「日本で今、面白い文化って何ですか?」 チュートリアルで学生に聞かれた。答えとしてはニコ動でもアキバ系でもなく、即座に二つの事例をあげたので、今回はそいつを書いてみる。
ちょっと前置き 。
面白い文化や表現は「新しいもの」とはかぎらない。新しいメディアやテクノロジーがそれだけで社会にとってブレークスルーとなったり、以前の、古い表現や方法をのりこえたりするとは言いきれない。
新しいメディア=より優れた面白いものという「先/安物買い」の貧しい発想を捨てること。今=現在をよりヴィヴィッドに生きるには、ちょっと古いリソース(資源=方策)をリスペクトしつつ、「新しいもの」に折り込むことが大事に思う。「レイドバック」でも「アンプラグド」でもない接続の身ぶりと言えようか。
言いかえると、それは「家畜化」を拒否する道ということだ。
フランスの哲学者、ジル・ドゥルーズは管理(コントロール)社会の権力やシステムがやることは「家畜化」であるとはっきり言っていて、なおかつ「新しいもの」に無闇に引っぱられる感性や市場を先取りしてふるまう思考を痛烈に皮肉っている。ドゥルーズは文字と映像/音声の対立に関してこう言っている。
「文字文学が一方にあり、もう一方に音声と映像があって、そのどちらかが選択されるわけではないのです。創造をおこなう力(これは音声と映像にも文字にも含まれている)と、家畜化を推進する権力のあいだで選択がおこなわれるのです」(『記号と事件』、河出文庫、二六四頁)
このすぐ後で、ドゥルーズは今後も活字や文学がきちんと条件づけられていなければ映像や音声がゆたかな創造に向かうことはないと断言し、さらに市場(マーケット)と迎合する文化空間には抵抗していこうと述べている。市場とタグに仕切られた世界はとりあえず便利に使いこなして、ほんとうに愉しくとんがったことは別のところに開いてみる感じかな。
といってドゥルーズは消費社会を全面否定するのではない。彼は「家畜化を推進する権力」、つまり口を開けて待っていれば権力やシステム、市場が何かと世話をやいてくれ------アマゾンがあなたの嗜好を追っかけていろいろオススメしてくれるように-------自分の手で何かをしなくてもことが足りてしまうように設計された社会に安住する「家畜」になってしまえば、ほんとうの意味で新しくて面白い創造はありえない、ということを言っているだけのこと。家畜的な消費ではない、もっと贅沢な--------かりに金銭的、物質的に「貧しくても」ゆたかな---------消費と創造は別のところにありうる。
ドゥルーズと相棒のガタリは「動物になること」(動物に生成変化すること)を彼らの思考のスローガンのようにしていた。ここで言う「動物」は、「家畜化」に甘んじる生などあっさり見かぎって、知と感覚の「メタボルフォーゼ」(弛緩と肥大化?)におちいらないための、それでいて単なる変身とも異なる「メタモルフォーゼ」(変容)に向かっていく思考のキャラクターみたいなもの。
これは「動物のように自分の力で生き抜こう」みたいなことを言っているのでは全くない。ドゥルーズ&ガタリによる「動物になること」は、同時に「知覚しえないものになること」「機械のように接続しまくること」も意味している。言いかえると、簡単にシステムからは見つからないようにつながり合って接続しまくるマシンのような生を選べ、というふうに読めなくもない。これは中央線沿線とか下北沢とか特定ローカル界隈に拠点をつくるという「オルタナ/草の根」路線とも違っている。むしろ、いたるところにあり、それでいて中心はどこにもない接続ポイントを作りまくろうぜ、ということか。マイナーにもメジャーにもあらわれては消える回路、その繰り返しのコミュニティ?
さて、そうした動きの具体例の一発目でもある「日本で今、面白いもの」、それは宇川直宏さんのはじめたDOMMUNE(http://www.dommune.com/およびhttp://www.ustream.tv/channel/dommune)である。
グラフィック・デザイナー、映像作家、現代美術アーティスト、VJ、ライター、大学教授(京都造形芸術大学)、日本自然災害学会会員・・・など多才な肩書きをもつ宇川直宏さんがはじめたストリーミング・スタジオの番組/イベントである(個人的には存じ上げないが、昨年夏、奄美群島洋上の客船内でVJ/DJをたっぷり楽しませていただいた)。ネットのストリーミングで音源配信に取り組んだり、クラブイベントをネットラジオにしたり、なんてことをしている和光のOBは何人かいるけれど、そうしたシーンでは注目の鬼才、宇川さんがしなやかなDiY感覚でストリーミングの技術環境を使いこなすプログラムをついにこの3月より開始した。
番組前半の午後7時からは音楽やマンガなどサブカルチャーをめぐるトーク、後半9時から真夜中まではDJによるクラブイベント(シンデレラ状態で真夜中に残念終了なのは「風営法」のせいですね。こういうところも「都市」や「メディア」の研究の課題になりますよ、和光生)。あえて週末に「番組」をやらないという潔さもいい。みんな週末はいろいろパーティもあるし、デートとか家族サービスだってある。だったら平日は「自宅クラビング」でいいや、という層にはドンピシャ狙いで成功だった模様。身のまわりにはDOMMUNEを見聴きしているひとがどんどん増えている。
クラブのフロアではなかなかよく見えないDJ の細かい卓さばき、イコライザーの動かし方などをずっと見ながら、同じ画面で原稿書きや翻訳、メールの所要を片づけていける。映像に関心のあるひとなら、カメラワークやエフェクトのかけ方が勉強になるはず。
ベータ版はあまりにも音がよく、音量を上げすぎて階下や近所の迷惑にならないようにヘッドフォンを使ったりしている。こちらでは夏時間、時差13時間のせいで、朝っぱらからつなぐことになるが、これはこれで午前中の原稿書きにはすこぶる調子がよい。日本に戻ったら間違いなく平日の夜はまっすぐ家に帰る日がふえるだろう。もちろん、たまにはスタジオに行ってトークを聞いたり、踊ったりしたいけど。
ここ数年、和光の学生さんは「クラブとかお金かかるし〜」とか「行くのがコワい」とかのたまう諸君も多いので、はい、在宅無料でラウンジとクラビングが楽しめるのでこれを機会に夜遊びの仕方おぼえましょうね(長く学生とつきあっていると、経験上、よく遊んでいる奴ほど勉強も就職もうまくいっているので、よろしく)。
DOMMUNEのページを開くとtwitterが連動している。ust版でもベータ版でも瞬間的な視聴数が出るのが面白い。ここのところ四千、五千は当たり前になってきている。トラック(曲)が変ったり、長めのブレイクがキマったり、DJがものすごくカッコいいイコライザーさばきをしたり、宇川チームの映像効果が見事だったりするたびに、たくさんのツイートが入ってくる。ふだんのハコ(クラブ)では耳元の大声で仲間内でしている会話が数千人単位で交わされている感じと言えばいいだろうか。
先週17日の放送中、何とターンテーブルの針が壊れてDJ不能という突発事故があった。この絶体絶命の危機にも宇川さん、臆せず動じずゆるいMCで「恵比寿近辺の御近所でターンテーブルお持ちの方、今すぐもってきてくださ〜い」と。一五分もしないうちに近くのハコからタンテが届けられ、DJ再開というミラクルな運びとあいなった。このとき宇川さんは「最近はあまりないかもだけど、作りすぎた煮物をお隣さんにおすそわけってあったよねぇ?」とかましていた。
いいパーティやイベントには、そういう「助け合い」がある。文化人類学の言葉では「互酬性」(もらったら返す関係)と呼ばれる。たとえば、DJセットのための楽曲の著作権を金銭的にクリアするときの論理にも、基本にはアーティスト、表現者へのリスペクト、「お返し」感覚があることに注意したい(こういうのを「贈与経済」gift economyと言いますね)。
これはコミュニティや同好の集まりを昔のムラや御近所さんみたいにしようという話ではない。ほんの数時間、束の間、特定の場所に「助け合い」の時空を開いては、また別の時間までは消えている、そんな「はかない」コミュニティがネットやパーティのつながりだけど、数日前の奇跡的なトラブルシューティングには、来るべき社会/つながり方へのかすかな方向性が響いていた。ロマンチックにすぎるかな? まあそれぐらいのロマンもないとやってられないのが、この世界である。
次の18日はベルリンのDJ、Steve Bugのプレイ中、今度は新しい「実験」として踊っている客でもりあがっているフロアを映しながら声をマイクで拾ってDJセットと同時に「放送」していた。知り合いの声が聴こえたり、姿が見えたり面白かったが、twitter上では見事に「賛否両論」なのが面白かった。「誰もやってこなかったことで、全てが実験、イベント全部でアート作品でしょ」といったつぶやきには感心した。踊っているフロアで感じる一体感が、在宅のオーディエンスにもストリーミングとtwitterを介して重なったり広がったり、フロア(現場)とは異質なウ゛ァイブスを生みだしていく感じには毎回、刺激を受けている。
「センセたちは本読む勉強ばっかりで、音楽や映像の関心はどうしてくれる〜?」と思っている総合文化学科の学生さんたち、とりあえずDOMMUNEにつながってみよう。「新しいメディアはどのように社会を変えるのか?」という関心をもっている人たちにもオススメ。
さて「煮物のおすそわけ」の話が出たからというわけでもないが、もう一つの「面白いもの」が次のイベント、MUSICOという「食と音楽の響宴」である。
来たる4月4日に東京都美術館の地下「content」を会場に開催される(http://mangosteen.chillout.jp/news/)。今回で三回目のイベントだが、立食にもってこいの一口で食べられるお洒落なフィンガーフードや食のインスタレーションに、やはりDJセットがつく。今回もDJ YOGURUT、MOODMANなど、そのすじのトライブを唸らせる面子なので愉しみなイベントだ。前菜からはじまる当日のコースとパーティのスタートは午後5時から。昼の11時からのMANGOSTEEN MARKETは無料。MUSICO三回目の今回は「エネジーフード」がお題。その味のレウ゛ェル、音の趣味、デコや盛りつけにいたるまで勘案すると、5時からのイベントの四千五百円は決して高くない(完全予約制なので、もう受付は終っているかもしれないが、今後も要チェックのイベントだ)。
MUSICOをやっているのは、もともとは都内でカフェをやっていて、今はケータリング業務に特化しているMANGOSTEENという集団。カフェ時代から、この路線の黎明期にかけて和光大学文学科出身の女性DJやお手伝いさんが何人かいた(なぜ和光の文学科にこの手のトライブが多かったか、今となっては謎である)。みんなもうお母さんで子どもを連れてイベントを手伝っているのは微笑ましい。
MANGOSTEENのHPがこれまた実にカッコいいので見てみてほしい(http://www.mangosteen.vc/)。二年ほど前、和光大学でも「学生研究助成金報告会」の打ち上げにケータリングをお願いしたことがあり、和光の学生さんや職員さんにもMANGOSTEENの味、盛りつけのアーティスティックなこだわりなど、そのレウ゛ェルの高さをおぼえているひとは多いはず。
和風、洋風、エスニック・・・と守備範囲は幅広く、有機野菜や産地との緊密なやりとりで吟味された食材と、トラヴェラー感覚とお洒落志向が合体した調理のアイディアにはいつもガツンとしてやられる。彼らが出店している野外パーティの夜明けには、何度となくカレーや雑炊をシャンパン付きで踊りながら楽しんだものだ(日の出と同時にちゃんとシャンパングラスでサーウ゛する温性が心憎い)。
あんまり褒めすぎると回し者みたいだが、ぼくがこの活動に注目する理由はかなりはっきりしている。
安全なものをしっかり把握して、なるべく美味しく綺麗に調理して食べるということは、今のBabylonな世界では、それじたいある趣味判断や生きる上での決断になり、大袈裟に言えば次に来る世界に向けたスタンス、一種、政治的な立場にまで関わる。ひとつまみの野菜の質と味から感じとれるグローバル資本主義の軋み、地方が抱える困難がある。
もしも「神は細部に宿る」--------- あ、これも美術史、文化史的には超有名な研究所に関わりのある言葉ですね -------としたら、チェーンの居酒屋やコンビニやファミレの味で満足できるような「スポイルされた舌」、「弛緩した五感」とは全然関わりのないところに食と味のミクロな冒険はひそむ。無理矢理、化学物質まみれのエサを食わされるブロイラー(家畜)のような生活を脱すること、こいつに本当は高いお金がかかるわけではかならずしもない。手管はちょっとDiYする(自分でやってみる)だけでたくさんある。そのちょっとしたきっかけやヒントを、毎回MUSICOは教えてくれる。
肩肘はって自然食とかエコロジーとか言わなくたっていい。等身大で、すこし力を抜いて五感を研ぎすましてみようよ、そんな機会としてこのギャザリングを愉しむのがいい。巨大資本やアグリビジネスその他で無茶苦茶にされている「舌」や「耳」、「目」をちょっと刺激すること、ここにも「はかない」コミュニティ、ネットワークが広がる。
実際、MUSICOに来るお客さんはいろいろだ。いろんな業界人、各国を渡り歩いたトラヴェラー、クラバー、ミュージシャン、アーティスト、デザイナー・・・と、趣味も収入も主義も主張も全然異なる、普段だったら互いに出会わないようなトライブ(部族)が一緒に共食/響宴でつながる(オタクやヤンキーもいるのかな?)。普段はそれぞれの「島」に鎖国して閉じこもっているいろんなトライブが、食と音を媒介に束の間だけ出会う。のみならず、MUSICOにいると、きっと一人一人が自分のなかに複数の趣味や感覚のトライブがいることに気づくことだろう。
半年ほど前、百歳で亡くなったフランスの文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースは『野生の思考』という著作で「ブリコラージュ」(寄せ集め/間に合わせ細工/器用仕事)と「エンジニアリング」(工学的技法)の違いを主張している。表現には、言葉や音、映像などの「寄せ集め」(ブリコラージュ)的なものが必要である。寄せ集め細工の作業と無縁の技師(エンジニア)などどこにもいない。ゼロや無から表現と創造ができる主体は、よほどの天才でないかぎり、なかなかいない。もちろん、料理だってブリコラージュや組み合わせの一種だ。だから、ちょっとだけ料理も凝ってみれば、総菜や出来合いを買うよりずっと愉しい(レヴィ=ストロースには、「生のもの、火にかけられたもの、腐ったもの」の三角形を論じた大著『神話論理』という本もある)。
もう「大きな物語」もイデオロギーもなくなった。あるのは技術的、工学的にちょっとずつモノゴトを善くしていくことだけである。もう何十年も前にカール・ポパーという哲学者がこういうことを述べた(ちなみに、この名前、アニメAnimatrixに出てくるけど、何話めか探してみよう)。有名な「漸進的社会工学」piecemeal enginieeringという概念である。
物語やイデオロギーはどこかダメかお互いに白黒つけられない。これをポパーは「反証不可能性」と考えた。互いに正否が証明できないことで争ったり、理想の社会システムを作ろうなんて思ったりするのが、そもそもの間違いのもと、できるのは「工学的」な管理と改善のみ、というのが大体、ポパーのした主張。これはこれで面白い考え方で、ポパーは二〇世紀のファシズムや全体主義、社会主義などの起こしてきた災厄は、「反証できない」物語でのみ、無理矢理、世界や社会を組み立てようとしたからだ、と考えていた。
ところが二一世紀の現代では、今度は「社会工学」がすっかり人々の生をおおってしまう。個々が何を考え、どう生きようと思い、何を信じようとも、その個々の原理(物語やイデオロギー)はもはやない。あなたの好みも感じ方もあらかじめタグに分類可能だし、どこまでもテクノロジカルに追跡可能なものでしかない。そうなると物語やイデオロギーなんてものに参照することじたいもうダメダメという諦めと現状肯定--------同時にひそかにもちこまれた一種の「エリート/専門家による管理」---------が、日常生活にあまねく広がってくる。「どうせ大部分はバカなんだから、家畜みたいに管理して幸せにしてあげよう」という思い上がった考え方がここにはひそむ。
言いかえれば、「物語やイデオロギーの喪失を語り、それらに代わって工学的管理を讃える」物語やイデオロギーが跋扈しはじめる。まあ、これは「工学」をレトリックにした「現代の神話」で、それこそイデオロギーなのだけれど・・・。
レヴィ=ストロースの「ブリコルール」(器用仕事をする人/寄せ集め細工師/今ふうに言うとDiY)の議論から見えてくる大事な視点は、こうだ。科学やテクノロジーにもとづいて仕事をする「工学的な技師」(エンジニア)の方も実は「ブリコルール」の存在をいつも前提としていて、ひそかに必要としている。科学や技術の場合でも、想像力の飛躍、因襲的なお約束をこえた型破りが理論のなかに生まれるとき、発明や開発の瞬間がおとずれる。あらかじめ存在する間に合わせの素材や方法なしに、何かを考えたり、作ったりすることはできない。
ふだん親しんだ理屈のつけ方(科学)や道具の新旧(テクノロジー)の制約がどこかに吹っ飛んだときにこそ、それらがほんとうに「新しく」なる。その創案inventionの瞬間には、既存のものを組み替えるような、かつての「物語」や「考え方/生き方」がはたらいている。たとえば、DOMMUNEだって既存のメディアやテクノロジーの組み合わせだし、MUSICOだって既存の素材や料理法の組み替えから生まれた創造性だ。
DJがミックスをするのも、研究者が本や論文を引用するのも、映画作家が映像編集するのも、料理人が素材を吟味して調理するのも、そういった様々なトライブの身ぶりの全てが「ブリコラージュ」(器用仕事)にもとづいている。
すでに述べたように、ある種のとがったイベント(出来事)は、異なったトライブを組み合せることができる。さらには一人一人のなかに複数のトライブがいて自分のなかで喧嘩したり、対立したりしていることを感じさせてくれる。
そのとき、受け手/消費者であったひとは一歩、「ブリコルール」に近づいている。
「ブリコルール」は日常生活のなかで様々な方法や手口をカードのようにシャッフルするジョーカーみたいなものだ。ジョーカーは思いのままにセウ゛ンやエースになり、ジャックやクイーン、キングになる。リアルな充足でも、ヴァーチャルなゲームでもなく、踊ったり、食べたりする当たり前の感覚をすこしずらしたり、研いでみること。そうすると、ひとは自分のなかで複数の趣味のトライブ(部族)がくんずほぐれつ争っていることに気づく。
消費社会の疎外された欲望の外に「ほんとうの生やリアル」があるわけではかならずしもない。リアルだろうがフィクションだろうが、Babylonだろうが解放された公共圏だろうが、今ここの束の間の、はかないつながりのなかで自分のなかの複数のカードを読んでは組み替えるジョーカー、ここに日常の器用仕事(DiY)、「ブリコルール」の身ぶりがある。
注目する二つの試みから、そんなことを考えさせられた。

日本文化文学コース
上野俊哉
Toshiya Ueno



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