日、日本にいたときは予想もしていなかった第三の訪問にふみきることにした。「はじめに」にも書いたが、大学訪問とは反対に、初等教育からさえ疎外されがちな貧しい人びとに学習の機会を保障しようと、この20年近く尽力している小さな、しかし国際的な組織を訪れたのである。一行にその方面の専門家はもちろん元々関心のある者さえなかったのだが、うち一人がタイ行きを前に予習した本の一冊が、この方向を決める機縁となった。あとで述べる通り上記の組織と関わった日本人が書いた小さな本で、この偶然が今回の旅に予想外の充実をもたらした。
<スラムにおりた鶴の物語>

この教育活動を始めたのは、プラティープという名の現在40代前半の女性で、だからこれも偶然だが大学訪問で知り合った人たちと似た年齢だ。舞台はバンコク郊外、チャオプラヤ河沿いのクロントイ港に面して、日雇いの港湾労働者が多く住む貧しい地域で、タイ最大のスラムと聞いた。

バンコクの熱い恋

プラティープさん自身ここで育ち、父は中国から出かせぎにやってきた漁師、母はタイ人で、8人きょうだいの5番目という。小学校も当時義務だった4年間しか行けず、花火工場や船のサビ落としなどで労働したが、14歳のとき志を立てて夜間中学へ、やがてやはり夜間の師範学校に学んだ。スラムはどこでもほとんど不法居住だから、追い立てをめぐる行政とのトラブルが絶えず、出生届さえしていない子がざらにいる状況だった。
プラティープ嬢は姉の一人の協力を得て、小さな1日1バーツ学校(1バーツは現在4円ちょっとだから、授業料月額百円強か)を作り、子供たちによみかき算術を教えた。垢で汚れた子たちに水浴させ、食事させてからの授業だったという。子供はみるみる増えて百人単位になり、親たち大人たちからもさまざまな生活上の相談が持ちこまれるようになった。追い立てに抗して安い地代で住み続けられるよう、住民たちが自治組織を作る示唆や手助けもしたという。次第に手伝ってくれるボランティアが増えて、小さな灯は光を増した。こうして26歳のとき彼女は、アジアのノーベル賞といわれるマグサイサイ賞の社会福祉部門で、最年少受賞者となった。
このときの賞金2万米ドルを投じて作ったのがドウアン・プラティープ財団で、理事長に当時の首相がなってくれた。マスコミが報道し映画になるなどの効果もあって、国内だけでなく外国からも、寄付や労働の協力が集まるようになった。後者の一人に日本人の秦辰也氏がいて、二人はやがて恋におちる。秦氏は大学時代アメリカに放浪留学したという活動型の人で、大学卒業後普通の勤めをしたが一年でやめて、日本のボランティア組織の一員としてタイに来た。それにさえ賛成でなかった両親は、異国の女性との結婚には当然反対し、二人で数年がかりで説得したという。

5カ月の身重で民主化運動の先頭に

前に触れた92年の民主化要求30万人デモのときも、プラティープ氏は推されて代表7人の1人となった。これに対して軍人出の首相が戒厳令をしき、国軍を出動させて無防備の民衆に発砲して、多数の死傷者が出た。デモの指導者たちはねらわれ、彼女も危なかったが夫の秦氏が日本大使館に交渉して、夫妻共にかくまってもらった。当時次子を妊娠5カ月で、この恐怖の数日を秦氏は、前半の恋のいきさつと同様に、生き生きした文章で書いている。これが秦辰也著「バンコクの熱い季節」(岩波書店、同時代ライブラリー、1993年)で、私がタイの予習にと読んだ本の一冊に、たまたま入っていたのだ。
長男はその4年前に誕生し、一空という名だ。タイ語でイッサラは「自由」の意で、漢字で書けば「世界の空は一つ」の意味にもなる。流血事件の責任を負って軍人首相が辞任した後の秋に、次男は無事生まれた。今度は民文(タイで「崇高な徳」の意味)と名づけた。
<協力者たちと語り、やがて本人にも会えた>

そんなわけで全く突然の一方的な訪問だが、スラムと財団の様子を直接見て、誰か関係者の話でも聞けたらいいし、好運なら夫妻のどちらかと会えるかも、程度の軽い気持ちで訪ねることにしたのだった。位置さえ定かには知らなかったが、ホテルのタクシー係は財団の名も場所も知っていたし、乗ったタクシーの運転手は、「すばらしい女性です」と誇らしげに言った。当地では有名らしい、と日本での情報の乏しさをまた痛感した。

夫妻は不在、しかし

大きな仕事の割に小じんまりした質素な建物が、財団本部だった。事務室らしい窓口で聞くと、秦氏は例の国際ボランティア組織の仕事で日本に滞在中(曹洞宗国際ボランティア会といって、あとで知ったが日本では歴史も古く規模、実績とも五指に入るNGO団体で、秦氏はこの年本部の事務局長)、プラティープ氏も不在だった。窓口のタイ女性が親切に秦家に電話してくれて、あす子供たちが日本の祖母の家に行く(イソラは小学生で、やはり夏休み)準備で病院に連れていって留守、とのことだ。残念だがあきらめて、名刺の裏に来意を書いて託すことにした。
窓口の女性はさらに親切に、財団関係の小さな図書館その他が少し離れた所にあるからごらんになりますか、と進んで案内してくれた。そこの事務室に思いがけず日本の青年がいて、話を聞くことができた。秦氏と同じ組織(前述した略号SVA)から5人ほど来ているうちの一人という。さっそくたずねたら在タイ5年だそうで、有給とはいえ半端なボランティアではない。図書館は1バーツ学校の当初以来で、子供たちが絵本を手にし童話をよみきかせなどする中で、自然に読むことの楽しさへと導くという。棟続きに保育園もあるが、休みなのか昼寝の時間か、子供の声はしなかった。
大人向けに印刷や縫製の技術を教える施設が別棟にあるし、タイ北部の少数民族居住地には分室があって、技術を教えるだけでなく識字学級も開いているという。そうしたへき地の小学校を建てたり修理したり、本を送る仕事もやっている。こう話が広がると、財団でなくSVAの方の仕事らしいが、当方としては別に区別して聴く必要もない。そのうち、カンボジアの名が出てきた。彼地にも同系の活動拠点があって、そこでは内戦で破壊された生活や教育の面倒をみるのが中心になっているという。
礼を述べ今後の活躍を願う旨を伝えて、本部に戻った。事務の女性の説明によると、この本部の建物は1994年、日本を含む数カ国の資金協力で、それまでは今にも崩れそうなボロ家だったのを建て直したそうで、玄関のプレートに寄付者たちの名が刻してある。落成式には王女も来られた、と誇らしげだ。中に入ると、タイ風に壁や窓ガラスのほとんどないあけっ放しの広い部屋に、素朴頑丈な机が並んでいる。ここで会食や小集会をやるそうで、あす予定されているのは、ある自治組織に外国の某市から消防車が寄贈される記念式だそうだ。
壁いっぱいに、子供の描いた絵やいろいろな写真が貼ってある。その一つを指して、聴覚障害児たちによみかきを教えている授業風景だ、と説明があった。ヒゲの中年男性の写真は、ボランティアの人権弁護士で、法律万端の相談に応ずる役だ。そこへ絵の教師という女性が現れて、壁の絵をいとしそうに説明してから、資金集め用に作ったという子供や画家の絵をのせた画集をくれた。
次の一室は、さっき聞いた印刷や縫製の成人生徒たちの作品を展示即売するコーナーが並んでいる。「タイの貧しい子供たちのために」と胸に日本語で印刷したTシャツが、目を引く。われわれも絵はがきなどを買い、また今日の訪問の記念にと、少額ながら寄付をした。
事務室で一休みしていると、三歳くらいの男の子を連れた若い女性が来た。「日本の方ですね」と互いに見分けて、あいさつし合った。日本から社用で赴任滞在している家族の一人で、近く帰国することになったので、その前にタイの子の里親になる手続きをしにきた、という。貧しい子供たちに奨学金を出す里親事業もここでやっている活動の一つで、もらったパンフには、「おかげさまで勉強できた」「就職しました」等の文を添えて、賢そうな少年少女の写真数葉がのっていた。係というタイ女性は、下肢障害者だが日本語を話せて、これまで里子約2千人、日本の里親はその約40%を占める、と説明してくれた。

プラティープ氏本人と会い、スラムも見る

事務の若い女性は親切で、もう一度プラティープ・秦家に電話してくれた。幸い戻っていられて、他の用事もあるのでまもなくこちらへ向かう、とのこと。大喜びで待つうち、近いと見えて車が着いた。まず男の子二人が世話する人らしいタイ女性と一緒に降り、あれが一空と民文君ですよ、と指して教えてくれる。続いてスラリと降り立ったのが、写真で見覚えのあるプラティープ氏だった。
結婚して十年ほどになるから日本文も読めるかと、さっき託すはずだった名刺を渡したが、あまり解されないとのことで、英語での会話となった。大らかにこやかで、さすがにこれだけの仕事をされる人物、と納得できる女性だ。滞日中の夫のもとへと、「去年は4回」日本に行った、と微笑して話される。妻、母、そして嫁としての役割も、さりげなく果たされているのだろう。多忙な人に長話はお邪魔と控えて、まもなくおいとましたが、事務の女性に街までタクシーの手配をと言い、暑い日ざかりの中を見送りに出てくださった。握手した手が、大きくて温かかった。
タクシーとは名ばかり、古びた四輪小トラックの荷台に幌をかけ、粗末な座席をつけただけのしろものだ。ついでだが三輪に座席を乗せた通称トゥクトゥクは、タイのタクシーを代表する親しみやすい乗物で、運転者の好みらしいさまざまな原色で模様や絵が塗りたくってある。気に入って、度々乗ったものだ。
せっかくチャオプラヤ河まで来たのだからと、港の方を回ってもらうことにした。道が意外に手前で回るため、海はチラリとしか見えなかったが、これも望外の収穫は、スラムの中を通ってしっかりその実状を見ることができたことだ。財団の施設のあるあたりは、道路が広く家々も普通で不思議な感じがしていたのだが、運転手の話では世界中からの来客に配慮したらしい、「モデル街」だそうだ。海沿いのあたりは、今にも崩壊しそうな古材の小屋がもたれ合い支え合うようにびっしり建ち、奥の方へも何重かに重なっている。通りに面した小屋々々は小さな棚にわずかな品物を並べているから店らしいが、バンコク市内の観光客の行くあたりとは比べようもなく、おそらく当地住民同士の細かい商いなのだろう。どの小屋も床は地面そのままのようで、犬も一緒に寝そべり、裸ではだしの子供たちが群れていた。
小トラ・タクシーは、土埃を舞い上げながら小屋群の間の細道を走った。

4.タイ社会あれこれ この旅で学んだことのまとめ

昨年までの外国調査行ではいつも、主目的である大学訪問の成果について書き終えたあと、半ば気楽に個人的な見解や感想を、つけ加えてきた。タイでは準備不足情報不足で、大学調査自体はかなり手薄だが、3に書いた思わぬ収穫があり、初めて見聞きしたことの印象もあれこれと強かったから、やはりオマケとまとめを混ぜたような文章を自在に書いて、終章としようと思う。しかも最後に述べる通りこの旅は、われわれの十年にわたる大学教育研究にゆるやかで自然な転回を生じた、重要な契機といえるからである。

女の国

これまで国内国外合わせてのべ60大学余を訪問したが、懇談相手はどこでも男性、それも年輩の地位の高い人たちだった。学部長学科長などが出てくださるのでまあ当然だが、女性が一人まじることさえ稀だったのだ。今回に限って全員女性、それも40歳を超えるかどうかの若い人ばかりだったのは、異色といえた。今回の訪問が日本語科ねらいで、この科の教員に女性が多いから、これも当然である。しかし彼女たちは、依頼をひきうけた責任を誰かに移したり分けて軽くしたりせず、しっかりと受けとめて応待してくれた。大学外で会ったプラティープ氏も、世界の善意熱意を受けとめる責任者として、堂々と行動していた。しかもだからといって彼女たちは、尊大だったり上から人を見る目線ではなく、そろってやさしく大らかな態度で終始したのである。
日本語科に限らず言語関係の学生に女子が多いことは、ほぼ万国共通といっていい。チュラロンコン大では学生の半数近くが女性、教員にも多いと聞いた。女性の社会的地位は、と思わずたずねたら、タマサート大の助教授はにっこりして、「元々タイは女の国です」とさわやかに答えた。首相とか社会の要職は男が占めるが、タイの女性は働き者で、その分発言力がある、社会を支えているのは女性です、と。共働きも、メイドをおく習慣が今も一般的ゆえ大丈夫、というのである。
しかしそれなら、女の発言力はある階層以上で、メイド自身は下層のいわば奴隷的労働ではないのか。そこまでつっこんでは聞けなかったが、私の予習した本の中に赴任家族向けの「タイ生活辞典」ふうの一冊があって、メイドの雇い方遇し方の一章があった。必ず個室を与えること、洗濯とか子供の世話とか契約した仕事以外は頼まないこと、などけっこう個人対等の契約関係が強調されていた。
そういえば近い隣国のインドやスリランカ、フィリピン等で、女性の首相が輩出しているし、短い滞タイ中も大学の女子職員などの、しっかり的確でしかもやさしい対応にずいぶん助けられた。財団の女性事務員の行き届いた親切は、くり返し書いた通りである。街の宝石店から屋台の飲み屋に至るまで、肥ったおばさんの方が主人然たる迫力だったし、夏休みで手伝うらしく小学生くらいの女の子が、食堂の仕事をテキパキ主体的にこなしているのも見た。女が主体的であり得る社会、女が自信と誇りを持って支える国は、タイのように平和でおだやかな国や社会になるのではないか。近代の植民地化の嵐のなかで独立を保ち得たのも、王様の智略だけでなくそれを支える国民の、さらに女性の見えない力が働いたのではないか。同じ頃やはり何とか独立を保った日本は全く違う行き方をした。いわば男の論理と欲望に従って進んだ、といえるのではないだろうか。

僧の国

かなり知られているようにタイでは、人口の90%以上が仏教徒で、男子は今も生涯に一度は僧として修行する慣習だそうだ。街を歩くとクルマが激しく行き交う道の至るところで、朱や黄の衣をまといはだしや草履ばきの僧と出会う。托鉢のための大きな容器を持っていて、家や店の前で待ちうけて喜捨をするのが、これ又今もタイの慣習だ。しかもこの役は大抵主婦や娘、つまり女性たちなのである。
これまで外国の大学訪問記録のたびに書いた通り、私は旅先で早朝散歩の習慣がある。ある朝夜明けと共に、大河メナムの河畔にいた。老僧から少年僧まで30人ほどが粛々と、河畔のホテルの前庭に入るのを見かけて、好奇心半分一緒に入ってみた。彼らは川に面した前庭のリゾート椅子に座って、黙々と待つこと小一時間、やがて庭の奥で面白いことが始まった。テーブル数台に飲み物、パン、菜数種、果物などが、ポリ袋に小分けにして積まれ、黒服正装の欧米人たちが僧たちを招いて喜捨、つまり恭しく托鉢の器に次々と入れるのだ。私は以前から、家ごとにいろいろな食べ物を喜捨したら混ざって困るのでは、と疑問に思っていたが、この謎が解けた。入りきらない分をもらうために、鉢のほかに大きな袋をあらかじめ持ってきた僧もいた。
僧たちは粛々と帰り、高僧なのだろう老いた5人が残って、前庭に設けられたテントの中の祭壇に座って、低音で読経の合唱を始めた。参列の欧米人たちは百人近く、その三分の一ほどがタイ風に合掌して経を聴いていた。
察するに誰かの葬儀か法事で、故人の属した企業とかの組織がここを借り切って、大がかりな喜捨をしタイ風の儀式をしたのだろう。しかもふしぎなことに、これらすべて合わせて2時間近く、私は全くラフな散歩用の服装でまぎれこんでいたのに、僧たちも施主側も誰一人咎めず、視線を向ける者さえいなかった。透明人間になったようなふしぎな感じで、これも仏教国タイの大河のような大らかさか、と興深かった。欧米人たちさえ、このふしぎな力にすっかりとりこまれている、と思えた。

王の国

前述の通り1932年に立憲君主制になったのに、その後半世紀余、タイの王様が21世紀間近い今も、国民のゆるぎない敬愛を集めていることが、見聞きしたさまざまな事実から判った。紙幣すべてに金額を問わず現国王の顔がついているのは、ほかにも例があるから驚きはしないが、バンコクじゅうのあちこちに、例えば交差点や街角の標識等々に国王の金ピカの礼装姿が掲げてあるのは、奇観だ。聞くと大抵の家には、彼の写真と家族のそれ(王は在位50年で王子王孫が多いそうだ)が飾ってあり、小中学校でも同様という。タイ国民はどうやらどこにいてもいつも王と共にあるという、仕掛けになっているらしい。タイの国旗は青と赤と白の帯が5列並ぶ図柄で、これも王と仏教と国民を表すそうだ。王は国民の安心のカナメであるだけでなく、いざというとき決定的な役割を果たす。92年の流血のとき、軍人首相とデモの代表者が、王の前にひざまづいて和を誓う写真を、当時日本の新聞で見たことがある。
われわれが行った日はちょうど王の母君が亡くなったとかで、葬儀のためにふだんなら入れる王宮の見学ができなくて残念だった。しかし、タマサート大学へ行く途中の王宮前広場で、喪の意を表したい人びとが真昼真夏の暑さの中で大群をなしていたし、何でもない街の角々に彼女の写真を祭った祭壇が作られ、花や食物がたくさん供えられているのも見た。この場合に限らず王室に何か事あるたびに皆が和し、テレビもその慶弔一色になるそうだ。昭和天皇の喪のときと似て、知識人たちの間には批判的な意見もあるらしいが。
河畔の朝とは別の日に、バンコクで一番広いというルンビニ公園に行った。ラーマ6世の下賜地にできたそうで、入口に彼の像が立っている。平日の早朝なのに散歩や体操の人でいっぱいで、食べ物を売る屋台やカラオケ屋まで出てちょっとしたお祭り気分だ。高い木にとりつけたマイクからタイ語が流れ、やがて歌にかわるとあたりの人全員が一せいに立ち上がり、不動の姿勢をとった。ちょうど8時で、多分国歌を放送するしきたりなのだろう。池のボートの若者たちさえ、さっと漕ぎやめて姿勢を正したのは、もう日本では見られない珍しい風景だった。
空港の出迎え見送りをしてくれたタイ人のガイドに、小学校で王様をどう教えるのか聞いてみた。特設の時間はないが、王と仏教と国家への敬愛を機会あるごとに教える、と答えたから、ちょっと意地悪く、王様や坊さんはそのへんに具体物があるからいいけど、国家なんてどうやって子供に教えるのか、とたずねた。彼はまじめに、国が一番大事です、王様も仏様も国あって存在できるのですから、という意味のことを言った。技術研修で日本にいたことのある28歳で、工場で働くかたわら日本語を学んだという。

色彩豊かな国

正味4日の滞タイでは見聞は限られているし、個人の好みや偏りも当然ある。しかし総合的な印象をあえて言うなら、タイは色彩豊かな国。物理的にだけでなく、女も男も王様も庶民も、それぞれに穏やかに認め合って、国を多彩安定に保っている感じだ。タイ史はよく知らないが、近隣の地を切り取り人を征服する野望を、あまり持たずにきたのではないか。何かに守られた国、それは仏の慈悲か、王の才能か、民衆の知恵か、そのどれもなのだろう。
大学は社会を指導助言する役割を、今も疑わずに果たす。大学間格差や進学競争など日本に似てきそうな危惧はあるが、行政が大学を規制する力を持たない代わり頼りがいもあまりないらしいのは、これも程々といった感じだ。スラムの天使と呼ばれる女性と会えて、貧しい地域の実態に触れ得たのは、くり返すがこの旅の意外な大収穫だった。経済の発展に伴うこうした社会のひずみは、日本を含め世界のどこの国にも起こる現実である。タイがこれまで戦争の暴力から自らを守ってきた知恵と底力といったものは、この新しい難局にどう立ち向かいのりこえていけるだろうか。
中国、アメリカ、韓国と、日本と関わり深くその分苦しさも伴う国々を訪問した後で、多少趣を変えて選んだ第4の国タイは、偶然の好運もあるが新鮮な出会いと、自然な視野の広がりをわれわれにもたらしたようだ。アジアのほかの国にももっと行きたいね、と帰りの飛行機で話し合った。これまでの「大学訪問」だけでなく、地球のいろいろな地域で生き成長する人びとの、平和で自然な生涯発達とその保障のための営みのようなものを、もっと深く知りたい。
そんなゆるやかな形で研究方向の転換を示唆し予知したのも、タイの穏やかで豊かな人や自然の力だったように思える。

1996年3月 (石原静子)

1996年・春 バンコク
王と僧の都に二大学とスラムを訪ねる
発行日
1998年5月20日
著者・発行者
和光大学総合文化研究所 C系
「アジアの教育」プロジェクトチーム
(代表者 石原静子)
〒195-8585 東京都町田市金井町2160
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