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結び

篠原睦治 和光大学教員

 私は、和光大学総合文化研究所・朝鮮研究会の活動を企画、運営し、本誌編集を担当した同僚、ロバート・リケットさんの助け手として、「結び」を書き出そうとしている。私たちの研究会は、一九九四〜九七年度を中心に、本誌に著者として、語り手として登場していただいた方々を招くか、訪ねて、「地域社会における在日朝鮮人とGHQ」と題するテーマを考えてきた。いま、編集の仕事を終えて、当時のことを想起していると、いろいろな感想が思い浮かんでいる。
 私は、本誌最初の読者の一人として、本誌から改めて学んだこと、考えたことを書き記すことで、「結び」としながら、これからの読者への橋渡しができれば幸いと願っている。といっても、私流の「結び」とさせていただくことをお許し願いたい。
 さて、戦後間もなく、在日朝鮮人たちは、GHQは自分たちを解放したものとしてこれを歓迎した。そのことは、日本共産党のGHQに関する認識に関しても同様だった。それゆえ、在日朝鮮人は、一方で、在日本朝鮮人連盟(朝連)を結成しながら、うち何人かは日本人党員と一緒に党活動も始めた。他方、日本人党員の在日朝鮮人に対する意識は多様であったらしい。高橋正美さんは、ご自分のは贖罪意識からの活動であったと述懐しているが、本誌の証言から察せられるが、党員の多くは無関心で、朝鮮人差別の気持ちを引きずりながら、せいぜい同情で彼らの生活擁護運動を支援する程度であった。つまり、朝鮮を植民地化し支配してきた、ついこの間までの日本の歴史に対する捉え直しは、当時の日本共産党においても十分になされていなかったのである。
 私は、本誌を通読しながら、日本人一般においても同様であったと、その感を深くしたのだが、李榮娘*さんなどは、そのことをていねいに指摘している。例えば、このころ、国会においては、共産党を除くすべての政党が、進歩党議員の排外演説を支持しているのである。
 笹本征男さんは、このような根深い排外主義を支える土壌に、日本人の朝鮮人に対する「沈黙」ということを指摘している。「私的なノート」で、伯父は、故郷の発電所工事における朝鮮人の強制労働のことについて、晩年になってやっと口を開いたと紹介している。そして、やはり同郷の「益田事件」については、いまやっと「沈黙」が破られつつあると結んでいる。

 本誌が扱った時間は「戦後直後」、つまりたった五年程である。日本人にとっての敗戦の年、それは朝鮮人が日本の朝鮮支配から解放された時なのだが、在日の彼らは、大急ぎで、朝連を結成した(一九四五年一〇月)。それは南北分裂国家がつくられる以前のことだった。やがて、北朝鮮、つまり朝鮮民主主義人民共和国(共和国)が樹立される(一九四八年九月)と、彼らは、日本の生まれ変わりを期待しながら、日本の中で自分たちの生活と教育を確立しようと願いつつも、一方で、朝鮮民族の統一と独立の願いを託しうる国家として、共和国に貢献する活動を開始した。
 その中で、共和国の樹立を慶祝する行事が全国各地で開かれていくのだが、それは、その目的に留まるものではなかった。各地に暮らす朝鮮人の団結と相互扶助を表現するお祭りでありレクリエーションでもあったのである。その折、彼らは、さまざまな思いや願いを託して、共和国の国旗を掲揚しようとしていた。
 南北分裂国家の成立、なかんずく共和国の樹立は、在日朝鮮人に絶望と希望を複雑にもたらしていたのだが、この大事件は、同時に、GHQ政策と日本の政治と社会に大きくかつ急激な変更をもたらしたのである。本誌が通して明らかにしているが、そのような流動的で輻輳した国家間状況の中で、在日朝鮮人たちは、各地に国旗掲揚の運動を起こしていったが、同時にそれらは次々に弾圧されていった。その中で、彼らの「生活と教育」はさまざまに閉じられていくことになる。本誌では、朝連活動、党活動に従事する者たちとその家族に対する監視、管理の様子がリアルに描かれている。
 私は、本誌が扱った「戦後直後」はたった五年程だったと述べたが、この短い期間は、在日朝鮮人の生活と展望が急激に暗転していく時間だったことに改めて気づく。実は、この時代は、日本の植民地支配からの脱出を果たしたと思った在日朝鮮人が、南北分裂国家の成立、アメリカの朝鮮半島と日本に対する認識と政策の変更、そして、日本の強化されていくアメリカ従属に直面して、再び翻弄されはじめるときだったのである。

 私は、在日朝鮮人の歴史を被害的、受苦的にのみ描くことに熱心なのではない。そうではなくて、このような国家間諸状況の急激な変化の中で、日本人の朝鮮人差別、そして排外主義が払拭されることなく、温存、強化されていったにちがいないという問題意識に戸惑うのである。私たちの課題は、状況のリアルな理解と、その状況下で変わることなく底深く浮遊する日本人の差別意識の捉え直しにある。
 このことを確認して、(笹本さんが指摘する)日本人の朝鮮人に対する「沈黙」ということにこだわりたいのだが、私たちは、この「沈黙」を破る回路を、当時「生活と教育」の改善、改革を願いつつも、思うようにいかないまま、それでも闘った、朝連や日本共産党の活動に従事した在日朝鮮人や日本人の皆さんから「聞き取り」することに、まずは求めた。

 ここでは、「聞き取り」からうかがえる、当時の人びとの暮らしと思いの一端を短く描くことで考えたい。
 金興坤さんと夫人、鄭達先さんの話から拾うが、仙台の慶祝運動会の前日、金さんは、その準備で走り回っていた。鄭さんは、翌日のお弁当の材料を買いに外出していた。その時間帯、一家の住む中江朝鮮寮は全焼してしまったが、子どもたちも飼っていたブタどもも無事だった。翌日、鄭さんは、夫を先に送った後、お腹の赤ちゃんも含めて、四人の子どもたちと一緒に運動会に参加している。そして、「国旗掲揚事件」を目撃している。
 このあと、金さんは、政治活動の弾圧の中で、強制送還の対象になりつつ九州の収容所に入れられるのだが、鄭さんは、子どもたちと一緒に東京駅まで見送っている。東京までの車中、官憲に「子どもの教育上良くない」と抗議しながら、夫から手錠をはずさせている。そして、子どもたちには「アボジは祖国の為に働いているのよ」と諭した。鄭さんは、このときも、抗議し嘆願し、日本の役人やアメリカの軍人の気持ちを動かしながら、間もない釈放を勝ち取っている。それでも、いや、それゆえ、金さんも鄭さんも、「日本人にもいい人もいたし、米軍にも一人や二人は……」と重ねて述べて、日本人、アメリカ人それぞれを一括して敵視する傾向を自他に諌めている。金さんは、間もなく亡くなることになる病床における「聞き取り」で、「そんな時代でも、人間は平等と痛切に感じていた」と元気の出る証言をしている。
 金さんは、妻、鄭さんのこのような大変な辛苦の体験に感謝する述懐をしているが、鄭さんは、「国旗掲揚事件」を夫婦の絆を引き裂いたものとして忘れ難いと語っている。もう一つ、鄭さんは、「子どもたちは南北を問わずに遊ぶ」と述べている。民族団結と統一国家の希求は、このような夫婦、親子、そして子ども同士の生活や関係の反映であるし、このような日常の暮らしにリアルに凝縮していたのである。

 私は、「国旗掲揚事件」の証人たちから、こんなことを考えてきたのだが、本誌でいまだ論じられていない、気になる事態について触れておきたい。それは、仙台における「国旗掲揚事件」で「一人の黒人が一発発射した」という米軍及び日本警察の公式見解、マスコミ発表である。ところが、遠藤忠夫さんも高橋さんも、「MPも日本の警察も」合わせて「一〇発くらい」水平射撃していると証言している。とすると、米軍の中枢(白人)や日本の警察が自己防衛的に責任回避するために、一人の黒人をスケープゴート的に利用したと解釈する余地も残る。当時の裁判資料もその後の『宮城県労働史』も、訂正されずに、そのままのようであるが、この際、私は、アメリカにおける黒人差別と日本における朝鮮人差別が、黒人が加害者側、朝鮮人が被害者側という関係において、交叉したのではないかと考えておきたい。
 笹本さんは、「益田事件」の前後の在日朝鮮人の歴史が語られてこなかったことと、この事件に関する町民や市民の記録がないことの二つを指摘している。前後の文脈を切り離して、官憲側、行政側の記録だけで「事件」が語られるとすれば、在日朝鮮人に関わる「事件」は、往々にして、「朝鮮人=危険な存在」のしわざとして一方的に語られてしまうし、事実つい最近までそう語られてきた。そのような流布された言説(偏見)を底支えするのが、普段に暮らす日本人(「町民」「市民」)の「沈黙」とそこでの「流言」であるにちがいないと、改めて気づくのだ。と同時に二〇〇〇年になって、益田市はやっとその事実をとらえ直して、当時の町の責任を認めたことは、この際、私たちも銘記しておかなくてはならない。

 私は、「戦後直後」をまったく体験していない、若い教育者でもある瀬上幸恵さんが、姜海洙さんたちが「私たちの学校」をなんとかつくり出していく過程を、姜さん自ら語っていくのに食い入っている様子を印象深く思い描くことが出来た。
 孫文奎先生が、在日朝鮮人一世たちによる「国旗掲揚闘争」の願いと経過を、後に続く者の立場から、資料を駆使して語りながら、朝連の運動は南北朝鮮の人民の政権を支持する運動だったし、南朝鮮がそのように評価しないことは不当であると結論していく思想的、政治的決断に、学問、思想、政治のはざまにあるテーマに取り組む誠実な姿をかいま見る思いがして、そのとらえ方に同意するかどうかは別に、私は、先生の南北統一への熱い思いに呼応しつつ感動した。朝鮮大学校教員というお立場の孫先生は、さまざまな国籍や立場にある私たち研究会メンバーの前でお話しくださったのだが、このたび、その内容を短縮した形で本誌に掲載することをご快諾くださったことに感謝を禁じえない。

 私は、高橋さんが「国旗掲揚事件」について語り終えたときの感慨の言葉を思い出している。高橋さんは、ほっと胸をなで下ろす感じで「本当、本当、思い出したくなかった」とぼそりと言われたのである。高橋さんは、当時、贖罪意識からの政治活動と折々の党の方針のはざまで格闘されたようだが、このたびの「聞き取り」は、そのことをまざまざと思い起こさせることになった。「沈黙」を破りあう苦闘が、こんなときにも体験されていたのかもしれない。と同時に、「聞き取り」する側が主人になって、される側を従わせるという方法論上の倫理的・道義的課題がここにあるようにも思われる。研究・教育を業とする私たちのもう一つの問題である。
 高橋さんは、贖罪意識の原点として、柳少年との交流の日々を描いているが、彼と再会できるいつかの日が、高橋さんがその意識から自由になるときなのかもしれないと思ってしまった私は、その日の来ることを祈らざるをえなかった。
 本誌で、語って下さった皆さん、書き著して下さった皆さん、本当に有り難うございました。そして、私たちの怠惰のゆえに、はるか以前に語って下さっていた皆さん、とっくにご寄稿下さっていた皆さんには、かくほどに遅れてしまったことを心からお詫びします。読者の皆さんのご意見、ご感想をお待ちする。
 

(二〇〇〇年一一月一五日)



 しのはら・むつはる
一九三八年生まれ。和光大学人間関係学部教授。障害者と健常者の共生・共学の実践を深めつつ、心理テスト、カウンセリング、脳死・臓器移植など、先端医療の諸問題を考えてきた。老いと介護の今日的課題も。朝鮮研究会の世話人。

*「榮」は正しくは「 」。『東西南北』別冊01においてはすべてこの文字に読み替えてください。
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