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シンガポールの公園で確かめたこと
 戦争責任と教育実践の課題


福島達夫* 和光大学元教員


――しんどいアジアへの旅

 二〇〇一年三月一七日に現職の教員として最後の卒業式に出席し、二〇日に和光大学のシンガポール教育調査団に参加して成田を発った。天皇家の菊の紋章を表紙に刻印した旅券をなによりもの“貴重品”として懐にし、現地貨幣に交換するために「脱亜入欧」論を論じた福沢諭吉の人物像を刷り込んだ日本の最高額の紙幣を持って、アジアの国を旅するのはいつも気になる。なかでも、シンガポールに行くことは、三〇年間、中学と高校の社会科を教え、その後、一五年間にわたる大学での「社会科教員免許」取得科目を担当してきた私にとっては、その教育実践を検証する気持ちを持っての調査旅行であった。
 出発する数日前に、奥平康照教授からいただいた「新しい歴史教科書をつくる会」の主導で編集された中学校歴史教科書の検定本のコピーを読んだ。私は中学校二年生の敗戦の時まで習った国史教科書を思い出した。私が、教師として生徒と学んだ社会科、学生と学習してきた社会科教育論とあまりにも違う。「新しい歴史教科書」どころか、明治の天皇制国史の復古歴史教科書である。「教育勅語」が全文掲載されている。私は、和装の女子学生を見て「卒業式明治は近くなりにけり」と、中村草田男の俳句[*1]を借りて思ったのはご愛嬌だとしても、この教科書はこれまでの社会科教育の全面否定である。梅根悟は「戦前にも社会科はあった。それは抵抗の教育としてであった」と書いたが、戦後の社会科もまた、抵抗の気構えがなくては実践できなかった。
 私が軍国少年として育てられた小学校四年生の一九四二年二月、「シンガポールは昭南市になり、日本人が市長になった。いずれ、ニューヨークも占領し、その市長に日本人がなる」といった八紘一宇の雄大な希望を持たされた教育を受けた。あこがれの一人はイギリス軍を降伏させた山下奉文将軍であった。初代の昭南市長は、その後、一九四四年に内務大臣となった大達茂雄である。
 一九四四年三月、小学校の卒業式で唄ったのは、「君が代」と「海ゆかば」であった。「大君のへにこそ死なめ、かへりみはせじ」という歌詞である。「滅私奉公」「殉国」を生きがいとして育てられた。
 敗戦直後、私は、教科書の文章に墨を塗って習った。間もなくして、新聞紙のような広い紙に印刷された教科書を、自分で教科書の大きさに、はさみで切って、母が糸でとじてくれた。『新しい民主主義』という教科書を手にしたが、それを習った記憶がない。
 一九五三年五月に文部大臣となったのは、敗戦後、公職から追放されていた大達茂雄であった。敗戦で「内務省は消滅したが、内務官僚は文部省で蘇生した」と大田堯[*2]は書いた。
 その翌一九五四年に私は、日本国憲法を遵守する教育公務員となることを誓約して、中学校の教員となった。その時、すでに社会科解体が始まっていた。四年間の中学校教師を終える離任式で、吉野源三郎の小さな本『人間の尊さを守ろう』[*3]の巻頭の詩を読んだ。

 「自分を大切にすることが、同時に人を大切にすることになる」という人権思想は、「滅私奉公」「殉国」思想と対極にある。しかし、その人権思想にもとづく社会科教育実践は、次の日本国憲法の第九七条が「この憲法が保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と宣言するように、その試練は人類史の過去ではなく、今日に至る「大きな仕事」であって、これからも続いていく。
 「新しい歴史教科書をつくる会」の検定用教科書の文章を読んで、戦中の教科書に塗った墨が薄れて、地の文字が浮かびあがってきた感じであった。その思いをもって、日本政府の文相だった大達が、昭南市長を勤めたシンガーポールの教育調査にでかけた。

――私の地域研究とシンガポール

 シンガポールへの関心は、「人文地理学」担当者としてのそれであった。
 私の最初の地域報告の文章[*4]は、一九六三年に工業整備特別地域に選ばれた静岡県東駿河湾地域に関するものであった。そこでは住民が手作りの地域環境調査を行なってその石油化学・電力コンビナート計画を撤回させた。その中核企業だった住友化学は千葉県姉ヶ崎に進出した。その千葉臨海工業地帯の造成期にも共同研究グループに参加して調査した。その住友化学の長谷川周重社長が次のように語っている。

 そして長谷川社長は「シンガポールもそうですが、インドネシアのアサハン・アルミもあそこの共産化を防ぐというねらいがある」と率直に述べている。
 南ベトナム解放戦線が結成されたのが一九六〇年であった。アメリカはそれをベトコンつまりベトナム共産軍と呼び、その拡大を阻止するとして泥沼のベトナム戦争に落ち込んでいくことになった。ベトナムが共産化すれば、タイ・マレーシアへと将棋倒しで共産化するというドミノ論があった。イギリスに留学して弁護士となっていたリー・クアンユーは、一九六三年八月にマレー人優先政策をとるマレーシア連邦から分離し、一九六三年八月にシンガポールとして独立国を誕生させ、その初代首相になった。リー政権は、左派を徹底的に排除し、共産主義勢力を一掃して政治的に安定させ、積極的に外国資本を導入して工業化を進めた。
 その南のインドネシアでは、反米色を強くしたスカルノ体制を崩壊させたスハルト政権が誕生したのは一九六五年であった。そしてASEANが結成されたのが一九六七年である。ベトナム戦争の泥沼化とともに、日本は東南アジアの後方支援として、日本資本のアジア進出を積極化させた。
 その牽引的財界のリーダーが長谷川住友化学社長であった。彼は、こう語った。

 そしてこの「戦後産業史への証言」を、次のように結んでいる。

 この長谷川証言は、大東亜共栄圏の版図が活きつづけていることと、三島由紀夫の「憂国」自殺を想起させられる。復古調は社会科教育だけではない。
 インドネシアのアサハン開発によるアルミ事業は、一九七〇年代に破綻した。
 現在、シンガポールには日本企業二八〇〇社があり、在留邦人は二万数千人である[*6]。日本財界の地政学のなかに位置づくシンガポールは、現在、英語、華語、マレー語、タミル語の全マスコミ紙が政府系持株会社の傘下にあり、インターネットの接続業者も監督官庁の管轄下にある。「体制批判、人種・宗教批判、ポルノ」の規制を受けている国家である。空港からホテルまで案内してくれたガイドがまず「ゴミを捨てると罰金です」と注意した。そのような国で私はどのような調査ができるのか。私には不可思議な国である。

――学生が写した『日本占領時期死難人民記念碑』に導かれて

 シンガポールの教育調査で、もっとも見聞したいと思ったのは、『日本占領時期死難人民記念碑』であった。
 この戦争記念碑について知ったのは、文部省検定教科書『高校地理』(実教出版)の共同執筆者であり、またNHK高校地理講座の共同講師であった高嶋伸欣氏[*7]が、一九八五年八月にシンガポールの書店から買ってきた三〇冊の写真集『日本統治下的新加坡』の内一冊を分けてもらい、また同氏に教えてもらった中島正人『謀略の航跡――シンガポール華僑虐殺事件』[*8]を読んでからのことである。中島氏は次のような衝撃的なことを書いている。

 その文字を読んで中島氏は「自分の軽佻さが、ひどく悔やまれて」、それからシンガポール華僑虐殺事件をしらべ、一冊の書にまとめたのである。
 知らないことは恥ではない。知ったことで、どうするかがその人の人間を証す。私はこの文章を私の学生向け通信『波動』[*9]に書いた。
 もうひとつ、ついでに紹介しておこう。
 一橋大学を出て、時事通信社に勤める冨山泰が、その著書に次のように書いている[*10]

 私は、この文章も、「社会科教育論」の教材にした。とくに、一橋大学において。

 学生が写した“血債の塔”
 一九九二年の春。日本福祉大学の卒業式が終わって、和装の古川由美子さんが、研究室に訪ねてきて、数枚の写真をくれた。学年末試験が終わって、オーストラリアに行き、その帰りにシンガポールで乗り換えのために空港をでて観光する時間があったので、撮ってきた写真だという。私は、大いに感激して、そのいきさつを『波動』に寄稿してほしいとお願いをしたら、次のように書いてくれた[*12]

『日本占領時期死難人民記念碑』
『日本占領時期死難人民記念碑』
(撮影・古川由美子さん)
 私にとって嬉しい文章であった。古川さんが、一年前の三年生だった授業で配った『波動』をとってくれていたのである。
 私はその写真(右に掲載)を、高嶋伸欣氏に分けていただいた『日本統治下的新加坡』に貼っておいた。上手に撮った数葉の写真である。こころをこめて写したのであろう。
 二〇〇〇年度の『人文地理学』を受講してくれた中野智弘君が、夏休みにシンガポールに行き、撮ってきた何枚かの写真を見せてくれた。その中に、この『日本占領時期死難人民記念碑』が写っている。私はその写真をもらった。中野君は旅行会社の観光旅行団に参加し、泊まったホテルの前にこの記念碑があったから、見てきたという。中野君の写真も、『日本統治下的新加坡』の裏表紙に貼った。
 このように、学生に教えた私が『日本占領時期死難人民記念碑』を見ていない。その碑をぜひ見たいとかねがね思っていた。
 その碑が、思いがけずシンガポール到着翌日、国立博物館を見学して、昼食をとったショッピング・センターを出たすぐ前の広場に建っていた。学生の写真で何度も見ていた高くそそり建った細い塔である。学生の行動に感謝して、丁寧に見上げ、またビデオカメラに撮った。
 その四本の細い柱が寄り添って高さ一二〇メートルの白亜の碑の建設は一九六五年三月にはじまり、六七年二月一五日、それは日本軍のシンガポール攻略二五周年にあたる日に、除幕式が行なわれた。
 その『日本占領時期死難人民記念碑』の四本の柱は「忠・勇・仁・義」、または「中国系、マレー系、インド系、ユーラシア系の犠牲者とその民族文化や宗教を象徴している」ともいう[*13]。ユーラシア系とはアジア系人種とヨーロッパ系人種の混血人種をいう。英語が示す犠牲者にはイギリス人は含まれていないのか。イギリス人犠牲者の遺骨が一瓶分あって、イギリス軍部に引き渡された[*14]
 この記念碑建設の発端は、一九五九年のある日、シンガポールの東海岸にほど近い樹林地帯を開発し、日本企業の工業進出用地造成工事の際に、おびただしい人骨が掘り出されたことにあったと、中島氏は書いている。シンガポールが新興工業国建設期に入って工業用地造成が進められるようになった一九六二年一月、二月には十数カ所で、日本軍占領時代に虐殺された市民の遺骸があいついで発見された。それから、一九六七年まで二次にわたる遺骨発掘が三三カ所で行なわれた。日本軍による「粛清」によって行方不明となっていた人びとは、惨殺され埋められていたことが明らかになった。その遺骨収集が行なわれている間、連日のように発掘状況が報道された。そして遺族・血縁者はもちろん、シンガポール全住民の「反日感情」をたかぶらせた。
 政府は記念碑の建設を決め、市街地の中心部、官公庁街と商業・金融・ホテルの街区の間にひろがる中央公園、東京で言えば日比谷公園の位置にあたり、帝国ホテルに相当するラッフル・ホテルの筋向かいの園地の一角を提供し、建設費用を政府と民間とが折半することになった。
竣工し、序幕式が開かれたのは前記したごとく六七年二月一五日であった。その基盤台中央に、

 といった内容の言葉が書かれている。
 日本軍は占領の翌日一六日、シンガポール陥落の大行進を行なった。戦車に乗った兵士が、戦死した戦友の遺骨の箱を胸にかけてのパレードであった[*15]。それから「SYONAN―TO」(昭南島)の時代となった。華人たちは、抗日戦争を戦っている母国の中国を支援し、また日本商品の不買運動を行なっていた。その反日分子を「粛清」することになった。占領三日後の一八日から一八歳から五〇歳の男性を集めて尋問し、反日分子の疑いをかけられた男性たちはどこかに連れ去られ、行方不明となっていた。その犠牲者の遺骸が、工業開発用地の造成によって掘り出されたのである。この犠牲者数を、文部省は一九八三年の中学校社会科教科書の検定で、六〇〇〇人と示した。陸軍省報道部機密文書の「六七〇〇人の華僑を処刑」に基づいていると思われる。二万人とする日本研究者もいるが、日本軍参謀杉田一次中佐の話によって書いたとする二万五〇〇〇人説もある。シンガポール政府は、数万人と発表している[*16]
 華人たちはシンガポール独立の月に「血債は血で償え」と日本を抗議する大集会を開いた。一九六六年日本政府はシンガポールと経済援助協定を調印し、政府間では「血債問題」は決着した。
 その「血債の塔」が建設された当時は、そそり立つ高い塔で目立ったが、奇跡の高度経済成長を遂げて、その中央公園を囲むように高いビルが建ち並んだので、今や、か細く見える。それでも、中野君のように、なんだろうと近づいて漢字を読み、その塔のいわれを知る。
『国立博物館』正面玄関
日本の軍機の模型がつっこんで
いる『国立博物館』正面玄関
(撮影・筆者、2001年3月22日)
 私たちが訪れたシンガポール国立博物館では「太平洋戦争展」を開いていた。正面玄関の壁面に、日本の軍機の模型がつっこんでいる(写真参照)。日本の戦争責任の追及の手をゆるめていない。また戦争の記録づくりを進めている。その成果をまとめた本の序文に次のように書いている。

――もう一つの栄光の死の記念碑

 もう一枚の写真を古川由美子さんはくれている。『OUR GLORIOUS DEAD―1439-1945』と刻んだ石碑を写した写真である。それも見たいと思った。一九三九年とは第二次世界大戦がはじまったとされる英独戦争の火ぶたが切られた年である。一九四五年とは五月にドイツが、八月に日本が降伏して戦争が終わった年である。古川さんは『日本占領時期死難人民記念碑』を探していて見つけたといっていた。その写真には、記念碑に刻まれた「OUR GLORIOUS DEAD」とはっきり写っている。その栄光とはシンガポール住民の死への追悼ではなく、宗主国イギリス戦死兵士への栄光の碑であった。そのモニュメントの写真が、シンガポールで手に入れた観光案内に載っていた。だが、その位置が書かれていない。
 この度のシンガポール旅行の翌日、他の教育系研究者メンバーは教育関係の調査にでかけたが、私は体調不調で参加できず、ふたたび国立博物館を見に行き、その後に『OUR GLORIOUS DEAD―1439-1945』を探すことにした。
 受難記念碑のはす向かいのクラシックなラッフル・ホテルの前で、人力車夫が、片言の日本語で話しかけてきた。古川さんの写真を見せて、そこに案内してくれるように言って、乗った。公園の中の細い小道を走り、その碑があるところにでた。通路から見るとその碑の基台の階段に古川さんの写真の年号と違って「1914-1918」と第一次世界大戦の年数が刻まれていた。イギリス兵士のための碑であった。
 石碑の裏面にまわると「1439-1945」と、同じ字体で古川さんの写真の年号が刻まれていた。第二次世界大戦のイギリス軍人を追悼する碑文であった。むろん、そのイギリス兵の中には、イギリス植民地だったシンガポール・マレーシアやインドなどから調達した兵士が含まれているであろう。その戦死者の中には、映画『戦場に架ける橋』で知られるクワイ河の鉄橋建設に連行されたイギリス人も含まれているであろう。
『インド国民軍記念碑』
『インド国民軍記念碑』
(撮影・筆者)
 ついで、人力車夫は国立劇場寄りの最高裁の前方の位置にある、小さな金属製のに案内してくれた。「インド国民軍記念碑」と日本語の表示がある。その説明板によると、「インド国民軍(INA)の無名戦死者に捧げるために、第二次世界大戦が終わった一九四五年に建立されたが、日本軍が敗退して、一九四五年九月二一日、イギリス軍が勝利の式典を開催し、イギリス植民地政府が復帰してきたとき、撤去された。そして、シンガポールが独立して後に復活再建された」[*18]とあり、その壊された記念碑のスケッチが説明板に刻まれている。
 その「インド国民軍」は、日本軍の南方軍参謀で諜報機関の責任者だった藤原岩市少佐の働きかけで、当時イギリス植民地だったマラヤ(現在はマレーシアとシンガポール)で、イギリス軍として日本軍の捕虜となったインド兵によって一九四一年一二月に組織された。そのときまた「インド独立同盟」が設立された。日本軍のシンガポール占領は一九四二年二月であったから、その三カ月前であった。
 追って日本占領者は一九四三年に、チャンドラ・ボース(1897-1945)をつれてきた。チャンドラ・ボースは、ガンジーのインド独立運動に参加し、国民会議派議長となったが、ガンジーの無抵抗主義に反対し、離反していたインド独立の一派のリーダーであった。一九四三年一〇月二一日、チャンドラ・ボースが、昭南市で「自由インド仮政府」樹立を宣言した。その樹立宣言集会で、ボースは熱烈にインド人に独立を呼びかけた。「すばらしい演説でした。この演説を聞けば、天の神々でさえ、感動して涙を流したことでしょう」という回想が記録されている。その翌月、東京の帝国議事堂で「大東亜会議」が開催された。中国(といっても王兆銘の南京政府)・フィリピン・タイ・ビルマ・満州国・日本の「政府代表」が出席した。ボースは自由インド仮政府首班として招請されて出席した。
 この大東亜会議には日本の占領下にあったオランダ領インド(現在のインドネシア)の独立運動指導者を出席させていない。この会議については後藤乾一『近代日本と東南アジア』[*19]を読めば、日本政府主導の大東亜共栄圏づくりの会議であったことがよくわかる。
 このように日本政府の画策で成立したインド仮政府のもとでのインド国民軍は、インド解放の前哨戦たるイギリス領だったビルマから、インドのマニプール州都インパール攻略作戦に組み入れられ、イギリス・インド軍と戦った。が、日本軍の大敗で、惨敗した。この作戦はいかに無謀であったか、上村喜代治『インパール』[*20]でも惨憺たる敗北を書いている。また、インド独立軍は日本軍のニューギニア攻略作戦の参加には同意しなかったが、そのニューギニアでインド兵が救出された写真が米軍によって撮影されている[*21]
 この「インド国民軍記念碑」は、日本軍国主義がめざした「大東亜共栄圏」樹立のためという「聖戦」と、インド民衆の民族独立悲願とがからみあった悲劇の記念碑である。同時に、その記念碑を再建したインド系シンガポール人がいて、ボースを熱烈に尊敬している人がマレーシアにも今なおいる。

――歴史的事実とそれをより分ける感性

 シンガポール旅行前後の日本で、国際的に問題になっていた検定歴史教科書『新しい歴史教科書』に「日本がアジア諸国の独立を支援した」という記述がある。確かにあった。
 中国には日本帝国政府と協調する王兆銘の南京政府が作られていた。しかし抗日戦争を戦っていたのは、国共連合の中国であった。
 インドの独立運動は、ガンジーやネルーなどがリーダーであった国民会議派主導の独立運動だけで単線的にすすめられたのではなく、チャンドラ・ボースらのような分派や分裂を内包しながら展開してきた。『新しい歴史教科書』は、インドの独立について「日本軍と協力したインド国民軍の兵士をイギリスが裁判にかけたことに対して、はげしい民衆の抗議運動などもおきた。こうして、長く続いていた独立への気運がさらにたかまり、インドは一九四七年、イギリスから独立した。」[*22]と書いている。日本が戦争に負けてマレーに復帰してきた際、イギリスがインド国民軍を裁判にかけ、イギリス軍がインド国民軍の無名戦士の記念碑を壊した。独立後にそのことを記した記念碑を建てたインド系のボース派信奉者がいることも、いくつもの研究書[*23]に書かれている。ともあれ、日本が占領したシンガポールには、日本帝国軍国主義の支援を受けたインド独立運動の拠点があった。それも歴史的事実であった。
 だが、国民会議派のガンジーやネルーのイギリスからのねばりづよい独立運動には、「日本は支援」しなかったし、インド本土での国民会議派は日本軍国主義を許してはいなかった。それも歴史的事実であった。ガンジーは『すべての日本人に』という文章で、

 と一九四二年七月に書いた。イギリス植民地政府の牢獄にいたネルーも、娘への手紙に同様の思いを書き送った。私は一九五五年に、中学生だった武田(現在・辻田)三樹恵さん[*25]にネルーの『インドの発見』を借りて読んだのが、アジアの地理教育への開眼であった。ボースの名は、軍国少年だった頃に教えられて知っていた。このネルーの本は、かつての軍国少年の目の鱗を落とした。
 しかし、日本の責任政党を豪語する大物たちは目の鱗を落とさない。昭南市長もそうであった。そして、彼らの目を補強する取り巻き研究者たちがいる。彼らの言うのに事実もあった。だが、いくつかの歴史的事実からの選択にこそ、その政治家や歴史教科書の編著者たちの歴史認識が表われている。
 私は、その中央公園のいくつかのモニュメントを見て、一つの文章を思い出した。
中曽根首相(当時)が、多民族国家のアメリカに行って、日本の単一民族国家優越論を述べて、深い顰蹙をかった。そのとき、都留重人が雑誌『世界』で論じた文章から、私は次のアーチボルド・マクリーシの文章を抜き出して『波動』に引用し学生へ提供した[*26]

 都留は「フィーリング」について「豊かな感性、更に言えば、思いやりをもっての洞察、人間どうしの共感の意であったと思われる」と書いている。マクリーシについては、英語の同僚教師に教えてもらったが、アメリカの詩人辞書にでていて、一九三〇年代のニューディール当時の政府高官を勤めた実践的な詩人であった。この一九五八年のマクリーシと都留の文章を、シンガポールの中央公園で思い出していた。私の教育実践の根幹に置いてきたのは、この感性を培う社会科教育の模索であった。
 私は、和光大学の教育学研究者に導かれて、最後の研究的旅行を終えた。そしてなによりも古川さんのように私の授業を受け止めてくれた学生に、ようやくこたえることができた、と思った。
 シンガポールへの旅は、私の教育実践の自己評価の点検であった。



*ふくしま・たつお
 元人間関係学部教授(一九九五年〜二〇〇〇年度)。地域形成における住民の働きかけについて調査。住民と教師の地域研究活動に学び、教育課程に関心をもっている。中・高校教師を経て、前日本福祉大学教授。

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[*1] 「降る雪や明治は遠くなりにけり」 中村草田男の『長子』(一九二九〜三五年の句集)に掲載。明治時代は一八六八〜一九一二年だから昭和戦争期はずっと遠くなった。

[*2] 一九一八年生まれ。東京大学名誉教授。『地域の中で教育を問う』(新評論、一九八九年一月)の出版を祝う会で、私は同書を書評した。なお二〇〇一年度一学年の入門ゼミで、大田先生の『生命のきづな』(偕成社)をテキストにし、面談して学んだ。和光大学『エスキス2001』九〇頁参照。

[*3] 吉野源三郎『人間の尊さを学ぼう』(牧書房、一九五二年一〇月)序詩。この詩を載せているので、もっとも大切にしてきた本である。私の社会科教育実践の序詩としてきた。

[*4] 「沼津・三島地区の住民運動」『歴史地理教育』一九六五年一一月号。拙著『地域の課題と地理教育』(地歴社、一九八一年六月)に再掲。

[*5] 「戦後産業史への証言」『エコノミスト』一九七七年一月一一日号。

[*6] 『世界年鑑』二〇〇〇年版。

[*7] 東京教育大学附属高校教諭を経て、現在琉球大学教授。

[*8] 中島正人『謀略の航跡――シンガポール華僑虐殺事件』講談社、一九八五年四月。

[*9] 毎週出会う学生向けに印刷・配布していたB5判四頁の通信紙。教材となる引用文の他、私の心の波動を伝えたいメッセージを書いた。後に『涓流』に改題し、退職後は『涓流21』として、ほぼ月刊で友人知人に送っている。

[*10] 一橋大学は、昭和天皇が死去したとき、日の丸を掲揚しない唯一の国立大学であった。戦争責任を追及する日本近代史研究者が複数いる大学である。冨山氏はその大学の法学部で学んだ。私も同大学の非常勤講師を一九九二年度から二〇〇〇年度まで勤め、さまざまな学生と出会った。

[*11] 冨山泰『カンボジア戦記』中公新書、一九九二年三月、一八六〜七頁。

[*12] 『波動』四七号、一九九二年五月二一日。

[*13] 陸培春『観光コースでないマレーシア・シンガポール』高文研、一九九七年九月、六〜九九頁。

[*14] 前掲、中島、一〇二頁。

[*15] その時の様子を国立博物館の歴史の展示コーナーでは模型で示している。

[*16] シンガポール・ヘリテージ・ソサイエティ編、リー・ギョク・ボイ執筆、越田稜+新田準訳『シンガポール 近い昔の話――1942-1945』凱風社、一九九六年一一月、一三一頁。

[*17] 前掲『シンガポール 近い昔の話――1942-1945』「日本版への序」より。虐殺した日本側は、敗戦とともにすべての文書を焼却し、証拠を残さなかった。“近い昔の話”の聞き取り調査が今も行なわれている。書店には『THE PRICE OF PEACE -True Accounts of the Japanese occupation 和平的代価』(Foong Choon Hon 編,ASIAPACB, BOOK,1997年)が平積みされて売られていた。

[*18] 前掲『シンガポール 近い昔の話――1942-1945』一三〇頁

[*19] 後藤乾一『近代日本と東南アジア』岩波書店、一九九六年一月。

[*20] 上村喜代治『インパール』光人社のNF文庫、二〇〇〇年一〇月。

[*21] 森山廉平編『米軍が記録したニューギニアの戦い』草木社、一九九八年八月、一二九頁。私たち和光大学研究プロジェクト・チームは、パプアニューギニアを一九九九年に訪問し調査した。そこにもインド系イギリス兵捕虜が連行されていたのだ。

[*22] 『新しい歴史教科書』扶桑社、二〇〇一年六月、二八二頁。

[*23] 明石陽至編『日本占領下の英領マラヤ・シンガポール』岩波書店、二〇〇一年三月。中村尚司『人々のアジア』岩波新書、一九九四年一一月、など。

[*24] 村瀬興雄編『ファシズムと第二次大戦』中公文庫、一九七五年六月、四六六頁。

[*25] 辻田さんは中学生でそんな本を読んでいた。現在、同人誌に作品を発表している。病と闘いながら。

[*26] 同論文は『経済の常識と非常識』(岩波書店、一九八七年三月、二〇六〜七頁)に再掲。


〈付記〉本稿の内容については、地理教育研究会愛岐全国集会(二〇〇一年七月・瀬戸市)で中間口頭報告したレジメ・資料を骨子としている。



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