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アジア諸国の情報機器と情報インフラ事情


角田光司* 和光大学教員


――はじめに

 パソコンがオフィスや教育施設で「情報機器」として用いられるようになったのは、インターネットに繋がるようになってからである。上海やシンガポールなど、アジアには「IT革命」の先端を歩んでいる地域もある。けれども我々の訪問した国々はその反対の極にあるというべき地域が多かった(図1)。
 それらの国で最も力を発揮している情報機器と言えば、今でもテレビの方が効果的に影響力を発揮しているだろう。近頃のアフガニスタン情勢の報道によって伝えられるところでは、タリバン政権下ではテレビもラジオも禁じられていたが、一部の人はラジオからイギリスのBBCを聞いて情報を得ていたという。アフガニスタンの人びとにとっては、ラジオが最大の情報機器だった。
 私は情報機器の教育利用に関心をもっていたが、教育に情報機器がどの程度、あるいはどのように使われているかなどの質問ができる機会は少なかった。国によっても事情は異なるし、また二、三年の間に変化も激しいのが情報機器の特徴でもあるから一概に言うことはできないが、どう見てもそれらが広汎に使われているとは思えなかった。
 以下に我々が訪れた国ぐにの教育場面における情報機器と情報インフラの状況を、この訪問中の見聞にもとづいて生活事情を踏まえて報告することにする。

――ラオス人民民主共和国・カンボジア・一九九七年  この両国では初等教育でも高等教育でも、コンピュータなどは高嶺の花という状況であった。

 ラオス
 ラオスではビエンチャンに国立大学が一校あり、そこの研究室でパソコンを一台見かけたきりである。といっても、開いていたドアから見かけたのだから詳しくは分からないけれども、Windows 3.1 のスクリーン・セーバが回っていた。どのような使い方をしているのか、インターネットに繋がるのか等、興味があったので見せてもらいたかったが時間がなかった。ここの教員との談話のなかで、i486機[*1]でもよいから古いのがあったら譲ってほしいといわれた。
 テレビは国立の放送局があって時間がごく限られた放送時間帯だけの放送があると言っていた。ただし国境に近いビエンチャンではタイの放送がはいってくるので多くのチャンネルが見られるともいっていた。

 カンボジア
 カンボジアでは我々が訪問した教員養成大学にはパソコンは一台もなかったが、プノンペンのホテルのロビーのテレビでは、日本のNHKの大河ドラマをリアルタイムで放送していた。部屋の中のテレビのチャンネルは十数個のチャンネルを見ることが出来たが、プノンペンはテレビ放送局が二局だけで、それ以外はタイの放送局らしい。
 日本に留学をしている学生が里帰りをしていて、レストランなどあちらこちらへ我々を案内してくれたのだが、彼は四〇〇ccのバイクに乗り、家にはベンツが二台ある。彼の家は市内に店を構えていて、携帯電話も売りはじめたとのことだった。日本での流行とほぼ同時期に携帯電話という情報機器の商いを始めている。一方にはパソコンが一台もない教員養成大学と、他方にはこのようなニューリッチの商人がいる。この経済格差の拡大は大きな問題を投げ掛けているように思われた。

――パプアニューギニア・一九九八年

 ポートモレスビーは今までに見たこともない首都だった。道路が空いているからといえばそれまでなのだが、信号はホテルの前の道路に一個あるだけで、市内には一つもなかった。交差点のある道路があまりなく、カーブをうまく使っている。
 立体交差は一カ所しかなかったし、市内全体に建物は少ない。ホテルに入るときでも、昼食に食堂に入るときでも、工場と間違えるほどの鉄の扉がある。そこには必ず門番が二、三人はいる。中に入るとパーキングがあって、そこは普通の店であった。どうも治安維持のためには自己防衛をせざるをえない土地柄のようだ。

 ゴロカ
 ゴロカ大学の副学長から教員養成などの説明をうけたが、その時もらった名刺にはEメールのアドレスがあった。その他の何人かの教員の名刺にもすべてEメールのアドレスが書かれていた。教員各自がそれぞれのEメールのアカウントを持っていた(想像していたパプアニューギニアの大学とは、かなり隔たりがあった)。
 ゴロカ大学は教員養成大学でパプアニューギニア大学の教育学部の分校であったが、教育学部全体が移り独立して、ゴロカ大学になった。
 小学校・中学校・高等学校を訪問するための許可を得るために教育省の分室のようなところを尋ねた。そこでも名刺をもらったが、その名刺にもEメールのアドレスがあった。ラオスと比べて生活状態が良さそうにも思えなかったが、この違いは一年間という月日の間の変化だろうか。それともパプアニューギニアはオーストラリアやドイツ、日本からの援助があるからだろうか。
 そこで許可をもらってくると、副学長は車で我々を高等学校まで案内してくれた。実に親切であった。その高等学校はゴロカ大学の教員養成プログラムの実習校で、ゴロカデモンストレーション高等学校(GOROKA DEMONSTRATION HIGH SCHOOL)という所だった。
この高等学校で、海外青年協力隊としてJICAから派遣された吉川さんという日本人が授業をしていた。授業が終わるのを待って、化学室やコンピュータ室を案内してもらった。化学室は設備は整っているけれども、水は出なかった。コンピュータ室では日本から送られたばかりのWindows 3.1 の機種が八、九台並んでいたが、使われていなかった。
 いま立ち上げることが出来ますかと尋ねたら、動きますということなので、立ち上げて見せてもらった。Windows 3.1 のOSについてくるメモ帳やペイントなどのソフトは入っていた。ワープロやちょっとしたグラフィックぐらいは出来そうだったが、まだアプリケーションソフトはインストールされていないということだった。
 ところが、そのパソコンには一台としてCD-ROMのドライブがついていない。これではアプリケーションソフトがインストールできない。「インストール用にCD-ROMドライブを一台手に入れなければ」と吉川さんは言っていた。アプリケーションソフトも彼が工面をしなければならない。大阪の友達にEメールで、頼むということだった。これもずさんな援助の一例といえようか。
 コンピュータ室を出てから、吉川さんに彼の宿泊している教員住宅の中を見せてもらった。それはキャンパスの中にあり、居間には机が備わっていて、そこで勉強や事務処理などを行ない、寝室にはベッドが備えてあった。住宅はそれほど広くはなかったが一人で暮らすには十分だと思われた。住宅の前は校舎から続いている芝生で天気の良い晩などはベッドで寝るよりも、芝生の上で、寝たほうがよほど快適だと言っていた。夕食に彼を誘い、ホテルで一緒に夕食をとることを約束して別れた。
 次にゴロカの小学校を訪ねた。三年生に学校は好きですかと聞くと、好きという言葉が返ってきた。しかし何よりも驚いたのは、学校が好きという理由が、学校に来ている方が安全だからということだった。治安の状況が子どもにまで影響を与えている。何の科目が好きかと聞いたら、英語、算数と答えた子どもが多かった。これには少々驚いた。日本の子どもたちが苦手にしている科目だ。教科書は小学校一年生から英語の教科書を使っている。主要都市ではピジン語を使っているので、比較的英語には抵抗無く受け入れられるとのことである。現地の人はピジン英語と言って、非常に英語に似ているといっていた。八三〇もの言語のあるパプアニューギニアの地方ではそうも行かないだろう。英語は外国語である。
 ウェワクの高等学校には「英語で話しましょう」と書かれた立て札があった。この国は多数の部族からなりたっている。それぞれの部族語をもつ国家であり、一つの国家としてのまとまりを維持していくためには、英語という共通語(それは外来のものである)を用い、統一的な教育を浸透させていくことが必要なのであろう。
 吉川さんの勤務している高等学校は市内から車で二、三〇分ぐらい離れたところにあり、夕方彼はバイクでホテルにやってきた。談話のなかでパプアニューギニアは部族が中心であまり国という意識はないという。部族間でいざこざがあると必ず仕返しをするという風習があるらしい。

――ネパール・一九九九年

 ネパールの印象
 飛行機でネパールへ向かう。ミャンマーの海岸に沿って、北上するにつれて海岸の幅が広くなり、緑の渕は遠のき、砂浜が広がり、その砂浜に道路や家が点在し、五、六軒の集落が見え始めた。もはや砂浜とは言い難く、どこまでも続く平野の砂地である。長く伸びた道路がよく見えたが、人間の姿も見えなければ自動車も見当らない。
 やがて一五、六軒の集落が密集し、村々の点在に変わった。しばらくすると、いくつもの川が見え始めた。川はマングローブの根のように入りくんで海に注いでいる。バングラデシュに入った。川と砂ばかりで家は一軒も見当らなかった。しばらくすると景色は一転し、山ばかりになった。山の尾根から頂上にかけて家が点在している。山という山の尾根の上に家々が並んでいる。その周辺の急な斜面に畑が作られ、段々畑になっている。広い土地があり、しかも平らな土地が空いているのに、選りによって、なぜ人びとは不便な山地に住むのだろうかと思った。
 ネパールに入ったのだ。後で聞いた話であるが、高いところに住む理由のひとつに、マラリアを避けるためということがあるという。

 情報機器の使用環境
 カトマンドゥのホテルの部屋には蝋燭とマッチが、テーブルの上と洗面所に置いてあった。後に分かることになったのだが、時々停電をするからである。ホテルのロビーの一角に、ガラス張りのコンピュータ室があって、一台のコンピュータが置かれていた。コンピュータの下には車のバッテリーが、三、四個置かれていた。停電に備えての設備だろう。実際に滞在中、他のレストランで停電を何回か経験した。
 我々の宿泊しているホテルのコンピュータ室にあったディスプレイには「creative」と書かれていた。creative 社というコンピュータ会社は実際にオランダにあるが、そこの製品かどうかは分からない。私はそれまでに聞いたことのないメーカーだったのでちょっと気になっていた。
 後で、どこのメーカーのものか、旅行会社の人に聞いてみると、パーツを輸入してネパールで組み立てているとのことであった。このようなことは日本でもアマチュアや零細企業がやっていることである。

 Eメールの使い方
 ネパールではどこで、誰に名刺を貰っても、たいがい名刺にEメールのアドレスが書いてあった。ホテルの名刺にはEメールアドレスがhotel@greenwich.wlink.com.np(Hotel Greenwich Village)と書かれていた。他のホテルの名刺にもhotel@tibet.mos.com.np(Hotel Tibet)と書かれていた。別に、変わったアカウントという訳でもない。ホテルの代表アカウントである。今ならどこでも代表アカウントを使っている。
 旅行会社の名刺にも、Eメールのアドレスがlate@mos.com.np(Lama Adventure Treks & Expedition(P)Ltd)と書かれていた。同じ旅行会社の人の名刺にも、同じアカウントが書かれてる。これもホテルと同じように代表のアカウントであって、誰の名刺にも同じアカウントが書かれている。
 環境研究所(CEAPRED=Center for Environmental and Agricultural Policy Research, Extension and Development)のEメールのアドレスはinfo@ceapred.wlink.com.npでアカウントは info で、これも代表アカウントである。
 二つのアカウントを持っていた所員がいたので、聞いてみると、ひとつは自宅で使っているアカウントということであった。そこでさらに、このアカウントについて聞いてみると、研究所では info のアカウントを共同で使っているとのことである。それぞれ個人の部屋にはコンピュータが置いてあったので、使用頻度は多いと思われた。当時のネパールでは個人のアカウントはサーバーが小さく、割り振りが出来なかったのだろう。インフラの整備が整っていなくとも十分に利用が出来る見本である。
 トリブバン大学の教育研究所(Tribhuvan University Research Center for Educational Innovation and Development)のEメールのアドレスもcerid@mos.com.npで、代表アカウントである。ドメイン名がcom(会社)なので大学のドメインではないことがすぐにわかった。
 大学にサーバーがあれば、ドメイン名はac(大学)またはedu(大学)で、たとえサーバーが大学に無くともプロバイダーのサーバーに余裕があれば、大学のドメイン名は取得できると思われた。しかしそのようなことは大きな問題ではない。ドメイン名を決めるのは管理をしているその国のNIC(Network Information Center)なのだから。ちなみにネパールでは、翌年の二〇〇〇年一月ホストコンピュータの数は二九〇台、二〇〇一年一月には一一〇一台になっている。

 ホームページ
 トリブバン大学は国立だがホームページはない。私立のカトマンドゥ大学は工科系の大学で英語のホームページを開設しており、そのドメインはシンガポールにある。早くから他国のサーバーを利用することは賢明に思われた。自国のインフラが整っていなくても世界に向けて大学の情報を、十分に発信できることを証明している。
 一方、ホテルではアメリカにホームページを作っている。Hotel Greenwich VillageのURL(uniform resource locator)はhttp://www.leisureplanet.com/hotel/greenwichvillageであり、Hotel Tibetのほうは、http://www.catmando.com/hotel-tibetである。我々の世話をしてくれた旅行会社、Lama Adventure Treks & Expedition(P)Ltdも、そのURLは、http://www.businessnepal.com/lamadv-treks であり、いずれもアメリカにホームページを置いている。あるいは、ビジネスや観光情報提供会社のサイトの中に掲載されている。
 このLama 旅行会社の事務所へ行ったとき、そこのパソコンからこのホームページを閲覧させてもらったが、おそろしく時間がかかった。カトマンドゥから細い回線を通ってアメリカにあるサーバーへアクセスしているからである。カトマンドゥの会社のホームページへカトマンドゥからアクセスするのにこれほど遅いとはなんということか、と思われたが、実はいっこうにさしつかえなかった。
 サーバーはアメリカの方が値段も安く、インフラも充実して、効率はよく便利であるという一般的インターネット事情によるだけでなく、欧米や日本からの観光客を顧客としている国際観光立国ネパールの旅行業にとっては、国内からのアクセスなど問題ではなく、米欧、日からのアクセスの利便性こそが大切なのである。
 Lama 旅行社のホームページは多数の旅行社や商社がリストされている情報提供会社のサイトの中のひとつとして掲載されている。いわば多数のテナントの入った雑居ビル形式のサイトに入居しているわけである。
 当時の日本では大阪のホテルを検索しても、比較的大規模なホテルぐらいしか捜せなかった。それに比べると多数の旅行社やホテルが一覧できるこの形式は、一件あたりのコストも少なくすむであろうし、ネパールの方がはるかに先取りをしていた。ちなみに現在の日本ではこの形式を取っている。

 Eメールサービス
 ポカラではEメールサービスの店を何軒か見かけた。インターネットも出来れば、メールも送れる。今にして見ればフリーメール[*2]を利用して商売をしているもののようだった。その時は日本にもあれば便利だと思ったが、現在の日本ではモバイルPCや携帯電話のiモードなどからメールが送れるので、必要性は感じないだろう。
 ネパールにはインドと同じくカースト制があり、職業もカーストで決められている。けれどもコンピュータという新しい仕事は、伝統的なカーストに制約されることなく、誰でも仕事ができるということである。このような新しいビジネスが社会の変化をもたらす一要素となるのかもしれない。

――インドネシア・二〇〇〇年

 バリ島はリゾート地で有名である。バリ島はヒンズー教であり、人びとは穏やかである。竹のガムランともいわれる、ジェゴグ(jegog)という竹製の楽器をホテルの広場で演奏していたので聞きに行った。その音は非常に低音で身体に響いた。
 バリ島には伝統的な絵画があり、竹のへらに絵の具をつけて植物の葉などを丁寧に描いた絵がある。ウブド村は古くから絵画の村として栄え、最も古い絵画を「カマサン・スタイル」と言い、一九三〇年代に西洋の画法に影響を受けて、「ウブド・スタイル」や「ブンコサン・スタイル」という描写に変わってきている。
 このような伝統音楽や絵画は、観光業で生きていこうとする地域にとっての生産資本といえるだろう。
 バリ島の小学校を訪れたとき教室に時間割があってその時間割にはバリ語とインドネシア語、英語の時間がもうけられていた。小学校から英語を勉強するのも観光産業に力を入れているということなのだろうか。

 観光大学(Tourism College)
 観光大学ではホテルやレストランの業務を学ぶいくつかの専攻のほかに英語専攻があるが、ここに入るのは倍率が高く大変だということであった。このような話を我々が見学しているときに集まってきた女子学生たちに聞いた。その女子学生たちの楽しくてしょうがないというような、明るく子どものようなはしゃぎ方が非常に印象的だった。
 ここにはコンピュータの教室があって四〇台ぐらいのマシンが並び、一人一台を使って実習授業が行なわれていた。少し覗かせてもらうとホテルで実際に使われているソフトを用いて経理や宿泊客の管理などを学ぶ授業だということであった。

 バンドン
 住民、とくに底辺の生活者の社会生活の向上をサポートしているNGOを訪れた。そこでバンドン工科大学大学院生だという女性が説明をしてくれた。ここはインドネシア各地の事務所に連絡する中心的な事務所だということだった。彼女の説明によるとスハルト政権下では牢獄に入れられた人たちもいたという。
 そこではEメールを使っていて、スハルト政権を倒すのにEメールは大きな役割を果たした。Eメールは紙に印刷したビラとちがって、検閲されにくく、一度に多数の人に配信できる。などの利点が政府批判をする人びとにとって、有利に働いたものと思われる。新しく入ってきた文明の力に対しては、権力も思い通りにはならなかったのであろう。
 ここのNGOの役割と存在意義の説明は学生とは思えないほどしっかりしていた。彼女は来年から日本の大学院に留学することが決まっていると話していた。

 インドネシア教育大学
 日本のJICAから派遣された大学の教員二人に会うことができた。その先生たちの役割は教育制度のプランを立てることと現小、中教員の理科実験の実習を行なっているということだった。教育制度のプランに関してはモデル的に提示はするけれども決して強制はしないということであった。
 理科実験の担当をしている先生はEメールのアカウントを持っていて自分用には日本から持ってきたパソコンを使っているので日本語が読めるということだった。しかし教育の場面ではパソコン利用が課題となるような状況ではなく、化学実験に清浄な器具を使うことなどの実験の基本操作から教育しなければならないし、実験室に冷蔵庫はあるが、電気料金が払えないので使っていないということであった。ほとんどの設備が十分に利用されているようには見えなかった。

 インドネシア大学医学部
 日本に留学し、情報工学を学んだという航空工学研究所勤務で、医療事務者養成コースの学生にコンピュータを教える非常勤講師の語るところによれば、ここの大学では、インターネットが使えるのは多分事務所に二、三台あるパソコンだけだろうということだった。学生たちが授業で使うパソコンはインターネットに繋がっていないということだ。
 一流の大学だけあって五、六人の男女の学生が集まって、イスラムの礼拝場所の前の狭いところに図面を広げてまじめに話し合っていた。そのそばには礼拝をする場所と手足を洗う場所があり、何人かの学生がこれから礼拝をするために手足を洗っていた。

 ジャカルタ空港
 ジャカルタ空港にはインターネットが使える場所があった。七、八台のパソコンが置いてあり、そこで日本の友人へEメールを出した。アメリカのサイトのホットメールだった。日本の空港よりも便利なサービスである。ただし決して安い料金ではなく、外国人旅行者が利用するためのものだろう。

 インドネシアのインターネット事情
 アジア太平洋地域のインターネット利用者は、二〇〇〇年末に約九一五〇万人に達したと推定される。そのうちインドネシアは三八万人で〇・四パーセントを占め、普及率では〇・二パーセント、ちなみにシンガポールでは三四パーセントである。ホストコンピュータの数は二〇〇〇年一月の段階で二万一〇五二台で二〇〇一年一月になると二万六七二七台になっている。ホストコンピュータは供給する側のいわば、サーバーであって、我々が行った年の翌年には一・二七倍に増加している。ちなみに日本では二〇〇〇年一月の段階で二六三万六五四一台で、二〇〇一年一月になると四六四万〇八六三台になり一・七六倍になっていて、その差は年々著しく、二〇〇〇年一月では一二五分の一だったのが、二〇〇一年一月になると一七三分の一とさらにその差がひらいている。
 インドネシアにおける企業のインターネット利用歴では、一年未満が一〇・六%、一年〜二年未満が一五・四%、二年〜三年未満が三〇・八%、三年以上が四二・三%と最も多く、「わからない」が一・〇%、である。企業のISP(Internet Service Provider)との契約歴では、一年未満が一五・四%、で一年〜二年未満が一八・三%、二年〜三年未満が三四・六%、三年〜四年未満が二〇・二%、四年〜五年未満が七・七%、五年以上が三・八%で、二年〜三年未満が最も多い。
 企業の専用線接続率とダイヤルアップ接続率では、専用線が三五・六%でダイヤルアップが六四・四%と多く、電話線を利用している企業が二倍近くもある。企業の自社ウェブサイトのサーバー設置状況では、自社ウェブサーバーが四三・三%、さすがにホームページを開設している会社は自分のところでサーバーを抱えているところが多い。ISPのウェブサーバーが一七・九%、ウェブホスティングサービスが一三・四%、アメリカのホスティングサービスが一七・九%、とアメリカのサーバーに二〇パーセント近くの企業がホームページを置いている。世界に向けて情報を発信するには、今のインドネシアのインフラでは効率が良くないかも知れない。アメリカ以外のホスティングサービスが三・〇%、「わからない」が四・五%、である。
 ウェブホスティングサービスはサーバー設備の提供で、言わば貸しビル、貸事務所である。アメリカは世界中に開放しているので、世界中から家賃収入を得ていることになる。このシステムは大きなマーケットから容易にアクセスでき得る速度の速いインフラが整っているところに集中する。企業のインターネットコマース利用状況(commerce server[*3])では利用中は四三・三%、で利用していないが四七・八%、わからないが九・〇%である。
 インターネットコマースの非利用企業の今後の開設意向では、六カ月以内に開設の予定が一三・三%で、六カ月〜一二カ月以内が一八・七%、一年〜二年以内が二六・七%、二年以上が九・三%、開設予定はないが二二・七%、「わからない」が九・三%であり、この数値で見る限りインドネシアはネットでのショッピングサービスにはあまり関心がないように見受けられるが、一年〜二年以内が多いということは今後一年、二年経てば、個人の一般ユーザーが増えることを見込んでいるのかも知れない。
 またインドネシアなど途上国の場合、インターネットカフェなど街角での利用が急成長しており、利用者の実数は統計データの二倍から四倍程度あると推測できる、と白書は言っている。

――おわりに

 ラオスという国はコンピュータ時代に乗り遅れているのだが、その反面、日本では一九六〇年代以前に消滅してしまったような「のどか」な風景がある。
 ラオスのルアン・パバンは、一九九五年に町ごとユネスコの世界遺産に登録された。そのルアン・パバンでの一夕のことであるが、この市内に芝生の植えている長方形をした広場がある。大きさは野球が出来るぐらいの広さがあって、さまざまなイベントがそこで行なわれる所である。そこで今夜少年少女たちのダンスがあるので行ってみないかと、チャンタソンさん[*4]に誘われた。彼女がダンスと呼んでいた行事は、彼女たちが主になって進めていた行事らしく、席が用意されていた。
 私はダンスという言葉から、みんなが参加するような日本でいえば盆踊りみたいなイメージを浮かべていた。行ってみるとそれとは全く異なっていて、大きな舞台が用意されていて、その舞台は明るく照らされていた。舞台は子どもの背よりも高く、二メートルちかくあった。舞台の両端には一畳ぐらいの大きなスピーカボックスが並べてあった。観客は子どもたちがほとんだったが、付き添いの大人たちも混ざっていた。観客は草の生えているグランドにそのまま座っていた。観客は二〇〇名ぐらいはいただろうか。
 グランドの端にはぐるっと取り囲むように並んだ何軒もの屋台がアセチレンガスの灯を灯していた。やがて、スピーカから始まりのメッセージが告げられると四、五人の大人たちの楽器に合わせて、民族衣装をまとった少女の踊りが始まった。そして少年たちの踊り、少年少女たちの踊りや、少年少女の合唱などが次々と披露されていった。
 私は子ども時代の田舎を思い出していた。規模こそこれほど大きくはないが、田舎の小さな村で青年たちの演劇や旅回りの芝居、公民館での映画を見に行ったときの、お祭りのような楽しさや、子どもたち同士特別な場所で特別な時に会える楽しさとオーバラップしていた。
 きっとこの子どもたちも、この行事を楽しみにしていたことだろうし、子ども同士の交流の場となっているのだろう。
 観客の拍手で我に帰ると、一人の男の子のソロが始まっていた。市長の息子だという。出来るだけ公平に、多くの少年や少女を出すようにしていると彼女はいっていた。合唱が始まると、これは独立の歌だとか、民族の歌だとか説明してくれた。二時間ぐらいで終わった。ここではこの大きなスピーカーが一種の情報機器の役割を果たしているといえる。コンピュータやインターネットの導入によって、この国も現代先進国のとる方向、すなわち「IT」革命というグローバル経済に否応なしに巻き込まれていくことだろう。今のラオスのような人びとの暮らしを維持しながら、新しい経済を取り入れることはできないものだろうか。



*つのだ・こうじ
 「アジアの教育――研究と交流」プロジェクトチームメンバー。主な論文に「コンピュータ教育における情報とデータベース」(和光大学人文学部紀要29、一九九四年)がある。

[注]から本文の元の位置へもどるにはブラウザの[戻る]ボタンを押してください。

[*1] CPUにPentium を搭載し、Windows95 をOSとする機械がすでに標準となっていた一九九七年当時、このインテル486の機械はすでに旧型機であった。仮にこのような機械を贈ったとしても、電圧のちがい等面倒なことが多いと予想される。

[*2] インターネットを通じて無料で提供されるEメールサービス。申し込めば無料で自分のメールアドレスを開設し、Eメールの送受信が行なえるようになる。利用者のアドレスには定期的に企業からの広告のメールが配送されるようになっており、広告収入でサービスが運営されている。大手のポータルサイトが自社サービスの一環として提供することが多く、代表的なものにはgooの「gooフリーメール」や、MSNの「Hotmail」などがある。

[*3] commerce server オンラインショッピングサービスなどを可能にしたWebサーバの総称。

[*4] 和光大学非常勤講師。我々のラオス訪問について、世話になった。


〈参考文献〉
インターネット協会監修『インターネット白書 2001』インプレス、二〇〇一年。



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