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パプアニューギニアの教育
学校はこの国の人びとに幸せを保障するか

奥平康照* 和光大学教員

――予備知識

 私たちは一九九八年三月この国を訪問調査した。そのときの調査紀行は石原静子がまとめて、報告冊子になっているし、ホームページにも掲載されている。その訪問時に、国立研究所でガイ氏[*1]から、パプアニューギニアの教育についてレクチャーを受けた。その内容の概要は前記冊子に記されている。その時得た資料の中で、ガイ氏が中心になって行なわれた調査研究『パプアニューギニアの教育と生活――五村調査報告』[*2]は興味深いものだし、貴重な研究である。表題の示すように、パプアニューギニアの五つの村の教育と生活実態を面接質問などをして調査したケース・スタディである。五つの村は、首都に近い村、高地の僻村など、条件の違う村々である。それを読むと、学校と教育に対する人びとの関わり方と気分がとてもよく分かる。その調査報告をもとにして、私たちが現地で見て経験した教育の実態を総合的に理解するように試みてみたい。
表1 パプア・ニューギニアの主要社会開発指標  まずパプアニューギニア学校制度の概況。この国では義務教育制度はない。一九九五年までの学校制度は次のようになっていた。

 各学校階梯の終わりごとにナショナル・テストがあり、それが上級学校への選抜試験でもある。そうして次々と選抜されて、最後の第一二学年を卒業するものは、第一学年に入学した者の二%に過ぎなかった。一二年目の卒業者が少ないのは、もちろん選抜試験によってだけではない。六年を終わってたくさんの子どもがやめていくことは、充分予想できることだが、一年生から二年生に移るところで退学する割合が特に高いと報告書は述べている。
 日本の外務省各国情報によると、一九九五年の成人非識字率は二八%である[表1]
 そうした状態を改善しようと一九九六年から始まったのが新しい学校制度である。新学校制度体系は、
図1 改革後の新学校体系 であり、それぞれに基礎学校、初等学校、中等学校が対応する[図1]
 基礎教育は一年間の準備学級と二年間の初等基礎教育であり、小さい子でも歩いて通えるように各村内に設置され、地域の責任で運営され、授業は地域母語(第一言語)で行なわれる。基礎教育=基礎学校に「ナショナル」とつけたのは、この部分をやがて義務教育にする予定なのか、またこの部分の授業料を国費にする予定なのか。しかし他方でこの「基礎学校」は、従来の「地域学校」(community school)よりも、スタッフの任命などについて村の権限の下に置かれることになると、村びとたちは期待しているようである。先に挙げた五村研究の中では、こんなことが言われている。メギアール村の親たちは、この村に一九九七年から導入される基礎学校なら、村から教員を採用できるから、従来からの村の文化を子どもたちに伝えてもらえるにちがいない、と期待している[*3]。基礎学校は「ナショナル」であると同時に、一層地域的な学校であるということになる。
 従来の地域学校を八学年まで延長したのは、いままで六学年終了後、ハイスクールは遠くて、地域学校は六年までしかないから、七学年に進めなかった状態を改善するためである。
 また、多くのハイスクールは七〜八学年をジュニア・ハイスクールとして存続させる予定。一部少数の州立ハイスクールが九〜一二学年までの中等教育学校となる。従来の制度では一一、一二学年の教育は五校の国立高校でしか受けることができなかったが、新制度では、そこが広がる。結局ハイスクールは、州立のジュニア・ハイスクールと一二学年まである州立ハイスクールと国立ハイスクールの三類型(正確には通信教育も入れて四類型)になる。
 一九九六年時点で一九州中一一州が新制度を導入し始め、残りの州は九七年に改革をはじめる予定である。

――食べていくには困らない村の環境

 石原報告にあるように、パプアニューギニアではどこへ行っても、男たちがのんびりとゆうゆうと過ごしている。毎日が日曜日という風景である。農業にしても、漁業にしても、必要以上に働いて金を蓄えようという習慣がない、とはウェワク在住の川畑氏の解説であった。
 ところが一方、私たちが訪問したゴロカの小学校の子どもたちは、学校大好き、勉強も好きで、大きくなったらなにになりたい?、と六年生に訊いたら、男の子は「科学者、先生、法律家、ゼネラリスト、医者、警官」などなど、女の子は「看護婦、先生」など。そして「大学にすすみたい?」の問に、一斉に「イエス」。
 この図はどのように読めばいいのか。大人たちは伝統的慣習のつづきの中で生活しているが、子どもたちは新しい生き方に向かって歩みはじめている、と言っていいのだろうか。
図2 調査対象になった5村の位置  私たちが訪問した地域は都市とその周辺であったから、上の観察は都市地域でのことである。しかしそれは都市地域とかぎらず、かなりの地域で共通している現象のようである。
 ところで、ガイ氏らの教育・生活実態調査の対象になった五村は次のような村である。いずれも大都市内の地域ではない。

 私たちの経済観念と基準からすれば、どこの村も貧しいが、その中でも、年収六八〇〇キナから三七〇キナまで、十数倍もの開きがある多様な村が調査対象になっている。一キナは、九六年の年平均為替レートでは、〇・七五八八米ドルであるから、最高のパリ村でも家族の年平均収入は、五一六〇ドル(約六〇万円)、最低のカワ村は二八〇米ドル(約三万四〇〇〇円)である。
 学校の授業料は公立学校であっても、地域によって違う[表2]
表2 各村の学校の授業料  表3 在学年数、両親と子どもの比較  パプアニューギニア全体の一人当たり年収平均は八〇〇キナである[*4]。それからすると、パリ村の七、八学年の授業料五〇〇キナはベラボーに高い。しかしパリ村は首都地区にあって、現金収入が得やすい村である。ポート・モレスビーに近いから、男が魚をとって、女がそれを市場に持っていって売れば、金になる。ある老人の言によれば、魚を捕ってコキやキラキラの市場にもって行けば、一日五〇から八〇キナくらいの儲けになる。「週に二〇〇から四〇〇キナは、まったく面倒なことをしなくても手に入れることができるってことになる」[*5]。だから、これくらいの授業料ならパリ村の普通の家族は支払い可能だというのが、ここの村人の意見である。
 パリ村の場合、ほとんどの子どもが、七、八学年段階でも通学している。八・七年がこの村の子どもたちの在学年限平均である[表3]。だから、子どもの授業料に五〇〇キナ払う家族は特別な家ではない。そうであるとすると、平均収入六七〇〇キナの家族が、五〇〇キナを払っていることになる。場合によってはそれ以下の家族も五〇〇キナ払わなければならないことがあるということだ。
 年収の一〇分の一近くが、授業料として徴収される。これは私たちの金銭感覚からすると大変な出費である。日本で六七〇万円収入の家族が、五〇万円の授業料を払うということなのである。しかしどうも日本のこの感覚は当てはまらないようだ。
 普通の家なら授業料支払いは可能だ、というのはその通りだろうが、余裕をもって金が出せるわけではないから、実際には滞納者がかなりいる。パリ村の校長によると一九九五年には二五%が全額未納、二五%が半額未納である。九六年から開設された第七学年については、学期末までに大多数が半額を払い、何人かは全額を払ったが、七人は全額未納である。教育行政当局は、九六年からは新方針を打ちだして、一学期末までに全額払わなければ、二学期から登校停止にするとの注意書を親に送った。教師たちはこの方針を支持していない。「授業料より教会や冠婚葬祭の支払いの方を優先する」と校長は見ている[*6]
 パリ村でも、生活のために現金はあまり要らない。調査対象となった五つの村の中では、特段に裕福な村ではあるけれども、金が充分に足りているわけではない。漁に必要な船外モーター付きのボートや網が欲しいのに、学校や教会に金がかかって買えないと言っている漁師もいる。しかし日常の生活では、金がかからない。水道は来ているけれども、いつも断水するから、結局は女たちが水を運んでくる。料理も屋外で薪を使ってやっている家庭もある。暖かいところだから生きていく上で最低必要なものは、どうにかなる。町中で働くわけではないから、裸でもいい。衣と住は粗末でも間に合う。海からタンパク質が捕れて、山野から澱粉質がとれれば、飢えないだけの食は手に入る。
 こうした生活環境は、日本など温帯、寒冷帯の気候地帯とはまったく違う。たとえば、『山びこ学校』[*7]の冒頭の江口江一の綴り方は、どんなに働いても家族の食の最低限が確保できない苦境を書いているが、その様子と較べてみれば、同じく貧しくても、その貧しさは、食の蓄えを必要としない南の島との違いが歴然としている。
 蓄えを必要とせず、無理して働こうとしない島の気質はそういうところから、出てきている。メギアール村はマダン州の州都から北西六〇キロのビスマルク海沿いにあり、道路もいいから車で一時間ほどでマダンに出られる。主要産業は、ココナッツを乾燥してヤシ油や石鹸の原料になるコプラを生産することである。全村一二三家族の中、インタヴューした二〇家族の平均収入は一六八〇キナである。電気は伝道団の発電器から供給されるものが、学校と教員住宅と教会だけに来ているが、村には来ていない。マダンからの電線はすでに敷設されているが、村から徒歩三〇分ほどの手前の村までしか通電していない。電気を引く個人負担が大きいからである。家族の備品には、冷蔵庫や洗濯機などはなく、料理用の鍋釜とラジカセ以外はほとんどなにもない。
 しかし村人はこの村は豊かだと思っている。働く気さえあれば、土地は豊饒だし、食糧はいい海と畑から十分とれる。この地区には貧乏人はほとんどいない、とたいていの村人は言う。州都に近いにもかかわらず、先のパリ村とはちがって、漁業はこの村の主要な収入源ではない。コプラが主要収入源だが、しかしコプラ生産に組織的に関わっているわけではなく、差し迫って金が必要になったときには、精を出して働く。
 たとえばある家族は、子どもの小学校の授業料に一五〇キナ、娘が寮生活をしているマララ・ハイスクール(Malala High School)[*8]の授業料が三四〇キナ必要だと分かると、コプラ生産に短期集中的に精を出すなどして、必要な金を集めることになる。

 同じことは、標高二〇〇〇メートルにある交通不便な山村カワ村についても言える。家族平均年収はわずか三七〇キナだが、現金が必要なのは冠婚葬祭費、雑貨屋で買う雑貨や衣服代、授業料くらいである。主食のサツマイモがあって、バナナなどがあれば、後は森で狩りをして動物蛋白源とする。豚は重要な家畜だが、放し飼いにし、祭事の時に食べるが、金に換える収入源の一つにする[*10]

――学校を卒業しても定職には就けない

 山奥のカワ村を除くと、どこの村の親たちも子どもが学校を出て、現金収入のある定職に就いて欲しいと期待している。
 ちなみに、カワ村フルタイムの仕事は村裁判所の判事三人と調停官(peace officer)二人だけで、中央政府から前者には三九二キナ、後者には三一六キナの年俸が出る[*11]。だから、学校を出て収入のあるフルタイムの仕事につく当ては、はじめからない。それでも学校に行くのは、「学校で教育を受けた人は、村の外に出ても権威をもってうまく渡り合うことができる。そうしたリーダーは近代政治を理解できるし、英語の読み書きができるから、しかるべき地位にあって、正しい決定をしていると、村人たちは考えている。教育のあるリーダーたちはさまざまな役割をもってさまざまな活動をしているが、彼らは伝統的なやり方と新しいやり方(skills)を組み合わせて、賢い仕方で振る舞っていると、みんなが認めている。」というのが、五村調査の報告書の解説[*12]だが、これだけではどうして非リーダーの子どもたちも通学するのか、説明がつかない。同調査報告には「教育があなたの収入増の助けになっているか」[表4]という大変興味深い表があるので、転載しておく。これを見て分かるように、村のエリートでさえ、これまではほとんど学校教育を受けていない人たちである。だから、リーダーには教育が必要だという村人の発言は、学校教育の重要性を説く教会関係者などの受け売りかも知れない。
表4 学校教育があなたの収入に貢献しているか(カワ村)  しかしどこの村にも常雇いを必要とするような職場はほとんどない。たとえばピヌ村は、かつてはココナッツとゴムのプランテーションが中心産業だった。しかしこの産業はこの二〇年来不振であり、伝統的な農業中心の生活に戻る気はないから、子どもたちを学校に通わせて、なんらかの定職に就けようとしている。首都ポート・モレスビーから七〇キロ、ハイウェイが通じているということもあって、住民の二五%が村仕事以外の職をもっているところは、他の村とは違うが、しかし四分の三は村の仕事しかない。多くの村人の言うところをまとめると、こんな風になると報告は記している。

 それに対して、調査者が「しかしどうして金に執着するのか」と質問すると、

――教会が学校をつくった

 学歴が収入に結びつかなくても、親は子どもたちを学校へやるのはどうしてか。
 この国の人口の七〇%はキリスト教徒であると統計は言う。どんな山奥にも熱心な布教活動が行なわれてきたようだ。そしてその際、伝道団は村々に教会をつくると同時に、学校をつくった。五村の学校の起源はすべて、ミッション・スクールである。

 学校教育はキリスト教と一緒に入ってきたということである。だから学校は単に生活の実用ためにあるのではない。たとえ金儲けに役立たなくても、実生活の必要に対応していなくても、それとは別の意味も持っていると、そういう観念と感情が村人に教え込まれたにちがいない。西洋近代社会から持ち込まれた学校で学ぶことは、宗教的にも、人間的にも、質的向上をもたらす不可欠の条件であるという観念を、伝道者たちは村人に浸透させていったにちがいない。

――村の生活に必要なことをもっと教えて欲しい

 パプアニューギニア本島から少し離れたやや大きな島に寄り添うようにある小さな火山島であるドブ村には、学校教育の伝統がある。多くの村が二〇世紀一九二〇年代以後にキリスト教の布教と一緒に学校がつくられ、西洋的教育が持ち込まれたのに対して、このドブ村には早くも一九世紀に学校教育が宣教師によって始められた。その伝統があるから、交通不便な小島なのに、子どもたちだけではなくて親の学校教育年数も高い。インタヴューをした二〇家族の親たちの平均通学年数は六・三年(男七・一年、女五・七年)であり、すでに学校を終わったその子どもたちの通学平均は八・三年である[*14][表3]
表5 ドブ村20家族の、子どもたちの最終学歴  高等教育段階を終了した者は一二人。その内カレッジに行った八人中三人の男はテクニカル・カレッジ、女五人は地域学校教師養成カレッジである。この一二人は全員就職し、ドブ村を離れて暮らしている[表5]
 一〇学年以下の学校修了者たちはほとんどがドブ村あるいは周辺地域に住んでいる。ほんの少数が州内の他地域に住んでいる。一二キロほど離れた島に職業センターがあって、大工などの基礎的技能訓練をしているところがあるが、ドブ村の卒業生でそこに行った者はいない。通信教育を受けた者も、二〇家族の中にはいなかった。島を離れなければいけないし、金がかかるから、ということが、そういう教育機会に近づかない大きな理由である。そして少数の一〇学年修了生が、選抜されて、政府の奨学金を得て高等教育に進み、都市に職を得て島を出ていく、ということになる[*15]
 もちろん人口一五〇〇人程度の島には、学歴を役立てて、賃金をえることができるような職場はない。だから親たちはこの島には学校の知識を役立てるところがないと言っている。
 この島は、あまり働かなくても食べていけるというパプアニューギニアの一般的な状態とは少し違うようにみえる。生活に必要な食に困らないという点は同じだが、この島での生活はもう少し勤勉を要求される。島の家族生活の軸は、ヤム芋つくりと魚とりとクラ(kula=貝の腕輪やネックレスを他の島々と交換する昔ながらの取引)であるが、ヤム芋つくりは、焼畑(八〜九月)→畝起こし、種植え付け(一〇〜一一月)→除草、ヤム苗の植え付け(一二〜二月)→間引き(三〜四月)→収穫(五〜七月)と一年をとおしての仕事である。主食のヤム芋が収穫できるまで、キャッサバ、サツマイモ、バナナ、その他の作物を栽培する。そのような畑仕事、薪集め、水汲み、魚とりの仕事には、家族全員の参加が必要である。子どもたちは学校に行く前に朝早くから、また学校が終わってから手伝う。畑仕事だけではなくて、漁や果物・野菜売りなどで家計を助ける[*16]
 右のことからすれば、学校などに行かなくたって困ることはないように思えるが、しかし親たちは、学校に六〜八年通学することは、読み書き計算ができるようになるために必要だし、売買の計算をしたり、リーダーの位置につけば、手紙を書いたり、集会の知らせを読んだりするのに役に立つ、と考えている[*17]
 それならば学校教育には問題がないかといえば、そうではない。親たちは次のようなことを指摘している
 (1)子どもたちには英語や数学や社会科学、自然科学などの教科が教えられているが、いくらかの英語と数学を別にすれば、アカデミック志向で村の生活に役立たない。
 (2)学校は村の生活改善のために必要な新知識やスキルを提供していない。商売や近代的な大工仕事やモーターや料理や裁縫にかかわるような基礎的知識や技能など、プラクティカルなスキルを知りたい。
 (3)道徳教育が足りない、と言う親もいる。近頃若者の犯罪行為が目立つし、年上の者の言うことを聞かず、家の手伝いを嫌がる子どもたちもいる[*18]
 右の学校批判あるいは要望は、私たちの社会でも出てきそうネ内容である。まったく近代的な学校観に立った教育要求である。パプアニューギニアの他地域と同じようにこの島にも電気はないし水道もない。それにもかかわらず、(3)のような若者現象はどこからやって来るのだろうか。定期船が就航していて、外の世界の情報を手に入れやすい。それを読みとることができるリテラシーがある。そして都市で働いていた人が離退職して島に帰ってくるとき、自家発電機を買ってきて、それでビデオも楽しむ。それは子どもたちにとっては人生観を揺るがすほどの大きな外部情報かも知れない。
 首都地区にあるパリ村も、親の教育年数が長く、子どもたちの在学年数も長いという点ではドブ村と同じである[表3]。そして首都に近いのだが、部族(Motu)としての強いアイデンティティをもっている。学校は生徒が村の文化活動に参加することを奨励しているし、学校でもMotu 族の伝統的な文化を取り入れている。しかし親たちは学校の現行カリキュラムを見直して、卒業後の実際の生活活動を反映するような内容を盛り込んで欲しいと思っている。漁や職業技能訓練、それから副業として行なわれている布染め、工芸、機織りなどの活動を、親たちは言っているのである。
 同じく首都から遠くない海沿いの村メギアール村では、親たちの中には学校が村の生活に役立っていないと言う意見もある。農業改善を支援するような知識や、石鹸つくりや布つくりのような副業に必要な知識や技能を、カリキュラムに加えるべきだと言う親もいる。

 かつての学校では地域の技芸・文化がかなり教えられていたという親たちの言に照らしてみると、学校から村の伝統文化を放逐したのは初期の宣教師たちよりも「近代学校教師」たちだったのではないだろうか。宣教師たちは村人に受け入れられるためにも、村の文化を教育に取り入れたのであろう。しかし彼ら「近代学校教師」たち、教師養成課程の充実と相呼応して国家カリキュラムの実施を可能にする力をもった教師たちが、旧式の伝統的学習に代わる「新しい近代学習」を全面化することになったのであろう。
 そこで村人たちは、学校が部分的にでも村の文化学習の場に再びなることを期待している。新教育制度改革によってメギアール村とその周辺の四村には九七年度から基礎学校(elementally school)が導入される。初等学校はそれら五村あわせて一校だが、基礎学校は各村ごとに設置される。既述のように基礎学校はスタッフにおいても運営においても地域の村の裁量に委されているところが多い。だから基礎学校は子どもたちが「自分たちの出どころを知る」場所になるだろう、と村人たちは期待している[*20]

――西洋型学校だけが公教育の形か

 学校が地域の必要と伝統継承に応えていないのは、教師の意識の問題だけによるのではない。農業実習を学校に取り入れることができないのは、それに必要な農地が学校にないからでもある[*21]。メギアールの場合、学校は伝道団の敷地内にあって農業実習のための土地を確保することができない。私たちから見ると、いくらでも土地がありそうなパプアニューギニアでも、学校が広い土地を確保することは多くの場合難しいらしい。
 地域の技芸を教えるために必要な教室の余分がないというのも、多くの学校が挙げている理由の一つである。九八年三月に私たちが訪問した初等学校は、ゴロカ市内の学校だが、職員室などがある建物は本格建築にちかいものであったが、校内に点在するいくつかの教室棟は、低い屋根のプレハブ風建物で、いくつもの破れもあり、ガラス窓のない建物もあって、板戸を押し上げて棒で支えて明かりと通風をとっていた。電気のない内部は薄暗かった。ハイランド地方の中心都市であるゴロカの学校でさえそういう状態である。五村調査にも学校の写真が載っているが、いずれもプレハブ風である。写真の教室はそのような建物の中でも一番良質のものであろうか。
メギアールの小学校の新教室棟  通常の教室でもすぐにも壊れそうなものを使っているのだから、ましてやそれ以上に特別の教室を準備する余裕はないだろう。しかし学習の場は屋根と壁によって囲われた空間でなければならないということはない。そういう教室の形が必要なのは、ヨーロッパのような寒い地域の話である。南国では、屋根と柱だけで壁のない空間が、学校にはもっとあっていいのではないか。パプアニューギニアの伝統的な建物様式にはそうした開放的な空間はないのであろうか。海に突き出た海上集落には、それに近い空間があった。またインドネシアのバリ島の村々には、大きな屋根を柱で支えた開放的な場所が、村の集会所としてあった。真ん中には、集会の時を知らせるためであろうか、鐘がぶら下がっていて、屋根の下の周囲部分は幅二メートル、高さ一メートルほどの土塁で囲まれていて、外からの雨水は流れ込んでこない。そして内側は低いから、周りの高い所は観客席にもなる。パプアニューギニアでも、藁や茅葺きの屋根と丸太の柱の施設なら、村の周辺にある材料で作ることができるのではないか。そして多分、伝統的な技芸を学習するためには、村の建築様式を取り入れたそういう場所がふさわしいに違いない。
 五村調査には、学校に通っている子どもたちの意見はほとんど出てこないから、子どもたちが学校になにを望んでいるか、なにか不満があるのか分からない。しかし私たちが訪問して子どもたちに接することができた一初等学校と二中等学校の子どもたちは、極めて不十分な施設設備にもかかわらず、学校は楽しいと言っていたし、前向きに喜んで学習しているように見えた。(石原報告参照)しかし経済的負担を要求される親たちは、期待と不満が混じって学校に対して複雑であるように見える。その気持ちの表れは、一方でどの親も学費くらいは払う力があると言いながら、しかし他方でかなりの親たちが授業料未納であるパリ村の状態が示している。
 まとめれば期待は、

 不満は、
である。
 しかし期待の(2)はほとんど実現しそうにもないし、みんながリーダーになるわけではないから、(1)もかなり観念的な要請である。しかも町に出て現金に頼る生活をすることがいいことなのか、あるいは企業が進出してきてその被雇用者になって自足生活の基盤を放棄することが幸せなことなのか、大いに疑問であろう。
 そうであるならば、西洋的学校の充実(学習の内容についても、建物の形についても)によって、村の自給自足的な生活から離脱して、西洋的近代の社会と生活に急接近することが単純に肯定されるべきではなかろう。
 パプアニューギニアの村々には伝統的な子育てと教育の形態があったはずである。それは長い試練を経て、村の生活を支えてきたものである。今でもその幾つかは残っているようである。
 主食のヤム芋つくりの農耕生活を中心にしているドブ村では、一三歳から四五歳までの男がブッシュの伐採や畑の掘り起こし等の重労働を担う。そして子どもには一人ひとりそれぞれ畑をもたせる。小さな子どもには近くを、大きな子どもには家族の畑から離れたところを割り当てる。子どもに非常に早い年齢から畑をもたせるのは、二つの目的がある。一つには、ブッシュを伐採して畑地を耕し、植え付けから収穫まで畑仕事の全過程に子どもをかかわらせて、独立して働く経験をさせること。二つには特に女の子に、ヤム芋の保存・管理や畑仕事にまつわる儀式を学ばせること、である[*22]。これはドブの伝統的な農業生活教育制度であると言っていい。
 また高地の村カワでは、haus-man(=men's house)という楕円形の伝統的建物と、丸い形をした女たちの家がある。かつて男女は別々に住んでいた。男の子や青年は haus-man で年上の男たちと一緒に生活して、そこでイニシエーションのような秘儀や戦いの技や呪文や女を惹きつける歌を教えられた。女たちは女たちの家で、幼児期までの男子の世話をしつつ、娘たちの教育をした。男女が別々の家に住むのはバースコントロールのためでもあった。今では夫婦は一緒に生活している[*23]
 しかし今でも haus-man は村のコミュニケーションセンターであり、男子は五〜六歳になるとそこのメンバーとなり、部族の男たちと一緒に生活し、そこでのいろんな話から、小さいうちから、大人が知っていることのほとんど何でも知るようになる。結納金のこと、女のこと、新しい畑つくりや家つくりのような村仕事のことなど、子どもたちは昔から伝えられてきた話や実際にあった話を聞かされる。そんな話を何度も聞かされて退屈することもあるが、部族の戦いや魔術の話は大好きである。こうした環境の中で、子どもたちは伝統的なしきたりを理解し、族長を尊敬し、その金とステイタスを納得するのである。そのようにして伝統的慣習理解のシステムが働いているから、学校が貨幣経済社会への参入に備えて、子どもたちに昔からの慣習に対する批判意識をもたせようとしても、難しい[*24]
 そのような伝統的な子育て・教育制度は、現在の村の生活に合わなくなっていたり、村の生活に必要な発展を妨害するようにはたらく危険がある部分もあるだろう。しかしそういう欠点を改善しながら、同時に近代西欧型教育の長所を取り入れながら、新しいパプアニューギニア型学校を形成することはできないだろうか。それは村の文化と生活の豊かな発展を支えることになるだろう。ピジン・クレオール語であるパプアニューギニアの共通語トクピシンは、英語を中心に西欧の言語を取り入れて、この地域の言語(文法・発音など)に合わせてつくりあげられた自然発生的な新言語である。教育・学校制度でも従来存在しなかった新しい形の生成する可能性を追求することはできないか。

――教師の給料は低いか

 低すぎるかも知れない、高すぎるかも知れない
 国立研究所のガイ氏は、教育改革の推進のためには教員養成の充実が急務だが、根本的問題として、教員の社会的地位が低く、給料が安くて、人材を集めにくいことをあげていた。私たちが見学したゴロカ市の小学校で教師たちと懇談したとき、彼(女)らも困っていることの一つに教員の給料の低さをあげていた。
表6 教員給料基準  それぞれのレベルが具体的にどのように獲得されるのか、詳細は分からない。表6のCertificate というレベルは、教員養成カレッジなど正式な機関を卒業せずに講習会や試験などで得た教員資格を言うのであろうか。次の Diploma は、二年課程の養成カレッジ卒業を示すのであろうか。Degree が四年制大学卒業、Dip & Degree は四年制大学を卒業した後教員資格を与えるために設けられた一年課程を修了したことを示すのであろう(ということであるとすれば、Dip & Degree は、国立高校教員だけであろう)。
 Certificateの最低年俸五九二七キナは、九六年の年平均為替レートからすると、四四九七米ドルであり、日本円で五〇〜六〇万円ということになる。これは確かに安い。大学卒で八一一一キナ(=六一五五米ドル)だが、パプアニューギニアでも大学を出て一般企業に勤めれば、ずっと高い給料を貰えるであろう。だからカレッジや大学を出てまでして教員になろうとしないという現実は、当然に違いない。
 しかも教員給料支払いが不確実な地域もあるようだし、ドブ村のような僻地では小切手で支給される給料を現金に換えるのも難しい、ということである。
 しかし一般の人たちの現金収入に較べれば、この教員給料はとても高い。五村調査で最高の収入があったパリ村の平均収入は、有資格教員の給料に近い。だからこの村では教員の給料は高いとは言えない。しかしその他の村の親たちの平均収入に較べると、教員給料は(表6のような基準で支給されているとすればの話だが)格段に高い。山村カワの判事と調停官の年俸はそれぞれ、四九二キナ、四一五キナであった[表4]。このカワ村の教員にも表6のような給料基準が適用されているのであろうか。
 ガイ氏らが、給料が低いから人材が集まらないと言うとき、教員になるために必要な学歴と同じレベルの学歴をもっていれば、パプアニューギニアでももっと高い給料がとれることを、念頭に置いているのであろう。そしてそれは、賃金の額によって生活の質が決定される貨幣経済社会を基準にして、事柄を判断する場合には、当然の結果であり、感想である。

 職業と労働の新しい形が選べないか
 しかしここで、この給料で十分に豊かな生活が保障できるような、教職のあり方を夢想してみたい。教師の給料は村人と較べれば高い。しかし村人と違って衣食のすべてを給料の現金を支出して手に入れなければならないのであるから、現金がたくさん必要になる。パプアニューギニアのように人口密度の低い国では、教師の勤務地は都市よりも地方の村々である。だから条件を整えれば、半分は普通の村人のように生活に必要なものを生産自給し、半分は教職の仕事をして現金収入を得る、というような生活ができないだろうか。
 このような教職のパートタイム化は、教職の歴史では古い形であった。ヨーロッパでは一九世紀はじめ頃まで、日本では明治に近代学制が成立するまで、特に民衆学校の教師たちは、一方で職人であったり、農民であったり、僧侶や神主であることが普通であった。政府が学校教師を募集するとき、その応募条件に職人など他の職業を並行して行なうことができることが望ましいと付言している場合さえあった。教職だけで十分な給料が払えないからである(近代の教育実践と理論を切り開いた、かのJ・H・ペスタロッチが、スイス革命の後に初めて就いた教職の場は、ブルクドルフという地方都市の靴職人が自分の家でやっている学校であった)。教育の歴史では、そのようにして教師の仕事は片手間仕事のままに放置され、教職の専門職化は遅くまで課題として残されたと解説してきた。そして一九世紀の先進的な教師たちの要求は、教職を独立した専門職と位置づけ、それに相応しい養成施設(師範学校)を設けること、それだけで十分な生活ができる賃金を保障させることであった。
 だから教職のパートタイム化などという制度案は、教職の歴史に逆行するバカバカしい話なのである。
 しかし、都市化や生産と消費の分離や分業などを抑制しつつ歴史をつくっていくことはできないだろうか。パプアニューギニアでも貨幣経済はすでにかなりの程度浸透している。それを引き戻すことは無謀である。そうではなくて、農民でさえネギをスーパーマーケットで買う日本のようなあり方ではなくて、人たちがもっと統合的な生活活動をすることができるような発展の方向はないだろうか。たとえば、教員の一層の経済的地位の向上を計るために、賃金の額の引き上げだけに頼るのではなくて、村の学校の場合は、教師家族が自給するための土地と住居と時間を保障する方向に進めることはできないだろうか。教師は村人にとって余所者ではなく、村の生活者の一員であり、かつ教育の専門家である、そういう位置と職の形成である。
 遅れて後から生活と経済と産業と教育の近代化を進めようとする国は、欧米や日本の悪弊までも一緒くたにして後追いする必要はない。後から行く者の利点を、生活においても教育においても、生かすことは、余所者が無責任に語る夢想に過ぎないのだろうか。
 私たちが訪問したウェワクの国立高校は、町から二〇キロも離れた全くの山の中にあった。学校のはずれの林の中では、生徒たちが豚も鶏も飼っていて、それは生徒たちの食糧の一部になるとのことだった。しかし全寮制のこの学校の生徒たちに出される食事の副食は、ほとんど毎日缶詰であるとのことだった。私たちにとっては缶詰だけの給食は、パプアニューギニアの伝統的な食事の改良型よりもはるかに惨めな食事だと思うのだが、エリート生徒たちは缶詰食事をまともな食事だと思っているようだった。これは実に奇妙なことである。現実にはそういう道しか、選択できないのかも知れないが。



*おくだいら・やすてる
 教育哲学・教育思想史専攻。現代学校と学習の批判的検討が当面の課題。

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[*1] National Research Instituteは、この国唯一の国立研究機関である。だから途中に「教育」とか「経済」とかの、分野名がつかず、「国立研究所」なのである。ガイ氏はその教育部門の責任者。
[*2] Richard Guy, Pani Tawai-yole, John Khambu, Daro Avei: Education and the Quality of Life in Papua New Guinea: Five Village Case Studies,National Research Institute,1996.
[*3] 『パプアニューギニアの教育と生活――五村調査報告」一〇四頁。以下に示す頁数は断らない限りすべて本書の該当頁。
[*4] Bank of PNG、一九九五年、四二頁。
[*5] 四二頁。
[*6] 四九頁。
[*7] 山形県の山村(現在は山形市に編入)の中学校における生活綴り方教育実践の記録。一九五一年刊。
[*8] 五つの国立高校の一つ。
[*9] 一〇二頁。
[*10] 七八頁以下。
[*11] 表4の年収と差があるが、中央政府からの年俸に、村からの手当が加算されるのだろうか。
[*12] 八四頁。
[*13] 六四頁。
[*14] 一九頁。
[*15] 二〇頁。
[*16] 二二頁。
[*17] 二六頁。
[*18] 二六頁f。
[*19] 一〇四頁。
[*20] 一〇五頁。
[*21] 一二二頁。
[*22] 二一頁。
[*23] 七七頁。
[*24] 八五頁。


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