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ネパールの農薬問題


内田正夫* 和光大学教員


――はじめに

 ネパールは貧しい国といわれる。国内総生産(GDP)は四四億ドル、国民一人あたり二〇九ドルで、アジアのなかでも最低位にある[*1]。国民の豊かさ貧しさを国際比較において表すとき、GDPという経済指標は実態を表さない場合があるが[*2]、人びとが人間としてどんな豊かな暮らし方ができているかを数値で表すように工夫された、国連開発計画(UNDP)の「人間開発指数」HDIでみてもネパールは〇・三七八で世界第一五二位の低位にある[*3]
 絶対的貧困ライン以下の国民が四五%(九〇〇万人)、インフレ率は年一〇%、識字率四〇%、大学卒業者〇・八三%、適切な医療にあずかれない世帯が五分の三、などが、政府が作成したUNDPへの報告書(Human Development Report 1998)に載っている数字である。じっさいは都市と農村など地域による格差が激しく、事実はおそらくもっと悪いだろう、そもそも継続的な調査さえ行なわれていない、という[*4]
 私たちの訪問調査の主目的はこの国の教育事情を知ることであるが、教育の背景をなす社会のありよう、人びとの暮らしのありようを知ることも大切であろう。ネパールは一九五一年の王政復古以来、王制が続いたが、一九九〇年四月の民主化宣言によって、立憲君主制のもと、議会制民主主義に移行した[*5]。しかし、貧困のほかに、社会に根強く続くカースト制度や男女差別意識などがあり、行政機構が(少なくとも近代的な意味では)スムーズに機能しないことも、社会発展の足を引っ張っているようだ。さらに、二〇〇一年六月一日の王宮における銃乱射事件以後、政情がいっそう不安定になっているという。
 このように、行政がうまく機能しないところへ、先進国や他の大国の途上国(とくにインド)からさまざまなものが流入してくる。それは、さまざまな人びとであり、経済援助であり、資本であり、商品であり、消費生活であり、文化であり、あらゆる近代的なものがおしよせる。とはいえ、それらを買うにはお金がいるから、じつはそのような波をうまく取り入れて高度成長的な近代化を遂げることができているのはNIES(新興工業経済地域)とそれに続く国々であり、むしろネパールはそのような波に乗ることもできずに翻弄されているようである。それでも、国際的観光国でもあるネパールにはさまざまなものが流入する。私はここでネパールの環境問題の一部について述べようと思うのだが、この国の環境問題も、事態の進行に社会のしくみが対応できないでいる状況から発しているところが多いと感じられる。もっとも、先進国と称せられるわが日本においてもうまく対応できているとは言い難いのだが。
 環境問題はどこの国においても、その地域の自然と社会のしくみへの配慮を欠いた社会変化にともなって生じる問題である。ネパールでも、農業や水資源・電力資源開発、都市への人口集中などにともない、森林破壊や都市公害などが起こっている。そしてそれらの問題への対応の難しさをなす根底要因のひとつが、低いHDIで表されるような、広い意味での貧困であるといえよう。
 ここでは、私が関心を持っている農薬の問題を、教育事情の背景をなす社会問題のひとつとして報告したい。次に述べるように、偶然あるNGOの事務所で幾人かの専門家の話をきくことができたので、この方々の話と文献資料から知ったことをまとめたものである。

――農村社会を支援するNGO、CEAPRED

 一九九九年二月二五日、カトマンズに到着して最初の晩に泊ったホテル・グリニッジビレッジはパタンにある。パタンはカトマンズからバグマティ川を渡った南側の古都である。行政上は別の市であるが、バグマティはガンジスの支流とはいえ乾季のせいもあって、当地では小さな流れであるから、パタンはカトマンズとひとつづきの市街をなしている。
 翌朝ホテルの近所を散歩していると、たまたまCenter for Environment and Agricultural Policy Research, Extention and Development (CEAPRED)(邦訳するなら、環境・農業政策研究センター)という表札をかかげた事務所があった。これに興味をもって、「ナマステ(こんにちは)」と言いながら入っていった。私が化学物質汚染による環境問題、特に農薬問題に関心をもっていることを告げると、この事務所のディレクタであるミシュラ氏(Dr. Pius R. Mishra)がこのNGOの活動やネパールの環境問題の概要を話してくれ、ついで農薬やゴミ問題を担当しているウパディアヤ氏(Dr.Hari K. Upadhyaya)に会わせてくれた。いただいた名刺によるとウパディアヤ氏はネパール農業経済学会の会長でもあり、農薬問題を含めて、このNGOのもっとも主要な活動である農村の生活向上運動のことを話してくれた。
 パンフレット[*6]によれば、このNGO、CEAPREDは、サステイナブル・デベロップメント(持続的発展)のためには一般の人びとのエンパワメントが肝要であり、それには人びと自身の参加が不可欠であるとの基本概念のもと、一般大衆の教育と自覚によって持続的農業と経済発展を実現するために、ネパールの環境と農業に影響を及ぼす開発政策の研究と地域社会の持続的経済開発計画を実施することを目的とする。
 具体的には、
の三つの活動を行なっている。いずれも、地域の人びとへの説得や教育と参加とが基本とのことであり、とりわけ女性の参加が決定的とのことであった。
 さて、農薬については、あとに述べるように、ネパール全体としての使用量は多いわけではないけれども、規制も知識も不足しているために、危険な農薬の危険な使い方が野放しになっていることが問題である。たとえば、農民たちの間では今日農薬を散布して明日農産物を売りに出すようなことが日常茶飯に行なわれている、とウパディアヤ氏は話していた[*7]
 だから、農薬の危険のない有機栽培は、CEAPREDの農村経済開発の戦略である付加価値の高い作物を作ることに役立つわけで、じっさい先述の農産物は一~二割高く売れるそうだが、しかし、残留農薬問題そのものに社会の関心が低いので、無農薬だから需要が高いというわけではないようであった。
 このほかゴミ問題からカトマンズの人口集中と都市インフラの不足についても若干の話をきいたが、当方が農薬問題についてもう少し聴きたいというと、ではその専門家の昆虫学者を、というわけで、さらに別室のタパ氏(Dr.Resham Bd. Thapa)に引き会わせてくれた。タパ氏は若い学者で、コンピュータにむかって仕事をしているところだった。ネパール式の濃厚なミルクティをご馳走になりながらネパールの農業病害虫にはどんなものがあるかなどの話をきいたが、植物や虫の名前などはよくわからなかった。まもなく私たちの時間がなくなったので、後日もう一度お邪魔することを約して事務所を辞した。

――ネパールの農薬汚染問題

 数日後の三月二日、私は約束していた時刻に再びタパ氏を訪ねた。彼はもう一人の昆虫学者ネウパン氏(Dr.Neupane)が農薬に詳しいからと、その人の部屋へ案内してくれた。先日ウパディアヤ氏は、農務省や保健省へ行って農薬問題について質問しても、またここへ戻ってくることになるよ、と、このNGOの人材を誇らしげに話していたのが、なるほどと思われた。これは逆にいえば政府に人がいないということである。この日は約一時間半をかけて、ネパールにおける農薬問題についてかなりまとまった話をきくことができた。以下は、ネウパン氏の話と、氏から教示されて入手した本その他の文献から知り得たことである[*8]

 1・ネパールの農薬事情
 ネパールでの農薬使用は一九五〇年代半ばにマラリア蚊の防除のためにDDT散布をはじめたのが最初である。その後、有機塩素系農薬の残留性が問題とされて殺虫剤の主役は有機リン系に変わり(六〇年代)、さらにカーバメイト系(七〇年代)などに変遷し、現在の防疫用殺虫剤には合成ピレスロイド系が多く使われるようになってきた。
 ネパールで殺虫剤が農業用に用いられるようになったのは六〇年代後半からで、イネやコムギの高収量品種の導入に伴って使用量が増加した[*9]。ネパールには農薬の原体(農薬の有効成分そのもの)を生産する化学工場は一つもなく、それはすべて欧米やインドなど、外国から輸入される。製剤工場は唯一、一九七七年に設立されたNepal Pesticides and Chemical Industries Pvt. Ltd.(私企業)があり、原体を輸入してここで粉剤や液剤に加工したものもネパールの需要の何割かをまかなっている。Agriculture Input Corporation(AIC)という国営の農業資材販売会社があって、農薬はここから販売されるが、農民は小売商店から買う場合のほうが多い[*10]
 農薬使用量の統計はほとんどないに等しいらしい。農林業用一〇〇〇トン、防疫用五六〇トン(年間)という数字もあるが、それがどの程度事実を表しているのか分からない[*11]。というのは、ネパール国土の南側を限るインドとの国境は実際上あって無きがごときものだからで、インド人は事実上往来自由で、インドからさまざまな(その多くが粗悪で危険な)農薬が持ち込まれているという。ネパール国土の南部三分の一はタライ平原と呼ばれる亜熱帯の低地でここは稲作が多く行なわれているが、インドと接するこの地域での使用量が最も多いであろうと思われる。
 農薬を規制する法律は最近まで存在しなかった。民主化後の一九九一年に農薬法 Pesticide Act, 2048 が、九三年にその施行規則 Pesticide Regulations, 2050 が制定され、九四年七月一六日から施行された(さらに一二カ月の猶予がおかれた)。これによって、これまで誰が何を売ってもよかった農薬が、ようやく、輸入・販売してよい農薬の登録と、販売業者・散布業者の免許とが義務づけられたわけである。しかしその規制が有効に働くかどうかはこれからの問題のようである。法律ができてのち事態がどう変ったか、ネウパン氏の話の間にもこの新法のことは話題にならなかったので、この点は後日質問した。法律は実際に執行する条件が整っていなければ絵に描いた餅なのである。つぎに問題点を具体的にみていく。

 2・危険な農薬がいまだに使用されている
 DDTやBHC、クロルデン、ドリン剤など初期の塩素系殺虫剤は、一九五〇年代からその残留性、慢性毒性が環境と人の健康に深刻な結果をもたらすことが明らかになり、また、次いであらわれたパラチオンなどの有機リン系殺虫剤は急性毒性の強い危険な農薬であった[*12]。また、農薬の不適切な使用によって、害虫の天敵をもいっしょに滅ぼしてしまったり、害虫の側に薬剤抵抗性を発達させることになり、逆に害虫の大発生を招いて、ますます大量散布と新型農薬に頼らざるを得ないという悪循環が生じるようになった[*13]。レーチェル・カーソンの『沈黙の春』(一九六二)の衝撃を受け、先進国ではこれら危険な農薬の多くが七〇年代はじめまでに使用禁止となった。農薬の開発は選択性が高く、残留性がないことをよりいっそう追求するようになり[*14]、また、農薬依存からの脱却を目指す農業の方向が注目されはじめた[*15]
 殺虫剤の主役がこのように変遷してきたのは世界共通のことであるが[*16]、途上国では旧式のものが使われなくなったわけではないところが先進国と違う。南の途上国ではその後も、あるいはむしろ六〇~七〇年代以降になってこれら有機塩素系を含む農薬の使用量が増大した。
 途上国にとってこれには経済的な魅力がある。先進国から援助として無償でまたは格安に購入でき、自国内生産のためには特許期限が切れているし、製造にもさほど高度な技術は必要とされない。あるいは多国籍化学企業の現地工場で製造される。面倒な規制基準はない、またはあっても適用を免れる方法はいくらでもあるから、工場の安全管理や残留農薬の安全性試験も手を抜けば安くあげることができる。[*17]
 このような国際的構造の中で、しかもつい数年前までなんの法規制のなかったネパールではあらゆる農薬がでまわっている。おそらく、「いた」ではないだろう。L. Dahalの本([*8])の付表3「ネパールで入手できる主な農薬」のリストには、アルドリン、クロルデン、BHC、パラチオンメチル、パラコートなど悪名高いものを含めて原体名で四四種、製剤名で一二八種があがっているが、これがすべてではおそらくないだろう。この本は一九九四年の農薬法施行前に書かれたものである。法施行後、一九九七年一一月までに七八農薬が登録を受け、その中にPOPs(残留性有機汚染物質)は含まれていないというが[*18]、ただ、法律はできてもそれが実際に機能するかどうかは別の問題である。ネパールでもっとも大量に使われるのは安くて効き目の強いBHC粉剤である。そしてBHCは、国連環境計画(UNEP)を中心として交渉が進められて二〇〇一年五月二二日に採択されたPOPs規制条約の、対象一二物質には含まれてない[*19]
 新しい農薬法の施行に関して確認するため、帰国後、CEAPREDのタパ氏にEメールで追加の質問を送り、返事をいただいた。それによると、農薬法とその施行規則はスケジュール通り、一九九四年七月一六日に施行されたが、その効果のほどは、「ないよりまし」という程度である。農薬規制における数多くの問題点として、依然として、インド国境からの流入、政府職員の不足、検査施設の不足、信頼性のある分析データや残留研究の不足などがあるということであった。
 この返事の数日後、タパ氏からさらに、農薬法にしたがって登録された農薬のリストと農薬汚染問題の概要を述べた論文[*20]が郵便で届いた。リストには原体数で五二種類、製剤数で一二二種類の農薬が載っており、そのうち殺虫剤が二四原体、七八製剤と過半を占めている。さすがにパラチオンのような危険な農薬(WHOのIa分類)はないが、メチルパラチオンをはじめ、有機リン系のものが多い。DDTやBHCも登録されていないが、行政機構の整っていない状況で、これまで最もポピュラーに使われていたこの両者がほんとうに使われなくなったとは思われない。
 タパ氏の論文の中に野菜の残留農薬の分析結果が引用されているが、その値は、たとえばカブのマラチオンが四・八ppm(日本の残留基準は〇・五)、フェニトロチオンが六・四ppm(日本は基準なし、ダイコンで〇・二)という桁の数字である。また、一九九二年の分析で、三一検体のうち二八検体からFAO基準を超える量が検出されたとある。また穀類では貯蔵中の害虫を防ぐために貯蔵庫や製粉所でDDTやBHCが使われるため、コムギやコメで〇・五~六・七ppmものDDTやBHCが検出されているという例も載っている(日本の基準はいずれも〇・二)。ただしこれは八八年の報告で、その後改善されてきているという。
 タパ氏は論文の最後に勧告として、登録農薬をもっと安全なものに替えること、販売者・農民らの啓蒙・自覚を促すこと、検査と記録システムの整備、法の確実な執行と検疫や税関検査の強化、農薬以外の防除法の開発、の五点を挙げている。

 3・不適切な流通管理
 農薬の種類が旧式というばかりではない。有効期限切れというのもある。一九八〇年代末にこのような農薬の処分問題がもちあがった[*21]。国営の農薬販売会社AICが抱える期限切れの不良在庫が百数十トンあって、その保管状態もひどいことが明らかになったのである。八八年に国連開発計画(UNDP)からの五七万七〇〇〇ドルの資金援助により、ニュージーランドのコンサルタント会社の助言を受けてその処分が行なわれたが、その処分方法もまた肯首できるものではなかった。AICの報告によれば、二三トンはNepal Pesticide会社に払い下げられて再製剤され、一〇トンは農民に配布され、七〇トンは散布されたり埋設された(農薬として散布使用されたのではなく、まき散らすことで処分したということのようである[*22])という。なんということはない。大半が環境中に放出することによって「処分」されたということである。
 さらに他の二六・五トンはセメントキルン(石灰石を焼いてセメントを作るための炉)で焼却するという計画であったが、排煙などの危険性からグリーンピースはじめ内外の環境団体の反対にあって中止となった。先進国の高性能炉で焼却することは費用がかかりすぎて不可能であった。結局この三六トン[*23]の農薬は二八一本のドラム缶に詰めて、AICの倉庫に貯蔵し続けることになった。その内容は、有機水銀剤四七本、BHC二九本、DDT一六本、エンドリン一九本、有機リン剤二三本、マンコゼブ二五本、不明(有機塩素系や有機リン系と推定される)一〇四本などを含む。おそらく、この焼却処分しようとしたものは明らかに危険性が高いため、放出処分というわけにいかなかったのであろう。このような決着ではあっても、ドラム缶に詰めて管理されることになったのはよいことだったといえよう。一九九九年現在このドラム缶がどうなっているかはネウパン氏にお聞きしてみなかった。その時には私がこの事件の詳細を知らなかったからである。
 最近の二〇〇一年一〇月、国際環境保護団体のグリーンピースが、カトマンズ郊外の国立農業研究所の倉庫で輸入されたまま腐食していた容器内の農薬を回収する作業を行ない、これらを安全に撤去するよう先進国の大使館に要求したというニュースを知った[*24]
 Dahalの本([*8])によれば、前出のネパール唯一の製剤工場NCIが製造する農薬の大半は、残留性の高いBHCや急性毒性の強いメチルパラチオンなど先進国ではとっくに禁止されたものである(日本ではいずれも一九七一年に登録失効)。この工場の労働環境と安全管理の劣悪なことが指摘された。この工場のしごとは、外国から輸入した原体に滑石粉などの不活性成分を混ぜて、農民が使用する五%や一〇%の粉剤や液剤に加工することである。労働者は手ぬぐい一枚を口に当てるだけで、一〇〇%または高濃度の原体を取り扱う作業に従事しており、工場の床には粉がつもって作業員の足跡が無数についている状態だと報告された。一年のうち需要の多い半年しか操業しない。ということは、労働者は常雇いではないのだろう。体調を崩せば休ませ、病気になれば金を与えて病院へ行かせるのだという。
 農業用と並ぶ大口の殺虫剤需要はマラリアをはじめとする昆虫媒介伝染病の防疫用である。WHOとアメリカの援助を受けて展開されたマラリア撲滅計画はネパールでは一九五四年に始まった[*25]。DDTがもっとも盛大に散布されたのは一九五七~六一年の間である。六〇年代にはマラリアを押さえ込むことに成功したかに見えたが、殺虫剤散布の手をゆるめるとマラリアは再び勢力を盛り返した。その間に蚊の方は薬剤に対する抵抗性を発達させ、殺虫剤の効かない虫の系統がしだいに増えていった。こうして殺虫剤と虫とのイタチごっこが続き、今もマラリア防疫のための殺虫剤散布をやめることができない。一九七六年から九二年の統計によると、DDT使用量のピークは一九七八年で九六五トン、マラチオンのピークは一九八二年で五六三トン、八〇年代後半からはアクテリック(ピリミホスメチル)に変わり、ピークは一九九〇年の五九キロリットルとなっている。
 ネパール南部のタライ平原は四〇年前には亜熱帯の密林であり、マラリアその他の伝染病の常習地帯だったため、少数の先住民しか住むことができなかった。その地域の森林を伐り開いて、農業地帯に変えることを可能にしたのはこの殺虫剤散布だったのである[*26]。現在もWHOはアジア・アフリカの各地でマラリア対策のためにDDTの使用を続けており、これに対してWWFなどの環境保護団体は農薬に代わる方法を採るよう提案している[*27]
 ネパールはマラリア対策のDDT使用を八九年を最後にうち切った。ところが、どうしたことか、そのネパールが一九九三年インドネシアから二〇〇トンのDDTを輸入した。このDDTはマラリアではなく、カラアザール(マラリア類似の伝染病)対策に使うのだという。環境保護派からは、これはネパールが、援助という名目で時代遅れとなった農薬のゴミ捨て場にされたのだと見られている[*28]。米欧日の農薬会社が、国内では禁止された農薬を規制の弱い国々へ輸出するとか、製造設備を現地合弁会社へ輸出するというのと同じような構造が見られる[*29]
 インドは一九九〇年に、農業用のDDT使用は禁止するが、マラリア防疫用には国営工場で一万トンの製造を続けるという計画を決定した[*30]。インド―ネパール国境における自由通行から考えれば、DDTは今後もこの国に流入し続けるのではないだろうか[*31]

 4・農民による不適切な農薬使用

図1 農薬の散布作業図 Dahal, [*8] p.37
表1 農薬散布時の防護対策 
国際協力事業団,[*8]
 図1は前出([*8])でふれた報告書 A Study of Pesticide Pollution in Nepal の第三章の挿絵である[*32]
 この章は研究チームが農民と農薬小売業者とに対して行なった聞き取り調査の結果をまとめている。絵の中、右手にかがんでいる男性は散布作業の様子をメモしている調査者であろう。この絵は、それを意図して描かれたのかどうか分からないが、ネパールにおける農薬使用の危険な実態を象徴的に表している。
 まず驚くのは、赤ん坊をおぶっての噴霧作業である。マスクや手袋もつけず、裸足で、背に負った赤ん坊と同じ肩から農薬のタンクを掛けている。乳幼児は発育途上にあって代謝が盛んであり、外部からの侵入異物に対する防衛機能が未熟である等々の理由から成人よりも毒物に対してはるかに感受性が高いことは、近年、環境ホルモンへの注目とも合わせて、科学的に証明されつつある[*33]。おまけにこの赤ん坊は、直接暴露に加え、母親が体内に取り込んだ農薬を胎児期には胎盤を通して、今は母乳を通して受け取るのである。
 そのような科学的知識を持たなくとも、毒だという意識があれば、誰でも子どもを遠ざけようとするはずだ。散布作業の終わった後、この主婦は手足や衣服をよく洗うだろうか。水汲みが女子どもの家事労働の最大のもののひとつであるというこの国の水事情では、十分に洗い流すことはできないだろう。女性に過剰な労働負担のかかる農村のくらしという点に加えて、この姿は農薬の危険性に対する認識の欠如を示している。この絵の姿がネパールの畑におけるごく普通の風景であるとするなら、農薬は他のさまざまな点においてもひどく不適切な使い方をされていることが推測される。
 この推測があたっていることは、この本に示された聞き取り調査の結果からも、ネウパン氏が指摘することからもわかる。おそらくアジア、アフリカ、南アメリカなど世界の他の地域でも同じような姿があるのだろう[*34]
 そもそも農薬は作物の状況と薬剤の特性をよく知って、適切な時機に適切な薬剤を適切な方法で使わなければ効果が上がらない。そのような知識や判断力を農民がもっているかどうかが問題である。この本の調査結果によると、回答者一二〇人のうち、農薬の使用法の知識を得るのは小売商(三四%)や友人(一九%)からという回答がもっとも多い。農業指導員やラジオ/パンフレットという答えはそれぞれ一〇%前後しかない。で、その商人が頼りになるならよいが、小売業者を対象とした調査の方では、彼らの五四%が農薬使用法の講習会などに一度も参加したことはないと答えている。
 農民のうち五九%はラベルが読めたと答えている。読めなかった方の四一%の理由は、非識字(三五%)、外国語だったから(三三%)、ラベルが付いてなかったから(二六%)、読むのが面倒だから(六%)となっている。ラベルが読めた五九%という数字は都市部を含めた政府公表の識字率([*4]参照)よりはるかに高く、これは少々訝しい。一九九三年パキスタンの農村でのある調査では、村の女性六〇人のうち、ただ一人ラベルが「読めた」と答えた人があったが、その人は「髑髏マークを見て危険物だとわかった」のだそうである[*35]
 散布時になんらかの防御手段をとると答えた農民は六九%あるが、そのうちの八二%は手拭い一枚を口にあてるだけで、ゴム手袋は三〇%、長袖シャツ長ズボンは二%、長靴をはくのは二%であった。回答者の九三%は散布後、手を洗うと答えているので、安全のためになんらかのことが必要だということがわかってはいるという。死亡事故は報告されてないが、回答者の大半が散布後に頭痛や吐き気、発疹などなんらかの異常を感じたことがあるという。しかし、体の具合が悪くても病院にいかないし、そもそも農村にはろくに病院がないのだから農薬による健康被害の統計資料はあろうはずもない[*36]
 使用する液剤の薄め方や粉剤の使用量も目分量で行なうため、一般に使用量が多くなりがちで、指定濃度の数倍の濃度で使われることもある。
 散布後収穫までの期間は、一週間以内が農民の三二%、一~二週間は三一%、三週間は二五%、四週間待つ者は一一%、五週間は一%しかいないという回答である。とくに都市に近い地域では散布後短時日のうちに出荷している。使用量のもっとも多いBHC粉剤は分解しにくく非常に長期に残留するとはいえ、風雨で流されたり日光で蒸発や分解するなどして、作物残留量は時間とともに減少するので、散布後の経過日数は重要である。メチルパラチオンは分解速度が比較的速いので、この日数はいっそう重要である。しかし、もともと農薬自体の毒性の認識が希薄なら、作物残留の問題には無頓着であって当然だろう。
 使い残った農薬の保管場所は、「屋内の鍵のかかる戸棚」四七%「鍵のかかる物置」一六%だが、鍵のない戸棚(一三%)や屋外(二四%)という回答もあり、三分の一余りの農民は不注意である。このような状況では子どもの誤飲事故が必ず起こる[*37]。使用後の空容器の処分も、捨てた(四六%)(農村にゴミ回収システムはないから、捨てたというのはその辺りに投棄したということである)、燃やした(二六%)、埋めた(一八%)となっている。残りの一〇%は驚くべきことに、飲料水や食用油の容器として使っているという。農薬はつくりのしっかりしたプラスチック容器に入っていることが多いから、それは貯水容器としても魅力的である。とはいえ、いくらよく洗ったとしても、プラスチックの表面に吸着されていた農薬が徐々に溶出してくるとは思いもよらないのであろうか。
 人の健康に対する急性の危険についてすらこのくらいの認識だから、非標的生物に対する影響や、土壌や水や大気の汚染、それを通して生態系への影響、めぐりめぐってヒトヘの慢性的影響についての認識は推して知るべしであろう。川に殺虫剤を流す密漁で多くの水棲生物が死んだり、その魚を食べた人が中毒したり、チトワン国立公園でサイ四頭が死んだ事件もあった。もっとも、貧しいこの国ではアメリカ合衆国の輸出用穀物農場や多国籍食料企業に支配される南アメリカの大農場でみられるような大量散布はないので、農薬使用総量は多くはない。したがって、さしあたって第一の問題は農民と都市消費者の健康の問題である。

 5・家庭用殺虫剤
 農業以外の場面では、先述したようにマラリア対策として、農業用の約半分の量の薬剤が使用されている。これは行政機関が実施する散布なので使用量の報告は信頼性があるだろう。もうひとつ気になるのは、家庭用として蚊、ハエ、ノミ、シラミ、ゴキブリ、ネズミなどに対して用いられる殺虫剤や殺鼠剤などである。これは人の生活する住居内で使われるため、人の健康への影響が量の割に大きい[*38]。ネウパン氏はBaygonという殺虫剤が一般的で、どこでも売っていると教えてくれた。
 その日の午後、町の雑貨店で試みに「殺虫剤のバイゴンはあるか」と尋ねてみると、店員は日本でふつうに見かけるサイズの五倍くらいありそうな巨大なスプレー缶を出してきた。ドイツのバイエル製である。説明書きはネパール語なのかヒンディー語なのか、知らない文字で読めなかったが、唯一、"Antidote: atropine"(解毒剤:アトロピン)とだけは英語かドイツ語で書かれていて、有機リン系かカーバメイト系だということがわかった。帰国後調べたら、バイエルが開発したPHC(プロポキスル)で、家庭用はバイゴンという名で発売されているカーバメイト系の薬剤であった[*39]

 6・規制はほとんどない
 前述したように農薬法が施行されてからまだ数年である。この法律と施行規則[*40]はほぼ日本の農薬取締法(一九四八年)に相当し、農薬の登録制と輸入・製造・販売・散布業の免許制度を規定したもので、実施のための農薬委員会(農務大臣を長とする一一人の委員からなる)と農薬登録局、農薬監督官の設置、機能、権限などを定めたものである。この法律の施行によって事情はよくなったのだろうか。
 残念ながら、ネウパン氏の話の様子では前に述べたような危険な事情はあまり改善されたとは思われない。法律は原則を定めただけだから、それを執行するためには行政機構、人材、施設が必要だが、そのどれもがとても不十分な状態だからだ。まず、インドからまったく無規制に農薬が流入していることはCEAPREDの人びとはじめいくつもの資料で再三指摘されている。国境や税関の管理、病害虫を持ち込まないための検疫などの整備が必要だが、地続きの地勢のために困難なうえ、人手と資金がないという。
 法律は農薬監督官に、公務執行のためならいついかなる場所にでも立ち入り、当該物件を差し押さえ、違反者告発に必要な捜査をできるという強い権限を与えている。しかし、全国に監督官を配置するには少なくとも七〇人の専門家が必要だという[*41]が、そんな人材はいないし、そのための予算もないという。
 登録にしても、登録局の側に十分な専門家と検査施設がなければ、当該農薬の性質について申請者の添付書類と若干の外国文献に頼る以外は、科学的検討ぬきで許可するしかないだろう。また、規制を実施していくためには、安全使用基準、環境基準、残留基準などを具体的に設定しなければならないが、まだ基準値はなにも決められていない。それとて人材と資金がなければ、外国で作られた基準をそのまま引き写すしかないだろう。
 基準値の設定に責任を持つ機関は、ネパール産業省の下にある計量標準局ということになっており、前掲報告書([*11])の著者マナンダル氏がそのディレクタである。同局で分析できる項目がこの報告書にあげられているが、その中に農薬類はない。GLC(ガス、液体クロマトグラフィ=微量の有機化合物の分析に必要な基本的装置)はこれから整備するところだという[*42]。基準値設定のためにも実際の汚染状況を調べるためにも、精密な化学分析装置を具えた検査施設が不可欠であることは論を待たないが、カトマンズでこの程度なら、地方にはないに等しいことだろう。ガスクロマトグラフィ装置がネパール全国に何台くらいあるかネウパン氏に尋ねてみたが、さあと首をかしげてしまった[*43]
 そして、規制を効果的に実施し、安全で有効に農薬を使うためには、なによりも国民の意識の向上が前提となる。だから、製造者、販売者、農民、消費者、の無知と無関心が最大の問題なのだが、しかし、またそこにこそ改善への糸口があるといえよう。

 7・今後の方向
 農薬汚染問題の改善を進めるためには国民の八〇%を占める農民が、最低限、使用説明書を理解できてそれにしたがった使い方をできることが必要である。また一方、病虫害を防ぐのに安易に農薬に頼ることはかえって生産量を低下させることもある[*44]。政府もCEAPREDのようなNGOも農業指導員や農民学校(farmer's school)を通して、適した作物種、耕作の適期、農薬の適切な使用法などの知識を普及していこうとしている。総合的病害虫管理(IPM)を実施していくためには、農民自身が学び、研究する資質を高めなければならないのである。
 ネパールの人口は現在二三〇〇万。年増加率二・五%。ネパールは最近食料輸出国から輸入国に転落した。この人口を養うために食料増産は緊要な課題である。しかし、だから農薬を撒かなければならない、ではなく、そのためにこそ、農薬と化学肥料の大量投入に頼らない、健全な農業を育てなければならない。さいわい、この国の農業は大地主や多国籍企業に支配されるプランテーションではなく、自営農家の小規模経営(一戸あたり一ha足らず)である。だから貧しいのではあるが、反面、農民の自覚と工夫しだいで改善できる可能性があるともいえるのである[*45]
 もっとも基本的なことはやはり国民全般の教育問題に行き着くようである。

――むすび

 「アジアの教育―研究と交流―」チームのネパール訪問調査に参加し、ほんの一週間ほどだが、これまでヒマラヤの国ということ以外ほとんど知らなかった国を訪れることができた。そしてそれを機会としてこの国の農薬汚染問題についてこの報告を書いた。このトピックについて現地では農村を訪れたり農薬散布の現場などを見学したわけではなく、険しい尾根の上に縞模様を描く棚畑や曲流する川に沿った水田を飛行機の窓から見たことと、NGOの専門家の話を聞いたこと、それに雑貨店でのバイゴン以外は、印刷物、それも英語で書かれた少数の文献を読んで得た知識である。それでも、その国の土を踏み、人に会ったことは文字から得る知識を具体的なものにする。
 ネパールの大衆の生活は近代科学技術の恩恵にまだ十分に浴していない。にもかかわらずそれは人びとのコントロールを超えて生活の中に侵入してくる。農薬問題という一事例はそのことを考える材料となった。ネウパン氏もいくつかの文献の著者たちも強調していたことは、農民をはじめとする大衆の啓蒙・教育が最重要課題だということである。読み書き能力、そしてそれを前提とした論理的思考力という国民の知的基盤なくしては近代科学技術を我が手でコントロールすることはできない。そういう意味で、近代的教育制度も科学技術と一体であるべき近代社会のしくみの一部なのである。
 ふっと次のような逆説的な思いが頭をかすめることもある。すなわち、教育援助がかえって人びとの階層間格差を拡大させる作用をする場合がありうる、とするなら、教育の普及自体が近代社会あるいは先進国からの「侵入者」という面もあるのかもしれない、と思われたりもするのである。
 けれども、近代化は国の外で待っていてはくれない。否応なしにこの山国をも巻き込むのである。とすれば、近代的教育制度というしくみもいっしょに侵入してくれなくては釣り合いが取れないはずだ。と、最初の観点に戻るのである。
 ネパールは東南アジアの多くの国々と異なって、歴史上西欧列強や日本の激しい収奪に曝された時代はなかった。この人びとが、人間的な暮らしを科学技術によって攪乱されることなく近代社会のしくみをうまく取り込んでいくことができるよう、苦味を含んだ歴史をもつ日本から願うのである。
 最後に、この訪問調査の機会を与えてくださった和光大学総合文化研究所と、飛び込みの訪問に応じてくださったCEAPREDの方々に感謝申し上げる。

本稿は「ネパールの環境問題―農薬汚染問題を中心に―」(『ネパールの生活・教育と未来』和光大学総合文化研究所C系「アジアの教育―研究と交流」プロジェクトチーム、一九九九年六月、二五~三八頁)に加筆訂正したものである。



*うちだ・まさお
 研究の関心領域は環境問題と環境科学の歴史。とくに、農薬などの化学物質による環境や食品の汚染問題について、その科学的研究や規制政策、世論の動向などの歴史を研究している。

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[*1] 総務庁統計局編『世界の統計1998』(一九九八年四月)による一九九六年の値。日本は四兆六〇〇〇億ドル、一人あたり約三万六六〇〇ドルだから、一人あたりでネパールは日本の一七五分の一ということになる。アメリカは七兆六〇〇〇億ドル、一人あたり約二万八四〇〇ドルである。

[*2] 通貨の為替相場に不均衡があるだけでなく、市場経済に組み込まれない価値生産が無視されるため実態を表さない場合がある。まして物質的価値以外の豊かさはなおさらである。

[*3] HDI(Human Development Index)は、出生時平均余命、成人識字率、就学率、実質GDPなどを勘案して導出した数値。世界一位はカナダで〇・九六〇、日本は第八位で〇・九四〇(一九九五年)。

[*4] Khadka, N. S., 1998, "Human Development Report 1998: The Bitter Truth of Poverty," South Asian Business Analyst, 1998/06/15。総務庁統計局編(前掲書[*1])三一九頁によると、識字率は男四一%、女一四%、計二七・五%(九五年)(同じ統計で日本は九九・八%(九〇年))である。国勢社編『世界国勢図会』(一九九八年)、四六三頁によると、一歳未満乳児死亡率は千人当たり八五(九六年)(日本は四)である。アジアで乳児死亡率が高い国はパキスタン八八、ラオス一〇一である。

[*5] 八〇年代から九〇年代初めまでの社会情勢については、山本真弓『ネパール人の暮らしと政治』中公新書(一九九三年)が興味深い。

[*6] CEAPRED's Profile

[*7] この散布後の経過日数は消費者の口に入る残留農薬量を減らすために重要な点である。たとえば日本でなら、イネに対してスミチオン乳剤を散布してよいのは収穫二一日前まで、などと、安全使用基準が決められている。

[*8] Dahal, Leela, A Study of Pesticide Pollution in Nepal, IUCN, 1995。この本は一二四頁の小冊子だが、政府の国家計画委員会環境保護戦略実施プロジェクトと国際NGOの世界自然保護連合(IUCN)とによる共同研究をまとめたものである。九四年の農薬法施行以前に書かれたものなので現在は事情が変わっていることがあるかもしれない。日本語の文献では、国際協力事業団『ネパール王国平成8年度食糧増産援助調査報告書』(一九九六年三月)に、一九九五年一一月に同事業団が行なった調査のうち、農薬の使用状況についても調査結果の報告がある。後に触れるように、その報告も上記IUCNの本で述べられていることを裏書きしている。

[*9] ただし、ネパールではいわゆる「緑の革命」がインドやフィリピンのように強く推進されたわけではないので、それが在来の農業のあり方を根底から覆すようなことはなかった。

[*10] 因みに、AICはまた、(新しい農薬法施行後の)農薬の登録や規制の担当部署でもあり(Ekstrom, George (ed), World Directory of Pesticide Control Organizations, 2nd ed.,The British Crop Protection Council, 1994, pp.274-275)、また化学肥料や農機具の輸入(海外援助)の受け入れと配布の窓口でもある(国際協力事業団、前掲書)。輸入・販売を行なう機関が同時に規制担当機関でもあるというのは、行政の仕組みとしていささか未熟であるように思う。

[*11] Manandhar, P. P., "An Introduction to Identification of and Initiatives Taken to Reduce POP Pesticides in Nepal," Proceedings of the Subregional Awareness Raising Workshop on POPs, Bangkok, Thailand, 25-28 November 1997, UNEP 10/01/ 1998

[*12] たとえば、日本では一九五六年にパラチオンによる中毒死亡者と自他殺者が九八六人に達した(植村振作『農薬毒性の事典』三省堂、一九八八年、九一頁)。

[*13] 農薬の淘汰圧の下にある害虫の抵抗性発達の問題は、集団遺伝学の適用によって解析することができる。より選択性の高い薬剤を開発することが抵抗性の発達を抑える方法になるが、それとても比較的という問題でしかない。

[*14] 選択性が高い(つまり標的生物だけに致命的な効果をもち、他の生物には害を与えない)ことや分解速度が速いことが望ましいというのは、今日では一見当然のことのように思われるが、じつは、農薬開発の初期にあってはその反対であった。どんな害虫にでもきく「万能薬」や、一回散布したら効き目が「長持ち」する薬剤こそが求められたのである。DDTやBHCはその願い通りの薬剤だった。そして今も人びとには、長持ちする万能薬を求める気持ちが強いことは確かだろう。

[*15] 農薬依存からの脱却をめざす農業とは、忌避植物の利用や、病害虫に強い品種や栽培時期の選択、輪作、すき返しなどの耕種的方法、などさまざまな防除方法を農薬とも組み合わせて総合的に活用するIPM(総合的害虫管理)に向かっている。またそれは病害虫を「撲滅」することを目指すのではなく経済的に害にならない程度に抑制することを目標とする「管理」という考え方への移行も意味するのである。

[*16] 途上国は農薬という工業製品を先進国から買う側であるから、先進国での流れが変われば、途上国もその影響を受ける。とはいえ、先進国と同じ方向へ、とは限らない。むしろ、その反作用=とばっちりを受ける場合が多いといえるかもしれない。

[*17] インド、ボパールの農薬工場爆発事故(一九八四年)は象徴的である。

[*18] Manandhar(前掲報告書[*11])。

[*19] 朝日新聞、二〇〇一年五月二三日。UNEP, Report of the Intergovernmental Negotiating Committee for an International Legally Binding Instrument for Implementing International Action on Certain Persistent Organic Pollutants on the Work of its Second Session, Nairobi, 25-29 January 1999, UNEP web-pageより。 Manandharの前掲報告書([*11])は、この一連の交渉の中で一九九七年一一月二五~二八日にタイのバンコクで開かれたアジア太平洋地域ワークショップに提出されたもので、このときはネパールから三名の代表が参加していたが、第二回のナイロビ会議には参加していない。二〇〇一年五月ストックホルムでの調印会議にもその参加国リストにネパールの名は見あたらない(UNEPのwebページ http: //irptc.unep.ch/pops/)。

[*20] Resham B. Thapa, "An Overview of Pesticide Pollution in Nepal," Journal of Nepalese Horticulture, 1:31-39

[*21] 以下の記述はDahal(前掲書[*8])のほか、主に Kandel, Keshab R., & Mohan Mainali, Playing with Poison, Nepal Forum of Environmental Journalists, 1993 による。

[*22] 一九九九年九月二九日付けKathmandu Post には古い殺虫剤を森林内に廃棄処分するという政府案に対して地元住民が抗議したという記事がある(野外科学㈱ホームページhttp://www.yagai.co.jp/より重引)。

[*23] 総量の推定は一時五〇トンに修正され、その後いつのまにか三六トンに減った(Kandel, 前掲書[*21]

[*24] Environment News Service, 2001/10/18, http://www.ens.lycos.com/。グリーンピースによれば、有機塩素や有機水銀を含む古い農薬が、ネパール南部のアムレクガンジに五〇トン、カトマンズに五トン、総計七〇トン以上確認されている(http: //www.greenpeace.org/)。今回処理されたのは、カトマンズのものである。

[*25] 殺虫剤散布によるマラリア防疫事業が泥沼化する危険のあることは、すでに一九四六~五一年のサルジニア島やギリシアでの苦い教訓を持っていたはずであるが、にもかかわらずWHOは一九五六年、世界のマラリア撲滅作戦に着手することを決定した(Gordon Harrison, Mosquitos, Malaria, and Man: A History of the Hostilities since 1880, J. Murray, 1978, 236―238頁)。マラリア防疫の歴史は同書に詳しいが、ネパールについての記述は、撲滅計画の失敗について、「ネパールは金を節約するために計画をカットした」(二五六頁)との一行のみである。

[*26] タライ平原の開墾は農業生産力の向上に貢献したが、一方、森林面積は激減し、野生生物はチトワン国立公園などの小地域に閉じこめられることになった。またこの地域にはインド系の人びとが多く移住してきたので、民族構成においても微妙な影響があるらオい。

[*27] WWF Canada, "Resolving the DDT Dilemma: Protecting Biodiversity and Human Health," 1998, http://www.wwf.org/new/news/pr151.htm

[*28] Tamrakar, Ananda, "More Deadly Donations: Disposal of Expired Pesticides in Nepal," Global Pesticide Campaigner, 5(2), 1995

[*29] Wright, Angus, "Where Does the Circle Begin? The Global Dangers of Pesticide Plants," Global Pesticide Campaigner, 4(4), 1994.12; Foundation for Advancements in Science and Education, Exporting Risk: Pesticide Exports from U. S. Ports 1995-1996, www.fasenet.org; "Dirty Dozen Pesticides: Banned But Still Traded," PANUPS, April 9,1999など。

[*30] このほか世界では中国とメキシコがDDTの製造を続けている("India to Ban Agricultural Use of DDT," PANNA Outlook, January 1990)。インドの九五/九六年度のDDT生産量は推定四四〇〇トンである。この他、インドはBHC=二万トン(推定)、エンドスルファン=七〇〇〇トン等々、合計八万六〇〇〇トンを生産している("Asia/Pacific Pesticide Use Update," PANUPS, November 8, 1996)。

[*31] グリーンピースの報告書Toxic Legacies, Poisoned Futures (1998.11.10)によると、インドはDDTやBHC、クロルデンなどの残留性農薬を年八〇〇トン先進国へ輸出しており、それが援助機関を通してネパール、バングラデシュ、パキスタンへ送られる。その他、禁止された農薬が穴だらけの国境からヤミで大量に流れていることが指摘されている("India a Major Exporter of Killer Chemicals," Interpress Service, 1998.11.11)。一九九八年九月に採択された「有害化学物質及び農薬の国際取引における事前承認制度(Prior Informed Concent(PIC))」、および二〇〇一年五月に調印された「残留性有機汚染物質(POPs)規制条約」が、危険な農薬や有害廃棄物の不公正な輸出(=化学ゴミの押しつけ)を防ぐのに有効な手だてとなることを期待したい。

[*32] Dahal(前掲書[*8]

[*33] たとえば、一九九六年に制定されたアメリカの食品品質保護法FQPAは、食品中の残留農薬や添加物からとくに乳幼児の健康を守ることを眼目のひとつとしている。

[*34] たとえば、フィリピンのバナナ農園における農薬の使用実態について、鶴見良行『バナナと日本人:フィリピン農園と食卓のあいだ』(岩波新書、一九八二年)、アジア諸国について、田坂興亜『アジア輸入食品汚染』(家の光協会、一九九一年)。また女性労働について、Rengam Sarojeni V., "Women and Pesticides in Asia: Campaign for Change," Global Pesticide Campaigner, 4(3), September 1994。ラテンアメリカについて、Douglas L. Murray, Cultivating Crisis: The Human Cost of Pesticides in Latin America, (University of Texas Press, 1994)。

[*35] Sarojeni(前掲論文[*34]

[*36] 国際協力事業団(前掲書[*8])の調査でもほぼ同様の結果である。調査した二一戸の農家のうち一八戸が農薬を使用しているが、普及員から使用法の指導を受けたものは皆無、販売業者から何らかの指導を受けた農家は八戸、防護は表1のようにほとんどマスク=手ぬぐい一枚のみである。

[*37] 因みに、記録に残る歴史上最初のDDTの犠牲者は、西アフリカの一歳七カ月の幼児で、一九四五年八月二二日、DDTの五%溶液一オンスを誤飲し、四時間後に死亡した(K. R. Hill and G. Robinson, "A Fatal Case of D.D.T. Poisoning in a Child," Nature, 156:780-781, 1945)。ただし、直接の死因がDDTの毒性によるものかどうかはなんとも言えない。

[*38] 四〇年ほど前には日本でも、年末の大掃除といえば一日陽に干した畳の下に盛大にDDT粉を撒いたものである。

[*39] 植村振作『農薬毒性辞典』(三省堂、一九八八年)。この"Antidote:atropine"だけが英語(ドイツ語)で書かれているのは何故だろう。中毒の場合の治療法は医者だけがわかればよいということなのだろうか。もっとも主要都市以外の医療機関でアトロピンの在庫がいつでもあるとはとても思えない。因みに、日本でも家庭用殺虫剤は薬事法の医薬部外品であって農薬取締法の対象ではないため、そのラベル表示などに問題があるといわれる。

[*40] Dahal(前掲書[*8])、九三~一〇〇頁の英訳による

[*41] Neupane 氏談。

[*42] Manandhar(前掲報告書[*11])。

[*43] 政府機関よりも環境測定を業務とする外国のコンサルタント会社などに期待せざるをえないだろう。

[*44] "Nepal: Pesticide Misuse Ravages Staple Paddy," Interpress Service, 1998.11.26; "Overuse of Pesticides Damaging the Crop Production", Himo News, 1998.02.17

[*45] 国際協力事業団(前掲書[*8])によると、ネパール政府の援助要請も、尿素肥料四万トン、リン安肥料四万トンを優先順位第一位にあげている一方、農薬は要請していない。もともと農薬の需要はさほど多くはなく、インドなどから合法・非合法に流入するもので需要が満たされていることもあるし、政府も規制が実効性を持たず危険な実態にあることを認識し、IPMの方向を目指そうとしていることなどがあり、事業団も「農薬そのものの協力よりも農家に対する安全使用教育の徹底等への協力が先決と考えられる」と結論している。



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