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「アジアの教育―研究と交流」三年間の歩み


石原静子* 和光大学元教員

Ⅰ・アジア五カ国の教育・社会現地調査――――――――――――――――――

 1――調査方法

 教育の整備が立ち遅れがちな国から選ぶ
 プロジェクト発足直後の一九九七年春にラオスとカンボジア、翌九八年春にパプアニューギニア、九九年ネパール、二〇〇〇年春にインドネシア、の計五カ国を訪問した。
 アジアの現況を知って未来を考えようとする際に、工業化近代化の進んだいわば主導的な国々や、めきめき売り出し中の有望国を対象とするか、逆に工業化等が遅れがちで今後もアジアの発展にとり残されそうな地域から選ぶか、二つの入り口が可能である。
 われわれが選んだのは後者で、元々の研究「趣旨」から来ている。「環境破壊・・」などにより人びとの生活の「基本的な事柄が後回しとなってい」る現況はどちらの国にも共通だが、前者の比較的進んだ国では矛盾が報道されやすく、是正の可能性も多い。注目されない後者の国の現実を直接観察して、「是正に力を貸す」ことが緊要と考えた。さらに、そうした国の「志を立て」た青年と「和光大生が・・交流する」ことは、エリート国や青年間の交歓や協力とは異なる意味で、「アジアを知りその未来を共に支える」基礎づくりになるのでは、という期待も大きいからである。
 五カ国目のインドネシアは、のちに述べる通り国土広く資源多く、人口は世界第四位で人口大国に属するから、右の基準に合わないように見える。ここを選んだ理由はちょっと複雑で、まずインドシナ半島の二国から始め、南洋の大きな島国、ヒマラヤ直下の山国、と回ってきたあと、この地域環の東を埋める世界一の多島国という地理的特性と、もう一つは国民多数が信奉する宗教にある。教育・社会と宗教の関わりは言うまでもなく重要であり、それまでの四カ国が各々、仏教、キリスト教、ヒンズー教で、イスラム教国を入れる必要があった。しかもインドネシアは独裁体制が長く、東チモール紛争に見る通り、表1 調査5カ国の4指標値今も政治・経済共に不安定で、アジアでなお未解決な問題の集約地の感があり、日本の援助重点国の一つである。
 表1は国連開発計画(UNDP)の一九九八年報告書[*1]に載っていた、国の現況を示す四指標を、五カ国訪問順に示したものである。UNDPではこれらを一定計算方式で総合して、人間開発指数(HDI)を各国別に算出し、世界一七四カ国の順位づけをしている。表1最右欄の数字はその順位である。なお参考のため、日本と中国を付加した。

 現場中心の多様な方法
 訪問先が決まったら、文献・資料を集めてその国の歴史や現状に関する基礎知識を得る、詳しい人を招んで話を聞く、調査実施に向けて当国の何らかの機関と渡りをつける、ここまでが準備段階である。こう書くと簡単なようだが、実際にはそう容易ではなかった。まずわれわれが行きたい国々は概して日本での情報が少なく、インターネットを駆使しても数えるほどしか入手できないことが多かった。近年アジア諸国のビジネス情報は増えているが、特に教育関係は情報ゼロに近い実態を、否応なく知ることになった。詳しい人といっても、国によっては研究者が見当たらず、当地から来ている留学生に頼むことになったが、これは却ってよかった。身近な体験を交えて新鮮な話が聞けたし、そうした研究会には学生にも参加を呼びかけたから、両国学生交流のミニ試行ともなったからである。
 当国機関との渡りのつけ方も、年ごと相手国ごとにさまざまだった。初年度のラオス、カンボジアは、当地に事務所を持つ日本のNGO二組織に頼めたから、訪問の手配その他ほぼ完璧だったが、翌年のパプアニューギニアでは、前述の通り留学生を通じて同国大使館員に頼んだのに、一向にラチがあかず、アポいっさいなしのぶっつけ本番となった。次のネパールでは、調査行予定日数週前に知った他大学の体験学習旅行に、半ば便乗させてもらって何とかセーフ。最後のインドネシアでは、ツテをたどってJICA(日本国際協力事業団)の人に行き着いたため、日本のアジア途上国援助の実態に直接触れて考える機縁を得た。

 こうしてとにかく入国したあとは、実際の調査活動となる。具体的方法の第一段階としてわれわれはまず、当国の教育全般を把握していると思われる機関を訪問して、詳しい話を聞き資料を入手して、現制度・状況の全体像を得ることから始めた。事前に入手できる情報が乏しいためだけではなく、数年前の記録はもう現実と合致しないことがしばしばあるからである。この第一段訪問機関は国ごとに、教育省、国立大学教育学部、国立教育研究所とさまざまであった。
 調査第二段は、大学から幼稚園に至る各学校を訪問して、学長校長など責任者と懇談するのに続いて、できるだけ実際の授業を参観し、許されれば学生、生徒と対話し、教員たちとも話し合う、という現場中心の活動である。といっても当国の事情やこちらの日程などの関係で、全階梯揃えてというわけにはなかなかいかず、とびとびや偏りが生じたのはやむを得ない。そうした中で最低一校は必ず訪問することにしていたのは教員養成校で、これには理由がある。後述するように、これら途上国では校舎校具などがすべて不足する中で、とりわけよい教員を得ることが教育向上に不可欠だが至難なこと、またチームメンバーの過半が和光大学で教職課程と何らかの関わりを持っていて、このことに理解と関心が深かったためである。
 調査第三段は、第二段と交差して日程を繰り合わせながら、教育の背景となるその地域の自然、生活、社会、文化などの現物に触れることである。これも相手国の状況次第だし、また第一、二段は首都から始まることが多く、安全の面からもホテル住まいが中心になったから、なかなか思うようにはいかなかった。が少ない日数の最低一日は割いて、地方の生活や特有の文化に触れるようにした。早朝散歩を含め、人びととの日常ふとした接触も、大切にした。
 このように書いてみるとわれわれの調査方法は、大筋の所は共通のルールを守りながら、細部は相手次第の臨機応変、悪くいえば行き当たりばったりの面が多いことに気づく。調査のメインである第二段の学校訪問にしても、紹介を得、アポイントをとって行った所はもちろんあるが、それとほぼ同数くらいの相手校は、通りすがりや又聞きなどの飛び入りだった。前述したこれらの小国での渡りのつけにくさが一因だが、結果的にはどこでもあっさり歓迎され、正面切った準備つきの問答では得にくい、いわば真実に近い姿に触れることができた。
 わがメンバーに文化人類学や社会調査の専門家はいず、アジアをフィールドとする研究者もいない。その意味でしろうとの集まりといえるが、そのことを逆に生かした調査法に、自然になったといえる。本プロジェクトの目的は学問の深化やビジネス効用などではないから、現場の多様な人びととの自在な交わりの方が、教育と社会の実態を知る上でも今後の交流を考える意味でも、実り多かったのではないか、と言訳ではなく今も思っている。

 調査報告はその都度小冊子にまとめて、学内および関係諸方面に配った。年度によっては、当の国で特に課題となる事柄、例えば環境問題などについて、章を改めて集中・検討したこともある。どの報告書も研究所のホームページに載せたから、毎年問い合わせや現物小冊子送付依頼が、けっこうあった。本書はその要約・総合で頁数も限られているので、詳細は五冊(前史としてのタイを含む。九七年度は合本)になる元の報告書を見てほしい。ホームページは http://www.wako.ac.jp/souken/team1/

 2――五カ国各々の教育・社会状況

 ラオス
 貧しいが穏やかな、自然と共に働く人びと

訪問調査対象国と主要滞在及び訪問地  ラオスはインドシナ半島の内陸にある小さな農業国で、人口も五〇〇万人足らずと少ない。一九世紀にフランスの植民地になる前も、隣国タイやビルマから侵略され続け、第二次世界大戦中の数年は日本軍が占領、一九五四年独立後もベトナム戦争やカンボジア内戦にまきこまれて、いわば苦労の絶えない国、の感がある[*2]。主因は地理的位置だが、おっとり穏やかな人びとの気風とも関係がありそうだ。植民時代フランスは、ラオスを軽侮して教育・社会基盤の整備を怠り、これが現在に尾を引いている[*3]
 一九九五年の統計で就学率は七四%だが、義務教育五年修了のいわゆる完学率は四二%、とは教育省の担当者の話だ。校舎を初め教材、教科書などすべて不足で、教員の給料は安く、問題山積である。教員養成も年限・内容ともまちまちだったのを、ようやく整理に着手、小、中教員は高卒後一年、三年と定めたばかりだ。それに伴って現職教員の再教育が必要だが、なかなか進まない。大学も前年九六年にやっと、現有カレジや専門学校をよせ集めて国立総合大学ができたばかり、学生に奨学金は出るが到底足りず学生生活は厳しい。というのが、教育学部長が話し、キャンパスで呼びとめた女子学生自身も語った現況である。

 最初の調査先ということもあって、ラオス訪問で特記すべき事柄が、いくつかあった。
 第一は、まず教育省を訪ね主要大学の教育学部と教員養成校、さらに小、中学校と回って、各現場で学生、生徒と話す、というわれわれ独自の調査法が、ここでの試行で有効との見通しがついたことである。効用は現実への肉迫で、したがってアジア途上国の教育・社会に山積する困難を、一覧することになった。おまけに孤児のための小・中学校と僧になるための高校についても見聞きして、社会主義体制の一方で敬虔な仏教徒が国民の大半を占めるこの国の、多様な教育現実に触れることができた。
 第二は、学校訪問の合間に古都ルアンパバンに行って、観光用の見せ物でない本物の山村生活を見聞できたことである。鍛冶屋や糸を取って織る小舎が疎林で実働し、大河メコンの河原では流水を冷却に使う素朴な蒸留酒造りと、直径七~八メートルもの大水車が高い岸に絶えず揚水するのを見た。どちらも雨季には増水に合わせて斜面を移動し、解体して乾季再び組み立てる。自然のまにまに生き働くラオスの暮らしが、象徴的に表れていると思われた。
 第三の特記は、首都ビエンチャンの街に本屋がほとんどなく、国立図書館さえ日本なら区立のそれ並みの規模で、年間出版点数は子どもの絵本まで入れて五〇点以下(日本は六万点)という、文字文化未発達に驚かされたことである。これでは、学校で読み書きを習っても使う機会がなく、やがて忘れてしまうだろう。
 ラオス行で世話になったNGOの一つが、「ラオスの子どもに絵本を送る会(和光大学の非常勤講師チャンタソンさんが主宰)」で、子どもが幼時から本を読んで楽しさと文字の効用を知るための支援活動が中心である。もう一つのNGO「曹洞宗国際ボランティア会(略称SVA、現シャンティ国際ボランティア会)」では、謄写版と大きな布に刷った絵入りの文字一覧及びラオス地図の三点セットを、全国七〇〇〇の小学校に贈る計画で作業していた。しかも小、中学校の先生たち用に、謄写版活用の指南書としてラオス語の粗末な小冊子「BUNSYU」を作り、セットと共に配るという。ちょうど戦前日本の綴方教育や敗戦直後の「やまびこ学校」再現のようで、「SVAが黙々と、モノを配るだけでなく育てる心を配っている姿に感動した」と、報告書にある。
 初体験のラオスはこの面でも、後に述べる学生間交流や出版支援活動への、生きた導火線になったのである。

 カンボジア
 ポルポトの悲劇から立ち直ろうとする人びと

 カンボジアはラオスの南隣、同じように仏教を信奉する農業国だが、ラオスよりやや狭い国土に倍近い人口を持つ。前世紀にフランスの植民地となり一九五〇年代前半に独立、という近代史もよく似ているが、以後での大きな違いは二点、シアヌークという政治的才能に長けた王に恵まれて何とか王制を保ったことと、一九七〇年代後半ポルポト政権による知識人大虐殺、社会構造の大破壊を経験したことである。
 学生を含めて殺された人は一〇〇万を超え、青壮年男子の四〇%に及んだという[*4]。学校は破壊されるか処刑者の収容所となり、子どもたちも急ごしらえの集団農場に送られて労働を強制された。やがて内戦に敗れてポルポトが国境地帯に逃亡し、ようやく嵐は去ったが、破壊が大きかっただけに、受けた痛手の回復は容易ではなかった。
 校舎校具教科書等々は、外国の援助などである程度何とかなるが、すぐ代替といかないのは教員で、小、中学校それぞれ生き残れた者は八分の一、一〇分の一にすぎなかった。さしあたって彼らを一段階ずつ上の学校へ、空いた小学校枠は中学も出ない少年を速成訓練して埋めた。それら応急措置が一段落して、改めて学校制度全体を見直し、教員養成も新システム作りにかかったのは、九〇年代初めになっていた。小、中学校教員資格を高卒後一、二年と定め、養成校を整備するのと並行して、速成教員たちの再教育が急務だ。同時に教育の質向上と学校経営の底上げをめざす諸施策も必要で、これら全体を立案する当局者も教員養成、教育現場も、目の回る忙しさである。
 われわれが訪問した九七年は、この教育改善五カ年計画の達成期だが、継続必要の見込みとのことだった。しかしここでも、教員の給料が安く副業は当然視され、社会的尊敬を得ないなどの状況が、改善のネックになっている。就学率は何とか八〇%近くまで回復したが、完学率はその約半分、国立の総合大学は首都の一校のみ、等々はラオスとよく似ている。経過はやや異なるが、今も貧しさと苦境にある国々といえる。

 殺りくの犠牲者を閉じこめ拷問もした現場が、刑務所博物館の名で公開されていて、そこは本当に元高校の建物だった。窓の格子や鎖がそのまま、拷問具も展示されていて、人を育てる場が正反対の使われ方をした異常さが、強烈に迫ってくる。刑場に送る前に証拠のため一人ひとり撮った写真が、何百枚も教室の壁を埋めていた。少女や子どものそれまでまじるのは知識人、政治家たちの家族だそうで、直視し難かった。
 危うく逃れて生きのびた人たちにも会った。懇談相手の国立大学教育学部長自身がその一人で、同じく教員だった妻子を失ったとのこと、彼の「教育改革に傾ける努力に、何か暗い情熱の影が感じられたわけを、見たように思った」(報告書より)。別の機会に日本で知り合った女性は、留学中だったため命拾いしたが、家族ほとんどを殺された。彼女は今日本でカンボジア料理・食材店を開く傍ら、故郷に女性のための職業訓練校を建てて、女性の自立と祖国復興をめざしている。SVAの印刷工場と職業訓練校も見学したが、現地の若いスタッフの一人は幼時強制労働の体験者で、「家族から引き離され・・つらく悲しかったと語った」(同)。
 後遺症は、当然だが直接の体験者だけに表れるのではない。この国に一歩を印した瞬間から、滞在中あらゆる場面で、物売り物乞いの子どもたちにとり囲まれたのは、ラオスでは無かった経験だった。街角や人の集まる観光地では、一目で地雷の被害者とわかる手足の千切れた人びとが、小銭の盆を前に叩頭していた。街を流すシクロ(自転車に客席をつけた乗り物)の運転者たちは、夜はそのまま路上で眠り、十代初め位の少年の姿もまじっていた。
 アンコールワットの遺跡は、壮大華麗である。これが造られた今から千年ほど前には、仏教文化の全盛期で、カンボジア王国はインドシナ半島のほとんど全部を占めていたという。輝かしい歴史を証明するこの実物が、人びとの自信の源となり復興への努力をはげます糧となることを、願わずにはいられなかった。

 パプアニューギニア
 今も自然人的行動ルールに生きる人びと

 オーストラリア大陸のすぐ北、だからアジア南端といっていい大きな島の右半分がパプアニューギニアだ。イギリス植民地からの独立は、比較的遅い一九七五年。日本より広い国土に五〇〇万人足らずが住み、今なおけわしい山地に隔てられて数百の小部族に分かれる。宗主国の影響だろう、九〇%がキリスト教徒で、われわれの入国翌朝が日曜だったため、さっそく歌ったり踊ったりの陽気なミサに出くわした。その日じゅう人びとは、道端や青空市で食ったり喋ったり、のんびり過ごす様子だったから、安息日ゆえと思ったら、違った。気候・地味共に良好で野菜や果物は自然に実り、岸近く魚が群れるこの国では、せっせと働く必要がもともと無い。だから第一次産業従事者が国民の八五%といっても、先進国の統計とは全く意味が違うのである[*5]
 就学率七〇%、小卒時は四〇%台の数字はインドシナ二国とほぼ同じだが、脱落原因の一つは入学早々英語を学ばせるせいかも、と反省して、最初の二年は各地域語で地域に即した勉強をする基礎課程へと、改革したばかりだ。続く六年(九~一四歳)を初等学校、その上の四年(~一八歳)を中等学校と改める、独立以来の大教育改革である。なぜ大改革かというと、これまでは小学校六年と中学四年までの各校は県ごとにあるが、高校(一七~一八歳)は全国に四校しかなくしかも国立で、上に国立大学が二校きりなのとピタリ直結する、つまりはエリート絞り込み式のエントツ構造だったからだ。
 こうして地域に即した中身で学習に入りやすくし、大衆に進学機会を広げるのは、教育民主化の二大改革といえる。それと並行して、初中等全段階のカリキュラムと教育内容の見直し・改善が、急ピッチで進んでいる。懇談相手の国立研究所教育部長は、この三拍子を、就学増(Access)、平等(Equity)、質の向上(Quality)と表現した。
 となると教員養成システムも大きく変わるわけで、特に急増する高校の教員が大量に必要だし、これまで小学生を教えていた人が中学の授業も持つことになる。新しいシステムの設定と並んで、現職の再教育が急務と、ここでも関係各校は大忙しである。ところが肝心の教員の待遇は一向によくならなくて、とこれまた同じ悩みを聞いた。
 前に触れた通りここはアポいっさいなしのオールぶっつけ訪問だったが、行く先々で歓迎され、懇談がスムーズに進んだばかりか、次の適任相手を進んで紹介したり、自ら車で送ってくれたりと、皆信じ難いほどに親切だった。学校関係者に限らず街で見る未知の人びとさえ、笑顔であいさつし手を振る愛想よさなのだ。ところが日本で集めた事前情報では、この南の楽園は一人歩き厳禁の危険な国、とあった。この事前学習と現実との落差に、われわれはとまどった。
 「前者の情報がホラでないことが・・まもなく分かってきた」(報告書)。ちょっとした店には武装ものものしいガードマンや猛犬がおり、銀行は鉄格子と硝子枠でカウンター内を防衛する。極めつけとしてわれわれも泊まったホテルで、強盗が白昼堂々フロントを襲って金を奪う現場を、偶然目撃した。
 パプアニューギニアの人びとは、この二面を狡猾に使い分けているのではない。所有の観念を含む行動ルール自体が、先進国社会の法や道徳に基づくそれと、根本的に違うのだ。部族(クランという)ごとの言語・習慣だけでなく、何か不都合があれば相手部族の誰に報復してもいいルールが、今も優先する。クランごとに呪術師がいて呪いの勝負をするし、警官は自クランへの報復を恐れて犯人逮捕をためらう。ホテル経営者の利得は過大不当だから、強奪する権利がある。自然が実らせてくれる果実は、見つけた者必要とする者が採るのが当然だ。熱帯特有の急な豪雨に遭っても、あわてて雨宿りするどころか彼らは、時に傘を持ったまま悠々と歩き続ける。こうした自然人的行動ルールを、キリスト教数百年の戒律も変え得なかった。現代普遍の教育が大衆に広がる今後は、どうなるだろうか。
 もう一つパプアニューギニアで特記を要する事柄は、ここがガダルカナルほか第二次世界大戦中激戦地だった事実で、この島だけで十数万の日本人が亡くなった。北海岸のウエワクで太平洋を望む丘の慰霊碑に詣り、無理な山越えをしてきた日本兵たちは、戦死より餓死熱病死が多かったとの話を聞いた。話してくれたのはここで小さなホテルを営む日本人で、今も毎年日本からの慰霊団を迎える、いわば墓守の老人である。

 ネパール
 ヒマラヤを日夜仰いで生死と和する人びと

 一九九九年春の訪問先は、がらりと変わって世界の屋根ヒマラヤ足下の国。五カ国中唯一植民地でなかった理由は、山奥の小さな秘境というほかに、ちょうど前世紀以来一〇〇年間ほどを鎖国していた、という事情もあるらしい。開国は他四カ国の独立と似た一九五一年で、王制が継続。細長い国土の南全面がインドと接しているため、その影響が大きい。今もカースト制が守られ、ヒンズー教を国教とする世界唯一の国である[*6]
 ここでも教育制度全体が大変革中と、現地で知った。これまでは小学校五年、中学二年、高校三年と日本より短く、大学進学試験(SLC、科目多く厳しい)にパスしたら大学前期二年、また学部入試があって後期三―四年、次は大学院と、いわば上に厚い形だったのを改めて、大学前期二年を高校へ回し、先進国に多い学校階梯構造に揃えると同時に、初・中等教育全体を見直して充実させる大計画である。大学は国立私立宗教立各一校で、国立トリブバン大学は、学部・専門部・大学院さまざまな組み合わせの分校が全国六五カ所に分散、というふしぎな形で、これもやがてスッキリ整理の方向という。
 教員養成も現行は極度に単純で、SLC合格イコール小学校教員資格、大学前期を修了すれば中身不問で中学教員になれる、など修士号まで四段の修了がそのまま教える資格と直結だった。「これではあんまりだ(最低一〇年の被教育歴、一六歳)というわけで」、教職のための勉強を別に義務づける制度とし、現職一〇カ月の再教育も始めたところだ。しかし教員の社会的不遇がここでもネックになっている。
 ネパールにもこれといったツテがなく、たまたま知った大東文化大学の体験学習旅行に、一部同行させてもらう形で実現した。学生たちが現地の家庭にホームステイする紹介の場に同席したり、トリブバン大生ニの交流会にも出席できたのは、五カ国中唯一の経験となった。大東大側は一~二年生中心で、院生もまじる相手側に負けじと、懸命な英語で自己紹介し討論し、準備してきたネパール語の歌を披露するなどして、両国青年の交歓は楽しく進んだ。聞くとホームステイは快調だったが、用心しても水や食物に全員一度は当たるなど、「無菌状態の中で育ったような日本の若者のひ弱さ無防備さが、痛感された」。学生の途上国体験と交流の意義を、他大学を借りてだが再確認できた。
 ネパール独得で特記すべき見聞は、ヒマラヤの万年雪を日々仰いで暮らすゆえか、人びとの生死観といったものがわれわれとは違う、ということである。ヒンズー寺院の真下を流れる河原に、太い薪数十本をタテ横に組み上げたのが、露天の火葬場だった。むきだしの遺体(われわれが見たのは若い美女だった)を乗せ、僧の司式で親族が点火し、故人の着衣を川に流す。四時間かけて焼き尽くしたあとの灰もすべて流すそうで、「この川はヒマラヤに発して何百キロを流れ下り、大河ガンジスに注ぐのである」。この葬儀一切を、川岸に設けた高床から、子どもを含む大勢の見物人が静かに見守っていた。
 別の寺で、やはり子どもを含めた大勢の見物人の前で、いけにえの鶏の首を切って仏に捧げる現場を見た。斬首から十数秒の間、胴体だけの鶏が激しく羽ばたき鮮血を散らしてかけ回るのは、初めての凄惨な見ものだった。
 また別の日、古い寺塔の集まる広場で、九歳の少年の成長を祝う宴に案内された。乳幼児死亡率の高いこの国(一〇〇〇人中七八人、日本は四人)では、一〇代目前まで生きたことを神仏に謝し、以後も加護を願う習俗だそうで、老人バンドの合奏・踊りと強い地酒の回し飲みで、超にぎやかな宴だった。こうした時の雇われバンドは、遺灰を川に流す役と同様、下層カースト専従の職業という。

 インドネシア
 多島の国の多彩な大学と人びと

 ジャワ原人以来有史の地だが、一八世紀以降オランダの植民地となり、解放は一九四九年。大戦中ここを占領していた日本軍の一部が、敗戦後脱走して独立戦争に加わり、今も数十人が生存という。一万余の島から成るため統一は難しく、新しい共通語インドネシア語の創出はそれを助けたし、スカルノの中央強権政治も無理ない面も、と思えた[*7]。しかしその後も地域・民族紛争は絶えず、現在の東チモール紛争に至っている。
 この国の教育制度は、日本ほか多くの国と同じ六・三・三・四と大学院から成る。就学率は近年著増して九六―七年に九五%に達したが、やはり中退や留年で小学校修了はその七割という。国土の分散と人口の多さを反映してか、高等教育機関は有名国立大学からごく小さな私大まで、多数多様である。他の国にない特色は、イスラム学校が全学校階梯にわたって並行していることだが、宗教の時間が少し多いほかはカリキュラムに大差なく、生徒はどの段階も同年齢層の一〇%前後なので、近々宗教省から国民教育省へ移管統一されるそうだ。
 そのことを含めてインドネシアでも、教育改革が進行中である。
 第一は教育全般の充実、特に教員の質の向上である。長らく小学校教員は高校年齢の職業学校(日本戦前の師範学校に当たる)で養成していたが、今は高卒後二年、中学教員は三年の教職教育を要するシステムとした。現職の再教育も並行して進め、従来の教員養成カレジを総合大学に格上げして、専門の実力増強をはかっている。
 第二の重点は、全学校階梯にわたる理数工系教育の改善充実で、これは九七年以来アジア諸国に広がった経済危機が、自前の技術者養成の必要を痛感させたのが一因とのことだ。
 第三は、独立以来の中央集権から地方分権への移行である。教科書などすべて画一国定だった硬直を改めて、地域のニーズをとり入れた柔軟な教育内容をめざすもので、スハルト退陣後の政治・経済の動きと連動して、二〇〇二年には実現の運びという。

 インドネシアでの訪問調査の重点は、高等教育の多彩さに焦点をあてて、諸種の大学を見て回ることと、対比的に全国画一の教育政策からさえ洩れがちな、貧しい地域の小学校や子どもの施設を訪れること、の二つになった。
 まず日本なら東大に当たるインドネシア大学の医学部で、エリート学生たちと話し、バンドン工科大学では、最新機器・技術を駆使した学生主体の展示や、生物実験を見学した。他極のバリ島は、青い海と白砂の浜、民族音楽・踊りや影絵芝居などで有名な世界的観光地で、地域性豊かなカレジ二校を参観できた。その一校であるホテル・旅行カレジでは、コンピュータ駆使のホテル管理学科を筆頭に、料理、接客さらには添乗員養成コースまであって、男女学生が生き生きと実習にはげんでいた。他一校の芸術カレジでは、伝統諸芸能の研究と継承が盛んで、当日も地域のプログループと学生のワークショップが組まれていた。教員養成カレジから総合大学化したばかりのインドネシア教育大学では、離島に赴任しても理科教材を自作できる教師をめざすそうで、学生手づくりの標本や器具などを見せてもらえた。
 他方で、首都郊外でその日暮らしの貧しい人びとが住む地域の小学校を訪れて、経済危機以降高学年で放課後働きに行く子が増えたことや、給食が登校を促す絆となっている現実を知った。また西ジャワでは、社会の底辺に沈む人びとに職業訓練や組織づくりの指導をして力づけ、ストリートチルドレンの自助施設を営む、当地NGOと出会った。
 この訪問両領域つまり大学と底辺部分とは、社会の最上下層に隔絶しているように見えて、そうでなかった。工科大学のエリートたちが自助施設へ木工など指導のボランティアに来ていたし、医学生たちは卒業後数年は離島で働くきまりとのことで、そのゆえか無医島は意外に少ないと聞いた。教員養成と配置にも同様の配慮が働くことは、前述した通りである。
 この国へのツテは五カ国中唯一JICAだったから、日本とアジア途上国との関わりをこの面からのぞき見て、考えるきっかけとなった。先の小学校給食はJICAの支援事業の一つだし、理数工系教育の改革についても、五年一〇年がかりの支援プロジェクトが組まれていた。

Ⅱ・五カ国調査で見た共通点と問題点―――――――――――――――――――

 限られた期間のわずか五カ国の訪問調査だが、かなり共通に出てきた事柄がいくつかあるので、今後を考える上で重要と思われる点を摘出しよう。簡単には乗り越え難いものも多いから、共通の問題点と言っていいが、それでもなおアジアの教育、社会の未来に希望が持てるかどうかを、考えたい。さらにどの国でも志をもって活動している日本人たちに会ったので、その面も共通性としてまとめて、日本とアジア途上国の今後の関わり方に言及しよう。
 言うまでもないことだが、アジアに存在するたくさんの国々の中からわずか五カ国、しかも偶然や恣意の多分にまじる選択と、やや破格といってもいい柔軟自在な方法で見た見聞である。アジアの途上国を代表しないことはもちろん、控え目な一般性さえ保証はできない。しかし、既成の枠に囚われずに真実に迫れたメリットもありそうだから、とにかく二〇世紀最後の三年間にわれわれが接した諸事実を、事実に即してまとめ、アジアの今後を考える手がかりの一端としよう。

 1――進行中の教育改革

 まず完全に五カ国共通だったのは、教育改革の真最中、という事実である。このプロジェクトは「アジアの教育」調査であって、「――教育改革」調査をめざしたのではなく、乏しい情報を漁って「教育改革中の国」を選んだわけでは決してない。だから五カ国揃ったのは全く偶然だが、逆に言うと五カ国揃ったのだからこれは決して偶然ではない。
 つまり、国ごとの事情はさまざまだが、第二次大戦後の比較的早い時期に独立したアジアの小国は、それから半世紀経った今、改めて教育全般を見直す必要を感じて、改革に着手または進行中、という共通性の表れではないか。ということは、五カ国に限らず似た条件の国々は多いのだから、それらにも同様の気運と着手が生じているのでは、という推測が成り立つのである。
 改革の着眼点は、五カ国で見る限り大きく分けて二つある。初等中等教育の質量共の改善と、高等教育の拡充である。植民地時代でも全く学校を持たなかった所は無いが、独立して自分たちで国を運営し発展させていくことになったとき、産業の振興や国防計画と並んで迫られるのは、自前の人づくりをどうするか、の問題である。このとき、国民全体の基礎教育に重きをおくか、さし迫って必要な国の運営に中心となるエリートを育てるか、の選択となる。
 もちろん両方やった方がいいには決まっているが、乏しい財政と人材不足の中では、至難であろう。ラオスのように植民地時代放置に近かった所では、まず前者から入るほかはなく、不十分ながら一応教育制度を持っていた国々、インドネシア、パプアニューギニア、ネパールでは、エリート育成重点に傾いたといえる。四〇数年経った九〇年代になって、貧しいラオスはやっと読み書き算保障のレベルから近代諸教科充実へ、そして高等教育もようやく、バラバラな専門学校をよせ集めて総合大学を作る段階に行き着いた。エリート重視で来た国々は、一通りの国づくりが進んで一息ついて、改めて国民全体の知的水準を引き上げる、裾野の経営に視点を移す気になった。ポルポトの暴挙で荒らされた特殊事情のカンボジアは、この両方を同時にゼロ近くから進める、容易ならぬ努力を要求されることになった。
 こうして教育の約半世紀をふり返って次の改革にふみ出すとき、新しい計画が理想主義的で美しく、当事者たちも熱を入れて語る傾向もまた、五カ国共通であった。典型的なのはネパールである。唯一植民地でなかったこの国では、教育全般に今も牧歌的で、小学校一校当たりの教員平均は四人、大学はまた小さな分校が全国に六五も散らばる現状なのだが、国立研究所は修士博士揃いの頭脳集団で、初等教育改革計画だけで研究報告書二〇冊、他領域も併せて「人知を結集した『あるべき教育』見本集の感」(報告書)があった。続いて教育現場を訪れて、美しい青写真と現実との余りの違いに思わず溜息が出たが、この落差は必ずしもネパールに限らなかった。
 落差はともかく、教育改革がめざす方向にも五カ国共通のものがいくつかある。
 文句なく共通の第一は、就学率を上げることだ。小学校はどこも義務教育だが、義務にしたからといってイコール全部の子が学校に来るわけではないから、これを一〇〇%に近づけるにはさまざまな手だてが要る。また留年や中退を減らして課程修了率を上げるのも、かなりの難事だ。中等教育への進学五〇%、高等教育三〇%あたりが大よそ共通の目標だが、達成は難しく大学進学率はどこも一〇%台が現状である。
 第二の改革方向は、内容の改善、つまり質の向上である。校舎校具教科書すべて不足で思うにまかせない嘆きを、ほぼ共通に行く先々で聞いた。
 第三は教員養成の制度・内容にわたる改善で、これも共通かつ困難だが、次項で改めて述べることにする。
 第四は、中退者や不就学者の補充教育さらには成人教育で、必要との言及はほとんどの国で聞いたが、きちんとした対応はどこもまだ、の状況である。パプアニューギニアの国立大学で通信教育の課程を見学したが、その年に国が出す補助金の額で登録数がたちまち上下する段階だったし、ネパールでは理想主義的にコースを設けたが、学生が集まらない、とのことだ。インドネシアは就学率アップに集中して補充教育にまで手が回らず、インドシナ二国も同様であろう。
 第五として、五カ国中二国に共通程度の改革がいくつかある。教育に関する決定権が国に偏りすぎていた所では、地域に即した内容や地域語使用を認めるケースで、パプアニューギニアとインドネシアが該当する。学校経営の効率化・底上げが必要、として視学の育成や校長・指導的教員の研修を行なうのは、ラオスとカンボジアに共通していた。
 思い返すと日本は、開国から明治維新にかけて、全国民の基礎教育とエリート育成とを、同時発進し並行して進めて、一応成功したといえよう。もちろん江戸時代までに寺子屋、藩校ほか教育面の蓄積があり、植民地のマイナスなしに発達した社会など、恵まれた条件下でのことであった。

 2―――教員養成の改革とそれを阻むもの

 教育改革は必然的に、教員養成制度・内容の変革を伴う。この点でも五カ国は一致していた。これまでの養成制度はというと、国によって多少の違いはあるが、初等中等教員のそれは、高校年齢の職業学校(師範学校)だったり、高校卒イコール小学校教員資格だったり、あるいは被教育歴・年齢共にまちまちバラバラだったりと、五カ国共に不備だったといっていい。これを改めて、高校卒を前提とし、小学教員は教職の学習一年、中学教員は二年などときちんと定める方向が、五カ国ほとんど共通である。同時に、小さな養成校が無原則的に散在していた所では、整理統合して配置し直すことも、数年がかりの計画で進んでいた。
 高校教員は国立大学の教育学部で、または教員養成を主とするカレジで、というのがほぼ一致した方向である。それら以外の学部や大学に学ぶ学生が教員を望む場合は、一年の教職課程でそれぞれの専門を生かした資格がとれる。大学教員は当面大学四年卒を資格とし、ゆくゆくは修士博士の率を増やしたい。以上が、初中高等教育にわたる養成制度改革の最大公約数であった。
 こうした要資格年数の整理・改善は、必然的に養成教育内容の見直しや改善を伴う。そしてこれも当然、前項で述べた初・中等各階梯の改善と連動する。訪れた各国の養成校はどこでも、こうした面の研究に力を入れていた。例えば内容教科の充実に向かうラオスでは、養成校の専門コースを人文科学、社会科学、英語に分け、小、中の課程別に教授法などと専門学習との比率を定めていた。
 これら教員養成制度・内容の改革は、必然的に現職教員の再教育を必要とする。これまで不備だった所ほどこれが大仕事になるわけで、各養成校では新制度の学生たちと再教育組の両方を引き受けて大忙し、というのが五カ国共通の現象であった。しかし現職のまま休暇を利用したり期間を区切って養成校や再教育センターに通うのだから、対象者数は多いし、計画の進行は遅々としているのが一般的である。例えばパプアニューギニアでは、改革後数年経つが小学校教員中新資格を得た者はやっと四〇%、インドネシアでは、同教員数がパプアニューギニアの一一倍強だから仕方ないとはいえ、約一〇%にすぎない。
 考えてみると日本では、師範・高等師範がもっぱら初・中等教員養成を、しかも分業して行なう限定的制度が明治以来長く、そのごく初期や敗戦の混乱中のみ、速成や無資格でも教壇に立てたカンボジア風時代もあった。戦後一挙に養成諸校は四年制大学に、そして教職課程の並行履修によりどの大学どの学部でも資格がとれる開放制となった。そして今は少子化などにより、養成大学や学部の再編、一般大学化が進んでいる。二一世紀には、どうなるのだろうか。

 ところが、である。このようにアジアの途上諸国では、教員養成制度の改革と内容つまり教員の質的向上へと一致して努力を傾けているのだが、直面する困難もまた乗り越え難く巨大なのが、五カ国完全に同一であった。国ごとに記した通りどこでも、教員の給料が安く社会的地位が低く、従って人材を集め難いことに苦しんでいた。途上国では、事情や程度はさまざまだが産業近代化・経済発展中なのも共通だから、義務教育以上の学歴者への需要は多く、大方教員の数倍の収入である。養成校を出ても理数系英語系コースを筆頭にその方への流出が増し、肝心の教職は「下手をすると永遠に『デモシカ教師』の吹きだまりになりかねない」。
 教員の給料を上げられればいいのだが、義務教育要員はどこも公務員ゆえ、国の乏しい財政ではどうにもならない。次代の子どものため、と教職の意義を説く精神主義は、現実の経済格差の前には微力である。教職員組合は、随時小、中学校で聞いた限りでは一応あるが、賃上げや待遇改善を叫んでストをやるような元気はなく、大方「マイルド」だそうだ。教育学部や養成校の学生自治会なども、同様である。いったんは教職に就いても、より有利な機会に出会えば、転職は自他共に止めにくい。
 各国でつきあったガイドの中にも、該当者が何人もいた。代表的な例はラオスのポンさんである。地方の普通の人びとの生活に触れたいというわれわれの希望を的確に受けとめて、観光用でない本物の農村、手工業の現場に案内してくれたし、寺での解説も要を得てみごとだったが、聞くと統合前のドンドク教育大学を出て、そのまま大学教員になったという秀才で、ガイドに転じたのは全く収入のためとのことであった。ガイドの傍ら、ラオスの民話伝説を発掘し英訳紹介もしており、ドイツ語ロシア語も独学でこなせるという、いわば知識人の典型なのに、である。彼とは別に、車中から指してあれが当県の教員養成校、と説明してから、自分も最近まであそこの教員だった、と話したガイドもいた。
 転職しないまでも家計ゆえの欠勤や副業は当然と、どの国でも聞いた。カンボジアの小さな小学校で、夕刻教室に灯が見えたので何気なく覗いたら、二〇人ほどの生徒に英語を教えていて、ここの教員の堂々たる内職だった。公務員は教員同様薄給だから、欠勤・内職半ば公認で、教育省はどこでも建物はいかめしいが、人影少なく活気に乏しかった。ネパールで一週間通しでついてくれたガイドは、本職は某官庁の公務員で、この間堂々副業に専念したわけだ。おまけに彼は日本語学校の教員もしていて、計三枚の名刺を持っていた。官庁に行く暇が、どれ位あるのだろうか。カンボジアで空港送迎役だったガイドは、王宮の案内係が本職で、朝出勤簿にサインしたら脱けてくる、とけろりと明かした。副業常習者らしく、そうできるのは仲間も同様だからにちがいなかった。

 3――就学率と中退問題
 女性・子どもの労働と関連して

 前述した通り五カ国のどこでも、就学率を高めるのが教育改革第一の目標で、教える中身をよくし教員の質を高める努力は、それと密接に関連している。どの国でも半数未満の子しか学校に来なかった段階から、七〇、八〇%へと、ここ四半世紀ほどの間に確実に増えているが、時々一〇〇%を超える数字があってオヤと思う。これは六歳七歳など法で決まった年齢時に就学せず、遅れて入学する子がいるためで、経済変動などの影響でそうした子の多い年には、当年の就学予定人数を超えてしまうのだ。授業参観で、年かさらしい大柄な子が数人うしろの席にかたまっている教室を、度々見かけた。
 では規定の例えば六年までこれが続くかというと、そうではなく一〇〇%を超すどころか、修了者は入学者の六〇~七〇%あたりが普通だ。日本でのように、全員が決まりの年に入学し、特別の事情がない限り同じ数が決まった年に卒業する、という制度期待に合致する国は、一つも無かった。就学率が女子に少なく、さらに中退率も高いことも、五カ国全く共通である。学校ぎらいや不適応も含まれるだろうが、不就学・中退の主な理由はどこでも、親自身が学校経験に乏しくて就学に消極的になりがちなことと、家内外の労働を優先することで、子自身も同じ見方で従う結果である。
 農村にある小学校の高学年クラスで、「家に帰って何をするの」とたずねたら、男児は「牛にえさをやる」、女児は「水汲み」「掃除」「後片づけ」などと、口々に答えた。田畑の仕事には挙手がなく、まだ家業の本格的な担い手ではないが、一〇代ともなれば、一家で不可欠の働き手であろう。途上国はどこでも産児数が多く、ネパールやインドネシアに見るように二人っ子政策も効を奏し難いから、女児の子守や家事労働は必須である。今も残る早婚の風習が、特に遅れて就学した女児に中退を生じがち、とも聞いた。
 家業や家事の補助労働だけではない。貧しい労働者の住む都市近郊の小学校で、経済危機以降、高学年の子は放課後に働きに行く例が増えた、と聞いた。直接見聞きはしなかったが、工場などでの長時間労働や女児の接客業など、心身を損ないかねない就業への道は、危ない近さであろう。日本の子どもたちがこれらから完全に守られているのは明白なプラスだが、その反面、動かすのはテレビゲームの指一本という生活は、別の意味で心身を損なうのではないか、自分では意義の感じられない勉強漬けは、別の意味の強制労働ではないか、と考えさせられる[*8]
 また、女子の就学・完学率が低い事実を見て、これら途上国で性差別があり、女性が不当に扱われている証拠、と思いこんでは間違う。ラオスのある農村調査で、女児たちが家族と共に家計を支える労働に進んで参加し、特にこの国独特の美しい織物の織り手となる希望から、「就学の機会を進んで弟妹にゆずる」事実が示されている。しかも織布や農産物の販売が女性専有の仕事であり、これらの労働に見合う農事・家事上の決定権を彼女たちが持つことも、立証されている[*9]。ラオスの村の四つ角などで、陽気に喋りながら物を売る女性集団のパワフルさに、圧倒されたものだ。
 むしろ日本で今も根強い、男は外で働き女は家庭という考え方や、能力差の思いこみ、カネになる仕事は男の独占という労働環境の方が、別の意味で性差別の源泉ではないか、という気がしてくる。

 4――民族言語と英語学習

 五カ国はそれぞれ多民族から成り、したがって多言語の使用という点でも、共通していた。例えばラオスでは、同じように市や街角で物を売る女性たちが、ラオ族とモン族とでは髪型、肌色、服装など、すべて異なっていて一目で見分けがついたし、言葉は聞き分け得なかったが語調・勢いが違っていたと思う。パプアニューギニアの奥地には、今も原始に近い生活を営む部族があってクラン間の報復ルールに生きているし、ネパールでは、最多数派のネワール族でも人口の六割程度、インドネシアでは八〇〇族語といわれ、少し大げさに言うと各島ごと別の言葉と言ってもいいそうだ。日本の方言や地方ごとの気風・慣習などとは、ケタの違う多様さなのである。
 そんな中で一つの国としてやっていくには、多民族間に大きな争いがないこと(パプアニューギニアでもある程度報復の交換をしたら手打ち式をして和解する)と共に、コミュニケーションを可能にする共通語が必要だ。共通語の成り立ちは国ごとにさまざまで、インドネシアが独立の際、多数派民族のジャワ語でなく、近隣で使用のマレー語を元に新しい共通語を作ったのは、人工性の勝った例だが統一に功を奏した。パプアニューギニアの共通語ピジンは、英語を元にしたやはり人工語だが、人びとの古くからの行き来・交易に伴って自然に訛り変化したものの採用という。ネパール語も、最多民族の言葉を避けた証拠に、ネワール語で数えることを許された私立学校があって、訪問した。しかもそこはネワール族の専有ではなく、他部族の子も望めば入学できる、とのことである。
 先述した通りパプアニューギニアは、高校が全国で国立四校しかないエリート教育だが、その一校に行った際、週一度の朝礼で国歌斉唱のあと全員で読み上げるという、「誓いの言葉」を見せてもらった。「パプアニューギニアは一つ」と題して、「老若男女数千の口あろうと一つの言葉を話し・・」云々とあり、「神われらを導き給う」で終わっている。多民族を抱える国に共通の願いであり、「やがて国を担う若者たちに、その使命を常に自覚させる教育の一環なのであろう」(報告書より)。
 古来、征服した民族が被征服の人びとにそれまでの言語を禁じ、自国語を強制する例はたくさんある。ヨーロッパ列強にはさまれた小国の悲劇や、日本が朝鮮に強いた日本語使用と創氏改名、などである。征服でなくても国内の多数派が、少数者の言語を有形無形に圧殺するケースも、アイヌの例を引くまでもなくたくさんある。五カ国における言語使用の歩みには、一応それらの轍を避けようとする賢明さがうかがえた。

 しかしその反面で、どうも気になる経験が重なった。それは上述の共通語とは別に、英語に対する扱い方に共通の傾向が見られたことだ。それは、学校階梯を上に行くほど英語を話し読み書きできることが出世の条件であり、それを反映して階梯の下部分でも、中学から小学校、さらに幼稚園へと、英語学習の低年齢化が、申し合わせたように共通に見られたことである。
 ラオスでは、小学生と話すときはラオ語つまりラオ人ガイドの通訳が必要だったが、大学や教員養成校で学生と話すときは、教室・寮共に当然のように英語だった。翌年春のパプアニューギニアでは、小学校三年生から英語で対話ができ(「習いはじめなのでやさしい単語でゆっくりお願いします」と担任教師の注文がついたし、ピジンが共通語だが)、高校では授業そのものがもっぱら英語だった。
 一九九九年のネパールでは、小二の教室で「動物には足が四本あります」程度のやさしい文章ながら、まともに英語の授業をしていたし、ネワール語主体の私立学校では、何と幼稚園の年少組から英語を学んでいた。ただしハミガキハブラシの類の絵を英単語つきで黒板に描いて説明し、英語に慣れると共に身近な科学や生活習慣を学ばせる、多目的授業である。小四の社会科では、英文の教科書を使っていた。インドネシアでも、これまで英語学習は中学からだったのが小四からに早まり、まだ各種資料にはのっていない最新の改革なのに、訪れたスラムの小学校にも着実に実行されていた。
 くり返す通り訪問国の選択、行けた学校など、すべて偶然が大きいのだから、これだけ揃った経験から、共通の事柄を読み取らざるを得ない。それは英語の熟達を、知識人としてあるいは社会的成功の条件とし、それをめざしてなるべく早期に学習を始める傾向が、一致して表れているという事実である。植民地時代の英語との距離が、多少現在を規定するといえるが(ネパールはインド文化圏)。中でも五カ国中最も英語に近縁のパプアニューギニアでは、中・高校校舎のあちこち、校庭の木の幹に至るまで、「英語で話そう」「英語で考えよう」と英語で書いた紙が貼ってあった。
 「前者は道具の熟練ゆえまあいいとして、英語で考えることの勧めには、あっさり肯定しきれないものがある。諸国を制覇し植民地化し、今も世界を一方向に進めつつある強者の思考をわがものにすることは、立身の便宜などを超えて、民族の魂の改造ではないか」と報告書にある。日本でも最近、「英語を第二公用語にする」アイデアが話題になったが、アジアの途上国はすでにその方向に歩みだし、否疾走しつつあるのが現状のようだ。

 5――宗教と教育
 戦争とも関わって

 宗教と教育の問題は、日本ではほとんど意識せずに過ごせる。憲法に宗教からの独立が明記してあるだけでなく、宗教立の学校は特殊少数で、生活自体も宗教色ゼロに近いからだ。アジアのこの五カ国では、国民の大多数がそれぞれ特定宗教の信者で、教育とも有形無形の関わりがあった。
 ラオスとカンボジアでは、街の至る所で、黄や朱の衣を着た僧を見るし、男子は生涯に一度は僧になるしきたりが、今も全く廃れてはいない。学制以前の長い間、寺は子どもたちの勉強の場を兼ねた。今も小学校が寺の境内やごく近くに建っている例をいくつも見たし、寺内では十代前半くらいの少年僧が経を習ったり薬草を切ったりする姿を見た。僧になるための高校に通っている少年僧と偶然知り合って、様子を聞けた。英語、数学など現代諸教科がちゃんとあるほかに、サンスクリットなど僧必修の学習が加わって、勉強は大変そうだ。各々寺に住みこんでの通学で、好きな教科はとたずねたら、揃って「英語」と答えた。貧しい家の子が幼時から寺に預けられて、修行半分働きながら小中学校に通う例は今も少なくないという。
 パプアニューギニアでは大多数がクリスチャンだが、先述した陽気なミサとの出会い以外、それらしい建物や行事を見なかったし、学校でもその気配はなかった。イギリスの植民地だったから、新教中心ゆえかもしれない。毎日が安息日のように、人びとはゆったりと街や市にたむろする。盗むなかれ殺すなかれの戒律も、所有の観念があいまいで自然人的ルールが優先するここではあまり力を持たないようだ、との観察は、前に書いた。
 ネパールの主宗教はヒンズーで、創始者、教義共に定かでない多神教だから、教育との関わりも無形に留まっている、と見受けた。死んだらガンジスに浸るのが、信徒最高の願いで、業を浄めて再生輪廻する道だそうだから、火葬の現場を子どもにも公開しているのは教育的意味もあるのだろう。この国が多民族とチベット仏教など異教徒の混在にも関わらず、内戦がなく人びとが穏やかで平和なのは、宗教とどう関わりがあるのか、わからない。
 これらの国と対照的に、教育・社会全般に宗教色が見られたのはインドネシアで、さすがイスラムの強力さを見る思いがした。全学校階梯にわたってイスラム系が並立することは前述したが、普通の小学校でも宗教の時間はもっぱらイスラムで、それ専科という男教師は、一~二年生には絵やお話から入り、高学年ではコーランを読ませる、と話した。イスラム系学校は、貧家やハンデのある子が集まる社会福祉的色彩があるそうで、ラオスでの寺の機能と対応している。国立大学医学部にも祈祷のための部屋が設けてあって、ちょうど夕べの祈り(日に五度、大よその時刻も決まっている)に男女学生が集まって、床に頭をつける拝礼をしていた。「仏像風の飾りなどいっさい無いただの部屋で、・・明らかな異教徒五人の侵入を誰一人咎めずむしろにこにこと友好的であった」と報告書にある。祈りの部屋に限らずキャンパス至る所で、袖・裾長く白いかぶりもののイスラム女性がかなりいて、授業や実験に、当方との問答にも明るく答え、てきぱきと行動していた。
 戦争は、不自然な死を大量に強制する。パプアニューギニアの慰霊碑の前では、この故国に続く青い海を見ながら餓死熱病死した十数万の日本兵の、無念と望郷の思いをかみしめた。ポルポトの殺りくは、同じ民族同じ宗教の中でも起こり得る、人間の残酷の極致といえる。宗教は救いだが、異教徒と戦い殺すことは罪ではなく、神の栄光を顕現する善であり得る。民族意識と宗教心とは複雑にからまり合って、人類の歴史にたくさんの悲劇を生んできた。
 それらを乗りこえる平和への道は、狭い意味の宗教教育ではなく、といって宗教や民族を無視した単なるグローバリズムでもないだろう。四大宗教発祥の地を持つアジアで、ちょうど二〇世紀を終える今、何か新しい風を起こすことはできないだろうか。と、四つの宗教を奉ずる国々を回って考えた。

 6――未来への希望
 子ども、青年たちの輝く目

 こうしてわれわれの訪問したアジアの途上国では、一致して教育改革に乗りだしているが、行く手は平坦ではない。教員養成は国の貧しさと社会的慣習の中で思うようにいかず、出世と富への欲望が一方的に英語への傾倒を強める。経済危機は長年の努力を押し戻しかねず、貧しい地域をいっそう貧しくする。実態を知るほどに、こちらも溜息の出る思いだった。
それでもなおこれら途上国の未来に希望が持てる、道は閉ざされていないと思うのは、単なる気休めや身びいき的楽観ではない。根拠は、主観的な表現を免れないが、各地で出会った子どもの輝く目と笑顔、青年たちの真摯な努力ぶりもまた、五カ国共通だったからである。
 最初の訪問国ラオスで、首都郊外の教員養成校に行く途中、一服したいと旅行社のワゴンを停めたのが偶然村の小学校の前で、休み時間の二年生たちにとり囲まれたのが、出会いの始まりだった。皆粗末な身なりだが生き生き輝く目と笑顔で、好きな勉強は「お絵かき」、先生を好き? に肯定の大合唱。この出会いが、以後どの国でも子どもたちとナマの対話をする、われわれ独自の現地調査法をスタートさせた。
 同様の経験を重ねるうち、「先生を、学校を好き?」「大きくなったら何になりたい?」の二質問が、小学校の教室での定番となった。前者にはどこでも、教室を揺るがすような肯定の合唱が起こり、後者にはほとんどすぐ全員の挙手と、「先生、パイロット、医者、看護婦」といった、身近でカッコよく人の役に立てそうな職業が、次々出る。学年が上がるにつれ、「科学者、法律家」など知的な仕事へ広がる。この挙手と答の明るい速さが、どの国でも共通で(カンボジアでは小学校を訪れる機会がなかった)、印象深かった。日本の小学校に未知の外国人が突然来て同じ問をしたら、これほど明るく速く全員が、肯定と前向きの答をするとは残念ながら思えない。
 無知ゆえの大らかさと言い捨てるのは容易だし、第一次産業中心の国々なのに農民、大工などの答が少ないのは気になる。しかし洋の東西を問わず、子どもは親を写す鏡であり、小鳥が空気の汚染を真先に感知するように、苦難の中でも前進しようとする社会の上昇気流のようなものを、子どもたちは敏感に察知し全身で表現する、とは言えないだろうか。問題は、こうした直感的な明るさが、成長と共に現実の厳しさに会って萎縮し、知ることが却って力を失わせる数年後、がまた五カ国共通に表れるかどうかであろう。
 年長の生徒と対話する機会は、小学校より少なかった。が、ラオス国立大学の教養課程で、日本語を選択履修する一年生一六人(全員一〇代)が次々日本語で自己紹介をし、「ヨロシクオネガイシマス」と結んだあいさつ、全員が日本留学を望んで各自希望の専門領域を答えたさわやかさを、忘れられない。教員養成校の寮は、日本の戦後すぐ並みの貧しさだったが、なぜ教員を志すのかと聞いたら、「子どものため、自分も成長したい」、少数民族出身者は「故郷に帰って良い先生になる」などと、明るく答えた。パプアニューギニアの国立高校では、生徒自治会長の女子学生が懇談に同席して、校長の求める資料を持ってきたり、生徒に関わる問にハキハキ答えたりした。そのあと校内を案内しながら、理系クラスの十二年生で、大学ではコンピュータ方面に進む希望、と語った。
 日本に留学していて休暇帰省中の学生にも、何人か会った。良い技術者になって母国を富ませたい、と言うラオスの青年。経営学を学んでいて、将来父の旅行社を継ぎ、スタディツアーで両国青年の交流を盛んにしたい、と語った一人は、カンボジアの苦境の中でだった。
 調査予定国の様子を知るため、日本に住む留学生を研究会に招いたことも、二例ある。パプアニューギニアから来て数カ月という一年生は(したがって英語で話した)、大使館で資料を集めたりしてみごとな報告をしたし、農工大の大学院で環境科学を専攻するネパールの若い女性は、しっかりした日本語で高レベルの話をし、次々出る質問にも的確に答えた。同年輩の日本の学生との違いは驚くほどで、彼らを育てた母国の教育を知りたい意欲が、高まった。やがて調査実現に向かう、推進力となったのである。
 彼らの優秀さは、日本の戦前に似たエリート大学生ゆえ、の面も持っている。そのエリートたちが、他の極に沈む貧しい人びとのために力を費やす場面を、インドネシアで見た。医学生や教師の卵は、離島での全科診療や教材自作を視野に入れていたし、工大生はストリートチルドレンの施設で手仕事指導のボランティアをしていた。とりわけ貧しい人びとのための研究と活動をする現地NGOの一人は、生物化学専攻の女子院生で、的確な説明と応答を一人でこなし、懇談を実りあるものにしてくれた。週半分ずつNGOスタッフと院生のかけもち、二人分の活躍である。同年秋には交換留学で日本の大学院に来ると言っていた。再会も楽しみだが彼女の未来こそ、大きな期待と楽しみである。
 国の繁栄と前進が、資源の有無や工業化の度、さらに情報への対応その他多数の要因で左右されることは、たしかだ。しかしそのどれも人間がやることで、国民の知力と共に、特にその若い層が未来に希望を持って意欲的に行動できるか否かが、大きな力を持つことは否定できない。僅かな偶然の接触だし、良い面を見たい偏りもあるだろうが、以上がアジアのこの地域に希望を持てる根拠である。それは同時に、日本の青少年はどうか、というまじめな自問となってはね返ってくる。

 7――日本人たち
 途上国支援のあり方を考える

 どの国でも必ず日本人と会った(ゾロゾロ歩く観光集団やトレッキングは除く)から、これも五カ国共通で、考えさせられた意味で問題点ともいえよう。事前に予定した人と偶然の出会い、JICAほか公務で来ている人と民間人、とさまざまで、日本とアジア途上国との関わりに、多彩な光を当てることになった。会った順ではなく、組織(NGO、政府系)メンバーから個人へと、要約程度だが一人ひとりを書きとめておきたい。
 ラオスとカンボジアは前述の通り二つのNGOの世話で行ったから、現地で会った日本人もそのスタッフや関係者が多かった。SVAビエンチャン事務所で、謄写版づくりと「BUNSYU」に出会った感動は、前に記した通りである。またプノンペン事務所長は、着任六年目とは思えない完全なクメール語(カンボジアの共通語)を話し、先進国のNGOたちが遅れたアジアへの軽侮感を今も脱し難いこと、NGO間のネットワークが必要なことを、静かな情熱で語った。チャンタソンさんと同行の日本人グループとは二夜会食したが、美術を子どもたちに教えに来た画家、紙芝居作りに夢中な年配の女性など、多彩なボランティア揃いで、当地の人びとと一緒に楽しそうに作業している現場にも、行き合わせた。
 定年後の人生を途上国支援活動に賭けた人びととも、出会った。一人はNGO「ネパール教育支援の会」の事務局長で、初見のわれわれを快く受け入れて、訪問先のアレンジや適切な案内をしてくれた。たまたま母上の訃報で急きょ帰国となったが、戦後女手一つで三人の子を育てた気丈な母(享年八四歳)は、息子の新しい生き方を一番理解しはげましてくれた、と話しながら彼は涙を流した。
 インドネシアで出会った別の二人は、日本の大学を定年退職後の単身赴任で、この国の理数工系教育革新を推進する専門家として、招かれた人たちだった。研究、教育プラス雑務で多忙だった前職よりも、創造的な仕事に専念できる今の方が楽しい、と元気一杯で、当国人たちの指導に際して日米の既成事績を押しつけるのでなく、現地協力者の意思と選択を尊重する、と一致して話されたのが、途上国支援の要諦として強く印象に残っている。
 この二人はJICAのプロジェクト要員で、同じ組織の事業の一つに、海外青年協力隊がある。こちらは二~三〇代の応募者を、特技に応じて支援要請のあった国に派遣するもので、隊員二人に偶然出会えた。パプアニューギニアの中・高校でコンピュータ指導の人と、バリ島のホテル・旅行カレジで日本料理伝授の人とである。どちらの特技も、当地では教員にとっても未知に近い領域だから、求めに応じて彼らにも教え、クラス担任や生徒指導までする精力的な活躍ぶりに、感心した。料理の人は、「箱根の有名旅館にいたそうで、任期二年後はどんな土産を持ち帰るのだろうか」(報告書より)。
 JICAを含む日本の政府間援助、いわゆるODAは、真に支援を要する末端の人びとに届かない、日本企業に利するハコモノや道・橋作りに偏る、などの悪評をよく聞く。現地で第一線の人たちと初めて会い、地道な教育支援の努力に接して、新しい認識を得た。理数工系の革新プロジェクト推進と並行して、前に書いた貧困地域の小学校給食事業をし、また別に教育省内で学校階梯ごとの相談に応じる役も置いていた。ODA予算中、教育領域の配分も一〇%台を漸増中とのことで、今後を見守り期待したい気持ちになった。

 以上はNGO、政府系の順でどちらも支援組織に属する人びとだが、全くの個人で永住し活動する日本人たちとも、出会った。一人はパプアニューギニア初日に好意でガイドしてくれた青年で、祖父がこの地で戦死、父は長じてパプアニューギニア航空日本支社長となり、両国を往復の傍ら遺骨遺品を集めて持ち帰り、郷里岩手に小さな平和祈念館を建てたそうだ。本人は二五歳、支社の現地駐在員としてパプアニューギニア女性と結婚、例のクランの一員としてすっかり当地社会にとけこんでいる。本業は日本レストランの店長で、たくましい現地の人たちを指揮するみごとなリーダーぶりを見せてくれた。日本レストランといっても、鹿やワニの肉など出て、珍しくおいしかった。
 もう一人は前に触れた、ウエワクの墓守り川畑静氏である。氏の戦場はここではなく、内地で人間魚雷の訓練中に終戦、かろうじて特攻死を免れた。自失の数年後、報道写真家として各地を遍歴、パプアニューギニア人と結婚してホテルを起業、三女を得た。慰霊関係で度々大使や政府と直談判する、「こわもての名士」である。七〇歳を超えて、そろそろホテルを手離し、「この辺の無人島を一つ買って、気侭な暮らしに入ろうかと考え」もするが、同様に老いつつ今も毎年来る慰霊団が行き場を失い、ここに眠る霊たちも慰め手を失う、と廃業にふみ切れずにいるとのことである。
 三人目は、たまたま帰日中で会い損ねたが、カンボジアで修行する唯一人の日本人僧である。もともと僧ではないが、不当に殺された一〇〇万余の霊を慰めようと、現地の寺に入った人で、近所の小学生に日本語を教え始め、やがて大人も加わって無料の日本語・日本文化塾を開いていると本で読んで[*10]、会いたかった。寺の境内の小さな庵に(だから仏教国の教育伝統とも一致するわけだ)「ウナロム学院」と日本字の表札が掛かり、その辺で遊んでいた少年にたずねたら、はっきりした日本語で留守の説明があったから、教え子にちがいなかった。
 最後に特筆したい個人は、カンボジアで偶然再会した私(石原)の教え子、和光の元プロゼミ生である。一九六九年入学だから、ちょうど大学紛争真盛りで、かなり勇ましい学生の一人だった。学生という特権身分の矛盾に気づくとあっさり大学をやめ、その後はほとんど音信不通だった。SVAのスタッフ公募に応じて、印刷技術指導者としてカンボジアに来、今ではほぼ独立の印刷工場を経営するまでになった。線が太く積極的で、「時に『蹴りを入れる』荒っぽさまでが皆をひきつける魅力になって」、現地の人たちの信頼を集めている。しかも彼らをただ働かせるのでなく、技術に熟達してやがて印刷業で自立して欲しい、「『商売ガタキが増えるわけで、自分にとっては不利なんだけど』と笑って話した」。この国の貧しい文字文化への貢献を、共にめざしたい心意気であろう。日本の大衆大学のしかも中退学生が、こうして途上国で水を得た魚のように活動しているのに出会えたことは、他の誰にもまして大きな歓びであった。

Ⅲ・プロジェクトの実践活動面――――――――――――――――――――――

 次にプロジェクトチームが行なった実践活動を報告する。これなしには、机上と見聞による受け身の理解にとどまり、研究者の自己満足で終わりかねない。ささやかな試みでも実践活動にふみ出すことによって、調査の成果は未来へと生命を吹きこまれるだろう。
 実践活動は、三方面にわたった。一つは一九九七年度にあるプロゼミの授業を活用して、学生のアジア理解と両国学生間交流を進めた試み、第二は青少年向け訳書の出版を支援するために、和光大学、同学園を対象に行なった募金活動である。第三はラオスの小学校教員を志す若者に奨学金を贈るしかけ作りで、これはプロジェクト最終年の着手だし結局個人の仕事におちついたので、概略だけを報告する。

 実践活動・1――学生間交流の試み

 和光大学関係者には説明の必要もないことだが、プロゼミは開学以来一年生向けに、必修または準ずる形で設置された、専門学習への入門科目である。高校まで受け身のコマ切れ勉強に偏りがちだった新入生たちに、自ら課題を設定し主体的にとりくむ、いわば「研究のまねごと」(初代学長梅根悟の文に拠る)をさせ、資料集めや実地体験、友人との共同作業などが実り多いことを悟らせる。したがって担当教員は、自分の専門領域の講義などではなく数歩をふみ出して、一年生が関心を持ちやすい現代的なテーマを幅広い形で提示し、学生の主体的活動が専門への導入となり大学生活の拠り所となるように、見守り指導する。
 人間発達学科では、プロゼミは選択必修で、当年度の担当教員四~五人が思い思いのテーマを掲げて学生の登録を待つ方式である。一九九七年つまり「アジアの教育」プロジェクトがスタートした当の年に、チーム代表である石原がプロゼミ担当になったのを活用して、プロジェクトの趣旨に沿う実践活動を試みた。掲げたテーマ名は、「アジアに友達を作ろう」である。

 前期の授業経過
 年度始めに学生に配る「講義要目」の当科目欄には、授業テーマとして次のように書いた。「せっかく入った大学だ。これまでの既成の枠を出て積極的に行動し、うんと人間の幅を広げよう。世界に目を向け、特に近いアジアに友達を作ろう。作り方も皆で相談し工夫しよう。自分の成長が、いま発展著しいアジアのそれと、重なり響き合うことを実感しよう」と呼びかけ調で、続く授業計画の欄には「友達を作るアイデア」として、留学生の話を聞く、アジア料理探検、外国との文通など四例あげてある。
 アジア基礎学習と親和・活動のクラスづくり
 呼びかけに応じて選択・登録した学生は一九名、ほぼ平均的な人数だ。異色の一人は内モンゴルからきた留学生で、やや不安定な日本語で自己紹介してから、自分の年齢を当てろと言いだした。次々出る推測の数に笑って首をふり、やがて三四歳、一家そろっての滞日と明かした。娘が小一で、「パパも娘も一年生」と明るく言ってクラスを沸かせた。続く当然の質問に、「故国では技術関係の専門学校の教員だったが、人間について学んでもっとよい先生になるためにこの学科に入った」と話し、クラスは一気にひきしまった。
 顔合わせの次の週は全員で大学付属図書館にでかけて、利用方法だけでなくアジア関連の本が歴史、民族・・などの棚に散らばっているのを、館員に案内してもらった。五月の数週は教員主導で、各人の断片的知識をまとめて「トータルなアジアを知る」ことと、「お互いを知り合う」ことに当てた。生まれ月や血液型等々で毎回違う組み合わせのチームを作り、黒板一杯の白地図に国名を入れたり、旧植民地の色分けをしたりするクイズで、答を書きにいくタネが尽きたチームは負け、というゲームである。
 年間授業が修了した九八年一月に全員でプロゼミ文集を作ったが、その中でこのクイズ部分の記述を担当した四人は、「国名を当てるのは皆けっこうできたけど、特徴から国名を当てるのはむずかしかった。このグループの分け方で初めて話した人もできた」と書いている。続いて「特徴と国名」の例として、「二人以上の子を持つと罰金をとられる国、枯葉剤をまかれたため奇形児が多く生まれた国・・」など五つあげている(以下引用は特に断らない限りこの文集から)。
 六月前半は、偶然だがアジア関係の講演会が二つ学内で開かれたので、予習してから皆で参加し質問もしよう、とはりきった。一つは教員の共同研究チームがモンゴルの学術調査から帰った報告会で、したがって予習は例の彼を囲んでキャンパス内の草原(=芝生)で、五月の太陽と風を浴びながらの質問攻めとなった。二つ目はベトナムのストリートチルドレンだった二人の少女と彼女らのためのホームを現地で営んでいる日本人の講演で、アジアの発展途上国に多い子どもの実情[*11]が直接聞けただけでなく、若者同士らしい比較文化論が、男女間の慣習や民族衣装などをめぐって和やかに交わされた。
 ラオスの大学生に手紙を書こう
 六月中旬、プロゼミに幸運の使者が舞いこんだ。同じ年の春「アジアの教育」プロジェクトメンバーがラオスの教育調査に行った際に、大学の寮も訪問して学生と話したとき撮った写真を送ったところ、代表らしい男子学生から英文の礼状が来たのだ。コピーを配って皆に、英文で手紙を書かないか、一人では心細いだろうから数人で組んで、ともちかけた。自信なげな顔もそれならと同意して、当日席の近かった三~六人ずつのチームができた。まとめて送って向こうで友人に配ってもらおうと、日本語文案から英訳へ、「女子ばかりの組は花模様の便せんに丸文字の英文を書いたりして、楽しい共同作業だった」。一例を和訳しよう。

 「ホー、ごきげんいかが。私たちは和光大学の一年生です。(中略、アジアの勉強をしていることなど)・・ところであなたはプリントクラブを知っていますか。多分知らないでしょうね。小さな写真のシールです(とここに女子二人のプリクラ写真が貼ってある)。これは今日本の若者の間で大変流行しています。ラオスでは何がはやっていますか。(中略、刺し身など日本の食べ物の説明とラオスの食べ物の質問)・・私たちはあなたの国と文化に興味を持っています。私たちは日本に関心を持つだれかと友達になりたいと望んでいます。お友だちを紹介してくれませんか。よいお返事を期待しています。(と余白に小さな絵やリボンが貼ってある)」

 ほかの四通も似たような構成だが、ある組は「ここは学食です」とメニューを片端から英文で説明しており、夏休みの楽しい予定満載の組、と思うといきなり「あなたは恋人を持っていますか」と聞いて、自分たちは「少し前まで持っていた」「いま夢中」と並べた組もある。大まじめに「共産主義をどう思いますか」など三つの難問を書いた組もあった。
 夏休み前最後の回は、打ち上げの初コンパ。「教室でノーアルコールながら、枝豆の数当てゲームなどで盛り上がった」。同じ日に小さな紙を配って前期の感想を求めたところ(出席一七名)、友達ができた(ただしアジアにでなくクラスに)喜びが最多の一〇件、ラオスの手紙に言及(返事が楽しみ、など)八件、クイズに言及とアジアをもっと知りたい行ってみたいの類が六件ずつなど、一人平均二件を前向きに書いた。皆ととけ合えない、自分に腹が立つ、ともっぱら否定的な文は一人だけだった。

 後期の授業経過
 いよいよ学生主体の活動にエンジンかかる
 九月、夏休みの体験を一人ひとり話すことから、授業後半はスタートした。後期の計画を立てよう、として教員が、関心を持った地域でチームを作って調べ報告し合ってはどうか、と提案したが、学生がグループ相談の末にまとめた意見は、後期は積極的に出て行ってナマのアジアの人びとと会いたい、なぜなら前期は教室での勉強や手紙という間接的手段中心だったから、というものだった。教員が喜んで賛成して具体化をと促したとたん、皆乗ってきて次々とアイデアを出した。結局のところ、(1)和光大学にいる留学生との交流、(2)東京外国語大学の留学生日本語教育センターに出かける、(3)カンボジア料理を食べに行って話を聞く、の三つの計画が立った。「和光の留学生は、中、韓、台あたりの出身者が多く、外語大ではそれより南の各国が多いので、友達作りはぐっとグローバル化の運びとなった」。
 なぜ外語大に出かけるかというと、「アジアの教育」メンバーにそこの教員(和光は非常勤)がいて、橋渡しを頼めたからである。ただし実際の交流はすべて学生の手で、と合意してあり、先方(全員寮生活)との連絡係二人が名乗り出た。学内の留学生に渡りをつけるには、彼ら対象の授業「日本語・日本事情」にのりこんで呼びかければいい、とさっそくビラ作りの班ができた。(3)は大学に近い町田駅近くに教員なじみのカンボジアレストランがあって、連絡とまとめ役が決まった。一〇月にかけて各係の仕事と報告・相談の持ちよりで、「三つの計画は元気よく同時進行して行った」。

 ラオスから返事が来た!
 「そこへ、必ずしも当てにしていなかったラオスからの返信が届いて、みんな大喜び。読み合い交換し合うにぎやかな教室風景を、写真にとろうと一人が言いだして、事務局のカメラを借りに走った。どの返事も次の手紙を熱心に求めていて、二度目の英文作りが再開した」。皆が写っている一枚をのせよう(次頁)。
 返信はどれも、異国の大学生に手紙をもらった驚きと喜びにあふれていた。「私は本当にびっくりしてしまいました。あまりの嬉しさに食事をするのを忘れてしまったほどです」など。そしてこちらの手紙の内容ごとに、誠実な返事が続く。「プリクラについては全く聞いたことがありませんが、あなたの写真はすてきです」、学食メニュー組にはラオス料理いくつかの説明、夏休み組には帰省と故郷の祭の話、という具合だ。共産主義の問には「答えることがとても難しい」ので飛ばして、ほかの二問にきちんと答えていた。三人の連名で薬学と建築専攻とあったり、英語だけを学ぶ三年生など、いろいろだ。学生たちの再返信もそれぞれに、親しみの深まった内容になった。「ラオスは今暖かいの? 日本では日に日に寒くなります。だから私たちはコートと手袋を着けています(注:一一月二六日発信)」といった調子である。

 カンボジアの苦難の歴史を聞く
 他の三活動について、文集の記述をもとに簡単に記そう。カンボジア料理体験は一〇月下旬、一五人の参加で実現した。
 店主の女性は日本留学中ポルポトの大虐殺で家族のほとんどを失い、生き残った弟妹を日本で世話した人で、今故国に女性と子どもの自立のための職業訓練所を開いている。
 思いがけない話を聴いて皆感銘したらしく、文集でこのパートを受け持った三人は、彼女の著作[*12]をきちんと読んで要約しただけでなく、カンボジアの歴史や地理を図解入りで解説し、参考文献数冊まであげてある。「・・それまでの授業の中だけだと、どうしても『実際にアジアに触れる』という感覚がなかったのですが、アンコールトム(注:店の名前)に行き、そしてリポートを書くということで・・感覚が得られたので良かった・・自分の中で深めて行けたと思います」とまとめている。

 留学生との交流二題
 東京外国語大訪問の記録は、連絡係が異国の学生と用談した「初めての電話」の緊張ぶりから始まっている。当日は「おせんべい、みかんなどなるべく日本っぽいものを」みやげに、先方の留学生寮のホールで交歓。「肌の色が黒い人もいれば白い人も・・みんな思ったより日本語が上手で楽しかった」、「主な話の内容は」と似顔のマンガ入りで、TV、料理、・・「将来のことについて聞いてみた。自国とのかけ橋になりたいそうだ。立派!」などとある。「みんな自分の国のことに詳しく、同じくらいの年齢で、とてもがんばっているようだった」、「この交流会のおかげで、今までは何気なく聞いていたニュースなども、一緒に話した人の国名がでてくると以前よりも気にして聞くようになった」と係の五人は熱心に書いている。
 学内の留学生との交流会は、一一月中旬コンパ室で実現した。十数名中約半数が三〇代で、交流会の途中でバイトに去る人が多かった。「留学生は生活費と授業料、全部自分で払わなければならないが、日本の学生はほとんど親からもらっている」という発見と自省。会の後半で中国と韓国の二人の留学生の間で「紀元前後の朝鮮半島について議論が始まった」ときも、それぞれの「立場から、全く違う意見が出ました。あまりの白熱ぶりにしばらく私たちは黙って見ていることしかできませんでした」「自国の歴史についての考え方をこれだけ相手に対してぶつけることができるなんてすごい。・・私自身日本の歴史を知らなさ過ぎると痛感した」「日本の学生と留学生では『学問』というものが生活のどれくらいの割合を占めるかも、自分の中でどのような意味を持つのかも、全く違う。二一世紀に活躍するのはアジアの人達かもしれない、そう思った。」と係の三人はそれぞれ真剣に書いている。

 年の終わり
 成長の軌跡を見る

 皆で立てた計画が、ラオスとの文通も含め四つそれぞれに成果を得て終了して、静かな冬が来た。報告し反省し合ううち、まとめの文集を作ろう、係を中心に担当チームごとの記述と、後半は一人ひとりの感想をのせよう、と話が進んで、女子二人が編集役を買って出た。年明け最後の回は、原稿の整理印刷に製本と、総がかりの忙しい作業で終わった。
 ここまで引用した各チームの記述にある通り、学生たちはクラスの多角的な活動にそれぞれのやり方で参加し、特に深く関わった活動から確かな何かを受けとり、しっかり考え、成長したと見ることができる。個人ごとの文にもこの明るい成長感の自覚は、至るところで表現されている。例えばある一人は初めのうち、「アジアに友達を作るといったって、日本語でできるの? 英語の自信もないし」とすくんでいたが、手紙の共同作業をする中で「すっかりプロゼミが楽しくなった」と自分に生じたプラスの変化を書いている。
 一九人全部の引用は無理なので、特徴ある二人について見よう。その一人は、前期終了時の感想がただ一人否定的だった学生の感想文である。彼は相変わらず「内にこもってしまい・・自分に嫌気がさしながら・・授業が終わる今やっぱりこのプロゼミを選んでよかった」と書く。「自分のやることがすべて思いどおりにいかなくても段々と納得のいく自分に変えていけばいいと思う。これでプロゼミの授業は終わるが、『アジアに友達を作ろう』というテーマは終わった訳ではない。今までの授業が始まりのきっかけであってそれは残りの大学生活、さらにはその後にまでつながるものであると思う。アジアの人間の一人として、世界中に友達を作れるような人間に成長していきたい」。これは単なる願望ではなく、すでに彼が後半の活動の中でたしかに成長したことの分かる結びである。
 もう一例、モンゴルの留学生の文を見よう(原文のまま)。「私は日本の大学のプロゼミに初めて参加しています。特にアジアと友達を作ろうと言う、魅力を見つけます。一学年が終わり、言いたいことがいっぱいがあります。まず、皆さんと友達になりました。さらに日本の若い人たちの考えかた、やりかた、個人能力などを理解してきました。いっしょうにいるとき、いろいろな日本の言葉や、習慣などを勉強になりました。皆さんはやることがすべて自分の手でやるわけです。(中略)・・とても残念ですけれともプロゼミはいよいよおわり、たった一年間です本当に心から皆さんに感謝しています。これからずっと友達にいましょう」。そして自分の氏名を書いて「兄より」と付けている。まさしく彼も、日本という「アジアに友達を作」ったのだった。

 まとめ

 この事例でわかったことを、簡略にまとめておこう。
 (1)学生の活動中心の一年生ゼミで、アジア理解・交流教育は有効に遂行し得る。
チームごとの記述からも個人の文からも、このことは一応立証できたのではないだろうか。実験的に対照ケースを設けたわけではないから確言はできないが、もし以上の内容を教員が一方的に講義し続けたとしたら、一年生たちはこのように実感をもってアジアの人びとを理解し親しみ、自らも自覚と成長感を持つことができただろうか。
 (2)それには多少の技術、例えば導入部の工夫や教員から学生主導への移行などが有効なようだ。
 常にあてはまるかは分からないが、少なくともこの事例では、授業初期の毎回違うチームとアジア・クイズは、全員の相互親和とクラスの動的雰囲気作りに役立ち、後半の主体的活動の基礎となったようだ。また前期の教員主導から後半の学生中心へのきっかけは、夏休み明けの話し合いにあった。大学で最初の休暇の解放感と新しい体験とは、彼らの成長を促す見えないバネであり得る。
 (3)活動中心でも資料調べなどの地道な学習を自然に伴い得る。
 実は、この事例で学生の主体的な活動が盛んになるあまり、プロゼミの初歩的研究体験が持つべきもう一面が欠ける不安、つまり地道に資料を集め調べまとめるなどの学習がおろそかになる危惧が、教員にはあった。しかしすでに述べたとおり、結果的には、学生たちは生きた体験の感銘が強いと自然に「調べる活動」にも向かうことを、少なくとも二つのチームと数人の個人別報告で、確かめ得た。

 最後に、当プロジェクトとの関わりと多少の補足説明、その後の経過などについて、簡単につけ加えよう。
 ラオスの大学生の来信から文通が始まった経過からわかるように、チーム最初の現地訪問調査が端緒となっている。もともと現地調査をきっかけに、学生同士の文通―交流へとつなげて、実効ある活動を試みたい希望があったから、寮を訪れて話したラオスの学生から写真の礼状が届いたのは、予定の方向に沿うとはいえ望外の幸運であった。
 プロゼミの進行中、研究会や日常の場で随時、経過をメンバーに話し、協力助言を得ていた。文通の誘い水となった礼状自体、メンバーが入手して回してくれたものだった。
 ラオス学生との文通は、プロゼミ終了と共に終わった(先方も中学校教員養成コースだから、卒業のはずである)ようだが、外語大には九八年の春浅い頃、有志少数の学生同士で、再度の交流をしたと聞いた。日本語教育センターの学事暦では、一年間の日本語・日本事情学習を終えて、全国の大学や専門学校への入学が決まる時期だから送別壮行を兼ねたのであろう。
 二〇〇一年三月は、このときのプロゼミ生が卒業する年月である。それぞれに進路も決まるだろう彼らに、プロゼミでの体験がその後の学習や人生に何らかの効果を残したと思うかを、問うてみたいと思ったが、卒業間際のあわただしさの中で集まる機会がなく残念であった。

 実践活動・2――「トットちゃん募金」

 募金活動に至る経過

 ラオスを訪問して、著しい文字文化未発達に驚いたことは、前に記した。「絵本を送る」ことの意義も現地で了解したが、絵本年齢より少し年長の子たちに、楽しく読めてさらに学ぶことのはげましになるような本を贈れたら、と強く思った。日本で出たそうした本を、ラオス語訳できたらベストだが、具体的手だてが見出せないまま、月日が過ぎていった。
 チャンタソンさんには、非常勤講師で和光に来られた折などにそんな話もしていたから、翌九八年の秋に彼女から、黒柳徹子著『窓ぎわのトットちゃん』のラオス訳が実現しそう、と聞いて、好機至ると胸が躍った。しかも訳者は、彼女の友人でドゥアンさんというラオス古代文学研究者、われわれが訪問した際に教育省と教育大学に同行、橋渡しをしてくれ、同日夜会食をしたり別の日にお姉さんの家のガーデンパーティに招かれもした、つまりはかなり親しい知人である。とび立つ思いで、協力を申し出た。
 周知の通り、「トットちゃん」は、第二次大戦中東京にあった、大正自由教育の残り火といっていい小さな、時局を考えると信じ難いほどに自由な小学校のことを、当時在学した著者が童話風に描いたベストセラーである。すでに数カ国語に訳されているし、ラオスへの訳出にも最適の本といえるが、外国人がそのまま読んで日本の教育の現在を描写したものと誤解されては困る。日本の現状はどちらかというとその正反対に近く、現状に皆が抱く疑問やもっと自由で楽しい学校への希求が、この本をロングセラーにした主因だからである。その辺をわかりやすく解説した序文が、ぜひ必要だ。
 また、ドゥアンさんは日本語にあまり通じていないため、訳は原本から直接でなく、既訳の英文から重訳の予定という。やむを得ないが、重訳にありがちな誤りや微妙なくい違いを避けるには、やはり日本語に慣れた人が試訳と原文を照合する手続きが必要だろう。チャンタソンさん自身か、多忙なら代われる人が誰かいるだろうか。
 そんな助言をしたり、当座必要な費用をカンパしたり、結局前書きを兼ねた解説文を(もちろん日本語で)書いて渡す成りゆきとなった。がその後は訳の進行について情報のないまま、年が変わり月日が経っていった。

 訳文が完成したら、学生に広く呼びかけて募金をする計画は、訳出の話を聞いたときから考えていた。金が問題ではなく、そうした仕事の持つ意味を、この具体的な実例で一人でも多くの学生に悟らせ実感させるために。しかしあまりに長引くので、ラオスで本一冊作るのは日本で想像する以上に大へんなのだろうか、結局すべては画餅かもしれない、と半ばあきらめかけた。
 一九九九年九月二四日、チャンタソンさんが毎日国際交流賞を受賞したお祝いの会が、親しい仲間でささやかに行なわれた。その席で思いがけなく訳本完成の朗報に接し、その一冊を手にしたのである。祝賀スピーチに指名されたとき、私は迷うことなくこの訳本を持って壇に上がった。表紙にいわさきちひろの少女像が移し描かれ、ラオ語の本文はもちろん読めないが、ちひろのさし絵数葉が白黒ながら挿入されている、小型の本である。「絵本を送る会」最新の一事業として、実物を掲げながら紹介した。続いて私は、「アジアの教育――研究と交流」なる共同研究チームが和光大学にあることを話し、その仕事の一つとして学生たちに広く募金をして、アジア理解を深めてもらうつもりだ、と言いそえた。
 実現しないかも、と思い始めていたくらいだから、実はチームの仲間に募金計画のことは、まだほとんど話してなかった。どうやってどこまで何がやれるのか、公言してしまったあとで、実は多少不安だった。仲間を信頼して、相談しよう。夏休み明け間もない落ちつかない時期だが、さっそくメンバーに臨時召集をかけて集まってもらった。

 みんなノッてきて計画着々進行

 メンバー揃っての相談はたちまち盛り上がり、計画の細かい部分までが、次々決まっていった。学生が多く通る掲示板などが並ぶ通路と研究室棟を結ぶ地点に、募金箱を置こう。趣旨を書いた大きなポスターと、訳本の実物展示が有効だろう。期間は短かすぎず長すぎない二週間、ちょうど大学祭前まであたりが適当だ。一〇月定例教授会が来週あるから、手分けして趣旨と意義を説明し、この方は募金袋を回そう。職員にも呼びかけて、和光大学全成員の心を動かそう、と計画はみるみる大きく広く深くなっていった。
 ただ募金を求めるのでなく、「あなたの金が一人のラオスの子にこの本を届ける」形にする方がいい。訳本は現地で(出版状況からいってタイかもしれない)印刷製本したから、やや粗末な紙とはいえ一冊原価約三〇〇円と、日本とはケタ違いだが、この分かりやすい数字を使おう。三〇〇円以上を募金箱に入れたら、ラオスの子に一冊が届くと同時に、箱の横にチーム代表石原の書いた小さな論文「アジアに羽ばたけトットちゃん――現代子ども労働の一考察」の抜刷コピーを置いて、持って行くようにしよう。
 この論文は研究所の年報「東西南北一九九八」に載せたもので、トットちゃんの訳出計画を背景に、アジアの子らが学校に行けない理由の一つに家内外の労働があることを、直接の見聞と資料から述べ、日本の子どもの就学は守られているが、受験と管理の学校生活が別の意味の児童労働になっている現状を、比較考察したものである。その上で、大戦末期に自由な小学校が存在し得た理由と意味、いまアジアにこれが訳され読まれることの意義を、論じている。募金に添える使い方を予期したわけではないが、幸い学生にも分かりやすく書かれているので、読んで考えを深めてもらおうと、二重の教育的配慮を持つ着想だった。
 メンバー中若手三人は学生向け募金の係、シニア三人は教授会での説明と募金係、と受け持ちが決まり、私は代表としての総指揮と職員への呼びかけ担当になった。学生向けを引きうけた三人の作業量は一番多かったが、楽しんでやってくれた。合議で選んだ例の場所には、壁にちひろの少女像を描いた大きなポスター、その前に据えた机に、目立つようにとショッキングピンクの紙でくるんだ四角い募金箱と、訳本の実物一冊が、持ち去られないよう細い鎖でつないであり、「アジアに羽ばたけ・・」の抜刷が積まれた。和光大学は開学以来門も塀もないため、夜は机上の物を学部事務室にあずかってもらう交渉をし、出し入れの曜日別当番も、若手三人が分け持った。
 学生向けポスターの全文は、次頁のようである。持ち帰ってじっくり読んだり人に見せたりできるようにと、淡緑色の紙に同文を小さい活字で印刷しちひろの絵一つを添えたものも、机上に置かれた。これも若手三人の積極的な工夫である。

 ラオスの子どもの手に「トットちゃん」は飛びのった

 教授会で回した集金袋には、「お差支えなければお名前を」として署名と金額欄がついていた。議事の進行と共に、袋がゆっくり移っていく。一巡して戻ったとき私は、署名の少なさと袋の軽さに、危うく失望しかけた。人間関係学部はどちらかというと一匹狼的論客が多くて、この種の大衆運動には乗りにくい(例えば諸種のアンケートに一さい応じない主義を公言している人もある)かも、と。しかし教授会が終わって係のシニア三人が集合したとき、私の思いすごしが判明した。千円札が意外に多く(だから軽かった)、貨幣の数と見合わせて推測すると、当日出席者の七~八割が応じていて、署名はパスの人が多い、と判ったのだ。ほかの二学部も似たようなもので、中には十円、一円玉まで混じった袋もあって、笑いを呼んだ。誰か知らないが小銭入れを逆さにした光景が見えるようだ、と。
 さらに望外の感激は、当日欠席していたり、出席だが所用で座をはずした間に袋が通過したので、などと言って後日寄金してくれる教員が、どの学部でも見られたことだ。職員向けには、事務局長に説明し依頼文と袋を託して一さいの実務は任せたのだが、彼の裁量で募金の輪が学外へ、つまり別キャンパスにある和光学園の幼・小・中・高や法人事務室まで広がったのは、望外で驚いた。また、一一月に学内で研究所主催の公開シンポジウムが一般市民をまじえて行なわれ、年明けの一月には卒業生が多く集まる催しがあったので、これらの機会もわれわれは逃さなかった。
 話は戻るが、学生向け募金二週間が予告通り経過し終了した一一月初め、チームメンバーは全員集合して、ショッキングピンクの箱をあける儀式を行なった。教授会後とは違ってほとんど貨幣が、ざらざらと机上に山を作った。種別に分け重ねて、集計していく。十円一円でも、仕送りやバイトの金の一部だったり、自販機から方向転換してきたのかと、いとしく心通う作業だった。ここでもうれしかった飛び入りは、期間中登校しなかった四年生(卒論書きとか内定先召集で)がわざわざ寄金しに来たり、家に持ち帰った紙と話で母親が、私もぜひと子に託す例などだった。
 こうして二〇〇〇年一月末にすべての募金計画が終了したとき、集まった総額は一五万一〇〇〇円余になっていた。一冊三〇〇円として約五〇〇冊、五〇〇余人のラオスの子たちの手に、「トットちゃん」は羽ばたいたことになる。
 ピンクの募金箱あけ儀式の直後に、集まった金額の報告と学生諸君あてお礼の文章を、ポスターのあった壁に貼り、教授会、職員、学園関係にも、中間報告や最終のお礼をきちんとした。またチャンタソンさんからは、二月二日付で「和光大学、同学園の皆様」あてに、丁寧な礼状が届いた。主要部分を転記しよう。

 なお、募金終了に伴う仕事が、もう一つ残っていた。学生、教授会ほかに依頼文と共に示す見本として、実物数冊をもらってあったが、その活用法である。お礼と記念を兼ねて和光大学図書館と研究所、高校以下のキャンパスに贈ることにし、なお残る三冊は、メンバーの意見を募った。結局若手の一人がよく行く市立図書館で国際交流コーナーのある所と、東京外国語大学および麗澤大学に、贈ることが決まった。外語大はプロゼミ交流でつながりができたし、大学本来の中身からいっても活用してくれるだろう。麗澤大学には外国語学部と大学院に言語教育研究科があって、ラオス語の専門家がいると聞いたからである。
 この二大学以外は、ラオス語を読み書きできる人がいる見込みは、今後も含めてほとんどない。たちまちどういう成り立ちの本か分からなくなってしまうだろう、と一思案した。訳本ができた経過に募金活動の事実も書きそえた小さな説明文を、表紙の裏に貼り、学生配布用の淡緑の紙と「アジアに羽ばたけトットちゃん」の抜刷も、裏表紙の内側に貼りこんだ。こうして今後の何十年、全く無縁の人びとも、こんな形のアジアとの交流が存在したこと、小さなグループの発意と活動によって、たくさんの善意が実り得る事実を知ることができる「しかけ」である。

 実践活動・3――小学校教員志望の少年に奨学金を

 まぼろしの奨学金構想

 先述した通り、訪問した途上国は揃って教育改革中で、制度や教育内容の研究が盛んだった。しかしそれらに魂を入れるのは、実際に子どもと接する教師である。教える技術もだが、教師という仕事の意義を考え情熱をもって工夫する、人柄と自覚が望まれる。ところが続く項に記した通り、これを妨げる要因も途上国に共通だった。教員の給料が安く社会的地位は低くて、「残念ながら若者にとって魅力ある職業ではない」と行く先々で聞いた。
 それでもなお教員になりたい少年はいるが、貧しいために学業を全うし得なかったり、進学をあきらめたりしがちだという。国自体が貧しいから校舎教材などすべて不足とはいえ、それらは代替や寄付も得やすい。決定的な問題は、教師の能力・適性・意欲を持つ若者が、教室から閉め出されることによる損失である。
 中でもラオスは諸事情を考え合わせて、最もこの損失を蒙りやすいと思われた。実践つまり学生間交流や出版支援は、好運な機会に応じたいわばイベント的活動でも済むが、同じラオスでも奨学面については、やや長期的に取り組む必要がある。
 「アジアの教育――研究と交流」プロジェクトを始める以前から、実はこの問題は私の頭にあった。呼びかけ文に「小・中学校教員をめざす青年と・・交流する」とあるのは、その表れである。当時の私の着想は、仮称「アジアの教員志望の青年と交流しその志を助ける」基金を和光大学に設け、私がその基幹となるほどの金を寄付し、教員仲間からも継続的に寄金を募る。ラオスの貧しいが教師になる志と力を持つ青年に適額の奨学金を支給すると同時に、日本の教員志望の学生と彼らとの文通を促進する。同じ志を持つ両国の青年が経験交流し志を確かめ合えれば、どちらもよい教師よい教育へのはげましになるだろう、という構想だった。梅根奨学金の対ラオス・向教師版、と言ってもいい。
 しかし長期見込みの大きな計画ゆえに、関係してもらう人の数は多く負担も大きいことから、ためらいがあった。担当職員の事務量はかなり多いだろうし、教員志望者間交流ゆえどうしても教職関係の教員たちに、仲介の労がかかる。趣旨を話せばどちらも了解し協力してくれるに違いないが、それだけにかえってふみ切れないでいるうちに、私の定年退職の期日が近づいてきた。

 個人支援一〇年計画へ
 八割以上が先生になった!

 チャンタソンさんには折にふれてそんな迷いの気持ちを話してあったから、一九九八年一二月にラオス国立大学の学長が来日した際に、声をかけてくれて三人で新宿で話した。教員養成校やラオスの暮らしの詳しい現状が聞けたし、教育省の担当部局に話してくれるという。他方チャンタソンさんは、彼女の「絵本を送る会」現地事務所がこの奨学計画の事務いっさいを引きうけてもいい、と言う。中途で停滞していた川が、一挙に流れだした。
 計画を大きく変更することにした。基金の形で和光大学におくことと教職課程の学生間交流は、あきらめた。ラオスによい小学校教師を育てること、志ある少年が貧しさゆえにそれを捨てることのないよう支援することに絞り、私個人の小さな事業とする。初めの構想の大きさから見ると戦線縮小だが、まあ身の丈の地道なやり方におちついたといえるだろう。
 この集約化した目的が達せられるには、よい教員になる見込みの学生を各養成校に選んでもらうことと、学業を終えたのち本当に教員になったかを報告により見届ける必要がある。ラオスの小学校教員養成課程は一年きりだから、やりやすい。さしあたって初年度は試行期とし、右の%を見るには一〇人や二〇人では偶然の誤差があるからと、四〇名にした。養成校はラオス全国に一〇校ほどあり、どの校に何人とするかの割当てを含め、こちらの意図の通達と各校からの報告の集約は、国立大学長の仲介で教育省教員養成局に依頼した。
 学生を選ぶ基準として私がつけた条件は、次の四つである。(1)課程修了後、小学校教員になる意思が確実である。(2)良い教員になる見込みが強い(性格、向上心など)。(3)学業成績は中位以上(優秀である必要はない)。(4)あまり富裕でない(特に貧しい必要はない)。
 約二カ月後には四〇名の奨学生候補名簿が送られて来、すぐOKして「絵本を送る会」あて送金。課程終了後の就職先集約はかなり時間を要したが、勤務校名を明記した報告一覧は、三四名が小学校教員になったことを示していた。八五%、望外の高さである。
 二年目は三四名枠とし、初年度は学年途中で半端だったのを学年暦に合わせた(ラオスの新学年は九月)。また、養成校に少額の教材費と、教育省の担当者に些少の事務費も加えて、本格化一歩前の再試行に入った。
 こうして「アジアの教育」プロジェクトの副産物ともいえる、小さな奨学「事業」は発足し、「絵本を送る会」はじめ各方面の協力を得て、軌道に乗りつつある。が無限定に続けるのは、援助慣れのマイナスも伴いやすいから、さしあたって一〇年の予定、と「送る会」に伝えてある。「その間にラオスの社会・経済状況が向上して、教員の給料と共に若者の教職志向も安定する(これらはラオスの人たちの仕事ですよね)と期待するからです」とは、「送る会」事務局の担当者(和光大学の卒業生)にあてた私の手紙の一節である。手紙は続いて事務的な数事項を記したあとで、次のように結んでいる。
 「実は一〇年後にラオスに行って(八〇歳!)奨学生だった人の二人三人とでも話せたら、というのが私のささやかな夢です」



*いしはら・しづこ
 在職中は大学教育の実践的研究を教員数名と、訪問調査・授業参観法を中心に行ない、この経験・視点を続く「アジアの教育」共同研究にも生かした。現在は、和光大学卒業生の追跡調査による大学教育の社会的検証研究を、支援多数を得て遂行中。

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[*1] 国連開発計画『人間開発報告書一九九八・消費パターンと人間開発』国際協力出版会、一九九八年。

[*2] 上東輝夫『ラオスの歴史』同文館、一九九〇年。

[*3] チャンタソン・インタヴォン「ラオス社会と教育」(綾部恒雄・石井米雄編『もっと知りたいラオス』所収)弘文堂、一九九六年。

[*4] 綾部恒雄・石井米雄編『もっと知りたいカンボジア』弘文堂、一九九六年。

[*5] 谷内達『パプアニューギニアの社会と経済』アジア経済研究所、一九八二年。

[*6] 石井溥編『アジア読本・ネパール』河出書房新社、一九九七年。

[*7] 小川忠『インドネシア・多民族国家の模索』岩波書店、一九九三年。

[*8] 石原静子「アジアに羽ばたけトットちゃん――現代子ども労働の一考察」和光大学総合文化研究所年報『東西南北1998』。

[*9] Loes Schenk-Sandbergen, Outhaki Choulamany-Khamphoul, Women in Rice Fields and Offices: Irrigation in Laos, Empowerment,1995.

[*10] 渋井修・井川一久『素顔のカンボジア』機関誌共同出版、一九九三年。

[*11] 石原静子「人生における希望の効用について――ベトナム講演会が提起したもの」『和光大学人間関係学部紀要3号』、一九九八年。

[*12] ペン・セタリン『私は"水玉のシマウマ"』講談社、一九九二年。


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