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平和の文化とアジアの教育
OECD調査とベトナム旅行体験から


伊藤武彦* 和光大学教員


 アジアの学校で経済事情などの理由で教員の地位が低く、よい教師が得難いことは、我々の調査であちこち見聞きした。ところが教育の中身のカナメである教師の質そのものについては、意外に見落とされ後回しとなりがちである。そこで、この問題から入って学校全体の具体的な姿、さらにグローバルな形での学校文化というものについて考えたい。そのための一つの手がかりとして、比較的最近に実施された、ある国際的な教員調査の紹介から始めることとしたい。

1――教員の質とOECD調査

 OECDの教員調査とは
 いま私の手元に『OECD教育改革論――教授と教師の質』[*1]という本がある。OECDといえば「世界経済の発展に寄与」し、「世界貿易の拡大」に尽くす(条約第一条より)国際機構である。一九六〇年発足、原本が書かれた一九九四年現在で加盟国は二三カ国、欧米中心で日本を含む、いわゆる先進国が大部分だ。この機構の一部に一九六八年、「教育研究改革センター」ができ、一九九二〜三年にうち一一カ国の参加によりこの調査は実施された。
 一一カ国それぞれの研究者が、自国が目下力を入れている教育政策を選び、小・中・高等学校数校を実地調査する事例研究で、結果を持ち寄って望ましい教師の質と学校のあり方を議論してまとめた。例えばフィンランドは「教師と生徒の自治」(具体的には教師のカリキュラム自主作成や「生徒が情報を求め、処理し……理解する能力を伸ばすこと……の奨励」など)をテーマに、教員養成大学付属小学校の研究校から教員一〜三名の「田舎の学校」(全学校の六〇%を代表して)までの五校を選んでいる。日本は「新任教員研修」の事例研究として一校が選ばれ、特色は「生徒の父母も祖父母もこの学校の卒業生」とある。

 望ましい教師の条件とは
 調査結果を総合して「教師及び指導の質」一四項が、それぞれ実例をあげて述べてある。いくつかを例示しよう。「子どもを愛せよ」ではイタリアの女教師が「……クラスに入ると温かくあいさつ……生徒と積極的に交わり……難しい子どもに対して接触を図り……援助する。……よくほめてやる。……失敗してもそれから学べる手段だと考えている」。また、スエーデンの小学校教師はこう語る。「もし子どもを好きにならなかったら、何も成就しない……これは難しいことですから、自分を鍛えなければなりません。……子どもを敵だとか脅威と感じてはいけません。相手は子どもでこちらは大人なんです」。
 「グループを効果的に」の項では、ニュージーランドの「小学校の授業参観をした教室で、教師の机が従来のように生徒の前に置かれているのは一つもなかった。……目を光らして全員を監視する管理型はもはや必要ないことを象徴的に示していた」し、オーストラリアの「小学校では生徒に個人個人の目標を決定させ」、そのための教師との「話し合いを計画」していた。また「小グループ指導の目的は、生徒に自分の学習に対して責任を持たせることにある……ことは数カ国の報告からも明らか」であった。
 「多くの指導法と学習の様式をマスターせよ」ではオーストラリアの高校で、「十数種の単元を与えて個々の生徒がその中から六種を選んで……」という「自由裁量の……『縦の時間表』」が実行されていたし、「臨機応変に……」の項には「アメリカの教師が書いた笑い話」が引用されている。彼は「情緒的に問題があるとされた生徒からなって」いるクラスで授業中、「ドアに窓をつける穴を開けるために」来た工事人に入りこまれ、電気鋸の騒音の中でジェスチャーで「文章と句読点」を教え続け、あとで「正式に質問」したら「生徒は立派に覚えていたことが証明された」とある。
 「他の教師と協力せよ」では、「いくつかの教科の教師が協力して」生徒たちの演劇の企画・上演を助けたり、教科書の改訂をしたりした数例が載っている。うまくいったケースばかりでなく、「理科と社会科の教師が環境問題について研究する計画を立てたが、理科の大部分の教師が乗り気でないために、熱意は消え去ろうとしている」例もはっきりと述べてある。
 最後の「社会全体に貢献せよ」では、アメリカの中学校で「移民に関して多民族文化の問題をカリキュラムに位置づけ、移民とのインタビューに基づいて短い話を作成した……。パキスタン出身の少女はラマダンの儀式や見合い結婚について疑問に答え……、ボリビア出身の少年は工芸品を持参してクラスに紹介した。教師の中には自分の移民の先祖について語る者もいた」。「フランスのセミナーも同様の問題を取り上げ」たが、この国の教師は「八〇%の生徒をバカロレアに合格させるという国の委託にこたえる責任があ」り、両立が難しいらしい。
 七〇頁にわたる報告総括の中で日本の引用はただ一カ所、「経験を積んだ教師に主任という名称を与えて、調整と指導の役割をさせている」として、「生徒指導、……各学年の分掌」など業務内容が並べてあるだけだ。「新しい技術を取り入れよ」の項に各国の「コンピューターやほかのデジタル情報技術」導入の現状が集められているが、ここにも言及はない。

 質の高い学校を実現するには
 続く章には、国別研究でかなり共通に見られた政策を、教員志望者の教育、現職教員教育、教師の行動評価、増大する個々の学校の責任、の四項に整理しているが、詳細は略す。
 次はこの本の結論的内容すなわち「質の高い学校」で、個々の教師ではなく学校の望ましい姿を、八つの要因をあげて論じている。簡単に解説しよう。
 (一)「ビジョンと価値」=「教師の質が高く生徒の成績が良い……学校では、先見の明があり力強い協力によって打ち立てられた価値基準がある……ビジョンは教師の動機づけや行動に強い衝撃を与え……校長や政府から与えられるのではなく、意見の衝突や協議から時間をかけて生まれる……ある価値を皆で共有しようという……学校が全体として機能するための指標、枠組みである」。
 (二)「指導と学習の組織化」=「高レベルの資質を擁する学校を……選ぶと、一方にビジョンと価値、他方に指導と学習の組織化があって、それらが明らかに関連を持っている」。「組織化に関して四つの点」は、「官僚の便宜主義でなく価値に基づく、学校レベルでの生徒の学習の組織化、協力を可能にする教師の仕事の組織化、評価とカリキュラム展開の形」である。
 (三)「管理体制」とは「組織の構成員が……目的を実現するのを援助するため……の学校の組織」で、「全員の行動を引き出す枠組み……役割と責任がお互いに明確……各人が自分の役割が楽しく報われていると感ずる」の三条件が必須である。
 (四)「政策立案過程」には面白いことが書いてある。「事例研究校の際だった特色の一つは国家又は地方の政策に積極的に反応した学校はたとえあるとしても少ないことで……。『理想的な学校のタイプ』とは、典型的に外部からの政策によって作られたものとは好対照をなすものである」と述べられている。
 (五)「リーダーシップ」=「研究対象の学校にはほとんど例外なしに教育的指導力のある校長がいた」が、個々の教師が「リーダーシップを発揮するような機会を作ることは学校が質の高い教師を生む重要な条件」であり、そうした「仕事をなしとげた例」は「学校が冒険を許す柔軟性があったから」である。
 (六)「教員の向上」=現職教員の啓発のための研修は必要なことであるが、「あまりにも官僚的な指導を強めることはかえって望ましくない結果を生む」のであり、教員資質の「長期にわたる発展向上事業」の展望にたち、「教師が自発的に教育的考えを大切にし、……同僚と協力するという信頼関係を樹立する必要がある」のである。
 (七)「地域社会との関係」=「地域との連携が強ければその学校は教師の質も高い」のは「事例研究から自明の理」で、「学校支援の奉仕作業……資金集め……カリキュラム決定に父母が参加することもあっ」たり、「村の議長は少なくとも週一度は訪れていた」りで、「ええ、学校がこの小さな村をまとめている」と、ある生徒の母は語っている。
 (八)しめくくりは「学校の文化」である。「それは実体があるというものではない」が、望ましい学校文化は、「学校教育の背景をなすすべての状況が正しければ進化するもので……重要な要素は冒険を冒すことと共同実験を奨励すること……学校全体に創造性と柔軟性が底流にあることによって、教師の幅広い協力が行われるところに花開くのである」。「問題なのは学校の精神である。人間として認められた子どもがその考えの中心にあることである」。官僚的な雰囲気にはそぐわないのである。
 終章は「教師の資質の根源」として「個々の教師(の動機と能力)、個々の学校(良い指導を支援し教師間で協力できる基盤)と外部の政策・環境(教育政策は、大衆の支持、補助的政策のオプション、進歩の状況のモニター、教員評価組織、教員教育、情報組織等が必要)」の三者の調和が重要、とまとめている。

 この調査報告から読み取る三つの意味
 経済協力のための組織であるOECDがなぜこういう教育領域の研究を、それも単なる評論や提案ではなく、時間と資金を投入して国際的事例研究をやったのか。残念ながら、本書からは、はっきり読み取ることはできなかった。前述した条約第一条の二項に、加盟国だけでなく「非加盟諸国の健全な経済の拡大に貢献する」とあるから、経済協力の見返りに政治・社会諸面の政策改善を迫る際の参考かもしれないし、もしそうなら政経・社会面だけでなく、教育面でも新植民地化につながる、という見方も可能かもしれない。しかし少なくともこの報告書の限りでは、そんな底意は感じられず、現代の学校と教師の実状を広域で解明し真剣に考えようという意図の方が見られる。ここはむしろ素直にその積極面から、その提言を受け止めることにしよう。
 残念なのはこの調査では、丹念な事例収集と検討・総合のすべてが欧米中心のいわゆる先進国に偏って、アジアは日本一国だけである。したがって、その限定の下に見なくてはならず、本書の全体テーマである『アジアの教育』の意図に沿わない、ということだ。にもかかわらずなぜ長々と、このデータを紹介したかというと、主として以下の理由からである。
 (1)国際的教育調査の面白さ
 第一は、教育状況の国際調査を制度や就学率等の明示的な事柄でなく、教師と教師を中心とする学校のあり方に絞り、しかも関係データの万遍ない収集でないことに、注目したことである。一一カ国の研究者がそれぞれ自国最新の教育政策を選んで、その参考になりそうな対象校を社会的地理的条件を考え合わせて選び、直接出向いて観察、聴き取り、記録するという方法は、これまで一般的だったとはいえない。個人の内面にも入るためとらえにくかった教師の問題に、教育政策の側面から多彩な光をあて、評論でなく事実に基づいて比較検討し、共通の問題を浮かびあがらせようとしている。あまり例のないおもしろい調査であると思う。その結果として終章にあったように、教師・学校・外部政策の三者の関わりがある程度の説得性をもって抽出できたといえる。もちろんこれで教師や学校の現状とあるべき姿が、すべて解明されたわけではない。先進国しかも一一カ国という偏り以外にも、調査を実施した研究者たちの主観が二重、三重に入る可能性がある。しかし政府公開の統計(その正確度も保証し難いことが多い)と個人の体験的主観的評論に頼りがちだった学校の姿と教師の像を、新しい角度から照らし出す一助にはなる、と思った。
 (2)学校文化の重要さへの着眼
 第二の意味は、この共同研究が事実を集めて組み立てた結論部分にある。個々の教師の資質と学校の方針、そして背景としての政策・環境の三者が調和するところに、学校教育の質の向上のポイントがある。個々の教師は、いくら「優秀な人物を採用」(教員養成政策の第一項)したとしても一人ひとりはさまざまで、常に変化するものだ。三番目の教育政策は、その部分の記述で明言されていたように「よい学校ほど国や地方の政策を意識していない。むしろ仕事をする上で障害になると感じている」のである。つまり個々の教師の資質がのびのびと本領発揮でき、教師相互の理解・協力が成り立ち、彼らと校長たちのリーダーシップがうまくかみ合って機能すると、その学校特有の雰囲気とか慣習、全体として前向きの勢いのようなものが出来上がる。
 これが、「実体としては無い」目に見えない「学校文化」である。この空気の中で学校本来の仕事である生徒たちとの関係が同じように開放的・協力的となり、彼らもまた「自分に自信を持って」のびのび発言し行動できる、「人間として認められた子ども」になるのだ。直観に基づく評論も有用だろうが、実地調査を複数国でやって初めて、「実体として無い」ものの実在をつきとめ得たのだ。
 そして地球上のすべての国や地域に、たとえ三年・四年でも義務教育制度と、粗末だろうと学校が在るようになった現在(もちろん不就学や中退を減らす不断の努力を背景にしてだが)、日々パーセントを増やしつつある諸地域の「学校」は、やがて子どもたちが成人し社会を形づくる中心となる基礎の「苗床」である(「セミナー」という言葉は苗床という意味に由来する)。この苗床が適温・適湿で小さな種を守り育て、教員自身も育てられるような「文化」を持つなら、たとえ校舎がなく教科書が一人一冊なくても、子どもたちはその中で各自の持てるものを最大限まで伸ばすことができるだろう。「教育」は教員が喋ることや校舎・教具等の具体物ではなく、それらから発してまじり合い高まるエネルギーのようなもので、一人ひとりの人生を大切にし合う苗床としての「文化」なのだ。
 このことと関連して思い至るのは、「平和」のためには、核の惨禍を語りつぐことや国家間や民族間の紛争の平和的解決をはかるしくみなどはもちろん重要なのだが、より基本的に、力による勝利に価値をおく、これまでの「暴力の文化」から、日常的な個々人の意識と行動の中で平和と非暴力を貫く「平和の文化」への移行がユネスコや国連などをはじめとして、国際社会で提起されているということである。一人ひとりの生き方、日々の前向きの行動こそが大事という「平和の文化」に到達して、二一世紀を迎えたのである。これについては、改めて詳述しよう。
 (3)アジアの教師と学校
 第三の意味は、いよいよ本題である「アジアの教育」との関わりである。この本の最初の石原の総括文通り、われわれのグループが訪問したアジア五カ国で、良い教師は教育向上のカギの一つと一貫して認められ、養成制度の改善がそれぞれに進められながら、低い給料と社会的地位のため高収入の職業に「優秀な人材」を奪われ放しで、他の途上国にも同様の状況が推察できた。
 もしOECD調査報告が示したように、教師の成長と子どもの発達が「学校文化」によること大ならば、また、そういう結果が先進国特有でなく学校一般のものならば、政府の政策要請に集中したり教員の給料を上げることで問題は解決するのではなく、より日常的な人間関係を初め未来へのビジョン、分け持つリーダーシップ等々の現実的持続的な開発が、並行して必要となる。教師・生徒共に、「自分が愛され認められているという自信」「仲間と共に成長できる喜び」が第一の価値であるような学校づくりだ。途上国の特に農漁山村では、もし素朴な人情や人間関係が残存しているなら、近代化をバイパスして移行する可能性もあるかもしれない。
 残念ながらアジアの学校の現状について、制度や統計でなくこうした面にふみこんで体系的に調査研究した例を知らないし、まして複数国にわたる統一比較検討例は見当たらない。わずかに学校を舞台にした文学作品の類が、間接的に学校の様子を、したがって学校文化の一面を描写している。日本でいえば田山花袋の『田舎教師』、島崎藤村の『破戒』、漱石の『坊っちゃん』もその一つだし、戦後は石坂洋次郎の『青い山脈』や石川達三の『人間の壁』が、敗戦による解放期や学テ・勤評等で再び暗くなった学校現場をそれぞれ生き生きと描き出した。黒柳徹子の『窓ぎわのトットちゃん』は戦争末期の特異な小学校の実話であり、石原の総括文にある通り、ラオス語に翻訳されて、わがチームの「アジアとの交流活動」を促進する作品となった。
 タイの農村の小学校を舞台にした小説を、二、三読んだことがある。代表的なのは『田舎の教師』[*2]で、タイ南東ウボン県の小さな村の小学校にバンコク師範を出て赴任した青年教師ピアの一年間の物語である。四年生までの小さな学校でピアは三、四年を受け持ち、朝は始業前に歌や物語、ゲームをやって子どもたちは学校を好きになる。前任者が建てかけて去った小屋を改修して一人で住み、周囲に菜園を耕し肥料の溜を作って生徒たちとトマトやスイカ、果樹を植え、売った金で鶏を飼った。ところが校長は一年生担任を兼ねるが酒にバクチで学校は休みがち、もう一人の同僚は村娘を追い回すダメ教師ぶりで、「学校の文化」どころではない。郡の課長など小役人がいばり返り、村のボスは無茶の限りを尽くす。結末は、村一番の資本家である華僑の製材業者が違法の伐採をする現場を見たピアが、正義感から写真にとり新聞に告発したことから村を追われ、だまされて小学校へ戻る途中を撃たれて死ぬ、という悲劇で終わっている。
 もう一冊は『農村開発顛末記――タイ国農民小説選(二)』[*3]で、短編のうちいくつかが小学校を扱っている。都会から赴任した教師が、貧しい農村の子らが魚の釣れる場所など自ら食べ生きる術を知って行動するたくましさに打たれ、自分が教えるものはない、と次第に農民の一人になっていく経過を描いたもの、教師が月給をもらいに郡役所まで行き、往復七日学校を留守にする話などが、著者の教師体験に根ざして、おそらく実状通りの迫力で書かれていた。
 これらは一九八〇年前後の作品で、現代の学校では様変わりしていることであろう。今ではわれわれも見た通りアジア各地で近代化が進み、主に都会での調査だが子どもたちは生き生きとこちらの問いに答えたし、自分の将来に夢も持っていた。その反面で日本同様に、近代化に伴う競争や資格・立身のための勉強が増して、人間として認められる自信や共に伸びる喜びは保障され難くなりつつあるようだ。
 日本の現実はその先頭を走る惨状と言ってもよく、点数で格付けされて自信を失い、弱者を虐げることで埋め合わせる「負の学校文化」が一般化しているようだ。してみるとOECD調査で日本の学校が一校きり、しかもさくら小学校という架空めいた校名で、主任制などむしろ抑圧的な事例のみが引用されているのは、偶然ではないかもしれない、と思えてくる。

2――学校文化と平和の文化

 実は、ここから先が本題なのである。いま私の手元に『暴力の文化から平和の文化へ――二一世紀への国連・ユネスコ提言』[*4]というブックレットがある。私も関わっている「平和の文化をきずく会」[*5]の編集で二〇〇〇年五月初版である。関連政府機関の不熱心もあり、日本国内の人びとに十分知れ渡っているとは言い難いが、二〇〇〇年は、国連総会が定めた「平和の文化国際年」であり、続く二〇〇一年から二〇一〇年は、「世界の子どもたちのための平和と非暴力の文化国際一〇年」なのである。これを広め実現する活動をユネスコ[*6](本部パリ)が引き受け、各国のユネスコをはじめ諸機関が具体的な行動を計画し実行することになっている。「平和の文化をきずく会」は日本独自に結成された自発的な民間人・市民の集まりであり、日本のユネスコ協会連盟[*7]とも協力しながら、活動を進めている。

 平和の文化とは
 このブックレットのトップに、後にノーベル平和賞を受賞したコフィ・アナン国連事務総長のメッセージがある。「国際連合の主要な任務である『戦争の惨禍から次の世代を守る』ことは……紛争、暴力、憎悪そして貧欲によって妨害され続けてきました」と書き出し、「何年もの間をかけて我々は、戦っている勢力を平和維持軍によって分離するだけでは……紛争によって荒廃した後で平和構築に努力するだけでは……・予防外交を行うだけでは……」と三項重ねて、「いずれも十分ではないことがわかった」としている。したがって「永続性ある平和のためには、我々はもっと深いレベルでも行動しなければなりません。すなわち、平和の文化が必要なのです」。これは、ユネスコ憲章に「戦争は人の心のなかで生まれるものであるから、人の心のなかに平和のとりでを築かなければならない」とあることの実現である。
 続く頁には、国連総会決議「平和の文化に関する宣言」、「同行動計画」(いずれも一九九九年九月一三日、平和の文化をきずく会訳)の全文がある。「宣言」の第一条は、「平和の文化とは、次に掲げるような価値観・態度・行動の伝統や様式、あるいは生き方のひとまとまりのものである」として、生命の尊重、人権の尊重と促進、両性の平等、表現・情報の自由、開発・発展とともに環境を守る、文化的多様性と相互理解、などが列記されている。これら「平和の文化」は「個人、グループ、諸国民のなかで平和の促進に貢献していく価値観・態度・行動様式と生き方を通じて……発達し続けていく(第二条)」ものであり、とりわけ「あらゆるレベルの教育は、平和の文化を建設する主要な手段の一つである(第四条)」。
 「平和の文化に関する行動計画」の方はさらに、詳細具体的に、子どもたちに「早い時期から、あらゆる争いを、人間の尊厳を尊重するような精神、寛容と非差別の精神をもって平和的に解決すること」を学ばせ、「すべての人に教育を、女性とくに少女たちの教育への機会均等を保障することなど」を定めている。

 平和の文化を中心とした学校文化の重要性
 これまでに述べてきたOECD調査とその到達点とをここで振り返ると、かなり限界のあることがわかってくる。「指導力ある校長」の下に教員たちが各々「リーダーシップを発揮する質の高い人々」であること、「生徒の学習の組織化」等々はもちろん必要であり、「学校全体に創造性と柔軟性」があって、「人間として認められた子どもが中心にいる」ことも重要である。しかし、これらは、なお容れ物としての学校であり、いわば子どもの楽園づくりの域を出ていないといえよう。極言すれば、優れた校長、教員集団が一丸となって、わが校が他校をはるかに越える、さらに言えばその国が他民族にまさる力を持って彼らをリードし支配する方向に進むことも、あり得るのである。
 前述した通り、地球上のどんな奥地、貧しい国でも、小学校とたとえ数年でも義務教育制度を持たない所はなくなったといえよう。自国民だけでなく、すべての人の生命と人権を尊重し、異文化を認めて相互理解する態度・行動を養う機会は、その意味でかろうじて保障されつつある。「実態としては無い」学校文化は、その基礎にこうした人類共通の価値へのめざめを共通の目標として持つべきである。「平和の文化行動計画」には、先に引用した教育のことと並んで、「持続的な経済および社会的発展を促進する行動」、たとえば発展途上国の債務の扱いや開発援助などが具体的に書かれているが、それらが、ヒューマニスティックな平等観に裏打ちされていなかったら、やはり優越・支配と不満・反逆への道を閉ざすことはできないであろう。学校は、そこで学ぶ子どもたちにとってのみ有益・快適なだけでなく、同時に全世界の子どもにひらかれ、その未来に向かう視野を持たなければならない。
 そのための具体的な方策を考えてみたい。子どもたちは学校で文字や数をはじめ、自然・社会・歴史等々を学ぶ。それと並行して、困ったことにぶつかったとき、力や話のうまさだけでなく、平和的な解決をする体験を積む必要がある。そのような事態は日常多く起こりうるので、チャンスを逃さず適切な指導をし、やがて自主的に実践できるようにしてやることが大切であろう。ゲーム感覚で楽しい話を通して学ばせる方法もある(たとえば、『平和的手段による紛争の転換』[*8]に載っている「十七頭のらくだのお話」は適切である)。
 異民族の子どもと接する機会は貴重・重要であるが、もしそのような機会が得にくいようであれば、ビデオやテレビ視聴でもよく、ただし考えるポイントの適切な示唆は欠かせないであろう。週休二日制などでそうした行事的機会は減りがちなので工夫が必要であろうし、学力低下を憂える声も高まっているが、真の学力とは何かを改めて考えるチャンスといえよう。数学得点の国際的順位を気にする大人たちの視線は、やはり自民族の優越に集まる事実を自省させる。競争でなく、共存の考え方を次世代に養う手だては、決して容易ではないが、やはり学校の場が随一であろう。
 二〇世紀は、戦争の世紀であった。二度の大戦、核の惨禍を経ても、人類はなかなか賢くならない。国連が平和維持軍の限界を体験で知って「人の心」にも重点をおいたのは、まことに的確な気づきであるといえよう。しかし国連の号令で、すべての事が成るわけではない。一人一人の納得が必要であり、子どもたちの柔らかな心に寄り添う教師たちの寄与とこれからの責任は大きい。
 幸いに暴力や詐術による解決ではなく、非暴力という至難な方法をあえて実行してやり遂げた偉人を、同じ戦争の世紀に我々は持っている。今更いうまでもないが、インドの独立を武力で英軍に立ち向かうのではなく、大衆の行動でかちとったガンジーがいるし、アメリカ社会の根強い人種差別に武器を取ってでなく、バスに乗らないという黒人たちの統一行動で対決し改善させたキング牧師がいる。ヒトラーの非道を宣戦ではなく、床屋のそっくりさんを創造することで世界に納得させたチャプリンがいる。日本に近いアジアでいえば、第二次大戦後に植民地化された悲劇の国チベットで、民衆の当然な独立への悲願を武装蜂起でなく、国連や諸国の人権機関に訴え続けて四十余年、ノーベル平和賞を受けたダライ・ラマがいる。こうした人びとのことを、大政治家の事績や国威発揚の英雄たち以上に、子どもたちに知らせなくてはならない[*9]

3――平和の文化は世紀を越え国を越える

 次は少し話を戻してもう一度、日本を含むアジアの小学校の実体と、そこでの教員の姿に目を向けよう。その上でごく最近、つまり二一世紀初頭での経験と情勢に視点を移して締めくくりとしたい。

 時は明治、東北地方のある尋常高等小学校
 いま私の前に「雲は天才である」と題した短篇小説がある。著者は石川啄木、『一握の砂』などの歌集で知られるが、二六年の短い生涯に小説を一五篇書いていて、これは一九〇六年の処女作である。生前公表はされなかったが、当時彼は故郷の渋民村で小学校の代用教員をしており、この作品の舞台は「S―村の小学校」だから、自伝的色彩が極めて濃いものとして研究者や読者に尊重されてきた。少なくとも、当時の学校の雰囲気とともに、そこでの彼の考え方や行動を知る好材料なのである。
 教員は全部で四人で、啄木自身に違いない二一歳の青年代用教員が月給八円の末席で、権威主義の権化のような校長と、その従者のような教頭、そして「やや思慮が有過ぎる」傾向のためにめったに発言しない若い女教師である。小説は放課後の職員室で、校長が代用教員(以下、啄木と呼んでしまおう)に、上に断りなく、自分で作詞作曲した歌を生徒に教え、たちまち広まって校歌のようにみんなが愛唱していることへの叱責を始めるシーンで幕を開ける。啄木は尋常二年の受け持ちだが、進んで高等科生五〇余人に英語と外国史を教え(キリスト、ルソー、トルストイなどの名前が出てくる)、生徒の人気もあるため平生からにらまれていることの続きである。生徒に歌わせる歌は「校長が認定して……郡視学に届ける」べきなのに順序をふまなかった、「校長を屁とも思っておらぬ」との叱責・非難だ。啄木はさりげなく「代用教員は教室以外にていっさい生徒に教ふべからず……の細目とかがありますか」と法理で切り返し、歌を教えたのは自宅に遊びに来た三人だけだし、と申し開きをする。おりから様子を察知したらしい高等科生たちが、隊を組み「勇ましい歩調で」、その歌を歌いながら、職員室をめがけて、今でいえばデモ行進でやってくるというシーンである。
 その歌はというと「春まだ浅く月若き/生命(いのち)の森の夜の香に/……」に始まり、「『自主』の剣を右手(めて)にもち/左手(ゆんで)にかざす『愛』の旗/『自由』の駒にまたがりて/進む理想の路すがら……」という、当時では「危険思想」に近い、かなり長い歌である。
 続いて、啄木を訪ねて乞食のような身なりの片目の男が来た、と小使(用務員)がその男の持参した紹介状を持って現れる。手紙を開くと、この学校出身で八戸で教員をしている先輩(この人も校長を言い負かして免職されたことがあとで判明するのだが)からで、たちまち校長と教頭が「学校の職員室へ乞食なんぞを」「貴君一人の学校ではありませんよ、代用のくせに」と叫ぶなかで、彼は「お通し申せ」と一喝し、未知の客と会う。八戸の中学校で新聞配達などをしながら苦学する青年で、静岡に住む父の死を知ったが所持金がわずか六銭五厘しかなく、乞食しながら郷里に向かう途中であった。先輩の教員も話を聞いて全財産を売っても汽車賃をつくると言ってくれたが、自分は辞退した、と泣いて述べるのである。
 一九〇六(明治三九)年は日露戦争直後で、軍歌や戦勝が賛美されるなかで「生命、自由、愛」を高らかに歌いあげること、障害者や貧困者への共感と連帯を表明することは、まさに「平和の文化」そのものである。一校に教員四人の小学校は、前に記したタイのウボン県での田舎の学校教師三人を彷彿とさせ、校長他のダメ教師ぶり、郡の小役人の権威主義もよく似ている。ピアは始業前の歌やお話、生徒とともに耕し野菜を育てるなどの教育活動をした。時は隔てられていても、アジアの二つの地域で、小説というフィクションの世界ではあれ、困難な状況のなかで「平和の文化」を実践した先駆者たちの姿を、今読むことができる。しかし前述したとおり、ピアは社会的不正を見過ごすことができず告発して命を落とし、啄木自身は生徒のストライキを扇動したとしてクビになり、後には大逆事件裁判につよく関心を持つなど、鋭い批判の精神を抱きながら肺結核で世を去った。
 高等科生徒は、今でいえば中学生の年齢であろう。啄木から一世紀近くたち、二〇〇〇年代に入った今、日本の中学生・高校生たちは「世界の子どもの平和像」を建てるために、募金活動とデザイン公募などの活動に参加している。また、文化祭に環境・人権・平和をテーマとした展示をおこなった中学生たちや、複数校からの参加でミュージカル「アイラブ・憲法」に取り組んだ例などが、平和の文化をきずく会編集の『脱暴力宣言』[*10]に紹介されている。教師とともに生徒が「平和の文化」の道を歩む姿をみると心強い。しかし、「校長の認定、順序をふむ」などの規制や圧力が一世紀近くたっても無くなっていない事実も、一方ではふまえる必要がある。
 国連決議が「平和の文化」を推進し、特にその第一項目で「教育を通じて平和の文化を育てる活動」を提起していることは、こうした子どもたちの意識と行動にとって有力な支えとなるに違いない。そして、「教師の質」が平和の文化との関わりのなかで深く問われている。

 ベトナムとアフガニスタンのこと
 二〇〇一年末の一週間ほどを、縁あってベトナムで過ごすことができた。これも今更いうまでもないが、ベトナムは前世紀以来フランスの植民地にされ、第二次大戦では日本軍の占領で苦しめられ、その後もフランス、さらに最強国アメリカと長年戦って、とうとう完全独立を勝ち取った稀な国である。我々の「アジアの教育」研究チームは、ラオス、カンボジアを訪問調査し、その前後の年にはタイとシンガポールにも行ったが、ベトナムは東南アジアで訪れ損ねていた国の一つであった。
 南のホーチミン市(旧サイゴン市)と北の首都ハノイ市で戦争証跡博物館、革命記念館などに行って、枯れ葉剤の被害を受けたたくさんの子どもたち、虐殺・拷問されたベトナムの人びとの写真を見、夫も子もすべて失った女性が何万人もいることも知った。彼らが独立を勝ち取ったのは、もちろん非暴力によってではない。しかし、亜熱帯のジャングルに全長二五〇キロメートル、人が屈んでやっと歩ける三層の地下道を人力で掘り抜いて、巧妙なゲリラ活動をし、「ベトコンはどこにもいないが至る所にいる」とアメリカの巨漢の兵士たちを嘆かせ、とうとう戦意を失わせるに至ったのである。我々も一部を見学したが、敵が地下道の入り口を見つけて入ってきた場合に備えて、鉄針を植えた落とし穴が掘ってあるのは見ものとさえいえるものであった。
 南北ベトナムを分けた一七度線に近いかつての激戦地であり、最後の王朝の都でもあったフエ市で、保育園から大学まで各段階の学校を訪問して、教師たちと懇談し授業を参観し、子どもたち・学生たちと接することができた。都合で小学校を訪問することはできなかったことが残念であるが、おおむね研究方向に沿った調査活動ができたのは幸いであった。
 ほとんど全土が破壊され、不毛の荒れ地となってから四半世紀余り、家々が建ち街がよみがえったことと伴うように、子どもたちは生き生きと学び遊んでいた。幼稚園の建物は粗末で一クラス四〇人の多さだが(教諭は二、三人ついていた)、狭い園庭いっぱい活発に遊び回り、昼食となると、机数脚を集めたテーブルにおとなしくついてベトナム特有の麺を食べ、終わるとめいめいが食器と椅子を所定の場所に置きにいく。ある部屋では、積み木ブロックに集中して何やら大きな物を共同製作し、別の部屋では子どもたちの明るい絵とベトナム風ザルに顔を描いた工作品が壁を埋めていた。園長は女性で、当方の問いに対して「国の未来と同様に子どもたちが明るく育つことが私たちの願いです」と希望に満ちて答えていたのが印象的であった。
 中学校では、英語の授業を参観したが、「都会と田舎の暮らし」がテーマで、若い女教師の次々英語で出す質問に活発に挙手して英語で答え、「ベリーグッド」と認められると実にうれしそうであった。授業の締めくくりは、「私が大統領だったら」という出題で、一〇人ずつ四グループの共同作業だった。話し合いはベトナム語だが、大きな紙に次々書かれるのは英文で、「美しい公園をつくる」、「子どものための野球場をつくる」など夢と希望がいっぱいの項目がたくさん並び、やがて四枚を黒板に貼って大声で読み上げ合った。教科書は国定だが、常に内容を新しくし、教え方も研修で改善・研究を怠らないそうである。
 フエ大学教育学部では、夜間の日本語初級クラスで昼間働く二〇代中心の男女が、薄いテキストを手に、たどたどしいが懸命に日本語を話した。日本人と話したのは初めてだそうで、彼らの学習上思わぬ貢献ができたらしい。さらに楽しかったのは、教育学部で英語科教員養成課程の五〇人ほどのクラスと自由な対話を一時間近くやれたことだった。来年秋には巣立つ四年生で、女子学生が多く、好奇心で輝く目をして活発に質問し、よく笑った。「絶対に教師になりたい人」と聞くと、八割以上が元気よく手を挙げた。「他の希望は?」の問いには、ある男子学生が「ビジネス関係をやりたい」と、もう一人は僧侶になる予定とのことだった。
 子ども・青年たちの前向きな明るさは、この国の勢いを映す鏡のようだ。しかし、南北統一、独立以降の歩みは決して平坦ではなかった。北の解放戦線と南の傀儡政権に属する南ベトナム軍とが、同胞同士、相戦ったことの後遺症は簡単に癒えるものではないのだろう。南の大統領府に紅い国旗がひるがえった後、南に属していた人びとのかなり多くは、新体制を恐れて国外脱出し、ボートピープルとして困難の道をたどったし、実際に北軍の報復的な行動もあったという。やがて隣国のカンボジア問題にも派兵したし、中国からは「懲罰」として国境の北から兵が押し寄せ、戦闘するなどと、南北統一以降も多難な道を歩んできた。それらがおさまり、一九八六年のドイモイ(新思考、ベトナム式改革・開放・市場経済への移行)で、国内や隣国諸国との間にも平和が訪れ前進の確かな方向がつかめてきたところだ。それが学校の雰囲気や子どもたちの明るさに表れているのだろう。ここ七年間で都会にビルが建ち、道路が整備され情景は一変したと、同行者の一人が語った。
 二〇〇一年の秋、かつてのベトナムにおこなったようにアメリカは、アフガニスタンを空爆し地上戦にも兵を展開している。かつての共産主義国を封じ込める「ドミノ理論」に替わって「テロ撲滅」が旗印だが、これが報復攻撃であることは誰の目にも明らかである。アメリカ人の大多数が支持し、国内では星条旗や細菌戦防衛グッズが大売れだという。当面の相手タリバンが無力化したのち、アフガン国内のいくつも民族の代表者が民族的な優越・利益を求めて暴力的に支配するのではなく、新しい共存共栄の世界を構築してもらいたいものである。
 平和の文化が学校に地域にさらに世界へと広がり力を増すには、まだ日が遠く多くの課題がある。だからといって希望を捨ててはならない。一人一人の決意と具体的な生き方が、子どもたちの未来を明るくするともしびとなり、そしてそうした人びとの連帯により、小さな火から、やがては太陽のように明るく温かく大きな光になることをめざしていきたい。



*いとう・たけひこ
心理学・教育心理学の立場から国連・ユネスコの平和の文化の提起に応え、研究と教育を行なっている。好きな動物はボノボ(ピグミー・チンパンジー)。ホームページはhttp://www.wako.ac.jp/~itot/

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[*1] 佃和朋・木村憲太郎共訳『OECD教育改革論――教授と教師の質』学芸図書、一九九八年。

[*2] カムマーン・コンカイ著、宮田竹二郎訳『田舎の教師』井村文化事業社、一九八〇年。

[*3] ニミット・プーミタウオン著、野中耕一編訳『農村開発顛末記――タイ国農民小説選(二)』井村文化事業社、一九八三年

[*4] 平和の文化をきずく会編『暴力の文化から平和の文化へ――二一世紀への国連・ユネスコ提言』平和文化、二〇〇〇年。

[*5] http://homepage2.nifty.com/peacecom/cop/

[*6] http://www.unesco.org/ または http://mirror-japan.unesco.org/

[*7] http://www.unesco.or.jp/

[*8] ヨハン・ガルトゥング著、伊藤武彦編・奥本京子訳『平和的手段による紛争の転換』平和文化、二〇〇〇年。筆者は平和的な紛争解決の手段としてトランセンド法が有効と考えている。次のホームページ参照。http://www.transcendjapan.org/ または http://www.wako.ac.jp/~itot/tran/

[*9] 杉田明宏「平和のロールモデル論」心理科学研究会『平和を創る心理学』ナカニシヤ出版、二〇〇一年発行、は平和のためにたたかった人を「役割モデル」として生徒に伝えていくことを提唱している。

[*10] 平和の文化をきずく会編『脱暴力宣言――「世界の子どもたちのための平和と非暴力の文化国際十年」にむけて』平和文化、二〇〇一年。


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