「ラオス・カンボジアの教育」
現地訪問調査記録


和光大学総合文化研究所 C系 「アジアの教育」プロジェクト・チーム

Release: 1997.07.08


本文にある通り、97年度に発足した「アジアの教育」グループの第1回現地訪問調査報告です。研究所の年報にのせるには大部すぎるし、本学目下の課題の1つである外国とくにアジアとの交流・研究にとって有意義と考えられるので、96年度の「立命館大学訪問記録」に準じて資料としてお配りすることにしました。なお現地で購入してきたラオスを中心とする英文資料10点は研究所にあります。

1997年5月

                       

1.はじめに

なぜラオス・カンボジアか

1997年2月末から3月上旬にかけて、和光大学教員7名が、ラオスとカンボジアの教育状況について現地視察旅行をした。これは、同大学総合文化研究所に属する共同研究プロジェクトの一つ「高等教育の総合的研究」グループの企画で、同グループが1993年から始めた外国大学訪問、具体的には中国、アメリカ、韓国、タイに続く調査研究である。しかしこれまでとは視点や目的がかなり異なり、大学だけでなく小・中学校まで視野に入れた教育全般の状況、中でも教員養成の実況を調査することに重点があった。

その理由の一つは、この略称「高総研」グループが、研究所の内規により96年度限りで共同研究十余年の歴史を閉じることになり、代わって新しく「アジアの教育」グループが、旧メンバーの約半数を含んで移行発足するためである。「高総研」プロジェクトでも、上の訪問国名で分かる通りもともとアジアへの関心が強く、特に96年のタイ訪問では、発展途上国で二大国立大学が果たす役割を視察すると共に、義務教育さえままならないスラムの子たちのための小さな私塾を訪問したのが、アジアの現実をみつめ課題を新たにする直接のきっかけとなった。

アジア諸国は、第二次世界大戦後植民地支配から解放されてもなお内戦や貧困等の苦難のなかで低迷していた国が多いが、20世紀末近くになって急速に発展する地域が出てきた。NIEsやASEAN諸国が代表的だが、他方で諸事情により発展の波に乗りにくい国もある。バングラデシュなど南アジア諸国と並んで、東南アジアでは内陸の小国ラオスと、ポル・ポト派の大虐殺で混乱著しかったカンボジアが遅れがちな国といえる。国づくりの大もとは、経済発展もだがより基本的には人づくりにある、というのは古今東西不問の通則だ。われわれは前年のタイに続いてこの両国を、それも高等教育だけでなく教育状況全般について実地に調査したいと考えた。アジアの一国である日本が、共に歩む未来を考えるには、目下発展困難な国の実状を知ることが必要で、政府やODAまかせでない市民的支援のメドも、できれば得たいと思ったからである。

さらにいえば、アジアの未来を共に考えるのはわれわれよりもむしろ、21世紀に生きる子どもや青年であるべきだろう。しかし彼らは日本では、現学校制度や受験体制の枠にとじこめられがちで、そうした関心は希薄といっていい。大学4年間は認識を新たにし行動も可能な貴重な機会である。われわれの現地調査が彼らにそうした道を開くいとぐちになったら、というのが、この視察旅行のもう一つの課題意識であった。

なぜ教員養成問題か、という点について少し付け加えよう。ラオス、カンボジアでは内戦の混乱で教育システムが破壊され、修復が遅れている。小中学校の校舎校具等は日本を含む諸国のNGO等の協力で建設、修復されつつあるが、教員不足や無資格問題は、簡単には解決し難いと聞いた。容れ物も必要だが良い教師を育てなくては、教育の復興とそれを通しての国や社会の前進はおぼつかないのではないか。そのシステムがどうなっているのかを、日本なら文部省にあたる責任者に聞きたいし、大学では教育学部、地方の教員養成現場にも行ってみたい。そしてできれば小中学校の現場も見たい、と盛りだくさんな希望を持ったのである。

旅の準備と大よその経過

上の目的で計画を立て実行に移すことになったとき、われわれは幸いにも、相談にのってくれ助力してくれる良い協力者を、両国それぞれに持っていた。ラオスの方は、和光大学の非常勤講師であるチャンタソンさんで、お茶の水女子大学に留学後日本で結婚、「ラオスの子どもに絵本を送る会」を主宰して日ラオ両国を始終往復している。快く相談に応じ、われわれの勝手な希望を受け入れて、訪問先の交渉から宿泊・移動に至る一さいの手配をひきうけて下さった。カンボジアの方は、タイで知り合った日本のNGO団体「曹洞宗ボランティア会(SVA)」が、現地事務所を両国に持っていて、プノンペン所長の手束耕治氏が東京本部に出張中を捉まえてお願いしたところ、初対面にもかかわらずこれ又快く旅の手配一さいをひきうけてくれたのである。お二人にはいくら感謝してもしきれないほどありがたく思っている。

話が進んだ96年11月末、訪問先どこにでも適合するような校長(学長)あての訪問依頼状を英文で書いて、数通ずつをお二人に託した。中身は訪問の主旨、具体的な「お聞きしたいこと」、当方希望の日時、メンバー名簿等で、これまでの大学訪問でいつもやってきた方式である。「お聞きしたいこと」の内容は5項目で、教育方針とカリキュラム、学生の出身地域や階層、卒業生の活動状況、教員の資質向上方策、そして「できれば授業を参観させて頂きたい」とした。 調査活動は正味10日だが、メンバーの希望や都合を考え合わせて、ラオスに6泊、カンボジアに3泊の日程となった。具体的な記述に入る前に、旅の経過の大よそを日録風に記しておこう。

2月26日午後成田を出発。バンコクから夜行列車で国境へ、27日午前メコン河の友好橋(オーストラリアの援助で94年完成)を渡ってラオスの首都ビエンチャンに入った。28日は午前ラオス国立大学教育学部、午後教育省教員養成局を訪問。同日夜は両訪問に同行してくれたチャンタソンさんの友人夫妻、姉妹らと会食、懇談。

3月1日.ビエンチャンの北300キロにある古都ルアンパバンに飛び、村の生活や生産活動を見、寺を見学。2日、メコンを遡行して酒造りの村と仏像群を祀るタム・ティム洞窟を見学。3日、王宮博物館、孤児を集めた中学校、北部6県を学区とする教員養成校を訪問、プーシー寺院見学、夕刻ビエンチャンに戻った。

3月4日.ビエンチャン北郊70キロにある教員養成校訪問。午後はその近くの小・中学校・幼稚園を見学。5日、市内にラオス最大の仏塔を見学、僧侶のための高校の話を聞く。午後のフライトでメンバー中3名がバンコクを経て帰国、他の3名はプノンペンに飛び、翌日カンボジアのみ参加の1名と合流。

3月5日夕、プノンペン近郊の仏教文化施設「瞑想センター」見学。6日、市内の教員養成2校(小学校、中学校教員用)とプノンペン国立大学教育学部(教育省教員養成局を兼ねる)を訪問。午後民間の職業訓練施設2校を見学。7日、早朝より日帰りでアンコールワット・アンコールトムの遺跡見学。8日午前、市内のいわゆる刑務所博物館を見学。午後バンコク経由の夜行便で帰国。

以下の記述は、上記の日程順ではなく、内容別にしようと思う。2と3でラオスの教育状況、4はそれらを取り巻く生活や社会、5.カンボジア教育事情、6.その背景、と進む。7で旅の途中出会った人々について書き、8では2〜7をまとめて、この旅で得たものを箇条書きにする。

そこでプロローグとして、2月26日〜27日つまり調査旅行のメインの日程に入る前に、メコンを渡ってラオスに第一歩を印したときの印象を、次に記しておこう。

旅のはじまりーメコンの国に入る

バンコクから乗った寝台車は予想以上に快適で、揺れは大きいがよく眠れた。時差2時間の朝が明け、車窓を流れる褐色の疎林と高床式民家に、真っ赤な陽が昇る。ちょうど乾季で滞在中一度も雨はなく(4月には降り出すとのこと)、バスで橋を渡りながら見たメコンは水位最低で、意外に小さな川に見えた。

国境の町ノンカイでは二つの寺を訪れたが、その一つで広い寺庭一杯に異様な巨像が数十もあるのに驚いた。ヒンズー風の仏像、巨象につき従う狼の群像、巨大な五本指に蛇が絡まる像などなど。入り口に煉瓦を組み上げた煙突風の巨大な建造物が二基立っており、見上げると仏頭がのっていて作りかけの巨像と分かって又驚いた。東南アジアの寺や仏はどこでも、日本のとは違って金ピカ極彩色で異相なのが、異郷の旅を実感させる。

ビエンチャン到着の午後、国立図書館に行ってみた。日本なら区立図書館ほどの小さな三階建てで、全国に35館あるが学校の図書室程度のが多いという。本の少なさは驚くほどで、それもタイ語やフランス語のものが目につく。年間図書購入予算は150ドルで、あとは寄付だのみ。日本の本もあったが、日本語を解する職員がいないとかで奥の方に横積みのままだった。さすがに国立らしくフランス植民地時代の文献や、バイラーンといって古代椰子の葉を細く切ったものに経文などを書いた古文書を保管研究する部屋などがあった。一階の一室では子どもたちがはめ絵の絵本を楽しみ、別の室では中学生男女数人が絵入りの本を読んでいた。タイ語だがラオ語と似ているので、習わなくても読めるそうだ。

もっと驚いたのは、ラオスでは年間に出る新刊書が子どもの本を入れても40数点との話だ。日本では何万点だろうか。そういえばここに来る途中でビエンチャン唯一という国営の本屋に寄ったが、一階きりで棚に本は少なく、土産物の木彫や小物を並べた棚が同量くらいあった。民間の書店もあるというが、ホテルの小店を除いて街では本屋を見ることはなかった。聞くとラオ語の新聞もごく少種、発行部数は数千の単位が普通で、家庭で読む習慣はない。テレビは国営二局が一定時間のみ放映、タイの商業放送に侵食され放しという。

国全体の貧しさもあろうが、文字文化自体が育っていないのだ。訪問初日のこの見聞は一種のカルチャーショックで、以後も度々話題に上った。この国の教育を考える際にまわりの文化状況の中で見ることの大切さを、自然に教えてくれた出来事だった。



2.ラオスの教育改革は進む

国立大学教育学部

ラオスでは総合大学は国立一校きり、私大はなくあとは各種学校程度の専門学校が数校。国立も社会、工、農、林、医など9校バラバラだったのを、96年6月に統合したできたての大学で、教育学部はこれまでドン・ドク教育大学と呼ばれていた。案内してくれたドウァン・デュアンさんはここの出身で、フランス留学後しばらく教員もしていたそうで、今は例のバイラーンなどラオス古典の研究をしている。現学部長とも旧知で、懇談は打ち解けた雰囲気で進んだ。

このキャンパスには9学部中、人文、森林など4学部があり、他は別の所にある。全部合わせても学生数は六千人余で、うち教育学部生は二千余人ともらった表にあったから大きい方だ。経済・経営学部が来年新設、法学部も計画中とのことで、着々拡大整備の途にある。ラオスの学制は現在、小学校が義務制で5年、中高が各3年、大学は5年で、うち初めの2年が基礎課程つまり一般教養で全学共通、医学部は6年である。教育学部は高校教員養成が中心で、小中学校教員は県の養成校の受け持ちだ。戦前日本の師範・高等師範のシステムと似ている。

学生の入学方法は2種あり、クォータ制といって各県の推薦による方は奨学金と寮が保証される。もう一つは入試による選抜で、成績のよい者には奨学金が出る。といっても月13ドル(13000キップ)で、食費だけでも到底足りない。休暇や夜にレストラン等でバイトをし、工学部生あたりで会社に勤める者もある。国立だから授業料は不要だが、これもやがて徴集となるかも、と学生生活はかなり厳しそうだ。卒業後教員に、又は準ずる公務に就くきまりだが、必ずしも守られず80%位か。数学・物理・英語などは教員になりやすい代わり他の職業に流れる率が高く、英語科出の教職率は30%。教員は給料が安いので止めようがない。

植民地時代フランスはラオス人を蔑視して教育制度を作らず、独立後も当分中等教育はフランス語で学ぶいわゆるリセのみだった。高等教育を望む者はタイやベトナム、フランスなど外国に行くのが普通で、75年に社会主義体制になってからはロシア留学も増えた。今ようやく教育システム全体を整えつつあるところで、大学の授業もラオ語だ。しかし教科書がなく、教員が自製のプリントを配るが、それも貸与で次の年の学生も使うという。

学部長は日本に行かれたことがあるそうで、街が清潔、法を守ること、教育の能率性などを学びたいと話された(ということはラオスは逆の状況なのだろう)。しかしラオス人は穏やかで楽天的できまりに縛られない自由さがあり、幸福な民族といえる。日本人は幸福だろうか、とにこやかに、しかし鋭いことを言われる。唯一の国立大学といっても政府の審議会等に参加して国の方向に発言する機会は少なく、これからが大事だ、われわれも発言の能力を磨かなくては、と表情をひきしめられた。

基礎課程の建物に移って、説明を聞いた。2年間で68単位というから、日本より卒業必要単位数は厳しそうだ。外国語は英語又は仏語必修、第2外国語の選択幅は広く、日本語もある。日本語を学ぶ学生はこれまで年数名程度だったが、今年は16人いて、皆日本留学を望んでいるという。授業参観できることになり、教室へ。にこにこキラキラ輝く瞳がわれわれに集まり、ラオス人の中年男性教師が日本語で自己紹介をと言う。予告してあったらしく、順に立って名と年齢を言い、「ヨロシクオネガイシマス」と結ぶ。皆18才19才で1年生ぞろい、新学年は9月だから日本語を習って半年か。こちらの6人も名乗った(年齢は言わなかった)後、質問していいという。日本で何を学びたいのか、行く先は決まっているのか。教員が指名して答えさせる。経営、建築、コンピュータなど実務領域が多く、地名は聞き取りにくいが沼津などの名が出る。留学希望先は、大学、高専、専門学校がほぼ同数。日本の字も250は学んだそうで、手近な子のノートを見たら漢字びっしりの練習帳だった。テキストは教員の自製、彼の専門は数学だそうだ。日本語の歌を習いましたか。うれしそうに歌の名を答えたが、歌ってはくれなかった。しっかり勉強して、と笑顔で手を振り合って教室を出た。

ちょうど昼休みで、キャンパス内の寮を訪問した。狭い部屋に粗末なベッドと机が6人分並び、男子寮だが共同で炊事するらしく一隅に鍋や食器がある。道一つ隔てた構内に食材や日用品を売る露店が並び、寮のすぐ前の草原には鍋を据えてカユや汁粉を売っているおばさん。日本円で10円から20円、買ったらその場にしゃがんでドンブリを抱えて食うのである。案内してくれた寮委員の男子学生は、少数民族の一つであるモン族で、小学校教員をしていた24才だが、ここで学び直して母族の良い教員になりたい、と話した。

教育省で教員養成新システムを聞く

同じ日の午後、教育省に行って教員養成局の責任者に話を聞いた。1992年から5年計画で改革を進めていて、そのポイントはいくつかある。まず教員養成制度自体の整備、第2は校長以下現職教員の再教育、第3は学校経営改善のための視学制度とその養成である。

第1の中身はさらに何点かある。@これまで小中学校教員養成は入学資格・修業年限共に場当たり的でまちまちだったのを、高校卒業後小学校は1年、中学校は3年と確定した。Aこれまで教員養成校がごく小さなものまで入れて全国に59あったのを、整理統合して漸減し、10〜11校にする(96年度14校)。生徒の全数は減らさず、内容充実と効率化をはかるわけだ。B教育内容つまりカリキュラムを整備する。中学教員は自然科学、社会科学、英語の3コースを設け、専攻副専攻で学ばせるほか、教育内容はできるだけ実際的に、教育実習も充実させる。

全国に小学校が7千ほどあるが、ブロックを作って教育研究と改善を進めたい。その核となるのが視学で、400人を目標に養成を進めている。小学校は義務制だが、目下就学率は95年度で74%、5年卒業は42%だ。家が貧しく労働力として期待されるのが退学の最大理由だが、女子の早婚の風習(遅れて入学する子が特に)、焼畑農業のため移動してそのままやめるなど、社会的条件の影響も大きい。完全就学が当面の目標だが、その一方でやめた子のパート学校や成人の識字教育も考えている。親や地域全体の教育協力が必要で、視学の配置や校長の再教育はそのためでもある。ラオスは少数民族が多く、多文化教育には他の国より力を入れていて、現在教員の20%は少数民族出身である。

理想の教育の姿はこうして描けるのだが、実現を阻む現実の条件は数多い。教科書・教材、図書室、実験室等すべてが不足している。さらに大きなネックは、能力や意欲のある人材が教職を選ばないことだ。クォータ制その他で奨学金は出るが充分ではなく、もらえる学生の率も減少の方向だ。教員の給料が低いために、若者の目はもっとカネになる職業に向いてしまう。せめて同じ公務員でも号俸上の昇給が早いなどあればいいのだが、教育省の権限を越えている。

懇談2時間余、かなり立ち入った質問にもたじろがず窮状を隠さず、しかも改革の意思を決意と確信にみちて語り続けられた。日本の官僚にはあまりない率直さと力強さではないか、とわれわれはあとで話し合ったものだ。その夜デュアンさん夫妻ほか数人と会食したが、別の官職に就いているという彼女のお姉さんは、教育省の改革計画は進行するだろう、時間はかかるけれど、と好意的だった。ラオスの知識人たち大方の意見と見ていいだろう。

教員養成カレッジを訪ねる

月が替わってから、前記の日程表にある通り、教員養成2校を訪問した。順はあとだがビエンチャン校で珍しく英文の案内パンフレットをもらったので、その方を中心に報告しよう。

A4の紙1枚を三つ折にしただけの小さなパンフだが、カレッジの歴史、現況、未来の見通しまでぎっしり書いてある。懇談で副校長も話されたが、92〜3年に小さな小学校教員養成校と中学のそれが合併した、まちまちだった修業年限がそれぞれ11+1、11+3(11は高校卒の意)と確定、中学の部は英語科を含む3コース制、とどれも28日に聞いた話とピタリ合っている。68〜75年には小学卒でも短期訓練で助教になれた(日本でもそんな時代があった)など、以後ほぼ5年刻みで教員資格が上昇した経緯が書かれている。

学生数は3コース各60〜80人(3学年合わせて)、小学校の部は72人で総計277人、ビエンチャン特区を含む6県を学区とするにしては小規模だ。うち女子はどの欄も約40%。中学教員の部では卒必単位110のうち40%が教授法(methodology)であと60%が各専門、小学校の方はこの%が94と6である。表にはもう一欄あってクォータ入学生と入試生、2:1の比だ。前者は県推薦で奨学金つき、その額は月13米ドルと金額まで中央での話と一致している。この277人のうち約1/3が現職教員の再教育組で、これも中央の改革方針に忠実だ。次はここの教員の一覧表で、一般教育19人を含む51人、約1/3が女性。音楽や体育の数人を除く全員が大学卒で、英語科の1人だけがインドの修士課程を卒業している。

パンフの最終頁に、「未来への課題」として3項あげてある。教員のレベル、校舎の老朽、教科書・教材の不足。「しかし教育省の教育改革進行と共に、わがカレッジはこれらの困難を一歩ずつ克服し、良い教員の育成を通じてわが国教育の進展に資し得ると考える」と高らかに結んでいる。日本の大学案内風の美辞麗句だけではなさそうと、説明の教員たちの熱心さ、率直さから推測できた。

図書室を見せてもらった。がらんと広い板張りで、周囲の棚に本は少なく、タイ語仏語の本が目につく。司書を兼ねる中年女性教員は病気入院中の校長の妻で、資格はタイの大学での講習で得たそうだ。この国に司書養成のコースはないのだろうか。図書購入予算はゼロで、寄付待ち一方という。

校庭の木立のあたりで、女子学生2人を捉まえた。この国ではまるで制服のように女子全員が裾に多様な織込み模様のある民族衣装のスカートを着けていて、美しく個性的である。英語科1年生で会話が「少しできる」と答えたので、さっそく質問した。2人ともクォータ入学生で、かなりの競争だったそうだ。じゃ優秀なのね、高校で1番、2番?と指で聞いたら、はにかみながら3番と答えた。クォータは試験か書類選考かとたずねたが、この問いは複雑すぎたようだ。一方は農家の出、もう一人は亡き父が英語教員だったとのこと。兄弟は7人と6人で、ラオスでは普通の数だそうだ。

校庭の向こうの方で子どもの歌声がする。メンバーの一人福島が、小学低学年位の男児数人を捉まえて、日本の歌を教え始めたのだ。「ぞうさん」(ラオスは象のいっぱいいた国だ)、次は「チューリップ」。長い鼻や花の形のジェスチャーつきとはいえ日本語が分かるはずもないが、皆元気に大声で繰り返し、3度目くらいには憶えてしまった。粗末な服でサンダルばきだが、人なつこく明るい子ばかりだ。こんどはラオスの歌をと所望したが、大勢に囲まれて恥ずかしそうで、とうとう歌ってくれなかった。

そういえばこのカレッジの門を入ったとき、すぐ右の長屋のような粗末な建物で子どもの声がしたので、訪問前だがちょっとのぞいたら、幼児十数人ほどがいる保育園だった。教育実習校兼用の小中学校も近くにあり、カレッジも合わせて教員の子を昼間預かっている。昼食代として月百円!、女性3人は職員身分とのこと。棟続きに粗末な食堂があって、昼には教員・学生もくる、とカユや煮込みが用意されていた。歌の子どもたちは少し年かさ、小学校も昼休みだったのだろう。

地方の養成校でも

訪れたもう一つの教員養成校は古都ルアンパバンにあって、北部6県が学区だ。学生数447人とかなり多く、女子は約半数。小・中両養成校が90年代初めに合併、11+1と11+3に確定、学生の1/3は再教育組、と同じ話で、教育改革が地方にも着実に実現していることが分かった。違うのはクォータ生が全員の半数なことで、この比は教育省が決める。この学区が多少豊かだからかも、との話だ。制度やカリキュラムの整備充実と共に、これまで見下げられがちで社会的に不安定だった教員の地位がこれからはよくなるでしょう、と希望を話された。優秀な生徒に来て欲しいが、教員の低収入がネックだ、教科書教材何もかも足りない、とこれも同じ話。北部は少数民族が比較的多く、その良い教員を育てるために、入試成績も多少配慮する、と重要な答えがさりげなく返ってきた。ここの教育方針は、とたずねてみた。ラオスは古来長上を敬う慣習がある一方で、師弟が家族のように親しむ伝統もある。父の厳しさと母の慈愛、本校がめざすのはこの中間でしょうか、と考え考えゆっくりと答えられた。

男子寮を訪問して、3人と話した。病院の大部屋風にベッド8つがぎっしり、各ベッドの支柱が支える横棒に、カーテン代わりか各人の服がズラリかけてある。中学コースの3年生たちで、まもなく先生になる。なぜ教員を志したのか、とたずねてみた。「魂の技術者だから」としゃれた答えは、あとで聞くと誰だかの名句の借用だったそうだ。「ラオスの教育をよくする」「子どものため、同時に自分も伸ばしたい」と皆しっかりしている。今までにそんな先生に会えたの、と聞いたら一せいに、みんないい先生でした、と答えた。朝は5時起床、7時半から授業で、夜も寮の小電球では無理なので皆教室で9時まで勉強する、という。

英語の若い教員が懇談後もつきあって、門まで送ってくれた。入試に英語を課すのは英語科だけ、中・高に英語の必修のきまりがないため学力はさまざまで、指導に苦労するという。それでもずっと英語教員を続けたい、と明るく話した。この師弟の未来に、心から声援を送りたくなった。



3.小・中学校の現場で

小・中学校に行ってみた

以上に記した大学や教員養成校が訪問予定のメインで、小中学校には「できれば」の程度だった。それが「ぜひ」と変わったのは、上記訪問の影響もあるが、偶然が働いた。ビエンチャン北郊の養成校に行ったとき、旅行社のミニバスで一時間半も乗り続けたので、メンバーの一人角田が一服吸いたいと言い出した。車を停めたのがたまたま村落の小学校前で、休み時間らしく校庭いっぱいに子どもたちが遊んでいる。珍しがって門を入ってみたら、たちまち逆に好奇心一杯のチビたちに何重にも囲まれてしまった(あとで聞くとこのあたりに外国人がくるのは初めてだそうだ)。皆粗末な身なりだが生き生き輝いた目をしていて、人なつこく笑いかけてくる。ラオ人ガイドの通訳で何年生?、と聞いたら2年生で、年長の連中は遠巻き風にこちらをうかがっている。勉強では何が好き?、口々に答えるが多いのは「お絵描き」の類らしい。先生を好き?、一せいに「好き」の大合唱、欠けた乳歯が可愛い。午前と午後の二部制なこと、2年生2クラス、1年生3クラス……5年生1クラス、くらいまでは何とか聞き出せた。さては中途退学の実例か、とささやき合ううち、日焼けした中年男性がやってきた。この学校の校長で、さっそくたずねてみると中途退学ではないことが分かった。上級生のクラスが少ないのは、低学年を30人クラス、上級生は45人としたためとのこと。近くに私立小学校があって(この国にきて私立小学校のことはここで初めて聞いた)、親の意向で転校する子もあるが、その数は少ない。二部制でないのはいいが月謝が350円もするという。間もなく休み時間が終わり、生徒も校長も校舎へ去った。

この出会いに味をしめて、教員養成校の帰り道、どこか小・中学校に飛び込みで、と衆議一決した。幸運にも小学校に幼稚園を併設した所に行き当て、突然なのに快く受け入れてもらえた。珍しがってか校長、園長ほか揃って質問に答えてくれる。小学校は生徒数400人、13クラスで初め30人が上級で45人になるのは、前に聞いた話と同じだ。教員15人、うち女性11人。全員養成カレッジ出で校長だけがドンドク教育大学卒。就学率100%、5年卒業70%で、教育省で聞いた全国平均よりかなり高い。

幼稚園は義務制ではないから、教育省の指図でなく地域が望んで作った。但しカリキュラムは教育省が大よそを決める。園児50人で3〜6歳、腕を頭のうしろに回して耳に届いたら就学適齢という言い伝えがあるそうだ。教諭4人、園長は教育大を出てこの道30年のベテランである。

授業中の教室を、片っ端からのぞいて歩いた。幼稚園では年齢別10人ほどずつ3教室で輪になって座り、女性教諭と一緒に手を叩いて歌っていた。キラキラ輝く瞳がこちらに集まるのは、やはり珍客なのだろう。小学校でも同じ学年は同じ時間割のようで、小2の3教室は揃ってダンス。女の子が黒板前で踊り、皆が手拍子するのまで同じだ。ほかは字の読み方書き方が多いようで、男の子が黒板前で教科書を音読している教室の次では、生徒たちがノートを高くかざして、教師が次々とうなずいてOKを出していた。皆生き生きと活動的である。その一方で、教員不在で自習らしい教室が二つあった(われわれのせいかもしれない)。4〜5年生と見える子どもたちはきちんと席について何やらやっており、うち一室ではわれわれがのぞいたら一せいに立ってラオス式の合掌礼をしたのには恐縮した。担任教師がそうしつけているのであろう。

中学校は地続きで、ここも校長以下突然の訪問に快く応じてくれた(もっとも彼は幼稚園長の夫である)。3時半で正規の授業が終わって自由なスポーツの時間だが、家に用事のある者は帰っていいそうだ(中学生ともなれば期待される働き手だろう)。広い運動場のあちこちでのびのび体を動かす生徒たちを見ながら、校庭のベンチで夕風を楽しみながら、話を聞いた。小学校5年を卒業した子の多くは中学に進むが、高校進学はかなり難しい。去年の例では3年生40人中28人が進学し、12人は不合格で留年したという。それも進学意欲というより、中卒ではよい職業につけないため上を目指す傾向が強いという。とすると、小学校も出るか出ないかで未熟練労働等におちつく層と、少しでも社会的上昇をめざす人びととに、10歳前後で二分するということだろうか。中学校の教員は、地域の教育行政官が配分するきまりで、欠員が生じても校長に発言権、選択権はないそうだ。

好意を謝して帰りかけたら、近くのコートで籐製のボールでサッカーとバレーの合いの子のような球技をやっていた男子数人と若い男性教師2人が、動きをとめて明るく人なつこい笑顔を送ってきた。この球技はこの辺一帯に共通なスポーツで、「セパタクロー」というそうだ。

孤児の中学と坊さんの高校と

ルアンパバンで、両親のない子を集めた中学校に行った。そんな学校の存在さえ初耳だったから、チャンタソンさんのおかげである。おちついた古都の郊外で、話を聞き授業と寮も見せてもらえた。

定員210人(うち女子62人)、6歳から18歳までいて、8クラスに分かれる。比較的大きな施設はビエンチャンとここの2校だけで、従って全国の自治体から送られてくる。欠員には代りが来て、この学校に選択権はない。両親または片親のいない子、貧しい子は全国に多い中で、比較的優秀な子が選ばれてくるようだ。が中にはそうでもない子もいて、留年する。全寮制だが、それまでの貧しい生活より良いと、逃亡や不満はなく、途中で引き取られる機会もない。優秀な子、さらに勉強を望む子には高校、大学への道がひらける一方、早く自立をと自他が認めた子には、手に職をつける訓練をする。女子は織物、男子は農工の類で、それぞれに就職していく。教員は18人、職員は寮母等を含めて11人。1976年の創設で、社会主義の理想と育英事業を兼ねたような施設である。

国立だが政府の予算は少なく、外国の援助に頼る。教科書、学用品はもちろん、着るものや寝るときの蚊帳に至るまで不足している。ろくな服も持ち物もなく送られてくる子が大部分だから。寺が孤児貧児の教育機関となる伝統があったが、男子は一度は出家する慣習のすたれた今、ここは数少ない救済の場になっているようだ。子どもたちが菜園で作ったものを売り、半分は小づかい、半分は学校の費用になるという。

授業中の教室をのぞいて回った。懇談の席を去った校長が、中1のクラスでフランス語を教えていた。小1は聞きとりらしく、女性教師の音読をおとなしく聴いている。小2は読み方で、男の子が前に出て教科書を朗読する。机上に何もない子が多く、うしろの席に年かさの数人が固まっているのは、年長入学だそうだ。普通の学校以上に学年制は難しいらしく、中学校と名乗りながら生徒の年齢幅の広い理由が分かった。しかし皆他の学校で見たのと同じように、明るくにこにこと笑いかけてくる。男女とも洗いざらしの白いシャツに紺スカートと黒ズボンで、制服のように揃っているのは寄付金でまとめ買いするためだろうか。

女子寮は板張りの細長い建物で、丸めたフトンが壁際にズラリ並んでいるのは、昔の兵舎の感じだ。一段低い床下に古びた木箱が並ぶのは、乏しい私物入れという。1人2人ふとんにくるまっている子があって、病休だそうだ。小窓からさし入る光は弱く、どんな思いで寝ているのだろうか。

寺が庶民の教育機関と古典文化伝達の場を兼ねることは、こうしてあちこちで耳にしたし、街で黄や朱の衣を着た少年僧も見かけたが、訪問のツテがなくあきらめていた。ところが好運にもラオスを去る日の午前中に、見物に行った金ピカの仏塔の回廊で、偶然来合わせた少年僧2人に話を聞くことができた。

僧のための高校の2年生で、ここビエンチャンの一校しかないため、故郷ルアンパバンを出て寺に住み込んで通っているという。中学までは普通校で、年少で寺に入る子もそれぞれの地で小中学校に通う。僧用の高校といっても、自然科学や数学、国語、英語等の授業があるが、パーリー語、サンスクリットなど仏典に必要な学習が加わる。僧のための大学はない(タイにはあるが留学は難しい)から、進学と決めれば寺を出なくてはならない。君たちはと聞いたら、未定だが多分進学しないでこのまま僧になるだろう、と答えた。

好きな科目は、とたずねたら、主に答えていた少年僧が言下に「英語」と答え、もう一人もはにかみながら同意した。生徒数300人、教員は13人でうち僧は2人と意外に少ない。さすがに女性教員はゼロ。朝は4時に起き、勤行ののち6時半に托鉢に出る。授業は7時半から、土日を除き午前午後しっかりある。寺のきまりで食事は朝昼の2食、じゃあ夜お腹がすくでしょうと言ったら、素直にうなずいた。7時就寝だが、今は試験前なので少し長く起きていることが許される。もちろん男子校で、ラオスに尼はいるがごく少数、女性だけの寺院つまり尼寺はないそうだ。

剃髪で黄の衣の少年僧は、りりしく思慮深く見えた。英語での会話もスムーズだったが、なぜ僧にと気軽にきくことは、やはりためらわれた。金色の仏塔をバックに記念写真をとり、合掌礼で別れた。これも偶然手に入った、ラオスの教育の一面である。



4.ラオスの生活と社会

外国旅行では大抵、安全と便利のために大都市のホテルに居続けることになるが、その分人びとの日々の暮らしに触れる機会は減る。われわれもラオス6泊はホテル住まいだったが、中2日ルアンパバンに飛んで、いなかの人たちの穏やかな生活や昔ながらの生産活動を見聞することができた。初日の国立図書館で悟った通り、この国の教育はまわりの社会・生活に浮かべて見る必要がある。正味2日の限られた見聞だが、いくらかの助けにはなるかもしれない。

前近代的生産活動に触れる

ルアンパバン着は午前中で、古都だからすぐ寺に行くのかと思ったら、それは後回しでいなかの普通の村に案内された。これもチャンタソンさんのおかげで、望外の収穫があった。

田畑があるとは見えない、疎林のなかの斜面の村。鍛冶小屋3軒が接近して建っていて、ナタやクワなどの農工具を作っていた。炭火の炉で真っ赤に焼いた鉄を、男たちが呼吸を合わせて次々叩く。炉に風を送るフイゴは手こぎ式で、子どもでも手伝えるらしく、少女が台に乗って両手で棒を押していた。トテンカンと昔なつかしい鍛冶の音が、真昼の空にひびく。

別の小屋では糸とりと織物。初老の女性が左手足で糸車を回し、大きな枠からくり出す糸を、右手でよりをかけながら糸棒に巻きとっていく。織物は素朴な織機に縦糸横糸を張って交差させ、複雑な図柄を浮き出させる。朝7時から始めて4時間余、やっと4〜5cmほど織れたそうで、例の美しい民族衣装の裾模様に仕上げて、仲買人(日を決めて回ってくる)に売るのだ。東京とは違う時間が、ここには流れている。

次はヤシの葉で編んだ粗いムシロに、みずみずしい緑の藻が広げて干してある。ガイドによるとメコン河で採れる青ノリで、紙状に乾いたら醤油スープに漬けてゴマをふり、もう一度乾かすと商品になる。メコン河畔の店で食事のとき注文してみて、これを焼いたのに飯をはさんで食うと美味なのを知り、以後ほとんどわれわれの注文の定番となった。しかも眼下のメコンの浅瀬で、半ば水につかってノリ採りをする人びとの姿を眺めながら食うのである。

ガイドにたずねると、これらの生産活動は観光コース用の見世物ではなく、ごく日常の生活という。ガイドのポン氏は地元出身で、チャンタソンさんの依頼に応じて「自分の裁量で」この村を選んだそうだ。少し離れた所に、小さな紙すき工場もあった。ミツマタに似た木の皮をこまかくして煮て布を張った木枠でこし、陽に干すと日本の和紙に似た厚めの紙ができ上がる。木の葉をはさんでカードや冊子の表紙にすると、観光客用のみやげ物として売れる。

大きな水車で季節の灌漑

次に案内されたのは、メコンの浅瀬に立つ直径6〜7メートルはある巨大な水車だった。さすがに大河メコンは乾季と雨季の水位差著しく、両岸が数メートルの高さで、斜面は耕されて野菜や陸稲が成長していた。この水車はメコンの水を斜面の畠に揚げる農具で、ゆっくり回る青竹の輪にたくさんの竹筒がゆるく結んであり、汲んだ水がゆっくり最高部に達すると自然に横転して、受け皿の樋でそこより低い岸の各所に送られるしかけである。雨季には斜面の畠は水に没し、水車も無用となるから、枠だけ残して解体する。雨季明けには新しく切った青竹で組み立て直し、野菜の種をまく。自然の力に逆らわず、季節と和合しながら生きるラオスの人びとの穏やかな暮らし方が、この水車のゆっくりとしかし止まることのない動きに、象徴されているようだった。

ポン氏の話では、この河畔の土地は彼の親族の所有で、従って水車も幼時から親しんだ「わが物」だそうだ。だからこれも彼が好意で組んでくれた、観光用ではない特別コースだったらしい。

酒造りの村と女たちの踊り

その翌日は、メコンを遡行して仏像群を祀った洞窟を見にいくという、当地おきまりの観光コースであった。がその途中に、これ又チャンタソンさんご推賞の面白い生産ドラマがあった。

乾季ゆえメコンの河川敷は広々と露出している。そこに粗末な仮小屋数棟を建て、河の水を活用して蒸溜酒造りをする人びとがいるのだ。われわれの船が岸に近づくともう、酒の芳香が川波にのってくる。上陸して近寄ると、ドラム缶が下から盛んに焚かれて何やら煮立っており、その上部の細い管を液体が絶えず流れ出る。缶には皿状の大きなフタがしてあって、男女数人がそこに盛った水を河原に捨てては新しい水を注いでいる。最初は何のことか分からなかったが、説明で納得した。蒸し米に麹を混ぜて寝かしたのを煮ていて、蒸発したアルコール分を河の水で冷やすと、液体化して管を流れ出るしかけなのだ。河のすぐ傍でなくてはできない作業で、十代の少女が大きな桶をかついで絶えず川水を運んでくる。溜まった酒は岸に並べた大きな壷に、次々移される。ポン氏がコップに少量汲んでくれたが、できたてでまだ温かく、香り高く素朴な美味だった。

雨季が近づくと小屋ぐるみ解体して運び上げ、増す水量と共に作業は上に移動する。これも自然の力を生かした生活の知恵の凝集といえる。

従って酒造り村の居住部分は、川岸の少し奥にあった。斜面を登りきると間もなく、陽気な音楽が聞こえてきた。村はずれの疎林の小さな空き地に、ラオスの歌らしいCDに合わせて、女たちが踊っているのだ。ポン氏によれば葬式か法事があって、男たちがまず「精進落とし」の酒に酔い騒いで散ったあと、女の出番になったところという。酔って陽気になってだろう、われわれをみつけた数人が、一緒に踊れと盛んに誘いこみにきた。一行のうち女性は一人だから当然標的は集中、断われるふんいきではない。これもめったにない旅の一興と、踊りの輪に入った。別に決まった形はなくめいめい気分のままに手足を動かす様子なので、度胸を決めて成り行きに任せるうちに、だんだんリズムが合ってきた。酔って真っ赤な顔が多く、若手の一人内田も誘い込まれた。河原での迎え酒に今飲まされる二口三口が利いて、ふしぎなほどまわりにとけこんで踊り続けることができた。

ウサギから象への寓話

村の生活や水車を見た日の夕方、やっと古都らしい寺めぐりとなった。ある寺の堂内では少年僧たちが、江戸時代ふうに鉄製の車をおして薬草を切るのを見た。また別の寺では、外壁に色ガラスのはめこみで美しい絵が描かれ、ポン氏がその民話を語ってくれた。

ウサギが昼寝をしていると大きな音がして驚いて跳ね起き、「地震だ」と逃げ出す。それを見た鹿がウサギに問い、自分も「地震だ」と駆け出す。次に狼が、牛が・・・・・・・と数段を経てから、白い象が初めて「地震はどこか、君は見たのか」と問い返し、動物の順を逆にたどって、ウサギの寝ていたあたりに大きなヤシの実が落ちているのを発見する、という話だ。白い象はおそらく知恵の象徴で、どこの国にもありそうな民話だが、「実見しない情報に惑わされるな」という教訓は、現代にも通ずるものである。

ポン氏はこうした昔話を尼だった祖母から聞き、自分でも本を読みあさって、解説文を自ら組み立てたという。あとでまとめて述べる通り、彼は何とドンドク教育大学卒で、教員の経験がある。ラオスの民話を掘り起こして英訳する仕事もしているそうで、彼がガイドに転身したのは、もっぱら高収入ゆえなのだ。「ラオスの子どもたちは惜しい先生を失った」とわれわれは歎息した。



5.カンボジア教育改革―再建をめざして

初めに述べた通り、 カンボジア行きは初めからラオスの約半分の日程で、おまけに訪問予定日が運悪く当地の祝日と重なった。訪問は時間短縮のかけ足となり、小、中学校をのぞくこともできなかった。しかしこの国なりに見聞きしたこと、考えさせられたことをまとめておきたい。

教育再建に向けて地道な改革努力

カンボジアでも、国立の総合大学はプノンペン大学ただ一つだけである。私大はなく、あとは単科のカレッジや専門学校が数校あるきりだ。その教育学部訪問がわれわれの日程のメインだから、当然ラオスを含めてこれまで訪問した諸大学と同様に、校舎と校庭があり、学部長ほか数人と懇談するものと信じてでかけた。

ところがミニバスで着いた先は、街なかの敷地のビルの一室で、どうも様子が違う。待っていてくれたのは、色黒痩身で始祖鳥のような風貌の学部長ただ一人。挨拶して話を聞くうちに分かってきた。ここには学部所属の学生はいず、プノンペン大学に限らず大卒者を一年教育して高校教員にする、いわば資格授与機関なのだ。おまけに教育省教員養成局、つまりラオスで見たような、国全体の教育改善計画を立案推進する政府機関に所属する教育機関なのである。そのへんの構造図はよく分からないが、これも大虐殺後の人材不足、組織崩壊の影響があるのかもしれない。学部長自身が、学部(Faculty)の名が誤解を招く、本当は国立教育公務員養成センターと呼ぶべきで、実際に改名を考えている、と明言された。

そうした機関としてのここの仕事はすべて、1975〜1979年に起こったポル・ポト派(クメール・ルージュ)による知識人皆殺しの後遺症から立ち直るための、施策であり努力である。周知の通り彼らは政権を得るとまもなく、都市の住民を農村へ強制移住させ労働させると共に、政治家、学者、文化人、学生に至るいわゆる知識人層を片端から捕えて処刑した。われわれの調査目的に即していえば、小学校教員は1/8の約3千人、中学教員は1/10の200人しか生き残れなかった。校舎校具は破壊され、全国の学校は荒廃した。

物質面の修復は外国の援助等でなんとかなりやすいが、失われた人材の補充育成は簡単にはいかない。当座の必要をまかなうために80年代には、小学校卒業後短期訓練であるいは無資格でも教職を認めたが、ようやく世情がおちつくと共に、改めて教員の能力不足を補い教育内容を改善する必要が起こった。それには、現職者の再教育と新しく教員になる人びとの養成制度整備とが、不可欠の両輪である。

現教育体制の立て直しのために、本組織は三つの柱を立てて仕事を進めている。前述の高校教員養成がその一つで、広く大卒者をリクルートして1年間の教育で高校の現場に送る。毎年1500人が目標だ。第2の柱は学校経営改善のための視学官の養成で、毎年50人ほど、教育経験のある公務員からリクルートして1年研修後全国に配置する。小・中学校の運営管理、教員の指導査察が役目だ。第3は現職教員の再教育で、全国の小・中学校から年150人をリクルートし、7ヶ月の研修後各地に戻す。地域に設けた教育サービスセンターで、その地の小・中校教員たちを指導し能力向上をはかるためである。彼らは「先生の先生」、教育改革運動のいわばオルグで、教員養成者と呼んでいる。

これらの施策は、イギリスフランスなどの制度を調査した結果あみ出したユニークな制度で、5年計画で発足、まもなく達成期だがさらに続けるべきか目下検討中である。問題はこれだけの大仕事を本組織の少数メンバーでやるのは過重なことで、他からの応援を求めるが思うようにいかない。人材不足だけでなく、教室・教科書・教材・実験室等々すべて不足している。

以上の現状改善策と並んで、正規の教員養成制度の整備を進めている。これも柱が三本あって、まず小学校教員養成校を全国に17校配置し、高卒後2年と定めた。中学校教員養成カレッジは同じく6校で、高卒後4年。高校教員養成は前述の大卒後1年、本Facultyだけが行う本来の業務だ。これらを12+2、12+4、学士+1と表現している。小、中校教員養成校の教員は高校教員5年以上の者(つまり大学卒の現職経験者)から選んで、校長と教育省側合同の委員会で決定、任命する方式とした。

このように制度を整備しても最大のネックは教員の給料が安いことで、優秀な人材が他の職業へ流れてしまう。本組織の力ではどうしようもないことは多いが、教育の充実は国の再生のカナメと信じて、努力を放棄することなく改革を進めていきたい。

学部長の言葉は切々と、次第に熱を帯び、目は暗いが強い光できらめいた。

小学校・中学校教員養成の現場で

同じ日の午前、プノンペン市内の小、中学校教員養成校を訪れて、各々校長ほかの話を聴いた。上述の通り別カレッジだが、同一敷地の地続きにあった。

小学校教員養成校では、まずこの学校が1980年以降各地を転々として制度もくるくる変わった、という長い物語から始まった。今ようやくおちついたところで、教育省の指示に従って高卒者12+2の教育と現職小学校教員の再教育を行い、ほかに大卒者で小学校教員を望む者の養成課程も設けている。大卒者の出身学部はさまざまで、約半数がプノンペン大出だ。教員の資質向上の方針から教職資格試験が厳しくなり、大卒者でも不合格留年組がかなりいる。合格すれば就職は保証されるが、問題は学生全般に教員になりたいという希望が必ずしも強くなく、他に良い職がないので生活のためにやむをえず、という消極者が多いことだ。まじめに勉強して教員になり勤続する者(女子に多い)はいるが、機会あれば他の職業に流れてしまうのを、どうしようもない。

奨学金は政府から月1ドル半とECの某財団の4ドルを全員がもらうが、貧しい家庭の子が多くて到底足りない。教科書・教材・図書等すべて不足で、外国の援助頼みだ。寮はなく(市内ゆえか)、古い教室に住むことを許しているが、水道も電気もないので不自由している。

あとで通りがけに「古教室」をのぞいてみたら、なるほど粗末なベッドといくつかの簡単な炊事道具があるだけで、学生の姿はなかった。学生の生活状況はラオス以上に厳しいようだ。教室の一つでは男女学生20人ほどが、そろってダンスをしていた。体育の時間で、子どもに教えるために伝統的なクメールダンスの基礎を学ぶという。優雅だが素朴な踊りを元気にやっている様子に、救われる思いがした。

中学校教員養成校でも、似た話を聞いた。中等教員の大量不足のため、80年代は小学校教員を3ヶ月間教育して昇格させる速成策がとられた。その5年間1500人弱の速成に、この学校は休日なしの忙しさだったという。同じ頃平行して7+3、つまり中学も出ていない年齢の少年を教育して中学教員を急造した。89年来ようやく正規の12+2に漸次移行したが、7+3現員の再教育もするので、相変わらず多忙だ。再教育は今97年で打ち切りとなる。新しい12+2システムは、自然科学と社会科学の2コース制で、それぞれがさらに文学・哲学・歴史・地理と生物・数学・物理・化学などに分かれる。英語・フランス語を教師としてよりも知識人に必要な教養として全員に課すこととし、それを理由にイギリスから多少の奨学金が出ることになった。

月2ドルの政府奨学金が全員に出るが、貧困層が多く到底足りない。教員になっても月給10ドルで生活できず、副業を探さなくてはならない。この養成カレッジの教員も、金額は少し多いが同様な状態で、優秀な者ほど他の職業に移り、補充困難だ。と暗い話が続いた。

実験室を見せてもらった。男女学生10人ほどが、物理実験をやっていたが、簡単な器具で初歩的テーマのようだ。戸棚1個を区分けして、化学・物理・生物の教材が同居する状況である。7-3再教育生だそうだ。それにしては揃って若い。こうして腕を磨いて帰り、先生を続ける人たちだと、少し救われた気持ちになった。

民間の職業訓練校と英語塾と

祝日は「女性の日」だそうで、それは結構だが午後学校全部が休みになってしまうので、ラオスでのように飛び込み参観ができない。そこで空いた時間を使って民間の職業訓練校二校を見て回ることにした。

一つは日本に住むカンボジア女性ペン・セタリンさんが同志とやっている「カンボジア女性自立センター」の施設である。彼女は国費留学生として東京学芸大学で学んだあと、同国人と結婚し町田市でカンボジア料理店と食材の店を経営している。母国と往復しながら、特にしわよせの集まる女性のために小さな学校を創った。彼女の店でもらったパンフで見た通り、京都の金閣寺をまねたという当地では特異な建物で、一階は美容、二階は洋裁の実習が行われていた。

美容教室では若い女性4人が、模型の頭をつかって髪型を作り、マニキュアの練習をしていた。半年で基礎を学ぶと自分で職を見つけるので、生徒は頻繁に入れ替わる。世の中落ち着いた分、美を造る仕事の場は広がっているのだろう。二階では30人ほどの年齢幅のありそうな女性たちが、ミシンで縫う練習をしていた。ファッション雑誌も机上にあったから、デザインや裁断の基礎も習うのだろう。やはり半年で就職可能とのことで、こうした具体的な学習は確実に女性たちの表情を明るいものにしている。指導する教師たちの給料は、額は知らないが某国NGO団体から出ているとの話だった。

二つ目の民間職業訓練校は、後の章でまとめて述べるが、曹洞宗ボランティア会の経営で、本体は印刷工場だ。日本から持ってきた最新の印刷機やコンピュータを駆使して、現地人多数がりっぱに仕事をし営業している。別棟の二階建てが、職業訓練校である。教室ごとに、ミシンでの縫製、型紙を使って裁断の練習、袋やバッグなど小物の製作をやっていた。作品は市販せず、各国のNGOが売ってくれる。その金がまたここの教育費になるのだろう。以上は女性だが、別の室では中学生ぐらいの少年たちが、木工の講義を受けていた。木の表面をなめらかにする方法だそうで、中学校の放課後通ってくるダブルスクール組もいるという。のぞいたわれわれに、ここでも人なつこく輝く瞳が笑いかけてきた。

同じ日の夕方偶然のきっかけで、小・中学生見当の子対象の英語塾を目撃した。街の真ん中のとある寺の境内に、粗末な数教室から成る小さな校舎があって、夕刻通ったら灯が点いているので何気なくのぞいた。教室三つそれぞれに、教師と生徒20人ほどがいて、黒板の文字で見ると英語の授業なのだ。不思議に思って尋ねたら、この小学校の教員たちで、放課後の教室を借りて私的な塾を開いているとのこと。教員養成校で学んだ外国語を活かした、立派な副業である。副業の必要はあちこちで聞いたが、ここで現物に会うとは思いがけなかった。寺の境内に小学校があるのは、昔から寺が初等教育の場だった習慣のなごりで、寺との間の広い地面では近所の子たちが群れて、ビー玉遊びに興じていた。彼ら目当てらしい食べ物屋の小屋台が並び、寺の側の堂には黄衣の少年僧の姿が見え隠れする。子どもたちの学びと活気あふれる寺の夕暮れだった。



6.受難のカンボジア

4章ではラオスの教育を取り巻く背景として、人びとの生活の様子を記した。カンボジアでこれにあたるものは何といっても、今もさまざまに苦悩の痕を残しているポル・ポトの虐殺事件である。

刑務所博物館は死者の写真と白骨累々

プノンペン最後の日、市内にある刑務所博物館を見学した。高等学校だったのを接収して監獄にしたそうで、校舎も教室も本来と正反対の使われ方をした事実が、痛ましさを倍加している。 教室いくつかはそのまま囚人用の大部屋としたらしく、しかし窓の鉄格子とむき出しのベッド、囚人の足をつないだ鎖が当時を物語る。別の教室は煉瓦で5〜6区間に仕切って狭い廊下を通し、各々やはりベッドと鎖を備えた独房になっている。重要囚人をつないで監視したのだろう。校庭には高い柱と横棒、その真下の水槽があって、囚人を逆さづりにして水に沈めた拷問の場という。その時の様子を描いた絵もあった。

さらに痛ましく目をそむけたくなったのは、数教室の壁を埋めた数百の写真である。殺す前に看守や兵士たちが必ず写真をとって、当時北京にいた首領に職務遂行の証拠として送ったという。胸に番号札をつけた老若男女が、ある者は怒りの目を見開き、ある者は諦めに目を伏せて写っている。彼らは「再教育の必要」を言われたが、殺す予告は受けなかったそうで、せめて苦しみはいくらか少なかったろうか。

大人、老人、若者の写真に混じって少女や幼児のそれまであるのは、政権を奪ったとき前内閣の大臣や要人はすべて家族ぐるみ犠牲となったためである。現に1号の札をつけた写真は子どもで、残虐の極限といえる。撮った連中は心痛まなかったのだろうか。

処刑はここではなく、数十キロ離れた郊外で、キリングフィールド(虐殺の庭)と名づけて、今でも犠牲者の頭蓋骨が山積みという。時間がなくて行けなかったが、そこを写した大きな写真があったし、ある室には頭蓋骨で形づくった大きなカンボジア地図もあった。アウシュビッツと並ぶ、人類残虐の証明である。しかも民族や宗教を異にするための憎悪ではないのだから、人間の残酷さの可能性は無限不可解としか言いようがない。

歴史の証人たちと会った

プノンペン大学の教育学部長、前述の表現でいえば「始祖鳥のような風貌」の初老の男性は、懇談の後われわれの問いに答えて、当時教員だったこと、かろうじて難をのがれたが、やはり教員だった妻と子たちは殺された、と言葉少なく語った。彼が国の再建のため、教育改革に傾ける努力に、何か暗い情熱の影が感じられたわけを、見たように思った。

第2の例は、ふとしたきっかけで知り合ったやはり初老の、こちらは携帯電話の店など最現代的な事業をしている実業家である。殺される寸前を知人の助けで逃れた。ポル・ポト政権の崩壊後、新政府の諜報員を8年も勤めたそうで、明るく太っ腹な実業家の顔の陰に、やはり無法な権力への怒りの情熱といったものが感じられた。この年代の人の多くが、こうして肉親を失ったり死の淵に近づくなどして、心に傷を負ったのではなかろうか。

受難は中年以上とは限らない。学校訪問の日ミニバスに同乗案内してくれた曹洞宗ボランティア会(SVA)事務所の青年は、当時幼かったが家族から引き離されて子どもなりの労働をさせられ、つらく悲しかったと語った。前述「女性自立センター」のセタリンさんも、国立図書館館長だった父、教員をしていた母を殺され、兄弟8人中4人も亡くなった。本人は日本留学中で無事だったが、生き残った弟妹を日本へ招んで、苦しい生活をしたという。

カンボジア入りした日の夕方、仏教文化の遺跡で今も修行の場を兼ねる瞑想センターを訪れた。説明してくれたイトンさんという老人は、芸術文化大学の元教授で造詣の深さに感心したが、彼もポルポトの魔手をようやく逃れた一人だった。故郷を避けて未知の地方を転々としたため身分を知られずにすみ、腕に覚えのある工・農業(彼の専門からいって発掘・道具作り・塗装の類か)の下層仕事をしたので知識人であることを見破られず、生を全うできた。講壇に立つことしか知らない教授仲間は、手の白さを見られてキリングフィールドゆきを免れなかったのだという。

路上に眠り、物乞う人びと

ラオスと違っていなかに行く時間の余裕がなく、人びとの生活に触れる機会はほとんどなかった。3泊したホテルは市の中心部で、むしろこのかつて無人の街となった首都に、いま集まってきている貧しい人びとを見る機会があった。街路を走る日本でいえばタクシーは、タイやラオスのトゥクトゥクではなく、自転車の座席を高くし客車を前につけたシクロが多数派である。早朝まだ暗いうちに散歩に出ると、昼間シクロを操って街を流し客や荷物を運んでいた運転者たちが、各々高い座席に座ったまま厚手の布をかぶって寝ているのが目についた。繁華街のロータリーなどに、数十台もたれ合うようにして大勢が路上で寝ているのは、新宿地下道にもない風景だ。聞くと地方から出稼ぎにきている人びとで、宿代を節約して金をためるそうだが、雨季になったらどうするのだろうか。街路樹を利用してハンモックを吊っているのもいて、布をかぶった体の小ささから子どもと分かった。ホテルの出入りにはほとんど、貧しい身なりの子どもに金をねだられたし、空港に着くとすぐから少年の物乞いに会った。

少ない日程をさいて3月7日、日帰りでアンコールワットの遺跡を見にいった。ミニバスを降りるたびに、物売りの子どもたちにとりかこまれた。絵葉書、飲み物、帽子、Tシャツ、楽器とさまざまだが、売るための単語だけ憶えたらしい片言の日本語が痛々しい。やっと包囲を脱して遺跡の門を入ると、こんどは内部のあちこちで、足や手の欠けた大人が、日焼けした切り口あらわに頭を下げている。一目で地雷の犠牲者と分かって、心が痛んだ。長い内戦でこの国各地に埋設された凶器は数百万発、今も被害は絶えないという。健全な青年さえ職の少ない社会で、彼らの生きる道はこれしかないのかもしれない。といっても、少々の金を与えたところでどうなるものでもない。自分の心を慰め欺す気休めにしかならないのだ。



7.旅で会った人びと

まとめの終章に入る前に、この旅で会った人びとについて、まとめて記しておこう。訪問して語った学部長や教員たちのことはその都度書いたし、人なつこく笑いかけてくる子どもたちも度々登場した。ラオスのいなか、カンボジアの街で会った人びとの姿も。それら以外で、印象深く、またこの旅の意義に多方面から光をあててくれた出会いについて、ぜひ書きたい。

ガイドたち

ルアンパバンで世話になったポンさんのことは、すでに書いた。酒造りの村を経て洞窟への船旅は長く、暇にまかせて彼の経歴をたずねたのだ。教育大を出てすぐ教師になったのは、初めわれわれが思いこんだように小・中学校ではなく、母校の大学だそうだ。幼時から優秀だったらしく、飛び級で2年早く進学した。家は農家で10人兄弟の真ん中、うち5人が高等教育を受け、外国に留学した兄姉もいる。母が肉屋の出でそんな資力も多少あったが、大学に入る頃に母が死んで、父は再婚、革命後の混乱期で奨学金もなかった。そこでビエンチャン近郊の農家に住み込んで、家族待遇で働きながら大学を卒業した。専攻は国語・国文で、前に触れた通り民話の発掘、研究と英訳をしており、ほとんど独学でロシア語とドイツ語もできるという。知識人の典型ともいえる彼が、低収入のため教職を捨てたのだ。前にも書いたが寺での解説はうまく、ガイドとしても特級だが。

洞窟への石段はかなりきつい登りで、へばりそうなわれわれに彼は笑いながら、新しい民話を話してくれた。昔ある男が胃弱で悩む男に、治してやるとうけ合った。ある山に登ると薬草を持ったおばあさんがいる、というのだ。ところが行けども行けども姿はなく、もう少しもう少しとあやされて、とうとう登りきったら、運動不足だった体調はすっかり快癒していた、という話である。以来、訪問ぎっしりの強行軍で誰かがネをあげかける度に、「薬草を持ったおばあさん」がジョークまじりのはげましの合い言葉になった。内戦の苦難に疲れたラオス・カンボジアの人びとも、こうしてはげまし合って、一歩ずつ復興への道を登るのではないだろうか。

ポンさんとの2日間は、ほかのガイドたちの経歴にわれわれの注意が向かうきっかけになった。意外なことに高学歴の転身者は、彼だけではなかった。アンコールワットで添乗した一人は、ミニバスが前を通った学校を、この県の教員養成校だと説明し、自分も最近まであそこの教員だったが、多忙の上に低収入なのでガイドに替わった、と話した。学校回りの日の別のガイドは、プノンペン大学の英語と国際関係専攻で、しかも何やら特別クラスだったそうで、クラスメートの多くは外務省等で活躍している。しかし公務員は教員と同じで給料が安いから、自分の方が高収入だ、彼らが大使にでもなれば別だが、と笑っていた。ラオスで1日だけついた女性ガイドも、専攻は忘れたが高等教育機関を卒業していて、きれいな英語を話した。

もう一人愉快だったのは、プノンペン空港送迎役の男性ガイドだった。自ら明かしたところでは、何と本職は王宮の案内係員で、ツアーガイドは副業とのこと。えっ、どっちも昼間でしょ、両立できるのと言ったら、朝出勤してサインしたら脱けてくる、とすまして答えた。シアヌーク国王はこんな勤務実態を知っているのか、それとも彼自身北京へパリへと神出鬼没だから、下それに倣うの類かもしれない。

日本人たち

ここまでにも時々登場した曹洞宗ボランティア会(SVA)のことを、少し書きたい。

ビエンチャン事務所には、着いた日すぐ訪れた。所長は滞日中で、所員の小野豪大(たけひろ)さんが会の現地活動を説明し、案内してくれた。まず事務所に隣接する子ども図書館には、ラオ語日本語の本や絵本がかなりあり、その後あちこちの教員養成校図書室の貧弱さを見回ってみると、かなりの充実とあとで感心した。放課後の子どもたちが多い日には50〜60人集まるそうで、専任のラオ女性はロシアの大学出、目下日本語学習中で、子どもの本のラオ語訳に尽力している。この国の文字文化を無理のない形で実らせるには、子どもに読む楽しさを悟らせることが、迂遠なようで近道なのだという。

次は少し離れた所にある謄写版作りの工場。コピー機などなく電気さえままならないこの国で、日本では廃れたといえる謄写版は、有効な教育機器なのである。ラオ人たちが、黙々と板を切り揃えて枠を作っていた。ナイロンの布を張り、ヤスリ、鉄筆に教材数点を添えたセットにして、全国の小学校に配る。年産1300個でがんばっても、あと数年はかかるとのこと。教材は大きなラオスの地図と絵入りの五十音表で、どちらも紙でなく布なのは、汚れたら洗って長く使える知恵である。地図を特大の謄写版で三色刷りの青を3人がかりで刷っていた。

さらに驚いたのは、別の部屋で「Bunsyu」と表題したワラ半紙数枚位のパンフを見たときだ。セットを配るとき、使い方の講習会を各地で開く。教科書教材不足の著しい現場で、教員がプリントを自作して配るのに謄写版は手近重宝な利器だが、SVAは一歩進めてこの機会に、文集づくりを先生たちに勧める。この粗末なラオ字パンフは、そのための見本なのだ。長上を敬う風の強いラオスでは、教員が上から「教える」のが教育だという伝統があり、子どもの自発的な学習活動はあまり顧みられずにきた。いま国をあげての教育改革のなかで、子ども主体の授業へと徐々にシフトしつつあるが、SVAはこの流れを側面から助けようとしている。現に講習を受けてめざめた教員が、クラスで作文を書かせ、謄写版で刷って配ったときの子どもたちの驚き、喜びようを知らせてくるケースが増えている。「それが何よりうれしく、励ましになります」と小野さんは話した。日本戦前の綴方運動、戦後すぐの「山びこ学校」例などは、ラオスの今と似た状況のなかで、めざめた教員たちの努力だったのだ。と今さらのように振り返り、SVAが黙々とモノを配るだけでなく育てる心を配っている姿に感動した。

プノンペン事務所が、印刷工場と共に洋裁、木工などの訓練施設を開いていることは、前に書いた。印刷工場も見せてもらったが、日本人はわずかで現地の人たちがそれぞれの持ち場で、手ぎわよく仕事を進めていた。コンピュータをにらんで画像処理をしている人もいた。ここではNGO関係の冊子やビラ、ポスター、教科書ほか政府からの依頼、そして一般からの注文もあって、かなりの利益を出し、大企業なみに発展している。工場長の日本人と会食したが、彼は現地の人を働かせるのではなく、印刷の技術者、経営者として自覚自立できるように努めている、と話した。今の職に就いてから数年だが、ようやく現地人スタッフたちが自分より未熟な仲間を自発的に指導するまでになった、と。彼はこれをテレ気味に、「教えることがカネになると分かってきたようだ」と表現した。カンボジアも社会主義体制ながら自由経済へと移行しつつある今後、こうして自覚した人びとがやがて独立して各自印刷所を興し、この国の文字文化を支え進めてほしい。「それが僕の夢です。なかなか実現しないけれど。それに商売ガタキが増えるわけで、自分にとっては不利なんだけど」と笑って話した。

プノンペン事務所にも着いた日すぐ訪問したが、所長の手束氏は留守で、帰国の日の午前にようやく会えた。彼はカンボジアにはたくさんの国のNGOが入っているが、現地人との関わり方はさまざまだ、日本人欧米人にありがちな「遅れたアジアを憐れみさげすむ」気持ちは必ず態度に表れる、と言い、あるNGO事務所で一夜のうちに現地人スタッフに、机や椅子、冷蔵庫など一さいをキレイに持ち去られた事件を笑いながら話した。そんなとき警察に訴えても仕方がない、彼らにはそうする権利があったといえるのですから、と。それらの事実をふまえて彼は、バラバラなNGO活動を統合するネットワークが必要だ、この国が立ち直る真の助けとなるためには、と力をこめて繰り返した。一緒に事務所を出た手束さんは、現地人スタッフに何か言った。聞いていたわがミニバスのガイドはあとで、「あの人のクメール語(カンボジアの共通語)はうまい、本物だ」と感心していた。この国にきて6年と聞いたから、生半可な努力ではなかったろう。現地の人ととけこみ生活を共にする日常の気構えなしには、その域に達することはできないにちがいないからだ。

もう一人、現地でたずねて会い損ねた日本人がいる。カンボジアで修行するただ一人の日本人僧侶渋井修氏で、彼の著書を読んでいたのでぜひ会いたいと、ガイドに聞いたら意外に近く歴史のある有名な寺という。寺の裏手に小じんまりした堂があって、「ウナロム学院」と日本語の看板が出ているのが、彼の「小さな学校」だった。もともと僧ではないが、虐殺で亡くなった数百万の魂を慰めようと、現地の寺に入った人である。近くに小学校があって(ちゃんとあった)、子どもたちと自然につきあううちに日本語を教えはじめ、とうとう大人も含めた無料の日本語・日本文化の塾を開くに至った経過が、著書には描かれていたのだ。ところが学院の玄関は閉まっていて、その辺で遊んでいた小学生くらいの子にたずねたら、意外にもハッキリした日本語で、先生はいない、5月に帰る、日本に行った、と答えた。突然の訪問だから仕方がないが、残念だった。あとで聞くと渋井氏は、募金のために年に数ヶ月は日本に行くそうだ。ハキハキと物おじせずに答えたあの少年は、学院の生徒だったにちがいない。

国を結ぶ架け橋たち

初めにも触れた通り、発展盛んなアジア諸国の陰になって、忘れられがちな地味な国、遅れた悲惨な国、のイメージが、ラオスとカンボジアには強い。だからこそわれわれが来て事実を伝える意味もあるのだが、両国を結ぶ架け橋となり、あるいはそれを志す人びとに、何人か会えた。

まず筆頭は、度々触れたチャンタソンさんだ。完璧な協力のおかげでわれわれの旅は実りあるものになったが、彼女が日常やっているのはもっと幅広い、ラオスと日本の人的交流促進である。ラオスの織物や手芸品を紹介販売し、日本人を母国に同行して認識を深める手助けをするだけでなく、本や教材を各地の小学校に贈り、図工指導の講習をするなど、その活動は的確多彩だ。この旅でも運よく彼女が帰国していて、同行の日本人グループと合流会食する機会が、2夜あった。紙芝居を子どもと共にやることに夢中な初老の女性、紙布作家の夫妻(妻にひかれてきました、と夫は正直に自己紹介した)、図工指導の画家、タイ語のできるOL、ヒッピー風の美大生、と多彩で、皆それぞれに生き生きとよく食べよく喋った。

学校訪問の間を縫って、彼女の「子どもに絵本を送る会」事務所と「子ども文化センター」を訪れた。紙芝居用の色刷りの厚紙が床いっぱい広げられ、前夜会ったグループとラオスの人たちが、楽しそうに一緒に作業していた。日本にいたときは、なぜ絵本や紙芝居かとちょっと不思議に思ったが、現地にきてスッキリ納得した。楽しく学ぶ体験が、やがて成長と共にふさわしい学習を自ら選びとっていく基礎であり、それには遠回りのようだが好奇心一杯可能性にみちた幼少年期が、最もふさわしいのである。

チャンタソンさんを結び目とする志ある人のネットワークは、当然だがラオス国内にも広がっている。ドウァン・デュアンさんが多忙な一日をつぶしてわれわれの学校訪問を先導し、また彼女のお姉さんが、初見のわれわれをフランス風邸宅のガーデンパーティに招いてくれたのも、単なる義理やつきあいでやれることではなかった。

彼女たちと会食した2月28日の晩、横浜国大大学院博士課程に留学中のラオ青年が一緒にきて、見事な通訳をしてくれた。そのとき東南アジア各国民を比較表現する面白い諺が話題になった。「会わない方がいいのは……白いカンボジア人、大きなラオス人」云々と紹介し、「だから僕は大丈夫」と笑った。本当に小柄で日本語は巧みだし、日本人ととけこむのは容易にちがいない。電気工学方面の専攻だそうで、やがて両国を往復する気さくな技術者に成長するだろう。

カンボジアでも、埼玉大学に留学中の青年がメンバーの一人井上の教え子で(彼も春休みで帰省中)、メコン河畔や王宮あたりのドライブ、市場での買い物などこまやかな世話をしてくれた。経営学専攻で、卒業後はこちらに帰って父の旅行社を助ける予定らしい。パンフをもらったが、日本を含め数カ国の旅行社と提携していて、やがて学生の体験学習旅行(スタディ・ツアー)なども扱いたい、と言う。単なる経営上の成功のためではなく、各国の青年を結んで体験と交流を深める夢を、ひそかに持つらしい。しっかりした態度と輝く瞳に、この旅の折々接した両国の子どもたちの、生きた未来を見るように思った。

さらに思いがけなかった大収穫は、和光大学の初期に在学した青年がカンボジアで活躍中なのと出会えたことである。先に述べたSVAプノンペン事務所の一員、わざと「工場長の日本人」と書いたが、全く思いがけなく彼だったのだ。田中政夫さんといって69年入学生だから、今は四十代後半の見当である。大学紛争真っ盛りの時期で、かなり勇ましい学生の一人だった。当時多かったように、学生身分の矛盾につき当たるとアッサリ中途退学し、仲間と印刷業を始めてうまくいかない云々と人づてに聞いたが、その後音信はなかった。91年偶然新聞でSVAのスタッフ募集を見て、直感的にコレダと応募した、との話である。

30年近くぶりの再会。すっかり「大人びて」、鼻下にヒゲもあるが、精悍な短身と歯切れよい話しぶりは昔のままだ。印刷工場での活躍は、その夜の会食で彼自身から聞いた通りである。一緒にきた同僚や翌々日の所長の話では、彼は現地人たちの信頼と心服を得ている。彼の決断力や、時に「蹴りを入れる」荒っぽさまでが、皆をひきつける魅力になっているとのことだった。時代の推移もあろうが、国内で優等生的でなかった学生がこうしてアジアに出てきて、水を得た魚のように伸びのびと実力を発揮しているのは、心からな歓びだった。妻をこちらで得て、一男一女の家庭を築いている。年1回は親孝行に帰国するというので、そのときはぜひ和光に来て後輩たちに話をしてほしい、きっとみんな目のさめる思いがするから、と言ったが、彼は珍しくはにかんで、帰国時期の予定を明かさなかった。

ぜひきて話してほしい。自分の中に眠っている能力や可能性を自覚することなく、狭い日本の規則づくめの社会で息苦しい思いをしている若者たちに、広い世界に出て実力を試す機会、現地の人びとの力も引き出し得る歓びの実感に、めざめてほしい。田中君のようなケースこそ、われわれがこの二国を訪れて和光大生にひらきたい道、行動力と自己実現のなかでアジアの友人たちと共に歩んでほしい夢の、実例である。



8.この旅で得たこと考えたこと

いよいよ終章。2〜7をまとめて、この旅で知り得たこと考えさせられたことを簡単に記そう。

1. 二つの国は苦難の過去からの離陸をめざして、意欲的な教育改革を遂行中である

この事実は、日本にいては全く知り得なかったことである。内戦や虐殺で大混乱、教育システムは遅れ放しというのが、マスコミや書物の一致する情報だったからだ。たしかに大きな苦難にさらされ続けてきたが、今や両国とも、教育省を中心に体系的な教育改革を計画し実行しつつある。しかも計画の5年を終えようとしている。中央の責任ある人たちがかなりの自信と情熱をもって全国に号令しているだけでなく、教育の現場がただ従順にというよりもかなり主体的にうけとめて実行しつつあるらしいことが、養成校や小中学校の当事者たちの話から推測できた。

改革の要点は、これもまた両国ほとんど一致している。@バラバラで不充分だった教員養成の年限と内容を、確定整備すること、A現職の再教育による能力向上と教育内容充実、B視学の養成と配置による全国的な学校経営の改善。どれももっともで、現状況に必要なポイントをおさえているといっていい。

やはり間接情報ではダメだ、と現場を見ることの大切さを痛感すると共に、二つの国の教育の未来について、われわれも期待と希望を持つことができた。

2.しかし計画の実現を阻む要因は多く、社会的状況は厳しい

これも日本で間接情報として知ってはいたが、現地にきて想像以上と実感した。教育改革の立案者たちは、明るく熱心に計画とその理念を語ったあと必ず、しかし実現を妨げる要因は多い、と続けるのだった。学校現場では、さらに具体的な実状を聞いた。校舎の老朽、教科書教材の不足、図書予算ゼロで外国の援助待ち、実験施設の不備……。寮を持つ所では、衣食住すべてにわたる欠乏が明らかだった。

そうした目に見える不足と並行して、それ以上に深刻なのは、教員(公務員一般も)の給料が安いことである。給料だけでは生活できず、副業を捜さなくてはならない。訪問してこの話が出なかった所は一カ所もない、といっていい。両国とも今後自由経済への移行が進むほどさらに、もっともうかる仕事、魅力ある職業が増える。教職を志す若者は減り、すぐれた人材は他へ流れていくだろう。教育的情熱や理想で、この大勢を止めることはむずかしい。ポン氏を初めとするガイドたちの実例が、この深刻な現実をハッキリと示していた。

3.社会全体に文字文化が育っていず、生活は前近代的様相が濃い

困難は、2に書いた物不足や低収入だけにあるのではない。もしそれだけなら、まだ解決の具体的な道は捜しやすいだろう。さらに難しい社会全体に広がる条件は、両国とも教育の充実を支え伸ばす背景というべき文字文化が未発達だ、ということである。紙がなく本が作れないことと、ニワトリか卵かの関係だろうが、生活の中で文字を使う場面が少なく必要を感じにくく、従って直接の便不便を超えた学習意欲が生じにくい状況なのである。教育制度が完備し、就学100%に近づいても、学校で学ぶ字や数やそこから広がる世界が生活現実と別のものであり続けるなら、学ぶ歓びは一時のものに終わってしまうだろう。

このことはラオスのいなかやカンボジアの都市で見聞きした人びとの生活実態と、無関係ではなさそうだ。村で鍛冶屋が農具を作り、糸をとって織り紙をすく作業が、仲買人に売るとはいえ今も生きているし、都会でも地方でも観光地でも、物の売り買いは小さな店と市場、屋台など個人単位の零細な営みが中心である。それらはわれわれに、失った過去へのなつかしさと感傷をさえ呼び起こすが、同時に教育の未来とも関わって、この国の社会が今後どんな方向に進むべきなのかを、真剣に考えさせる。

4.人々は穏和で幸福であり、人生の充実向上とは何かを改めて考えさせる

最初に会ったラオスの教育学部長は、自国人を「穏和で自由で幸福」と評したが、これが単なる身びいきでないことが、その後あちこちでの体験で分かってきた。ラオス最後の夜のミーティングのとき、メンバーの一人奥平が、こんな観察を述べた。ラオスの人びとは皆均整のとれた体(著しい肥満やヤセがいない)をしているが、貧しくてもバランスのとれた食事をしている表れではないか、同様にして彼らの穏やかさはバランスのとれた人間関係ゆえではないか、と。一同同意した。日本の戦前のように鼻をたらした子がいない、という観察も出たが、それはいま乾季のせいかも、で笑いになった。カンボジアは苦難が深かった分遅れてはいるが、こうしたバランスの回復は着実に進んでいるようだ。

両国で今進みつつある教育改革は、結局先進国の既成のシステムに倣うものではないのか、という根本的な疑問が、複数のメンバーから出てきた。制度の完備、教育の充実が、彼らを穏和な満足した生活から追い出し、欲しない文字文化を強制することになるのではないか。もちろん人には知る権利があり、学習の歓びは重要な人権の一つだ。しかし日本の現実をふり返ると、あまりに完備した教育制度、学校の普及と内容過多が、かえってそれを奪っているようだ。年に何万点の新刊書が出ても、文字が運ぶ抽象的知識に食傷した若者たちは、あまり読まない。奇妙なことにラオスと正反対の方向から、文字文化の欠乏が生じている、とさえいえそうである。

人間の一生が充実向上するとは、それによって幸福になるとはどういうことか、が改めて問われてくる。われわれが信じてきた価値は、本当に人間共通の、普遍的なものなのかどうか。すぐには答えの出ない基本的な問いを、直接見聞きした二つの国の現実は、改めてつきつけてきた、といっていい。

5.子どもたち青年たちの輝く瞳が未来をめざす

先入観や感傷でなしに、あちこちで会ったラオスの子どもたちは、不思議なくらい一致して人なつこい笑顔と輝く目をしていた。小学生はもちろん中学生も、あの日本語を学んでいた大学生たちでさえ。カンボジアでも接した数は少ないが、同じ表情を見た。これらは、確かな事実だ。小・中学校でのぞいた授業は、見た限りではよみかきダンスなどあまり複雑な内容ではなかったが、皆生き生きと教師の指示に従って学習活動をしていた。むしろ塾通いに忙しい日本の子どもより、学ぶ意欲と歓びを豊かに持てそうにさえ思えた。

この輝く瞳と学習可能性に賭けたい、と部外者でさえ自然に思うし、教師たちそして中央の改革立案者たちも、思うにちがいない。ミーティングのときメンバーの一人が、自分に問いかけるように静かに、「本人が選べればいいんですよね。文字やそれに続くものを知るかどうかを。その機会だけは平等でないと」と言った。このあたりに、難問を解くカギの一つがあるように思える。

ラオスでもカンボジアでも、困難な条件をのりこえて日本に留学し、母国と両方の長短を自然に学んで、やがて国の発展を担うだろう青年たちと会った。彼らはあの輝く目をした子どもたちの未来の姿だ。そうあってほしい。またその一方で、田中君のように自力で海を渡ってきて、一人前の技術者経営者に自他を育てつつある、日本の「元青年」もいる。

やっぱり、子どもや青年たちが自他を知る機会、望む行動をやれる自由が必要だ。それには相反する形でお互いが囚われている状況を見合い、考え合う方がいい。ラオスやカンボジアの社会現実を、今すぐ変える力はわれわれにはないが、このことは日本の現実についても同様である。その中でやれることを、政府やODAまかせにせずに、一人一人がやるほかはない。

具体的なことはまだ分からないが、この体験学習旅行が、われわれ教員たちにも、問題の所在と解き方のヒントのいくらかを気づかせてくれたように思う。

1997年5月

(石原静子)

購入書籍

Chi Do Pham, (ed), Economic Development in Lao P.D.R.: Horizon 2000, Vientian, 1994, 322p.

National StatisticalCenter, Basic Statistics about the Socio-Economic Development in the Lao P.D.R. 1995, Vientian, 1996

National Statistical Center, Lao Census 1995, Preliminary Report 2 (Results on the Province and District Level), Vientian, October 1995

Loes Schenk-Sandbergen, Outhaki Choulamany-Khamphoui, Women in Rice Fields and Offices: Irrigation in Laos: Gender Specific Case-Studies in Four Villages, Empowerment, Netherland, 1995(社会調査報告書)

Women's International Group, Vientian Guide, State Printing Enterprise, Lao PDR, 1995 (ラオスの日常生活について具体的に知るのに役に立つ)

Joe Cummings, A Golden Souvenir of Laos, Asia Books Co., Bangkok, 1996 (写真集)

Allen W. Hopkins & John Hoskin, The Land of a Million Elephants: Laos, Post Books, Bangkok (写真集)

Steve Epstein, (retold), Lao Folktales: Xieng Mieng: The Cleverest Man in the Kingdom, Vientiane Times Publications, 1996, 53p.

Steve Epstein, (retold), Lao Folktales: Tales of Turtles, Tigers and Toads, Vientiane Times Publications, 1996, 57p. (民話)

I Like to Learn English(小学校の英語入門教科書)

Russell Marcus, English-Lao Lao-English Dictionary, revised edition, Charles E. Tuttle Company, 1996, 416.

                             

写真(撮影:福島達夫、内田正夫)

メコン川 (ルアンパバンにて)

親子 (ルアンパバン郊外のパノム村にて)

機織り (ルアンパバン郊外のパノム村にて)

小学生 (ルアンパバン郊外の孤児学校にて)

少年僧 (ビエンチャンのパ・タット・ルアンにて)

図書室 (ビエンチャン教員養成カレッジにて)

学生寮 (ルアンパバン教員養成カレッジにて)

ナム・カン川岸の水車と野菜畑(ルアンパバン郊外)


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