研究活動報告

一九九八年度

●アジア研究交流フォーラム

「アジア研究交流フォーラム」は、アジア・地域研究系に属する六つのプロジェクトチームの企画をはみ出し、数グループにまたがるような活動を支援していこうという「システム」で、系代表をまとめ役として年一回はシンポジウムや講演会を開いていこうということが確認されている。

九六年度の「中国の近代化と人権」シンポでも、その準備に苦労したので、九七年度も数度プロジェクトチーム代表者会議を開き、企画を募集した。最終的に現代中国研究会の山村氏を中心に出された「アジアのなかの教科書裁判」を九七年度シンポのテーマとすることになった。この夏結審した第三次家永訴訟をアジアの人たちはどう見ているか、この裁判で明らかとなったもの、残された課題を考える場を持ちたいという気持ちからだった。

企画は山村氏と佐治が当たることになり、是非とも家永三郎氏に出席願いたいと思い交渉したが、体調がすぐれずメッセージをいただくことになった。裁判に中心的にかかわり支えてこられた歴史教育者協議会副委員長の佐藤伸雄氏に長い裁判の歩みを語っていただき、中国からは『中日戦争賠償問題』の著者殷燕軍氏に、韓国・朝鮮の立場からは津田塾大学助教授でこの問題でも発言してこられた林哲氏に、日本人としてこの裁判から何を学ぶかを本学名誉教授で歴史学者の永原慶二氏から報告していただくということで全体構想がまとまり、参加交渉もスムーズに進んだ。ただ、開始が遅かったため、準備の手配が十分とは言えず、期日はこの種の行事としてはやや遅い一二月六日とせざるを得なかった。

シンポジウムの記録は『東西南北』一九九八年号にすでに掲載・公刊したので詳述は省くが、佐藤氏の三二年間を振り返って、特に一九八二年からの「侵略・進出問題」を軸にしながら憲法違反と無謀な戦争への反省との闘いだったというお話、林氏の大きな制約の中での朝鮮半島の、歴史認識と分断問題、教科書裁判への認識の新しい変化のお話、殷氏の日本政府の中国侵略に対する反省の無さに対する厳しい批判、永原氏の第一次、第二次、第三次訴訟の争点の変化を跡づけながらの日本国民の自国史観・近現代史観の問題点の指摘など、実に内容の深い、鋭い問題提起の連続で、聞く者に息も継がせぬほどの迫力であった。

ディスカッションでも更に多くの論点が補足され、フロアーからの質問や意見もたくさん出された。残念だったのは一般参加者からも指摘されたが、和光大生の参加者が少なかったことだろう。教員研究会の成果、研究所活動の努力が、どうしたら学生にフィードバックできるのか、本気で考え直さねばならないだろう。それと、去年も同じ問題を感じたが、系代表と少数の教員に結局アジア研究交流フォーラムの活動が請け負い的に集中してしまう状況も、何としても改善されなければならないだろう。

(佐治俊彦)

 

●現代中国研究会

本年も例年同様、研究会と現地調査の二本立てで行なわれた。研究会では、会員報告とともに、気鋭の客家研究家林浩氏による「現代華人世界と客家」や留学生包偉毅君の「改革開放下のモンゴル自治区」などのゲスト報告も得られた。本稿では、紙幅の都合上(1)八〇年代以降著しい中韓交流の現状視察と、(2)戦前日本による帝国主義支配の史跡調査を主目的とした山東半島現地調査の報告に限定する。

[北京]二月二〇日成田を発ち北京に着く。中央民族大学を訪問。ここは少数民族の幹部養成を目的とした大学であり、また民族学、国際関係論研究の中心でもある。民族理論研究の金炳鎬教授にお会いし、中国における民族問題研究の現状や教育研究事情をうかがう。

翌日、市内の書店、古書店で資料蒐集。近年古書の価格上昇が著しく、古い雑誌類など驚くほど高い。他方、年数を経た新刊書はきわめて安い旧価格のままで、この間の経済的変化の激しさが窺える。夕刻の飛行機で煙台(旧芝罘)に向かう。乗客は少なく、乗務員の多さが目立つ。各部署に配置された従業員の多さは、その後も各所で目に付き、改革開放下の雇用労働者問題の困難さが想起される。

[煙台]山東半島は、国交回復後韓国との経済交流が最も活発な地域であり、歴史的にも朝鮮半島との交流が積み重ねられてきた土地である。それを反映して、街の一角にあるコリア街ではハングル文字が随所にみられる。また、聴き取りからも、中韓国交回復を契機とした経済交流の発展が、朝鮮系中国人の存在を含め、この地における朝鮮との交流の歴史的蓄積を基盤としていることがわかる。

翌二二日は、市郊外に位置する芝罘経済技術開発区をみて蓬莱市へ。開発区はゲートで区切られた殺風景な地に新しいビルや工場が点在する。こうした経済特区は、西隣の蓬莱市にも、東隣の威海市にも設けられ、ほぼ同様な光景が広がっている。外資頼みの改革開放政策のバブル的様相に若干の不安を感じる。

蓬莱市への道は農村地帯を走る。起伏がなく、小麦が芽を出した畑は整然と区画され、北海道十勝の畑作地帯に似る。時折、いちご栽培のハウスがみられる。ビニールではなく、数十枚の筵で覆われている。道路では、トラックやトラクターとともに、まれだが馬車にも出会う。人びとの服装は、質素だがこざっぱりしている。

[威海]二三日、威海へ。清末期、北洋艦隊の本拠地であったこの港町は、現在仁川と結ぶフェリーの発着港であり、港にはハングル文字の看板もみられる。街の書店でも、外国語テキストのコーナーには、中国語と朝鮮・韓国語の対照会話集が積み重ねられていた。

目当ての旧北洋海軍の基地は、威海湾内の劉公島に置かれており、現在も中国海軍の基地となっている。そして、基地の一部が甲午戦争博物館となっており、北洋艦隊と甲午(日清)戦争に関する軍事・外交関係あるいは内外の甲午戦争研究文献など各種資料が展示されている。また、黄海海戦のパノラマや戦後引き揚げられた「済遠」の艦砲なども置かれている。なお、博物館の入口には、「愛国教育施設」のプレートが掲げられており、甲午戦争展示の基調は、清朝の腐敗による弱体化とそのなかでの提督丁汝昌ら愛国人士の献身的愛国闘争をクローズアップするものであった。

[青島]二四日、列車で青島へ向かう。沿線は小麦畑とりんご畑が広がる農村地帯。青島駅に近くなるとともに、大工場群が現れ、幾多の煙突が大量の煙を吐いている。旧在華紡工場もそのなかにあるのだが車窓からは特定できない。

青島駅にほど近い小高い地にはひときわ目立つ天主教会が立ち、この地が第一次大戦前ドイツの租借地であった歴史をとどめている。この近くに旧(以下同じ)青島日本人居留民団の建物があったはずだが不明。憲兵隊本部やヤマトホテルの建物はみつかった。その後、青島神社、日本人小学校、女学校、陸軍病院、軍司令部、領事館あるいは正金銀行、朝鮮銀行、三井物産、伊藤忠、青島蚕糸等々、戦前期における日本の占領統治や日本企業関係の建物や施設を訪ね、ひたすら街を歩く(なお、二五日には旧大日本麦酒工場たる青島麦酒工場を見学、現況について聴き取りをしたが、途中ご馳走になったビールの味は格別であった)。

こうした軍、政府や有力企業の旧跡とあわせて、やや離れた市場路を訪ねる。食料品や日用品を扱う中小商店が軒を連ね、路上にも野菜や魚介類の露店が並び人びとが行き交うその周辺は、戦前数多くの日本人中小商工業者が居住・営業していたところでもある。戦前の様相をとどめていると思われる街路や家並みは猥雑で、当時の零細な日本人居留民たちの営業や生活の様子をも想像させる。自然、海岸に面する高台に造られた旧ドイツ人居住区(後日本の軍や公的機関、有力企業の幹部等が居住)の整然と落ち着いた姿が対比的に浮かぶ。大量の零細居留民を随伴した“貧乏帝国主義”日本。これが、青島の地でみた戦前日本の印象であった。

(山村睦夫)

 

●アジア太平洋地域と日本の役割研究会

[打ち合わせ]
六月四日、九七年度研究活動方針について打ち合わせを行なう。
九七年度は基本方針として東南アジアにおける経済活動と環境問題を研究することで意見の一致をみた。経済活動については実態調査をすることとした。出席者は岡本、梅中、伊東、武田。

[研究会]
九八年一月二八日一五:〇〇~一七:〇〇
講師に明治大学経営学部教授大石芳裕氏を招き、「アジアにおける環境問題と多国籍企業」について講演をお願いし、議論を交わした。
大石教授は膨大な資料を基にアジア、とりわけ東南アジアの環境問題は、アジア自体の人口増加や経済成長に負うところが大きいが、日系企業による森林の伐採や公害輸出といった面も無視できない点などを指摘すると同時に、今後のこの地域への日本ならびに日本企業の取り組み方や援助の仕方について報告した。
なお、詳細な内容については一九九九年の『東西南北』に掲載されるので、それをご覧いただきたい。
出席者は水上、岡本、梅中、武田、伊東、崎、ほか学生十名程度。

[海外実態調査]
一、対象地域=タイ
二、調査内容=経済危機下のタイ経済の実態と日系進出企業への影響の把握
三、調査期間=一九九八年三月一四日~一八日
四、参加者=岡本喜裕、梅中雅比古、武田巧、岡本典子(自費参加)
本研究会は、前年度に続き、九七年度も東南アジアを訪問する機会に恵まれた。タイはまさに、九七年七月の通貨暴落によって、「東アジアの奇跡」と賞賛されていた東・東南アジア地域の経済的繁栄を“幻想”に、または「アジアの時代」の到来を大幅に遅らせる、ないしは“夢想”に終わらせるかもしれない直接的引き金をひいた地であり、域内に伝播した経済的苦境の深刻さを知るには最適の地と思えた。

今回の訪問先の中で、特に印象に残ったのは次の二カ所であった。

一、バンコク日本人商工会議所
二、サイアムジャスコ

[バンコク日本人商工会議所]バンコク到着後、我々はまず「バンコク日本人商工会議所」を訪れ、経済危機下のタイ経済全般について事務局長の新田泰一氏より報告を受け、その後質疑を交わした。同氏の報告から、我々はタイ通貨危機の原因と現状を次のように理解した。

過去二〇年間、タイは世界で最も成長の著しい国であり、食料純輸出国としては世界五大国の一つでありながら、工業製品は全輸出額の七〇%を超えるまでに急増していた。英国経済誌が同国を二〇二〇年までに世界の八大経済大国になると予想した程である。

この間、貿易・投資と並んで金融自由化も進み、実質的対米ドル連動制の下で、多額の資金が海外から流入したが、生産活動には必ずしも活用されずに、金融・株式・不動産市場を急速に膨張させていった。豊富な資金流入は消費・投資行動から慎重さを奪い、経常収支赤字を拡大させ、放漫な貸付け、過大な借入れがバブルを膨らませた。九六年末にはバブルが弾け、不動産や株価が下落、金融機関の債権が不良債権化した。

タイ政府は対米ドル連動制を維持すべくバーツ防衛のために外貨準備を使い果たす一方、不良債権を抱えた金融機関の救済のために公的資金を注入した。経済の弱体化に対して海外投機筋が九七年二月と五月にバーツを売り浴びせ、七月二日にはついに対米ドル連動制維持を放棄した。バーツは暴落した。七月以降、バーツは対米ドルで五〇%以上下落している。

現在、IMFの管理下で、不良債権を抱えた五八のノンバンクが業務停止処分を受け、その内の二社を残して閉鎖されている。最大の問題は資金不足だが、輸出企業はバーツ安の恩恵を受け始めている。ただし、国内市場向け産業は苦しく、自動車販売台数は半減している。消費財輸入は減少、その結果、貿易収支、経常収支は黒字となっている。九七年の経済成長率はバーツ下落にもかかわらず〇・三%、物価上昇率は五・六%にとどまっている。タイが食料品の輸出国であるがゆえに食料品価格がそれほど上がらなかったことが大きいようだ。ただし、九八年は大幅に悪化している。

タイ経済が苦境に陥っている様は一目瞭然であった。工事中断のままに放置されている未完成の高層ビルがあちこちに見受けられ、悪評高い交通渋滞の緩和のために計画されたモノレール建設も途中でストップしていた。皮肉にも、モノレール完成を待つまでもなく、経済活動の停滞により交通渋滞が緩和しているとの話であった。タイ経済はまさに「昇っていた成長の階段をはずされ、真っ逆様に落下している」という印象であった。

[サイアムジャスコ]サイアムジャスコはジャスコの一〇〇%出資により八五年にバンコク市内に第一号店を開店以来、タイ国内に九店舗出店している。日系小売業としては、大丸、そごう、東急に次ぐ進出で、その後ヤオハン、伊勢丹、西友が続いた。売上高は約三七億バーツで業界七位、日系小売店ではトップの地位を占めている。従業員は約一六〇〇人。九店舗のうち七店舗ではタイ人が店長を務めている(九七年)。

バンコク中心部より八キロ程北東に位置するサイアムジャスコ(第三号店)に向かう途中、閉鎖されたヤオハンと東急が視界に入ってきた。タイ(そして日本)経済の深刻さを物語っていた。到着後、平中輝夫社長より経済危機下のタイ流通業とサイアムジャスコ社の現状などについて具体的かつ率直な話を伺い、質疑を交えた。

タイの流通業は八〇年代半ば以降の首都周辺の急激な都市化の進展と所得水準の向上を背景に、さまざまな業態が登場し、熾烈な競争を繰り広げてきた。また地方都市の発展に伴い各地にデパート、スーパー、コンビニなどが展開しつつある。なかでも過去二年間に欧州系小売店が相次いで進出し、一夜にして三〇数店舗を擁する強力スーパーマーケットチェーンが出現した。

一方、大型ディスカウントストアーも郊外店を次々にオープンさせている。タイはさながら流通大戦争の真っ只中にあり、営業不振店の閉鎖や撤退とともに、提携や救済型合併に活路を見出そうとする企業が続いているとのことである。そうした中で起きたのが、通貨危機と実体経済への波及である。加えてVAT(付加価値税)の引上げも売上高を減少させ、ジャスコの場合、売上高はピーク時から一五%程落ち込み、二〇〇〇年まで回復は困難との予測が示された。

サイアムジャスコ訪問から我々が感じたことの一つは、タイ流通業における競争と変化の激しさである。米国で一〇年、日本で三、四〇年要した小売業態の多様化はタイでは過去一〇年間で一挙に進み、スーパーマーケット、百貨店、郊外型ショッピングセンター、ディスカウントストアー、カテゴリーキラー、パワーセンター、コンビニという多様な業態がまさに相まみれて全面戦争を展開中であった。経済危機下での全面戦争はタイ流通業の優勝劣敗を決することになろうが、前年度調査地のシンガポールやマレーシアと異なり苦戦を強いられている在タイ日系流通業にとっては、拡大路線の転換が必要だという印象を持った。

(武田 巧)

 

●スリランカ研究フォーラム

私たちのフォーラムでは、スリランカの文化・社会に関心を持つ研究者が集い、研究発表と討論、交流を行なっている。日本ないしは日本人の側からの一方的なスリランカ研究にならぬよう、当初から在日スリランカ人研究者や客員研究者、留学生らの参加を呼びかけている。

一九九七年度は二回のフォーラムに加え、臨時研究会を開催した。

第三回フォーラム(一九九七年六月一四日)
(1)パトリック・ラトゥナーヤカ(日本大学大学院)
 「スリランカのドキュメンタリー映画」
(2)澁谷利雄
 「スリランカのサイババ信仰―プッタパルティ巡礼をめぐって」

第四回フォーラム(一九九七年一〇月二五日)
(1)ネルソン・ウィターナゲ(日本スリランカ友好センター代表)
 「スリランカから見た日本―二六年余り日本に滞在して」
(2)鈴木正宗(慶応大学文学部教授)
 「スリランカのラーマーヤナ」

[臨時研究会]
クスマ・カルナーラトゥナ(コロンボ大学教授・大正大学客員教授)
「現代シンハラ文学をめぐって」

いずれも多くの方々の参加があり、多面的な討論を通じてスリランカの文化・社会の考察を深めることができた。今後は、『東西南北』などへ研究成果の発表を行なうとともに、スリランカでのフィールドワークやセミナーの開催も考えていきたい。

(澁谷利雄)

 

●一九世紀末研究会

一九世紀末研究会は九五年に発足し、三年目を迎えて一つの区切りをつける。現在の日本の政策の基本が決定された一九世紀末は、現代における混迷にも光をあてる意味で、きわめて重要な時期であるが、都市、文明、思想(意識)というレベルで問題を掘りおこすことにつとめた。

本年度の都市の調査対象地は長崎市とし、九八年三月二三~二六日にかけて調査を行なったので、この報告の重点もそれに置いた。一九世紀末へ向かう日本の都市として、当初もっとも大きな役割を果たした長崎の調査は、本研究グループが構想していたイギリス、中国などとの関係を考える点でも重要であった。これを機に日本私学振興財団の平成一〇年度学術研究振興基金の申請をも行なうことになったことを付記しておく。

長崎市の調査では、調査地点を
(1)県立図書館郷土資料室、
(2)長崎大学東南アジア研究所、
(3)旧中国人居留地および関係遺跡、寺院、廟宇、
(4)上下水道関係施設の三つを主とし、中国との関係から、
 ア、旧中国人居留地(長崎市館内町)および関連施設(在日華人子弟のための初等教育機関“時中小学校”など)の記録と歴史、保存と復興に動きだした華人二世グループの動向の聞き取り調査、
 イ、旧上海在留日本人引揚者のグループの活動の現状の聞き取り調査(肥前古賀町)を含んだ。

 

このうち長崎県立図書館では「Sunrise」(英人居留地発行の新聞)「日の出新聞」「九州衛生新聞」をはじめ、「渡辺文庫」「古賀文庫」「中村文庫」など豊富な郷土資料の宝庫に接した(目録、解題を入手している)。また、東山手町から通称“オランダ坂”をのぼり、丘陵を下って旧中国人居留地のある館内町へおりる途中の十人町界隈で、旧上下水道の施設の状況を見学する。なお、明治の中期以後急速に衰微した「明清楽」の資料および現状の消息の手がかりを得たのも収穫であった。以下筆者の個人的視点を加えていささか述べてみたい。

 “郷土資料”の中から大村藩士の山口次郎平の紀行文「凍渓遺稿」によって幕末慶応三年冬の北九州における人心動揺の姿を見ることができた。また、備前藩士の中村巌州の「夢遊篇」という漢詩(天保一一年・一八四〇年)によって、幕末の一知識人の驚くべき国際感覚に満ちた卓見に接した。その詩をここに掲げておく。

 清客本是賈豎子 猶能風流有文彩
 訳官邑老飽暖人 不識一丁亦堪恥
 吾恐豎子視比曹 或謂国人比二是
 東方原有君子称 誰知不文招笑
 何日儒将応選択 一洗旧習使俗易
 筆鋒亦足禦外侮 武備何独備剣戟
          (常用漢字に改めた)

この詩に刺激されたわけではないが、調査旅行の全体にわたって感じたことを数点述べておきたい。

(1)研究者が現地を訪れることは非常に重要である。長崎にかぎったことではない。全国どこも同じ状況だろう。というのは、
 ア、県立図書館クラスでは資料の保存状態はきわめてお寒い。今回も新聞資料をはじめ、品質劣化のままでコピー、フィルム、CD―ROM化などの保存の対策もとられず、閲覧以外の方法がないものがほとんどであった。
 イ、図書館ではなく資料館がつくられれば保存の保障が展望できるのだが、それも日の目を見ぬまま、収納スペースがなく、廃棄され消却される資料が多いときく。
 ウ、その資料の重要性(重要になる可能性も含む)は研究者が指摘せねば理解されない。
(2)資料、遺跡を研究、保存、活用しようとする若い世代の新しい動きがある。それを励まし、力を与えることができるのは現地を研究に訪れる研究者である。

以下、九七年度の学内の研究活動を年表風に列記しておく(除、事務局会議)。

第一回研究会(五月九日)
 「京都調査活動の報告(西陣、その他)」
 研究報告者:松永厳、橋本尭、山村睦夫(参加者七名) 第二回研究会(七月四日)
 「大和魂の成立―明治、日本主義台頭の前後―」
 研究報告者:橋本尭、コメント:原田勝正(参加者八名) 第三回研究会(一二月一日)
 「日本と中国の近代初頭における“天”の概念の変化」
 研究報告者:原田勝正、橋本尭(参加者七名) 第四回研究会(九八年二月一七日)
 「一九世紀後半のNewYork市における下水道建設の政策決定経過」
 研究報告者:内田正夫

(橋本尭)

 

●朝鮮研究会

九七年度の朝鮮研究会は、「戦後の日朝関係」を大枠に五年間の研究成果を補充し、出版に向けて各研究報告を整理しまとめる作業を進めた。

その経過は次のようである。一九九三年度には、研究会は、日本占領期間中の連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP、以下GHQ)による対在日朝鮮人政策を中心に検討した。一九九四年度からは、その政策が地域レベルでどのように執行され、在日朝鮮人が形成した地域社会にどういう影響を与えたかなどに焦点を絞って、ケース・スタディーや当事者(在日朝鮮人、日本人)とのインタビューという方法で研究をすすめた。

私たちの関心事は、とりわけ各地域で主役を演じた占領軍の主力である第八軍やその軍政チーム、日本地方自治体、治安機関、在日本朝鮮人聯盟(以下、「朝聯」)、共産党などの動向、相互作用にあった。その対象時期は、対朝鮮人政策の転換期とも思われる一九四八年から一九四九年、つまり阪神民族教育擁護闘争から朝聯の解散や外国人登録令の改定までの約一年半であった。

その間に国外の政治情勢も大きく変わった。一九四八年の民族教育擁護運動のさなかに朝鮮分断(八・九月)と冷戦の激化は、一○月のGHQによる共和国の国旗掲揚禁止などの弾圧を呼び起こし、各地域の在日朝鮮人社会に大きな波紋を与えた。私たちは、研究の対象地を徐々に広げながら、宮城県と山口県、そして最後に島根県の場合に注目して、各地域での動態を把握しようとした。

本年度の最後の研究活動として、笹本征男氏に「島根県の益田事件について」(一○月三日)、そしてイ・ヒャンラン氏に「仙台の国旗掲揚事件の前後」(一○月二四日)をテーマに報告していただき、私たちの研究を補充して終了した。笹本征男氏は一九四九年一月二五日から二六日にかけての島根県益田事件について詳細に説明し、当時の在日朝鮮人と日本人との関係を浮き彫りにしてくださった。報告のなかでご自身の祖父が残した在日朝鮮人をめぐる記録を取り上げ、貴重な第一次史料として注目された。イ・ヒャンラン氏には、仙台の国旗掲揚事件をめぐる状況、朝聯の動向、在日朝鮮人の日常生活などについて興味深い報告をしていただいた。仙台の在日朝鮮人の地域性を立体的に描いてくださった。

本年度の研究報告は、『地域社会の在日朝鮮人とGHQ、一九四八~四九年を中心に』と題して、
I.共同研究の各報告
Ⅱ.朝鮮大学校教授・孫文奎氏の特別報告(「国旗掲揚事件の真相」)
で構成されている。

I.においては、
 総論・「なぜ地域研究か」(R・リケット)
 イ、「占領期の宮城県における在日朝鮮人の動向」(イ・ヒャンラン)
  「解放後の山口県における民族教育擁護運動」(瀬川幸恵)
  「益田事件―私的なノート」(笹本征男)
 ロ、「怒りの海峡」(金興坤)
  「仙台の在日朝鮮人」(金興坤と鄭達先のインタビュー、座談会)
 ハ、「宮城県の日本共産党と在日朝鮮人」(遠藤忠と高橋正美の座談会)
 ニ、「山口の在日朝鮮人」(朝聯幹部のインタビュー)
 結論(篠原睦治)
となっている。

Ⅱ.の朝鮮大学校教授・孫文奎氏の特別報告(「国旗掲揚事件の真相」)に関して、同氏は二○数年前から、宮城県と山口県における民族教育擁護運動と国旗掲揚事件について資料を集め、また数回にわたって人民共和国を訪ね、帰国したかつての朝聯幹部のインタビューを採るなど、精力的に研究を進めてこられた。これまで彼の研究成果が日本語で発表されることは少なかったので、多岐にわたる今回の特別報告はたいへん有意義である。

こうした共同研究の特色として、当事者のインタビュー・座談会の開催や、研究会のメンバー(和光大学関係者)以外に多くの教員、院生など若い研究者の積極的参加がえられたことなどをあげることができよう。来年度は、同報告を論文集として出版する予定である。

(ロバート・リケット)

 

●沖縄の地域社会

沖縄研究プロジェクトは一九九七年度、九月に小林・中生・今泉の三人が各自現地調査を行ない、一一月二八日に中生と今泉が報告を行なった。

一九九八年二月二一日には共同研究者である中村誠司(名桜大学国際文化学部助教授)に沖縄の地方文書について報告していただいた。以下は報告の要旨である。

 

[研究会報告要旨]

―中生勝美(人間関係学部)
「明治初期の沖縄調査と田代安定」
田代安定は、明治初期に鹿児島でフランス語と応用博物学を学び、農商務の技官となって沖縄の八重山地方へ調査に出かけた。その後、官職を辞して太平洋諸島の人類学調査に赴き、下関条約により台湾割譲が決まると、近衛師団に従軍して台湾へわたり、台湾総督府の農林技師として熱帯植物、人類学の調査を行なった。
田代安定が、琉球処分により日本に統合された沖縄社会がどのように変容していき、また沖縄での経験が、その後の植民地調査にどのように影響したかを報告した。

―今泉裕美子(本学非常勤講師、「沖縄の歴史」担当)
「沖縄と矢内原忠雄 米軍占領下沖縄での講演を中心に」
矢内原忠雄(一八七三―一九六二)は、戦前期は植民政策研究を専門とし、戦後は日本の国際関係研究の形成に携わった経済学者である。一九五七年一月、矢内原は琉球大学の招きで沖縄講演旅行を行なった。

講演では、米軍占領下の沖縄をじかに見て、沖縄の人びとと直接語り合ったことを踏まえて、積極的な発言がなされた。本講演旅行を通じて沖縄の現状をどのようにとらえ、何を主張したかを、矢内原の研究の文脈中でとらえながら報告した。

―中村誠司(名桜大学国際文化学部助教授)「沖縄の地方文書」
沖縄各地に保存されている地方資料の発掘調査と整理の状況、このデータ・ベース化作業、それを作成するために、新たに収集した地方文書の特色などの概況を発表してもらった。

(中生勝美)

 

●共同研究―『モンゴルの変容する社会と文化の諸相』

本年度は、共同研究最終年度であるため、夏休みを利用した現地調査を行ない、残りの時間は報告書作りにあてた。現地調査の機会が一回のため、班をブリヤート調査班と中国オイラト調査班の二つに分けて行なった。以下、それぞれ別個に報告する。

一、ブリヤート調査
(1)モンゴル民族の一支族であるブリヤート族は、バイカル湖の東から西にかけて住んでいる人びとである。この人びとも政治の波に洗われている。この一帯に住む人びとは、もともと、一つの自治共和国としてまとまりをもっていたが、一九三七年に東西に分割され、東の部分のみがブリヤート・モンゴル自治共和国となった。一九五八年にはその国名から「モンゴル」の語が消され、あたかもブリヤート人がモンゴル民族とは無関係なもののごとくに取扱われるようになった。

九〇年にブリヤート共和国へと自ら宣言したこうした歴史の波の中で、東西に分れた人びとの生活と意識のあり方が、調査の焦点であったが、結果は、当該地域のいずれにおいてもブリヤート人は人口構成上多数派ではなく、それだけに、自分たちがモンゴル民族と無関係とする意識は見られなかった。ブリヤート共和国において、否決されたとはいえ、国名にモンゴルを再登場させようという提案がなされたのもうなずける。

 

(2)東西ブリヤートの人びとの生活が、他の地域のモンゴル人と大きく異なる点は、木造の家に住み、ロシア人から教えられた農業を営み、バイカル湖に近い人びとは漁業を営んでいる点である。西ブリヤートの人びとは、政治的な歴史はともかく、タイガ地帯にあって草原の放牧が困難なだけに、ロシア人から農業を教えられたことには、素直に感謝しているようであった。

ただし、私たちが訪れたイルクーツクの隣の市のはずれにある村では、野菜と肉を供給していた近くの化学工場が潰れてから、経済的困難に見舞われ、若者の流出が続いていた(こうした状況は、多かれ少なかれ、ブリヤート共和国でも同じで、若者が職を求めてウラン・ウデに流入している)。この地域の小学校では九〇年からブリヤート語を教え始めている。ロシア化が進んだ西ブリヤートでは、壮年世代を中心にブリヤート語が忘れられており、世代間のギャップも生れているため、始められた試みである。

 

(3)モンゴル国などの伝統的習慣では、魚は貧困者しか食べない。しかし、魚の豊富なバイカル湖の湖畔に住む人びとには、それは自然の営みである。この地の人びとはチベット仏教に強い執着をもっていると聞いていたが、漁民たちは、実際には、その出漁など、さまざまな機会にシャーマニズムに基づく儀式を行なっていた。

ただし、社会主義体制の下では、見つかれば死刑だったので夜そっと行なっていたと、私たちの旅の安全を願ってその儀式を行なってくれた漁民が語っていたのが印象的であった。なお、チベット仏教に関する研究は、医学を含めて他の地域よりも明らかに盛んであった。

 

二、新疆ウイグル調査
新疆ウイグル自治区は、ウイグル族が主軸となる民族とはいえ、まさに多民族社会である。それだけにさまざまな民族がどのような関係を取り結んでいるのかを、さらに知るために、前年に続いてホボクサイル地域のモンゴル社会を訪ね、さらに前年に果たせなかったダウール人社会にも足を延ばした。

 

(1)ホボクサイル・モンゴル自治県は、モンゴル高原の西端のジュンガル盆地の北西に位置しているが、ここでも漢族の方が、モンゴル族より若干人口が多く、ついでイスラム教徒のカザフ族が続く。この地においては、共に牧民であるカザフ族とモンゴル族は、相互に文化を共有している部分があり、夏祭りなども相互参加を行なっている。宗教上など、さまざまな場面で相互配慮が見られるが、一方、結婚相手には、同じ民族の者を選ぶ傾向がある。県内では、墓地も寺院もはっきり区別されている。チベット仏教寺院の再建も盛んである。

 

(2)深刻な問題は教育の面に現れている。国は「民族自治法」によって「区域自治」内の民族教育や行政自治のあり方を決めている。行政面では、文化面のような相互配慮が十分に機能している。教育面でも、漢語で行なわれる「普通学校」と「民族学校」の二種がある。このどちらを選ぶかは自由であるから、十分主体性が尊重されているが、大学段階ではやはり漢語が不可欠となる。牧民の就学率も低い。

前年の調査で予想していたように、高等教育ないし理科系教育を受けようとすると、たとえ主軸となる民族とはいえ、漢語の世界へ入らざるを得ないのである。モンゴル以外の民族にとっても、事情は同じである。人びとは苦悩し、例えば息子を「普通学校」へ、娘を「民族学校」へと振り分けるなどという苦しい試みをして人びともいる。

 

(3)塔城地区(タルバガタイ)にはダウール族が少数ながら生活している。モンゴル族とは異なる民族と識別されているこの人びとは本来東北部から来たにもかかわらず、東北部のダウール族からは忘れられていた。

しかし、八二年の全国人民代表大会を契機に両者の繋がりが意識され、現在はダウール民族学会が設立されている。この人びとは、踊りかつ歌う文化という点でモンゴル文化と異なり、また、宗教へのこだわりも少ないようである。固有の民族文字がないことは、今後の民族的統合性に大きな影響を与えかねない。           

(三橋 修)

報告書『変容するモンゴル世界』表紙

 

●フェミニズム・ジェンダー研究会

フェミニズム・ジェンダー研究会は本年度、
1―大学のジェンダー環境を改善するための活動
2―公開シンポジウムの企画・実施
3―ビデオ資料の購入と上映
4―フェミニズム・ジェンダー関係資料の収集・整理
の四つの柱で活動した。

1―

大学のジェンダー環境を改善するための活動としては、前年度のセクシュアル・ハラスメント事件への対応の中で浮上してきた課題として、セクシュアル・ハラスメント問題に対して大学のとるべき対策を具体的に検討した。五月三〇日に「アメリカ・カナダの諸大学における取り組み」「日本の諸大学における取り組み」について、酒寄進一と井上輝子がそれぞれ報告し、勉強会をおこなった。

この勉強会は、学生生活部長、学生生活主任や学生生活部の職員の方々も参加され、本学で当面取り組むべき課題、また実現可能な方策はなにかなどについて話し合った。夏休みを経て学生生活部がセクシュアル・ハラスメント・ガイドラインの素案をまとめられたので、九月二四日に学生生活部と合同で検討会をもち、ガイドラインの原案作成に協力した。この原案が教授会等の修正を経て、本年三月にパンフレットにまとめられ、学生に公表・配付されることになったわけである。

とはいえ、ガイドラインをつくっただけでは問題は解決しない。セクシュアル・ハラスメントを発生させやすい大学内の性に関する文化の環境を改善すること、カリキュラムの構造や教職員の女性比率などを、ジェンダーの視点から問いなおすこと、そのための拠点となる場所や仕組みを全学的に作り上げていくことなどが、ガイドラインを実効あるものにするためには必要だと考えられる。

当研究会では、今年一月に新年交流会を兼ねて「ジェンダーの視点で和光教育を語り合う」集まりを持ち、さらに一九九八年度には、大学に対してなんらかの提言をすべく、勉強会と他大学視察を計画中である。

2―

今年度の総合文化研究所公開シンポジウムは、表象文化研究系(当研究会と物語研究会、シンボル文化研究会)が企画し、一〇月一八日に「身体表現とジェンダー」と題して実施した。東京都写真美術館学芸員笠原美智子「写真表現のなかでのジェンダー」、本学塩崎文雄「女性の身体表現を『鍵』に読む」、本学非常勤講師浅野千恵「女性の身体へのこだわり」の問題提起を軸に、杉本紀子、酒寄進一、永澤峻がコメンテイター、井上輝子が司会をつとめた。近代社会の身体表現に、男女間の「見る/見られる」非対称の関係があることの発見から始まり、この関係に対抗する女性アーティストたちの表現活動の紹介、小説『鍵』は、女の裸の身体を鑑賞する物語のようでいて、実は女に文化規制としての性役割の衣を着せる話であったのではないかとの新解釈、摂食障害現象の中に、女性の身体がそれ自体として肯定されず、他者からの評価や攻撃や欲望の対象として疎外されていることを読みとるなど、身体表現とジェンダーに関する斬新で多角的な問題提起があり、活発な議論が展開された。このシンポジウムの記録は、『東西南北98』に収録してある。

3―

ビデオ上映会については、七月に英国オープン・ユニヴァーシティのビデオ・シリーズから、「アルコールの害」「出産と避妊」「新しいアイデンティティを求めて」を上映したが、参加した学生たちから、日本の現状に即した出産避妊に関するビデオを見たいとの要望が出された。夏休みの間に、横浜女性フォーラムからビデオ「からだシリーズ」が出されていることを知り、購入。一一月から一二月にかけて五回にわたって上映会を実施した。上映ビデオは、「産婦人科医とのつきあい方」「元気ですか? からだのリズム」「わたしと彼の避妊講座」「中絶・からだ編」「中絶・こころ編」の五作品。特に秋には、学生たちが計画、広報活動などに積極的に参加してくれた。

4―

今年度の資料の収集整理は、コンピュータを使用しての新たな活動に踏み出した。まず「梅根記念図書館所蔵フェミニズム・ジェンダー関係文献目録」の作成を進めたことが挙げられる。和書については九五年度に目録を作成したが、今回はそれ以後の新規受け入れ分を増補したのみならず、洋書目録も追加した。しかも今回は、記載事項をすべてデータベース化し、フロッピー検索が可能なものとした。

年度内には配付できなかったが、九八年度にプリント目録およびフロッピーの配付が可能となった。次に、インターネットによる国内外の情報検索に関する方法の習得をめざして、九八年一月一八日に、斉藤正美(お茶の水女子大学大学院)さんを講師に招いて、「インターネットで探すフェミニズム・ジェンダー情報」の学習会を実施した。学内外の情報収集を今後スムーズに進める条件が整ったといえよう。

(井上輝子)

 

●シンボル文化研究会

シンボル文化研究会は、象徴図像研究会を継ぐかたちで、一九九七年度から、新たなスタートを切った研究グループである。活動の初年度にあたっては、新たな方向性を切り開くことを目ざし、古今東西のシンボルに係わる問題群について、美術、歴史、考古学、民俗学、宗教学、人類学などの学際的な研究領域への拡がりを持つ。以下のように四回の研究報告会を開催し、議論を深めることから出発した。

第一回 七月一二日(土)
 「金枝とは何か」
 前田耕作(研究会代表者)
この最初の例会では、シンボル文化研究会の発足にあたって、これまでも象徴図像研究会で行なってきた「バローチスターン調査」などの具体的なフィールドワークを組み入れつつ、二一世紀の文化を視野に収めた新たな展望のもとで新研究会を展開してゆきたいとの趣旨が紹介された。その後で、イギリスの人類学者フレーザーの古典的名著『金枝篇』冒頭の「森の王」の章で、ネミ湖のディアナの聖所の祭司あるいは聖王に関する不可思議な規定との係わりのもとで取り上げられた「金枝」とは一体何かという点に焦点を合わせ、その宗教的なシンボリスムを明らかにしてゆくという、極めて刺激的な発表が行なわれた。

第二回 一〇月二五日(土)
 「バザールプリントと『母なるインド』」
 中村忠男(立命館大学)
中村氏は、本学の人間関係学科の卒業生で、インドの古代から現代に至るまでのさまざまな宗教的なシンボリスムの問題をフィールドワークを通して調査・研究してきている方である。今回の発表では、現代インドにおけるヒンドゥー至上主義的な運動の形成される過程の中で、力強いヒンドゥー国家を可視化した「母なるインド」を表わす女神の図像が、バザールで売られるプリント・メディアを通じて、全インド、さらにはインド連邦の境界をも越える広がりを持ってきたことが、数多くの蒐集作例を通して分析された。また映画、テレビ、カセットなどを通じて、新たな女神の図像が今なお生成されている状況についても、現代インドの置かれた政治・宗教的な背景とともに、詳細な検討がなされた。

第三回 一月三一日(土)
 「二人のガザーリー」
 甲子雅代(岡山県立大学)
甲子氏は、本学でイスラーム美術について教えておられる方であるが、今回は、「二人のガザーリー」と題し、セルジューク朝期のアブー・ハミード・ガザーリー(一〇五八~一一一一年)、アフマド・ガザーリー(一一二六年没)兄弟について、その生涯や歴史的背景とともに、彼らの神秘思想に焦点を合わせた発表をしていただいた。
詳細な配付資料の中で彼らの思想の核心をなすテクスト箇所の翻訳と解釈とを的確なかたちで挙げながら、アブー・ハミードに関しては、理性によっては究極的真理に到達しえないという理性批判の結果生じた危機から、信仰確立の基礎としての神秘体験の重要性を認識するに至る過程が、またアフマドに関しては、「愛」をめぐって徹底した神秘的な思弁を練り上げてゆく過程が、それぞれ綿密に検討された。

第四回 二月二一日(土)
 「パトス・フォルメルン(情念の定型方式)(ヴァールブルク)をめぐって―ビザンティン(東方キリスト教)美術の世界から―」
 永澤 峻
アビ・ヴァールブルク(一八六七~一九二九年)は、現在のイメージ研究の中で最も影響力の強い「イコノロジー(図像解釈学)」という方法論を確立した人物として知られているが、彼の具体的に探究したイメージ機能の総合的な研究の中で、最も重要な役割を果たしたといわれる「パトス・フォルメルン(情念の定型方式)」という概念については、わが国では十分な紹介がなされてきていなかった。今回の発表では、この概念に係わるヴァールブルクの思索の展開の概括とともに、彼が興味を抱いたモティーフの中で、ビザンティン(東方キリスト教)美術にも見出され「翻る衣襞と髪」や「動きのある身ぶり」に焦点を合わせて検討を行なうとともに、このモティーフの検討を通じてヴァールブルクの着目した「パトス・フォルメルン」の持つ現代的な意義の指摘がなされた。

各回とも、会場は和光大学総合文化研究所会議室で行ない、ほぼ三~四〇名の熱心な参加者を得るとともに、幅広い範囲に及ぶ多数の質疑応答がなされ、充実した例会を行なうことができた。

(永澤 峻)

 

●物語表現研究会

一九九七年度は「電脳世界と〈物語〉」という全体テーマのもとに二回の研究会とコンピューターの表現の可能性を追究している二つの研究・教育機関の訪問見学を行なった。

第一回研究会 六月二〇日
 「電脳と物語」
 講師・上野俊哉氏(メディア論)
作家であり、メディア論に関する著作を持つソル・ユーリックの著作『メタトロン―情報の天使』の紹介をしながら、元来、「文学」が扱って来た〈物語〉〈神話〉などを情報論のサイドから読み直すとするとどんなことが言えるか、という問題と、すべてを情報(メディア)として蓄積・流通させるシステムを確立した電脳世界がいかに文学的手法に頼っているか、という問題―情報と表現に関わる両面からのアプローチ―が呈示された。

第二の文化革命のように喧伝される電子テクノロジーの開発が実は人間が古くから持つ「文学」という記憶装置にかなりの部分負っていることが明らかにされた。これは、「だから文学は偉大だ、新しいものにとびつくなんて愚の骨頂だ」という守旧派の紋切り型に回収されがちだが、先になされなければならないのは、古くからの人間の英知の再生であり、情報氾濫の時代にあって古い酒をどうやって新しい皮袋に馴染ませるかであろう。

上野氏はまたユーリックの著作に引用されたさまざまの文学者の作品(エリオット、プルースト、ディケンズ、メルヴィル、デフォー等々)のメディア論の視点から見た読み直しを試みられた。

メディアの語源であるラテン語のメディウムには「中間、まんなか」の他に「広場、通路」及び「霊媒」という意味があるということに参加者の注意を引きながら、メディア論と文学研究の持つ意外な近親性を指摘された意義深い研究会であった。

 

第二回研究会 一九九八年二月一五日
 「物語のインターフェイス」
 講師・辻正央氏(ゲームライター)
この研究会では、電脳世界の現場に身を置き、かつゲームの〈物語〉を立ち上げるという最先端におられる辻氏(本学卒業生)からどのようにゲームを作り上げていくか、という過程をご自身の経験の具体的な紹介を通してうかがった。アイデアを得るために本を読んで参考にする、というのは予想通りとはいえ、活字メディアが新しいコンピュータ・メディアの古層となっているということをあらためて確認できたことであった。

また次々と新趣向の〈お話〉を考えねばならないし、苦労して作ったゲームが必ずしも受容者に応分に評価されるわけではないことなども“あたり前”だとはいえ、〈物語〉の“商品化”の先鋭化された場として興味深いものであった。商品化された〈物語〉が多く流通することによって私たちの受容感度が鈍化するという事態が生じるとしたら、それを相対化し、世界との新しい出会いをどう創り出していけるのか、「その先」を考えさせられるお話であった。

今年度の研究会は以上の二回であったが、他の活動としてコンピュータによる表現の可能性を追究している二つの研究・教育機関の訪問見学を行なった(八月六日~九日)。

◎インターメディアム研究所(IMI)(大阪)
◎岐阜県立国際情報科学芸術アカデミー(IAMAS)
最新の設備を整え、少人数で初歩の手ほどきからきわめて高度な制作(プロフェショナルなアーティストが長期間滞在するアトリエも完備)まで幅広い制作環境にあるIAMASと、機材など十分とはいえないが、その不自由さを逆に利用して、コンピュータによるマルチメディアの可能性を、ハードの開発の先にではなく探っていこうとするIMIという二機関の取り組みに非常に興味をそそられた。〈物語〉というテーマと一義的に噛み合うものではないが、「その先」の世界を見ることによって、今後私たちが必ずや関わっていかねばならないメディア環境をどのように捉えるか、これこそ新しい〈物語〉の可能性であろう。

最後に本研究会の今年度の活動としては、共同研究所主催のシンポジウム「身体表現とジェンダー」への参加があったが、これは機関誌『東西南北98』に詳細が掲載されているのでそちらを参照されたい。

(杉本紀子)

 

●アジアの教育―研究と交流

一九九七年度に発足した、新しいプロジェクトチームである。結成は前年の秋で、石原、松永が趣意書をサロンに掲示して参加希望者を公募した。非常勤一人を含む教員七名の応募があり、発起人とあわせて九名でのスタートとなった。研究所のプロジェクト設立は本来こうした公募方式が妥当と考える。

従来一般的な個人の任意勧誘方式では、近い研究関心を持つ者がいても参加の機会がなく、メンバー構成の偏りや、勧誘への義理から名だけ連ねるケースも生じ得るからである。現実にこの九名は、研究計画立案から実現活動まで常に揃って積極的に参加し、この方式が可能かつ実効性のあることを実証したといえる。

九七年四月二三日の第一回研究会で、プロジェクトの趣旨、活動内容、予定年限を検討、決定した。趣旨は、
 一、アジアの教育の現状を調べ、歴史的社会的背景の中で理解し、成果を公表する
 二、市民として可能・必要な支援を考える
 三、一と二を日本の大学教育の前進に役立てる
の三カ条である。

研究実施期限はさしあたって五年(一九九七~二〇〇一年)。九七年度の研究活動計画は、(1)現地調査の実施、(2)文献の収集、検討、(3)月例研究会(メンバー各自の関心に基づく問題提起と、メンバー外からの講演とで構成)と、当日まとめの文書にある。

この研究方針に沿って、九七年度の共同研究は進行した。実際に実施した順に、[研究会]、[文献収集、検討]、[現地調査]、[大学教育前進への試み]の四項に分けて述べる。

[月例研究会]
四月二三日の第一回に続き、年間七回行なった。月日、テーマ、問題提起者を以下に記す。
第二回(九七年五月二七日)
 「アジア・太平洋地域からの留学生のカウンセリング」井上孝代
第三回(九七年六月一八日)
 「ラオスにおける社会・女性の今とこれから」石原静子
第四回(九七年七月一六日、学内公開)
 「パプア・ニューギニアの社会と教育―南からの留学生が語る母国の現実と日本―」ファホロ・アントン他一名(東京外語大留学生)
第五回(九七年一〇月一日)
 「イギリスの下層社会の子供たち」松永巌
第六回(九七年一一月二八日、学内公開)
 「パプア・ニューギニアの現状を聴く」熊谷圭知(お茶の水女子大学助教授)
第七回(九八年一月二八日)
 「文学作品に見る中国教育事情」加藤三由紀

[文献収集・検討]
九七年二~三月にチーム結成後最初の現地調査としてメンバー七名がラオス・カンボジアの教育調査を行なった際に、ラオスで一一冊の本(社会調査報告、諸統計資料、写真集、民話など)を購入、検討した。第三回研究会はその一例である。続いて国内で東南アジア諸国、中国等の教育・社会関係文献を購入し、それぞれに検討した。

[現地調査]
第二回研究会で南太平洋地域の状況を知り、第四回に当地域の留学生から直接話を聞いたことが機縁となって、九七年度の調査地域をパプア・ニューギニア(以下PNG と略す)とする案が出た。文献調査を進め、第六回研究会で現地に詳しい文化地理学者の話を聞くなどの中で、この方向は確定し、九八年三月二一~二八日、メンバー五名の参加でPNG調査が実現した。国立研究所にまず行って、目下この国で進行中の教育改革の全容を知り、PNG大学を訪れて改革の一部である遠隔地・継続教育(日本での通信・成人教育にあたる)について調査した。ゴロカ大学(元PNG大学教育学部)では教員養成制度の全容を聞き、市教育委員会の許可を得て県立中・高校と小学校を訪問、授業を参観して子どもと対話し、教員たちと懇談した。北海岸ウェワクで国立高校(日本の旧制高校に似たエリート養成の少数校の一つ)を訪問、中等→高等教育の実状と変容を実見した。
これら教育全般にわたる訪問調査と並行して、モレスビー港辺の海上村、中央高地の民家や少数民族の部落、現地人経営のコーヒー工場などを見学し、人びとの暮らしを見た。ウェワクでは第二時大戦中一五万の日本人が亡くなった戦跡を弔い、平和への想いの中で社会と教育のあり方を考え合った。
これらの調査報告は九八年六月「パプア・ニューギニアの人びとと教育状況」と題する小冊子にまとめて、学内外に配布した。

[大学教育前進への試み]
九七年春のラオス訪問の際知り合った国立大学教育学部の学生と和光大学人間関係学部人間発達学科学生との間で、英語による文通が六月と一〇月の二回実現した。チーム代表石原担当のプロゼミではほかにも、東京外大および和光大学に学ぶ留学生との交流を学生の企画・実施により実現した。共同研究の成果を大学教育に生かす試みが、プロジェクト初年度から始まったのである。

(石原静子)

 

●企業行動分析研究会

今年度の研究テーマは、「中国進出企業における経営システムの研究」である。
この研究のテーマについては、すでに一年前より内々で検討されており、本学研究プロジェクトに採択とほぼ同時に調査方針・調査方法、対象企業の選別基準などが決定できた。しかしながら、国外での調査研究は時間とカネがかかることを痛感した次第である。

さて、以下は主な研究ステップである。

一、資料収集と文献による基礎的研究
中国進出企業概観・類似研究文献の探索・対象企業の特定化(規模別、経営活動内容の把握など)参加メンバー全員による月二回程度の研究会の実施

二、アンケート調査の実施
(1)大連地区 (2)北京・天津地区 (3)上海地区 (4)長江流域地区 (5)広東地区の五カ所、三〇〇社と決定 ここでは、
 ア、進出企業の内特定設置形態(合弁・単資等)偏らないこと、
 イ、進出企業の規模がおおむね類似していること(従業員数等)、
 ウ、現地法人化の時期に注視
以上を留意点として検討した。

三、回答用紙の作成
回答項目の決定およびその評価方法の検討。

四、アンケートの実施およびヒアリング
鈴木岩行氏、谷内篤博氏、金山権氏が担当し、調査方法や時期など細部にわたり検討し実施した。(七を参照)

五、調査の結果評価と報告会の実施
アンケートへの回答企業一〇四社、ヒアリング企業二〇社について分析し、表・図式化をはかり報告書としてまとめることを決定した。

六、報告書の作成
本学研究プロジェクトの研究成果は印刷は個別には実施しない(費用との関係)との申し合わせがあったが、研究会のメンバーなどの好意により発行が可能になり世に問うことができた。その内容は以下のごとくである。
(1)今年度の研究テーマおよび研究概要について――飫冨延久氏
(2)調査研究の概説・分析・評価――鈴木岩行氏、谷内篤博氏
(3)中小企業(製造業)の海外展開の動向と現地化――水口清澄氏
(4)中国における労働組合と共産党組織との関係に関する一考察――金山 権氏

七、調査研究の主な結果とその評価
紙面の都合上以下の点のみにとどめ、詳細は『中国進出日本企業に関する調査研究』を参照されたい。
(1)進出企業の業種――
 機械関連製造業 四五%
 (大連地区 七〇% 広東地区六 四%)
 消費関連製造業 二八%
(2)進出企業の企業形態――
 合併形態 六〇%、単独出資 三五・四%
(3)進出企業の規模――
 一〇〇~二九九人 三四・三%
 三〇〇~五九九人 二二・五%
(4)進出企業の現地法人設立年――
 一九九三、九四年 各一九%
 九五年 二三%
 九三~九五年合計 六一%
(5)進出企業の進出目的――
 現地市場化 四五・五%
 安価な労働力 二八・七%
 関連企業との関連 一九・八%
(6)進出企業が導入している日本型経営――
 経営理念・目標の強調 八八%
 稟議制度 〇%
 小集団活動大連地区のみ 五五%
(7)従業員の採用方法――
 ホワイトカラーは新聞などの一般公募 六七%
 縁故採用 二八%
 (以下複数回答)
(8)採用時重視する特性――
 専門的知識・技能・経験 七九%
 やる気 四九%
(9)従業員の処遇管理として重視するもの―
 能力・業績 八七%
 勤務態度 六四%
(10)解決を迫られている雇用管理――
 労働意欲の維持・向上

さて、この研究報告書は関連する研究者の間で高い評価と支持をえている。たくさんの手紙やファックスをいただいている。またすでに主要文献として位置づけられ、論文にも引用されはじめている。研究の過程では苦労も多かったが、研究成果としてさまざまな方面から評価と激励があり、それを今後の励みとしたい。

(飫冨延久)

 

●多摩(丘陵)地域のフィールドワーク

[新設のプロジェクト]

本研究プロジェクトは、九七年に発足した新設の研究会である。

多摩丘陵地域は、多摩川の南側に横浜・川崎市域までひろがる洪積層の丘陵で、境川をはさんで相模原台地に接する。多摩地域は、東京都の多摩地区を呼ぶばあいが普通で、武蔵野台地がひろがっている。武蔵野台地と比較して、起伏にとみ、谷戸とよばれる浸食谷が発達している。その多摩丘陵地域のほぼ中心部に和光大学が位置している。本学のキャンバスは、東京都町田市と神奈川県川崎市麻生区(岡上という飛び地)の境界をなす丘陵部にある。都県の境界は、地域研究のフィールドを分離する場合が多く、とかく研究の空白部となっている。歴史的にみれば、この多摩丘陵地域は、三多摩が東京府に移管された一八九三年まで、神奈川県に属していた。多摩丘陵地域とは、自然地理的な地域設定であるが、この地続きの武相の地域の研究を行ない、「地域に開かれた大学」「地域に根ざす大学」としての課題・地域研究の在り方を追究する。

[研究計画・方法]

各学部・学科ともに、フィールドワークへの研究的・教育的関心が高く、カリキュラム化されている。また先行研究として鈴木勁介・川添修司両教授による一〇年におよぶ岡上地区研究があり、九一年から九三年にかけて公開講座『都市川崎を読む』が開かれた。大学開放世話人会は九七年度秋から「町田・川崎・相模原を読む」を開講することになった。それらの研究を研究所のプロジェクトに位置づけ、組織的な体制をととのえて発展させることにした。地域研究の対象は自然科学、社会科学、人文科学、表現の総合的なワークとする。また学内研究者はもとより、なによりも当該地域の研究者およびこの地域に関心をもつ地域住民との協同研究化を図ることをめざす。九七年度を萌芽的研究の年度として位置づけ、発足させることにした。

[さしあたっての研究]

(1)地域の人びとから生活史を聞き取り、地域の昭和史(できたら大正期にさかのぼって)を記録する。
(2)多摩丘陵地域の研究機関での多摩研究を調査し、学ぶ。町田市立自由民権資料館などの歴史研関係機関の研究連携を図る。
(3)関係市町村史誌を図書館に揃えるよう働きかけ、協力する。
(4)研究会は、地域の人たちにも公開し、協力を求める。

[研究会での報告・九七年度]

(1)星野 朗氏(成蹊大学講師)「地形図で読む和光周辺の変貌」―日本政府機関が発行してきた地形図から、作成時の多摩丘陵の姿を読みとる。
(2)鶴巻孝雄氏(元自由民権資料館研究員)「武相の自由民権運動」―現在の町田市小野路は武相民権運動の拠点であり、第一回衆議院議員総選挙(一八九〇年)で神奈川県選出議員に当選した石坂昌孝がいた。その武相民権運動と町田市立自由民権資料館づくりについて報告。
(3)原田勝正氏(本学教授)「小田急線と多摩丘陵の都市化」―一九二七年に小田急線が開通した。小田急沿線の都市化と小田急の経営について。

[調査・聞き取り]

(1)町田市立自由民権資料館
(2)町田市小野路の養蚕農家見学。現在町田市内に四軒の養蚕農家がある。旧鶴川村地域ではただの一軒である。八王子市市内「絹の道」見学、小泉栄一氏聞き取り。
(3)岡上の山田岡一氏外の聞き取り。とくに少年期の思い出。

(福島達夫)

 

●情報システムによる教育研究の支援研究チーム

一九九七年度は、1・伊藤武彦報告と2・小林 稔報告の二つが研究発表された。以下にその発表の概要を報告する。

1―伊藤武彦「多変量のグラフ表現」
一九九七年六月一八日

調査や統計のデータや結果を表現するのに、図やグラフを用いる方法は、多くの情報を直観的に理解しやすい方法で示すことができるという長所をもつ。その一方で、『心理学研究』などの専門雑誌では、図はかなりのスペースをとることと、かなりの費用を要することから、厳選して必要なものだけを用いるという編集方針がある(日本心理学会、一九九一年)。また、グラフは表よりも正確な数値を表しにくいという欠点もある。

しかし、今日、学生が卒業論文などにおいて、結果をグラフ表現することは大いに奨励したい。特に、グラフ用紙に直接線画を書き入れていた昔とは違い、パソコンソフトをある程度習熟することにより、誰でも美しいグラフを描くことが可能になった今日、グラフ表現について考察を加えることは意義あることと考えた。

本報告では、グラフ表現のうち、多変量すなわち三つ以上の観測変数があるデータの表現に重点を置いた。人文・社会科学分野では、諸要因が多岐にわたり複雑である場合が多い。質問紙調査で要因間の関係を明らかにしたり、項目間の関係を視覚的に表現することが望ましい。また、コンピュータの性能の発達に伴い、多変量解析法がグラフ表現とともに開発されてきている。まず、複雑な統計的解析前の記述主体のグラフ表現として、散布図・レーダーチャートなどよく使われるものや顔型グラフ・星座グラフ・文字グラフのように新しく工夫されたものを紹介した。次に、統計的解析と結びついたグラフ表現としてクラスター分析とデンドログラム(樹形図)、重回帰分析とパスダイヤグラム、共分散構造分析とパスダイアグラム、グラフィカルモデリング、予測のためのPLSモデリング、CHAIDなどを紹介した。

なお、『和光大学人間関係学部紀要』第二号(一九九七年)、五五~六五頁に、この報告に基づいた論文、伊藤武彦「多変量のグラフ表現」が掲載されている。

2―小林稔「次世代通信ネットワーク事業の経営シミュレーション分析」
一九九七年七月二日

一九九三年二月二二日、米国クリントン大統領は経済活性化と情報・通信分野での主導権を確立すべく「情報スーパーハイウェイ」構想を発表した。この発表を契機として、日本でも光ファイバーによる次世代の高速通信ネットワークの整備を巡る議論が活発に展開されている。しかし、現実の問題としては、次世代通信ネットワークの整備に総額三〇~五〇兆円という巨額の投資が必要である。

一九九四年五月、次世代通信ネットワークの整備について電気通信審議会(郵政相の諮問機関)は約一年の議論を経て「21世紀の知的社会への改革に向けて」と題する最終答申を行なった。この中で次世代通信インフラストラクチャーは、民間主導の整備を中心とし、国の役割は整備の円滑な進展が可能な環境整備、つまり規制緩和や低利融資、地域間格差などを最小限にするなどの政策を講ずることとしている。ただし、この答申では具体的な整備主体については触れていない。また、民間主導である以上、事業の採算性を検討することは不可欠であるし、またその検討結果を基に社会基盤としての次世代通信ネットワークの整備をどう支援していくか、政府の役割が問われるのである。

報告者は一九九五年以降、「情報・通信事業の事業採算モデル」を構築し、次世代通信ネットワークの整備と次世代通信ネットワーク事業の採算性についての経営学的な分析を継続して進めてきた。本報告ではその結果の概要を発表した。分析結果では、二〇一五年に次世代通信ネットワークの普及率が七五%確保できた場合、事業が成立するための目安として、一契約当たりの平均負担額は月間一万四〇〇〇円、一世帯当たりの負担額では月間一万三〇〇円が最低の条件であるとしている。しかし、一九九五年時点の一世帯当たりの通信料は月間五〇〇〇円強であり、次世代通信ネットワーク事業が成立するためには、一世帯当たりの月間負担額一万三〇〇円をクリアする必要がある。本報告では、魅力ある情報・通信サービスが提供されることにより従来からの通信費の予算制約を上方に押し上げることが可能になるのであり、次世代通信ネットワーク上で実現する新規の情報・通信サービスの拡充がより重要となることを示した。

 なお、本報告に基づいた論文は、以下に掲載されている。
1 「次世代通信ネットワークの事業化と費用構造―地域間格差と資金調達金利の検討―」情報通信学会 平成八年度情報通信学会年報(論文集)、一九九七年三月、53~66頁
2 「次世代通信ネットワークの事業化と課題―資金調達金利の影響―」 和光経済 Vol.30 No.1、一九九七年一〇月、73~84頁
3 「次世代通信ネットワーク事業の地域間における費用格差―地域ブロック毎の事業化シミュレーション―」和光経済 Vol.30 No.2・3、一九九八年三月、81~92頁

(伊藤武彦・小林稔)