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[証言1]
評定河原事件をめぐって
金興坤さんと鄭達先さんのお話



その日を思い出して――――金興坤(講演 一九八六年八月一五日)

 評定河原事件が起こったのは、一九四八年一〇月でした。その一カ月前に、南で李承晩大統領が宣言を発して、「大韓民国」が成立しました。それから約一カ月遅れて北に「朝鮮民主主義人民共和国」が出来まして、それの慶祝で、いわゆる祝賀大会を、仙台市内の評定河原で一〇月一一日と一二日にやりました。
 この祝賀大会の主催は、今日では「在日本朝鮮人総聯合会」と言っている、「在日本朝鮮人連盟」でした。仙台にある宮城県支部だけではなく、東北六県の地方協議会の主催でした。
 評定河原で何をしたかというと、運動会です。あの当時の評定河原は、広瀬川の上流、西公園の南側にある運動場で、非常に寂しいところなんです。今だったら設備も整っていて、いろいろ賑やかでしょうが、当時は誰もいない、運動をやる人しか来ないようなところでした。

 国旗掲揚をめぐる激論

 当時の朝鮮人連盟と日本共産党がどういう関係だったかと言うと、共産党の中に朝鮮人対策部というのがあって、それが朝鮮人連盟をリードしていたわけです。あの当時は、仙台だけでなく、全国的に朝鮮人がだいぶ強かったし、先頭に立って騒ぎました。
 私は当時、北海道の札幌での事件の関係で、強制送還されそうになって、仙台に逃げてきていたのです。そして朝鮮人連盟の仕事を手伝うことになりました。手伝うことになったと言っても、隠れている、逃げている身なんだから、公然と出るわけにはいかなかったです。私は、朝鮮人連盟員で、共産党の朝鮮人対策部の一員として、朝鮮人関係のキャップという責任者になりました。ところが、責任者たるべき私自身が、隠れている身だから、東北六県の祝賀大会の表面に出ることが出来ない。
 それで、いろんな人を会長とか、副会長に決めたり、万国旗を飾ったり、準備を全部やって、でも、なかなかみんな言うことを聞かない。党の組織というのは上から、いわゆるキャップという党の責任者から、命令がいったら、下は無条件に従うんですよね。でも、どうにもならないので、隠れた身でありながら、私が登板しました。
 評定河原で、私たちが大会をやると言っても、米軍は「やるな」とは言ってきませんでした。ただ、「北朝鮮国旗を揚げるな」と言われました。私たちは、国旗なしに慶祝をやったって意味がないと、思いました。それではみんなが騒ぐ。国旗は、是が非でも揚げなければと。だが、向こうは拳銃を持っているだろうし、武器を持っている者と、私たちが闘っても勝ち目はないんで、揚げないことに決めました。いや、反対だ、ああだ、こうだと、言っているときに、仲介に入ったのが日本の警察です。私もよく知っている平山さんが警察の渉外課長か何かだったんです。
 私は、国旗を揚げる、揚げないの問題でなく、国旗に入っている精神を我々の頭の中に叩き込むことが一番大事じゃないかと、思っていました。だから、揚げるより、広げる。旗の下に入ったり、あるいは両はじを持って運動場を回る、という案を出して、満場一致で決まりました。

 米軍の発砲

 大会は二日間で、天気も良く、本当にみんな愉快に、いい運動会だと言っていました。二日めの一〇月一二日の夕方、少し暗くなりかかった頃です。みんなは、自分の祖国が、民主主義国家が出来た。共産主義国家が出来た。さぁ、この大会もうまくいったと、ドブロクやお酒を、一杯やって、喜んでいたんです。
 「これで終わりです」という閉会宣言をやった後です。その時、若者たちが、運動場をグルグル回っているのか、デモをやっているのか分からないような状態で、運動場をかけ回っていたのです。すると、どっから出たのか、旗がバッと揚がった。と同時に、アメリカ軍がバァッと周囲を囲んで、詰め寄って、押してくる。こちら側は肩を組んで、ワッショイワッショイ、あるいは踊ったりして、うごき回ることも出来ない。この時には、いかに隠れた責任者と言っても、たまったもんじゃない。黙っていられなくて、あわててマイクを探したが、マイクは壊れて全然使えない。
 その時、「バーン」と一発銃声がひびきました。私の目のまえです。撃ったのは黒人系の兵隊でした。それで、一人が倒れたら、みんな、ダ、ダーッと逃げました。
 私は、もう、どうしたらいいか、逃げるわけにもいかないし、進むわけにもいかない。そして、大会の会長、副会長が片っ端から、「検束」で持っていかれました。みんなが検挙されていくのに、俺だけがノホホーンと運動場に残るのは情けないというか、こういう境遇になった人でなければ分からないほど、寂しかったです。
 どうしたらいいかと思っているうちに、だいぶ暗くなりました。そして、怪我人はすべて、岩本病院に連れて行ったんです。ひとりは胸部貫通です。私はポカンと立っているうちに、いつの間にかその場に座り込んじゃいました。しばらく考えた結果、まぁ一人では寂しいから、誰かと思って、キム・ハリグンの家に行きました。行ったらもう彼は帰ってきていて、そこでドブロク一杯ごちそうになりました。

 報道はどうなされたか

 そこで、元気をつけて「一緒に行こう」と、彼を誘って、河北新報社に行きました。その時は、もうだいぶ暗くなって、七時か八時頃だったでしょう。
 「誰か記者をだしてくれ」と言ったら、「何の用だ」と、一人しかいないという留守番が出てきました。それで、「実はいいネタを持ってきたから書いてくれないか」と言いました。
 「ネタ代はいらないから」
 「何だ?」
 「殺人事件だ。今、ピストルに撃たれて倒れたんだ」
 それで、彼はピンときたようでした。彼は「今はだめだ」と言いました。そして、奥から、何か新聞を一枚持ってきました。「これを見ろ」と見せられた新聞には、今私たちが持ち込んだその事件の内容がちゃんと書いてある。でもそれは、「朝鮮人が米軍に暴行した」というような見出しで、だいぶ大きく書いてありました。
 それで、私は言ったんです。
 「これは一体、このネタはどこから入ったんだ。教えなさい」
 「まぁ、それは聞かないでくれ」
 「どうしてなんだ。それなら、この記事はデタラメなのか」
 「いや、そうではないけど、もし私が言ったら、ただの職のクビでなく、生のクビがとぶから、どうかそれだけは勘弁してくれ」
 と言われました。
 それで、これは米軍が持ち込んだんだな、と分かりました。
 朝鮮人が米軍を襲うはずがないでしょう。また、する必要もないし。もう終わったんです、運動会は。全部、楽しかったんです。
 ただ、米軍に暴行を加えたので逮捕した、という嘘八百が「事実」として、全国に報道されていたことが、情けないと言うか、忘れることが出来ません。

 *『報告集「8・15」を問い返す――映画と討論の集い』、仙台市、一九八六年、20〜25頁。


国旗事件とその前後――――金興坤・鄭達先(インタビュー 一九九四年二月一八日)

 今日は、国旗事件に関してお話をします。こういうふうに話を聞いていただけるのは光栄です。
 [米軍と]警官隊がピストルを撃つまで、私は表面にでなかった。ピストルが発射されて三〇人弱の米兵が壇上に上って威張っていました。我々は川のほうへ追い込まれる仕掛けになったんです。そして、更に川のほうへ射撃されました。それから、東のほうへ朝鮮人の学生たちは、追い込まれたわけです。ほとんどみんなが逃げ回っているのを私は見ています。追い込まれたのは三、四〇人くらい。
 我々が人民共和国の旗を揚げようとしたとき、米軍、ほとんどが黒人でしたが、これに駆け寄って来ました。でも、我々は旗を守っていたので、奴らにも余地がなかった。何回も旗をあげようとしたんですよ。それでアメリカ人の兵士たちも気に食わなかっただろうし、我々の方も彼らとは一歩たりとも妥協しない。

 その間、警察たちに向かってデモをしましたよ。チャンスをうかがって旗を揚げよう、揚げようという動作は私のほうからは、ありありと見えましたね。
 実は、前の日に家が大火事で全部燃えちゃった。そのショックでこの運動会どころじゃないんですよ、私は。末っ子がちょうどお腹に入ってた頃だし、着のみ気のままで逃げてきたから何にもないのよ。その頃住んでいたのは寮だったんだけど、そこの台所から出火して、それが壁をつたって移っちゃった。

―― 評定河原事件と何か関係があるのではないかと思われますけど。

 それは関係ないです。国旗事件自体は、私はあんまり詳しく覚えていないんです。仙台に来る以前、主人は北海道で解放運動をしていたんです。ずいぶん祖国のために運動したんですよ。でも、余りにも過激な運動をやったんで、米軍からにらまれました。何かの証拠で主人を強制送還させようとしていたんです。それは一九四五年で、解放されてからすぐです。米軍は昼夜後ろを付け回してね、何か証拠をつかんでやろうとしていたわけですよ。私も二〇代で若かったから、そういうのが分からなかった。うちは子どもが三人もいたものですから、米軍のあの毛布でオーバーを作ってあげようと思って、闇で毛布一枚買ったんです。それを理由に主人が逮捕されました。闇市は違法ですから。私を逮捕するのではなく、主人でした。それで裁判の結果、送還という判決が出たわけです。でも帰りたくないから、列車に乗って逃げて、そして降りたのがこの仙台だったんです。(中略)
 人間って運が悪いときは本当に悪いんですね。仙台市に来たら、一番町で、米軍の[検事]オクスポート大尉という人と、私が出会っちゃったんです、偶然に。向こうは、[北海道にいた頃から]私の顔を覚えているわけです。こりゃ大変だと思ったけど、今みたいに交通機関が発達しているわけでもなし、電話があるわけでもない。とりあえず自分の足で大急ぎで帰って、「とにかく逃げてくれ」って主人に言いました。で、逃げ回っていたんですけども。
 国旗事件から三カ月後の、一九四九年一月半ば、捕まりました。国旗事件に参加したことで、二度目の逮捕です。また裁判、送還ということになりました。それで、東京まで主人を見送りに行こうとしたら、途中、私が陣痛を起こして、その時生まれた子どもは今はもう四〇幾つになるんですけど。そういう意味で、私にすれば、この国旗事件は忘れられない事件です。家は焼けて、夫婦の絆は離されるし、そういう思い出があるんですね。

 こういう運命に生まれたせいかも知らないけど、当時、運の悪い若者だった。

 終戦後の同胞は苦労しました。札幌にいた人たちはもっと被害を受けたよね。悪いことしていないのに、泥棒したり人を殺したりしたわけでもないのに、なんで隠れて歩かなきゃならないのか。
 私たちも、いつもそれでした。玄関で足音がする度に、この人を捕まえに来るんじゃないかと思っていた。屋根裏へ逃げられるよう、押し入れの天井板を必ずいつも一枚空けていました。いつでもそこから逃げられるようにと、私が知り合いを通じて外国人登録証を偽造して、逃げるときだけでもそれを持って歩くようにと、主人に与えていました。それを必ず屋根裏に置いておくの。これは誰にも言わなかった。今、初めて言うんですけどね。こうやって生きてきたんです。
 でも米軍だからと言って必ずしも全員が敵じゃなかったんですよ。仙台市川内の米軍[軍政部]施設を訪ねた時は頭が下がって、涙が出ました。それまで、私は仙台地方検察庁に「とにかく主人を出してくれ」と頼んでいたんです。さもないと子ども四人が路頭に迷うから、と言って日参しました。宮越検事という人が、私のしつこさに負けちゃって、山田事務官という人も「この人の状況は普通じゃないから助けてやろう」と。宮越検事は腰を上げて、米軍の方を紹介してくれました。名前はもう忘れてしまったんですが。宮越検事が事情を全部翻訳してくれて、米軍の方は「悪かった、こんなに苦しめたのか」と答えました。収容所を担当していた米軍の司令部は京都にあったんですが、すぐその場で電話をかけて下さって、主人は即、大村収容所から釈放されました。言葉で言うと簡単ですけど、これは大変だったんです。だから米軍だからって、必ずしも全部敵じゃなくて、そういう方もいたということを記憶しておいてください。

 日本人のなかに、いい人も、そうではない人もいたし、米軍も一人、二人くらいは私たちに好感を持ってくれていた。高齢になった今では、そう思います。そんな時代でも、人間は平等だということだけは痛切に感じていました。

* この後、金さんは一九九四年四月九日、八七歳で亡くなられた。心からご冥福をお祈りしたい。

*「榮」は正しくは「 」。この『東西南北』別冊01においてはすべてこの文字に読み替えてください。
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