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柳少年と竹とんぼ

高橋正美



 私がはじめて朝鮮人を身近な存在として認識したのは、一九三三年、小学三年の夏で、泳ぎにでかけたときである。
 その川には約六〇メートルの川幅一杯の堰提があるために泳ぎの練習には絶好の場所であった。私が川に入る準備をしていたところ、突然上流の方でざわめきが起こり、泣き叫ぶ溺れかかった子どもが流されているのが見えた。すると、その近くで箱眼鏡を覗き、ヤスをもった少年が素早く子どもを抱き上げ、川岸に運んだ。子どもらが集まって来る。泣きじゃくる子どもがしがみついている、赤銅色に日焼けした少年を見た途端、私は思わず息を飲んだ。その少年はまさしく柳(りゅう)君である。
 我が家から約百メートルから離れたところに細谷横丁と言われた小路があり、その両側に朽ち果てんばかりの長屋があった。その中程に柳君一家が住んでいた。彼の父は酒好きで、いつも鉢巻きをした赤ら顔で粗末な下着に短いズボンをはき、長煙管を分厚い胴巻にさしこんでいる頑健で大柄の人だった。母親は小柄で年中朝鮮服をまとい、錆だらけのリヤカーで家々を廻って鉄屑、古衣、空き缶、瓶を買い集めていた。私と同じ年齢の柳君は学校にも入れず、軒下で母の買い集めた品々を分類、ハンマーでの缶つぶし、りんご箱を踏み台にして大きな木箱に空き瓶を整理、積み上げるのが日課である。
 そうした柳一家は時折災難に見舞われた。隣町に住む朝鮮人たちと、柳さんを中心とする町の朝鮮人たちとの間で起こる流血の争いである。その度毎に傷ついた二〜三人の朝鮮人が警官に捕まえられる。恐怖におののき、片隅にうずくまる蒼白の柳君とその母親が何とも哀れに思えてならなかった。それぞれが買い集める地域を設定したのに何れかが侵し、唯一の生活基盤が脅かされる、言わば縄張り争いが集団での暴力沙汰に発展したらしい。勿論、当時の私には詳しいことは知る由もなかった。だが、朝鮮人をこれほどに追いつめる生活環境を誰が作りだしたのかを正しく理解するまでには以後一〇数年の歳月を要したのである。
 柳君は子どもらが遊んでいるところへは決して入らなかったし、子どもらもまた彼を遊び仲間に加えることは決してなかった。従って、彼はいつもひとりっきりでコマ廻し、ケン玉などで楽しんでいた。特に彼の竹とんぼは見事だった。ある日、子どもらから離れたところで彼は竹とんぼに夢中であった。ところが、空中高く上がった竹とんぼが運悪く子どもらの輪の中に舞い降りた。途端に子どもらは柳君を睨みつけるや否や、「帰れ! この朝鮮っ子! 朝鮮っ子!」と一斉に怒号や罵声を浴びせながら逃げ惑う彼を追う。
 やがて、子どもらがいなくなった跡には、無残に踏みにじられた竹とんぼだけが残された。私は常日頃彼の竹とんぼの素晴らしさに関心をもっていたので、その残骸を持ち帰った。羽根の削り工合、廻しやすく工夫された軸棒、見れば見るほどそれは精巧に造られているのに私は驚き、感心せざるを得なかった。私はその造り方が知りたく、思いきって彼の家を訪ねた。彼も彼の母親も快く迎えてくれた。私と彼が夢中で話をしている間にでも造ったであろうオヤツ――メリケン粉、味噌、それに黒砂糖を混ぜ、茗荷の葉に包み、フライパンで焼き上げたもの――の美味しかったのがいまだに忘れられない。
 以来、私と柳君は急速に接近し、わが家に誘うと、彼は竹材、細工道具一式を抱えて来ては箱橇、竹馬、竹スキー、釣り竿の造り方まで、たどたどしい日本語で丁寧に教えてくれた。そんなときの彼の瞳はキラキラ輝いていた。こうして私と柳君は茸狩り、あけび取り、スキー、魚釣りなどで私の友も交えて遊ぶ機会が多くなった。連れの友と彼がふざけ合い、談笑するのを傍らで眺めていた私は無性に嬉しかった。
 だが、こうした柳君との交流も長くはなかった。私が小学五年になった頃、帰宅した私に母は告げた。今朝程、柳君を伴った母親が来てこの町を去るとのことだった。私は驚いて彼の家まで走った。戸は固く閉され、軒下の品々は跡形もなく片付けられていた。私は何か貴い物を失った思いが一杯で家路を歩む足取りは重かった。以来、柳君とその家族の消息は絶え、二度と会う機会はなかった。
 キラキラ輝く真夏の太陽の下、取り巻く子どもらの前で、しがみつく子を抱きしめて川岸に立っていた柳少年は際だって大きく見え、全身から醸し出された形容しがたい威厳と清々しい誇りに満ちた雰囲気が私の脳裏に刻み込まれている。町を去った彼は、多感な青春時代を、旧態依然たるいわれなき偏見と差別のなかで、どこで、どうして生きていったのだろうか。少年期にめぐり合った柳君は以後の私の人生観形成にいかに重要な役割を果たしたことか。竹とんぼの柳君は私の心の中で絶ゆることなく息づいている。
 柳君! ありがとう。

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