目次へ戻る :

前へ 次へ

怒りの海峡
ある在日朝鮮人の戦後史

金興坤


 一九四五年八月十三日、新聞とラジオは、八月十五日正午に重大発表があるから、国民は皆ラジオを聞くようにと繰り返し指示があった。当日、私は翌朝[中略]趙康済宅のラジオの前で十二時を待った。日帝の王の日本国民に告ぐ言葉の意味が明白でないので、趙康済は、日帝の王は何を喋っているのかと質問したが、意味を悟るやいなや、二人は抱きあって万歳万歳と叫び、部屋中を跳ね回り踊りまくった。これをみていた趙夫人が近くの同胞の家に知らせに走った。同胞が五人集まり、私は皆に「ポツダム宣言」と「カイロ宣言」を新聞の切り抜きから朗読して聞かせた[カイロ宣言は省略]。
 我われの欣喜雀躍は終わることを知らず続いた。
 しかし、我われは、何をどうすればよいかについて、誰も知らなかった[中略]。迷っているのは良いほうで、協和会幹部の中には「今日まで、我われも皇国臣民として日本人と共にやってきたのに、今日、日帝の敗戦を喜ぶとは、日本国民にたいし、すまないことではないか」という、日帝に魂まで売り渡した人間が少なからずいた。
 協和会というのは、昭和十四年七月の閣議決定で朝鮮人導入が企図され、その統制機関として十一年設立の協和会事業団を改組して十四年六月に設立された財団法人中央協和会のことである。導入においてはその年九月北海道協和会の設立をみ、道内警察署単位に支部が設けられたが、保護救済福祉の名の下に朝鮮人加入を義務づけ、その監督ならびに移動の規制を行なうことにし、かかる業務をする為に日帝に忠実な朝鮮人を副支部長以下の幹部に登用したのであった。
 戦前戦後を通じて、我われの組織が健在でありえたなら、こうした時に、いかに対処しろとの指示もあったろうが、日帝の魔手に潰されたので、遅まきながらも解放された自由な朝鮮民族として一致団結していかなければならないことだけを確信しえたのみであった。
 団結のためには、真の意味の民族的な組織が必要である。そのために同志を探し集めることが第一の仕事であった。

 朝鮮民族統一同盟の結成

 十月四日の午後六時、日本占領連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー元帥は、日本政府に対し次のような通牒を発した。
 一、政治犯の即時釈放
 二、思想警察そのほか一切の類似機関の廃止
 三、内務大臣および警察関係の首脳部、そのほか日本全国の思想警察および弾圧活動に関係ある官吏の罷免
 四、市民の自由を弾圧する一切の法規の廃止ないしは停止
 を要求した、右通牒の内容は同司令部情報教育局長ダイク大佐により発表されたが、これによって釈放される政治犯の数は三千人に達すると見積もられていた。
 この指示によって、宮城刑務所に捕えられていた同胞たちも釈放となった。
 この時、日本共産党や全協(日本労働組合全国協議会)その他に所属していたいわゆる思想犯はみな釈放され、各自の家庭または親戚へ帰ったが、我朝鮮人には行く先がなかったので、札幌駅前の旅館に投宿することになった。行き先のない朝鮮人は二五名ほどであった。[中略][その中にいた]安先浩、孫邦柱、私の三本柱で朝鮮人を組織していこうと方針を決定した。宣言、綱領、規約などの草案は私が書いた。
 当時、北海道庁の調査では、在北海道朝鮮人総数は十四万五千余名といったが、後日の我われの調べでは、千島行きまで入れると十七万余名であった。そのうち従前から居住し、ほとんど皇民化した者、またそれに近い者は一万から一万五千名くらいの協和会の幹部とその周囲の者であり、そのほかは勤労報国隊・徴用などで強制的に連れられてきた人たちで、この両者はなかなか融合できるものではなかった[中略]。
 北海道内部だけでも、いや、在日全同胞にも、いや、本国全体にも通用し得る意味で、朝鮮民族統一同盟と称し、全民族の一致団結により建国し、わが民族の矜持を賞揚し、世界平和に貢献するという基本綱領に、強制連行強制労働によるもろもろの損害弁償ならびに帰国に要する支度費および交通便用意などのスローガンを掲げた[中略]。
 なによりもさきに、民主主義原則をふまえて、各地の同胞大衆によびかけて、その代表者を選出して、在道十七万人の同胞大衆大会を開いたうえ、朝鮮民族統一同盟が在道十七万名の単一大衆組織であることを宣言することだとその準備を急いだ。
 我われ朝民統準備会は、協和会系を排して強制的に連れてこられた鉱山労働者を主体とした組織とする旨伝え、彼らには「帰国を急ぐな。誰もお膳だてして待っていてくれるわけではない。日帝が搾取するだけ搾取したので新生祖国はあらゆる物資が窮乏している。諸君はむりに引っ張られてきて、三年も四年も死に匹敵するほど搾取され圧迫された。今日掌握している権利を放棄するな。持続管理していこう。そして我らの要求が貫徹したときに、富をもって帰国しよう」と呼びかけた。
 けれども我われの意図とは反対に、占領軍当局は当時二五〇万名もいる在日朝鮮人を本人たちの意志にしたがって故郷へ帰すことが、占領地日本の治安上便利であったし、しかも北海道には石炭を掘るために十七万名もの朝鮮人がいたが、占領後は、石炭一かけら掘るどころか争いばかりおこして厄介であったことから、積雪となれば輪送も困難となるので、無料で在北海道朝鮮人労働者を優先的に計画輸送するように日本政府に命じたのであった[その結果、準備会の仲間も続々と帰国した]。

 帰国者の列のなかで

 [略。帰国時に持ち出せる金額が千円ということを知って]我われ組織準備会は協議した結果、札幌の軍司令部を訪問した。
 当時の日本人のなかで唯一動いていたのは出獄した共産党員であった。彼らは手始めに「米よこせ」というような市民運動を行なっていた。私は彼らにたいし、各鉱山には、朝鮮人とともに幾万、幾十万の労働者が戦っているのだから、現場へ行こうと主張したが、私の意見に同意したのは村上由国一人だけであった。こうした関係で、日本人の村上由国を加えて十一人で軍司令部へ行った。
 十月二十三日米七十七副師団長ランドルフ代将は快く会談してくれた。いまの私の記憶にあることは、北海道内に我同胞は十七万名いるといったのにたいし、「あなたがたの兵隊が十七万名もいるのか」と驚き我われの要望を聞いてくれた。
 一、我われはこの十七万人を団結せしめるのであるから、我われをわが同胞の唯一の代表と認めてほしい。
 二、帰国する同胞が全財産を持ち帰る権利を認めろ。
 三、船舶で北海道の機械類を我朝鮮へ持って行き、朝鮮からは米をつんで帰りたい。
 などなど十数項目にわたり要望したところ、みんなよろしいと承諾すると同時に司令官は、
 一、採炭に協力してくれること。
 二、各地で日本人と喧嘩しているのをとめること。
 三、統一同盟発会式の出席者は代表者三百名以内にすること。
 と要望したので、我われも御意にそうよう努力しますと答えた。今日承諾したことを書面にサインしてほしいといったら、司令官は隣室から北海道新聞の記者を呼びつけて、いっさいを発表したのであった。このとき以来北海道新聞は、我われの会報のように使えた。また司令官は、我われ十一名にパスポートをくれ、戦後交通の不便なときに自由に動けるようにしてくれた。ときには、軍のジープを運転手つきで貸してくれたり、特別列車を走らせることもあった。
 以降、我われが行く先では数千人の同胞の歓呼の声で迎えられ、数百数千人を前にしては「我われは日帝のために三十六年間にわたりいかに搾取されたか、特に北海道に連行されてからの牛馬のごとく酷使された過ぎし日を語り、ふたたび、かかるめにあわぬように、我われ人民自身が団結し、搾取、圧迫、階級のない者が自由で幸福で平和な社会主義国家を我三千里江山に建設しよう。そのために十一月一日と二日の二日間札幌市内の札幌劇場において大会を開くから諸君は代表を選出して送ってくれ」と呼びかけて全北海道を歩いた。

 同盟発会式

 朝鮮民族統一同盟発会式には、我同胞が三千数百名集まった。[中略]たしかに熱心に働いた。けれど肝心なことに気がまわらなかった。というのも、我われが宣言・組織活動に行く時は必ず占領軍から監視員が同行した。降伏した日本当局は、英語のできる外交のベテランを使い、お金や美女を監視員らに当てがい接待したのに、我われは何一つとしてしなかったことは、今になって思えば幼稚だったと言えるかもしれない。
 大会後、司令部へ行った。司令官は、
 一、大会は三百名以内といったのに十倍は集まったこと
 二、石炭を掘ってくれないこと
 三、朝鮮人は方々で騒ぎをおこしていること
 と注意とも警告ともなく言うので、我われは、
 一、代議員は三百名未満だったが傍聴者が多かったこと
 二、わが同盟も強制力はもちあわせていないこと
 三、日帝がわるかったからであること
 などと答えたが、朝鮮人問題は、彼らにとって治安上厄介だと思っているようだった[中略]。
 我われは、同胞たちが全ての権利を放棄して帰国することに反対ではあったが、それは占領軍の方針でもあり、労働者は帰国を望むので援助せねばならなかった。そのかわり後日役立つように記録を残すべく、応募地、応募人数、職場の状況、帰国人員数、逃走者数、病者数、死亡者数、遺骨の処理状況、事件などの調査を進めていた。


 建国委から派遣された人物

 [略]一九四五年の暮か、翌年の春ころ、「朝鮮建国準備委員会は海外から帰国する同胞を援護するために派遣員を軍司令部を通じて来道さす」という記事を北海道新聞紙上で見た。我われは欣喜雀躍した。[しかし実際に来日した人びとは、元協和会の人びとを頼り、統一同盟をつぶす働きをした]
 我朝鮮民族統一同盟は有名無実になってしまった。これを構成していた鉱山労働者は一番先に帰国してしまい、委員長以外八名の戦闘的幹部は司令部により強制送還され、パスポートもとりあげられるという状況であった。しかたなくこの件を[建国委の]洪貞益一派にたのんだが、彼らは知らん顔であった。我われは、洪貞益一派が我統一同盟を潰すべく陰で画策したことを知らなかった。逃避者については元請負業者たちが、交通の不便な元タコ部屋のバラック静狩訓練所に一時収容して、ある数になった時、計画輸送の船にのせたのであった[中略]。

 生きる方法

 計画輸送が終わる頃になると、先住同胞、帰国しても待つ者のいない人、または大きな隠匿物資でも見つけて一儲けして帰ろうかという同胞ばかりが残ったので、先ざき組織運動の見込みはなかった。
 大きな隠匿財産、物資などは大物が独り占めするので問題にはならない。けれども小さな盗み、小さな隠匿物資などを扱う者は捕われ拘置所につながれたり刑務所に持っていかれたりした。
 当時、我同胞は働きたくとも全く仕事がなく、ヤミ物資を手にするか、隠匿物資でも探すよりほかに生きる方法はなかった[中略]。
 私は孫邦柱とともに道議会議員井川伊平氏を説得して拘置所や刑務所に収監中の朝鮮人を全部受け出して、彼らに仕事を与え、生活の場を与えるために、まず一千万円の募金をしようと考えた。そのために道知事の認可ならびに知事の協力を要請し、知事と会談した結果すべての準備手続きが順調に進んだ。[その後、戦前からタコ部屋で名高い北海道の新川組と交渉をして二十室の昭和館という旅館の提供を受け、解放館として困っている同胞を受け入れる活動をする]

 強要されたスパイ

 我解放館が、道庁上官はじめ多方面からの協力を得て、近い内に募金に出ようとしている時に占領軍司令部から私に来いという。出かけると、いつもの司令官室でない別の部屋に通され、そこのキャップらしい男が、戦前戦中苦労したことを慰めた上、今後は自分に協力してくれと言うのであった。
 私が、米軍は我われを解放してくれた恩人であるから心から協力しているしこれからもするといったら、彼は私の手を握って大いに喜んで、それでは自分のほうで指図をするからそれに基づいて秘密裡にスパイをしてくれというのであった。
 そこで私は、私の性格上秘密にこそこそすることはできない。正正堂堂とやれることなら何でもするからと言った。しかし彼は「君は日本特高にずいぶんいじめられたではないか、その復讐のためにも私の方針どおりに働いてくれれば俸給も十二分にする」と誘うのであったが、私が強硬に反対すると彼は「よーく考えておけ」といい、その日は終わった。
 当時はわからなかったが、それはCICという機関であった。
 その後何日かたってまたCICに呼ばれ、考えが変わったかどうか聞かれたが、私はいっかんしてスパイになることを断わった。私を説得してもきかないものだから、彼は部下に家宅捜査を命じた。その結果、米軍用毛布一枚と米製腕時計一個を押収してきた。その品物は寮内に居住している人のもので、私とは無関係であるといったが、そのままブタ箱にブチ込まれて二、三週間後にMPの裁判にかけられた。 この時、私は北海道衛生部長の金井進先生はじめ、多くの保証人、弁護人をたてた。けれどもCICキャップが、必ず私を有罪に処すると断言したとおり、判事は私に対し、
 一、懲役三年 ただし執行猶予五年
 一、罰金三千円
 一、本国へ強制送還
 と宣告した、しかし身柄は拘束しなかった[先輩の同志孫邦柱のすすめで、逃げることとし、妻子を残し、一七年前に活動をしていた仙台へと行く]。

 仙台で

 仙台へ着いたのは昼すぎであった。改札口を出てみると、実際の戦災を見ていない私の目に映る仙台の有様は惨憺たるものであった。駅舎はバラックの仮小屋であった。道路はきたないの汚れたのと形容のしようもなくそこここに靴磨き、カマボコ売り、リンタクなどがわがもの顔に道路のほとんどを占領していた。
 靴磨きの一人にこのあたりで朝鮮人の住んでいるところはと尋ねると、向かいの靴屋だというので、そこに行った。申錫珠を知らないかと聞くと、今頃は[在日本]朝鮮人連盟宮城本部事務所[以下、朝連県本部]だろう、事務所は西公園にある元の朝鮮館だと教えてくれた。名掛町から新伝馬町と昔の記憶をたどりながら西に向かって進んでいくと、町の中心部は空襲で全部やられており、うすっぺらな板や竹などで小屋を建て、こわれたものを片付けるやら、外に出て食事の仕たくやら皆忙しそうに働いている光景がみられた。西公園に着いてみると樹木も何もない焼野原であった。幸いに朝鮮館のある南側は無事であった。
 なかに入ってみると二十人くらいの人が議論したり、話し合ったりしていた。申錫珠を探していると、間もなく十七年前より頭髪が少し薄くなったほかには少しも変わらない申錫珠が出て来て「金君ではないか、よく訪ねてくれた。君は北海道で死んだという話が飛んでいたんだよ」と言いながら歓迎してくれた[中略]。
 [申の]家の前の道路、中庭一帯に人力車が数十台停っているので、何事があるのかと思い入ってみると、車夫たちが白酒をうまそうに飲み機嫌よく騒いでいるところだった。申夫人は若い三人の女性を使い、客あしらいに忙し気であった。申夫人に挨拶すると、夫人も心から歓迎してくれ、早速酒肴のお膳がだされ申氏親子と昔話から現在の話までしながら談笑していると、申錫珠が七、八人の人をつれて戻って来た。またお膳が並べられ酒肴が出された。私は、申錫珠に、私を金東明と紹介するように、事情はあとで話すからと先手を打っておいた。最初の酒席で紹介されたのは、徐万奎委員長、徐元吉総務部長、李順基書記長など、朝連県本部の幹部級であった。
 彼らが帰ったあと、私は申錫珠夫婦に事情を打ち明け、当分厄介になることに決めた[中略]。
 何日かいるうちに、申家の白酒が実によく売れるのがわかってきた[中略]。
 毎日、夕方になると朝連の人たちが申家に飲みに来るので、私は一人一人がどんな人か知るようになった。申錫珠、羅永順その他何人かが戦前の私の行動を知っていたので、朝連幹部たちから大先輩として尊敬されているようであったし、また年齢も皆三十歳前後であり、徐万奎委員長はじめほとんど労働運動の経験もなければ社会主義に関する書物を読んだこともない人だったので、私はこの青年たちを対象にしてもなすべき仕事はあると思った。
 [妻子をやっと連れもどし、中江朝鮮寮へ入る]中江というところは、仙台駅から一・五キロほど離れたところで、戦時中、軍の要員を入居させるために建てた新開地だった。戦後はおもに大陸からの引揚者が住んでいたので、旧習古弊の強い部落とは違っていた。戦時中は軍の管理下にあったが、戦後は財務局に移ったが、実際に管理するのは借家人組合であった。借家人組合には共産党員や社会党員が多かったため、我われ朝鮮人との交際もマルくいくのであった。朝鮮寮は、朝鮮人計画輸送のころから寮長である阿部一家がそのまま寮長として住んでいた。彼は名目だけの寮長で、給料などは一銭もないにもかかわらず、市役所関係、配給物資等、日常生活に関することではよく働いてくれた。彼には三人の娘がいたが長女は朝鮮人と結婚していた。国籍による差別観もなく善良な人であったが、白昼、同町内を歩行中、後から米兵に棍棒で脳天をぶん殴られて倒れ、二日目にこの世を去った。我われはこの殺人事件を日本政府当局や米軍当局に抗議したが、遺家族に対する慰謝料は、一銭も出なかった。
 私の荷物が着いてからは、資本論、唯物弁証法に関するものなどで読書会をしたり、母国語の勉強のために、一日に一、二時間学習会を開いたりして、皆、仲良く、まるで寮内が一家族のような生活であった。

 日本共産党に入る

 一九四七年三月一日第二八回三・一記念追悼会が東北劇場で開かれた。解放に酔っていた時期だけに会場は数百の人であふれていた。その時、私は追悼文の作成と朗読を命ぜられた。[追悼と幸福な社会主義国家建設を訴える演説は場内を圧した]
 大会後、朝鮮人同胞社会で私に対する見方がかわった。朝連を動かしていたのは日本共産党朝鮮人部宮城県グループであった。彼らはそのグループのキャップ許俊を北海道に派遣し、私の身許を調査したうえ、私に入党をすすめた。徐万奎、鄭華林が保証人となり、私は正式に日本共産党員となった。私は党員になって本当にうれしかった。これではじめて革命党に籍をおいたと感無量なものがあった。労働運動に身を投じて二十余年、これという戦績はなかったが、何度かのブタ箱・牢屋入り、そして現在なお米軍に追われる身ではあった。

 朝連宮城県本部

 当時朝連宮城県本部の組織内容は、十数部門に分かれており、各部に部長、部の下には課があり、一見整備されているようにみえた。しかし真剣にしている仕事は、朝鮮会館を新築するための資金集めであった。各支部にある金額を割当て、その集金に全員が全力投入しているのであった。集金した金を私用に使ってしまった者もいた。徐万奎委員長自身も勝手に他人に貸して、結局取り立てられないなどの問題が起こっていた。
 日本共産党宮城県委員会朝鮮人グループは会議を開いた。朝連宮城県本部臨時大会が開かれ、金銭問題を徹底的に究明することならびに徐万奎委員長に責任をとってやめてもらい申錫珠を委員長にすることを決定した。
 私はこの決定に賛成して次のように提言した。
 一、このような不祥事がおこる原因を究明し委員長を入れ替えるだけでなく、身近な問題から見直し、組織を根本から訂正する必要があると思う
 一、我われはいかにして生活していくか、つまりどうすれば金儲けができるかという経済問題がその基本にある。県庁、市庁の役人を招いて膝詰談判で実利を得るようにしたらどうか
 一、日帝の搾取、盲化政策により、我われは文化的に遅れている。我われ自身も勉強しなければならないのと同時に子弟の教育に最大の力を注入しなければならない
 一、我組織には多くの部がありながら、朝鮮会館の資金集めに終始しているのはおかしい。資金集めは事務的な仕事なのである。経済部、文化部の二本立てにして身近かつ緊急な問題を解決してはどうか
 一九四八年二月、朝連宮城県臨時大会が召集された。
 一、組織機構改造は異議なく通過し、文化局長許俊、経済局長金東明、両局をつなぐ部門として書記局が決定した。書記局長金英俊
 一、会館建築基金問題では、徐万奎委員長の責任を追及、辞任させるのに紛糾した
 一、申錫珠委員長、金敬夏副委員長が就任
 朝連宮城県本部は臨時大会の決定どおり、本部事務所と支部事務所を合併し本部事務所の建物を教室に使用した。文化局では朝連の幹部から学習をはじめた。教師のほとんどは日本共産党宮城県委員または大学在籍の講師などであった。名称を東北朝鮮高等学院として、多くの闘士をこの学院で養成した。
 朝日経済問題懇談会が一九四八年三月二八日に開かれた。東北日報社二階の大広間を借りて県内の朝連幹部クラス、本部全員、日本官庁の経済関係者、経済統制にたずさわる者、県知事はじめ税務署長、営林署長などできるだけ多くの人たちに招待状を出して、一二〇名以上の出席者で開かれた。
 この懇談会は経済問題を話すためのものなので、責任者である私は次のような点について話した。
 我われの生きんがための行動にいちいちこれもだめ、あれもだめとしながら何一つとして生活の方法を指導してくれない。生きるためにいまに廃止されるであろう腐りかけた法に縛られる必要はないと思うが、我われはそれでも何とか統制線にのせて合法的にしたい。すなわち我同胞の生活手段、方法が現在の日本の法律に違反でないように、さまざまな法規に合うようにするにはどうすればよいのかを関係官庁からご教示願うために、今日の会合をもった。さらに、具体的には、
 一、建築材ならびに炭を焼くために山林を払い下げること(営林署・材木業者・炭焼業者で組織する)
 一、繊維関係(当該官庁責任者、ヤミ業者で研究する)
 一、亜炭坑を再掘する(坑区権所有者、鉱山局、銀行、採掘労務責任者で構成、研究する)
 一、酒造りに関する件
 一、その他の件
 これらは一括討議しても答は出ないので、各件別に専門委員会を我われ実生活者すなわち朝連側と取締る立場の官庁側ならびに学識経験者をもって組織し研究することを提案したのであった。
 この日の会合は大きな成果をあげたのであった。すなわち、一定期間、朝連が宮城全県を総括してドブロクの税金を納入して、ドブロク造りを公認するとか、営林署は白石の山を払い下げるとかの口約束もでき、和気あいあいのうちに閉会した。
 この会合の結果が一般同胞に伝わると、飲食店許可、建築業などなど問合せが殺到し、経済局は大混乱であった。私は、札幌での朝鮮民族統一同盟を思い、今後、仙台を根城にして築きあげられるであろう組織に内心満足し、より以上、理想に向かって戦う決心をした。

 潜行生活のなかで

 朝日経済問題懇談会のあった四日後、陰暦の二月二十六日のことであった。この日を明瞭に記億しているのは私ではなく妻なのである。この日は、私の四十二歳の厄日だとかで、我家では朝鮮寮に住む婦人全員を動員して、厄払いのためにご馳走をつくっていた。それで妻はおぼえていたのだろう。その日私は朝連事務所にいた。ある同志から耳打ちがあった。「札幌警察署員が連行しに来ている。間もなく仙台署員と一緒に来るから身をかくしたほうがよくないか」と。私は早速、長町の同志の家へ行き暮れてから家へ帰った。
 我家には、札幌署員が仙台署員に案内されて来て、調べて帰ったあとであった。当夜、緊急会議を召集した結果、当分私は地下にもぐることに決めた。ご馳走はできていたので寮の周囲に警備の者をおいて、厄払いをしてトンチャンカンチャンと歌い踊り騒いだ。
 なぜ、札幌警察に私の居所がわかったのか。数カ月後に判明したところによると、我日本共産党宮城県朝連グループ内部に二つのグループがあったのだった。彼らは徐万奎が委員長でさえあれば天下泰平であった。朝鮮会館建設基金を横流ししても文句もいわれなかったのに、思いがけずに金東明という強敵があらわれたので、臨時大会前に金東明を亡き者にしようと謀議したのであった。金東明は仙台に来て日は浅いが人気がある。背後には申錫珠という人望家がいる。申錫珠は人望はあるが委員長の器ではない。金東明は十二分に資格を備えていて徐万奎の敵ではない。そこで彼らが私の身許を調べてみると、いままでの経緯がわかったのであった。姜基乗を北海道に派遣し、札幌の元協和会長南昌雲を訪ねさせ、日本警察ならびにMPに密告したのであった。
 我グループで、私を朝連委員長に立てようとしたこともないし、私自身そんなことを考えたことなど毛頭なかったので、朝連委員長のイスのために密告されるとは夢にも思わないことであった。しかもその密告主謀者が私の入党保証人である徐万奎であったとは!
 私は自宅にいることも朝連事務所にいることもできなかったので、あっちに一日、こっちに二日と同志の家にやっかいになり、ついでに各地の同志がいかに生活しているかと、福島市、会津広瀬、会津若松などを回った。いったん仙台に帰ってみたが、未だ私の行方を捜索しているとのことだった。私は朝連の仕事が何もできないので、責任者の職を辞めると主張したが、朝連内部に公然化しているわけではないからと、聞き入れてもらえなかった。その後、東京、静岡、富士市などを歩き、我同胞の生活状況をみたり朝連の運動状況を調べたりしたが、皆、水面に浮いている水草のように根のない、明日をも測り知れないものであった。ドブロク造り、焼酎しぼり、飴造り、ちょっとした飲食店などをしている者は最上の部類、労働者として生計を立てている者はゼロコンマ以下の数、農業はまったくなしの状態であった。
 在日朝鮮人の生活状態はかかるものであった。が、日本共産党朝鮮人対策部から発せられた指令によれば「在日朝鮮人は、日本労働者や農民と共に賃上げ、小作料値下げのために戦うべし」うんぬんとあり、何事にも我同胞を先頭に狩り出すのであった。
 私はこうした党の朝鮮人に対する方針の間違いを具体的に書いて県委員会に行って話してみたところ、全然自分たちにはわからないとのことであった。そこで東北地協に行ってみた。彼らは東北地協の名で再提案してみるが、取上げるか否かは中央の権限だからわからない、たとえ間違っていても、すでに出された決定には服従するのが党員の義務だと言うのだった。私は少数は多数に、地方は中央に服従することは義務だろうが、同時に間違いを発見したら即訂正することも義務ではないかなどと議論したが受けいれられなかった。私はこの時から、日本共産党は、我朝鮮民族問題に無知なのか、無関心なのか、もっと真剣に研究せねばならないと思った。

 焼けた朝鮮寮

 我祖国朝鮮には、連合軍の軍事処理上の関係で三八度線以北はソ連、以南はアメリカが駐留することは、日帝が降参する前に決まっていた。いざ実際に駐留してみると米ソいずれも朝鮮民族のための朝鮮人政府樹立を考慮する前に、各自に有利な都合のよい政府樹立を計画したために、朝鮮人同士の意見がまとまるどころか同族相殺するテロが各地で頻発した。その結果、一九四八年八月十五日、朝鮮半島三八度線以南に大韓民国が成立し、同年九月九日、以北に朝鮮民主主義人民共和国成立宣言がなされ、互いに傀儡呼ばわりをして、いつ同族相殺の大戦になるかもしれない状態であった。
 日本各地では、在日朝鮮人連盟の主催による朝鮮民主主義人民共和国建国慶祝大会が華やかに展開された。宮城県朝連では一九四八年十月十日と十一日、仙台市評定河原のグランドに東北六県の全同胞を集めて、慶祝大会を開くことになっていた。
 十月九日、翌朝九時から始まる慶祝大会の準備に手落ちはないかと、吉好相と共に会場を一巡し、二、三手直しし、我家に向かったのが夕募れの六時だったと思う。宮町の大門を通り抜け、北三番町を出て町はずれのたんぼ道に出ると煙の臭いが鼻をさすと同時に、朝鮮寮の方向から炎が上がった。「あの火事はどこだ!」と怒鳴ると、「朝鮮寮」と誰かが答えた。走ろうとしたがヤジ馬たちがじゃまで走れない。何人かにぶつかり、何人かを踏みこえ、寮近くまできて、「鍾一」と我子の名を呼びながら寮の西側通路へ達すると「アブジここよ」と火のなかからもいくらか運び出した家財道具を積み重ねた周りに、妻、三人の子ども、手伝いの娘がいるのを見た時は大分気持が楽になった。その時、うしろの豚小屋から豚どもが俺たちも無事だよといわんばかりにブーブーいった。その豚が焼け残りの我家の唯一の財産であった。
 当時は消防設備が皆無であったといっても過言ではない。寮は完全に焼失し、火が消えたのは八時をすぎていた。半年ほど前に隣りの中国人寮が焼失し、今度は朝鮮人寮であった。原因はついにわからずじまいであった。この火事で、北海道における朝鮮統一同盟時代の種種の調査証、名簿、写真など、後日歴史上有用なものが焼失してしまった。

 南風崎収容所

 手当たり次第仕事をみつけて再生の途を歩み三カ月ほどたった一九四九年一月半ば、夜明けの闇未だ去らない時、玄関を叩きながら「おはよう」という声がした。妻が出てみると逮捕状をもった四、五人の刑事がおり、「金興坤を連行する」という。こうして私は北署に連行されたのであった。本田某という刑事が部下一人を連れて札幌まで私を護送し、その晩は保護室に入れられた。
 翌日は裁判であった。検事を勤めていたオクスポートの前に立たされた。彼は私を見るなり怒りだし、地下室の薄暗い部屋でピストルをつきつける。「お前なんか、今ここで殺したって俺は何の罪にも問われない」と言いながら見たことのない機械を出し、そのコードの端を私の手首に接続させて質問するのだった。ウソ発見器のようであった。[中略]十問答くらいした後一階につれていかれると、制服の警官と私服の警部補が待っていた。私は九州の南風崎収容所に護送されることになっていた。警部補の好意で仙台駅では数百名の同志が駅へ出て万歳と叫んでくれた。身重の妻と子どもたちは東京まで見送ってきた。
 [この後、強制送還。釜山から故郷へ帰るが、当地の惨状をみて、日本へ密入国。仙台で古銅鉄商で何とか食べていけるようになった五〇年一二月、外国人登録令違反で懲役四カ月、執行猶予二年の判決と日本居住許可を受ける。五一年四月、設置されたばかりの出入国管理庁の仙台出張所員に呼び出され、強制退去を言い渡され再逮捕、長崎県の大村収容所へ収容、強制送還。一九五一年九月、再び密入国を試みるが、船が拿捕され、同年一二月、佐世保で裁かれ、罰金一万円。一九五二年二月、釈放。]

 日本政府への憤り

 私自身の辛苦もさることながら、帰宅して妻の話を聞けばただただ頭の下がる思いであった。大村収容所に収容されているあいだは、何とか送還を免れるよう有力者に陳情書を書いてもらう。仙台地方検察庁に毎日行って抗議歎願したところ、検事自ら妻と一緒に北部軍司令部に行き話し合ってくれたという。
 また私が韓国にいる時は合法的に渡日できるよう、密航船で渡航中逮捕された時は何とか微罪で放免されるよう、大村収容所に収容された時は釈放のため走り回り、陳情、歎願してくれていたのだった。金井進博士も上司からの注意しろとの命令をも構わずに私の救済のために東奔西走してくださったし、井川伊平氏にもお世話になった。
 戦後生活のための生存競争は私たちにとって形の変った猛烈な戦争であった。思えば私は無法な権力により私の最も活躍すべき時期に競争場より五カ年間も隔離されたのであった。
 私をかかる窮地に陥れる理由と言えばそもそも「CIC要員になれ」というのを拒否した事から米軍物資不法所持にデッチ上げられたからである。
 このデッチ上げ裁判については、すでに述べたように憲兵裁判所命令第四号で、「一九五〇年十月十八日付連合国軍総司令部回章十七の五十のD項により、現在佐世保刑務所に拘禁中の金興坤に係る一九四六年十一月、第十一空挺師団司令部憲兵裁判所の判決の中、重労働禁錮一年(執行停止)ならびに罰金三千円の刑を超過する部分は取消す。被告が剥奪されたすべての権利・特権および所有権はこの取消の判決により回復されるものとする」という命令が、参謀部付大佐参謀長C・A・グリーンの署名で出ているのである。したがって私は一九五〇年の十二月十二日に仙台地裁が私を裁いたことや二回目に私を強制送還したことは、この命令に対する違反であると確信している。このような人権蹂躙によって私のこうむった一切の損害は、それを犯した日本政府が当然弁償すべきであると思う。
 「弱い一個人の人権が強い国家権力によって無法に蹂躙されても盲従しがまんしなければならないのか」という憤りが、私をしてかような手記を書かせたのである。



 キム・フンゴン
 一九〇七年二月二六日、慶尚南道昌原郡で農家の三男として生まれる。一九二二年から朝鮮解放のためには自己学習が必要と考え、渡日し、関西地方で働きながら独学をする。その後、東京、福島、仙台で鉄道工事をしながら、植民地問題の原意を追及し、マルクス、レーニンの『共産党宣言』に感銘を覚える。一九二八〜三一年の間に北海道で「タコ部屋」の現状を直視し、労働運動や朝鮮人解放運動の先頭に立つようになる。一九三一年には、治安維持法違反で逮捕され、一九三五年まで拘置所や刑務所に服役させられる。一九三八年、北海道庁の嘱託で労務者指導員となる。一九四一年一〇月、鄭達先さんと結婚。一九四五年八月の解放後は、北海道などにおいて在日朝鮮人運動の指導的役割をはたした。占領軍の対敵諜報部隊(CIC)ににらまれ、仙台に移住し、地下活動を続けた。一九四六年に日本共産党に入党し、在日朝鮮人連盟の幹部として活躍した。一九四八年の国旗掲揚事件以降、再び占領軍と対立するようになった。一九九四年四月九日、仙台で亡くなられた。この紹介文は、金興坤さんの長男・金鐘一さんの資料提出に基づいて作成した。感謝の意を表わしたい。

* 本稿の表記については、原文を尊重し、当初掲載されたままの表記にしたがった。なお[ ]内は省略のために三橋が補った文章である。


目次 に戻る