Release: 1998.07.23
1.はじめに−手さぐりの訪問調査
なぜパプアニューギニアか
「アジアの教育−研究と交流」チームは、三つの目的を持って1996年秋に結成した、自発的な共同研究グループである。三つというのは、アジア諸国の教育状況を現地訪問調査によって明らかにすること、それを通じてアジアの未来さらに人間のあり方を考えること、第三にアジア諸国と日本の青少年の交流をはかり、必要適切な市民レベルの支援を工夫すること、である。
97年2月末〜3月初め、最初の訪問地としてラオス、カンボジアを選んだ。その理由は、比較的日本に近い東南アジアで、最近の急速な発展に取り残されがちな小国、ということと、両国に知人がいて旅の便宜をはかってもらえたからである。この二理由が生きて充実した訪問調査ができ、報告書を学内外に配った。インターネットにものせたので、未知の方々からの資料送付依頼がかなりあった。
二年目の訪問先を、となってパプアニューギニア(以下PNGと略す)と決まったのは、初年度と違うわけがあった。チームの月例研究会に97年7月、東京外国語大学日本語教育センターに学ぶPNG留学生ファホロ・アントン君を招いて、母国の話を聞いた。チームメンバーの一人井上が、このセンターの助教授だった縁からである。ファホロ君は来日まもない19歳だが(従って英語で話した)、PNG大使館で資料を集めたりしてレジュメを作り、みごとな講演をした。メンバーたちが日頃接する日本の19歳との違いがあまりにも鮮明で、彼を育てた母国の教育状況を知りたい意欲が、一挙に強まったのである。
日本で入手できる資料を捜してみて、その少なさに驚くと共に、興味がいっそう増した。PNGはオーストラリアのすぐ北に位置する大きな島の東半分(西半分はインドネシア領のイリアンジャヤ)と付近の大小の島々から成り、日本より少し広い(1.25倍)国土に500万人足らずが住む。イギリスの植民地からの独立が1975年で、アジアでは最も遅い組だ。従って英語とその俗形であるピジンが中心で、土着の共通語モツもあるが、日常語は全国800の地域語である。険しい山地に散在する部族の中には今も石器時代ふうの生活をする人びともあり、「ニューギニア高地人」の名でマスコミを賑わせた。この国のもう一つの面は第二次大戦中激戦地だったことで、十何万の日本人がここで亡くなった。ラバウル、ブーゲンビルなどの地名は、ある年齢以上の人にとって忘れることのできない痛恨のひびきを持っている。
PNGゆきがほぼ確定的となった11月には、お茶の水女子大学助教授の熊谷圭知氏を招いて、文化地理学者としての知見を話してもらった。独立前後以来、銅、石油などの資源が発見・産出されて明るい未来を示唆する一方、外国資本の進出により住民の益とはなりにくいらしく、この国の今後とそこでの教育の役割について、関心はさらに深まった。
訪問準備と調査全経過
昨年と違ってツテがないため、ファホロ君にPNG大使館の知人を紹介してもらった。これまで国内外の調査でいつもする通り、訪問の目的や希望先、そこで「お聞きしたいこと」、予定期日やメンバー名等を書いて送ったが(もちろん英文)、なかなかはかどらず、2月半ばにやっと、申請受付窓口が国立研究所(といっても当方には正体不明)で、そこの規定書式がこれこれと分かった。大急ぎで書き直し、必要な推薦書を揃えて再提出、何とか許可が出たのが出発予定日前日の3月20日。現地の手配がどうなっているのか皆目分からないまま、不安の中の離日となった。外国での訪問調査はチームの前史時代を含めて数カ国経験したが、こんな五里霧中は初めてだ。
結果的にはすべての訪問が実現して実りある調査となったが、現地では何人もの人に、この国でそんな予約や手配はもともと不要だし無理だ、と笑われてしまった。日本人の感覚や常識と違う世界に来たのだ、と実感することになった。
具体的な報告に入る前に、旅の全過程を日録風に記しておこう。参加者は人間発達学科教員4名、当研究所員1名の計5名である。
3月21日(土)20時30分羽田を発って関西空港へ飛び、ニューギニア航空の機に乗りつぐ。すいていて、中央シート一連ずつを占領してゆったり眠れたのは、旅の初日として好運だった。
3月22日(日)午前7時首都ポートモレスビー着、時差は一時間。日曜なので調査は翌日からとし、旅行社のワゴンで軽く観光。郊外の丘陵地にある国立公園に行って市周辺を一望し、国会議事堂の前を通り(明るく軽快な建築で、羽を広げた極楽鳥を模した設計)、モレスビー港の浅瀬に立つ海上村(高床式民家群が木橋で結ばれている)を見学。
3月23日(月)午前国立研究所訪問。恐れた通りいっさい話が通じていなかったが、幸い教育研究部の責任者と会えて、目下進行中の教育改革の全容を聞くことができた。彼の示唆で午後はPNG国立大学の遠隔地・継続教育施設を訪問。責任者と会う約束時刻までの空き時間に、国立植物園を見学。
3月24日(火)8時のニューギニア航空機で中部高地のゴロカへ。直ちに午前ゴロカ大学(元PNG大学教育学部)訪問。副学長と会い、教員養成システムの全容を聞く。午後彼の同行紹介により市教育委員会の許可を得て、ゴロカ県立中・高校訪問。帰路博物館で民具や戦争の遺品等を見学。
3月25日(水)市教育委員の同行により、新制度の小・中学校訪問。教員たちと話し、1年、3年、6年、8年生クラスの各授業を参観、子どもたちと対話。午後は観光用ツアーで山地民の暮らしを見、原始的扮装の踊り、火起こしと弓射の実演を見る。帰路コーヒー工場(ゴロカはコーヒー特産地)を見学。
3月26日(木)午前15人乗りのローカル機で北部海岸のウエワクへ移動。ホテル経営の日本人川畑氏に迎えられ、午後彼の車で戦跡めぐり。平和公園と慰霊碑の丘で、詳しい話を聞く。
3月27日(金)午前川畑氏の車でウエワクから20キロの山中に国立高校を訪問。校長と懇談後、生徒会長の案内で校内や寮を見、授業をのぞく。午後3時ニューギニア航空機でポートモレスビーに戻り、空港近くのホテルで休息と夕食後、深夜便でPNGを離れる。
3月28日(土)往路と逆のコースで関西空港を経て羽田着午前8時50分。解散。
この日程で分かる通り、PNGには集落や都市を結ぶ鉄道はなく、道路も中央高地の一部と都市周辺にあるだけだ。国内の移動は飛行機のほかはなく、でなければ道なき道をテクテク歩くことになる。それぞれの町の中にはバスがあり、車も走っているが少なく、バイクと自転車はほとんど見なかった。訪問した三つの町の位置と道路、主な戦跡を図に示そう。
見る通り、中央山地(最高峰4509メートル、機上から見ると熱帯雨林と草原が濃緑と淡緑に塗り分けられて見える)で北と南の海岸に分かれる地形である。南緯1〜12度だから赤道直下といってよく、両岸の低地は蒸し暑いが高地はさわやかで(ゴロカの標高1500メートル)、高地に人口の約半分が住む。東海岸のラエはモレスビーに次ぐ都市で、国立の工科大学がある。
日本との間を往き来する飛行機は、週1便のみである。
旅の初印象―変わった国に来たもんだ
以下、この日程で知ることができたPNGの教育状況を2と3に記し、それらをとりまく人びとの暮らしを4に、5では旅で出会った日本人のことを書き、ラストの6でこの旅で考えたことをまとめようと思う。それに先立っていわば前奏として、空港に降り立ったときの印象と、調査開始前の初日に出会った事柄を書いておこう。情報過少のまま来た上に、これまでのどの外国とも違う最初の印象が、強烈だったからである。
まずモレスビー空港に降りたとき、当然だが、たちまち周囲は黒い肌のたくましいPNG人男女であふれた。すごい量感で、特にカウンターで入国手続きをてきぱきとこなす女性職員の黒くひきしまった顔の美しさが、印象的だった。色の白いことが美人の条件だった長らくの価値観が、あっさり崩れる瞬間だったと言ってもいい。ついでだが、ゴロカ空港を出たときの印象はさらに強烈だった。出口の竹製薄板を編んだ衝立から一歩出ると、異様な身なりの老若男女の群れが、口々に何か叫びながらひしめいていた。男はたくましい半裸が多く、男女ともハダシかビーチサンダルをつっかけ、子どもは例外なく裸でハダシ。女性は極彩色の服に極彩色の大きな袋を縮れ毛の頭上で結んで腰まで垂らしている。モレスビーより黒い肌と、座った大きな鼻が目立った。あとで聞くとこの雑踏は、空港の隣が広い草原の広場で、たまたま「女性の日」の祭日で人びとが集まっていて、飛行機が着いた、とどっと見物におしよせた(少し遠い村からも来ていたのだろう)ということらしい。
(PNGの人びと:ゴロカ空港にて)
モレスビーに話を戻して、ホテルに着く早々珍しい光景に出くわした。軽い観光に出ようと迎えの車を待つ午前10時前、玄関脇の広い部屋が騒がしいので、反対側にある入口に行って何げなくのぞいた。暗くした照明の下、黒い人びとが群がって不思議な歌を唱和し、楽器いくつかの演奏に合わせて踊っている。入口から続々人が入ってきて、われわれも押し込まれる形で入ってしまったら、その辺じゅうの人に「ハロー」「ハロー」と抱きつかれ、握手を求められたのだ。朝っぱらから飲んでパーティをしていた訳ではなく、あとで聞くと日曜ゆえ教会の集会とのことで、となると神父か牧師がいたのか、いたとは信じがたい陽気な礼拝?風景だった。
旅行社の車がきて出発したら、国立公園の丘に向かう町のあちこちで、連れだってゆっくり歩いたりひざを抱えて座りこんだりしている老若男女を、たくさん見かけた。日曜の安息日だからだろう(この国では90%以上がキリスト教徒)と、先刻の光景と考え合わせて勝手に解釈したが、実はそうでなくこの漠然と座り込んでる人の群れは、以後曜日を問わず行き先すべてで見ることになった。あとで聞くと、PNGの人びとは働く習慣がなく働く必要もない(但し金持ちゆえではなく)という。このことの意味はさらにあとで知って、深く考えるきっかけになった。
同じ日の夕方訪れた前述の海上村の景観も、異様だった。木板の橋を渡って着いた家は四角に囲っただけの板敷きで、老若男女がぎっしり混みあってただ座っている。見物人のわれわれが遠慮がちにその真ん中を通っても、笑顔の「ハロー」だけで誰も気にする様子もない。陸地に戻ったらたちまち、どこから湧いたか真っ黒で半裸ハダシの子ども数十人にとり囲まれた。が皆にこにこして珍しそうに見ているだけで、金をねだったり物をほしがる様子は全くない。さすがに年かさの少女は服を着ており、「学校行ってるの、何年生」と英語で聞いたら、「コミュニティ・スクール、X年生」とはにかんで答えて逃げてしまった。その通りなら日本でいうと小学校だから12歳以下のはずだが、到底そうは見えない。と首かしげるうち、少し先の民家の軒先で何やら音と声がする。行ってみると大人の男性が数人座り込んで、粗末な楽器ひとつでふしぎな美声のハーモニーで歌っているのだ。のぞいたわれわれにも入れと笑いかけてきたが、酒も入ってるふんいきだし大事を取って退却した。朝の教会といい夕刻のこれといい、ここの人びとは集まったら自然に高低音のパートをとって合唱ができるらしい。
ついでだがこの国にはもともと長い歴史の中でアルコールを飲む習慣がなく(但し貧しいゆえではない)、独立以降外国諸文化と共に初めてビールが入ってきて、耐性のなかった人びとをたちまちとめどもない酒飲み、時には酒乱と化してしまったそうだ。飲酒の歴史の長いわれわれ他文化からは、信じがたい事実である。
そんな人びとの中で、いったい学校教育はどうなっていて、どんな効用−プラスマイナスを持ちうるのか。そして今後どんな方向に、向かおうとしているのだろうか。
2.21世紀を望む教育改革
国立研究所
恐れた通り、われわれの調査申請を受け付けた人は全くその趣旨を理解せず、従って必要な手配をいっさいしていなかった。しかしアッサリ即席で教育研究部長ガイ氏を呼んできてくれ、彼がまた突然の訪問客に快く応じて、目下この国で進行中の教育改革のすべてを語ってくれた。次の訪問先の示唆や話を聞くべき人名まで教えてくれた。人柄もあろうが日本の官庁と違う自由さ、仕事に忙殺されていない人間味といったものが感じられた。長身大柄のオーストラリア人で、PNG在住15年という。以降われわれの懇談相手はすべて現地人だったから、彼は唯一の白人例である。
この研究所は1961年創立、今の形は89年からで、教育・研究の他に、経済、政治・法律、社会・文化の計4部がある。この部分けで分かる通り、また伝統的にも、アカデミックな学問研究よりも国の方針を策定提案し政府以外のコンサルタントも勤める、実務的活動が主である。教育研究部スタッフは5人で彼以外は皆現地人、うち一人は外国留学中。もらったパンフによれば、外国の諸研究機関と連絡があり、外からの研究員も受け入れるとある。
まず彼が話したこの国の教育システムについて、従来と今後を対比しつつ要約しよう。独立以来ずっと初等中等教育は、地域小学校(community school)が7歳から12歳の6年、県立中・高校(province high school)が13〜16歳の4年、国立高校(national high school)が17〜18歳の2年だった。前2者は、地方自治体が校舎をはじめ諸責任を持ち、国立高校はすべて国持ちである。就学率は特に地方に低く全国平均で70%、中学へは30%、12年の教育を卒える者は2%にすぎない。学校3段階ごとに厳しい進学試験があるためもあるが、小学校1〜2年から英語を課したためにここでやめる子が多かった(家庭でピジンを使うから日本と違って全くいきなりではないが)。
この旧制度はオーストラリアの学制をモデルにしたもので、PNGの実態に即したものにしようと、1991〜2年から全面的な改革にふみきった。就学を6歳とし、初めの2年は基礎学校(elementary school)として、地域ごとの母語で教える。3〜8年を初等学校(primary school)とし、少量の英語から始めて次第に増やす。次が中等学校(secondary school)で9〜12年を一括する。就学率100%を目指し、初等から中等への進学試験で50%に絞り、あとの半数は今もある職業専門学校の充実で受けとめる。12年を卒えて高等教育に進む者は30%を目指す。2004年を達成期限とする改革の青写真である。
問題は山積している。達成まで15年かけるとはいえ、就学率を上げることはかなりの難事で、特に女子のそれに工夫が必要だ。第2の問題は教員の養成及び再教育で、中でも新設の基礎学校は地域性を生かしたものにしたいので、年150人をメドに現職者の再教育と旧制県立中高卒業者の速成教育をやっている。教員に関わるもう一つの大きなネックは、初等教育の第7〜8年にある。小学生を教えていた者が中学にあたる課程を教えねばならないことになり、数学・理科等をはじめ教員の質の向上が急務である。新制中等学校つまり校数・生徒数共に増える高校段階でも、同じ問題が深刻だ。再教育・速成教育が追いつかず、年長の子を持つ親に不満が起きている。これを受けとめる私立学校がこの5年間に増え、ポートモレスビーだけでも15校新設された。
上の二つの問題にもまして重要なのは、教育内容の改善である。基礎−初等段階では800もある母語から英語への移行、地域性を生かしたカリキュラムの工夫などで、熱心な地方では特有の生物を扱うなど良い例も出てきているが、地域差が大きく、全体を向上させるのは大仕事である。
われわれの教育改革が目指すのは、就学増(Access)、平等(Equity)、質の向上(Quality)、の三つで、前の二つは徐々ながら達成されつつある。人口統計不備もあって正確な数字は出せないが、就学率向上のきざしがあり、高校への進学が女子のそれを含めて増えているからだ。今後の努力は第3課題の質的向上に傾けることになるだろう。日本を含む諸国(オーストラリア、ドイツなど)の支援があり、有難く思っている。
新しい教育システム整備と並んで、これまでに教育を受け損ねた人びとへの方策を考え、実行しつつある。その一つが遠隔地教育(Distance Education)で、自分の研究テーマの一つでもあり、力を入れている。19ある県の各地にセンターを設け、週末にはスクーリング、平日はリポート提出のしくみだ(日本でいうと通信教育にあたるらしい)。本土以外は島が多いため、ラジオ放送も利用する。旧制の第7〜10学年がさし当たっての対象で、94年には全国で約8万人が登録した。がこれは授業料年額45キナ(1キナ約70円だから約3000円)のうち40キナを国が補助することにしたためで、驚いた政府がこの補助をやめたら、97年には1万人に減った。そこで98年には復活の予定だ。
教育改革は初等・中等段階が中心で、高等教育は後回しになっている。従来は優秀な人材を国立高校−大学ルートで育てるエリート養成が重視されたため、今回は重点を下へ移したといえる。ただし教員養成カレジの充実は、前述の通り急務である。さらに根本的な問題は、教員の社会的地位が低く給料が安く(月額190キナ、約13000円)、人材を集めにくいことだ。地方の小学校では教員住宅は雨漏りし石油ランプが珍しくなく、ジャイカ(JICA、日本の国際協力事業団)の太陽電池による支援で、320校が救われた。
こうして新しい教育改革は、本研究所の研究と提案に基づいて着々実施されつつある。成果の客観的評価もわれわれの重要な仕事の一つであり、私自身の研究領域の一つでもある。しかし政府はとかく美辞を弄して都合の悪いことは隠そうとする傾向があり、本研究所は国立だが一線を画して、独立性と科学性を守る必要があると考える。
ガイ氏は淡々と、しかし明るく力強い口調で語り続けた。
PNG大学付属遠隔地・継続教育施設
最初から訪問予定先にPNG大学教育学部が入っていたが、ガイ氏の話では昨年ゴロカに移転したとのことで、翌日回しとし、先刻話に出た遠隔地教育を扱う付属施設へと、対象を切りかえた。従ってここも即席の訪問だが、植物園見学をはさんで夕方の4時、責任者ほかの話を聞くことができた。
ここはPNG大学の付属施設だが、正規の学校体系外の教育、具体的には通信教育・成人教育の総元締めである。PNG大学の創学は独立前の1966年(和光大学と同年だ!)、そのときすでに「大学と教育は人びとのもとへ赴くべきだ」という理念があった(これも似ている)。これを検討する部門がスタートしたのが74年、現在のような登録制の独立した付属施設になったのは1985年である。言語(外国語を含む)、教育、数学、理科、社会科学、商業などの領域、科目を担当する14人のコーディネーターが専属し、事務職員3人(登録、会計など)と共に、教育計画を立て、組織づくりをする。
組織つまりここでの仕事の中身は大きく二つあり、遠隔地教育と対面方式の継続教育である。前者は、19県のうち15県にある地域センターにカリキュラムや教育のやり方を指示し必要な教材等を送る、本部としての仕事だ。後者はこの施設にきて直接学ぼうという学生を対象に、多数の授業者(チューター)を頼んで朝8時から夜6時まで、多様な科目の時間割を組む仕事である。働きながら学ぶ者は夕方4〜6時を選んでやってくるし、早く学び終えたい者は1日通しで学習できる。現在、通信と対面両種合わせて16000人、実際に学習を進めている実員だけでも12000〜13000人いる。どちらもこれまで学校教育を受け損ねた人たちだから、20代後半あたりが一番多く50歳代もいて、平均年齢は上がる傾向である。
以上の中・高コースのほかに、2年間の学習で資格(ここでは商業、社会管理、教員の3資格が中心)をとる(日本でいえば短大にあたる)コースがある。また、PNG大学の正規の学生になって、4年間在籍して卒業証書を得る道もある。教員資格は、現職者の再教育と中学卒業者の速成コース(10+2年)があって、再教育により地位や給料が上がるし、教師としての腕も磨ける。しかし教員の社会的地位が低くて下から何番目というところだし、給料も安いから、なり手がなくて困る。とここでも研究所での話と同じ悩みを聞いた。そこで、日本では逆だ、子どもの数が減ってなりたい者も教師になれない、と言ったら、それは残念、こちらへ送ってほしい、と双方笑いになった。ガイ氏が女性教師の方が優秀だと話していたのを思い出して、賛否をたずねたら、あの人は著名な教育学者だから根拠があるのだろう、自分は男性として判断をひかえる、と笑った。
この施設が現在のように制度化してから約10年、ようやく軌道にのったところで、前述の「教育が人びとのもとへ行く」理念が実現しつつあると自負している。しかし問題は多く、登録学生が多い割にスタッフが少なくて人手不足なこと、そのためもあって学生たちの学習意欲にこたえる教育内容や指導が充分か、という自責が常にある。財政面でもこの教育サービスに国から出る金は年7000キナ(約50万円)にすぎず、授業料(1コース年額105キナ)に頼ってなんとかやっている状況だ。
最後にPNG大学全体として、PNG人の比率をたずねてみた。学生のほとんど、教員では90%だそうだ。教員の98%が、オーストラリア、アメリカなどの留学経験者である。PNG大にもマスターコースの大学院があるが、外国で取得した資格の方が重んじられる気風は変わらない、とのことである。
約束の4時前少し早く着いたので、そういうときにいつもする通り、その辺にいた学生に話しかけてみた。この施設の学生ではなく正規の方で、経営学専攻の2年生という。これから授業、と言うのを見ると、この建物は施設専用でなく共用なのか、それとも双方の授業を乗り入れ履修できるしくみなのだろうか。山地出身で寮生、とまで聞いたところで時間がきてしまった。
懇談を終えた5時すぎ、帰りながら教室三つほどちょっとのぞいた。どのクラスも30人ほどの学生がまじめに講義を受けていたが、何人かが当方をみつけて明るい笑顔を向けてきた。中には「ハロー」と言ったり手を振る者もいて(先刻話した彼ではない)、教員も別に叱るでもなくにこにこしている。どうも日本と違うあけっぴろげな教室の雰囲気だった。
ゴロカ教育大学
研究所のガイ氏はゴロカ教員養成カレジにいたことがあるそうで、この人に話を聞くといい、と知人の名を教えてくれた。そこでホテルに着いた朝さっそく電話を入れたが、通じない。仕方なくここも又ぶっつけ本番の訪問となった。好運にも当人(副学長と聞いた)がいられて、快く懇談に応じてくれた。今週は何やらで学生は休みの週とのことで、まさしく好運。授業をのぞけないのは残念だが。
ここはもともと教員養成カレジ、つまり県の小・中学校教員養成校だったが、75年にPNG大学の一部、つまり教育学部の分校になった。さらに昨年、大学と文部省の合意で教育学部全体がこちらに移って、分離独立することになり、名も単にゴロカ大学と変わった。教育学の研究・教育と並んで教員養成を主要な役割とする専門大学で、特に高校教員養成機関としては全国唯一である。
教育学を4年かけて学ぶ正規の課程とそれに続く修士課程がまずあるが、並行して教員養成のためのコース(プログラム)がいくつもあって、むしろこの方が本命らしい。2年学んで教員資格を得るコース(技術工学、農業ほか、健康学は1年)、PNG大学の各学部(法、医、科学、芸術、保健体育)を卒業して高校教員の資格を望む者のための1年コース、現職教員の再教育コース、と多彩である。学生は合わせて620〜630人と小規模で、教員75人職員30人はかなり豊かだ。2年で得る資格だと県立中・高の教員どまり、4年プラス1年の方は文句なく国立高校の教員になれる。小・中学校(新制なら初等学校)教員の方は、養成カレジが全国に8校あり、10年卒と12年卒の学生のための各コースを備える。
研究所で聞いた教育改革の話を、ここでは教員養成とりわけ高校教員養成の視点から、聞くことができた。政府は、初等学校を8年まで延長して旧制の中学部分を吸収し、9〜10年つまり旧制中・高の後半部分を12年までに拡げて、高校の数と学生定員数を一挙に増やそうとしている。現在は県立中・高は小学校と接続する7〜10年で、県にせいぜい1校、持たない県もある。現国立高校は全国に4校(モレスビー、ウエワクなど)しかなく、11〜12年生用で大学と直結する(つまり日本の旧制高校と思えばよい)。新制度は9〜12年の高校を各県2〜3校作って、国立化しようとする。こうして中等学校を飛躍的に充実向上させ、現在は高等教育に進む者が数%しかないのを、30%にまで増やそうという計画である。
となると当然、高校教員を大幅に増やす必要に迫られるわけで、文部省は唯一の高校教員養成機関であるこの大学に、規模拡大学生増員の圧力を強烈にかけてくる。しかしそれに必要な財政的手当が伴わないので、当大学としては簡単には引きうけかねる。現行の県立中・高が内容不充分なことは周知の事実で、その改善こそが急務なのに、国立化して校数をふやす、従って高校教員が大量に要るなど、政治的立場から数ばかり勝手に決めてくる。中等教育の拡充どころか質の低下を招きかねない。政府は、学校を作って生徒を入れておきさえすればと考えているのだろうか。と副学長は堂々と、国の方針に対する疑問の論陣を張った。
現行県立中・高の授業料は、各県知事直属の教育委員会が決めるためまちまちで、年額150〜500キナほど。うち半額以上国からの補助が出る。国立高校となると、授業料も高いが国の補助も厚くなる。現に自分の娘が国立高校にいるが、年額720キナ中500キナが補助なので助かる、と話がくだけてきた。
昨日のPNG大学訪問では聞き損ねた、高校から大学への入学方式について質問して知ることができた。今のところ国立高校で12年の教育を卒えた者を対象とする推薦制に似た選抜で、卒業時に英語、数学等々教科ごとにABC・・・の評価がつくから、大学は学部や学科ごとに、どの教科BまでCまでなど重みづけをして、候補者を選ぶ。12年生のとき主・副専攻を決めるので、学生は大抵それに沿って学部学科を志望する。校長の推薦状には成績とは別に行動の記述もあり、最終的には大学と高校両関係者の立ち会いの下に決める、とのことだ。公平だが明らかに少数の国立高校−大学間でのエリート選抜方式で、日本の旧制高校−大学とここでも似ている。教育改革開始から数年、やがて全国に増えた新制高校から大量の受験者がおしよせれば、進学方式も大学のあり方自体も、変わらざるをえないだろう。
独立以来の十数年、この国の教育は上へ上へと人材を絞って育てることに重点があったといえる。この閉鎖性を破って、システム全体とくに中等教育を拡充し大衆化しようというのが、進行中の改革の理念なのであろう。急激な改革が質の低下という逆効果を招く、という反対論が出るのもまた、当然自然な現実にちがいない。現エリートたちに特に、その疑念が強いのかもしれない。
3.小・中・高校の現場で
ゴロカ県立中・高校
ゴロカ大学で懇談約2時間、好意を深謝してからわれわれは、「実は…」と切り出した。できればここで、小・中・高校を訪問して現場を見たいのですが、と。副学長は、可能だが市の教育委員会の許可が要るはずだ、と言う。今日明日には間に合わないでしょうか、と失望しかけたら、彼は教委に知人がいるから話してあげよう、と言い、さっそく自分で車を運転して市役所?の教委室へ同行してくれた。幸い面倒な手続きなど要らず、彼の顔と一言であっさり許可となった。親切にも副学長はさらに、午後すぐの訪問先と決まった高校へ、車で案内してくれたのである。
GOROKA DEMONSTRATION HIGH SCHOOLと看板が出ていて、デモンストレーションというのはゴロカ大学の教員養成プログラム実習校の意だそうだ。校長は大男のPNG人で、ここも突然なのに快く懇談に応じてくれた。生徒数1250人(うち女子は1/3)、国内最大の中・高校で、教員は46人(うち女性6割)。7〜10年生の4学年というから、旧制度の学校である。但し新制度による11〜12年生が来年から加わるそうで、従って下の7〜8年生は初等学校へ渡す。つまり91年に始まった教育改革が、正確にこの段階に及んできたことになる。各学年9〜10クラス、1クラス30人台見当である。カリキュラムは英語・数学・理科・社会・芸術・体育・・・とすべて国が決め、県や学校レベルで変えることは許されない。それをやったら首ですよ、と校長は太く黒い自分の首をたたいて笑った。
PNGの新学年は2月で、以降11月までほぼ2カ月余刻みの4学期制である。12月1月は長い夏休みで、低緯度とはいえ南半球だから日本とは季節が逆なのである。ついでだがわが訪問行の3月末は、これから秋で緑ゆたか、良い季節に来ましたね、と言われた。しかし年中高温多湿だから、雨季乾季はあるが日本風の季節感はない。滞在中ほとんど晴れで、時々夕立のような強い雨が降った。
話を戻すと、この中・高校には思いがけず日本から海外青年協力隊で来ている吉川さんという教員がいた。ちょうど授業を終えたところで、校内を案内しながらの話を聞き、校長にはしにくい質問にも答えてもらえた。40分授業が1日8コマぎっしり、その代わり土日は休みである。7〜10年生ゆえ全授業が英語で、彼自身も大阪弁の英語(「とは連中に分かる訳ないけど」と笑った)で堂々とやっている声が、教室の外までひびいていた。校内のあちこち、壁や木の幹に、「英語で話そう」「英語で考えよう」と書いた紙が貼ってある。
教科書はオーストラリアの援助だが、冊数不足で2人に1冊、従って学校に備えて当の時間のみ貸与、次々の学年が使うという。教科書保管室には古び汚れたのが山積み、手近なSIENCEと題したのをパラパラ見たら、物理化学生物など何でも同居の「自然科学基礎編」らしかった。彼は昨年着任で、10年生にコンピュータ初歩を教えるのが本来の任務だが、理科系の学力不足の教員に代わって物理・化学等を教えることもあるという。というのは10年生がまもなく直面する国家試験のためで、全員が国立高校(11〜12年生)へ進学を望むが、合格は困難ゆえ落ちたら職業専門学校や教員養成校に行くという。理科実験室・準備室も見たが、汚く器具は古く、水や電気も来ないことが多いそうだ。洗ったり片付けたりは先生生徒とも苦手で、万事がのんびり乱雑になりがちとのこと。図書室はがらんとして、整理中の本が山積み、英語の本がほとんどのようだ。家庭科教室に並ぶミシンも古い型で、生徒の作品という女性の服が数着つるしてあった。
今日は2時すぎに授業が終わり、毎週水曜と決まっているあすのテストに備えて4時まで自習である。男女の生徒たちが短く刈った草原の校庭にたむろして、丸いパンと筒入りの飲み物を食べている。これは勝手な間食ではなく、毎日2時に給食があるきまりだ。黄色地に青の幾何学模様のある制服を着ていて、目が合うと恥ずかしそうに笑いかけてくる。女生徒たちは肩をつけ合ってクスクス笑うなど、日本の中学生より幼く初々しく見えた。
県立校だから、遠い子は1時間もかけて通うとはいえ寮はない。しかし寮生が男子ばかり6人いて、寮費食費タダの代わり校庭の草刈りや掃除などをする、昔の日本でいうと苦学生らしい。その一人を捉まえて聞いてくれたが、大学に進んで先生になりたい、と控えめに答えた。
やがて自習開始のベルが鳴り、一斉に各自の教室に向かう。あとで通りながらのぞいたら、どの子も机に向かってちゃんと勉強していた。説明によれば、クラス委員がいてこんなとき監督に当たり、別に各教科の係があって、教科書を運んできて配布・回収をするそうだ。
ここの生徒はおとなしくて教えやすい、と吉川氏は話した。短期間いたことのある南海岸の某校では、同じように県立中・高なのに荒れ気味で、私語や遅刻が多く、叱ると教師に向かって物を投げるなどの報復をする。もっともこの「仕返し」の慣習は当例に限らない全国的なもので、これについては後述する。
校長室に戻り、充分に見学できたことを謝した。校長はどこまでも好意的で、この学校の制服の一部である黄色い略帽と、教員用の黒褐色のネクタイを、われわれ一人一人にくれた。何も手みやげを持ってこなかった(訪問が可能かさえ分からなかったのだから仕方ないが)当方は、すっかり恐縮。帽子の前正面に、校名校章?と共にASU AMITIと青字で刷ってある。校長はにこやかに、この地域の言葉で「永遠に」又は「ギブアップするな」の意だ、と話した。この国の教育が直面する諸困難と改革の志を思って、一同粛然となった。
小学校で子供たちと話せた
約束の午前10時、市役所に出向いた一行を、昨日知りあったばかりの教育委員氏は、小トラックで今日の訪問先の小学校へ送ってくれた。広々した緑の校庭を囲むようにして、高床式長屋風の校舎が散在する。たくましいPNG人の校長が出迎えて、ここだけは予告があったのだろう、すぐ本部棟の教員室へ案内した。机とイスが並ぶだけの粗末な部屋に、20人弱くらいの先生たちがにこにこと歓迎の表情だ。ここは第8学年まで揃ったつまり新制度の基礎−初等学校で、生徒総数886人(男460女426とほぼ同数)、各学年2〜3クラスで30〜40人ずつ、毎日出席をとって在籍数と並べて少し少ない実員数まで、小黒板一杯に克明な表ができている。担任の氏名もズラリ記入してあって、計23名。名の横に101、104などとあるのは、視学官が評価した教員の格だそうで、なるほど4は校長だけであとは大方1か2だ。基礎クラスの担任が揃って無印なのは、新人で目下見習中の評価以前とのことだ。といっても符号で担任の資格が決まるのではなく、交替でいろんな学年を持つが、担任希望を出してもよいという。クラス分けはランダムだが、基礎2年で実員13名とあるクラスは、ある事情で特別なクラスとのこと。
校長の紹介に続いて当方の代表が短いあいさつをすると、皆笑顔で拍手する。見渡すと8割方が女性で、年配者が多い。何か質問をと言うのでさっそく、勤続年数をたずねた。少数派の男性教師が「私は14年、20年の人もいます」と言い、誰かが「校長さんはもっと長い」、本人が29年つまり独立前からだ、と明かした。英語の教え方は?。ここではピジンで始めて3年から英語漸増、と新制度に忠実だ。カリキュラムや中身が、新制度で変わりましたか。大筋は不変だがオーストラリア風から地域の現実に即したものへ、とこれもやや公式の答え。大きなカップのコーヒーが配られた。ここゴロカはPNG一のコーヒー特産地である。
初等学校の先生をしていて困ることは?。中央近くに座った肥った中年女性が、教科書が足らない、給料が安い、教員としての力が足りない、とまじめに答えた。住宅も構内に3軒しかなく、遠くから通う人もある、と。では先生をしていて良かったことは?。別の女性教員が、「国を基本の所で支えている」と答えた。数の力もあるが、女性の発言が多く積極的である。組合はと聞いたらちゃんとあって、校長も一員と言う。賃上げの運動をするがなかなか、と。そう長く教室を留守にさせては悪い、と皆で写真をと提案。先生たちは子どものようにいそいそと並び、校長と一行を真ん中に記念撮影となった。すっかりうちとけた雰囲気となり、どの授業を参観してもいい、と言う。
(ゴロカ小学校にて、先生方と)
本部棟の一画には教室もあって、8年A組B組の札が出ている。入口から手近な机を見たら、社会科らしくノートに世界地図が描いてあって、係らしい男子が2人教科書を抱えてきて皆に配るところだった。中・高校で聞いたのと同じく貸与らしいが、数は何とか足りそうだ。近くの草むらに大きなコンテナが据えてあって、校長が指して、オーストラリアからの教材・学用品の援助だ、全国の小学校に配られた、と言う。もう一クラスは英語で、さっき盛んに発言した女教師が、にこにこと一行を教壇に招いた。促されて即席で、皆に会えて嬉しい、とあいさつ、メンバーの一人がすぐ英訳する。私は英語はダメで、きっとみんなの方がうまい、良い先生に教わっているから、と傍らの女教員を指すと、軽いどよめき。立ち上がって手を振る少年もいる。
本部棟を出て、校長と広い校庭を歩いた。次はどのクラスにしますか、と寛容なので、1年生を希望した。8年生と比べるといかにも幼くきゃしゃで、キラキラ光る黒い瞳と笑顔が集まる。まだピジンなので、校長が通訳だ。好きな勉強は?。男児が挙手してはにかみながら「聖書を読むこと」、別の一人が「国語」と言う。学校を好き?好きな人は手をあげて。たちまち小さい手が一斉に上がった。教室を出ながらメンバーの一人福島が、日本語で「サヨナラ」と教えた。二度ほどでもう憶えたらしく、元気な「サヨナラ」の合唱がわれわれを追ってきた。
3年生クラスは割算の練習中で、机上はノートだけだ。担任が、英語を習いはじめたばかりなので、やさしい単語でゆっくりお願いします、と言う。算数を好き?。ちょっとためらって7割方が挙手した。英語を好きな人。少し挙手が増えた。先生を好きな人。瞬時に全部の手が上がって、教室は歓声で満ちた。
次は6年生のクラス、急に成長して賢そうな少年少女に変わった感じだ。他の室でと同様に校長が、「日本の和光大学」からの客と紹介したので、とっさに「日本がどこにあるか知っていますか」と受けた。うしろの壁の世界地図を指して「誰か」と言ったら、小柄な少年が立って歩みよって、正確に指した。「日本とPNGとどっちが大きいか知ってる?うしろを見てはいけません」。笑った目が集中する中、別の一人が「PNG」と正答を言った。難しい学科は?一斉に「数学」。好きな科目は?一斉に「英語」。なぜ?「やさしいから」。ピジンと似ているからです、と校長が注をつける。「総合科目」と言う子もいて、理由は「いろんなことを学べるから」。
学校と家とどっちが楽しい?。全員が「学校」。なぜ?。「友達がいる」「勉強できる」「安全だから」。えっ、家がなぜ危ないの?。校長が「お父さん、それともお母さん?」とジョーク調で言う。こちらの動揺を見てとったらしく生徒の方から、「日本の子どもは学校を好き?」と逆質問してきた。メンバーの一人奥平が、好きな子もいるが好きでない子も多い、「なぜ?」たくさんたくさん勉強しなくてはならず、家に帰ってからも勉強が要るから、とまじめに答えた。みんなは家で勉強する?、「イエース」。何時間くらい?、一人が「1時間」と言うと皆がうなずいた。宿題があるの?、これも「イエース」。
大きくなったら何になりたい?。さっとほとんどの手が上がる。科学者、先生、法律家、ゼネラリスト、医師、警官、と次々、女子は看護婦、先生など。大学に進みたい?、一斉に「イエス」。答えの明るい速さと希望に輝く瞳が、われわれを圧倒した。
「サヨナラ」に送られて教室を出るとまもなく、担任の男教師が追ってきて紙をさし出し、ペンフレンドが欲しいという子がいるが、受けてくれますかと言う。喜んで大学の住所と代表者名を書いて渡した。校長はすっかり親しげで、話し続けて真昼の道を一緒に歩き、とうとうホテルまで来てしまった。
国立高校は山の中
三つ目の訪問地ウエワクで、全国に4校しかないという国立高校を訪れた。PNG行きのきっかけとなった留学生ファホロ君の母校である。町から20キロメートルも離れた山中に在ることに、まず驚いた。ここも予約なしのぶっつけ訪問だが、校長は「日本からの訪問団は初めて、わが校の歴史の一頁」と歓迎してくれた。半ば偶然らしいが生徒会長という賢そうな女生徒が同席して、生徒に関する質問にハキハキ答えたり、校長が命ずる書類を取りに行ったり、きびきびと動いた。
生徒数446人(男293、女153)、11年生206人、12年生240人で、各7と9クラス、教員は28人。カリキュラムや内容はすべて国が決める。英語、数学、科学、社会、芸術の5部門から成り、各々がさらに、例えば社会は地理、歴史、経済、政治、環境等に分かれる。部長以下それぞれの教員チームが教授・学習の責任を持つしくみである。日本語はないがモレスビーの国立高校にはあって、そこの校長は実弟、別に外交官の兄もいると話の中に出てきたから、どうやら知識人エリート一家らしい。宗教の時間はないという。
12年生は、社会か科学かつまり文系理系を選ぶことになっていて、皆熱心に勉強する。全員がこの選択を生かした大学進学を望み、大学からも専攻を指定してくる。国立高校に学区はなく、全国各地から集まっている。立地条件もあって全員が寮生活だが、不便不満はなく、「勉強に集中できることをみんな喜んでいます」(生徒会長)と、まさしくエリート学習集団である。授業料は年600キナだがほぼ半分を国が補助、今年は特に干ばつを理由に500キナの補助が出たそうだ。授業は7時35分から午後1時35分まで50分ずつ6コマぎっしり、昼食後火曜はスポーツ、水曜はクラブ、月木が掃除、金曜はフリーで、土日は休みだがごく近くの者だけが家に帰る。
11月に今年度の授業が終わるとまもなく、大学進学の決定期がくる。卒業証書の用紙現物が配られた。やや厚い白紙は成績証明書を兼ねていて、下2/3ほどのスペースに英語、数学等々ちょうど10科目名が並び、例のABC・・・を記入する欄がある。一段離れた「選択」ふうの欄に、「技術」と並んで「日本語」があるのは、モレスビー校用か。文部大臣の署名は印刷ずみで、その下に校長の署名と日付の欄がある。裏を返すと、各科目の必要最低時間がズラリ、ABC・・・の配分基準まで書いてある。Aは5%、Bは25〜35%と厳しく、しかしEも不合格ではない。「最少限の有能さが立証されなかった」と紳士的で、校長の言では「いわばスレスレ」、Eは「全員の70%を越えてはならない」とある。大学側がこの一覧表を見て、入れたい学生を選び、高校側との協議に入るのだろう。ゴロカ大学で聞いた話の、実物である。
もう1枚、詩句のようなものが裏表に印刷された細長い紙をくれた。毎水曜の朝ミーティング(朝礼の集会)があって、国歌斉唱に続いて皆で読み上げる、という。見ると「PNGは一つ」と題して、われらPNG国民は「一つの国としての統一を誓う」「正義、平等、尊厳、豊かさに基づく民主社会の建設を誓う」など四つの「誓い」と、もう一面は「老若男女数千の口あろうと一つの言葉を話し・・・」に始まり、「・・・手をとり合ってお互いを尊敬し・・・心を一つに・・・」と続いて、「神われらを導き給う」に至る30行近い文が、詩のような分かち書きで書かれている。やがて国を担う若者たちに、その使命を常に自覚させる教育の一環なのであろう。
といって上からの枠や方向づけ一方ではないらしい。この高校では学生の自治を尊重していて、自由なふんいきが校風であり特色だ、と校長は胸を張った。生徒会活動や会長選挙などにも干渉せず、生徒が選んだ会長を学校側が拒否することはまずない。実は前任の校長のとき生徒会との間にトラブルが起き、こじれて4〜6月の学期授業ができなかった。文部大臣が収拾にのりだして、現校長が他高校から着任した(名門出の手腕を期待されたのだろう)。政治に関しても討論は自由、ただし政党活動は認めない。じゃあ今は、と生徒会長に聞いたら、いま生徒会が学校に出している要求は、学生用の電話を設置せよ(寮生活では当然?)だそうで、まずは平和らしい。校長は、教師と生徒というより一つのチームでありたいと思う、と語った。ついでに、本校は優秀だ、新旧高校合わせて現30数校の中で、昨年化学と歴史がトップの成績だった、とわが校じまんをした。
背の高いのと低いのと、2人の男子学生が校長室にきた。低い方はもう一人の生徒会長(2人制)でしゃれたネクタイのダテ男、高い方はファホロ君の弟で12年生という。似ているがやや細身で、兄から楽しいと便りがある、自分も日本に留学したい、と重い口で話す。ちょうど少し長い休み時間で、この3人の案内で校内を見て回ることになった。
広いキャンパスに散る校舎に、芸術、科学など看板が出ている。決まったクラスでの授業ではなく、学生が移動する大学方式なのだろう。図書室は、さすがにきちんと分類整理された棚にかなり専門的な本が並ぶが、数は多くない。寮も見せてもらった。二段ベッドに机二つの狭い部屋がズラリ、ドアの南京錠は二人とも留守の印だ。女子寮も同じ造りだが、ピンクの壁紙にブロマイドや小物、と女の子らしい。女子寮の周囲だけに金網と鉄条網まではりめぐらしてある。男子寮への警戒かと冗談を言ったら、いや外に対してだとまじめに答えながら、大笑い。囲いの一隅に動物舎があり、豚や鶏を飼って寮食費の足しにするという。ただし自炊ではなく、別棟の食堂と厨房が粗末ながらある。寮では午後7〜9時が自習時間のきまり、寮代表が生徒会代表と並んで自治組織を構成するという。歩きながらの話で、彼女は科学専攻の12年生で、大学ではコンピュータ方面に進みたい、スポーツはバスケットをやってる、と話した。
ベルが鳴り、校舎へ戻った。11年生化学のクラスでは25人ほどの生徒がいて、真新しい教科書が全員の机にある。やはりここは特別扱いのようだ。ある棟は舞台つき数十席ほどのホールとバンド用の小部屋があり、後者で数人がとりどりの楽器で合奏していた。クラブではなく、音楽の授業という。生き生き真摯な学びのふんいきが、どの教室からも感じとれた。
4.パプアニューギニアの人びと
警備員だらけ
ここまでの記述で分かる通り、PNGの人びとは明けっぴろげでのんびりしていて、しかも限りなく親切である。日本流にきちんと出した訪問申請が全く通じてなかったのはのんびりテンポのせいだが、そのためオールぶっつけ本番になった訪問調査のすべてが、十二分に満足に運んだ結末は、われわれの常識と経験からいって奇蹟に近かった。好運もあるが、最適の懇談相手がちゃんと席にいて他の仕事に忙殺されていず、何時間でもつきあって何でも話してくれる。そのあげく、次の訪問の示唆や知人名を教え、自分の車で紹介や同行の労をとってくれる。学校中を案内し生徒との対話に加わり、おみやげまでくれる。博物館見学を勧めてわざわざ送ってくれたり、別れがたそうにホテルまで来た校長もあった。
長らく国内外の訪問調査をしてきたが、こんなにゼロから出発して歓待続きだったのは、例がない。日本から初めてという珍しさもあろうし、同じ大学人や知識層という親しみもあろう。しかしこのあけっぴろげな友好性は、彼らに限らなかった。生徒たちも授業中でもおかまいなしに「ハロー」と笑いかけるし、街や市ですれ違う未知の人びとさえ、微笑とあいさつを投げてくる。ホテルの構内を早朝散歩中にわか雨に会って、男子従業員更衣室らしいプレハブに逃げこんだことがあった(300近いロッカーが並び、夜勤だったらしくベンチに寝てる人や早番出勤の人が続々)が、皆笑顔で「お早う」だった。日曜朝の教会集会での握手ぜめは、前述の通りである。こんなに無防備に人を信じ好意を持っていいのか、と思うほど善意の集まりと見えたのである。
ところがふしぎなことに、事前に読んだ案内書には必ず、PNGは治安が悪いから注意、一人歩きは特に夜間は絶対禁物とあり、襲われたら抵抗しないで有り金全部渡すこと、など物騒な警告がしてあるのだ。外国体験の多いメンバーの伊藤からも、一人歩き厳禁をくり返し言い渡されていた。PNGの主な交通手段が飛行機なのは安全にプラスだ、車で走ると強盗の被害を防ぎにくいから、とも耳にした。事前のこれら諸警告と現地で接した人びとが揃って示す友好性と、落差があまりに大きいのである。
前者の情報がホラでないことが、現地の別の面からまもなく分かってきた。兵士のような警備員が、あちこちの建物にいるのだ。空港や役所はまあ当然として、ちゃちなスーパーの出入口にもいる。PNG最初の夜でかけたレストランの入口に、大きなシェパードが青服の若者の横に座っていた。犬の散歩の人が休んでるな、と思ったのは今思うとまことに日本的な感覚で、楽しく食事を終えて出てきた2時間余後、同じ場所に犬と人が同じ姿勢で座っている。初めてその意味が分かった。別のレストランでは衛兵じみたのが2人、客をじろじろ見ながら一人ずつ入れるのである。所用で銀行に行ったメンバーの一人は、入口で2〜3人ずつ入れるしくみで、カウンターは金属の防禦柵で囲まれ、客はガラスばりの個室で用をするので、変な動きをしたらすぐに分かる、と警備の徹底ぶりに驚いていた。なるほど外の通りからもカウンターの鉄格子は見えたし、銀行前で順番を待つ人の列も見た。
極めつけの事件が、入国2日目のモレスビーのホテルで起こった。研究所訪問に出かけようとロビー正面の階段を降りかけたら、フロントのあたりで鋭い叫び声がして、玄関の方へと人びとが一斉に走るのが見えた。ただならぬ雰囲気と分かってかけ降りると、先にロビーに降りていたメンバーの福島と角田が、事件を目撃していて事の次第を話してくれた。客を装ってフロントに近づいた男2人が、ピストルでおどして3千ドル(とあとで分かった)の現金を奪い、正面ドアに走った。もちろん警備員とフロントたちが一斉に追い、強盗は逃げながらピストルを向ける。警備員が転がって避ける暇に、発砲はせずに男たちは走り去った。映画のシーンのような瞬時の出来事だったという。通報したのだろう、まもなくいかめしい装備の警官が来たが、犯人たちが捕まるはずもなく、あたりはすぐ元の平穏さに戻った。
この連中のような多分プロの強盗団があちこちにいる、というだけではない。街ではバッグやポケットにいつも気をつけること、という注意を、度々聞いた。友好的な訪問後に市場まで車で送ってくれた校長の口から同じ警告を聞いたときは、違和感が一挙に強まった。人びとの笑顔や明るい「ハロー」の裏に、犯罪の意図が隠されていると思った方がいいのだろうか、と。
「仕返し」の国
入国初日の日曜日、観光につきあってくれた日本人青年岩淵氏から、この国の人びとの気風や慣習について、珍しい話をいろいろと聞いた。それは数日後ゴロカの県立中・高校で吉川氏が話したことと、大体一致していた。さらに第三の訪問地ウエワクで、この国に四半世紀近く住む川畑氏も、似た話をした。われわれから見ると奇想天外で信じがたい点もあるのだが、一応整理要約すると、次のようになる。
同じメラネシア系でもPNGの人びとは、今も部族(クラン)に分かれて内部の結束が固く、血縁と同語同士の絆と支え合いが行動の基盤に厳然としてあり、個人の生き方を律している。いわゆる800言語がそれだが、学校での言語教育云々以前の基本的な問題なのである。
他部族の誰かとの間に何か不都合が起これば、部族の誰でもが相手部族の誰をでも捉まえて、「仕返し」をしていいのが、全部族に通有の社会ルールである。していいというよりすることが正しく、男の誇りなのだ。具体的なトラブルに限らない。部族の一人が急病で苦しんだり急死したりすると、かねて対立していた部族の「呪い」にちがいない、こちらからも呪い「返そう」となる。そのための呪術師がそれぞれにいて、日本流にいうと「必殺仕掛人」に当たるそうだ。もちろんこれではどんどんエスカレートして、果てしない両部族の殺し合いになりかねないから、程よいところで両者間で和解の儀式が行われ、飲んで歌い踊って元の平和に戻る。やがてまた何か起こる、ということのくり返しが、ここの特に高地諸族に今なお強い行動の基本様式なのだという。
吉川氏はこの国に住むことになった昨年、次のような警告を受けたという。君がもしPNGの人と何かトラブったとすると、それは君だけでなく日本人の誰にでも仕返しをしていい権利を与えたことになる、気をつけるようにと。荒れた高校で生徒が先生に物を投げたのは、この国では非行ではなく、当然の行為なのだ。吉川氏は万一あとの災いが広がるのを恐れて、強く叱るのをやめたという。岩淵氏は現地人を妻にしているが、結婚のとたん周囲の人たちの扱いがガラリと変わったという。日本人というクラン(大きさの比較は困難だろうから)から某クランへと登録替えをした、と認知されたのだろう。選挙制度はあるがもっぱら血縁語縁の争いであり儀式だから、たちまち複数クラン間で仕返しの三つ巴となり、投票所だった小学校がこわされて半年近く授業ができなかった。やっと地域の教育委員会が仲に立って四つの部族長の話し合いとなり、2,000キナずつ出し合って校舎を修復する、という和解が成立した。これはホテルにあった英字新聞の記事で、だからホットなごく最近の実話である。
呪いと病気の因果関係立証は難しいからまだいいが、実際に敵の一員を傷つけたり甚しい場合は殺したりすれば、当然犯罪となる。しかし捜査し逮捕する警官もあるクランの一員だから、下手をすると彼の部族が次の報復の対象になりかねない。だから、見ぬふりが無難となる。運悪く捕まって裁判になっても、証人は仕返しを恐れて出廷しないから、立証困難証拠不十分で釈放となる。たまに動かぬ物証のあったケースは刑務所ゆきとなるが、刑務所は前を通りながら見た限りでは、塀もなくその気になれば逃亡容易である。毎土曜の面会日には、一族揃ってごちそうを持ちこみ、祭の日のような大さわぎとなる。ルール通りの報復をやってのけたのだから英雄扱いで、服役が恥という意識は誰にもない。もともと犯罪の意味が、日本を含むいわゆる先進国の常識とは違うらしいのだ。
もちろん学校では道徳を教え、クランを超えた行動ルールを促すが、家庭や地域を支配する目の前のそれらをくつがえすことは、難しい。キリスト教信者が90%以上となっているのに、とふしぎだが、言いかえれば布教数百年の戒律も古来の慣習を破り得ないことの実証ともいえる。他方で、部族ルールが今も不動なのは、山や密林に隔てられ道もない地形が、温存の一因となっているらしい。政権を握る人びとや外国資本が、あえて道を作らず民衆を今のレベルに保とうとしている、という説も耳にしたが、本当かどうか私には分からない。
かなり広い各クランの占有地は古来のもので、これをめぐる争いは深刻なものとなる。しかしそのほかのモノやカネは、天下の回りものというか、所有の観念もまたわれわれとは違うらしい。手の届く所に放置されている物は、手に入れた者勝ちだ。この感覚には、理由がある。主食であるイモや果実は、肥えた地味と育つに適した高温多雨で、自然に豊かに実り、採った者が食うのが当然である。
明日はあすの風が吹く
だから、農・漁業従事者が国民の85%を占めるといっても、日本を含む先進国の統計とは、いささか違っている。せっせと働く必要が、もともとないのである。「先祖の誰かが植えたイモや野菜」というのは冗談としても、要るのはせいぜい植える手間と抜く力、多少の調理技術くらいで、あとは自然が豊かに実らせてくれるから、働く習慣がもともと彼らには乏しいのだという。この程度の手間は家事育児の傍ら女性がやってしまうから、男はすることがない。町のあちこちにたむろして一日中、ぼんやり座っていたりお喋りしている人びとは、初め誤解したように日曜の安息日ゆえではなかった。部族間の争いごとやケンカ、仕返しゲームは、だか
ら貴重な退屈しのぎとして、昔から続く男たちの暮らし方そのものなのである。
(バザールにて)
ウエワクは、紺碧の海が目のさめるように美しい町で、海には魚が豊富だという。ところが住民たちは、遠浅にふみ入って1匹2匹と釣るとか、小さな舟を岸近くに出す程度で、その日食う魚を採るだけである。元来タダなのだからもっと取ってきて売れば、とそそのかしても、何とか彼とか言って、必要以上採らない。たまに余分な漁獲を買い集めて店を開こうという野心家が現れるが、仕入れの金を飲み食いしてしまったりして、半年と続かない。つまりここの人たちは、計画を立てて金をもうけ、さらにふやして生活レベルを上げようという欲に、乏しいのである。現に銀行やホテルなどの大きな企業や町のガソリンスタンドに至るまで、オーナーは大抵オーストラリア人かマレーシアあたりから移ってきた華僑で、PNG人の企業家は数えるほどだという。もうけすぎている連中からカネや物を奪うのは、見えないバランスを取り戻す「仕返し」の一種であり、華僑たちもこの国でもうけ仕事をする上でのいわば税金だ、と割り切っているフシがあるという。
そういえばゴロカで見学したコーヒー工場は、ほとんど野天で豆を洗い皮をこすり落として広げて干す、原始的な工程ながら、珍しくPNG人の経営だった。見学を終えて帰りかけたわれわれに車の窓から手を差し入れて、「PNGのコーヒーをもっと買って下さい、お国に帰られても」と一人一人握手をするなど、商売気も充分と見えた。彼の起業歴を、もっと聞けばよかった。どの町にも直接売り買いの市はあるが、店を構えた商店はモレスビーのそれも一部にしかないのである。
教育改革が進んで、就学率が上がり、大学に学ぶ者も大幅に増えれば、科学や経営学を身につけたPNG人が増えて、状況は変わるだろう。しかしそれまでの間に、地下資源など発展に必要なものが持ち去られたり、環境条件が悪化したりしないかと、心配になる。といって改革のテンポを今以上に速めて、人びとの自然と調和した暮らし、カネの量で測るのとは別の意味で豊かな生き方が、根元から否定され放棄されてよいものか、ためらいが残る。
PNGのどこへ行っても、外国人の多いホテル近辺や観光地でも、物乞いの姿を一度も見なかった。自然が食うことを保証してくれる生活ゆえであろうし、必要なものがあれば一族やクランの中で融通し合うのが当然だからでもある。ねだる面倒よりその辺の物を失敬する方が簡単だ、という気風もあるだろう。しかしだんだん、外国出来の便利で魅力的な品物が出回り、どの町にもスーパーまがいの店ができている。フィルムを買いに寄った一軒には、しゃれた家具やテレビ等の電化製品が、何百キナの値札つきで並んでいた。カネが物を言い、その量が人びとの今の基本的に平等な暮らしに格を生ずるときは、かなり近くに迫っているのではないか。そんなとき、アッサリと、カネを得るためクランを富ませるためなら、どんな荒いことも相手選ばずにやってのける、本当に危険な社会に転化しないとは、言いきれまい。
空港を出てこの国に一歩を印したとき、半裸でハダシの子が多いこと、大人でも裸足が珍しくないのを見て、驚きを感じた。しかし見慣れるうちに、彼らの足がたくましく黒く太く、五本の指がしっかり広がって大地をふまえる安定度に、感心した。その足を使って彼らは、どんな炎天に焼けた地でも、何十キロと遠い道のりでも、黙々テクテクと歩き続けるのを、至る所で見た。われわれはもう、はき慣れた靴を脱ぐことはできないし、大地に生えた二本の木のように立つことも、もうできない。
熱帯らしく時々、夕立のような雨が降る。大あわてで雨宿り先をみつけるのに苦労するのだが、PNGの人びとは悠々と歩き続ける。慣れているし、すぐ上がると知っているし、半裸の服は当然乾きも早いのだろう。しかし面白いのは、降りはじめや上がりかけを、道を歩く人の様子で知ることはできない、ということだ。日本なら、急ぎ足になったり空を見たり傘を操ったり、などの動作で、今の雨滴の落ちる程度がすぐ分かる。この国では、降ろうと小やみだろうと態度が変わらない。ふしぎなのは、閉じた傘を持って雨の中を悠々と歩く人が少なくないことだ。日本なら、あ止んだな、の指標が通用しない。自然にひたって自然のままに従う生き方が、象徴的に表れているように思えた。
5.日本人たち
ウエワクで泊まるホテルのオーナーが川畑氏という日本人だ、ということだけは知っていた。PNG に行く日本人は少なく、住む日本人は全土で200余人にすぎないから、会うことはそうあるまいと思っていた。実際に、これまで行ったどの国とも違って、旗を先頭にぞろぞろ歩く日本人観光団体は一度も見なかったし、ホテルや空港で日本人と見分け合ってあいさつを交わしたのは1〜2例に終わった。ところが思いがけない縁で、川畑氏を含め、訪問した三カ所でそれぞれ一人ずつ、日本人と知り合えた。しかもそれぞれにひとかどの人物で、乏しかった情報を得ただけでなく、話して大いにプラスになった。そこで三人のことを、プライバシーに関わらない範囲で書いてみたい。
岩淵氏
パプア最初の日の午前10時、現地旅行社のワゴンでホテルに来たのがハンサムスマートな日本人青年なので、驚いた。25歳、当地に数年、妻が現地人、とあっさり自己紹介し、助手席でガイド役をつとめる合間々々に、進んでいろいろな話をしてくれた。なぜPNGに、という当方当然な問にも彼は淡々と、祖父がこの地で戦死して、と話しはじめた。父(当時幼かったのだろう)は長じて島に渡り、現在はニューギニア航空の日本支社長をしている。自分もその関係で度々ここに来るうちにPNGが好きになり、旅行社の現地駐在員として定住することを選んだ。英語はここでは上達しないが、ピジンとモツは話せるようになった、と。
郷里は岩手県で、父はPNGを往復する折々、日本兵の遺品など戦争に関わる品々を日本へ運び、岩手に小さなパプア平和記念館を作った。ここが激戦地で15万もの人が亡くなったこと、戦争の悲惨と平和の大切さを、日本のそれも地方の人びとに知らせて考えてもらうために。日本政府や国民の意識が、中国や韓国など比較的近い国との関わりに向きがちで、遠い過去の戦没の地は忘れられがちだから、と。父の影響か彼自身も、高校時代に韓国に留学するなど、経験と見聞の末のPNG定住である。
前章に記したPNGの人びとの特異な行動様式や社会の特徴の多くは、彼がこのとき車中で話したことに基づいている。話しながら彼が、度々植物の茎のようなものをビンの中の灰色の粉にまぶして噛むのが印象的だった。これはビンロウジという植物と石灰で、化学反応を起こして口の中が赤く染まる。ピリッとした刺激と強い味がして、特に美味ではないが習慣性があり、この地ではタバコに匹敵する一般的嗜好品という。味見は遠慮したが、彼がここの生活にとけこんでいることのしるしであろう。紅をさしたように唇が赤くなるのが、肌の白さにひきたって、初々しい少年のように見えた。
夕方、モレスビー港の海上村に行ったことは前に記した。住民たちが混んで座っている中を彼は平気で通って案内し、説明した。ここの住人は漁師ではなく、町に通う勤め人が多い、と。「僕もその一人です」とアッサリ言うので驚いた。まもなく彼はどこかから一歳未満と見える小さな男の子を抱いてきて、「僕の息子です。いや正確に言うと養子ですけど」と言う。その子が彼の腕に安心して抱かれて、見慣れないこちらを黒い目を見はってみつめているのを見ると、冗談ではないらしい。やがてその辺じゅうから半裸ハダシの子らが集まってき、男たちの合唱を見に行ったりして戻ったら、妻だという女性が姿を見せた。当地の人らしくたくましく、彼の方がほっそり年下に見える。してみるとこの海上村は、彼が「転属」した某クランと関わっていたのだろう。
帰りのワゴンで彼は、旅行社が経営するレストランがホテルから遠くない所にあって、焼肉がうまいと言う。当方不案内だし話に乗ることにして、約束した時刻に店に着いた。日本風に「大黒レストラン」とあり、シェパードが座っていたのはここだ。驚いたことに、彼はこの店の店長で、数人の現地人を堂々と指揮している。海上村で見た妻と、もう一人よく似た女性(イトコだそうだ、同クランである)が、飲物や料理を運ぶなど軽やかに働いている。客席は大きな鉄板を囲んでしつらえられ、白いコック帽の現地人コックが、次々みごとな手さばきで注文のエビや肉を焼いて、客の皿に配る。鹿やワニの肉など珍しく、派手に焔を上げるパフォーマンスもあって、PNG最初の夜を満喫した。たくましく大きな従業員たちをてきぱき指図し、客席にも適宜あいさつに来て気を配る彼は、みごとな店長ぶりで、先刻までとは別の顔に見えた。多分この方が本務で、昼のガイドは同国人の好意で買って出てくれたのであろう。
吉川直樹氏
全く偶然の出会いである。ゴロカ県立中・高の校長が、懇談が始まるとすぐ彼のことを話し、優秀な教員で気に入っている、と賞めた。朗々と英語で講義する声が教室外までひびいていたことは、前に記した。授業の終わった2時すぎ、彼は人なつこく、初対面のわれわれを進んで学校じゅう案内し、何でも話してくれた。
本務のコンピュータ初歩を10年生に教えるほかに、試験に備えて理科の数科目も担当したりして、1日6コマ時には8コマぶっ続けで教える日もあるという。コンピュータは最近中国の援助で十数台入ったばかりで(うち7台はこわれていて往生した、とのこと)、先生たちも初見の人がほとんどだから、習いたいと言う何人かにボランタリーで手ほどきしている、と教員用の小さいコンピュータ室(ここだけ冷房あり)も見せてくれた。おまけに彼はクラス担任までしていて、2月が新学年だからたった2カ月の間に、せっせと名と顔を憶え、個人面接までしたという。大へんな活動ぶりで、校長の言う通り頼もしい教師、と思えた。
彼は気さくに、自分の住む教員住宅にも案内して、中を見せてくれた。かなり広い居間にダイニングキッチンがつき、寝室が別にあって、一人住まいには充分な広さだ。しかし着任したとき、しばらく無人だったこの家はひどい荒れようで、冷蔵庫からゴキブリがゾロゾロ出てきたという。やっと清掃修理して住み始めたら、カギをかけたのに泥棒に入られた。金目の物はないからいいが、用心に二重三重のカギにした、と。見るとなるほど、寝室など家の中のドアにも南京錠がつけてある。
自炊だし、夜はたった一人である。気晴らしに街へ出ようにも遠いし、第一ひとり歩きは危険だ。この生活に慣れるまでに、やはり時を要した。彼と同じように青年海外協力隊でPNGにきて、最初ははりきっていたものの、この孤独と夜の外出さえできない危ない暮らしにいや気がさして、中途帰国した若者もいたという。そう笑って話す顔が、自分は大丈夫と言うようで頼もしく、貴重なものに見えた。
お世話になったお礼にと、その晩夕食に招待した。彼のまだ少ないレパートリーから推薦の中国料理で、美味で環境もよく、ゴロカの印象を一そう良くした。見かけの若さからは意外な37歳で、大阪の大学を出て会社勤めをし、コンピュータ関係の仕事だった。短期間だが高校の教師をしたこともあるそうで、協力隊に今の形で応募したのも、その体験からという。PNGを望んだわけではなく、予備知識もなかった。
にもかかわらず、こうして厳しい条件のなかで、みごとに適応し活動しているのはりっぱだ。彼に教わる生徒や同僚教師たちは、コンピュータ技術もだがこの活気と覇気そして志をも、言葉や習慣の違いを超えて受けとるにちがいない。協力隊のことは本で読んで一度実物に会いたいと思い続けてきたが、そのとびきりの例に出会えた。この旅の大きな収穫の一つ、と言っていい。
中国料理を共にしながら、昼間のような学校の話を離れて、彼が観察し知ったこの国の人や社会のあれこれを話してくれた。前章に書いたことのかなりの部分は、この時の話に基づいている。観察が鋭く、見る面が多様で面白いので、メンバーの中の教育雑誌編集や出版に関係ある二人が、体験を書きとめて記事やエッセイにしたら、と勧めた。一人ぐらしの夜にいい時間つぶしかも、と彼も次第にその気になったように見えた。もし実現したらそれはまた、この未知の国の人びとの生きた姿を日本の読者に伝える、もう一つの貴重な貢献になるだろう。
川畑氏が国際電話で宿泊の連絡の際に、日本のミソを持ってきてくれと言ったそうで、メンバーたちはめいめいに、ミソと思い思いの小さなみやげを用意していた。その一部をここで、吉川氏にあげることにした。彼は素直に喜んでくれて、こちらもしみじみこの出会いを嬉しく思った。
協力隊はふつう2年の契約で、日本の社会では帰国後の就職に難儀することが多い、と本にあった。終身雇用の慣習の崩れつつある今、以前ほどのことはないと思うが、吉川氏がこの国の人びとに多くのものを与え、また得て健康で帰国し、日本でそれらを生かして良い人生を送ってほしい、と祈らずにはいられなかった。
川畑静氏
ウエワクの空港に、オーナーみずから車で迎えにきてくれていた。南の海きらめくビーチ沿いに走り、彼のニュー・ウエワク・ホテルは、岬の突端で海を見わたすすばらしい場所にあった。彼自身けんそんする通り、これまで2カ所で泊まったいわゆる高級ホテルではないが、親しみやすい当地風の庶民的なつくりで、旅の終わりの宿として申し分なかった。
くつろいで昼食後、午後一ぱいかけて戦跡めぐりにつきあって下さった。ここにホテルをかまえて20年近く、日本人がここに来れば大抵泊まるし、毎年訪れる戦没者慰霊諸団体の常宿に、自然となっている。時に戦跡保存や記念行事等をめぐって日本政府とかけ合ったりもするから、一種独特なこわもての名士である。だから道々、外務省や厚生省の役人たちとのやりとり、代々の日本大使の逸話などまで、いろいろ聞けて面白かった。
平和公園は、戦没将兵の慰霊のために日本政府が1955年に碑を建て、その後現在の大きな碑に直し周囲を整備して、記念公園とした。回りに垣がめぐらしてあり、入口の南京錠を同行の現地人従業員が持参のカギであける。もちろん中を荒されないためだが、まさしく川畑氏は15万死者の墓守、ここに留まる魂の慰め手なのである。モレスビー攻略戦に敗れた日本軍は、あの道もない中部山岳・森林を越えて、この海岸へと無理な行軍をし、セピックでほとんど全滅した。といっても飢えとマラリアほかの風土病での死が多く、戦っての死よりもはるかに多いという。「山を越えた時点で降伏すべきでした。司令官が職業軍人だからー」。こんなに遠い未知の南国で、兵士たちはどんな思いで死んで行ったのだろう。台湾の高砂族(山岳慣れしている)がいた隊は生きのびる率が高く、帰国できたのは全隊合わせて1万人ほどという。
カトリック諸施設の間を抜けるとこんどは小高い岬で、海に面して「第十八軍、第20師団・・・」云々と彫った大きな慰霊碑が建っている。これは個人の発意で生存者や遺族が寄金しての建立で、たくさんの個人名が兵隊の位と共に彫ってある。碑の上には鉄カブトとさびた銃身が載り、碑の下部には石のふたをした空洞がある。戦跡から今も出る遺骨をここに集め、ある程度たまったら清めて日本に持ち帰るという。見晴らす海は青くきらめき、彼方に旧海軍基地や捕虜収容所跡という島が見えた。この海を眺めながら逝った人たちは、どんなに帰りたかったことだろう。たくさんの人生をふみにじった無謀無法な戦争を、なぜやれたのかと、憤りと共に不思議な感さえする。
司令官安達中将は、降伏の調印を終えたあと自決した。彼は厳格な軍人で、住民への掠奪や不法行為を銃殺刑をもって禁じたという。それも遠因か、PNGの人びとの日本人への感情は、一貫して比較的良い。慰霊団は、あの碑にあった三つの師団の郷里からが一番多い。当然だが高齢者が多く、子どもたちにチョコレートやアメをばらまきたがるので、制するのに苦労する。と語る川畑氏の記憶には、敗戦時日本の進駐軍風景があるにちがいない。
運転し続け喋り続けて疲れを見せない元気さだが、氏が大正末年生まれの72歳と聞いて驚いた。彼の戦場はここではなく、大戦末期山口県の光市にあった海軍基地で、人間魚雷の訓練を受けていた。往きの燃料だけで発射、敵艦に体当たりし損ねたら自爆のほかはない、死の乗物である。8月15日の一週間後が出撃予定日だったため、かろうじて生き残れた。京都の出で、復員して大学に入ったが入学式だけで登校せず、荒れすさんだ数年を送った。少年時代から趣味だった写真が身を助け、ニュース映画のカメラマンになったのがきっかけで、報道記者・映像作家として、機材をかついで国内外を写し回り探検して回った。
当時の映写機材は重く、知らず知らず体を傷めて療養、退職。アジア各地や南米を放浪の末、ここに居ついた。現地人の妻との間に三児があり、長女は日本で学んだこともあるが今は結婚してモレスビーに住み、次女は医師を志してオーストラリア留学中、三女は当地のインタナショナルスクールに通う中学生である。娘たちが日本に連れていけとねだるので、一年おき位は日本に行くが、雪を見てはしゃぐ子たちと違って、自分にはもう故国の寒さがこたえる。
そろそろホテルを売り払って、この辺の無人島を一つ買い、気侭な暮らしに入ろうかと考えている。しかし日本の実業家たちに話を持ちかけても、遠くて観光地としても知られていないここに、出資の意欲は起きにくいようだ。第一、毎年三百人は来る慰霊団の人びとは、自分がやめれば泊まり先を失い、話し相手を失うだろう。世話はやけるが、まだ当分はがんばるかな、とこの老墓守はおだやかに話した。
(ウエワクの慰霊碑前にて)
6.この旅で知り考えたこと
これまでに訪れたどの国にもまして、PNGは情報少なく、われわれの日常から遠い国である。調査本来の目的は教育状況だがそれを超えて、現地にきて驚いたこと、見聞きして考えさせられたことは多く、そのかなりの部分は今も疑問のまま残っている。
そこで2〜5の記述をふまえながら、今後も見守り考え続けるためのメモとして、簡単にまとめておきたい。
日本はこの半世紀万事が急激に人工化した国だから、どこを訪問しても、まだ豊かに残る自然やそれと調和して生きる人びとに、感銘することが多い。しかしPNGは、格段にその度が著しかった。首都の街中でも子どもは半裸で裸足、大人も地方では同様だ。肥えた土と雨が育てる植物、海に群れる魚を必要なだけ採って、平穏平等に暮らしている。精出して働いてもうけて人の上に立とうという欲望が、ほとんどない。同様な地域は地球のあちこちにあるのかもしれないが、実見したことの意味は重かった。
穏やかで善意にみちてはいるが、争いや対立がないわけではない。しかもその原理が、日本を含め今や世界の多数派諸国(仮に簡単のため「文明」諸国と呼ぼう)のルールとははっきり違うことが、衝撃的であり面白かった。血縁同語のクランが全行動の源泉で、集団間の個人を超えた「仕返し」と和解の循環が、今も支配的らしい。司法とか選挙その他、形は「文明」諸国に合わせているが、中身が全く違うし、所有の観念自体も自然採取的段階を出ていない。犯罪多発の国というのは「文明」のものさしであって、この国の人の目線ではどうも万事が自然のゲームめいている。こんな社会が20世紀末の今現存するなんて、旅行案内書にも書いてないし、全く驚きと興味の連続だった。
学校教育のシステムもオーストラリア経由「文明」の形をとり、特に90年代の教育改革で就学・進学率上昇、つまり「文明」の普及を目指している。母語から入って全員が無理なく英語を学び、われわれも実見した諸教科書に沿って、世界共通の知識や考え方を学んでいくのだ。クラン・ルールを超えた普遍的ルールは、徐々に或いは意外に早く、前者を克服するであろうか。
ゴロカの小学校で、幼い1年生も少年ぽく成長した6年生も、驚くほど全員一致して学校を「好き」と答えた。「友達」「安全」も理由だが、「学べる」歓びや意欲を、子どもたちは持っている。逆質問でとまどったように、日本の子どもはこの素朴な「学校大好き」感を奪われているのではないか。さらに6年生たちは志望を問われて口々に、現代社会を担う「文明」的な職業を答えた。希望に輝く黒い瞳々に明らかなように、学校は確かに若い世代にこれまでと違う、大人たちと違う価値観や生き方を指し示しつつあるようだ。
県立中・高じゅうを吉川氏の案内で見て回ったとき、あちこちの壁や木の幹に、「英語で話そう」「英語で考えよう」と書いた紙が目についた。前者は道具の熟練ゆえまあいいとして、英語で考えることの勧めには、あっさり肯定しきれないものがある。諸国を制覇し植民地化し、今も世界を一方向に進めつつある強者の思考をわがものにすることは、立身の便宜などを超えて、民族の魂の改造ではないか、と思えるからだ。
ウエワクの国立高校では、毎週の朝礼で唱える「PNGは一つ」の紙をもらった。全員大学や留学を目指すエリートの若者たちは、この800の言語とクラン・ルールで暮らす人びとを一つにまとめて導く使命感を、毎回強化され続けているのだろう。
これらの見聞をまとめると、この国で進行中の教育改革は、分断された地域、保存された行動ルールに生きる五百万人を包みこむ、壮大な実験といえる。民族のアイデンティティを、どこに求めるのか。見たところそれは、近代化世界化をめざす「開発と進歩」の方向づけで、改革の立案者たちと次々育つエリート青年たちが、その牽引車といえるだろう。どの国も経てきたこの方向、「英語で考える」呼びかけが象徴する一方向の世界化は、やむをえない、或いはそれしかないのか。この急流に急いで乗ることが、この国の唯一の未来なのだろうか。教育はその主柱であり、押し流す力である。明治以来日本の学校がそうだったように。私には分からない。
はたから止めることはできないし、見守るほかはない。あの輝いた目の子どもたちの未来をひらくために、われわれにできることがあるだろうか。
これまでの話をひっくり返すようだが、ちょっと立ち止まってふり返ると、異様独得と見えるPNGの行動ルールは、さほど特別ではないとも思える。
血縁地縁で選挙が左右されいがみ合いが起こるのは、日本、韓国その他半公然の現実だ。ある個人の不都合を集団全体に負わせて差別したり警戒したりするのは、意識の度はとにかくわれわれが日常やっていることではないか。ごちそうや贈物はそれに見合う「お返し」を期待してのことで、それを怠ると排斥され報復されかねない。自分に冷たい世間を「見返す」決意や行動は、何も少年のナイフだけの話ではない。
「文明」のルールは、これらの身びいきや仕返しルールを温存しながら見えないところに押しこめ、代わりに普遍的な「人権」や「法」の概念を発明したのではないか。それらを主導し強調するアメリカでさえ今も、その人種なら誰でもいい式の報復・迫害が横行しているし、無法者・ならず者は個人と国家を問わず増えているようだ。「文明」ルールも案外まだ実験中、といえるのではないだろうか。
ゴロカの小学校で話した教員たちは、母親年輩のたくましい女性が多く、こちらの問いに物おじせず進んで発言した(数の多さもあったが)。住宅不備のためもあって、ほとんどが村や町に住んでの通勤と聞いた。給料その他不満は多いが、「小学校の先生をしてよかったと思うこと」と問われて、「国を基本の所で支えている」とさわやかな答が、忘れられない。教育改革を最も子どもたちに近い現場で受けとめて、生活の中で生きた工夫をしてくれることを、彼女たちに期待したい、とあのとき思った。わが子も含めて、あの黒い輝いた目の子どもたちが、地域のルールに生きながら世界のルールの中でそれをつくり変えていく未来を、彼女たちと共に信ずるほかはない。
4章で、雨の中を歩く人びと、たくましく広がって地を踏みしめる足指のことを書いた。もうああした自然のなかの生き方に戻れないにしても、われわれは最近になってようやく、この数世紀自然と敵対し破壊し痛めつけてきたことの誤りに、気づきつつある。自然からのさりげないが手痛い「仕返し」を受けて、何とか和解にふみ出そうとしているところだ。PNGの人びととわれわれとの距離は、僅かだが縮まっているのかもしれない。
<追記>
帰国後春休みが終わって久しぶりで登学した4月8日、意外にも、もうゴロカの小学校6年C組から英文の手紙が来ていた。日付は3月26日、つまりわれわれが訪問した翌日にもう出したのだ。思いがけない来訪への喜び、記録ができたら送ってほしいなどとあり、1997年に社会科で日本のことを習った、実物に会えてよかった、とある。あのとき当方の問にすぐに正答が出た理由が分かったと共に、生き生きした興味で学んだからこそ、翌年の予期せぬ機会まで憶えていたのだろう、と頼もしく思った。さっそくそんなことも書いた返事と、訪問のとき撮った写真数枚を送ることにした。先生たちとの写真も3枚同封して担任に、校長ほか誰かにあげて、と頼んだ。あのたくましい女性教員たちは、この写真を囲んで又一しきり喜びざわめくことだろう。
1998年5月 (石原静子)
写真撮影:福島達夫