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占領期宮城県地域における在日朝鮮人社会

李榮娘* 中央大学教員
 はじめに

 本稿は占領期宮城県の在住朝鮮人社会をめぐる動向を考察することを課題とするものである。
 地域からとらえようとするのは、地域によって在日朝鮮人の存在形態、また在日朝鮮人を取りまく外的状況、すなわち米地方軍政部のあり方、日本当局(地方官庁)の統制のあり方に相違がみられると思うからである。在日朝鮮人の生活、活動はこうした要素に相互に関連して展開していくのである。そのため、いくつかの地域を考察することによって占領期の在日朝鮮人の動向が動態的かつ立体的に把握されていくと考える。
 宮城県は大阪、神戸、東京などの朝鮮人多住地域とは異なって、一番多かった解放直後、約一万一〇〇〇名で、一九九五年現在[1]三五五一名が在住している地域で、占領期には「仙台国旗掲揚事件」で知られた地域でもある。
 上記の問題意識に応えるにはほど遠いが、『解放新聞』などの機関紙や新聞および聞き取りを中心に、朝鮮人の生活、組織、活動、占領軍への認識などを考察する。

 解放直後の在日朝鮮人の状況

 まず占領期の宮城県に朝鮮人がどれくらい在住していたのかを明らかにしておきたい。
 宮城県に朝鮮人が在住するようになったのは一九一二年段階で二名が在住しているのが確認されるのを発端にして、一九二〇年には一五九名、一九三〇年になると、一三〇四名になり、一九三八年までは一〇〇〇人前後であった。
 戦時期に入ると急激に増加し、解放直後(一九四五年一一月一日を期して実施した人口調査)一万一〇九五名で、戦時期に転入してきた朝鮮人は約一万人にのぼる。この数字は宮城県下の軍事施設関係工事などがこの時期からはじまったことと関連して、「労務動員計画」「国民動員計画」に基づいて宮城県に強制連行された人びとの数であると規定してよかろう[2]
 解放以後の人口はどれくらいであったのか。占領軍の総司令部(GHQ)の指示により、引揚について希望の有無の登録が一九四六年三月一八日を期して実施されたが、宮城県の登録数は五一三一名であり[3]、また一九四七年在日本朝鮮人連盟(朝連)中央総本部の実数調査[4]によると、宮城県在住朝鮮人は四一四六名で、宮城県ではこの段階で約七〇〇〇名が帰国したのる。
 彼らはどんなところで、どういう生活をしたのか。
 戦争末期の急速な朝鮮人の移住によって、飯場のバラック朝鮮人居住地区が形成されていた。解放後、帰国する人があり、これらの飯場に、親戚、知人、同郷人を求めて他地域から来住する人びともあり、出入りは激しかったが、基本的には戦争末期に形成された飯場がそのまま主な居住地区となった。一定した職業がなく、とにかく生活を営むのに、朝鮮人同士の助け合いが切実な時期だけに、朝鮮人密集地域、あるいは朝鮮人部落は朝鮮人の生活に大きな位置を占めていた。当時、日本共産党宮城県委員長で、朝鮮人と付き合いがあった遠藤忠夫氏の目には、朝鮮人部落は「みすぼらしい住宅であったが、経済力があった」というように映った。「経済力」とは、とにかく朝鮮人の部落にいくと、食べられるということを意味する。
 解放直後、朝鮮人は朝連などの組織を結成し、帰国準備を行なう一方、子どもの教育をはじめ生活権を守っていく、すなわち生活とたたかいの拠点としての朝鮮人部落の「積極的役割」は、大きかった[5]。例えばデモ行進などの際には、いくつかの部落に連絡すれば一〇〇〇人以上をすぐ集めることができたという。
 この時期の主な生業は、ドブロク、飴つくり、古物商、闇物資の運搬、日雇労働などであったが、ドブロク、飴つくりがもっとも多かった[6]。ごく少数ではあったが、いわゆる中小企業者もいた[7]。一九四七年の朝連の調査によると、可働労働人口二〇七三名、そのうち失業人口が一四五〇名で可働労働人口の約七〇%であった。おそらくドブロク、飴つくりを営んでいた者がそれに当たるのであろう。

 在日朝鮮人の組織結成

 解放を迎えてまもない一九四五年九月頃、宮城県内の朝鮮人が、戦前から「組織活動に手腕が堪能」[8]で人望が厚かった申錫珠の私宅に集まり、朝連宮城県本部が結成された。初代委員長には申錫珠が選ばれた[9]。続いて県本部の下に、支部、分会が設けられ、一九四八年一〇月現在、宮城県では一三支部、三〇分会があった[10]。一九四六年一一月『解放新聞』(朝連の機関紙)の広告に載せられた県本部の役員名薄は次の通りである[11]

 委員長・徐万奎、副委員長・金景河、総務部長・徐元吉、外務部長・李鱗基、財務部長・金官聖、社会部長・李成出、経済部長・申錫珠、文化部長・李厳順、青年部長・朴陽鳳、地方部長・朴次得、婦人部長・裴小南、用度課長・超龍世、医務課長・林柄文

 他の県本部の組織とは違って医務課長を設けているのは、ここ宮城県だけであろう。これは東北大学医学部に朝鮮人学生が何人か在籍していたことによるとみられる。また、結成当時は委員長であった申錫珠が一年後には委員長から経済部長にかわっているのも興味深い[12]
 宮城県では「みんな生活が困難であるが、朝鮮人連盟の旗の下に団結し学生同盟東北本部も在留同胞の民主主義的啓蒙に猛活動し、反動分子の策動は少しもみられない現状」[13]ともかかわって、一九四八年秋の国旗掲揚事件前までは、朝連の下で組織が一本化されていた。宮城県に在日本朝鮮人居留民団(民団)が設けられるのは、一九四八年三月であるが[14]、民団が実際組織活動を開始するのは、さらにおくれて国旗掲揚事件の後である。
 次に在日本朝鮮民主青年同盟(民青)が結成される。民青が結成される前は、朝連の中の「保安隊」に青年たちが入っていたが、一九四七年に入る頃、朝連の指導の下に独自に民青が結成される。一八歳から三〇歳まで(四八年に二七歳までに改正)の宮城県内の青年男女で構成された。実際、朝連の「行動部隊」として活動する面が強かったようである。
 在日本朝鮮学生同盟(学同)東北本部も組織された。これは宮城県の在日朝鮮人組織の特徴の一つでもあるが、いち早く一九四五年一〇月に結成されている。宮城県では、弾圧の厳しかった戦時期でも東北大学朝鮮民族独立運動グループ事件(一九四一年一二月検挙)[15]が起こっていた。学同の早い結成は、こうした伝統があるからこそ可能であったといえる。会員は中学生以上で一九四八年一月現在、会員は一七二名であった。役員[16]はほとんど東北大学の学生であり、朝連の役員を兼任する人もいた。仙台には東北大学などがあり、また「満州国」から留学生として来ていた一三名の朝鮮人学生も加わり[17]、英語が堪能な人が何人かいて、朝連と宮城県軍政チーム当局との交渉が円滑に行なわれていたという。役員のうち許準、金英準はのちに朝連中央本部の役員として活躍する。
 関東本部においては学同と朝連の対立、学同内部の左右分裂があり、乱闘が起きる事態にまで至っていたが[18]、東北支部では朝連との関係もよく、内部分裂もなしに、後の時期まで朝連と民青とは協力しあっていた[19]。活動は教育啓蒙と文化活動が中心であった。
 仙台附近の教育は学同会員が日常的に行なっていたが、他の地域は特に冬期、夏期休みを利用して、学同会員が直接東北六県の各地を回ったり、あるいは人びとを一カ所に集めて合宿しながら文化啓蒙、教育運動を展開していた。彼らは学生であることで時間的制約もあり、自らの勉強との間で悩んでもいたようであるが、次のような認識にもとづいて活動を展開していた。

 「我らはこの実践を通じて大きな成果を得て、我らの学問は大衆と結びついている実地的学問でなければならないということを再認識すると同時に、机上理論で観念偏向に墜ちる傾向を徹底的に清算しなければならない。学生の身辺に漸々深刻化していく経済的、其他あらゆる制約の打開策は在日同胞等の諸問題と結び付ければ解決することができる」[20]

 こうした学同の活動には、朝連をはじめ、朝鮮奨学会などの学同会員の学生生活への手厚い支援があったが、これについては後で詳しく述べる。
 次は少年団結成である。民族学校生を中心に一八歳未満の少年、少女で構成され、とりわけ仙台少年団文化工作隊は全国的にも有名で、特に一九四九年秋から朝連組織が分裂・解散の状況に立たされた時、大人を励ます演劇を行ない、実力を発揮していた。
 一方、宮城県女性同盟(女盟)は、一九四八年頃に結成された。宮城県の中では女性運動が一番遅れているといわれていたが[21]、朝連・民青解散の後、先頭に立って、子弟教育、生活擁護のために闘ったのは、女盟をはじめとする女性であった[22]
 宮城県朝連と米地方軍政部との関係はどうであったのか。朝連は初期段階では、

 「日本の民主化を目的とする連合軍の日本占領政策に協力すると同時に、わが祖国の事情、祖国建設に関わるわれらの理念、在留同胞の生活事情、朝連の性格および事業などを正確に理解するよう努力し、われわれの公正な主張を正々堂々と表明する」[23]

 という方針の下で、軍政部に対して友好的であった。例えば一九四六年日本の国会での椎熊三郎の露骨な排外演説、上野防犯ポスターなど日本の反動勢力が動きはじめていた頃、宮城県朝連では、日本警察を通さないで、「犯罪規定委員会」というものを地方軍政部との交渉をへて設けていた。朝連の青年たちが腕章をつけ、東北線に乗って上野まで往復しながら、朝鮮人の無秩序な行動に対しては自粛するようにし、また朝鮮人の身辺を世話した[24]。朝連の祝賀式などには「進駐軍兵士」も参加し、一緒に歓談したりしていた[25]。宮城県では国旗掲揚事件の前では朝鮮人と地方軍政部が対立することはなかった。
 なお朝連と共産党との関係をみると、「宮城朝連を動かしていたのは日本共産党朝鮮人部宮城県グループであった」[26]と、当時日本共産党宮城県常任委員として朝鮮人部(後に民族対策部)の担当部長であった高橋正美が述べているように、宮城県朝連の中に日本共産党の勢力が大きかった。当時党員であろうとなかろうと日本共産党に対して絶対的な信頼をもっていて、朝連の構成員のうち約五〇〇人が党員であったという。こうした状況は、一九三〇年以来在日朝鮮人社会主義者が日本共産党に入党し先頭にたって闘ってきた戦前の運動の連続的な面のあらわれで、一九五五年まで続くのである[27]
 次の引用文は、一九四五年一〇月一〇日、治安維持法が撤廃され、宮城刑務所から釈放される人びとへの出迎えの様子を遠藤忠夫氏から聞いた話[28]である。

 「宮城の刑務所の前に桜並木がありまして、私はそこでぼんやりと立って出てくる人を見ていたのです。一人ポツンまたしばらくしてポツンという状況でした。それを出迎えたのは朝鮮の人だったのです。日本人は私の知る限り一人もいませんでした。当時松田三輪トラックというのがありましたが、それに卵を山と積んでそれを新聞紙にくるんで、日本人一人ひとりに『ご苦労さまでした。これで元気を出してください』といって渡しているのです。宮城朝鮮人連盟が九月に出来て、一〇月にはこういう活動をする」

 宮城県在住朝鮮人の社会主義者への態度、朝連の活動ぶりが類推できる。

 生活権獲得運動の展開

 宮城県朝連結成当初の最大の緊急課題は、朝鮮への帰還援助事業であった。帰国に伴う諸問題、すなわち帰国輪送の問題、帰国旅費や食糧の工面、汽車の切符の確保など帰国斡旋事業に追われていた。一九四六年一〇月頃になると、帰国はほとんど止まり、むしろ再渡航者がもどってくる傾向が現れはじめた[29]
 一九四六年二月の朝連臨時大会を境に、全国で帰国ラッシュは鎮静化していく。四六年一一月のGHQからの発表[30]によると、在日朝鮮人約六〇万人のうち、帰国を希望する人は七万五〇〇〇人で、残りの約五三万人は当分帰国しないという態度であった。
 帰国を希望する人が急激に減っていく背景としては、朝連の第三回全国大会の「朝連一般情勢報告」[31]によると、次の四点が取り上げられていた。
 第一は、朝鮮国内の社会不安が深刻で、物価は暴騰し、収入を得る就織先がないうえに、居住と食糧難が深刻であったこと。
 第二は、解放直後、朝鮮人の中には関東大震災のような虐殺事件が起きるのではないかという恐怖感があったが、朝連の組織的活動と力で払拭され、また、これからは日本自体の社会秩序が維持されるようになるということで生命財産に対する危険がなくなったこと。
 第三に、帰国した同胞らは大体単身が多かったのに対して、残っている同胞らは多少の財産と家具があるが、帰国時その持ち帰りが大きく制限されたこと。
 第四は、その他、事業の未処理、家族関係などで帰国することが出来ないことなどである[32]
 これらの点の他に朝連の考え方の変化もあった。それは、朝鮮人が必ずしも朝鮮に行かなくとも、日本にいても朝鮮建国に大きな役割を果たすことができるという考えであった。
 それまで帰国事業に集中していた朝連が、帰国ラッシユが一段落すると、「半永久的」計画を立てることになった。それは、生活擁護、教育啓蒙を主な課題とするものであった。
 このように朝鮮人側の状況に変化が起こっていた時、日本社会には反動勢力が首をもたげ始めていた。解放から一年後の一九四六年八月、椎熊三郎という進歩党の議員が国会で露骨な排外演説を行なった[33]

 「諸君、此ノ朝鮮人、台湾人等ノ最近マデノ見ルニ堪ヘザル此ノ行動ハ、敗戦ノ苦シミニ喘ギ来ッタ我等ニ取リマシテハ、正ニ全身ノ血液ガ逆流スルノ感情ヲ持ツノデアリマス(拍手)而シテ彼等ハ其ノ特殊ナ立場ニ依ッテ、警察力ノ及ハザル点アルヲ利用シテ闇取引ヲナシ、日本ノ闇取引ノ根源ハ正ニ今日ノ此ノ不逞ナル朝鮮人ナドガ中心ニナッテ居ルト云フコトハ、今日ノ日本ノ商業取引、社会生活ノ上ニ及ボス影響ハ驚クベキモノガアルノデアリマス」

 この演説は椎熊三郎一人、あるいは進歩党だけで起草したものではなく、衆議院各派交渉委員会において、日本共産党を除く各政党―進歩党、自由党、協同党、あるいは社会党までも演説内容を検討し支持していた[34]
 戦後の日本の経済機構全体が崩壊していて、物資流通は正式なルートがなさなくなり、配給だけでは食べていけない状況の中で、闇市は生まれたものである。つまり、日本全体が闇の物流で生活していた。その闇市は日本人が主力で行なっていて、朝鮮人はその一角を占めていたに過ぎないことであった。
 生活のための条件がまったくないまま、日本社会の中に放り出された在日朝鮮人が生きて行く場所として、闇市やその周辺の様々な生業に従事して、新興部門だけに景気のよい成功者も出たということに対して、戦前の差別意識を裏返しにしたような視線を日本人側が向けていたのである。
 こうした椎熊の排外主義的、差別的演説は、在日朝鮮人はもちろん、良識のある日本人をも憤激させた。さらに上野警察署による「国旗侮辱事件」も起こっており、折しも、生活権擁護闘争を展開しなければならない状況におかれていた朝連側にとっては、これを生活権を蹂躪しようとする意図としてとらえざるを得なかった。そこで朝連中央では、県単位に「県朝鮮生活権擁護人民大会」を開催することを指示する。
 これを受ける形で宮城県ではいかなる動きがあったのか。朝連宮城県本部では第三回定期総会を開いて、「日本の反動勢力が我ら朝鮮人の生存を妨害する以上、われらの当面の生活権を擁護する」ためとして、一九四六年一一月五日、「生活権擁護東北大会」を開催することにした[35]
 折しも進歩党東北大会が開かれていたが、まず、進歩党に対する宣言書と抗議文を作成し、交渉委員[36]を選定して、進歩党東北大会に向けて抗議することにした。
 進歩党東北大会には幣原党総裁が来ていたので、総裁との会見を要求したが、忙しいとの理由で、総裁を代理して支部長本間俊一が交渉に応じることになった。
 次は交渉の様子である[37]

 朝連 椎熊事件に対して進歩党東北大会はどう思うのか。
 本間 私個人としては遺憾であると思うが、党大会としては即時態度を決定することはできない。
 朝連 だったらいつまでに態度を決めるのか。
 本間 今月末まで朝連県本部に伝達します。
 朝連 我ら二〇〇〇人が決議した宣言書と抗議文を大会席上に発表できるか。
 本間 それだけは勘弁してください。
 朝連 二〇〇〇人の大衆が後ろで監視しているので、この位の要求を受け入れてくれないと、如何なる事態が起きるか、わからない。

 本間氏はやむを得ず抗議文だけは紹介することを約束し、進歩党の大会席上で自党を攻撃する抗議文を発表した。宣言書と抗議文がどんな内容であったかは分からないが、進歩党大会を相手にし「前例のない政治的戦果を得た」と、宮城朝連は評価していた。こうした抗議文の発表にまで至ったことで、一般大衆は、「団結を固くすると、我らの生活権は全部擁護できる」[38]と覚悟を新たにした。その後、二〇〇〇人の大衆は六台のトラックを先頭にデモを行ない、一台は宮城県庁に、もう一台は仙台市役所に殺到し吉田内閣に対する抗議文と市・県当局への要求書を出し交渉を行なったと伝えられている。市・県当局にいかなる内容の要求書を出したのかはまだ不明であるが、実際の生活問題に関わる幅の広いものであったと推測される。
 朝連、民青の各支部は日常の活動を通じて朝鮮人の生活に関連する問題に取り組んでいた。
 翌一九四七年八月頃、朝連県本部は生活権擁護のため「朝日経済問題懇談会」という、それまでとは違う形での関係官庁の人との会議をもった[39]。参加者は、朝連側は県本部・支部の幹部、日本人側は経済関係ならびに経済統制担当の県庁官吏で、あわせて一二〇名以上が参席した。県知事をはじめ税務署長、営林署署長にも招待状が出されていた。会議の代表的議題となった、朝鮮人側から出された要求は次の通りであった。
 (1)白石の営林署の山を払い下げろ
 (2)三本木の亜炭鉱を再開するから資金を貸与しろ
 (3)塩釜、石巻の魚市のせりに参加させろ
 (4)酒造りを公認しろ、税金は出す
 (5)手元にある衣類商品は公認しろ
 この議題にみられるように、朝連側は各支部の諸要求を集約し懇談会の議案として出したようである。協議の結果、それぞれの議案別に朝連側と官庁側と学識経験者からなる専門委員会を構成することになった。
 (1)の議題は白石支部からの提案で、営林署の山の払い下げを受けて、建築材および炭を焼く仕事を見込んでいた。特に燃料不足で都市での需要が多いこともあり、営林署と材木業者と炭焼業者で相談することにした。
 (2)の議題は黒川支部からの提案であろうが、亜炭鉱は他の鉱山と違って、危険性が少ないこともあって、朝鮮人側が望んでいた仕事であった。坑区権所有者と鉱山局、銀行、採掘労務者責任者で構成して検討することにした。
 (3)の議題は漁港がある地域の塩釜、石巻の支部から出されたもので、
 (4)の議題は県内朝鮮人の生業中一番多くを占めていたドブロク造りを税金を払う条件で公認するように提案したが、なかなか妥結しなかったようである。
 (5)の要求は戦前から衣類商売をやっていた仙台を中心とする支部の要求であろうが、懇談会はその後、あまり進まなかったようであるが、こうした試みは特記すべきものである。
 また生活権擁護運動の一九四八年段階の代表的な運動としては、地方税の減免運動があげられる。当時、日本各地で「悪税反対闘争」が起こっていた。宮城県管内朝鮮人たちは、民青会員を中心に仙台地区で猛烈な反対闘争を展開した結果、県民税、市民税割当額において六割以上の減額を勝ちとった。この闘争の名目は「日本内朝鮮人の納付した税金のうち、人民の為の施策は日本国会予算案によれば極めて僅少で、これは人民を土台にする予算案ではなく、悪税そのものであり、この税金の納付は結局当面する人民生活をさらに塗炭の苦しみに墜ちるようにすること」[40]との認識のもとで行なわれたものであった。朝連の生活擁護運動は、「いわゆる書面だった活動方針書なんかでは、生活防衛闘争とかもう少し抽象的な言葉で表現されているわけですけれども、日本社会の中に放り出されている大衆生活を成り立たせていくような領域が実際の活動の中では大きな比重を占めて」[41]いたことが実感できる[42]
 一九四九年三月、仙台駅前南町通り在住朝鮮人の家屋一二戸が火災にあった時、朝連仙台支部では即時に罹災同胞救援会を組織し、全県下に救済金品募集に着手し、即日約四万円を集めた。一方、市当局に交渉し救護用の毛布一八〇枚、米七斗五升、炭二四俵を獲得した。また、仙台支部の民青会員三〇余名が動員され、「復興作業に献身奮闘し、その日の午後五時には罹災同胞らが民青会員らの手で建てられたバラックに入れるようになった」[43]という。当時の敏捷な相互扶助の姿がうかがえる。
 一九四九年九月の朝連・民青の解散後、日本当局は朝鮮人に対して露骨に生活権を揺るがす弾圧を行なったが、これに対する闘争の主役は女盟員が担うようになる。
 次は一九四九年一一月の大河原町川崎村(柴田郡)の例である[44]

 「午前三時頃、大河原町川崎村で飴と酒を取締する口実で武装警官一〇〇余名が殺到し一大暴圧を行なったが、一六日生活手段を失われた同胞三〇名と日本人二名は女性同盟を先頭に町当局に対して、我らを食べさせろと、抗議闘争を展開した。町長は戸惑って菓子と昼食を準備し、抗議に行った大衆を接待すると同時に、次のような確答をした。一、応急策として一週間分の米を配給する。二、職場獲得の為に町と朝鮮人代表の間に協議会を開催する。三、生業資金を獲得するため、県当局に向けて共同闘争をする。四、町当局は警察に対して今回の事件を警告する」

 この時期にはまだこうした成果を勝ちとることができたのである。
 各地の飴つくり、ドブロク取締に対する抗議闘争つまり、生活営為の基底の喪失への抗議、方策要求には、女性たちが主役となっていたのである。

 民族教育の展開

 学同が早くから結成されていたこともあり、仙台地域には「朝鮮人学校」がいち早く設けられた。ここでは、仙台を中心にしてその概況をみる。
 仙台地域には、小田原、苦竹の朝鮮人部落と県本部の三カ所に「朝鮮人学校」が設けられた[45]。小田原地区の「小田原朝鮮人学校」は一九四五年末頃に開設された。小田原には戦前に報国隊があって、家族連れの飯場、挺身隊が生活していた長屋もあり、そこに朝鮮人部落が形成されていた。部落の大部分の住民の主な生業は、ドブロク・ウィスキーつくり、飴つくり、古物商などであった。校舎は部落の住民たちがそれぞれ板など建築資材をもちより、自分たちで建てたものであった。クラスは児童部、高級部、大学部に分けられ、児童部は児童たちが日本の学校が終わってからくる「夜間学校」であったので、その間には女性、青年たちが勉強するなど、二、三部制で運営されていた。
 苦竹(原町字苦竹)部落は、一九四三年陸軍造兵廠整地作業の際作られたタコ部屋があり、飯場もあった所に形成された部落である。苦竹は約一〇〇戸の朝鮮人集団部落であり、部落の居住者の主な生業は小田原と同じであった。学校はバラック二軒を校舎として使っていた。学校の開設・運営資金は「ハンスッカル(一匙)運動」など部落住民の熱意に支えられていた。教師はもちろん無報酬で、部落の父母らがお米とおかずを持ち寄り、教師の食事とした。小学校と中学校があり、小学校は低級、高級の二級制からなっていて一三〇人くらいの生徒がいた。小学校、中学校ともに児童・生徒の年齢にばらつきが大きかった。
 小田原、苦竹とも東北大学生の学同盟員が校長をつとめた。教科書は朝連文化部の教材編集委員会が作ったものも使ったが、先生たちの手作りによる謄写版が多かった。教科目は朝鮮語、歴史、地理、文学活動、音楽などであった。特に朝鮮の童謡などを積極的に取り入れて朝鮮語を覚えさせるようにした。宮城県には正規の朝鮮人学校がなかったこともあって、一九四八年夏休みには学同の主催で東北六県合同で札幌で四〇日間、東北の中学校以上の学生を合宿させながら「民族教育」を行なった。成果がよくて、それ以後、毎年行なわれるようになったらしい。また、仙台以外の地域には教師がいなかったので、週末、あるいは、平日の週二、三回の形で学同の教師(大学生)が出かけて教えた。仙台の朝鮮人学校の児童を中心に、各地を廻りながら演劇、創作踊りなどの発表をするくらいの水準の「仙台少年文工隊」が結成された[46]。この文工隊は日本の子どもたちにもサークル交歓を通じて影響を与えていた。日本人の子どもと合同発刊の『なかよし新聞』も発行された。また大人を集めて創作踊りを発表し大歓迎を受けていた。
 朝連・民青解散の時、朝鮮人学校の校舎を閉鎖させる命令がおり、警官が閉鎖措置をとった。しかし、子ども・母親たちの命がけの抵抗により子どもたちの民族教育は、沈滞する中でも続けられた。「警官が毎日来て、閉鎖を強制命令し、板で釘を押したのをまたとりはずす。抗議する大人を逮捕しようとすると、警官一人に小学校の学生五、六人がくっついて、大人を脱出させる。またお母さんたちがトラックの前に横になって抗議した」[47]
 宮城県にはもう一つの教育機関があった。それは青年幹部教育のために一九四七年に新設された「東北朝連高等学院」(高等学院)である。これは東京、大阪にすでに創設されていた「三・一政治学院」、「八・一五政治学院」のいわば、東北地域版である。
 高等学院は朝連東北地方協議会(当協議会は秋田、岩手、福島、北海道、宮城、山形県本部をもって構成された)の下に置かれたもので、仙台市元柳町八八に校舎を置き、一九四七年七月一日学院落成式を挙行、第一期生五〇名を東北各県で募集し、七月一五日入学式を行なった。初代学監は吉孝相で、教務担当者は金景洛であった。学科目は政治、経済、哲学、歴史、国語、時事問題、解説など重要科目の基本的教育を実施するということで、入学生は米一斗五升、費用三〇〇円を持参した。教育期間は約一カ月で、寝食をともにしながら講義を受けた[48]。教師は日本共産党県委員長をはじめ、東北大学留学生などが中心であった。一九四九年九月の朝連の解散に伴って閉鎖されることになるが、その間、六期生まで幹部を養成し、約二〇〇人の男女卒業生を輩出した[49]
 学生の教育を支えていくために一九四六年一〇月、「学生後援会」が宮城県父母同胞有志によって結成された。解放直後、日本に留学中の高専、大学生に対する政府学資補助金が全面的に中絶され、学生の生活は極度の苦境に陥り、なかには所有している書籍、衣服などを売ったりして生活する学生もいた。「学生後援会」は、学生一人当たり毎月五〇〇円ずつ支給し、生活を保障した[50]
 学生の後援を一層積極的に行なっていこうとする熱意に支えられ、一九四八年になると、東北の有志らによって「朝鮮奨学会東北支部」が結成されることになった。当時、東北大学助教授であった慎重亮を理事長とし、各県で選出された理事九名と、顧問となっている東北、北海道大学総長および朝連宮城県本部委員長金景河などが運営にあたった。結成直後、すでに札幌では各大学、高専校長を集め、奨学会の趣旨を説明し進学その他に対する協力を要望し、賛意を得たという。宮城県では、慎理事長の斡旋で二〇余名が参加した校長会議で全面的に協力するとの回答を得た[51]。このように、学生への後援は、奨学金だけでなく、学校の入学などに何らかの障碍をもっている朝鮮人学生の事情を学校側に理解させることも含まれていた。
 一方、奨学生に対しては、学同の了解を得て学業成績、品行などを調査し本人の注意を喚起すると共に、親にも通知するなど学生の管理も行なっていた。
 また、興味深いことは、東北大学医学部助教授の慎重亮を院長にして大学医学部卒業生および在学生を網羅し、一九四八年「槿花医院」を設置したことである。ここでは、医療活動を行なって得られた数カ月間の純利益を、全部学生救助にあてた。この医院の設置は、学生への救援だけでなく、「県下同胞に社会衛生啓蒙、予備的治療に多大な貢献をしている」[52]と伝えられた。さらに医院一切を、奨学会に移管し奨学会組織の下で病院を運営し、その収入を「同胞学生救援」に全面的に充当することとした。

 国旗掲揚事件

 一九四八年九月九日、朝鮮民主主義人民共和国(共和国)が樹立された。朝連は「この政府だけが朝鮮人民の真正な政権であり、その育成と強化に全盟員の精力を集結する」[53]ことを議長団の名で発表し、九月中旬から慶祝大会を各県本部、支部で開催し、新しい国旗を掲揚することとした。朝連で、いままで使ってきた太極旗は「李朝末期、国号を大韓とした時に出来たもので、これは今日の朝鮮民主主義人民共和国の国旗制定に見るように、全朝鮮人民の広範な討議に附してその承認によって出来たものではなく」[54]封建の遺物であるとして、新しい国旗を使用するようにした。実際「大韓民国の名の下に太極旗を国旗としている」状況があって、朝連では新しい国旗をもって「反動分子」と闘うようにしたのである[55]
 朝連中央常任委員会では、一〇月一〇日を期して、全国地方県本部主催の共和国創建祝賀大会開催を予定し、宮城県では朝連、民青、東北地協との共同主催で一〇月一一、一二日の両日、仙台市評定河原グラウンドで行なうことにした。
 慶祝大会の準備は、民青、特に東北高等学院の学生を中心に準備が進められたが[56]、国旗は数日前から、女性同盟、少年団中心に数十個製作されたようである。
 ところが一〇月八日、つまり仙台大会が開催される三日前、急遽、GHQのGⅡによる口頭命令を受け、国家地方警察の本部長は、各管区本部長など宛に「北鮮(ママ)旗の掲揚禁止に関する国家地方警察本部長官通牒」を無電で発した。もちろん公開せず、当事者に知らせる形であった。宮城県は慶祝大会の三日前に朝連委員長へ連絡をした[57]
 慶祝大会の初日の様子を、治安管理を担当した第一一空挺師団からGⅡへ提出された報告書からみてみよう。

 「朝連主催で仙台運動場で体育大会が行われた。この大会で新しい北朝鮮国旗が三箇所に掲揚された。国旗掲揚は連合軍最高司令官指令の違反であり、この違反事実は一一時〇五分に宮城県軍政司法課長、ボズウェル(Boswell)大尉によって朝鮮人委員らに知らされた。一一時四五分に三つの大きい国旗は下ろされたが、一〇~一五枚の、紙で作られた国旗はまだ入口に掲揚された。一三時、紙国旗はまだ掲揚されており、一三時一五分、(一旦引き降ろされた)オリジナル国旗三つの中で二つが再び掲揚されたが、一つは委員席の前の国旗掲揚台に、一つはグラウンドの入口に揚げられた。ボズウェル大尉は再び朝鮮人に国旗を下ろすように命じたが、彼らは大衆が下ろすのを反対しているのだと言い、応じなかった。一三時三〇分、日本警察鎮圧隊約四〇人が現場に到着した。朝鮮代表らとの論争が続いているなか、ボズウェル大尉は日本警察の責任者に責任をもって国旗を下ろすように命じた。これにしたがって警察がグランドに入ろうとしたが、門の前で人びとのバリケードに阻止された。バリケードは朝連の若い連中で構えられ、グランド入口を封鎖していたので、警察は入ることができなかった。一四時一〇分MP鎮圧隊がグランドに到着し、約三〇分間もみ合いがつづいた後、朝鮮人は国旗を下ろした。暴行は起らなかった」[58]

 この報告書からは、司法課長が直接現場におもむいて、指揮していること、また国旗掲揚に対して日本の警察では阻止不可能とみるや、米軍憲兵(MP)の鎮圧隊も出動していることがうかがえる。
 こうした動きは、米軍政部では「北朝鮮旗」を下ろさないと、「北朝鮮」をみとめることになるとして終始一貫、「北朝鮮旗」に敏感に反応したことをよく示していよう。
 それに対して朝鮮人側は「北朝鮮政府の国旗ではない、南北鮮統一の朝鮮人民共和国を象徴する国旗」であると主張していた。ここに米軍政部当局の朝連認識と朝連側の自己認識とのズレが象徴的に示されているのである。
 こうした慶祝大会の初日の国旗掲揚禁止の事態に対して、朝鮮人側は、翌日の国旗の取扱をどうするかを、共産党県委員長遠藤忠夫、共産党朝鮮人対策常任委員の高橋正美、そして民青の数十人が夜遅くまで協議した。遠藤と高橋は当時民青同盟員の「ようやく独立した祖国を持つ僕たちの気持ちを汲んでくれ」という熱気を帯びた意向をくみながら、共和国国旗掲揚により、「占領軍政策違反で組織自体主催団体の責任者の弾圧が加えられてはならない」[59]という基本方針の下で国旗掲揚を行なうことになった。つまり運動会の閉会宣言後、全員での会場デモにつづく有志の二回目のデモの際に揚げるということで合意した。
 第二日目の一二日には、会場の周囲を数十名のMP、一〇〇名以上の制服、私服の警官が取り巻き、軍用ジープ二〇台が集結し、会場は異様な雰囲気に包まれていた。
 二日目の状況を、宮城県軍政チームの公式発表は次のように伝えている。

 「第二日目の終りにその旗が再び揚げられた。憲兵がこの指令に違反せる北鮮(ママ)の旗を押収するや数名の憲兵は朝鮮人から暴行を受けた。憲兵は一発の弾丸を発射し、一人の朝鮮人が傷をうけた」[60]

 公式発表は第一一師団からGⅡへ送った報告書と同じ内容である[61]。しかし、報告書の中には二つの嘘がある。一つは朝鮮人側がMPに暴行を加えたという点である。まさに正当防衛として発砲したように語っているが、暴行はなかったのである[62]。もう一つは、一発というが数十発の弾丸が水平射撃によって撃ち込まれて、実は六人の負傷者が出て、弾丸摘出手術をうけていたことである[63]
 この事件後、GHQは如何なる行動をとっていたか。「暴動」が起こることを想定して、六〇〇名の日本警官および多数のMPが警戒を厳重にし、あらゆる集会を禁止とした[64]。この事件を占領政策に露骨に反対する示威として受けとめ、日本の各地方に広がることを懸念したのである[65]。特にCCD(Civil Censorship Detachment =民間検閲支隊)が日本の社会団体(特に全逓東北地連)や朝連を盗聴し、各界の動きを注視するようになった[66]。朝連関係者へ国旗禁止の指令を知らせたにもかかわらず、それを無視したことに対して、朝連の幹部に責任をとらせようと逮捕したが[67]、事情聴取が終わった次の日に釈放した。
 一方、東京発行の米軍機関紙『星条旗』では、「発砲事件は北鮮(ママ)国旗掲揚を阻止せんとした日本警官側と朝鮮人間に乱闘を生じたために惹起したもの」[68]と報道し、責任を回避しようとしていた。
 事件直後、宮城県本部朝連と民主団体は逮捕された三人の奪還対策を講じていた。
 彼らは事件の真相を知らせる目的でビラ[69]を撒布したが、県庁の建物の中から発見されたビラには事件の真相を述べたあとの最後に、「非人間的行動が民主的であるといえるのでしょうか」と、占領軍への批判が書かれていた。宮城県の朝鮮人はそれ以前には、米軍と直接ぶつかったことはなかったが、この事件を通じてはじめてこのように占領軍を直接に批判するようになったのである。
 三日後、民青が中心になって数百名の大衆大会を開いて、交渉委員、三人を選出した。交渉委員は地方軍政部に行き、抗議を行なったが、その内容は「国旗掲揚禁止をやめて、逮捕幹部を釈放せよ。朝連弾圧を中止せよ」[70]というものであった。
 中央朝連では撤回方提訴状を連合国対日理事会に提出した。この提訴訴状には仙台においてMPによって発砲負傷した朝鮮青年の問題を言及し責任者の厳罰を要求していた。
 一方、日本の民主運動勢力も、この国旗掲揚事件に対して、大きな関心をもって朝鮮人を支援する動きが現れた。日本民主主義擁護同盟では、各団体の代表で構成された一五名が、仙台だけでなく、大阪、神奈川、岐阜など各地に発生した国旗事件に対して、「弾圧と人権じゅうりんに対して、東京最高検察庁及吉田内閣総理大臣にそれぞれ厳重抗議すると共に、各地におけるかヽる不当弾圧に対して如何なる処置をとるかについて」[71]責任を追及した。特に「仙台国旗事件」に注目した日本民主主義擁護同盟では一〇月二六日、常任委員会を開いて「仙台国旗事件」の重大性にかんがみ、その真相を調査するため、参議院議員中西(功)、星野、自由法曹団の布施辰治をはじめ各民主団体の代表からなる調査団を現地へ派遣することになった。
 こうした日本の民主勢力による調査は、阪神教育事件における調査と同様、その成果が朝連側に大いに期待された[72]
 翌一一月、軍事裁判が仙台の第九軍団軍事裁判所で開かれた。軍事裁判で、まず特記すべきことは、射撃した軍人を朝鮮人側から探すことになった。当時民青委員長であった金景洛氏が証人として立つことになったが、彼は、裁判がはじまる前に威圧され、「このなかでだれなのか」と、射撃した軍人を指示するように言われた[73]
 裁判の弁護に立ったのは、自由法曹団布施弁護士であった。彼は「その国旗が北朝鮮の国旗か南北を統一した人民共和国の国旗かということにあるので、歴史的意義と国際的影響の重大性を感じこれをせん明したい」[74]という構えで法廷闘争を通じて国旗問題を究明していく予定であった。ところが、国旗問題の中心人物、現場で逮捕された金性洙が法廷に現れなかったので、法廷闘争は計画した通りできなかった。
 一方、朝連の中央本部では仙台裁判に大きな期待をもっていた。中央朝連の外務次長金英準は「金君さえ出廷していればこの裁判は非常にうまくいくのみならず、いままでの数多くの国旗事件が一切ひっくりかえるはずであった」[75]とし、金性洙の不出廷に遺憾の意を表した。
 事件後、朝連の組織を含め、朝鮮人の動向はどんなものであったのか。一九五五年在日朝鮮統一民主戦線宮城県委員会で出した「第六次臨時大会に提出する総括報告」から当時の朝連の状況を把握することができる[76]

 「国旗事件の闘争はいうまでもなく、一番正しい闘争を行いました。しかしこの闘争で大きな損失をみることになりました。この大会を進行する実践問題に対して多くの意見がありました。意見を大局的に見ると進んだ層の強力な意見と遅れた層の弱い意見との二つの意見が対立しました。このような意見が対立した根源はもちろん米帝の侵略軍隊が日本国内の民主運動を抑圧するためにファッショ的弾圧と挑発的行為を加えて来たためであります。この時われらはこのような敵がわれらに集中的攻撃を加えたという情勢を明白に分析することができず、一面的な責任だけを追及し結果的には民族の統一と団結をはかることができず民族を分裂させた民団組織を促進させました。この事実は宮城県民団組織の歴史が確証しています」

 先の資料から読み取れるのは、慶祝大会の準備段階で「強力な意見」と「弱い意見」が対立していたことである。聞き取りによれば、いわゆる「強力な意見」の持ち主が大会を主導していた。そうして国旗事件の後、実際、在日本大韓民国居留民団(民団)組織に移動する人が出てきた。一本立ての組織であった朝連の傘下に集まった宮城県の朝鮮人はもはや分裂しつつあった。
 一九四八年一〇月に改組されたばかりの民団[77]は「日常対立的立場にある朝連に対して事ごとに実力をもって抗事し」[78]、ついに宮城県民団団長朴四次が朝連員裴開東を殺害する事件が起きた[79]。それを契機に仙台、塩釜を中心に宮城県朝鮮人の内部は急激に荒れていった。こうした過程で朝連の裴氏暗殺事件の真相究明を追及する過程で、塩釜民団の朝連幹部への集団リンチ事件[80]を起こすなど、朝鮮人内部の対立は凄まじくなった。これに対して日本警察の対応は「民団と癒着」[81]していたようで、朝鮮人の日本警察への不信感は増幅された。
 一方、この時期になると、生活の主な手段であったドブロク取締などがさらに徹底的に行なわれた。その際、日本側は民団と朝連の組織的対立を利用し、弾圧を進めていたので、分裂はさらに深刻化していったのである[82]

 宮城県朝鮮人組織の解散

 一九四九年九月八日、殖田俊吉法務総裁は法務府告示第五一号をもって、在日本朝鮮人連盟、在日本朝鮮民主青年同盟の全組織、ならびに在日本大韓民国居留民団宮城県本部、朝鮮建国促進青年同盟(建青)塩釜本部に対して「団体等規正令」第二条第一号、第七号に該当する行為があったとし、同令第四条第一号、第二号を適用し、反民主主義、暴力主義団体として解散命令を下した。
 対象になったのは朝連、民青の組織網全体と、民団と建青の一部であったが、その一部(二カ所)に該当するのは、官城県の組織であった。その特徴は、朝連は「反民主主義的、暴力主義的」、民団と建青は「暴力主義的」であった。朝連の解散理由は、

 「本団体の中央総本部を始め各地方協議会、各県本部、支部、分会および班等地方下部組織の幹部または構成員は、全国各地にわたってしばしば占領軍に対する反抗反対あるいは暴力主義的事犯を引き起し、ポツダム宣言を忠実に履践して平和なる民主的国家を再建しつヽあるわが国民生活の安全に対し、重大なる脅威をつくり出して来たものであるが、なかでも昭和二十三年十月から十二月ごろ中央総本部役員、宮城県本部員、山口県本部委員長等は、占領軍の禁止命令のあることを知りながらこれに反対して、本団体の支持する朝鮮人民共和国旗を大会々場などに掲示し、仙台、山口においては、これを禁止しまたはこれが責任者を逮捕しようとした占領軍に対し暴行を加えて反抗し……」[83]

 となっている。つまり解散理由の具体的事例として国旗掲揚、民族教育などがあげられていた。一方、宮城県民団と建青の解散理由は朝連との対立で起こした暴力行為を揚げられている。
 解散の理由で取り上げられているのが宮城県であることは、国旗掲揚事件後の宮城県在日朝鮮人の状況を象徴的に物語っている。
 まず、宮城県の接収の様子をみる。「八日、午前朝連側は一時空気険悪な状態をかもし、一方的に接収が行われ、民団側は平穏のうちに接収が終った」[84]と宮城県の地方新聞である『河北新報』は報じている。
 高橋法務部東北駐在官などが朝連幹部に「法務部の解散通知書」を提示し、財産の押収に入った。朝鮮人の一〇〇余名が集合し警官六〇名と対立する中で[85]、県本部側は「解散される理由が不明だ、中央総本部の指令を待って返事をする」と強硬に出たが、結局朝連の建物はその日、押収された。その建物は三年以上基金を集めてようやく新築したばかりのものであった。
 これに対して朝連県本部はまず、九月一二日警察署長に面会し、次のような事項につき、問い詰めた[86]
 一、朝連の解散をどう考えているか
 二、朝連を暴力団と規定しているのか
 三、朝連の解散後朝鮮人に対する対策は如何であるか
 警察署長の回答は「朝連の解散は不当である、朝鮮人を暴力団と呼ぶ根拠はない、しかし各地で民団と建青が暴行したのは事実である、特に本署員数名も民団員の暴行で重傷をおっている」というものであった。そしてさらに彼は、違う団体をつくってくれ[87]と要求した。警察側も朝鮮人側の動きを統制するには、朝鮮人の組織は必要であったからである。
 解散直後、宮城県内の民主諸団体はいち早く動き出した。全逓東北地連、同宮城地区、宮城県労、民主水害対策委、全日通有志、共産党宮城県委、東北地方委は対策協議会を開き、「朝連解散の意義をひろく宣伝し各大衆団体は独自に声明を発表する」などを決めた[88]
 しかし一般日本人においては、朝鮮人に対する態度が「無理解とデマ」によって動揺していた。朝連が解散されてのち、朝鮮人はどうなるのかという不安を感じ、朝鮮人の金貸業者に借りたお金を返し、またお互いに仲良く融通していた人が金の貸借をするのを拒否するようになった。のみならず乱暴な警察隊の捜索を案じてセッパン(貸家)を貸すのを拒否している日本人もいたという。商業取引も忌避する傾向が出てきた[89]
 「暴力主義、反民主主義」的な団体ということを口実にして朝連を解散させたことは、朝鮮人の生活基盤を揺るがす「餓死処分」であり、日本人から分離させる措置であると、当時宮城県を視察していた布施辰治は当局の不当な解散措置を批判し、裁判で闘う準備をした。
 以下では、朝鮮人側の解散後の動向をさぐる。まず、残存団体を通じて組織を維持しようとする。女同、学同、解放犠牲者救援会(解救)、少年団などの既存団体の組織を拡大し、まだ未組織地域には組織化して運動の強化を図った。朝連、民青の解散直後、宮城県女盟は、日本人民に広く日本政府の不当性を訴え、九月一三日夜、日本民主団体の後援を得て、「朝鮮文化の夕」[90]を開催したり、学同と共同で宮城県朝鮮人秋期運動会を開催するなど、朝鮮人の集まりの場をもうけたのである[91]。そして朝連・民青が主になって行なった問題、すなわち生活権防衛問題、学校問題などに積極的に取り組んでいった[92]。朝連解散後、密造酒の取締がさらに厳しくなったが、その抗議闘争は女性同盟が先頭に立って行なった。
 また老人会、社会研究会など新しい緩やかな組織を結成する試みもみられる。例えば宮城県気仙沼地方では、「朝連解散以後急速に意識が高まって未組織であった少年団、解救を組織すると共に宣伝活動も活発で社会研究会も発足し教養事業も推進」[93]したという。
 一つの著しい現象は日本共産党に入党することであった。山形県鶴岡市内の同胞二六名は今度の弾圧に憤激し「在日朝鮮人の生活を防衛し祖国統一を促進させる為に日本共産党に入党し闘争するという決心を」[94]したものが多かった。
 また、当時東北朝連高等学院の全生徒四九名は、一〇月八日「全員共産党にはいって闘わねば、われわれの生活権も祖国統一戦線もたたかいとれない」と、入党の手続きをとった。そのうちには一〇名の女性がふくまれている[95]
 一方、民青に入っていた朝鮮人の青年たちは、解散後サイクリングなどをしながら組織を維持しようとした。しかし、当局の接収は本部、支部、分会の事務室だけでなく、朝連と少しでも関連があった建築物は、生活しているものまで一斉接収し生活そのものが脅かされた。その様子は新聞の記事からも読み取れる。

 「あさ五時半、武装警官五〇〇余名を動員し仙台市元柳町朝鮮館、岩沼町朝鮮人戦災者共同住宅、吉岡町朝鮮会館を襲撃、寝ている同胞七世帯に棍棒、拳銃で脅威、強制的に会館を封鎖する」[96]

 特に岩沼朝鮮人戦災者共同住宅は敗戦後、罹災同胞らが出資して新築したもので、さる四月一五日宮城県当局で同建物使用者に対する退去令を出したので、その所有権を再確認するため、過般仙台地方裁判所に提訴、いままで公判日を待っているところであった。亘名地方事務所と岩沼町長まで同建物は朝連所有ではないことを証明したにもかかわらず、宮城県当局は強制接収した。
 朝連の解散に伴って必然的に運動が沈滞していた。

 結びにかえて

 解放から一九四九年朝連解散までの時期の占領期宮城県の在住朝鮮人の動向をみてきたが、ここであらためて小括することにする。
 解放を迎えると宮城県在住朝鮮人は、現実の生活を営みながら、朝連の組織の下で、帰国準備、祖国建設の準備に燃えていた。生活は、ドブロク、飴つくりなどでさまざまな生活方便をもとめて、貧しいけれども活気にあふれていた。戦時期に形成された部落の場が、互いに助け合い、仕事を見つけあい、「食べていける」生活の根拠の場となった。
 また戦時期の厳しい状況の中でも、懐柔、分断政策に巻き込まれないでうまく忍びぬけてきた。朝連が、解放まもない時期に、協和会長であった申錫珠を中心に、結成されたのもその証である。
 朝連は、結成されて一年間は、スムーズに帰国できるように、諸般の斡旋を行なった。一九四六年帰国ラッシュがおさまると、朝連傘下の各組織を強化する傍ら、日本に在住している人びとの生活、教育問題に本格的に取り組んでいく。
 当該期の組織の特徴は、まず宮城県朝連の誇りとして語りつがれていることだが、朝連を中心に一本化されていたことである。また党員であるかないかを問わず、当時の朝鮮人は共産党への「絶対的」信頼感をもっていた。実際、幹部たちの中には党員が多かったこともあり、日本共産党朝鮮人グループが中心になって活動が行なわれていた。宮城県米軍政チームとの関係は衝突することなく、「友好的」といっても過言ではない状態であった。軍政チームへの批判が起きるのは「国旗掲揚事件」後であった。
 生活のための条件がまったくないために、闇市やその周辺の様々な生業に携わるようになるが、そこは、「活気にあふれていた」のである。朝連の生活権擁護のための組織活動もやはり、「前向き」であった。日本当局への抗議、闘いは、県内朝鮮人の大部分が胸を張って積極的に参加した。また朝鮮人間の相互扶助の事業は驚くほど敏捷に行なわれた。
 主な教育事業としては、子どもたちに民族意識を昂揚させるための朝鮮人学校、高等教育を受けている学生への支援、朝連運動家を育成する事業の三つをあげることができる。
 朝鮮人学校は親たちと学同会員の熱意で運営されていた。親たちは、直接校舎を建てて、教育活動費も自分たちの手でまかなった。学同の東北大学生を中心に、学同の活動である文化運動、啓蒙活動の一環として、手作りの教材を使って国語、歴史、音楽を中心に行なわれた。
 大人たちの青少年への期待、配慮が「学生後援会」「朝鮮奨学会東北支部」の活動、「槿花医院」の設置・運営の形であらわれていた。当時、宮城県朝鮮人社会の雰囲気を推測することができるよい材料であろう。
 しかし一九四八年、朝鮮半島の状況が南北各々の政府が樹立されると、朝連の組織の下に「一本化」されていた宮城県朝鮮人社会に分裂が起きる。
 「国旗掲揚事件」を契機に分裂は加速化され、ついに殺人事件まで起こる。
 他の地域と違って、組織が分裂するのは遅かったが、いったん分裂のきざしが見えると、その動きは急激な勢いとなり、またたくまに朝鮮人社会は割れていった。
 さらに「団体等規正令」による宮城県朝鮮人組織の解散という不当な措置は、朝鮮人社会に大きな打撃を与えていった。朝鮮人が募金して建てた事務室兼集会場、生活の場に至るまでの接収、朝鮮人学校の閉鎖、そして日本人の朝鮮人に対する厳しい見方などなど、朝鮮人をとりまく状況はますます厳しくなっていったのである。



 イ・ヒョンナン
一九五四年、韓国生まれ。現在、中央大学総合政策学部助教授。一橋大学大学院博士課程修了。専攻・朝鮮近代史(生活史、日朝関係史)。博士学位論文『植民地朝鮮における米穀検査制度の展開過程』。


[1] 総務庁統計局『平成七年国勢調査報告』宮城県第二巻、708頁。

[2] 戦時期に強制連行され工事した具体的場所は次のようである。
多賀城海軍工廠工事(多賀城町):一九四一年~四五年まで横須賀海軍施設部が大林組、菅原組に請け負わせた工事で、工廠敷地の整地、造成、軍用地拡張、引き込み線工事、タコ掘りなどであった。約六〇〇人が働いた。
/三門山高射砲台工事(亘理郡亘理町):一九四一~四四年まで、横須賀海軍施設部が菅原組に請け負わせた工事、約八〇名
/四方峠高射砲台工事(亘理郡亘理町):一九四三~四五年まで、未完成
/矢目飛行場建設工事(名取郡岩沼町):一九四三~四五年まで、未完成
/王城寺原演習工事:一五人朝鮮人兵隊
/原町造廠工事(仙台市原町字苦竹):陸軍造兵廠整他作業
/細倉鉱山(栗原郡細倉町):一九三八~四五年まで、約六〇〇人
/大衡村亜炭鉱山:一七〇名、細倉から七三人逃亡者
/日東鉱山:三〇人/大土森鉱山
/登米大橋工事(登米町)一九三二~四四年まで、菅原組が諸け負った五〇人
/仙山線工事
/仙石線工事
/露の目飛行場建設工事
/矢本飛行場建設工事
/岩沼―品井沼鉄道迂回工事
/白石発電所トンネル工事
/船岡海軍火薬庫建設工事
/中江火薬庫建設工事
/宮古島海軍高射砲台工事
/東北パルプ石巻工場
/栗原郡花山山内発電所の水路工事
/多賀城海軍工廠工事
宮城県朝鮮人犠牲者慰霊調査実行委員会、宮城県朝鮮人犠牲者慰霊調査世話人会『太平洋戦争中の細倉鉱山における朝鮮人労働者の実態』50~52頁。

[3] 金英達「解放直後の人口調査による都道府県別の在日朝鮮人数」『在日朝鮮人史研究』第二五号、一九九五年九月、123頁。

[4] 『解放新聞』一九四七年七月一〇日。

[5] 在日朝鮮人部落の成立と展開、そしてその意義について、樋口雄一「在日朝鮮人部落の成立と展開」『近代民衆の記録』一〇(一九七八年、新人物往来社)、同「在日朝鮮人部落の積極的役割について」『在日朝鮮人史研究』創刊号(一九七七年、一二月)参照。

[6] 金景洛氏の聞き取りによる(一九九四年一月二〇日)。

[7] 当時『解放新聞』に紹介されただけで、月生産額が七八〇万円の東亜鍛造工業所と資本金が五〇万円の林鉱業所がある。『解放新聞』一九四六年一二月一日。

[8] 『解放新聞』一九四六年一二月二〇日。

[9] 「報告書」一九四五年一一月『朝鮮問題資料叢書』第九巻(朴慶植編、アジア問題研究所)。

[10] 在日本朝鮮人連盟中央委員会「朝連第五回全体大会提出活動報告書」(一九四八年度)。

[11] 『解放新聞』一九四六年一一月一〇日。

[12] 申錫珠氏は戦前協和会の会長を歴任していたことで、共産党に入党できなかった。当時、朝連の幹部はかなり共産党員であったことが関係していた。金興坤氏の手記による。

[13] 『解放新聞』一九四六年一二月二〇日。

[14] 民団中央本部『民団三〇年史』(一九七七年)、287頁。

[15] 内務省警保局保安課『特高月報』一九四二年三月分、203~207頁。

[16] 一九四六年一〇月一七日、第三次定期総会を開催、役員改選をしたが、当時の役員は次の通りである。庶務部・崔秉植、李斗潤、財政部・李一善、金英準、文化部・許準、林柄文、外交部・張東淳、李錫鳳、体育部・李厳順、中央委員・許準、金英準、崔秉植、金容根、専門・金容根、朴判寺、『解放新聞』一九四六年一二月二〇日。

[17] 「満州国」の留学生としてきた朝鮮人は全部朝鮮の北部出身であったようである。

[18] 朴慶植『解放後在日朝鮮人運動史』228~234頁を参照。

[19] 一九四九年、学同の委員長であった慎重三氏の聞き取りによる。

[20] 『解放新聞』一九四八年二月一五日。

[21] 『解放新聞』一九四九年六月九日。

[22] 一九四九年委員長に安定任、副委員長李キョンオク、金ヨンブンであった。『解放新聞』一九四九年七月一日。

[23] 朴慶植編『朝鮮問題資料叢書』第九巻、46頁。

[24] 金景洛氏の聞き取りによる(一九九五年一月二〇日)。

[25]『解放新聞』一九四六年一二月一日。

[26] 高橋正美「朝鮮人との戦時下における出会いと朝鮮問題への関わり」『「八・一五」を問い返す映画と討論の集い報告集』(報告集編集委員会、一九八六年一二月二〇日)44頁。

[27] 「宮城県では一九五〇年の党の分裂後も在日朝鮮人は主流派の一翼を担い、反税闘争、警察署、派出所に対する火炎ビン闘争などでは、先頭に立って活動した。火炎ビンの製造、運搬なども殆ど彼らの役割だった」高橋正美、前掲、44頁。

[28] 日本共産党の創立者の一人である市川正一の遺骨の奪還も行なっている。市川は一九四五年三月一五日に獄死したが、その遺体は東北大学医学部の解剖用にまわされていた。医学の勉強で死体の解剖をやるとき、朝鮮人学生が、自分の医学の勉強のために身体を提供している人が誰かということで遺体の原本を見た。日本共産党の創立者じゃないかと思い、解剖をストップして、遠藤氏に連絡した。本誌の「証言3」を参照。

[29] 金景洛氏の聞き取りによるもの。一旦帰国した金氏はこの時期、日本に戻ってきた。

[30] 「朝鮮人の地位及び取扱に関する総司令部渉外局発表」『在日朝鮮人管理重要文書集』16~17頁。

[31] 「在日本朝鮮人連盟第三回全国大会議事録」『朝鮮問題資料叢書』第九巻、20~21頁。

[32] 『解放新聞』一九四六年一二月一〇日。

[33] 「密航取締竝治安維持に関する緊急質問」「第九〇帝国議会衆議院議事速記録第三〇号」一九四六年八月一八日。

[34] 『解放新聞』一九四六年一一月二〇日。

[35] 『解放新聞』一九四六年一一月二〇日。

[36] 金英準、鄭和林、他三名、と中央総本部側の白武、解放新聞社の劉宗煥を選出した。

[37] 『解放新聞』一九四六年一一月二〇日。

[38] 『解放新聞』一九四六年一一月二〇日。

[39] 金興坤氏の手記による。本誌の「怒りの海峡」を参照。

[40] 『解放新聞』一九四八年二月一五日。

[41] 梶村秀樹『解放後の在日朝鮮人運動』神戸学生・青年センター出版部、一九八〇年、27頁。

[42] 支部の活動はまさに生活そのものを営むのに、必要な活動ばかりであった。例えば金景洛氏(当時、仙台支部幹部)の聞き取りによると、一九四八年仙台支部では広瀬川の第一一空挺師団の飛行場周辺の朝鮮人居住者の立ち退き問題が大きく取り上げられていた。県本部の支援を求めなければならない時に、十分にもらえない場合もあったようである。すなわち県本部とは、力の入れる方向にずれがあったようである。

[43] 『解放新聞』一九四九年三月二四日。

[44] 『解放新聞』一九四九年一一月二八日。

[45] 教育部分は、一九四八年小田原朝鮮人学校の校長であった慎重三氏の聞き取りによるものである。

[46] 創作作品は、「独立の朝」「郭公ワルツ」踊りを創意し、「ガバルリ歌」「星(ビョル)」「コッグヌル(花の陰)」などであった。『解放新聞』一九四九年六月一一日。

[47] 小田原部落の「午後夜間学校」の学生であり、少年団であった呉世龍氏の聞き取りによる。

[48] 『解放新聞』一九四七年七月一〇日。

[49] 『解放新聞』一九四九年九月一五日。

[50] 『解放新聞』一九四七年二月一日。

[51] 『解放新聞』一九四八年三月一〇日。

[52] 『解放新聞』一九四八年八月二五日。

[53] 『解放新聞』一九四八年九月二四日。

[54] 『朝連中央時報』一九四八年一一月六日。

[55] 朝連の中でも「従来の太極旗をもって永久不変のものであると信じ、人民共和国々旗使用に対して未だ反対する人がある」という状況であった。『朝連中央時報』一九四八年一一月六日。

[56] 当時民青の幹部であった金景洛氏の聞き取り。

[57] もう一方、県知事は共産党宮城県委員長遠藤忠夫を呼んで「問題が発生しないように」と頼んだ。当時朝連の幹部には共産党員であった人が多かったこともあり、共産党県委員長遠藤は「国旗掲揚」の承認を、共産党東北地方委員長春日庄次郎と党中央書記局長の徳田球一に承認を要請したところ、占領軍の挑発に乗って不測の事態を招いてはいけないとの理由でいずれも正式な許可を得られなかったが、式典当日の状況により、県委員長の判断で掲揚することを一任するとされたという。遠藤氏は、実際朝鮮人の「人民共和国の創建」の慶祝大会への熱気は、国旗掲揚を中止することは考えられないほどであったと述べている。本誌の「証言3」を参照。

[58] Eighth Army Headquarters, G-2 Periodic Report, No. 995, from Oct. 15, 1948 to Oct. 16, 1948(RG338, Box p-477, WNRC. RGはRecord Groupの略で、資料群を意味する。Box p-477 は籍番号)

[59] 高橋正美「朝鮮人との戦時下における出会いと朝鮮問題への関わり」『「八・一五」を問い返す映画と討論の集い報告集』29頁。

[60] 『赤旗』一九四八年一〇月一五日。

[61] Eighth Army Headquarters, G-2 Periodic Report, No. 995, from Oct. 18, 1948 to Oct. 19, 1948(RG338, Box p-477, WNRC)。

[62] 「「八・一五」問い返す映画と討論の集い報告集」高橋正美と金興坤のものでも、聞き取りで数十人に確認した。

[63] 同右、高橋正美。共産党県委員長の遠藤忠夫氏の証言によると、岩本病院、今野病院につれていったようである。今野病院は遠藤委員長の第二高校の先輩であったこともあって、弾丸摘出手術は、警察に報告しなければならなかったが、しないことにし、摘出した後、全員病院からすぐ出てきた。岩本病院だけは手後れで、すでに警察に報告した後であった。撃たれた金四岩が、そのために逮捕された。本誌の「証言3」を参照。

[64] Military Intelligence Section, Far East Command(FEC), Intelligence Summary, No. 2242, Oct. 23, 1948(RG 319, Basic Intelligence Directive Series, WNRC)。

[65] 『赤旗』一九四八年一〇月一五日。

[66] Military Intelligence Section, FEC, Intelligence summary, No. 2242, Oct. 23, 1948, p. 8

[67] 『朝連中央時報』一九四八年一一月一日。

[68] 『朝連中央時報』一九四八年一一月六日。

[69] Eighth Army Headquarters, G-2 periodic report, No. 1013, from Nov. 5, 1948, to Nov. 6, 1948(RG338, p.477, WNRC)。

[70] 交渉委員は民青幹部のキムキョンラク、カンキビョン、ベクキヨンであった。面会に行ったら、軍政部当局が三〇分以上も出てこず、相当萎縮する様子であったと、いまだ鮮烈に脳裏に残っていると金景洛は述べる。

[71] 『朝連中央時報』一九四八年一一月一日。

[72] 『朝連中央時報』一九四八年一一月一日。

[73] 金氏が丁度射撃する人をよく見える場所にいたので、その射撃した軍人を覚えていた。軍事裁判所に何人かの軍人がならんでいて、その中から金氏が指した人は黒人であった。

[74] 『朝連中央時報』一九四八年一二月一日。

[75] 『朝連中央時報』一九四八年一二月一日。

[76] 在日朝鮮統一民主前線宮城県委員会「第六次臨時大会に提出する総括報告」、一九五五年六月二九日、21頁。

[77] 一九四九年九月現在(解散当時)、宮城県民団系は仙台に本部、塩釜、石巻に支部を置き、全部合わせて二〇〇人であった。建青塩釜本部には三五人。

[78] 『朝日新聞』一九四九年九月九日。

[79] 『解放新聞』一九四九年七月二三日。

[80] 殺人事件に民団塩釜支部副団長が関与していたことが朝鮮人の中で広まり、塩釜朝連支部員八人がその真相を調べようと民団事務室にいったが、監禁・暴行された。『解放新聞』一九四九年七月二三日。

[81] 『解放新聞』一九四九年七月二三日。

[82] 在日朝鮮統一民主前線宮城県委員会「第六次臨時大会に提出する総括報告」、一九五五年六月二九日、3頁。

[83] 『河北新報』一九四九年九月九日。

[84] 『河北新報』一九四九年九月九日。

[85] 『河北新報』一九四九年九月九日。

[86] 『河北新報』一九四九年九月九日。

[87] 『解放新聞』一九四九年九月一五日。

[88] 『赤旗』一九四九年九月一三日。

[89] 『解放新聞』一九四九年九月二三日。

[90] 『解放新聞』一九四九年九月二三日。

[91] 『解放新聞』一九四九年一一月五日。

[92] 『解放新聞』一九四九年一一月五日。

[93] 『解放新聞』一九四九年一一月五日。

[94] 『解放新聞』一九四九年九月二五日。

[95] 『赤旗』一九四九年九月一三日。

[96] 『解放新聞』一九五〇年六月一五日。

*「榮」は正しくは「 」。 この『東西南北』別冊01においてはすべてこの文字に読み替えてください。
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