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[証言2]
占領下の日常生活
鄭達先さんのお話



 戦前、戦時中のこと

 主人は日本人の先生の勧めで、一七歳で勉学のため日本に来ました。朝鮮の学校で勉強しているとき、大阪に行けば、時間もあるし勉強できるから行かないかって。その先生の紹介で大阪へ来たわけです。そして、丁稚奉公、炭屋とか新聞配達、あらゆることをしたんです。最初入ったのは、炭屋。ところが、今と違って、配達やなんかで勉強時間が全然ないわけです。食べ物も全然違いますしね。とにかく勉強しに来たのに勉強する時間がなくて、これはだめだっていうので、ほかへ転々としたんだけど、どこも時間を取れる職場がなくてね。それで、これは不平等だと、みんな平等でなくちゃだめなんだと。それで、社会運動のほうに走ったんじゃないでしょうか。

―S 奥様はご主人の活動についてどういう理解をされていたんですか。

 一緒になるときすでに、私も少し傾いていたんですよ。親はすごく反対しましたけれどね。親はそういう組織的な運動というものを理解できない人でしたし、また主人と私の年の差が十いくつも離れているから、それだけで親は反対しました。

―L 戦時中の日常生活はどうでしたか。

 北海道での生活で一番苦しかったのは、子ども三人と私だけで石狩平野に疎開したときです。お産で熱が出て、入院していたとき、B-29が飛んできて、防空壕へ入るよう言われても、いやでね。子どもを抱いて病院のベッドの下に隠れていると引っ張り出されて。で、熱が下がらないまま退院させられたの。
 危険だからって言われて、疎開したのが本当の田舎のお百姓さん。隣っていったら、ずっともう何も見えない。それこそ電球もないようなところ。馬小屋に何とか畳敷いて、そこへ疎開したんです。食料なんかありません。配給は一応出る、かぼちゃ、たまねぎ、じゃがいもとか、それだけだったんです。赤ちゃんをおぶって、退院したばかりだから、体は衰弱しきって、でも配給取りに山道を歩いていくんですよ。ちっちゃいかぼちゃを四つ五つもらってくる。それが風呂敷から転がり落ちてね、もうそんなの捨てたいんだけど、子どもたちのことを思って、道を引き返して拾って、泣きながら帰ったことがあります。それでとってもたまらなくて、いやだけど、親にすがりました。電報で、うちは今こういう状態だからとにかく米くれって。そうしたら神経痛で体中痛いのに、親は米二斗しょって来ました。そういうこともありました。
 終戦までその馬小屋にいました。一九四五年一〇月ごろにまた札幌に出たんです。[朝鮮人は]解放されたからと言って、もう主人は昔の仲間と一緒に、活動し出したんです。すばらしい[日本人の]共産党員の人もいました。私は、もう生活におわれちゃって、そんな解放どころじゃない。「田んぼの草取りしてくれたらお米一升やる」と言われたので、そんなことをしてました。草取りは半日も出来なかったですよ。腰が痛くて立てないの、やったことないから。

―S その石狩の農家はご主人の知り合いだったんですか。

 いえ、全然違う人の紹介で。日本人です。

―S それは朝鮮人であるということが分かりながら……

 疎開させてくれたんです。


 敗戦直後の活躍

 終戦直後は、どこでも行けるような状態だったんです。主人は[朝鮮人の炭坑夫たちの活動組織をつくったりしていたことで、当初占領軍にパスポートをもらっていたが]パスポートどころじゃない。主人は同胞が群がってくると、彼らを汽車に乗せるために、どこででも、手を挙げて走っている汽車を止めさせるんですよ。止めて、どこ行くって聞いて。小樽とか札幌とか、乗せてあげたことが何度もありました。

―L 生き延びるのが在日朝鮮人にとっては大変なことだったんです。当時、相当睨まれたんだな、汽車も止めるしね。朝鮮人連盟が戦後さっとできるんだけど、基本政策として朝鮮人を国へ返す送還の手はずがなにもないわけ。それでしょうがないから、朝鮮人連盟は自衛団を作って暴力沙汰ですよ。どっかのアメリカの本部の払い下げたものをもって、アメリカ兵みたいな三角帽をかぶって。で、汽車を止めて朝鮮人を乗せてあげる。ある駅では乗せてくれるけどほかの駅では聞いてくれないわけ。そのときは朝鮮人の若いものが、機関士のところへ乗り込むんですよ。日本人も乗れないのに朝鮮人が勝手なことをやっているから、ものすごく悪印象が田舎でもあるんですよ。朝鮮人は暴力的に汽車を乗っ取っちゃったとかね。日本人はみんな行列するのに堂々と乗っ取って持っていっちゃうから。そういう組織は、北海道だけじゃなくて、全国的で、そうしないと朝鮮人は国へ帰れない。それが、まず下関とか仙崎まで行く方法だった。

 でも、うちの主人は、あくまで紳士的でしたよ。「絶対に、朝鮮人が笑われるような、恥をかくようなことだけはするな」というのが信条だったんですよ。だから演説も旭川でも帯広でもしましたしね。そういうときは汽車を利用して、臨時列車を出してもらったりしたけど、先のような暴力的なことは一度もしたことがない。「今我々は解放されたんだから」と、対等な立場でお話したんであってね、「やれ、やれ」とかそういう挑発はありませんでした。
 ところが、いつの間にか暴動の先頭に立っているんじゃないかと思われて、アメリカ軍から睨まれたりするようになりました。[CIC=米軍の対敵諜報部隊に]いろいろな条件付で、「スパイをやってくれ」って言われました。だけど外国のためにそんなことは自分はできないと言って断わって、結局、憎まれたわけですね。

―Y 事件を起こしたことじゃなくて、スパイになることを拒否したのが睨まれた理由なんですか。

 そうです。それで捕まえる理由がないところで、ちょうど私が主人に内緒で、アメリカの毛布と時計を買ったの。それで[闇売買を理由に]主人が逮捕されちゃって、北海道から南朝鮮への強制送還という判決が下ったのです。捕まってたまるもんかと思って仙台へ逃げました。

―R ご主人は鉱山労働者を組織していたから、利用できなければ強制送還という、厄介人物扱いですね。組織のかなり先頭に立って、あっちこっち火をつけたりしていたわけですから。GHQの当初の方針は、朝鮮人を働かせることだったが、鉱山でのストライキが頻繁になってからは、できるだけ早く朝鮮人を本国に帰すことにしたんだと思います。でも占領軍は、石炭の生産を非常に心配していたわけですね、足りるかどうかと。朝鮮人による争議は極めて困ったことだったでしょう。

―L 戦争直後の石炭生産が最大の課題でしたね。ところが強制連行をした経営者が、賃金も払わずに逃げちゃった。朝鮮人が賃金を出せと、これは当然のことですが。朝鮮人は、炭坑に行っても働く気がないんだよ。強制的に掘らされていたんだから。でも米軍としては、石炭がほしいので炭鉱で働いてほしい。働かないなら国へ帰る資金を用意するから帰れと。それに対してご主人は、元の賃金を出せと、それも精算しないうちに帰れというのはおかしいと。そういう方向に人を組織したりするから、こいつはいかんと。米軍だって本気で毛布とか、そんなもので逮捕したりしませんから。だけど、労働運動をしていて、しかも米軍のためのスパイ活動を拒否したからだろうな。


 札幌から仙台へ

 北海道では三人子どもが生まれました。主人は強制送還されそうになって仙台に逃げました。それで、主人の後を追って私たちも仙台に行きました。だけど仙台に来てからも常に身を隠さざるを得なかったわけです。いつまた逮捕されるか分からないんでね。若いから耐えられたんでしょうけれども。いろんな経験をしました。でも何一つ悪いことはしていませんでした。

―R 子ども三人とどうやって逃げたんですか。札幌から仙台まで。

 長男と次男は、ちょうど北海道に来ていた友人のお父さんが仙台にいると言うので、[友人に]そこへ連れていってもらいました。もう一人は私がおぶって逃げることにしました。函館の友だちの家に一晩泊まる予定で明日行こうと思ったら、その朝早くその友だちが連絡もなく、札幌の私のところに来たんですよ。行き違いになったら、どうかなっちゃったでしょう。変な縁ですね。家財も何もない、全部捨てちゃって、夜逃げみたいな感じでした。

 身一つで……

 連絡船に乗るときには、もう指名手配が出ていたんです。私は今、歯がこうだけれど、その時、全部金歯だったの。金歯、背たけ、もう全部指名されちゃったんですよ。でも、その函館の友だちに警察と仲の良い方がいて、指名手配が出ているから変装しなきゃだめだって言われたわけ。それで変装して、船の掃除道具の箱の中に、子どもと二人で閉じこもりました。

 どういうふうに変装したか、ちょっと教えて。

 帽子をかぶって、マスクをしてね。

 帽子かぶってマスク。余計目立つでしょう。(笑)

 「笑うな、笑うな」と言われたりした。口を開くといけないから。一番不安だったのは、途中で子どもを見知らぬ人に預けたときです。

 全く知らない人に預けたの?

 そうなの。友だちが、この女の人は絶対大丈夫と言うから。友だちを信じるほかありませんでしょう。友だちは朝鮮人だけど、その預けた女の人は日本人だった。まだ一歳にもならない子を連れていかれて、どうかするんじゃないかと、その不安は、わが身よりも大きかったです。でも、二人とも無事に仙台まで来れたんです。

―E 仙台の警察は、指名手配を知っていたはずですが、やっぱり保護してくれたような気がします。どうですか。

 名前も変えてましたね。仙台でもそういう[米軍の]スパイがいましたし。

―M みんなかばってくれたという面はあるんですか。

 まあ、そうですね。一度、朝鮮寮にいるときに、「密航者が寮にいる」と警察に届けられました。

―E それは警察署が知らせてくれたんですか。

 うん、そういう友だちがいたんですよ。でもその時、主人がいないから私は安心して寝ていたんです。朝四時半か五時ごろ、まだ暗いときに、MPが二人、日本人の刑事が二人、タタタタッと入ってきて。土足のまま。外人の土足は大目に見ても、日本人はね。だから私は「てめえのうち、土足であがるのか」って怒鳴ったんですよ。そうしたらごそごそしながら外に出ました。

―M 勝っちゃったわけですね。


 日常生活

―L 当時はどんなふうに生活をしていたんですか。お子さんたちを食べさせたりするのは大変だったでしょう。

 最初は仙台に申錫珠さん[朝連の委員長]という主人の友だちを頼って来たんです。そこにしばらくお世話になりました。物を買って、また売ったりという仕事を始めました。

―L 仲介人ですか。

 まぁ、そんなもんですね。それで利益を幾らか得て生活していたの。でもそれだけじゃとても生活できないので、その当時の朝鮮人たちはみんなドブロク造ったりしていたんです。

―L または、飴を造る会社でしょうね。

 ええ、ところがうちの主人はドブロクじゃなくて、そこから焼酎を造ったんですよ。そしてそれを今度飲食店へもって行って。最初はそういう生活でした。それから金属関係の景気のほうがいいってわけで、そちらをしばらくやって。子どもも学校出さなくちゃいけないし。子どもたちも苦労してね。財産がどっさりあるんでしたら、もっと楽に学校通いさせたでしょうけど。でも一応大学出したんです。親としては、一人ひとり、希望があったんですけど、結局、みんな別々の道に行っちゃった。やむを得なく。

―L 戦後しばらくは私も茨城県にいたからよく分かります。ドブロクか飴ね。茨城県はさつまいもが多いから、みんなさつまいもで飴を造るんですよ。東京まで運んできて、上野の横丁で売って帰る。ドブロクは地元で処理する。でもドブロクではあまり商売にならないから、みんな焼酎に切り替えて、たびたび税務署とか、警察にあげられて。どこでも同じだと思うけれども、それはもう必ずやみんな生活のためにすぐ造った。焼酎はまずドブロク造るわけです。具体的にここで知りたいのは、どれくらいのお金でお米を買って、麹を買って、そして造って、焼酎を売ったらどれぐらい儲かったかと。例えば、金銭では分からないけれど、お米一斗でドブロクを造ったら、ドブロクは何斗できたとか、それを焼酎に変えたら、どれくらいかかったとか。それでいくらで売れたとか。そういう話は、憶えおられますか。

 うちの主人はそういうことは私にあまりさせてくれませんでした。子どもを育てることが中心で、ドブロクを造った経験があまりないんですよ。ドブロクは造ったというほどのものじゃないんです。主人が韓国に送還されている間に、見よう見まねでやってみたんだけど、それも長続きはしませんでした。
 [主人が第一回目の強制送還をされているときに]申錫珠さんが「資本金貸すから、米の売買を自分でやってみなさい」と言うので、米二斗分ぐらいの資本金を借りました。でも常に資本金はおいておかなくちゃいけない。そしてマージンをもらって、子どもと生活していたわけです。主人がいなくなってから二、三ヵ月間はやりましたかね。
 私は、水商売というものを全然知らないんです。普通の商売しか知らないんですよ、主人のおかげでね。でも、主人が送還されたりして日本にいない間に、生活していく上で水商売に近い仕事でもしなくちゃいけないと思った時期もありました。一九四九年から子どもが四人になって、その日その日の生活でした。あの頃、焼き鳥とかおでんの屋台がはやっていたんですよ。夜中の三時ごろたびたび、屋台を見学に行っては、私も水商売でもなんでも明日こそやらなくちゃと決心して。屋台を一つ借りて、それで人通りのない暗いところに屋台をおいといてね。でも、とうとう一晩もできませんでした。

―E 先のお米の売買の話ですが、農家からのお米の買い出しで、生活は最低限でも出来たんですか。

 うん、毎日米一升か二升くらいは出たからその日は食べていけたわけ。

―M なぜ日本人の農家が、朝鮮人の奥さんのところへ米を持ってきたのでしょうか。

 そうね、それはやはり申錫珠さんの顔がきいたからでしょうね。間へ入って紹介してくれましたし、私は直にそのお百姓さんは知りませんでしたから。

―L 米をほしい人たちが、百姓のところに行ったって米は正式に買えないんですよ。センター的なところを一ヵ所を設けておいて、米を持っている奴もほしい奴もそこへ来る。申さんという方はそういうのがうまかったんじゃないですか。

 そうですね。

―L 私の経験から言うと、お米のセンターをやったって、それは[警察の闇市の取り締まりに]引っかからない。運ぶと引っかかるわけです。ドブロクを作っていても、自分で飲む、お祭りがあるから作っているんだと言えば逃げられるんですよ。証拠品は焼酎を作る道具。大きな鉄がまに、ドブロクを入れて炊くんですよ。鉄のふたがあって、蒸気があがるとパイプでのばして冷やすんだけどね、下に焼酎が降りるようになっているんだ。その蒸溜水を持ってくるパイプだけが道具だから、実に簡単ですよ。警察に襲われてもパイプさえなければ引っかからない。茨城県でも、みんなそれで生活していました。子どもが学校こないから、どうしてこないのって聞くと、昨日おやじがあげられちゃってって言う。翌日行ってみたらお母さんがまだやっているんだ。警察がなにを文句言うのよ、
すぐできるよって言う。
 米を市内に運んだってどうという事ない。汽車に乗ってどこかへ売りに行ったときにやられるわけです。


 中江朝鮮寮

―E お住まいはどうなさったんですか。

 北海道から逃げて来たときは、すぐ中江朝鮮寮へ入りました。

―E 朝鮮寮は、だいたい朝鮮人たちが住んでいたようですね。その共同住宅はすごく安いと思いますが、そんなに多く入れた理由は?

 家がないという人が優先ですよね。朝鮮寮は朝鮮人だけが入っていて、朝鮮寮、中国寮、日本寮とかって別々にあるわけ。当初は日本人の引き揚げ寮だったんですが、終戦になってしばらくしてから、変わりました。

―L 茨城県の僕の場合も記憶がある。霞ヶ浦の航空隊の軍隊がいなくなると、空き家になる。それで日本人の引き揚げ者を入れるんですよ。そのうち日本人はみんな自分のふるさとに行くとか、定着して行きます。それで空いたところに今度は朝鮮人。仙台でもそういうことが考えられます。やっぱり軍が使っていて、それから、日本人の引き揚げのために内部設備をよくして、ということでしょう。そこに朝鮮人も入ってきて、ある棟を一つ朝鮮人たちが入っちゃったから朝鮮寮と。向こうは中国人だから中国寮と。

―M 寮はどんな感じだったんですか。

 全部、共同廊下があって、廊下を隔てて両脇に部屋で、それと別に六畳と四畳半。で、台所もトイレも共同です。本当の住まいは、六畳と四畳半しかなかったんですよ。

―E その時に、日本人にも朝鮮人にも配給が出たと思うんですけども、どういう経路でもらったんですか。やはり阿部さんという寮長からだったんでしょうか。

 はい、そうです。阿部さんは、陸軍少尉だったんですよ。そして終戦になってから、とにかく朝鮮人のために役立とうと、自ら寮長になった。あの方は本当に我々朝鮮人のために一生懸命でした。もう、どんな遠いところの使い走りでも、どんな汚らしいことでも。それで、最後に米軍基地での窃盗の疑いで、アメリカ人のMPに警棒で殴り殺されたんですよ。

―M 敗戦直後の北海道の配給というのはどういう感じだったんですか。朝鮮人だけが特別に配給を受けたっていうことはありましたか。

 いいえ、そういうことはないです。みんな平等でした。アメリカからの物資で覚えているのが、一人に一缶ずつのパイナップルの缶詰めとメリケン粉。だからすいとんをずいぶん食べましたよ、おかげさまで。(笑)
 朝鮮寮の話に戻ると、火事があったんです。放火じゃないですけど。それは私が火元を見たんだから確かです。同胞が共同炊事場で、飴を作っていたんですよ。あとから聞いたらそれが原因のようです。うちは火元のとなりで、何一つ運び出せませんでした。

―L 朝鮮飴を作るのは大きな鉄釜で煮詰めるんですよ。だからずっと焚くから火の管理がまずいとね、しかもベニヤみたいなところでしょう。

 あれは、一九四八年一〇月一〇日で、次の日が国旗事件の日だったんですよ。その時、主人は次の日の大会の準備でいなくて、私は明日のお弁当の材料買いに行っていたんです。寮の建物が大きいから火のあがりも大きくて、遠くから、どこ焼けたのかしらなんて眺めていた。それで、話を聞いていると、朝鮮寮、朝鮮寮って言っている。これは大変だと思って走っていった。案の定、帰ってきたら火がボーボー。荷物なんか出せるどころじゃない。子どもたちだけようやく避難させて、本当に行李一つぐらいしか出せなかったんです。それでも、その次の日、子どもたちをみんな連れて大会に出ました。私たちは丸裸で履物も何にもないの。お腹に子どもは入っているしね。


 評定河原事件とその後

―L 集会の前に差し止めはなかったんですか。

 なかったんです。主人はその時は自由な身じゃなかったんです。だから大会でも、国旗を揚げるとか揚げないとかも堂々とはできません。二日間やって一日目は大丈夫、二日目で暗くなったら揚げてもいいんじゃないかと。ちょっと揚げても暗いから見えないんじゃないかって。国旗を揚げようというときに警察が来ました。それで、グラウンドを何周か回っていても、旗を持って歩くんだけれども揚げられないわけ。うちの主人は先頭になって、「絶対国旗を揚げるなよ」と。だけどみんな揚げたいのね。若い青年たちは興奮しているから、国旗をちょっと揚げたんです。そうしたらピストルで発砲されてやられたんです。あなたは知っているでしょう、国旗事件。

 私は知識では知っているけれども、まだ生まれていなかった。

 旗の四つ角をみんな下で持って何周かしているうちに、ちょっとした瞬間に揚げたんですよ。完全に揚げたわけじゃないの。

―M 旗に棒はついていたんですか。

 棒はちゃんとついているんですよ。

―M そうですか。じゃ、いつでも揚げようと思えば、ぱっと揚げられるわけですね。

 主人が絶対旗だけは揚げるなよ、揚げるなよと言ったのをきかずに、彼らは揚げたんですよ。最初、空のほうに発砲しました。すると旗を持っていた若い人が発砲したほうに押しかけていったんです。だからそれでやられたんです。その時は幹部連中は全部その場で解散しちゃって。主人もその時はどこへ行ったか分からなかった。何人か逮捕されていました。

―S その時は逃げたんですか。

 はい。

―L 戦前から日本帝国主義の時代に朝鮮人が堂々と運動会も、集会もやっていました。そういう習慣が在日朝鮮人にもあって、何かがあると、人集めに運動会。だからこの祝賀大会も運動会にした発想はそういうところからきていますね。

―R それで、そのあとはどうしたんですか。

 家族で申さんの家へ二週間ぐらい居ました。火事の後始末もあるし、主人も警戒していました。どんなあばら屋でもいいからと、子どもたちと一緒に住めるところを探していました。その時寮の組合長に会って、「火事にあって大変だから、引き揚げ者の住宅でいいから一つくれ」って言ったら、「朝鮮人にはやれない」と言われました。「寮の役員とかには利用しておいて、こういう焼け出されたときには反対するのか」ってうちの主人は怒りだしてね。で、何とか部屋を一つ、中江住宅の近くに無理に獲得したんですよ。

―E そこで逮捕されたんですか。

 はい。

―R いつ警察がやって来るか分からないので、支度を工夫して逃げる用意をしていたんですよね。

 普通の木造住宅だから屋根裏があるでしょう。押し入れの中の天井板を必ず一つ開けておいて、いつでもそこへ逃げられるようにしました。朝鮮語で「玄関に犬が来た」って私が言うの。

―L 暗号だな。


 強制送還、共産党からの除名

―R ご主人がお書きになった手記を読むと、寮が焼けて約三ヵ月後、一九四九年の二月ごろ、ご主人は逮捕されて、九州の収容所に入れられて強制送還されましたが、同年の五月に密航して仙台に戻ります。そして、一九五〇年一一月に、外国人登録法違反で再び捕まって、長崎の大村収容所に収容され、一九五一年六月に二回目の強制送還にあいます。そして、同年の一一月にまた密航船で来日しますね。さらにまたつかまって収容所に送られて、やっと解放されるのは一九五二年のはじめごろと思います。そのころの事情についてまず、仙台での裁判からおうかがいしたいんですが。

 場所は今の裁判所のところだけど、古い建物のときでした。着流し着せられて、編み笠かぶせられて、手錠はめられて、草履で裁判所に出てきました。札幌ではそんなに厳しくなかったんですけれども、仙台では傍聴に行っても言葉を交わしたこともありませんし、面会も当然できません。
 その後、また[九州の]収容所に入れられた時のことですが、私は警察に行って、宮越という検事のところにも行きました。その時は本当は家族全員強制送還ということになっていたんです。宮越検事にその事情を話したら彼が同情してくれて、アメリカの将校の方もそういう事情を知りまして、期限切れとなっていた在留資格を三年とか五年とか確保したんです。

―L [一九四六年二月以降、]裁判権は米軍にあるのではなくて、日本側にあるんです。しかし占領軍から「釈放しろ」という命令が出ているから釈放する方向で裁判が進められたんでしょう。それで結局、滞在許可がとれたんですね。

―S そのころはお子さんも大分大きくなっていたでしょう?

 そうでもないですね、末の子が一九四九年生まれだから、第二回目のときは、まだ一歳くらいだった。常に子どもたちには、「アボジ[お父さん]は泥棒したわけでも、人殺しをしたわけでもない。悪いことは絶対していない。祖国のために活躍しているんだけど、悪い人たちがアボジを捕まえに来る」と教えていました。
 第一回目の送還のときに仙台から東京まで見送ろうとしました。両手に手錠させられて列車に乗せられて、腕に何かぶせたって分かるじゃないですか。上京するのに八時間くらいかかるから、私は命懸けで、警察に「頼むから、逃げないから、子どもの教育上良くないから、手錠だけ外してくれ」と頼みました。

―M その手錠を外させるのは成功したんですか。

 しましたよ。末の子がちょうどお腹に入っているときで、[宮城県]白石市まで来たら、破水しちゃったんです。もう、お産の状態に入っちゃったわけです。それで、仙台に戻るのに痛いのを我慢して、我慢して、家に着いた途端に入院しました。入院したらしたで、今度は、入院費の心配で。

―M ご主人と一緒にいられる時間は少なかったわけですが、夫婦仲は良かったみたいですね。運動そのものについて理解していられたんでしょうか。

 でも全面的に賛成というわけではなかったです。逮捕されたとき、親は早く帰って来なさいって言っていましたし。 

―L 私の当時の経験からもよく想像できます。逮捕されて、家にいなかったときはしょうがないけれど、その後、市内にいながらも、夜は帰ってこないんでしょう。戻ってきてもすぐどこかへ行っちゃうしね。おそらく、不満があっても言えなかったからだろうな。国のことがうまく行かなかったり、日本で弾圧があったりしたとき、家のことなんか構う余裕がなかったんでしょう。

―E ご主人はどんなお仕事をしていましたか。

 仙台にいる間は、鉛の仕事をやっていたんです。バッテリーをもう一回再生する仕事。要するにインゴットです。それで子どもたちもなんとか満足に学校に行かせることができました。それが最後の仕事でした。そのころ[朝鮮戦争]から、経済的には少しずつ良くなりました。

―L ご主人は、強制送還された韓国から密入国で帰って来たら、日本共産党党員じゃなくなっていたんですよね。

 それは、すごいショックだったみたいです。寝言にも言っていました。あの人は刑務所に入って逆さづりにさせられても頑張った人だから。それ以上に党員から除名されたのがショックだった。

―M 評定河原グランドでの運動会の一年後の一九四九年九月、朝連が解散させられたときには、おられなかったんですよね。朝鮮戦争からずっと、一九五〇年代は、共産主義運動がとてもバタバタしている時期ですよね。

 その後も運動はやっていました。でも、家を空けるっていうことはありませんでした。

―M 一九四九年の秋から、占領軍と日本政府による朝連の解散や幹部の追放にあたって朝鮮人は公に共産党員として活躍できなくなりますね。形式上、離党せざるを得ない者も少なくなかったでしょう。
 これは共産党の内部の話だけど、一九五一年の党の五全協[第五回全国協議会]前後の武装闘争路線で非常に多くの朝鮮人が共産党の地下組織の中で活躍していました。しかし主流派の下で活動をしていた人びとは、一九五五年の六全協[第六回全国協議会]のところで、「極左冒険主義者」として非難され、切られる。それに対してご主人の場合は早い段階ですでに除名されているでしょう。その理由は何だったんだろうか。

 自分は共産党員だと思って集会に参加していたら、そのときに「党員じゃないから」と言われて、大変興奮して帰ってきました。

―M ということは、強制送還をされた時点で、もう帰ってこないだろうということで除名されたのかな。復党はしなかったんですね。

 戻れなかったんじゃないですか。

―M そうですか。一九五五年に形成された総聯[在日本朝鮮人総聯合会]の動きには参加されていますよね。五〇年代から六〇年代まで。

 その関係で北海道にはしょっちゅう通っていました。その後は、仕事に没頭していました。


 国籍選択と晩年の生活

 北と南と、なんで一つの国が二つに分かれなくちゃならないのかと疑問を持つようになりましたよ。子どもを教育するのでも、北の学校と南の学校、今現在でもそうですよね。日本国内でも北と南とに別れていました。子どもは友だちと南北を問わずに遊ぶんですけど、組織的にはやはり分裂されています。これも矛盾しているんですよね。だから私は八方美人的かもしれないけど、あっちへ行ったりこっちへ行ったり。でも一つになってもらいたいから、総聯系とも民団[在日本大韓民国居留民団]系とも私はおつき合いをしています。

―M 最初に大韓民国ができますよね。それは一九四八年八月ですが、その時のご記憶はありますか。

 その大韓民国建国には主人は絶対反対していたから、それに自分も同意しました。だけど今、私の籍は韓国籍なんです。両親が日本から韓国に引き揚げて、母が向こうで亡くなって、残った年取った父とは、韓国籍を取らないともう会えないわけです。私一人だけ韓国籍に切り替えようと思って民団に行ったら、家族みんなの籍を変えるようにと言われました。それで、うちの主人を説得するのに二年かかりました。それは一九七〇年代の前半のことでした。その後、主人も韓国籍になって、けれど上の子はまだ朝鮮籍です。[民団から]今度は子どもを韓国籍にしろ、という話が出たけど、子どもを説得できなかったんです。親であってもそれはできなかった。それで、韓国に行ったときも最初は臨時パスポートしか出なかったんです。
 私は以前、仙台で朝鮮婦人同盟の組織ができたとき、委員長をやっていましたが、国籍を変えると、睨まれることもありましたね。また、一個の人間が自分の意志で籍を変えるのが、韓国領事館は気にくわないわけだし。「あんたの旦那さんも韓国籍に入れれば、パスポート出すよ」と、条件を付けてきました。

―M 六〇、七〇年代は、もうあんまり社会運動のほうはしないで、ずっとお仕事で平穏に生活されていたんですか。

 そうですね。

―E ご主人は一九七四年に老人会を組織して会長になられますよね。

 組織的にもどっちつかずでいましたから、自分が実際年寄りになっても、居場所がないんですよ。何か楽しみを作らなくちゃならないというので「韓寿会」というのを組織して、先頭になってやったのが主人でした。会員は最初は三名で、今百十何名になっていますけれども。初代会長として、自分で一軒一軒歩いて人数を増やして。その会長を約七年やったんですよ。

―E 韓寿会は最初から韓国寄りですよね。

 そうですが、主人は当初そのつもりはなかった。民団にも、総聯にも年寄りがいると。総聯の年寄りの会を作って、合併で何かやろうというのが最初の発端なんですよ。そこを一つにして、北も南もなしに、それが最初の目標だったのね。どっちも頑固でいまだに譲歩しないでいますけれどもね。

 父は、どこへ行ってもリーダーシップをとっちゃう。

―L 今だったらきっとうまくいくと思います。地方で民団と総聯の県本部同士で一緒に老人会をやったり、非常に先駆的な発想でやっていたのが、その時は状況でつぶされたんでしょう。

―S 韓寿会はどういう活動をやるんですか。例えば韓国旅行なんかもしますか。

 はい。年に二回、レクリエーションがあるんです。入会金が五万円で、二泊三日で年に二回の旅行が無料なんです。そのお金は人に貸して利子や寄付をもらってなんとか維持していくわけです。あくまでも入会金は減らさないようにと、そういう趣旨でやっていました。お坊さんが土地を仙台市から払い下げてもらって、お寺も作ったんです。

―L 仏国寺ですか。

 そうです。そこの第一人者が韓寿会の会員だったの。そこのお墓の第一号として敬意を表して作ってくれたんですけれどもね。

―M 老人会を作る必然性はどこにお墓を作ってどこにおさまるかという現実的な問題の動機になりますよね。戦争直後はそんなことを言っている暇もなかったと思うけれども。その後の生活の中で朝鮮人社会の講あるいは契というのはあったんですか。

 うちの主人は一切そういうのは好きな人じゃなかったんです。

―M 商工会でもそういうのは一切しなかったんですか。

 していないですね。日本の銀行でお金を借りました。

―M 日本の銀行でちゃんと貸してくれたわけですか。

―L さっきの話でおもしろいのは入会金は五万円で形式は無尽なんだ。だから韓寿会は基本的には契の思想があるんだけれども。

―M その後のお仕事は。

 鉛の事業はずっとやっていましたが、[一九七三年の]オイルショックで、家が傾いちゃったんで、七〇幾つで歳も歳だし隠居すればと。その時に設備投資を何千万円としたんですが、結局借金を背負いました。

―R 晩年の夫婦のご関係はいかがでしたか。

 うちの主人はワンマンでした。いつも子どもたちに対して、「勘当だ」「勘当だ」と言っていました。一番よく怒った理由は意見の行き違い。自分が負けそうになると「勘当だ」で、もう都合のいい人なんです。私に対しては、そんなこと言わないけど。私が出て行きたい時もありましたよ。ただ何十年もかけて築いたものを捨てたくない気持ちもあったし。常に喧嘩しました。喧嘩しながらでも許してきました。

 喧嘩はレクリエーション。ハルボジ[おじいさん]が強いから。オモニ[お母さん]と世代のギャップがあるでしょう。
 夫婦喧嘩をすると、私たちの家に来て、「おまえたちと一緒に暮らさせてくれ」と言うわけ。私は真剣になって、「いや、それはアボジと私二人で決められないから、家族会議を開いて決めましょう」と答えたら、「じゃ、誰も面倒をみてくれないんだったら、俺は生活保護をもらって一人で暮らすんだ」と宣言するんです。
 そういうかわいいところがありました。でも、オモニも口はきついけど、ハルボジの面倒全部をみてあげたのね。

 主人はいつも不満をぐちぐち言っていました。不満だらけでしたよ。でも、幸せな人でした。[一九九四年に]亡くなったとき、全て満足したような顔をして、なんの未練もない顔をして逝きました。

―R 鄭さんと李さんには、大変貴重なお話を聞かせていただきまして本当にありがとうございました。

*「榮」は正しくは「 」。この『東西南北』別冊01においてはすべてこの文字に読み替えてください。
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