ネパールの生活・教育と未来

和光大学総合文化研究所C系「アジアの教育―研究と交流」プロジェクトチーム

 この小冊子は、和光大学の教員4名が、表記研究所のプロジェクトチームの一環として、1999年早春の約1週間、ネパールの教育調査を行なった報告書である。全体の記録をまず調査団長である石原が書き、続いてメンバーが各自の関心に沿って報告・問題提起をした。

1.はじめに―なぜネパールか


調査研究の目的
 「アジアの教育−研究と交流」は、研究所所属の共同研究プロジェクトの一つで、発足三年目の比較的若いチームだ。しかしその前は大学教育研究のプロジェクトをやっていて、外国大学の訪問調査に行ったのをきっかけに、初等中等を含めたアジア諸国の教育研究へと移行した。この前史時代を含めると、中国、韓国、タイ、ラオス、カンボジア、パプアニューギニアと、年1〜2国の調査記録を重ねた。

 プロジェクトの目的は、主に三つある。第一に、現地に行って直接に教育状況を現実の社会的背景の中で知り、アジア今後の発展方向と照らして考えること、第二は、こうした情報に乏しい日本にそれらを持ち帰って知らせ、わが国教育の未来も含めて考え合う機会を作ること、第三に、この過程で必要可能な支援の方途をさぐり、とりわけ各地域と日本の若者の交流をはかること、である。なお調査の際、教育全般の中でも教育養成の面に、やや重点をおいた。というのは、発展途上国では特に、教育の向上には物質面の充足もだが、よい教師の輩出が最重要と思うこと、さらにチームメンバーの過半が実際に大学で、教職課程と関わっているためである。

ネパールを選んだ理由
 99年春の調査対象国にネパールを選んだ理由も、いくつかある。上記目的の第二に沿い、わが国で情報の乏しい国の一つであること。98年のパプアニューギニアが赤道直下の南海の島国だったから、一転してヒマラヤ直下の山国を志したこともある。北と南を中印二大国それも核保有国に挟まれ、98年5月にはパキスタンを交えて核実験競争になった。そんな国際環境で、いわば逃げ道のない小国が、どう生きのびていけるのだろうか。

 そこで10月初めの研究会に、ネパールから来て東京農工大修士課程で学ぶ留学生を招いて、故国の現状を話してもらった。チームメンバーの一人井上が、東京外国語大学の日本語教育センターで、留学初年の彼女を教えた縁からである。日本語のレジュメを用意してりっぱな講演をし、次々の質問にも的確に答えたから、彼女を育てたネパールの教育を知りたい気持ちがいっそう強まった。大学院での研究領域は環境科学で、故国が都市化や農業近代化に伴う環境悪化著しいゆえという。では帰国後は行政官となって改善に尽力するのかと質問したら、留学帰りにそういう例は多いが自分は違う、もっと自由な活動の中で学んだことを生かしたい、大学教員になって若者の問題認識を深める道もその一つだ、とさわやかに答えた。わがチームメンバーにもともと環境問題の研究者が二人(専攻は地理学と化学)いたこともあって、以後の月例研究会では教育問題と並ぶほどの比重で、この方面のテーマをとりあげることに自然となっていった。

旅の準備
 ネパール行きの意思が固まるにつれて、障害も明瞭化した。わかっていたとはいえネパール情報の乏しさと、調査実現をはかるツテがないことである。前者では、ヒマラヤ登山や観光案内書、また多民族国家ゆえ文化人類学的報告や紀行文はいっぱいあるが、教育方面の本はほぼゼロ。ツテの方は、年が替わる頃にやっと、メンバーの一人伊藤が半ば偶然の好運で、ネパールに詳しい大東文化大学の沼口博教授と知り合った。現地の教育支援NGO組織とも親しい教育社会学者で、99年2月中〜下旬学生を体験学習に連れていく予定という。渡りに船と、当方も同じ頃に行くことにして、組織の事務局長?でネパール在住の神保映氏とEメールを交換、主な訪問希望先の手配もお願いできた。多忙のなか未見のわれわれのために労を惜しまれなかったお二人に、心から感謝している。

 情報は依然乏しいが、メンバーの内田と角田が研究所のインターネットを駆使して、多少の収集をした。その中から、次章以下の報告を支える基本的な事柄いくつかを、摘記しよう。ネパールの面積は約14万ku(日本の1/3強)、人口2300万(日本の1/5弱)、うち0〜14歳42%(日本は15%)、農業人口90%(日本は農林業6%)、平均寿命57歳(同80歳)、識字率28%(但し15歳以上について。日本99%)、−以上アメリカの世界統計'97より−

 こまかく数えると百を越す多民族からなり(日本は99%が同一)、首都カトマンズ周辺のネワール族など百万人に達する部族はいくつもない。東西に長い国土の、北部はヒマラヤを含む高冷の山地、南はインドと接する亜熱帯の平原、中間は標高千米前後の丘陵地で、住民はここに多い。8割強がヒンズー教徒で国教でもあり、チベット仏教が次でイスラム教徒もいる。かつて100もの民族小国があったが、18世紀半ばにラナ家が国家統一し、その少し前にイギリスと戦って負けたこともあって鎖国に入る。第二次世界大戦後開国して現王朝となり、1990年代にやっと政党を認める立憲主君制に移行した、というのが大ざっぱな近代史である。

 肝心の教育制度に関する情報は乏しく、小学校が6歳からの5年、中学2年高校3年、大学は国立私立各1校と小規模特殊なサンスクリット大学の3大学のみ、他に職業教育中心の専門学校がいくつか。95年までに小・中学校は次々と無料化、小学校義務化へと進んだ。就学率は小学校70%、中学30%、高校20%あたりで(というのは年度や地域による差が大きい上に、在籍だけとか留年など複雑で統計数値が不安定)、教員養成に関してはほとんど資料ゼロである。


2.旅の日程とネパール初印象


旅の日程
そんな程度の予備知識の下、半ばぶっつけ本番の調査行となった。具体的な全日程を、日記風に記しておく。

○ 2月24日(水) 午後6時成田空港出発、深夜バンコク着、一泊。

○ 2月25日(木) バンコク発午後カトマンズ着、東京との時差3時間15分。王宮と周辺の寺社を見学後、夕刻大東文化大学一行と落ち合い、学生たちがホームステイに向かう紹介と交流の場に立ち会う。

○ 2月26日(金) 午後文部省の一室で文部大臣と会見、沼口氏同行。夜、神保氏の案内で、王宮広場の一角で現地少年の成長を祝う宴に参加。

○ 2月27日(土) 午前、大東文化大学の学生たちと共に19人乗りのチャーター機で、エベレスト近くまで遊覧飛行。午後ボダナート寺(通称目玉寺)、ヒンズーの聖地パシュパティナート寺と川べりの火葬場を見学。夜、大東組がトリブバン大学(国立、以下T大と略す)生たちと語り合う交流会に参加。

○ 2月28日(日)〜3月1日(月) 保養地ポカラに飛び、ペワ湖や周辺の町を散策、夜諸族歌舞団の催しを見物。翌朝、サランコット山の展望所で、アンナプルナ他の連峰が昇る陽に染まる刻々を体験。ダム、渓谷、洞窟等を回り、ヒンズー教のヒンドウバシニ寺院で鶏をいけにえにする儀式を見る。午後、カトマンズに戻り街を歩いて、水かけ祭(通行人特に若い女性に水をかける陽気な祭)を実見。

○ 3月2日(火) 午前、T大の教育研究所(教育改革・開発研究センター、略称CERID)訪問。所長ほかと懇談し、ネパール教育の全貌を知る。続いて近くの1〜10年生が揃う公立学校に飛び入り訪問。5年生の授業を見学、生徒たちと対話。午後、大学分校の一つマヘンドラキャンパスを訪問、分校長ほかと懇談後、キャンパス内を見学、授業をのぞく。この間内田は別行動で、午前中は2月26日朝に一度たずねた環境NGO、CEAPRED(環境農業政策研究センター)を再訪し、応用昆虫学者のタパ、ネウパネ両博士に面会した。

○ 3月3日(水) 別の分校Sano Thimiキャンパスで職業科教員養成を中心に分校長らの話を聞き、実習室などキャンパス内を見学。続いて、ネワール語で教える私立小学校(1〜7年生、就学前3年齢組併設)を訪問、午後は郊外の農村にある公立小学校(1〜5年生)を訪問。公私両校とも授業参観、子供たちと対話、教員たちと交流。夕方、カトマンズ郊外の古都バクタプルの旧王宮を見学、夜のフライトでネパールを離れる。

○ 3月4日(木) 深夜バンコク中継で午後成田着、解散。

 ネパール全図に一行が滞在した2市とヒマラヤ主要峰を記入したものと、訪問した諸施設、学校等の位置を示すカトマンズ略図をのせる。

ネパール全図 (33KB)
カトマンズ略図 (135KB)

 日程表に見るとおり、第2日の大臣会見を除いて、主目的である教育調査のほとんどは後半第6、7日に偏っている。これは、大東文化大の終期日程にこちらの前半を合わせたのと、日程の真ん中に土日が当たって訪問ができず見学中心になったためである。しかし1で述べた通り、プロジェクトの目的には、各地と日本の若者の交流及び社会状況の中で教育を見て考えるの2項があるから、この異例の順序はそれなりに有効だった。そこでまず、初めの数日の体験の中から、3.以下の報告の背景となりそうないくつかを記そうと思う。ただしわが一行が滞在したのは中部盆地の2都市のみで、地方の農村に行く暇はなく、また健康への配慮からホテル住まいだったため、人びとと触れる機会も少なかった。限られた見聞だが、ネパール初印象は次のようである。

待つことも仕事?
 カトマンズに着いて、空港前に出たとたん、道路をへだてた向こう側に綱が張られて、色黒い男の大群が口々に叫びながら何か書いた紙を掲げ、身を乗り出してひしめいているのに驚いた。中には日本語で「富士ゲストハウス」に富士山のイラスト付きもあって、到着客を迎える人びととわかった。英語のほか知らない字もあって、ここが国際的な登山と観光の基地だ、とまず実感した。

 わが一行を迎えるはずの旅行社やホテル名のビラが、見当たらない。一行の事務局長伊藤が電話連絡に走ったが、あとで聞くと空港内の電話3台のうち2台がこわれていて使えず、電話帳にホテルの名がなく・・・・とさすが旅慣れた彼もとまどったそうだ。ようやく旅行社と連絡がついたら、先方は「ああお着きですか、意外に早かったですね」とのんびりした返答で、「すぐ行きます」がさらに数十分。定刻と約束で動く日本とは別の時間が、ここには流れている。この地に4年余り住む神保氏の話では、「ネパールでは一日の1/3が待つことに費やされる」そうだ。第3日T大学生との交流会のとき、大学で一番不満なことはとたずねたら、休講が多い、しかも事前の連絡や掲示がないので、学生は延々と待つことになる、と答えた。それなら掲示システムを大学に交渉するとか、30分で自然休講の申し合わせをすればいいのに、と思うのは日本的な感覚で、ここでは大学生も「待つことが仕事のうち」らしい。

煉瓦の街、茶褐色の迷路
 やっと旅行社の車がきて、街を走った。第一印象は、家々が例外なく煉瓦を土でこねた3-4階の真四角で、ほとんどが古びた茶褐色、あたりの樹々も茶褐色なことだ。未舗装またはとっくに傷んだ舗装の道を、バスやクルマ、オート三輪車などが、土埃と排気ガスをまきちらし、のべつ警笛を鳴らして走る。車もまたいつ洗車したか疑わしい茶褐色だ。間を縫って人びとはせっせと歩くが、マスク代わりの布で鼻と口を覆う顔も多い。カトマンズ盆地は高山に囲まれて年中風がなく、汚れた大気が滞留すると本にあったが、なるほどこれはたまらない。対策に電気自動車を導入と、日本でも報道されたが、普及はなかなかとのことだ。

 主要道路はまあ直線で、警官がロータリーで交通整理をしてるが、信号は一ヵ所しか見なかった。一歩横に入ると、たちまち道はくねり不規則に岐れて、両側はどこも同じような茶褐色のレンガ塀だから、確実に迷子になる。神保氏によれば、ここは日本の縄文時代あたりに自然発生した、世界でも古い街の一つだそうだ。区画整理や再開発とは縁のない、ひたすら人間の住む集落で、それだけに夜うす明かりの街灯の下に見ると、カスバの裏街めいた不思議な魅力がある。

 幹線道路やそこを走る車たちは、ごく最近の侵入者なのである。

人びとの暮らしあれこれ
 道の両側には、間口2メートルほどの小店ががぎっしり、エハガキや細工物などみやげを売る店と、泥つき野菜など日常品を売る店とがまぜこぜで、間に素朴なつくりの飲食店もまじる。脇道の日本でいえば住宅街でも、思いがけないあちこちに小店がある。日を決めて市も立つそうだが、ここは観光客と住民向け混合の小商売の町で、士農工商でなく商人の地位は比較的高いという。

 川が豊かで発電の潜在能力は高いが、未開発のため停電は始終で、ホテルの客室にローソクとマッチが備えてある。水道はなく、街の要所に大きなタンクからチョロチョロ水の出る水場があって、ポリ容器やバケツを手にした女性や子供が、のんびり番を待って行列している。水には絶対にご用心とどの旅行案内書にもあるから、外人客向けだろう水のペットボトルを、2〜3軒おき位の店で売っている。

 本屋は数軒見かけたが、エハガキや山の写真などと棚を分け合い、中に一軒、日本の文庫本ばかり数十冊並べた店をみつけた。手ずれた古い版ばかりで、おそらく観光客が読み捨てたのを、次の客が暇つぶしに買うのであろう。ついでだが、新聞は英字とネパール字合わせてせいぜい数紙、定期購読は官庁、学校、ホテルなどのほかごく一部の家に限られる。早朝散歩一週間のうち一回、新聞配達の自転車を見かけたが、積んだ荷は僅かで、荒っぽく門ごしに放りこむのは概算20戸に1戸程度だった。

 旅行社の車であちこち行った道々ガイドが、大蔵省や警察庁、博物館などと教えた一応りっぱな建物はあった。しかし東京ならある大きな会社や事業所、工場の類は見なかった。そういう街を通らなかったのか、通ってもガイドが教えなかったのかもしれないが、首都とはいえ観光と商業のみが目につき、ポカラでも大差なかった。保養地ゆえ土埃と排気ガスがいくらか少なく、樹々も緑をとり戻していたが。

動物たち
 街で人々と同じほど目につくのは、犬だ。何百匹いるのか、白や黒や茶褐色(が多い)が至る所で歩いたりねそべったり、悠々と暮らしている。人の歩く道で四つ足を横に伸ばして寝こんでるのもいて、うっかり踏んでも吠えるどころか目も覚まさない。街中至る所ごみだらけだから(ガイドによれば、市の収集車が決まった曜日や時間に来ないため、人々が勝手に捨てるのが当然のようになっているそうだ)、拾い食いには不自由しないのら犬たちである。早朝日本風に紐でつないで散歩している人は、一週間の滞在中2-3例みかけたきりだ。その割にネコは少ないが、なぜかネパールでは人気がなく、その分ネズミの害が大きいという。

 犬だけではない。牛や時にはりっぱな角の水牛までが、のっそりと街をかっ歩する。やはり拾い食いで自活しているつまりのら牛で、ガイドによると皆オスだそうだ。インドの影響で牛は神聖な動物だから、この自由は尊敬のしるしで、捉まえてビフテキにという不届き者はいないわけだ。メスは乳を出すし子を生むから、飼い主が確保している。カトマンズ市内でもちょっと横道にそれると畑があって、早朝散歩で入りこんだら、小さな牛舎にやっとよろよろ立ちの幼牛と牝牛がいるのが見えた。麦や野菜を作る際はのら牛に耕作の手伝いを頼むそうで、また農閑期には畑に入って雑草をきれいに食べてくれる。雑草取りの手間が省けるわけで、ポカラではまるで整地したようにひろびろ平坦な畑をいくつも見た。

 ヒマラヤに続く丘陵地帯はまた、野鳥の宝庫である。ポカラで昇る陽を見に山に登った帰り、足下にうっとりするような鳥たちの合唱を聴いた。その割に街なかでもカラスは少なく、日本より小ぶりだし首のあたりがぼかしの白でハンサムである。犬や牛が相手ではゴミあさりに勝ち目がないのだろう。

街で見かけた子供たち
 王宮広場や古寺などの観光地では必ず、「ギブミールピー」(ルピーは約2円の小銭)と寄ってくる10歳前後の子がいる。しかし知らん顔をしていると、アッサリ離れていく。大人たちにまじって土産物を売りにくる子もたくさんいて、少し年かさの少女でかけひきのうまいのに、出会った。銀色の小さなネックレスを、一行につきまといながら「3個で××ルピー」と刻々値を下げ、こちらが買う気を見せるとたん、スルリとドルに言い換えたりする。程よいところで妥協して買ったとたん、ルピーを握って風のように消えたが、別にインチキ品ではなかった。

 ポカラの早朝、展望所に向かう道が竹竿でふさがれていて、オヤと思った。11〜12歳の男の子が出てきて、何ルピーだかを請求する。与えると、すばやく道の端にある簡単な仕掛けを解いて竿をはね上げ、車を通した。観光客の多くが通る道だから、零細な「通行税」もかなりの収入になるだろう。またポカラの夜に見た歌舞団の一座にも少年がいて、小さな楽器を受け持ち、出番のない間は舞台でハデにあくびや居眠りをしていた。

 本によると、レンガやじゅうたんを作る工場で低賃金で働かされる子供たちや、欺されて又は貧困のため売られる少女たちが、今も絶えないそうで、このためドイツなどからじゅうたん不買の経済制裁もあったと聞く。短期間の限られた見聞では、そんな裏面に触れる機会はなく、むしろすばしこく働く活気や、自主的な大らかさの印象が強かった。もちろん学校に行ってないらしいのは、気になるが。学校帰りの制服の少年たちが、物乞いのためでなく知っている日本語を試したい風情で、明るく話しかけてくるのにも出会った。


3.ネパールの教育、特に教員養成と大学


 3〜5章で、調査結果を記述する。3では文部省と教育研究所で知ったネパール教育の全体を記し、4で教員養成の現場である教育学部の二分校を訪れた記録を、5では訪問した三つの小学校での交流や見聞をまとめる。

文部大臣と会った
 外国の教育調査は前史時代を含め8カ国目になるが、文部大臣と話したのは初めてだ(日本でも同様だが)。ガイド氏も緊張するらしく、訳し間違えると困るからと、前もって質問の要点をメモにして渡してほしい旨求めた。

 文部省は小じんまりと白い建物で、会見の場は広めの会議室風、一方が舞台めいて一段高くなっている。定刻すぐ黒いスカルノ帽の初老の男性が現れたが、これは秘書、あとできくと日本なら事務次官に当たる大臣補佐役だそうだ。やがて舞台の黒幕を分けて、主役よろしく大臣の登場となった。

 私が準備通り当チームの由来や訪問目的、質問を述べ、ガイド氏が例のメモを見ながら次々通訳する。大臣はおもむろに、JICA(日本の国際協力事業団)の援助で水力発電工事が進み、小学校の質量とも向上している、と謝辞から始めた。識字率を現45%から70%に上げることや、技術者育成にも力を入れており、いっそうの協力を願いたい。日本人とネパール人は顔も体格も似ているから、今後とも仲良くしましょう、と堂々たる外交辞令だった。合間に時々事務次官氏が短く言葉をはさんだが、あとでの話では大臣が替わっても勤続する蔭の実力者だそうで、このあたり日本の行政のしくみと似ている。外交辞令が終わって大臣は少しうちとけ、自分はネパール東端の辺地イラムの出で、地域の振興は重要と思う、などと話した。

 会見約20分、記念写真を撮り、別れに握った手が大きく温かかった。ガイド氏によれば、政権交替しても留任した評判のよい文相で、教員の経験もあるという。なかなかの人物と見受けたが、まずカネの話から始めるあたり、この国の為政者のおかれた立場の一端を見る思いがした。

 建物を出ようとしたら、秘書に呼び戻された。新聞記事にするため(記者が来ていたのかは不明)、訪問の趣旨や大学名等を書いてほしいという。英文で書いて渡したが、あとでこの話を聞いた当国人が、「選挙も近いから」と笑うので、なるほどと思った。その後数日気をつけていたが、少なくとも英字紙に記事は見なかった。もっとも日本と違って、「2日や3日では出ないこともある」テンポだそうだから、後日出たのかもしれない。

 ガイド氏の知人がここの職員というので、省の中を歩いた。古めかしく暗い階段や廊下が、日本の官庁のそれらとよく似ている。あいにく不在で、期待した内輪話は聞けなかったが、当人に限らずどの執務室も、ガランとして人けのない所が多かった。この不活発な雰囲気は文部省だけではないそうで、ガイド氏自身実は別の官庁所属の職員で、勤務を休んでわれわれの案内をしてくれた、というより公務員は教員と並んで給料が安いため、副業は半ば公認という。以前に東南アジアで出会ったのと、全く同じ状況である。

教育研究所は最高の知的集団
 トリブバン大学(T大)は、ネパール唯一の国立大学だけあって、5学部(人文社会科学、経営、教育、法、科学技術)と4専門部(医、農、林、工)、及び4研究所(応用科学技術、経済開発・管理、ネパール及びアジア研究、教育改革・開発)を備える堂々たる陣容である。1959年つまり開国後まもなく、迅速な人材育成の必要から創設された。教員は全部合わせて4300人、学生総数は7万人を超える。

 教育研究所(CERID)は、最初文部省の一部だったが、1975年大学に移った。名が示す通りここは、ネパールの教育全般を充実させ改革開発するために必要なあらゆる事柄を研究し推進する、中央の研究機関である。懇談で聞いた話と渡された小さなパンフを総合すると、初等中等教育のあり方、具体的にはカリキュラム、教材、教授法等の研究や、教員養成、職業、女子、幼児、障害者、識字、不登校児、と教育のあらゆる面にわたり、高等教育の学術水準向上対策に至る。これまでに諸領域の研究報告書計約300冊を刊行し、定期刊行物2種(英語とネパール語の紀要)と各部門のニュースレターを出すほか、必要に応じてワークショップやセミナーを開き、各種情報収集・サービスもする。研究結果は次々と文部省を通じ、また直接T大に、とりわけ教育学部に反映させ、その成果の程の検証も仕事の一つだ。研究員たちが、政府の教育に関する方針を定める委員会委員を兼ねているので、実現へのルートは基本的に確保されているとのこと。

 これほどの大仕事をこなす研究員は18名、彼らを助ける諸職員を合わせると80人弱という。パンフに研究員名簿があるので見ると、2/3ほどがカナダ、アメリカ、インドなどで博士号を得ており(日本はなかった)、残る1/3も全員が修士(国内を含む)で、最高の頭脳集団である。うち女性は5名。学部等でも教えたりそちらの教員と交替もあるが、まずは精力的に研究に専念できるしくみとのことだ。

 パンフは、「T大から資金と人材の提供は受けるが、研究の計画と遂行は完全に独立し、チームワークを重んじて協力して仕事をする」と高らかに述べている。これまでに行なった主要プロジェクト名がズラリ並べてあるが、その大多数はユネスコ、世界銀行、アジア開発銀行等々の支援を受けたとあり、それらからも、供与は受けても独立を保つ意気らしい。懇談に同席した一人は、人材開発部の部長で、帰りがけに彼女の部で出している最新のニュースレター2種をくれた。見ると、ノンフォーマルつまり識字などの成人教育と、就学前幼児教育との別建てで、それぞれ充実した内容なのに驚いた。それらにもユネスコ等の名が見えたから、国際的な援助はずっと続いていることがわかる。

ネパールの教育制度は大変化中
 ネパールの初・中等教育は目下、小学校5年と中高合わせて5年の計10年で、当方も予習して知った通りだが、この全体に大きな変化を生じつつあることが、この教育総元締めといえる研究所を訪問して初めてわかった。まず小学校教育の充実向上が最大の急務で、中心課題は次節で述べる教員養成制度の改革であり、また、カリキュラム、教材、教授法等々の研究が、同時発進している。鎖国から醒めて国の未来を担う人材育成を急ぐあまり、高等教育を重視してきたが、T大の整備が進み91年には私立カトマンズ大学の創設等で、一応の水準に達したいま、改めて基礎的な人づくりに力点が移行しつつある経過だ。発展途上国によく見る構図である。この基礎初等教育改革計画(Basic Primary Education Plan、BPEP)関係だけで研究報告書が20冊ある、と現物が誇らしげに机上に積まれた。

 次は中等教育で、その改革は高等教育つまり大学にも波及する。というのは問題の焦点が、高校と大学をつなぐ中間の2年にあるからだ。これまでは、中高合わせて5年を了えると、大学入学資格試験(School Leaving Certificate、SLC)があり、合格者は大学前期課程に進む。ところが、この資格があればどこの学部や専門部にでも入れるのではなく、もう一度かなり厳しい入試(学部により度合の差はあるが)があるので、前期2年間は日本でいえば予備校教育的彩りを帯びがちだ。この半端な2年を、さしあたって中等後教育と改名、ゆくゆくは高校教育の一部へと解消し、現在この2年分がSLCなしのさまざまな職業訓練期としても使われているのと、併行の形で統一する。

 大学としても、従来前期課程後に入試をしてから3年(学部によって2年、4年も)の学士課程、さらに修士課程2年(学部により博士課程もある)と複雑長期にわたるのを、こう整理すればすっきり専門教育に専念できる。事前の資料で、国立大学はT大一つなのに、分校が全国に65、別に諸校と提携の施設100余などとあって、わけがわからなかったが、現地で聞いて初めて了解した。65の分校ごとに、大学前期、学士、修士、という3課程の多様な組み合わせが、学部や専攻もさまざまにおかれ、さらに民間の専門・職業学校まで加わって複雑怪奇、ずいぶん小さなものまであったという。

 これらを数年がかりで整理して、高校・職業学校と大学との境目を12年生ですっきり分ければ、制度としても学ぶ側としても、わかりやすく選びやすい教育体系となる。小学校5年のまま中等教育7年とするか、他国に多い6+6にするかは、論の分かれるところとのこと。どちらになるにせよ、多くの国で大学入学資格に12年の被教育歴を定めているのと、符合するメリットもある。

 なおSLCは、国語つまりネパール語、英語、数学・・・と数科目にわたり、全科目に一定以上の点を取らないと不合格で、翌年全科目再挑戦という厳しいものだそうだ。合格率は30〜40%、春一回だけだからあきらめてほかの道を選ぶ者が多いが、中には14〜5回挑戦する初志貫徹組もあると聞いた。全科目とも60点以上だと一級合格、何点以上だと二級、と合格にも1〜3級の格付けがあって、現行制度では次の入試をも左右する。

 私立カトマンズ大学は、名に似ず首都から30km弱、車で45分とやや遠いため、訪問の時間が取れず断念した。資料によると、専任教員95名、学生総数2500人の中規模大学で、科学、工学、経営学、教育学の学部を持ち、教育学部には次節で述べる教員養成コースもある。カナダの教育雑誌が副学長にインタビューした記事ものっていて、貴大学の目的は、と問われて彼は、教育の高い質を達成すること、現実に即しながらその理論的基礎を重視することだ、と答えていた。ついでだが、T大の総長は王様で、従って学部長が各5大学の学長なみに、責任と権限を持つそうだ。

教員養成の現状と改革方向
 事前の情報ほとんどゼロだったから、研究所で聞く話は皆新鮮だった。まずネパールでは、高校を出てSLCをパスすれば、イコール小学校の教員になれる。さらに大学前期2年を卒えれば、その中身が何であろうと、中学校の教員資格が得られる。教育学部3年を卒えれば、高校教員になれる。それ以外の学部を出て教員資格を望む者は、1年間の教職課程履修で得られる。大学教員になるには、修士課程修了が求められる。と、つまり高卒以上の学校制度4段階が、そのまま小中高大の4教員資格とピタリ連動しているのである。

 しかしこれではあんまりだ(最低10年の被教育歴、16歳)というわけで、小学校教員になってから勤務のかたわら、10ヵ月の現職教育(休暇等を利用して数年かけることも、連続集中も可能)が求められるようになったのがごく最近で、trained teacher日本式に言うと特級?の免状がもらえる。そのための現職教育センターが、国立で全国各地9ヵ所に設けられた。が、この制度が実際に機能しているのは、全国75地域のうちやっと過半にすぎず、全国の小学校教員約10万人中40%が新資格を得た段階という。

 前述の通り、初等教育の向上は目下ネパール教育改革の重点課題で、教員養成は成否を左右する鍵の一つである。さしあたって必要なのは次の3点だ、と所長の言葉に熱が入った。現職教育センターに各地域を参加させること、大きな一歩を進めて現職教育ではなく、就職前にきちんとした養成課程を設けること、第3にそのどちらにせよ、教員としての能力を伸ばす教育の重視(彼はこれを教職一般教育と表現した)、の三つである。同席の元所長はこれに加えて、センターの教員が少ないばかりか、中高教員経験者なので小学校の実態を知らない、と改善の必要を力説した。これらは、初等教員養成に限ることではない。事前のしっかりした、教員としての自覚と実力を養う課程設置、地域の実状(おそらく民族のそれを含む)を考慮した内容、は中等教員養成にも目下必要な改革点であろう。

 一段落したところで、女子教員について質問した。日本と違って小学校でも20%にすぎないが、政府も増やしたい意向で、各校最低一人はおくように通達しており、年1%ほどずつ上昇中とのことだ。しかし、学校制度全般にわたって女子の就・進学率は低く、家事家業労働と早婚の慣習が影響している。成人の識字率も男性66%女性30%と約半分で、研究所の諸研究中、女子教育成人教育ほか多領域にまたがる課題だ、とあざやかな答えだった。

 懇談2時間余り、最後に「ところでネパールの若者にとって、教員は魅力ある職業でしょうか」と質問した。所長ほか4人は顔を見合わせ、苦笑しながら、「残念ながらそうではない」と答えた。給料が安く、社会的地位も低いから、と。発展途上のアジアの諸国で、全く共通に聞く現実である。研究所がどんなに研究に励んでも、すぐ解決できる問題ではない。当面は篤志の若者に教育への情熱を促しつつ、社会面経済面の改革を急ぐほかはないのも、アジアの途上国すべてに共通な現状なのである。


4. トリブバン大学教育学部の2キャンパス


 T大の分校(キャンパス校)は全国に数多いが、カトマンズには26校、教育学部があるのはそのうち2校で、本部のと合わせて3校あることになる。教員養成中心は同じだが、それぞれ特色ありと聞いて、両分校を訪れることにした。

マヘンドラキャンパスで授業を見る
 本校もそうだったがここも、赤と緑の小型のポスターが校舎の壁を埋めて貼られ、学生たちが校庭やベランダで何やら声高にやりあっている。ここへ来る途中も一時交通渋滞著しく、学生デモか通ったためとガイド氏が言っていた。自治会の役員選挙シーズンだそうで、ヒンズー系の国民会議派から王室系保守派までいろいろあるらしいが、毎度三つ巴で熱くなり、けが人や警官隊出動に至ることもあるという。

 この分校は、教育学部のほかに人文・社会科学部があり、例の前期(11〜12年生)、学士、修士の3課程を備える。教員140人、学生は全部合わせて約3500人、前期課程は人数の関係か午前午後夜の3部制。教育学部は、英語国語など全教科にわたる教員養成を行い、学士課程に今年から幼年と成人教育の2コースが加わった。しかし後者は所属学生3人きりで、コースの意義がまだ周知されていないのと、識字教育の教師はひときわ薄給のためだろう、とのことだ。

 教員の薄給と社会的地位の低さが、ここでも話題になった。ほかの職業を求めて叶わずやむを得ず、という「デモシカ教師」の悲哀である。戦前の日本のように教員を義務づける学校や養成―配置計画がなく、4段階の卒業がそのまま教員資格という大らかさの中では、教職は下手をすれば半永久的に、落ち武者の吹きだまりになりかねない。教育学部の学生や、少数だろうが他学部を出て教職を求める「プラス1年」組の連中は、事態解決の運動をしないのか、と先刻の選挙風景を思い出してたずねた。また現職の教員たちは、待遇改善の訴えを起こさないのか、と。どちらも望み薄だ、と分校長は首を振った。学生運動の政治化は禁じられているし、この国の組合活動は「マイルド」だそうだ。

 懇談後分校長は気軽に、キャンパス中を案内してくれた。夕刻近い校舎はがらんとして、授業していた教室は二つだけ。ちょうど水かけ祭が終わった日だから、とのんきなものだ。学士課程3年の物理は男子学生ばかり4人、黒板一杯に英語の説明と何やら図解が書かれている。8人のクラスだそうで、出席は半分。次は1年生の生物。出席12人のうち女子2人、やはり黒板一杯に光合成の説明。皆黙ってせっせとノートする。教師が笑顔で挨拶したので、質問した。理系のクラスは英語での授業が普通で、術語や式を一々ネパール語に訳す煩が省ける、と言う。人文社会系のクラスは、英語ネパール語どちらでもよいことになっていて、学生の要望はやはり後者が多いという。実験する日もあると言っていたが、偶然かどうか今日見た限りでは、理系でも一方的講義の座学が多そうな感じである。

 図書室も見せてもらった。参考図書の棚はカギがかかっていて持出禁止、一般書架はかなり多様な本が並ぶが、英語の背文字それも古い本が多い。年間予算は9万ルピー(約18万円)で、新刊書はそう買えないわけだ。若い男性教員が懇談からずっとつきあって、にこにこ説明してくれた。専攻は地理だそうで、同業のメンバーが病気で不参加と話したら、素直に残念がっていた。教育学部の教員90人のうち、女性は2人だけとのことである。

職業科教員養成の未来は不明
 二つ目の分校は、中高職業科教員養成校として全国唯一、とガイド氏が言うので、期待を持って訪れた。ところが分校長ほかは大切な客を接待中とかで、なかなか現れない。見回すと小黒板に、98年度学生数の表があった。学士課程1〜3年が各々218、142、121名、他学部出の1年コースが45人、前期課程の中学教員コース1〜2年が256、237人で、総計千人余りだ。電気科の教員が、待たせる言訳ついでに、ここの職業科教員養成組織を話してくれた。技術科(電気、機械、建築、木工)、ビジネス科(会計、速記等)、家庭科(食品、被服、保育等)の3科で、前2科はほとんど男子、家庭科は女子でたまに特志の男子学生がいる、と笑った。この分野は全国唯一ゆえ、学生は全国から来て寮生活、とのことだ。

 ようやく分校長らしい貫禄の初老男性が数人を従えて入って来、懇談開始となった。ところがどうも様子が変だ。こちらの質問にまともに答えずおうように、「細かいことは担当者に答えてもらいます」と言ってお供たちと部屋を出ていってしまった。文部大臣並みの外交辞令で、10分と席にいなかった。

 電気の教員の説明で、やっとわかった。貫禄氏は分校長ではなく、平生は本校にいる教育学部全体の長、つまり学部長で、時折こうしてあちこちの分校を視察にくる。それがたまたま今日で、つまり重要な来客その人だったのである。まもなく本物の分校長(当方はお供の一人と思っていた)が戻ってきて、ようやく懇談やり直しのスタートとなった。  意外にも、黒板の学生数表は当方が思い込んだように、職業科教員養成課程のそれではなかった。いま全国に職業高校(日本なら工高、商高、農高等)がなく、中高の選択科目にかろうじて職業領域いくつかがあるだけなので、その教師需要は少ない。就職の望み乏しいため、学生は例の3科合わせて、中学教員コース100、高校教員コース20人ほどにすぎず、残る大多数は普通の中、高教員コース、つまり国語英語・・・・と全科にわたる教員養成コースの学生たちという。

 職業高校は20年前にはちゃんとあった、というからますます奇怪だ。当時職業科教員志望者が少なく、政府も増員の方針をとることなくあっさり職業高校を廃止してしまった。最近になって中堅技術者等の必要を感じて、この面の教育を重視し始めたが、職業高校を復活させても、当養成課程の学生は減ったままだからいっそうの教員不足、というすれ違いの悪循環だという。

 分校の別棟に、SLC不必要年齢不問の職業訓練施設が併設されていて、15歳を下限にさまざまな年齢、身分の者が、手につく職を学んでいる。この方はかなりの人気で、志望者が定員200名を上回るという。電気の教員の話では、彼ら職業科教員養成課程の要員は、この訓練施設でも教えるし、普通の教員養成コースにも関わる。このキャンパス全体で、教員は100人ほどだそうだ。

 分校長ほかの案内で、広い構内を見て回った。学生の姿が少ないのは、祭のせいだけでなく、ちょうど教育実習期で、各地の中・高校に散っているためという。普通の教室棟と、職業科用の実習諸棟とが、別棟に離れて建っている。

 どの実習棟も、校舎は古く、機械器具は最近使用したとは思えない荒れようで、電気も来ていない。1972年建設以来修理せず、高い天井から雨漏りして機械類が傷むがどうしようもない、とこちらの胸も痛む不景気な話だった。しかし分校長たちは、少しも隠したり恥じたりせず、また窮状をさらして援助を求める風でもなく、淡々と全棟を案内した。われわれが厚遇を謝して辞する直前まで、「これをご縁に交流したい」と熱い握手を求めてくるのだった。

 政府の方針の猫の目ぶりといい、この実習棟の放置といい、国立大学を支えるはずの文部省は何を考えているのか、と部外者の当方も疑問と義憤をさえ感ずる。この国を富ませ未来を確かにする見通しを、責任をもって計画するのは誰で、どの部署なのか。国立研究所のあの多産な研究ぶりと、あまりに対照的なアンバランスが、別の国のことのようで不思議に思えた。

教育学部は未来をめざす
 分校長と思い誤った問答がうまく進まないのでもどかしくなり、「適当な資料があったら頂きたい」と申し出た。学部長はおうように部下に命じて持ってこさせ、学部名の入った小さなパンフ3種をくれた。これがひょうたんから駒式の意外な収穫だったことは、あとで読んでみてわかった。三つとも、97〜98年に教育学部に新設の教員養成コースを説明するパンフで、しかも細かい履修規程が3パンフ同じ形でのっていて、多分学部共通の履修制度と推測できたからである。

 98年新設は、特殊教育、成人教育、カリキュラムと評価、民衆教育、健康教育の5コースが一つのパンフに、幼児教育が別のパンフになっている。97年の方は、基礎教育つまり小学校低学年コースで、研究所で聞いたBPEP(基礎初等教育改革計画)の実現第一歩であろう。前の2パンフは、マヘンドラキャンパスで聞いた、今年から成人と幼児教育2コースが新設だが所属する学生が少なくて、という話と符合している。つまり教育学部は研究所と呼応して、着々組織を増殖、急発展中と見受けられる。

 3種とも、履修を要する科目群は4つで、学士課程3年コースでは、A語学2科目、B基礎4科目、C専門6科目、D選択3科目(TとU)の計15科目である。Aはネパール語と英語、Bは教育哲学、教育心理学等と教育実習、Cは、例えば特殊教育コースなら諸障害教育(知、視、聴、身体、学習、情緒、言語)と秀才教育の8科目から6つ選ぶ、民衆教育は耳慣れないコース名だが(Population eduction)、Cに大衆ダイナミックス、家族生活、環境と地域健康、生活の質等が並んでいる。基礎初等教育コースだと、Cは子供の発達、教授法、教材、統率法等のあとに、英語国語から美術体育までの教科がズラリ並んで、教科教育法は2つで1科目扱いだ。Dの選択Tは、政治、経済、職業、歴史、地理、科学等に一々「教養」がつく、いわば教職一般教育12科目から2つ、選択Uは、他コースのC専門科目から集めてきた計10科目前後から1科目選択、のきまりである。他学部出の1年教職課程だと、4群の各必要科目数が減り(例えばCは2科目)、教育実習は同じく必修だが3年組とは別、とある。

 年授業日は、オリエンテーションや試験を除いて150日以上、ある科目の履修には50分×150日余りの授業に70%以上出席し、試験に35点以上取らなくてはならない。授業は、講義を聴くだけでなく、ゼミやグループ討論、ケース研究、フィールド調査、予習課題等への参加を要する。と建前かどうか知らないが、かなり厳しい。これらはすべて3パンフ共通で、学部従来の規程をそのまま適用した、と見ていいだろう。ひょうたんから駒、のゆえんである。


5.三つの小学校で子供たちと話した

大正時代からある小学校
 飛びこみで入ったカトマンズ街なかの学校は、名はパタン高校だが1〜10年生つまり小中高全部あった。創立75周年の古い公立校で、学制と共に上へと伸びたらしい。校長も授業中で、それならと手近の教室をのぞいて参観を申し入れたら、「校長の許可がないと」と断わられた。当然とはいえちょっと出鼻をくじかれて、あちこちの教室の元気な声を聴きながら休み時間を待った。

 校長の許可はすぐ出た代わり、参観クラスの指定がついた。5年生の社会科で、教師は40代見当、ひげのある下肢障害者だ。地球とネパールの図をのせた教科書が各人の机にちゃんとあり、教師はそれと板書とを見ながらもっぱら喋る。生徒は女13人男23人、あとできくと60数人のクラスで、出席が約半数なのは祭のせい、と大学でと同じ言訳を聞いた。  頃を見はからって挨拶し、生徒と対話する許可を得た。ガイド氏のチーム紹介と挨拶の通訳に続いて、私が「日本のことを勉強したことある?」。好奇心一杯の黒い目が集まるが、誰も答えない。「じゃ日本のこと知ってる人」、困ったような顔、顔で、本当に知らないらしい。「ほかに知ってる国ある?」、初めて反応があった。端の女児が立って、はにかみながら「スリランカ」、続いて遠慮がちに手が上がる。インド、パキスタン、バングラデシュ、ブータン、と近い所ばかり7〜8カ国並んだ。

 「社会科の勉強を好き?」、あちこちで小さくうなずく。「社会科も含めて一番好きな勉強は?」、小声の答えは、英語(1年から学ぶ)と国語が多かったそうだ。

 「大きくなったら何になりたい?」、おずおず上がる手を、ガイド氏が次々指す。先生、医者、パイロット(女子はスチュワーデスの意か)、が多数派で、男児は軍人、警官、「社会のためになる人」、が各2人、女子は看護婦。農民、大工と答えた男児が一人ずついて、思わずうなずいてはげましてしまった。

 教師歴4年半とのことで、その前はと聞きたかったが、教室だし控えた。授業の中断を詫びたら彼は微笑して、「少しも邪魔ではありません。生徒たちも私も勉強になりました」と、この国の挨拶である合掌礼をした。東南アジア一帯と共通の儀礼である。

 教員室で、空き時間らしい女教師を捉まえた。勤続20年で理科担当、ネパールでは小学校でも専科制で、彼女の担任は9年生クラスだそうだ。「じゃSLC間近で大変でしょう」と言ったらうなずいて、クラスの約半分が受け、合格率は又その半分ほど、と言う。受験勉強は8年生(日本なら中2)頃からだそうで、一部の子とはいえ受験地獄の始まりである。校長も入れて教員22名のうち女性は8人と、他で聞いた話より多い率なのは、やはり首都ゆえか。

 実験室を見せてもらった。がらんと汚い室で、カギのかかった戸棚には、物理化学生物等の教材が同居していた。図書室も案内してもらったが、やはり人けのない机とイスだけの室で、大きな戸棚二つには本があるがカギがかかっている。司書はいるが今日は休み(祭のせい?)とのこと。いくらか明るい窓際に少年が3人いるので近寄ってみたら、編入希望の14〜17歳で、編入試験の答案を書いていたらしい。年齢からいって中等学校だろうが、試験監督らしい人はいなかった。

 手間を謝して帰りがけ何気なくのぞいたら、偶然にも先刻の男教師が、今度はぐっと幼い子ら(2年生だそうだ)に英語を教えていた。板書は簡単な英文、「動物には足が4本あります」の類で、生徒は窓のこちらを気にしながら、教師の指す単語を元気よくいっせいに発音していた。なるほど専科制で、しかも2教科以上を教えることもあるらしい。

私立学校は英語漬け
 ネパールの学校は公立が主だが、私立校もいくらかある。私立を知らずにここの教育は語れませんよ、と神保氏が意味ありげに言うので、ガイド氏に訪問の追加注文をした。現地でこそわかる情報、やれる選択である。彼は、ネワール語で授業をする私立校を知っていて、さっそく渡りをつけてくれた。

 校長がサリーを優雅に着た中年女性なのに、まず驚いた。ガイド氏の大学時代の友人だそうで、驚きを口にしたらにこやかに、私立では珍しくありません、女性教員の比も公立よりずっと多い、と答え、女性のほうが子供の気持ちがわかるから適している、と言いそえた。ここは1〜7年生に就学する前の3段階(日本だと年少、年中、年長組)を合せて、計10クラスある。生徒数をたずねたら、校長は、年少組25人…と全部そらで答えた。5年までは皆25〜30人なのに、6.7年生は9人10人と急に減るのは、小卒でやめる子が多いほかに、この学校が8年前小さな一教室15人からスタートして、年々上へ伸びた結果でもあるという。公立校は60人クラスが普通だから、かなり思いきった少人数教育である。「よい教育をするためです」とさらり、希望者が多ければ入試をして、定員数を守るという。

 ではその分授業料も高いのか。当然の問いに校長は、月200ルピーで、比較的安くやっている、というのは日本のある地方自治体の国際交流組織と関わりがあり、里親の形で援助を得ているから、と答えた。全校300余人中200人ほどが恒常的に該当というから、カネは特定の子にでなく学校に直接来るしくみらしい。きっかけは、日本の小学校教員某氏の妻がネパール人で…という、半ば偶然に属するつながりから、との話だった。

 その線でだろう、関西2県の小学生が毎年2回ほど、数人ずつやってきてここの小学生と交流する。その折の写真や日本語の礼状が、校長室の壁に貼ってあった。ネパール側からは、子供でなく教員が数人ずつ渡日して、あれこれ学んでくるとのことだ。

 ネワール語での授業が許されるのは、私立校ゆえだが、他族の子の入学も拒まない。特定の民族中心の私立校は他にもあって、例えばポカラ辺のタマン族、シェルパ族などだ。といっても、教科書はネパール語や英語だから、ここの子が8年生以上を他校に進んだり、SLC受験の際に不利にはならない。と当方の疑問は、あっさり否定された。8-10年クラスも設ける計画はあるが、今は教室、教員とも満盃なので、先送りしているとのこと。

 なるほど、三階建ての校舎一つに教室がぎっしり並び、各入口にクラス名が掲げてある。片っ端からのぞいて歩き、教師が好意的と見たら入りこんで、子供たちと対話した。まず年少組、3〜4歳だからいかにも幼く、澄んだ四十四の瞳にみつめられては、何を聞いていいかたじたじとしてしまう。「いつも何して遊ぶの」、鬼ごっこかくれんぼの類ではなく、校庭の遊具の名が返ってきた。「おうちに赤ちゃんがいる人手を上げて」はとっさの思いつきだが、われながら良い質問で、ほぼ8割ほどの子がうれしそうに挙手した。教師までのってきて、「弟?妹?」と手近な子に聞いている。ネパールは二大隣国同様人口増に悩んでいて、二人っ子政策をとっているが現実はなかなか、と聞いた話が実証された。

 驚いたのは、年中年長組が英語で授業をしていたことだ。といってもすらすら英文を読んだり英会話をしていたわけではなく、黒板にハミガキハブラシの類の絵が英単語つきで描かれ、教師がネワール語で説明して、発音させる。つまりは英語に慣れさせつつ、身近な科学や生活習慣を学ばせようとする、多目的授業である。次のクラスでは、豚、ペンといった母音や子音共通の英単語が、やはり絵入りで黒板いっぱいに書かれ、女児が一人前に出てそれを読み上げると、全員が大声でいっせいに発音する。

 2年生のクラスは、算数。「足し算?引き算?」と近くの席の子のノートを見たら、なんと3桁の両方だったので驚いた。繰りあがり繰り下がりまであるかなりのレベルで、横線下の答に青字で@印があるのでペケかと見ると、合っている。ここでは、○ではなく@が正答のしるしらしい。「算数好き?」に、7〜8割の子がうなずいた。「国語とどっちが好き?」、口々に答えるが、ガイド氏の見当では国語が多いらしい。私立らしく男女とも青いシャツの制服で、紺のネクタイの結び目に、金文字で何か書いてある。手近な子に「これ何て書いてあるの」と聞いたら、横からガイド氏が「この学校の名です」と答えてしまった。仕方がないのでその子に、「自分で結べるの」ときいたら、にこりとしてうなずいた。ガイド氏は、「えらいな、私もちゃんとは結べないのに」と上機嫌でのってきた。

 4年生は、社会科。生徒の机の教科書をのぞいたら、驚いたことに英文である。今日の単元は、Economic Lifeつまり経済生活で、円グラフや表つき。教師は英語とネワール語を使い分けて、教科書の頁を説明する。30人ほどの生徒たちは、賢そうに頭を傾げて聴き入り、教科書を凝視する。対話を、と割りこめる雰囲気ではなかった。次のクラス(5年生だったと思う)は、英語のテスト中。黒板に疑問文がいくつか、諸疑問詞とりまぜて、比較的やさしいのから複雑な文まで書き並べられ、子供たちは真剣に答を書いていた。

 何年生のクラスだったか、廊下から見える向かいの壁に大きな紙が貼ってあって、子供の名前が縦にズラリ、各々の右にteacher、pilot などの英単語があるのをみつけた。多分英語の学習を兼ねて、「将来なりたいもの」一覧なのだろう。ざっと見ると、前日公立小で得た答えとよく似た分布で(農民、大工はいなかったようだが)、公私立に関係なくネパールの小学生が持つ将来展望の大よそがわかった。だからここでは、同じ質問はしないことにした。

 7年生のクラスは女子ばかり6人、大人びた少女の雰囲気で、授業は音楽。中年男性教師が、黒板に英語で左、両方、右と間をおいて書き、各々の下に見なれない音符やリズム符号様のものを書いて、手で拍子を取ったり小声の発声を交えながら、説明する。生徒たちは脇目も振らず聴き、ノートする。そっとガイド氏に聞くと、太鼓の演奏に関する講義とのことで、なるほど先夜ポカラで見た歌舞団に大小数種の太鼓があって、左や右あるいは両手でリズミカルに叩いて合奏していたのを、思い出した。

農村の公立小でおひなさまが受けた
 当夜10時にはネパールを離れるという日の夕、カトマンズ郊外の小さな公立小学校を訪れた。田畑が広々と連なり、車を止めてから細い道を少し歩いて、最後の訪問先に着いた。

 中年チョビひげの校長は、にこにこ歓迎の表情だ。1〜5年各クラス約60人と、平均的な小学校で、農家の子が大部分という。3時を過ぎていたから、校庭やベランダを走り回る元気な子らの声がして、まだ授業をしているのは高学年だけという。懇談はそこそこに、教室へ出向いた。

 5年生は英語の授業らしく、薄手の教科書が皆の机にある。とっさに、「テキストを読んでみて。誰でもいい」と呼びかけた。教師が見回して指名し、やや大人びた女生徒が立って、真っ赤になりながら何とか一節を朗読した。「なかなか上手、いい発音でした」と褒めてから皆に、「この授業で今日は終わり?」、うなずくのを見て、「家に帰って何をするの」と問いかけた。予想外の問いだったのか、皆もじもじしている。さっきの女子が度胸ついでか、「お昼を食べて顔と手と足を洗ってから勉強します」と答えた。次々の答えは前半がほとんど共通で、えっこれからお昼?だがあとで聞くと、学校で軽い昼食はとっているそうで、日本でいうおやつらしい。顔と手足は、土埃の国だしよい習慣である。男児は「牛にえさをやる」、女児は「水くみ」。農村の子らの生活が、そのまま出てきた。小柄な男児が立って懸命に喋り、通訳によると「勉強をたくさんするので、僕は働きません」、進学希望で英語の特訓でも受けているのか。「畑のお手伝いをする人は」と問いかけたが、反応がなかったのを見ると、まだ本格的な家業の支え手たちではないらしい。

 4年のクラスでは、これが最後ともう一度、日本のことを勉強したかとたずねたが、反応なし。「じゃあ、勉強じゃなくても日本のことを何か知っている人」と言ったら、前の席の女児が小声で、「コンニチワ」。続いて別の子が、「イラッシャイマセ」。つまり日本語の端々を、知っているらしい。まだ何人か、発言したそうな顔に急になったのを見ると、日本人観光客の多い日常のなかで、それと見分け聞き分けている子は、かなりいるようだ。

 校長室に戻って協力を謝していると、放課後ゆえだろう、教師たちが続々集まってきた。ざっと20人近く、少数派の女性教員のほうが、積極的に近づいて、笑いかけてくる。頃合よしと、日本から持参したお土産を披露した。小さな雛人形の箱で、一対の雛の乗る段が引き出しになっていて、少量の雛あられが入っている。ちょうど3月3日で、そう説明しながら、手近な女教員を代表格として手渡した。メンバーの角田が構えるカメラのフラッシュが光り、男性教員たちも笑顔で拍手する。「教室で女の子たちにこれを見せて、説明してあげてください」、一息おいて「でも、女の子ばっかりいいなぁと、男の子が怒るかもしれません。そしたら、日本には男の子のお祭が別にあって、5月5日と教えてください。今日は女の子のお祭で、3月3日です」と指を出しながら話すと、通訳につれて明るい笑いと拍手が一行を包んだ。

 土埃の道を車まで、校長以下10人ほどが、ぞろぞろと送ってきてくれた。校長が突然日本語で、「今夜お帰りだそうですが」と言い出したので驚いた。なんと彼はわがガイド氏の教え子で、といっても年齢は逆だが、ガイド氏は副々業に日本語学校の教師もしていて、この校長が会議か何かで短期間日本に行くことになった際、日本語の特訓を受けた、ということらしい。女教員の一人がその日本語学校で学んでいる縁から、という。別の若い女教師と話していた伊藤があとで、彼女は大学生で教師職とかけ持ちだそうだ、と言っていた。例の現職教育組かと思ったらそうではなく、数年がんばって学位を得たら、小学校をやめてビジネスの世界で活躍したい希望、とのことだった。

6.ネパールで感銘したこといくつか

 2では街の景観や動物、見かけた子供などネパール初印象を中心に記して、3〜5の教育調査報告の入口あるいは背景とした。もっと特定のまとまった体験、感銘したことがいくつかあるので、書きとめておきたい。

神々の峰ヒマラヤ
 世界の屋根、北極南極と対置される第三極としてのヒマラヤは、生涯に一度は間近に見たいと、あこがれの対象だった。カトマンズ発のチャーター飛行では、雲に巻かれながらも毅然ととがった峯先を青空に突き上げるエベレストの黒い姿に、あこがれは満たされた。しかしさらに強い感銘は、ポカラの早朝に接したアンナプルナほかの峰々だった。

 早朝6時過ぎ、暗かった空がほの明るくなり、東の低い雲の間から真っ赤な太陽が頭をのぞかせ始めると、突出した峰の先端や磨いたような絶壁の端に、ぽっと赤い灯がともり、その数と光が刻々増していく。その間、雪をまとった峰々は微動もしないのに、生きて呼吸しているように思えるのだ。日夜この峰々を仰ぐネパールの人びとは、ここに神が実在する、と素直に信じられるにちがいない。

川べりの火葬場
 本で読み話にも聞いたが、実見の衝撃は強烈だった。ヒンズー教の聖地と接する大きな川の河川敷に、川にせり出す位置に大きなコンクリートの台が、見える範囲で4基、間隔をおいて設けられている。真ん中の2基は、火葬を終えて会葬者も帰ったところらしく、燃えきった灰やまだ赤く輝く太い材木の炭を、男が一人大きな熊手のようなもので、川に払い落としていた。白い煙を上げながら川は、それらをゆっくりと押し流していく。

 右端の台には、太い木材が10本くらいずつ間をあけてタテヨコ数段に組み上げてあり、その上に白い布で包まれたこんもり細長い物体が置かれ、数人が取り囲んでいる。僧らしい白い衣装の人の動作につれて、やはり下半身白をまとった3人ほどが、小さな火を掲げて物体のまわりをゆっくりと回る。説明によれば故人の近親者たちで、ああやって3回まわるのが点火の儀式という。あんなに小さな火で点くのかなと見守るうち、一番左の台の同様な木組に、いま新しい遺体が到着した。

 これら一部始終を、高い川岸に設けてある囲いつきの展望所のような台から、誰でも自由に見ることができるのだ。右端の木組では白い物体としか見えなかったが、新しい台では顔の部分がむき出しになっていて、若い女性の浅黒く彫りの深い顔と、遠目にもわかる。近親者だろう、白布の下に手を差し入れて、遺体の着衣を脱がせている。花模様のスカートが、続いて上衣が遺体から離れ、男はそれらをあっさり川に流す。若い女らしく華やかな色彩が、川波にゆらぎながら生き物のように流れ下っていく。

 遺体の目は大きく黒く、しっかりと開いていた。まるで好きだった衣服と別れを惜しみ、やがて焼かれていく自分自身を最後まで見届けようというように。その間に右端の台では無事点火したらしく、白煙ときれいな赤い焔が上がるのが見えた。

 日ネパ両大学生の交流会が始まる時刻を過ぎていたため、彼女のその後まで見ることは出来なかったが、一体が燃え尽きるまで約4時間を要するという。宗派によっては主な骨を取り分けることもあるが、普通は骨も白い粉に崩れ去るほど完全に焼いて、すべて川に流すという。この川はヒマラヤに発し、ネパールを横切って何百キロ、やがて大河ガンジスに入るのである。

 火の世話をし、灰や燃えかすまですべて流し終える仕事は、ネパールのカースト(インドにならって厳しい階級制が今もある)最下層の者の、伝統的な職業という。また、川に流された物にまじる金歯その他金目の小さな品を探して、貧しい子らが川に入ると聞いたが、この日目撃はしなかった。川の汚染による環境問題はもちろん気になるが、すべてを洗い清める力が、もしかすると本当にここの山と水にはあるのかもしれない、とさえ思えてくる。

いけにえの鶏
 ポカラで泊った翌日の午前、ダムや滝などの見物に続いて、これもヒンズー寺院で鶏をいけにえに捧げる儀式に出会った。本堂から少し離れた小さな堂に、人びとが群がっていて、うち何人かは生きた鶏を抱いている。この鶏を捧げる旨この堂で祈祷してから、堂の斜め下にある屠殺場でいけにえにするという。そういえばそのあたりの土や草には、真っ赤な血が飛び散り流れた痕があった。

 首切り役は、これまた下層カーストの受持ちである。水道管のような柱と小さな台が設けてあって、台にはナタのような大きな刃が上向きに固定してある。鶏を抱いた人は入り口の段におし黙って並び、鶏たちは迫った自分の運命を予感してかどうか、不安げにきょときょととあたりを見回し、時々飼い主の手の中で羽ばたいてもがく。屠殺場を見下ろす周囲の枠の上には、子供を含めたたくさんの見物人が居並んでいる。

 やがて係の男は鶏を受け取り、念仏一つ唱えるでもなく無造作に、鶏の首を刃に当てて一瞬のうちに押し切る。いけにえとして供えるのは頭だけだから、頭を柱の根元に積み、体は放置である。首が切れた瞬間、すさまじい勢いで、鶏の体は屠殺場の中を身もだえしてかけ回る。首のない体だけの鶏が、鮮血を散らし烈しく羽ばたきながら、つまずき倒れつつ少なくとも10秒ほど駆け回るのは、私は初めて見る凄惨な見ものだった。その間、頭のほうもゆるやかに動き、きょときょと目が動いて、やがて静かになる。体もまもなく静まって、首の切り口から真っ赤な頸骨と血管を突き出したまま、横倒しになる。

 おそらく体のほうは、自分に何が起こったのかわからないまま、全身の生きるメカニズムがいっせいに全力全開したのだろう。頭のほうはしっかり開いた目で、自分の体が激しく駆け回ってやがて死んでいく十数秒を、確かに見ていたにちがいない。

 次のポイントへ移動する車の中で、伊藤が不気味な実験の話をした。フランス革命以来ギロチンによる斬首は、一瞬に死に至るから残酷度が少ないと信じられていたが、そうでないと仮説を立てた学者(医師)が、ある死刑囚に協力を求めて実験をした。意識のある限りまばたきを続けるようにと、教示したのである。了承した囚人は、政治犯だったかどうか、意地か誠実さか、数十秒の間まばたきを続けた。斬首が"死刑囚にやさしい"処刑法でないことが実証され、より苦痛の少ない方法に替わった、というのだ。

 日によって鶏でなく水牛を屠り捧げる日もあるというが、直視できる自信はない。

9歳の少年の成長祝
 二つのショッキングな目撃とは対照的な、楽しい体験もした。ネパール入り翌日の夜、この地に詳しい神保氏が、王宮広場に連れていってくれた。代々の王が建てた塔などを見て回るうち、どこかの陽気な音楽が次第に近づく。広場の一角に、常置か急ごしらえかかなり大きなテントが張ってあり、音楽はそこから、そして人びとが頻繁に出入りする。氏に続いて入ると、入口すぐの右手に老人ばかり10人ほどのバンドが、笛や太鼓やさまざまな楽器で巧みに合奏し、うち2人が手馴れた動きで踊っている。

 左側の広い所は、何列にも地面にむしろを敷いて、男女数十人が座りこんでいる。ボウルのような大きな容器を前に、盛った食物を手づかみで(右手を使う)食べながら、楽しそうに喋り歌い笑っている。飛び入りのわれわれにもすぐ、素焼の土器の椀が配られ、澄んだ強い酒がつがれた。かなり酔った中年男性が危ない足取りでやってきて、手まねで飲めと促し、真っ赤な笑顔で「ハッピーハッピー」と繰り返す。女たちも陽気に笑いかけ話しかけてくる。小学生くらいの子も何人か、大人たちにまじって楽しそうだ。

 この陽気な宴は、ネワール族の成長祝だという。説明によると、主役は9歳の男児で、日本の昔の慣習なら元服式に当たるだろうか。といっても直ちに大人の仲間入りをしたり戦士になったりするわけではなく、この国では無事成人するのが難しいため(乳幼児死亡率千人中78人、日本は4人)、9歳まで生きのびたことを祝って総出で陽気にさわぐ。神も宴に加わって、以後少年の成長を守ってくれる、という筋書きらしい。とすると、何人かいた子供の一人が当人だったのか、わからずじまい。また、この習慣がどの程度一般的か、ある部族特有なのかもわからない。

 他方、結婚は他の地域同様ここでも、重要な儀式らしく、滞在1週間に二度ほど、かなり本式なのに出くわした。その一方は、軍楽隊のような制服のバンド合奏を先頭に、車を連ねて表通りをパレードしていた。といっても、清潔な車は花嫁花婿のだけで、あとはトラック様の汚い荷台に男女ぎっしり乗って、陽気に歌い叫んでいた。テントで見た老人バンドも雇われたプロだったのか、楽師はやはり一定カーストの職業という。

 また別のとき、街の大きなレストランが、ありったけの飾りと照明で不夜城のように派手なのを、前を通りながら見た。これも貸し切り本番の披露宴だそうで、ネパールではふだんの生活はつましくても、結婚式は思いきり盛大に、日本円で50万円ほどもかける慣習という。あちこちで聞いた教員公務員の月給が、3〜4000ルピーつまり6〜7千円なのに、である。

ネパールの義兄弟
 ここまでに度々登場したわれわれの貴重な情報源、神保氏は、ネパール人に負けない陽気で世話好きな熟年の男性である。「子育ても終えたので」家族を日本に残して単身、4年余りネパールに住んでいる。NGO組織「ネパール教育支援の会」の事務局長格で、ストリ−トチルドレンの就学支援に始まり、職業訓練校設置計画と準備、日本での講演会等によるネパール理解促進、現地体験ツアーの世話、とめざましい活躍である。大東文化大一行の世話ぶりを横から見ても、まことに行き届いていたし、初対面のわれわれの面倒もあれこれ見、的確な助言をしてくれた。

 定年まで教員だったそうで、「大学をスタートに最後が小学校、普通と逆」と笑っていたが、どういう経過か、またなぜネパールに打ちこむことになったのかなど、聞く暇はなかった。というのは初めて会った日の翌日、母上の急な訃報が届いて、彼はすぐに帰国し、わが一行との接触は正味一日もなかったからである。

 享年84歳、30代から女手一つで三人の子を育てた。神保氏も、10歳くらいから定規の目を刻む賃仕事などで家計を助けた、つまりは児童労働の体験者である。敗戦まもない頃でもあり、苦しい生活だったが母は愚痴一つ言わず、夢を持って生きよと子らをさとしつづけたという。病まず苦しまず突然に近い大往生だったと、訃報は伝えた。息子が第二の人生をネパールの子たちの支援に賭けたときも、「一番喜び励ましてくれたのは母でした」と話しながら、神保氏は涙を流した。

 神保氏の弟が、ネパールにいる。といっても本当の弟ではなく、意気投合し心許しあって兄弟の契りを結んだ、40年輩のネパール人美丈夫である。支援の会の副会長で現地責任者(ネパールでは外国人は土地を所有できない。ヒマラヤを買い取られては困るから当然の法律である)、本業は登山客観光客を手広く扱う旅行社の、堂々たる経営者である。ODA関係でネパールに来ていた日本女性と結婚し、会社を起こした。彼の事務所は、当地では珍しい最新の情報機器類を備え、社長は頻繁に携帯電話で誰彼と応対している。わが一行も客のうちだが、到着日の行き違いが唯一のミスで、あとの手配は完璧、旅の要所では社長みずから車を運転して、きちんと締めた。妻と娘は日本に住み、旅行社の日本支社を勤める。

 彼は、カトマンズからかなり離れた東方の村の出身で、推されてその村の副村長もしている、と聞いて驚いた。忙しい身だからめったに帰れないが、村の仕事は部下たちがちゃんとやってくれる、とおうようなもので、どうやらその地方の名家の権威もあるらしい。神保氏との兄弟の契りは、日本でなら盃を交わす式の精神的なものではなく、ちゃんと戸籍?の届がしてあって、遺産があれば相続権まで生ずる本格的なものだそうだ。

ネパールの家庭に招かれた
 1週間通しでついてくれたわがガイド氏は、すでに記した通り公務員が本職で、日本語学校の教師と合わせて三種の名刺を持っている。われわれの勝手な注文を快く受けとめて、訪問の手配のかなりの部分を、自分の才覚でやってくれた。美術大学(多分T大の人文社会学部)を出ていて、兄も同様というから知的な一族、高い階層なのであろう。1週間行動を共にしてすっかりうちとけた彼は、あすネパールを離れる最後の夜に、一行を自宅に招待してくれた。

 ネパール式三階の家で、日本風に座卓を囲んでじゅうたんに座る。美しい妻と息子、娘が応対してくれて、奥さん手作りの酒(焼酎風の蒸留酒、ロキシーという)と料理が美味だった。息子はSLCを一発で一級合格した秀才で、理科系の大学前期課程の1年生だ。将来何になるのと聞いたら、初めは「わからない」とはにかんでいたが、やがて技術者志望と明かした。目下日本の碁にこっていると言うので、心得のある伊藤が手合わせして、1勝1敗。酒を飲みながらだったせい、と伊藤は悔しがりながらも、「なかなかの腕」と認めた。

 妹のほうは6年生で、将来英語を学んで留学したい、と話し、自分で振り付けを工夫したというネパールの踊りを、CDに合わせて3曲ほど披露してくれた。ポカラで見た歌舞団のような衣装はつけず、セーターとズボンのままなのがかえって素朴で初々しく、うっとり懸命な少女の顔は、神々しくさえ見えた。もしこの方面でさらに磨きをかけるなら、好きな英語やそれを武器の留学は、夢を実現する有力な助けになるだろう。聞くと二人とも私立校だそうで、やがてこの国を背負うことになるだろうエリートの卵たちである。

両国の若者たち
 大東文化大の学生たちは、交流会での自己紹介を聞くと、沼口氏の専門ゆえだろう教育学部の1〜3年生、とりわけ小学校教員志望が多く、上手とはいえないジャパニーズ英語で、一生懸命に話した。トリブバン大学生の方は、日本式に数えると3〜4年生や修士課程の院生が大部分で、比べるといかにも幼く、精一杯の背伸びが見えた。ネパール組の中に、旅行社で見た顔があるのでたずねると、心理学科の4年生で、祭で休みなのを利用してのアルバイトという。教育学と英文学が専攻の女子院生二人とも話したが、日本と違ってこの2専攻でも女子は少なく、数%という。

 交流会は、漠然と進行したのではなかった。自己紹介のあと、沼口氏が、前もって言ってあったらしく各人が課題と思う事柄でグループに分かれようと言い、環境問題、教育問題、政治経済関係、の3群ができた。ネパール学生たちもこれに和して、分属した。若者同士らしく真剣で明るい話し合いが並行して進み、やがて夕食も出て、座はいっそううちとけた。日本の学生数人ずつが立って、練習してあったらしい日ネパ両語を交互に使う歌を合唱し、盛んな拍手を浴びた。ホームステイ先で教わってサリーを着てきた女子が数人いて、似合うと皆に賞められてうれしそうだ。

 しかし慣れないサリーで着崩れは防ぎようもなく、ネパール女子院生が「着せ直してあげる」と一緒に別室へ去った。その間休憩、の感じで回りの女子数人に、ホームスティどうだった?と聞いてみた。楽しかった、やさしくしてもらえた、と異口同音。日本語を多少とも解する家を、選んであったらしい。他方で例外なく全員が、10日の滞在中一度や二度、、下痢などで体調を崩したそうだ。水の要注意は周知だが、ゆだんして食べた生野菜に当たった(洗った水のせいで)者もいる。無菌状態の中で育ったような日本の若者のひ弱さ無防備さが、痛感された。

 そんな体験も、彼らが自分を客観的に見直すきっかけの一つになるだろう。聞くと日程の中でわれわれ同様、ポカラでの日の出やいけにえの儀式も見たそうだ。ストリートチルドレンの保護施設に行ったときのことを、「一生懸命に話しかけたら、笑ってくれたのでうれしかった」と語る学生もいた。彼らの中にこうして、さまざまな形でネパールとの親しみ、さらにはアジアへの関心が深まっていくだろう。

 日本という温室から学生たちの心身を連れ出そうと、この多彩な体験学習を企画し、予想される諸困難を承知の上で実行したのは、沼口氏である。彼もまた、日本とネパール、アジアを結ぶ、地味だが着実な橋の一人にちがいない。旅の準備は周到に、現地では好奇心全開の学生たちのわがままともいえる発展ぶりに、寛容に付き合っていた。同じ大学教員の一人として、感銘したことの一つである。

7. おわりに−この旅で考えたこと

いよいよ最後のしめくくりに、この旅で出会い考えたことを、ごく簡単に記そう。

自然のままに生死と向き合う人びと
 ヒマラヤの峰々は、四季変わらない純白の姿でどっしりとそびえ、ガンジスに注ぐ川は、途切れることなく悠久に流れる。この環境に暮らすネパールの人たちは、自然に安らかに抱かれて、人間の生死もその一部として穏やかに受け入れているように思えた。川べりの火葬場で、むき出しの顔や形のまま人が焼かれてやがて無になっていく様子や、斬首された鶏がもだえかけ回ってやがて静かになる数十秒を、見やすい台を設けて誰にでも公開している。現代の日本では、考えられないことである。子供にも隠さず、変に興奮したり理屈づけることもなく、といって外人客あたりから観覧料を取ることもしない。

 病院での不自然な死が一般化し、鶏肉や魚は切り身しか見ない、いわゆる「文明国」とは違う生と死が、ここでは安らかに共存しているようだ。ちょうどわれわれがネパール滞在中の3月初めに、日本の新聞は、臓器移植が法律に基づいて初めて実施され成功したニュースを、大きく報じていた。賛否の論果てしなく、マスコミの大群が日夜病院周辺を埋め、要した諸費用は合わせて数千万円とある。生と死の捉え方が、同じ時空の中でこんなにも違うのである。

そこに割りこむ「文明」のあれこれ
 しかし、少しでも早く着ける、収入が増す、あるいはステータスシンボル式の諸文明や技術が、ネパールにも入りこんでいる。風のない静かなカトマンズ盆地は、車が巻き起こす土埃と排気ガス、警笛と騒音でいっぱいだ。農村では農薬が、無防備に使われ始めているという。街で人々が無造作に捨てるゴミは、これまではまもなく土に帰るか、犬や牛の胃袋に穏やかに納まったのだろうが、今は簡単に溶け去らないビニールやポリエチレン類が、道という道に舞っている。あちこちの空き地や庭先でゴミを燃やす煙が上がり、地を這って広がっていく。ネパールで平和に暮らす人びとの健康を、こうした新来の進入者たちが刻々侵しているのでは、と心配になる。

教育も侵入者の一つではないだろうか
 これまでネパールでは、学校教育とくに初等段階のそれを重視せず、いわば成りゆきに任せてきたらしい。高校出たての16歳がそのまま教員になれる大らかさは、日本では百年前か戦後の一時期を除いて考えられないことである。現職教育修了者はやっと4割にすぎず、文部省でもらった統計表には小学校1校あたり平均教員数4人とあった。60人クラスが普通らしく、しかも出席はその半数ほどなのは、祭のせいだけではなさそうだ。

 トリブバン大学の教育研究所では、この事態の改善を重点課題として、精力的にとりくんでいる。教員養成制度を改め、カリキュラム、教材等を整備し、・・・は、必要な良いことにちがいない。世界の大勢に追いつく努力は、子供たちの学習権の保障でもあるからだ。しかし公立校でも1年生から、私立校では幼稚園から英語を教え、社会科の教科書まで英文という傾倒ぶりに、危惧を覚えた。交流会のとき英語専攻の女子院生は、今この国で良い職業に就くためには英語に通じていることが必須の条件だ、と話した。

 どこの国にもある都市と地方の差、上昇志向の階層と自然に抱かれた生活との格差は、ここでは特に著しくなりそうな気配である。今も根強いカースト制とも重なって、学ぶこと教育が前進することが、かえって人びとの平穏を損う。大きな自然の中で生き死んでいく意味で基本的に平等な社会が、不可逆的に変わっていくのでは、と心配になる。

教育研究の理想と現実
 T大の教育研究所で、研究課題が網羅的なことと、精力的な研究ぶりに驚いた。300冊の研究報告書、定期刊行物にニュースレターと、量産に目をみはった。教育学部のパンフでも、初等、幼児、成人教育等の諸コース新設で、研究成果を着々実践に移していることがうかがえた。

 ところがこの華やかな研究推進と試行に、現実は必ずしも伴っていないようだ。教育改革の実務に取り組むはずの文部省は、どの執務室も人影少なく、意欲や活気は感じられない。せっかくの識字教育コースは学生3人、が現場の正直な事実だし、職業科教員養成が政府の方針転々にふり回されて、実習室は荒れ放題。教育改革の美しい青写真と、現実との落差が大きいのである。

 しかし見方によっては、この行政の不活発や無定見が、この国を急激な開発とそれに伴うマイナスから救っている、といえるかもしれない。もし職業科が充実して中級の技術者やビジネスマンを量産し、広くはない盆地に工場や事業所が林立したら、人びとの健康と安全と平和は、もっと決定的なダメージを受けるだろう。外国で博士号を得た研究者たちが信じるだろう先進国的価値観が、効率的な行政の権力で国の隅々の寺子屋風小学校までストレートに浸透したら、百を超す民族ごとの文化や暮らしは、根こそぎになるのではないか。

 ユネスコ等々からの援助に応える必要もあってか、教育研究の全改革は見事で、教育改革の見取り図は美しい。人知を結集した「あるべき教育」見本集の感がある。それはそれで、いいのではないだろうか。ヒマラヤの峰々が、次々野心的な登山家たちによって登頂されても、山そのものは動かず、純白の姿で立ちつづけているように。と思うのは、旅行者の感傷にすぎないだろうか。

子供たちの未来のために
 短い調査旅行で、出会えた子供たちは多くない。しかしどこでも、生き生きと輝く目と、遠慮がちで素朴な様子とが、印象的だった。彼らがなりたいものは、教師、医師、飛行機の乗員あたりが多く、つまり彼らの直接経験できる範囲内で、カッコよく人の役に立てそうな職業である。他の途上国であった科学者や法律家など、より抽象的で知的な職業名は、公私両小学校とも出なかった。日本について知るのは断片的な挨拶単語程度で、知っている国は近隣の似た国々に限られる。

 教育改善が進み制度が完備するにつれて、彼らの認識世界は広がるだろう。しかし日本の子たちにともすれば見られる知への食傷や、知識の増加でかえって自己を見失うようには、ならないでほしい。ネパールは、日本を始め諸先進国の援助やNGO活動が集中する国の一つだが、上述してきたような諸事柄に留意して、本当に人びとの生活を守り子供たちの素直な発達を助けるような、金や人の使い方をしてほしい、と切に思う。

 たった一週間のしかも限られた場所での見聞で、真の実状は何一つわかっていないにちがいない。しかしこの国が、たくさんの民族とヒンズーほかはっきり異なる宗教を信ずる集団から成っているにもかかわらず、いま世界のあちこちに多い民族対立や異教排斥による紛争・戦争がないという事実は、重要である。アジア七不思議の一つ?だそうだ。世界の第三極ヒマラヤとその直下に穏やかに暮らす人びとは、地球に再び平和を呼び戻す、根拠他となるかもしれない。それまでネパールは、心身ともに健康でいる必要があるのだ。

(石原 静子)

Life, Education, and the Future of Nepal

Shizuko Ishihara, Ph. D.
Wako University, Institute of Society and Culture

This is the report of the study tour in Nepal to survey the state of education of this country. Four faculty members of Wako University in Tokyo visited Nepal this spring. Our attention was focused specifically on teacher training, and so we visited the Ministry of Education and the Department of Education at the Tribhuvan University. The information we got from our visit to elementary schools was also useful to understand the condition. Not only education but also the life of people in general should be paid attention. Hence each member wrote a short essay according to his interest.

The Contents of This Essay
1. Introduction: Why Nepal?
2. The First Impression of Nepal
3. Education in Nepal: Teacher Training and University
4. Two Campuses of Department of Education
5. Visiting Elementary Schools
6. Things That Made Deep Impression on Our Mind
7. Epilogue


(c)1999, 和光大学総合文化研究所(Wako University, Tokyo)
E-mail: souken@wako.ac.jp