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[特別報告]
国旗掲揚問題と在日朝鮮人社会

孫文奎 朝鮮大学校教員

 はじめに

 在日本朝鮮人連盟(朝連)の運動とは、民族の自主性を守る在日朝鮮人運動の主役だった、と私は思っています。研究を進めるなかで、在日一世たちの運動が、単に朝鮮民主主義人民共和国(共和国)を支持する運動としてだけではなく、民族分裂の危機を克服し真の民族の独立統一をめざす闘いだったことを知って、その熱意には驚嘆しないわけにはいきません。
 今日、在日朝鮮人運動は、二一世紀を展望するとき、重要な問題がいろいろと提起されています。そうしたなかで私としては、三世四世が主力になった在日朝鮮人社会で、一世の活動を正しく継承していくことは、転換期にさしかかっている在日本朝鮮人総聯合会(総聯)の運動にとっても重要な意味をもっていると考えています。

 朝鮮人連盟の国旗掲揚運動

 私が国旗掲揚闘争の歴史を考えるようになったのは、学生時代の小レポートにはじまります。その後あまり進展がみられませんでしたが、日本国立国会図書館で占領文書の収集と公開がなされたのを機に、もう一度本格的に取り組みました。
 一九四五年八月一五日の解放直後から、朝連の活動綱領のなかに、「朝鮮に独立国家を建設する」ことが提起されています。この綱領を実現する闘いは、本国での運動に呼応して、在日同胞たちが統一国家をうちたてて、それを守る運動として展開されていったのです。しかし、冷戦の激化と朝鮮統一のための「米ソ共同委員会」の決裂で、南北分断へと突き進んでいきます。アメリカの後押しで李承晩大統領による単独政府が樹立されて、それに反対して統一朝鮮を造ろうとする闘いのなかで、朝連の指導のもとに在日同胞が到達したのが、朝鮮民主主義人民共和国の樹立とその支持だったと言えます。
 国旗掲揚闘争も、そうした共和国創建を慶祝する運動のなかで起こったのです。
 最初に在日同胞たちが慶祝運動を始めたのは、一九四八年九月一四日か一五日かと思いますが、朝連東京都中央江東支部とか新宿分会、あるいは荒川の尾久分会とか、東京ではそういう分会単位で集会がたくさん開かれて、共和国の成立過程や政策を浸透させたり、新国家に対する誇りをもって、これを守る決意を固める、という活動が自然発生的に展開されていくなかで、朝連による慶祝運動が展開されていきました。
 一九四八年九月二一日に朝連一三六回中央常任委員会が招集されていますが、そこで在日同胞たちの高まっていく熱意を土台にしながら、慶祝運動を全国的に展開していくという組織的方針を打ち出します。このなかで朝連は、日本という立地条件を考慮して共和国の国際的な権威を高めるという政治的な重要性をもたせて、組織的な慶祝運動を切り開いていこうとした、と考えられます。とりわけこの年の八月一五日に、南朝鮮では大韓民国が成立し、連合国最高司令官D・マッカーサーがソウルでの式典に参加しました。一方、在日同胞の多くは、共和国を支持しました。北朝鮮のピョンヤンに樹立された共和国政府が南北を代表した政権である、という認識が在日同胞のなかに強くあったのです。今は南北に別れてしまっていますけれども、当時は「北」を支持するというのではなくて、共和国は南北を代表していると。例えば南朝鮮地域では間接選挙という形で代表を選出して、共和国政権に加わっています。多くの在日一世は、民族統一をめざす歴史的な成果を強く認識しながら、これが本当の自分たちの統一政権であると考えていたのです。
 朝連中央は、共和国創建慶祝指令を各県本部へ出しています。第一次資料では確認できませんが、GHQの民間諜報局(CIS)の文書から、朝連中央から対馬本部へ送った指令の内容が分かります。日付は一九四八年九月二七日となっています。
 朝連中央から対馬本部宛の通牒のなかで慶祝大会を組織する件について具体的に触れていますが、かいつまんで言えば、すでに一部の地方では生活権擁護問題と結びつけて、慶祝行事が盛大に行なわれていること。日本当局と交渉して新国旗を作るための布地と物資、酒とビールやもち米などを入手する地方も何カ所も出ていること。第二点は、共和国の強固な土台を築くための闘いとして歩調を合わせるため、中央常任委員会では一〇月一〇日に日本全国でいっせいに慶祝行事を開催すると決定したこと。慶祝行事の要領として、一〇月一〇日を一つのメドとして開催し、場所も屋内か野外、可能であれば慶祝デモ行進を行なうこと。慶祝行事は外国人、日本の名士、民主団体の代表も参加するように最大限努力をすること。大会では共和国国旗掲揚式を厳粛な雰囲気のなかで開催すること。次に朝連中央本部では各界同胞の有力者を参加させて、中央では「中央慶祝準備委員会」を結成することを決定したから、各県本部では、支部・本部単位の代表からなる慶祝準備委員会を作って、そこで討議して慶祝大会を開くように、との通達を出しました。結局、そういう方向で全国的に慶祝大会が組織的に展開されていったのです。
 これについてアメリカ占領軍側では、すでにそういう動きをキャッチして、注目しています。特に九月末頃には占領軍への情報提供者とみられる在日本大韓民国居留民団(民団)の幹部が、神奈川県軍政チームを訪ねて、朝連が一〇月九日に大々的な慶祝行事をもって、国旗を掲揚して、自動車のデモ行進を行なう計画をたてていると密告した事実が、GHQの民政局(GS)の文書に載っています。この資料をみれば分かるように、米第八軍軍政本部の方でも在日朝鮮人のこうした動きを的確に把握していたとのことです。
 この時期に、朝連各支部では新国旗を掲げて慶祝大会が盛んに行なわれています。『朝連中央時報』や『解放新聞』(朝連の機関紙)でその内容の記事がたくさん紹介されています。そのなかで在日同胞たちは国旗をどのように取り扱ったのでしょうか。
 それまで在日同胞は、旧朝鮮国旗として「太極旗」を使っていました。しかし、共和国の創建とともに新らしく制定された共和国の国旗を正しく認識させ普及させていく運動が広がっていきました。一世のなかには「太極旗」という旧朝鮮国旗に対する愛着という問題があったので、朝連では新国旗をどのように認識させていけばいいかという課題に取り組んでいたのです。
 そのなかで私が一番感激したのは、一九四八年九月二二、二三日に朝連の愛知県本部で行なわれた在日本朝鮮民主青年同盟(民青)の第五回定期大会です。そこでは従来の「太極旗」がそのまま掲げられていました。ところが代議員のなかから、共和国が創建されたのに、われわれは共和国を支持するという立場なので、古い国旗をそのまま掲揚するのはおかしいという意見が出されて、討議の結果、古い国旗を下ろして新しい国旗を掲げるという動議が提出されました。それが満場一致で採択されて次の日から共和国国旗をひるがえすことになったのです。
 このとき、愛知県民青本部の許太準という青年が、「新しい国旗を掲げて」という感動的な詩を書いています。新しい国旗というものはどういう国旗なのか、愛国者たちが血で戦いとった国旗だから、これを守っていこうという内容の詩で、それを即席で発表して参加者に深い感銘を与えたのです。
 それ以外でも、運動会とか、民族教育の場においても、共和国の国旗が盛んに広げられるようになります。一つの例としては、一九四八年一〇月四日、東京朝鮮中学校の第一回卒業式と東京朝鮮高等学校の入学式に国旗掲揚式を行なったことです。また、学校創立二周年記念式と同時に共和国創建樹立慶祝大会をその一環として盛大に開催されて、運動場に国旗が掲げられました。その運動会と卒業式に国旗が掲揚されている写真資料が残っています。このように在日朝鮮人、朝連の活動のなかで、新しい国旗を掲げて愛国運動が力強く展開されていったということです。

 慶祝代表団の派遣

 次に、こうした慶祝運動のなかでもう一つ大きな特徴が、共和国創建慶祝代表団をピョンヤンへ送る運動も盛り上がっていきました。これは一三六回中央常任委員会の「慶祝代表団を祖国に派遣する」決定に基づいたものですけれど、在日同胞には、ぜひとも自分たちの代表を派遣したいという願いがあったのです。自分たちは共和国を絶対に支持しているのだと、そして自分たちの運動を訴えて、共和国との連携を持ちたい、という目標をたてて代表団を送る運動が広がっていきました。この運動は、朝連の決定以前に、同胞たちのなかから沸き上がった要請が朝連中央にたくさん寄せられたのです。そういう要請を汲み取って運動が開始されたのです。
 例えば山口県では、『解放新聞』に出ていますが、慶祝代表を送るのに五〇〇〇人に一人の割合で代表を送りたいということで、山口県の朝連では代表を選ぶのに直接選挙まで行なっています。他の県では、朝連の第五回全国大会を迎える県単位の定期大会で代表を選出する、という方法で決定されました。(なお、第五回全国大会は一九四八年一〇月一四~一六日に開催されました。)
 そのなかで朝連中央の慶祝大会が一九四八年一〇月一七日に開かれたのですが、その直前の一〇月九日の朝九時半に共和国の金日成首相から朝連中央総本部宛に招待電報が来ています。これがこの運動をいっそう盛り上げる契機になったと思います。一〇月八日午後三時にピョンヤン放送で金日成首相が朝連の代表団をピョンヤンに招待する旨の電報を打ったという報道が入って、九日の朝九時半にその招待電報が朝連の中央会館に到着したわけです。
 ここで興味を引くのは、金日成首相の招待電報の内容が『解放新聞』に公表されますが、GHQは同電報がとどいたことを知らなかったということです。電報は必ず中央電報局を通して、CIS(民間諜報局)が事前に監視・検閲できるシステムになっていたはずですけれど、実際はチェックができませんでした。その件でCISと参謀第二部(GⅡ)の幹部たちが激怒して、すぐにこの電報がどういう経路で入ってきたのか、また、朝連中央が感謝の電報をピョンヤンに送っているのですけれども、それは誰がいつ送ったのかなどの調査を指令しています。これはGHQが朝連と共和国との結びつきを非常に警戒し、それをできるだけ妨害しようとしていたことが分かります。
 一〇月一七日の中央慶祝大会で正式に代表団の結成が決まって、一〇月二五日には具体的な活動にふみきる、慶祝派遣団出発準備委員会が作られています。準備委員会は、旅券の獲得、在日朝鮮人運動の実態報告の作成、祖国に贈る記念品の用意、財政などを分担して活動しています。そして一〇月二七日にGHQの民政局(GS)と外交局(DS)に訪ねて、旅券の交付を求めます。GHQは当初、旅券の交付に好意的な回答を出しますが、その次には、代表団の個別的な名簿を提供してほしいと言い出します。そこで尹槿の名前で一括して旅券の申請、具体的な飛行機の利用、パスポート、滞在の許可などの申請書を出しますが、GHQは、最終的にはGⅡの指示ですが、朝連は共産主義組織なので、北朝鮮に送ることは治安上、危険だから許可を出さないという結論になります。これは一〇月一七日のGHQの法務局(LS)の文書から明らかになっています。
 朝連としては、GHQは一応許可してくれるということで交渉を進めていきましたが、許可がなかなか出ないので不満が高まります。これに関する日本側の資料もあります。京都米軍政部宛に京都市の警察当局が報告を出しています。これは「朝鮮人連盟の北朝鮮政府樹立祝賀代表団の派遣の件」というもので、次の点を取り上げています。北朝鮮人民共和国の金首相からの招待状に答えて、在日朝鮮人連盟では祝賀団を派遣するために五〇〇〇人に一人の比率で各支部ごとに代表を選出していること。京都では朝連京都府本部の林委員長が代表に決定されていること。代表団は飛行機の便で朝鮮に行けるよう対日理事会に対して工作していること。万一、許可が下りない場合は密航の方法を使っても朝鮮への渡航を強行するおそれがあることなどをGHQに報告しています。これは京都終戦連絡地方事務局から出された『執務半月報』の第一七号に載っています。
 GHQは許可を出すと言いながら、結局出さなかったわけです。とはいえ、どのように北朝鮮に渡ったのかについては資料がないので不明ですが、一九四八年一二月二三日に金日成首相と在日祝賀団が会ったことは確かです。例えば、共和国で出版された『解放一○年史』(一九五五年)には、(これは『朝鮮中央通信』の報道記事を集めたものですが)「一九四八年一二月一〇日に朝鮮民主主義人民共和国設立を慶祝する在日朝鮮人代表一行、来朝。翌四九年一月一〇日、内閣首相金日成将軍、来朝中の一行を接見」、という記載があります。その他にもこの祝賀団にふれている資料があります。一九四八年一二月二三日に金日成首相の在日朝鮮人運動に関する重要な談話が発表されていますが、私が共和国へ行ったときに学者たちにたずねたところ、具体的な経緯までは明らかにしてもらえませんでしたが、代表団の訪問は事実だということを確認できました。これは、当時共和国政府も在日朝鮮人運動に強い関心をもっていたことを物語っています。
 一〇月七日にアメリカ極東軍参謀本部長宛に出された「左翼の朝鮮人集会とデモ」という秘密文書がありますが、これは、GⅡによって作成されたものです。その内容を要約すると、第一に、朝連による全国的集会とデモが行なわれる情報を入手していること。東京での集会の詳細は分からないが、一〇月九日に日比谷公会堂で開かれる予定で、集会は朝連の第五回全国大会の序幕となるだろうと。また、その動向は、李承晩大統領の就任式で獲得した南朝鮮政府の権威を落とす目的をもっていること。第二に、一〇月九日の集会で朝連の新しい規約の予備討論が行なわれること。朝連は強力な中央的統制を受けた組織として、日本共産党と緊密な関係をもつことになると。第三に、一〇月の左翼大会で共和国の国旗掲揚がはかられて、これは反占領軍的な性格を持つこと。
 GⅡ文書によれば、国旗掲揚の動機は、万一、北朝鮮国旗の掲揚に対して占領軍が反対した場合は、朝連が「掲揚という行為には反対しているが、共和国の存在そのものは認めている」という主張をして口実をつくろうとしているのではないかとあります。仮に国旗掲揚の禁止がなかった場合、それはGHQが共和国の存在を承認したという宣伝を許すことになります。GⅡはなによりそれを恐れていたようです。最後に、民団の妨害によって、暴力事件が起こりうることも指摘されています。
 GⅡは、共和国の国旗掲揚は占領目的に反するものだと強調しています。これが国旗掲揚を禁止するGⅡの、占領軍の一つの見解になったのではないでしょうか。その結果、国旗掲揚禁止命令が出されていくわけです。

 口頭命令

 こうして作られる国旗掲揚禁止命令がどのような形で強要されていったのでしょうか。国旗掲揚禁止命令が一〇月八日午前八時に横浜の第八軍軍政本部副司令官から出されるわけですが、この副司令官は実は第八軍GⅡの部長を兼任した人物です。この彼が、口頭禁止命令という形で、無線指令「GX七三五三二E〇」をアメリカ極東軍司令部、第九と第一地方軍団司令部(仙台、京都)に送っています。その内容は、一〇月九日に計画されている朝鮮人のデモ行進を参考にして、北朝鮮の国旗掲揚と同国旗を描いたポスターの掲示を、日本国内においては一切禁止するという連合国最高司令官の決定を日本当局に通達せよということです。その無線指令には旗の真ん中が赤い云々と、国旗の内容が説明されています。そのなかで禁止命令が連合国最高司令官マッカーサー元帥の決定という表現になっています。この「決定」は、後でその法的根拠との関連で問題になりますが、当時、日本のマスコミでは、これは連合国最高司令官・総司令部(GHQ/SCAP)の指令と報道されています。しかしこれは連合国軍の指令ではなくて、アメリカ極東軍へのマッカーサーの個別命令にすぎません[2]
 同命令の法的性格は非常にあいまいなものになっています。この点について、GHQの外交局(DS)局長W・J・シーボルトもアメリカ国務相に同様の指摘をしています。なお、禁止命令は「朝鮮民主主義人民共和国」という正式な名称を使っておらず、「北朝鮮」国旗とかしか書いていません。これは後で軍事裁判で問題になってきます。後ほど布施辰治弁護士は「北朝鮮国旗というものは世界に存在しない。実際にあるのは朝鮮民主主義人民共和国の国旗だけだ」から、共和国の国旗を掲揚した人びとを処罰する法的根拠はない、と主張するわけです。同命令の適用もあいまいで「いつ、どういう行為がだめなのか」がはっきりしません。日本国内では二四時間禁止と言うのですが、どういう形の掲揚がいけないのかはよく分かりません。それは基本的人権である表現の自由などの関係で問題提起されていきます。それでも占領軍当局はこのようなきわめて漠然とした命令を発して強要していくわけです。
 そのために、マッカーサーの決定が出された後に、それを執行していく過程でいろいろな問題が出てきたのです。神奈川県軍政チームでは朝連の神奈川県慶祝大会が開かれた一〇月九日に実際に禁止命令が発せられたのですけれども、このときバッジの場合はいいのか、旗とポスターは公的な場所でなければ禁止の対象にならないのか、二度違反したら逮捕するのかなどなど、さまざまな問題が出てきて、占領軍当局と日本警察の間で討議されました。そういった事からも、マッカーサーの命令は非常にあやふやなもので、後々に問題を引き起こし続けていきます。
 法的に不備な内容にもかかわらず、アメリカ軍側は朝連対策として禁止命令を重視していました。朝連の運動を治安問題として監視・管理しながら、占領軍は禁止命令を的確に適用できるか、実効性をもてるか、神経を尖らせたわけです。そこで同命令を浸透させるために軍事的な手段を使っていきました。一九四八年四月の山口・阪神朝鮮人学校弾圧事件のとき在日同胞が強力な反対運動を展開して、朝鮮人学校閉鎖命令をうやむやにしてしまった経過を踏まえて、GHQは軍事力で禁止命令を徹底的に実行させようとしました。普通の手段では明日行なわれる大会を禁止することは無理ではないかという、非常な危機感を持ちながら、軍事的に同命令を強行したということが、資料から確認できます。
 特に、GHQは第八軍を通して、一〇月八日午後、朝連の県幹部たちを呼んで「国旗を掲揚してはだめだ」と禁止命令を浸透させていきます。禁止命令は、迅速に当日の午後に朝連側に伝わっていくわけですが、遅いところは次の日になります。と同時にGHQはもうひとつの指令を出します。八日の午後に民間諜報局(CIS)のR・S・ブラトン(公安課長)が国家地方警察(国警)本部を訪ねて刑事局長と会い、警察側からも禁止命令を文書で発するよう指示します。その結果、日本国警長官から無線通牒が、同日午後、全国の国警県本部長などに出されています。
 国警長官名による国旗禁止命令が、なにかGHQの口頭命令に法的拘束力を持つものだと思わせたひとつの原因のようですが、これは単に占領軍の指示を伝えただけのものです。こうして日本警察を通して、同命令が山口県ではその日の午後六時にはすでに入っています。その時点では、山口県国警本部長は地方軍政部からの連絡がないので「大丈夫なのか」と県の米軍政チームに問い合わせをしています。山口県軍政チームの担当者がその連絡を受けて「まだ聞いていないが、そちらで適当に対応しなさい」と答えました。が、次の日には軍政チームの通訳から「こちらにも通達が来たので、徹底的に実行しろ」という展開がありました。山口県の場合は、国警の県本部が一〇月九日に朝連の県委員長を下関警察署に呼び出して、「一〇月一〇日の大会で、国旗を絶対に掲揚してはならない」と指示した記録が残っています。
 共和国国旗の掲揚禁止命令は、アメリカ軍を通した指令と、日本警察を通したものの両方からやってきます。そういう意味で禁止命令の浸透は非常に早く、徹底していたわけです。それほど占領軍当局は国旗掲揚に対して強い危機感をもっていたのです。

 禁止命令の違法性

 禁止命令が実行されるなかで、たくさんの問題点が提起されています。例えば、京都米軍政部より命令を受けた現地の日本関係者は、これは法的に疑わしいという反応を示したのです。普通なら、GHQから日本側に文章で正式な指令がきて、そこで日本側はそれを法文化して警察などに通達しますが、今回はそういった形跡もなく、禁止命令が一方的に出されているので、法的には大きな問題が含まれているだろうという危惧を抱いたことが明らかになっています。ともあれ、京都終戦連絡地方事務局の担当者たちは、疑問をもちながらも、命令にしたがったのです。
 しかし、占領軍当局は、そういうためらいを完全に無視して、最初の命令では旗とポスターだけを禁止していましたが、一〇月一八日頃になるとバッジもだめだという形で強化していきます。次の段階では、国旗を表示するカット類を含めて、共和国旗に類似するものも一切だめだというように、規制の内容をますます拡大していきます。
 そのなかで、例えば広島の場合は、地方軍政部から国旗禁止命令を受けながらも、朝連は、それは法的根拠がないという掲示物を出したのです。そのために日本警察と朝連関係者との間に激しい論争がまき起こって、朝連側が一切禁止命令を受けつけないという状況が一時、発生しました。そこで広島県軍政チームが第八軍軍政本部に対して、禁止命令の法的根拠を示す文書を送るように要求したという資料に残っています。そのように問題点を含みながら禁止命令の強要が行なわれていったのです。
 次に、国旗禁止命令の不法性について検討してみたのですが、そこでは三点において問題があります。
 第一点は、禁止命令は、日本占領管理の正規の手続を踏まず、占領軍が作り上げた民主主義的な秩序をも蹂躙した不法な命令だったということです。普通なら、占領軍当局は、「ポツダム命令」の覚書を作成し、その写しを極東委員会ならびに連合国対日理事会に送付して、場合によってその討議を経て、正式な文書で日本政府に通告して後者がそれを法的に実施する、というプロセスです。しかし、禁止命令は、そのような手順を踏まないで一方的に出されたものです。これは、GHQの占領政策に自らが違反しているということになるでしょう。これが禁止命令の不法性の第一点です。
 第二点は、国旗禁止命令は、口頭命令という形で出されたことです。これは、占領軍側がこの問題を国際問題として取り上げられるのを非常に恐れていたことを意味するのでしょう。そもそも口頭命令というのは、占領軍の意向が占領政策・ポツダム宣言と合わない場合に、自分たちの意向を強要するための常套手段だったと思います。
 例えば、マーク・ゲインの『ニッポン日記』[3]のなかに口頭指令について、次のような内容があります。要するに、GHQは日本政府に対して、なぜ実際的な指令を出さないでいるのかと、外国人新聞記者は互いに疑問を持っていたが、その真相が明らかになった。マッカーサー元帥が対日理事会の機能を麻痺させる決心を持っているからだと。本来、指令は参考文献として必ず対日理事会に送られて、そこで討議される場合もある。しかし総司令部は新しい手法を考え出した。民政局(GS)局長のC・ホイットニー少将は日本の官吏を呼び出して、彼らの前で日本政府への指令を読み上げる形で命令する方法を選んだ。そのために書面の指令が一件も日本政府に届かず、対日理事会にはもちろんそのような情報が一切入らなくなるというやり方です。
 もう一つ、『占領秘録』[4]にも同様の指摘があります。部落解放運動の指導者松本治一郎の公職追放について、次のように書かれています。簡単に言えば、アメリカ側が、万一、追放命令を文書で出すとすれば、それは証拠物件になりうると。そうすると、対日理事会に批判の材料を提供することになるし、国際問題になりかねない、という考え方です。
 こうしてみると、国旗掲揚禁止令も同じ口頭命令という不法な形で出されていったと思われます。例えば一九四八年一一月一日に朝連中央総本部が禁止命令の不当性を訴える提訴文、アピールを対日理事会に提出しています。ところが同理事会で一切取り上げられていません。対日理事会に送る一方で、朝連の代表がそれぞれの代表に会って文書を渡しています。「分かった。その問題を討議してみよう」となっていましたが、実際には対日理事会ではこの問題は扱われていません。なぜこれを議題として取り上げられなかったかというと、国旗禁止命令自体が公開されておらず、アメリカ側が他の連合国の関与を恐れていたからでしょう。言いかえれば、これは米軍内部で処理すべき問題であって、対日理事会で討議する問題ではないと。命令が覚書として存在していないだけに、資料がないから討議しようもない、ということだったと私は推測しています。
 もう一つ、この件に関連していますが、一九四九年九月八日に朝連が解散させられてしまいました。そのときに朝連の幹部がワシントンにある、連合国の最高決定機関だった極東委員会に解散の不当性を訴える文書を送っています。当初、極東委員会のアメリカ側の事務局長がそれを極東委員会の各国代表に配ったそうです。ところが後で、これはマッカーサーを非難する文書だということが分かって、あわててそれを回収して、この問題を一切扱わずに処理したということをアメリカ政府がマッカーサーに報告しています。このように、国旗禁止命令問題をアメリカ側はできるだけ外に出したくなかったのです。それは自らが共和国の存在を国際的に認めたと捉えうるため、避けたかったのでしょう。
 第三点は、日米治安当局者たちが国旗掲揚を取り締まる方法として、「勅令三一一号」(占領政策の目的に反する行為)を適用して違反者を処罰しようとしました。一九四八年一〇月三〇日だったと思いますが、在日本朝鮮学生同盟(学同)関東本部主催の慶祝大会で学生二人が逮捕されました。これは「勅令三一一号」の違反で逮捕されたと占領軍当局が主張しました。しかし、実際に後で確認してみると、占領目的に反する行為であれば、アメリカ側が正式な書類を日本政府に送付して、政府が法律を適用して、取り締まるという手続きです。ところが、実際は国旗禁止命令はこの点についてはあいまいなので、占領軍当局が「勅令三一一号」でもって弾圧を加えてみたり、後でそれを取り消して違う罪名で処罰してみたりして、臨機応変的に発動しようとしているわけです。
 このように国旗禁止命令は法律的には大きな不備があって、不法なものでした。占領軍当局は不法な手段で在日朝鮮人、朝連の活動を弾圧していったのです。共和国国旗掲揚の禁止命令は、朝連を解散させるための準備段階として強行されたと思われます。

 各地の国旗掲揚闘争とそのヴァリエイション

 最後に、各地の闘争について簡単に触れておきたいのです。
 マッカーサーの厳しい禁止命令のもとでも、在日同胞たちは国旗掲揚闘争を引き続き展開していきました。そのなかで一〇月九日の神奈川県大会は特に重要なものでした。大会の前日、米軍憲兵隊と横浜市警官が朝連神奈川県本部を襲撃して禁止命令を通告し、同大会のスローガンを押収したという事件が起こりました。そのために慶祝大会は国旗を掲揚しないで行なわれました。にもかかわらず盛大な大会として、二〇〇台の自動車による大規模な行進が組織されました。これを機に、同胞たちが国旗掲揚闘争を全国的に展開する突破口にしていった、ということがこの大会の重要な点です。
 そういう状況のなかで一〇月九日以降、全国的に慶祝大会と国旗掲揚闘争が盛んに取り組まれていきました。そのなかで代表的なものがいくつか挙げられます。まず、山梨県は小さな県ですが、朝連の県本部が禁止命令を受けたのですが、再度にわたって米軍当局と日本警察に国旗掲揚を求める要請運動を続けながら、大会の準備を進めています。そこで県の米軍政チームと日本警察は、朝連の慶祝大会に対する圧力を加えるためにさまざまな妨害措置を整えています。そのことは山梨県国警本部長が作成した文書でGHQに報告しているのですが、そこには大会で誰が演説したのかという細かいことまで書き記されています。なかには民団の代表たちが会場に入り込んで妨害しようとしたとか、暴力団を送ったなどの妨害工作も掲載されています。そうした状況のなかでも山梨県の同胞たちは最後までがんばってやりとおしたのです。大会の議長の発言には、自分たちが今回は国旗を掲揚できなかったが、必ずやいつかは掲揚できるようになるという意思表示もあります。
 次に、一〇月一七日の中央慶祝大会ですが、この大会においても結局、国旗掲揚はできませんでしたが、それは混乱をさけるためでした。しかし、同大会では国旗の模様をアレンジしたものを作ったり、あるいは舞台の中央に金日成首相の肖像画を掲示したりして慶祝大会を成功させました。
 その少し前に、一〇月一一~一二日に仙台の国旗掲揚闘争が起こりました。このときは在日同胞たちが米軍と衝突し、発砲事件も発生して、激烈な戦いがやりぬかれました。この内容はもうご存じかと思います。
 東大阪東成支部慶祝大会でも国旗掲揚闘争が行なわれています。ここでは禁止命令が出されていることを知っていながらも、同胞たちが国旗を見たいという要望に応える形で、集会の終わりに関係者二人が演台に上がって国旗を二分間広げて、掲揚闘争に立ち上がるように訴えたのです。
 次に、大阪の学生同盟(学同)の慶祝大会での国旗闘争です。この場合には、慶祝運動大会が開催されましたが、事前に淀橋警察署から禁止命令があるので国旗掲揚はだめだという「示達書」を受けています。にもかかわらず学生同盟は正式に国旗を二分間ひるがえしてから、すぐ降ろしたという形で掲揚闘争を遂行しました。現場では米軍憲兵隊と警官が監視していたそうです。
 慶祝大会以外にも朝連系の各種団体の定期大会においても国旗掲揚闘争が広がりました。禁止命令が出された直後のことですが、一〇月一一、一二日の二日間、在日本朝鮮民主女性同盟(女同)の全国大会で国旗掲揚闘争が行なわれました。会場のなかで掲揚していたので、日本警察は最初分からなかったのですが、通報があって途中から国旗の撤去を要求して警官が大挙して乱入してきました。女性の代議員たちは最後はスクラムを組んで国旗を守りながら、急きょ大会を終了させたことで弾圧を避けたという運動でした。
 また、朝連の第五回全国大会(一〇月一四~一六日)でも国旗掲揚闘争がありました。この場合においても占領軍当局や日本警察が掲揚活動を予測して、前日に朝連中央総本部の社会部長を警視庁に呼び出して、国旗を絶対に見せてはいけないと指示しています。それに対して朝連の代表者は「分かったが、自分個人では掲揚をやめさせる約束はできない」と答えています。そして大会当日、国旗の掲揚を実現しています。最初は日本警察が介入しようとしたけれども、とても踏み込める状況ではなかったので、GHQと協議したうえ、多数の警官を会場に突入させて、実力で国旗を撤去したというのがこの大会の真相です。
 その少し後に起こりましたが、一〇月二一~二二日の民青大阪本部の定期大会での国旗闘争もありました。ここでも激烈な闘争が行なわれて、幹部十数名が逮捕されました。
 このようにして国旗を実際に広げる闘いのなかで、たくさんの犠牲者が出てきました。この結果、国旗を守る闘いをどういう形で展開すればいいのかということが問題となりました。国旗を掲げない形で国旗を守る闘争もありうるのではないかということになったのです。
 主に四つの形式があります。
 第一に、国旗の代わりに大会の名誉議長として金日成首相の名前や肖像画を掲揚するという動きです。例えば朝連石川県の慶祝大会では、国旗の代わりに金日成首相の肖像画と名前を大会の中央に掲げて大会を成功させたことが警察やGHQの文書を通して確認できます。その形式は各地に普及していきました。
 第二に、同胞の家庭内で国旗を掲げる運動も出てきます。GHQの文書には「朝連側には禁止命令を無効化させる動きがある」という記述が見られます。朝連中央が、家庭内で国旗を掲げることで日米官憲に見つからないように国旗闘争をやり続けることを指示したとのことです。
 第三に、ポスターを掲示する運動が現われてきます。これは国旗に似たようなポスターを作って、国旗の代わりに使用するというものです。これは一一月一二日の東京朝鮮少年団の大会で実現されました。
 第四に、国旗のバッジを作って「国旗ではないから」という理由で、それを普及させる運動も行なわれました。そのなかで、滋賀県の「国旗バッジ事件」とか、「解放運動救援会の事件」が発生しました。バッジが星印で国旗によく似ているためにそれも弾圧の対象になったわけです。
 最後の例は、一九四八年一二月に山口県で行なわれた国旗掲揚運動です。共和国の公民としての生活権、外国人としての法的地位・生活保障を求める運動として、大々的な国旗掲揚闘争が広がりました。この場合も同胞たちが一致団結して最後まで国旗を守りました。このとき、国旗を掲揚したその責任が問われた朝連の崔民煥委員長を逮捕するために多数の武装警官や米軍の戦車さえも出動されましたが、在日同胞は最後まで守り通したのです[5]
 一九四九年に入るとこのような試みすらできにくくなっていきますが、在日同胞はいろいろな形で国旗を守る運動を展開して、日本占領が終わる一九五二年四月末まで継続させていきました。

 国旗掲揚事件の犠牲者への救援活動

 禁止命令の不当な適用に対して直ちに幅の広い抗議運動が生まれました。国旗禁止命令が出された翌日の一〇月九日にすでに、朝連中央の代表が対日理事会の各国代表を訪問して、同命令の撤回を求めています。具体的にはアメリカ、ソ連、中国、英連邦の代表に会って、「禁止命令はポツダム宣言に違反する不当なもの」として、「このような命令が本当に出されたのか」「その根拠を明らかにしろ」と追及したわけです。
 当時のGHQ関係者は「総司令部側は出していないが、地方軍政部は出したのかもしれない」というふうに逃げました。と同時に「われわれは北朝鮮国旗の掲揚には賛成できない」というニュアンスの発言をもしています。とにかく「総司令部は関係ない」という情報が同胞たちに広まっていく結果、禁止命令の権威は低くなって、命令自体は怪しいものだという認識が強まっていったと容易に推測できます。
 それ以外に、朝連系諸団体や組織による積極的な抗議行動が展開されていきます。代表的なものは、朝連の第五回全国大会の代表団による日米当局に対する抗議運動です。そのなかで代表団が検察局に訪ねて岡本という検事に会い、「警察は国旗を没収しているが、その法的根拠は何か」と追及しました。それに対して岡本検事の回答は「自分たちはそのような命令を出していないし、出す権限もない。ただ米軍政部から北朝鮮の国旗を揚げてはいけないという指示が出されている」というものでした。そこで朝連の代表は「だったら、警察がわれわれを逮捕するのは不当」と言い返して、抗議を徹底させました。また、仙台の国旗事件では現地に真相調査団を派遣したりして積極的な活動を切り開きました。
 もうひとつは国旗事件の関係で弾圧された犠牲者を救援する活動です。禁止命令に違反して逮捕される者に対して米軍政部は軍事裁判をかけました。同命令の法的根拠の問題もあるのですけれども、結局、軍事裁判で処理する方法をとりました。「勅令三一一号」による処罰は実際問題として成り立たず、一切行なわれなかったのです。
 当時、在日朝鮮人の生活が苦しかったので救援活動は困難を極めました。「益田事件」などの新しい大問題が次々と出てくるなかで、国旗事件には手がまわらないという事態も生じました。
 しかし、一九四九年三月かと思いますが、大阪で民青全国大会が開催されました。そこで民青は愛国青年賞というものを作って、国旗事件の関係で獄中にいる逮捕者に「愛国青年賞」を贈るという運動が行なわれています。そのときに代表として賞状を受けたのが、大阪の東成支部の国旗事件で活躍した高泰順という少女ですが、朝連中央の幹部が大阪を訪れて、直接他の逮捕者たちにもその賞を手渡して激励しました。
 こうして、GHQと日本警察の弾圧がかえって在日同胞のなかで、国旗に対する認識、共和国への忠誠心や支持をいっそう強めるようになったのです。

 アメリカの占領政策の反動化と国旗掲揚闘争の深化

 一九四九年に入るとアメリカの対日占領政策がますます反動化していきます。民主勢力、在日朝鮮人運動、特に国旗掲揚活動に対する弾圧も露骨化していきます。これは裏を返せば、朝鮮戦争を準備する一環として行なっただろうという捉え方を私たちはしています。
 一九四九年の年頭、マッカーサーは声明で「日の丸」を掲揚する自由を発表しました。日本国旗の掲揚は無条件で自由になったのです。そうした声明が公式に発表されてから、第八軍は同旨を書面の指令で出しています。それに対して、在日同胞から「占領されている日本の国旗掲揚は許されているが、共和国の場合はだめだというのはおかしい」という強い疑義が申し入れられました。これに対して、第八軍軍政本部を中心に禁止命令の法的裏付けを文書でもっと明確にすべきという見解が出されて討議されるようになります。日本関係者もその議論に参加していきます。口頭命令ではなく、公式な文書を出そうと、軍政本部の法務官の意見が一致しました。彼らは日本警察が在日同胞を取り締まるためには禁止命令を覚書きという形で成文化する他ないと考えていたわけです。
 しかし、GHQと第八軍軍政本部との議論のなかで、GHQ側から文書化は共和国の存在を実質的に認める危険性をはらんでいるという憂慮が再び現れてきます。「文書を出すな」「出したい」というGHQと第八軍の間に活発な意見交換が行なわれました。軍政本部としては、書面の禁止命令なしに日本側には掲揚活動を処罰する根拠もないから、問題が起きるたびに第八軍が憲兵隊などを動員しなければならず、たいへんだという主張です。日本警察も、朝鮮人に「根拠を示せ」と迫られて困るから、同命令の成文化を求めたのです。最終的には、第八軍は文案を出しますが、GHQが共和国の名称を使わずにと、強調し続けたのです。文案による国旗の説明は、「共和国国旗」という表記を避けて、「こういう形の国旗掲揚を禁止する」というあいまいな言い方になっています。そうした妥協案にもかかわらず、結局、書面の禁止命令は打ち出されなかったのです。
 一九四八年一〇月八日の口頭命令はそのまま押し通されて、国旗掲揚への弾圧は内容的に広がりながら、ますます強化されていったことは事実です。
 その後、朝連は、在日朝鮮人慶祝代表団の報告を受けて、一九四九年二月に第一七回中央委員会を開きました。前年一〇月の第五回全国大会では朝連の活動(在日朝鮮人運動)を共和国と直結させる方針はまだ明確になっていなかったのですが、この委員会で、われわれの運動は路線上、明確に共和国に直結することになりました。朝鮮民族の指導者が金日成将軍しかいないという確信を明確にして、朝連はこの路線を同胞たちのなかに強力に浸透させていきました。

 おわりに

 上述した形で、今日の在日朝鮮人運動の原形が朝連時代に作られました。それは厳しい闘いのなかで結成されたために非常に強固な、簡単には崩れないものになりました。同胞たちの大きな精神的な柱として、朝連がその後の運動に絶大な影響をもたらしたのではないか、と私は考えています。
 私は、在日朝鮮人運動は、朝連の時代に、基本的に組織的な面においても、思想的な面においても、大衆運動の形式が作り上げられたと思います。それは今日の総聯の運動のなかに脈々と生き続けているとも思います。総聯の活動が、今後厳しい状況のなかで生き続けるためには、一世のこうした闘いの内容を正しく継承することが大きな意味を持つのではないでしょうか。
 もうひとつ私が言いたいのは、朝連の運動は、もちろん今は共和国を絶対支持することになっていますが、南北朝鮮の統一政権をめざす運動だったということです。その意味で在日朝鮮人運動が南朝鮮では評価されていないのは非常に不当だと思います。朝鮮民族の歴史上において当然評価されるべき運動だと私は感じています。政権として共和国を支持したという形はとっていますが、日本国内の朝鮮人が自分たちの統一独立国家を求めて、その理念のもとで民族の自主性や諸権利を守りながら闘ってきました。その運動は、北と南とは関係なしに、民族史のなかで当然高く評価すべきでしょう。ここには私の多少の私見が入っていますけれども、とにかく朝連の成果と教訓を生かす形であれば、総聯の愛国活動は、今後とも紆余曲折はあっても、絶対に困難に打ち勝っていける確信をもっています。



 ソン・ムンギュ
一九四一年、山口県生まれ。現在朝鮮大学校教員。専攻は、在日朝鮮人史。


[1] (ソン・ムンギュ、『共和国の主権を擁護するための在日朝鮮同胞のたたかい』金日成総合大学出版会、一九九七年)。

[2] この点について、本研究会のロバート・リケットは、「誰がやったのかを確認する努力をしたが、証拠がない。マッカーサーが知らなかったはずはないが、GⅡのウィロビーの可能性も大いにある」という推測を述べた。

[3] 筑摩書房、一九六三年、下、188頁。

[4] 住本和男、毎日新聞社、一九六五年、208頁。

[5] 資料2を参照。


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