大学交流

南西アジア文化研究会のパキスタン交流プログラム

和光・バローチスターン大学交流史と新学科

村山和之

 本学非常勤講師

 

美術交流・教育の現場視察を目的とした川添修司教授(芸術学科、南西アジア文化研究会世話役)、南西アジア文化研究会代表である松枝到教授(人間関係学科)、および村山和之、大坪潤子ら本学非常勤講師二名を加えた全四名は、一九九八年八月九日、パキスタン・バローチスターン州都クエッタ(Quetta)に到着した(地図)。ここクエッタでは、一〇年来の交流を続けている国立バローチスターン大学(UOB・University of Balochistan)において、新設されたばかりのバローチスターン研究センター(BSC・Balochistan Study Centre)、および美術学科(Department of Fine Arts)の二学科を公式訪問した。その目的は、両大学教官・学生における学科間交流のアウトライン作りの第一歩としてミーティングをもつこと、さらにこの大学を訪問した初めての外国人美術教授として美術学科の教員や学生と意見・技術交換を試みることであった。

美術学科での詳細については大坪講師の報告にゆずるとして、ここでは和光大学とバローチスターン大学の交流史と、バローチスターン研究センターについてメモを残しておきたい。この学科は新設されたばかりと書いたが、その設立経緯についてまず触れてから訪問の様子を伝えることにしよう。

一九八九年、和光大学・象徴図像研究会がスウェーデンのウプサラ大学やイタリアのナポリ東洋大学等に続いて、初めてこの地に足を踏み入れ、本大学を訪問したとき、パキスタン研究センター(PSC・Pakistan Study Centre)という名前の学科が応対してくれた。パキスタン国内を対象とした研究領域の範囲で修士 M.A.、哲学修士M.Phil.、哲学博士Ph.D.の学位を取ることができ、当時、バローチスターンの文学、言語、民俗についても、この学科に入って勉強することになっていた。

教員たちもそれぞれの分野で国際的に評価を受けていた傑物揃いである(*1)。

現在の学長で経済学者バハードゥル・ハーン・ローデーニー教授をはじめとして、歴史学の生き字引こと旧カラート汗国宮廷大臣アーガー・ナスィール・ハーン・アフマドザイ氏を特別講師に、バローチー語教本の定本とされている 『基礎バローチー語』(*2)を共著で世に出した言語学者故ミール・アーキル・ハーン・メーンガル教授、バローチー文学者として世界的権威でありながら健康上の理由で現在は退官しているアブドッラー・ジャン・ジャマルディーニー教授、詩人としてブラーフィー文学者として著名なナーディル・カンバラーニー教授、パシュトー文学研究者として評価の高いスィヤール・カーカル教授とアービド・シャー・アービド教授らのそうそうたるベテラン陣と、現在のBSCの中心となる当時まだ若手であった講師陣からなっていた。

一九九〇年まで続いた二回の調査は、この学科の教員や事務職員たちの全面的な協力によって予想以上の成果をあげ、人的交流の基礎を強く固めるとともに、『バローチスターン調査概報』(一九九二年、象徴図像研究会)という記念碑的報告書刊行につながった。

一九九一年、元来のPSCを残しながら、民族語文化教育に特徴を持たせた修士のみの新設学科、言語学科(Department of Languages)が誕生し、それぞれパシュトー語専攻、バローチー語専攻 及びブラーフィー語専攻をおいた。後にペルシア語学科(Department of Persian)も新設され、バローチスターンの地で使用されている民族語教育に関しては恵まれた環境を整えるに至った。

UOBの教官たちが、バローチスターンに共存する民族文化研究を押し進めるに当たって、常々、意識していた研究機関の理想が、スィンド州ハイデラバード郊外にある国立ジャムショーロー大学 スィンド学研究所である(*3)。そこではスィンディー語辞書の編纂やスィンド文化に関する書物の発刊、スィンディー民族音楽の記録と出版、研究所内の民俗博物館運営などが行なわれ、自民族文化研究という点ではパキスタン内の他大学に大きく水をあける先進的機関であり、国際的評価も高かった。

当時、言語学科及びパキスタン研究センターの教官たちには「バローチスターンには豊かな文化がある、発掘の余地を残した考古学的遺跡や、言語学的注目もされているのは既知であるけれども、私たちには科学として学問の対象として取り組む技術が欠如している」だから「海外の研究者たちとの共同作業を通して、協力すると同時に新しい技術を学び取りたい」といった願望を常に抱いていた。そして、機会が巡ってきたときは是非バローチスターンの地域文化研究をメインとするアカデミック・センターを設立すべく虎視眈々とねらっていたのだ。

一九九七年年度、前学長であったリアズ・バローチ博士の後任としてPSCの所長だったバハードゥル・ハーン・ローデーニー教授が着任すると、現BSC所長ラザーック・サービル助教授を旗頭として中堅の教官たちが学科新設の申請を行ない、驚くべきことにまさに私たちの目前で学長の内定を取り付けたのであった。

一九九八年、BSCは始動をはじめ、学生を入学させるのは一九九九年度であるが、旧本部校舎の中庭を囲むように博物館展示室、図書室、会議室、セミナー室そして各人の研究室からなるスペースが与えられ、事務室のコンピューターは電子メールで和光大学ともつながっている。

この学科の構成員を見てみよう。所長に、一九九五年、和光大学芸術学科主催のシンポジウムにも招聘したブラーフィー文学専攻のラザーック・サービル助教授、南部バローチスターン・マクラーン地方出身のバローチー文学専攻スブール・バローチ講師、パシュトー文学専攻は前述したアービド・シャー・アービド教授、さらに美術学科から出向してきた芸術専攻のアクラム・ドースト・バローチ講師とバローチスターン諸民族文化について一人ずつの理論系専門教官と博物館事業にも関われる実技系の教官を配している。さらに、出版庶務を念頭に雑誌編集実務の豊富な職員を加えた体制を敷いている。すでに、BSCのリーフレットは発行され、私たち和光大学芸術学科、南西アジア文化研究会の親善訪問が活字となって伝えられていた。

 

和光大学・バローチスターン大学交流年表

―一九八九年、第一回調査

象徴図像研究会(日本私学振興財団資金)

―一九九〇年、第二回調査

象徴図像研究会。共同で祭典・聖地調査(同)

―一九九一年

村山和之個人による訪問、音楽調査

―一九九二年

村山和之、バローチスターン大学留学

―一九九四年

ブラーフィー・アカデミーとの共催で国際シンポジウム、和光大学からは前田耕作、村山和之が招待を受け、村山が発表(クエッタ)

―一九九五年

和光大学シンポジウム「アジア南道の歴史と文化」UOBから二名招聘

―一九九六年、第三回調査

共同作業(文部省科学研究助成金)

―一九九七年、第四回調査

共同作業(同)

―一九九八年

補足調査、中村忠男・村山和之

―一九九九年、第五回調査(予定)

 

バローチスターン研究センター(BSC)訪問

クエッタに到着しバザール内の常宿に荷を降ろすと、到着日を知っているサービル助教授の研究室を訪ね、翌日の大学訪問プログラムの打ち合わせを行なった。学長の希望としては、出張から戻った翌日に盛大にセレモニーを行ないたかったようだが、あいにく私たちの滞在旅程が短く、今回は学長不在ですすめることになった。一一時にBSCを訪ね、ミーティングを行なってから美術学科のアトリエを訪問し教官や学生たちと意見交換する。その後はサービル助教授の自宅で、バローチ民族料理のもてなしを受けることとなった。

八月一〇日、定刻に大学へ到着するとBSCメンバーのあたたかい歓迎を受けた。彼らが駆けつけ一杯のお茶とミーティングの前に私たちを案内してくれたのが、博物館となる展示室であった。そこにはバローチスターン諸地域で出土した考古学的遺物のほか、バローチスターンの民俗文化を物語るさまざまな民具、装飾品、織物、刺繍のコレクションが壁面やケース内に展示されていた。この場所こそ彼らの夢が実現した展示室である。収蔵品は個人寄贈が多いが、バローチ族の資料収集はアクラム・ドースト先生に負うところが大きい。彼自身、バローチ刺繍の大変な蒐集家で、自らの作品の中に刺繍パターンのモチーフを取り入れている。こういうフットワークの軽いメンバーを加えたことはBSCにとって成功であると思われる。

展示室をひととおり案内されたあとは、会議室の長テーブルについてお茶とビスケットが供され、日付を打ったBSCレターヘッドが配られるとミーティングが始まった(*4)。

まず神の御名において開会が宣言され、司会のサービル助教授による歓迎の言葉が述べられ、BSC活動の概要説明がなされた。和光大学からは川添教授が歓迎に対する返礼と訪問の目的が告げられた。言語は英語・日本語・ウルドゥー語が使用され、全体として和やかな雰囲気の中、人的交流プログラムの具体化、技術的相互援助、収集資料の共有化などについて意見が交わされ、今後とも永続的親交を努力しあうという原則を確認しあうことができた。

ミーティングで紹介、討議された内容の要旨を紹介する。

まず、BSCの設置目的については、以下の三柱からなる主旨をあげている、

一、バローチスターンにおける歴史・言語・文化・社会に関するあらゆる研究活動を行なう。

二、調査研究。交流をもとに研究成果を公表し、紀要を発行する出版事業を行なう。

三、急速に失われつつあるバローチスターンの伝統的民俗文化を記録にとどめ後世に伝えるための博物館活動を行なう。

教育機関としては、修士 M.A.、哲学修士M.Phil.、哲学博士Ph.D.のコースを設置する。一九九九年度から学生を募集し、バローチスターン文化遺産に関する国際記念セミナーを開催し、世界中の研究者を招く予定でもあるという。私たちとの共同調査から得た成果としてフィールドワークに重きを置くとも聞く。

新学科として、和光大学に、さらには日本政府援助に対する協力要請もなされた。彼らが自分たちの研究・教育環境を整え、永続的な活動をしていくためにまず必要だと説いたのが、既存の我々教員同士による継続的交流に加えて、人間を育成すること、つまり学生から若手研究者のトレーニングである。それぞれの追究したい主題に沿って、適切な方法や技術を研修させるプログラムのために人的援助がなによりも必要であると痛感している、という。

それに対して、国際交流基金や政府の無償文化協力援助について情報を提供し、可能な限り協力を惜しまないことを約束する。

研究分野に関しては、考古学と博物館学に対して専門の研究協力者を早急に欲している。周知の事実ではあるが、バローチスターンの高原は考古遺跡の宝庫である。インダス文明成立に先立つ集落遺跡が分布し、大学近くのケーチベーグ村では発掘も行なわれた。一歩郊外にでて車を走らせれば、人造の小高い土丘(ダンブ・damb)がたくさんあり、そのほとんどが発掘されていない。ブラーフィー語では、考古学者を意味する言葉に「ダンブを識る者・damb chaok」をあてている。この日常にあるダンブを放っておく手はない。今まで主にアメリカ隊、フランス隊、イタリア隊によってなされてきた発掘調査を、自分たちの手で行ないたい、そのためには考古学の専門家による指導と技術習得が必須である。そして、フィールドで発掘収集した資料をどのように取り扱うかを博物館学芸員に指導してもらいたい。分類はもちろんのこと、保存、修復、展示の方法などすべて学びたい。

これに関しては、趣旨には賛同するが即答を避け、トレーニング・プログラム実現に向けての協力は惜しまないが、具体化するためには実際的な計画が必要であり、見切り発車ではなく実現の可能性が見えるまで新学科としての実績を積んでからの方が、双方とも対等に協力しあえるのでは、とコメントする。

新学科の書棚を飾る図書寄贈の申し出もあった。中でも日本文化に関する資料は何でもよいから寄贈してほしいという。これに対して、少しずつ寄贈していくのは実現するけれど、まず二大学間の交流史に遡って、私たちが共同で作業してきた調査成果や記録した資料を使える形にしてBSCに里帰りさせ、学科の財産として教材として役立ててはどうかという提案を行なった。この一〇年間、バローチスターンでのさまざまな調査活動は、UOBの教官たちの協力なしでは何一つできなかったであろう。おかげで、適切な人脈を、そして写真・ビデオ・テープ・スケッチなどで時代の瞬間を記録した資料を、和光大学の財産とすることができた。そこで、さしあたって一九九六年から九七年にかけて行なった調査で記録したビデオテープを、なるべく手を加えずに、PALシステムに変換ダビングして次回の訪問時に寄贈することとした。同様に、音楽資料はMDやビデオの音源からカセットテープにおこして、写真は希望のものを紙に焼いてそれぞれ寄贈する。それ以外の資料に関しても希望に添って徐々に作業を進める準備があることを明言する。

さらに、新学科の紀要として『Balochistan Review』が発刊される予定で、これに対して英語で寄稿を求められた。喜んでお受けすることにする。和光大学でも、バローチスターンの研究者から三編ほど英語の論文を預かり活字化する準備を進めているので、紀要交換についても打ち合わせをする。象徴図像研究会時代に活字化された報告はすべて日本語であり、少なくとも英語で読みたいという要望にさらされてきた経緯もあって、現在英訳の可能性を探っている時点でもある、と伝える。

和光大学からは、今後の人的交流を永続的なものとすることを特に要請し、近い将来、教員同士はもとより学生間の交流を実現させようと話に花を咲かせた。バローチスターンに興味を持って勉強に来る学生はいつでも歓迎してくれるとのことだ。

 

クエッタ点景

こうしてミーティングは終了し、一人ひとりと握手を交換して次回の再会を誓った。この後、美術学科を訪問し、教員住宅にあるサービル助教授宅で歓迎昼食会に与ることになる。先生は、意識的にバローチ族の伝統的な料理をメニューに入れてくださり、バローチスターン初訪問の川添教授をはじめ私たちをもてなしてくださった。

食布に並べられた皿を覗いてみる。祝祭日にしか作らない手延べ麺料理(maicha)は、短く細いマカロニに近く、甘い味付けがされておりデザートとして食す。フルード(xrud)は羊の乳から作った干しチーズを溶かした独特の香りと味を持つスープで、ナーンをひたしたりご飯に混ぜて食べる。彼らの無意識を流れる遊牧民としての血が、定住して何世代も経過しても、典型的な遊牧民料理フルードを好むのだという。どれも美味しいものだった。

クエッタを離れる前日、私たちは車を借りてラク峠方面へとスケッチピクニックに繰り出した。道を横切る羊の群に減速しながらもクエッタから南へ約二五キロ走って着いたラク峠は、名峰チルタン山の一部だが、峠の最高地点からはすばらしい眺望が得られる。眼下には緑の果樹園とイラン国境へと続く茶色の荒野が入り混じって展開する。荒野はこの地ではダシトdasht と呼ばれているが、「不毛の」という修飾語は必ずしも適切ではない。春は緑、赤、黄色の草原にしてお花畑、そして今回八月の時点でも、スケッチのために停車したダシトのまっただ中に、野生の淡いラベンダーの花をたくさん見つけることができた。さらに一雨あるとダシトの色は一変するのだ。このような季節ごとのダシト花暦は個人的に非常に関心の高いテーマであり、民謡解釈にも民間薬学にも不可避である。

ダシトでのスケッチを終えると、ちょうど収穫時だと聞いていたラグビーボール大メロン(ハルブーザ)の集積所をクエッタ郊外に見学した。メロンの原産地の一つであるとも紹介されたこの地では、広大な市場に多数のダンプが止まり、山積みになったメロンを投げおろしている。辺り一面にメロンの甘い香りが漂い、クッション用の藁と粗末な箱で荷造りが行なわれている。車から一歩でて、メロンを売る男たちに囲まれパシュトー語で捲し立てられていると、大学教室から学問を現場に持ち出そうと試みるBSCの教官たちに敬意を表したくなった。彼らならここで学生になにを見せるのだろう。試しに一つ買ってみることにして「パソールディ?(いくら)」と尋ねる。と、メロンマンは青いボールペンで黄色のメロン皮に「一〇〇ルピー」と直接書きなぐると、うれしそうにこちらに見せてくれた。

バローチスターン研究及びBSCとの交流は、こういう教官たちが現役のうちは途絶えることはまずない、と実感したのはこの時であった。そして今年もまた出かけてゆく。

(写真1)

(写真2)

 

《註》

*1 Bahadur Khan Rodeni, Mir Agha Nasir Khan Ahmadzai, Late .Mir Aqil Khan Mengal, Abdullah Jan Jamaldini, Nadir Qambarani, Siyal Kakar, Abid Shah Abid

*2 Barker, M.A.Rahman & Aqil Khan Mengal 1969 A Course in Baluchi Vol.I. & II. McGill University, Montreal, Canada

*3 Institute of Sindology, Jamshoro University. Sind.

*4 出席者をここに記しておきたい。

The Attendance in the meeting at BSC. on 10-8-98.

[バローチスターン研究センターBSC]

A・ラザーック・サービル Dr.A.R.Sabir (Director/ Brahui)

A・シャー・アービド Prof.A.Shah Abid (Pashto)

A・ハミード・シャーワーニー Lect.A.Hamid Shahwani (Head.Dept.of Brahui)

スブール・バローチ Lect.Subul Baloch (Balochi)

アクラム・ドースト・バローチ Lect.Akram Dost Baloch (Dept. of Fine Arts)

[和光大学 WAKO Univ.]

松枝 到 Prof.Itaru Matsueda (Art History)

川添修司 Prof.Shuji Kawazoe (Oil Painting)

村山和之 Lect.Kazuyuki Murayama (Folklore)

大坪潤子 Lect.Junko Ohtsubo (Art History)

 

美術学科の人びとと・・バローチスターン大学訪問記

大坪潤子 本学非常勤講師

 

クエッタの空港。飛行機が高度を下げはじめたときからモゾモゾと用意したドゥパッタ(被り布。「チャーダル」とも)とサングラスを着け、降り立つ。三度目のバローチスターン。相変わらずの強い日射しと乾いた空気。駐車場でちょっとサングラスをずらし、アスファルトの照り返しを確認してみる。やはり、強烈。こうした強い光や熱、乾燥、排気ガス、塵、そして視線から身を守ってくれるドゥパッタはとても便利なのだけれど、久しぶりに纏うのでコツが思い出せず、しょっちゅう頭や肩から滑り落ちてしまう。

 

バローチスターン大学は、我々の宿泊するホテルからタクシーで一〇分ほどの所にある。広く平坦な敷地を学生たちが本を手に歩み、あるいはオートバイで通り過ぎ、あるいは緑陰で語らっている。薔薇や向日葵の花が美しい。ホテル周辺のバザールではまず見かけることのない女子学生も、二、三人ずつ、笑いさざめきながら行き交う。男子学生にはたまにシャツとジーンズといった洋服姿もみられるが、女子学生は皆シャルワール(ゆったりとしたパンツ)とカミーズ(長袖で丈の長いシャツ)、そしてドゥパッタの「三つ揃い」。さすがにドゥパッタの纏い方がきまっている。二年前に初めてここを訪れたときは、好奇の視線が自分に向けられることに緊張のしどおしだったけれど、今回はこちらが観察する余裕も少しある。

ちなみにパキスタンでは、イスラム圏だからといって、女性が人前ではいつも頭から布を纏って目しか出さない、なんていうことはない(そういう人も稀にいるけれど)。見ていると時や場所(家・学校・街・モスクなど)、世代などによって肌の露出度はまちまちだ。もちろん地域によっての違いもある。首都イスラマバードや商都カラチの街往く女性はたいてい、ドゥパッタは肩に掛けているだけで、ホテルのパーティーなどでの着飾った娘さんたちは堂々と二の腕を見せていた。わたしも今回これらの都市ではドゥパッタを纏わずに外出したこともある。もっとも、大都市であっても夕刻過ぎれば露出度は減るし、モスク内でも然り。

また、一昨年わたしが転がり込んでいた、カラチに住むバローチ族の家でのこと、ある日近所の奥さんが居間に集まって井戸端会議(たぶん。言葉がわからないので雰囲気から察するに)をしていたのだが、窓の外からアザーン(祈りの呼びかけ)が聞こえてきた途端、皆、それまでラフに肩へ掛けていたドゥパッタをきちんと頭から被り、ホストファミリーのお母さんが私のドゥパッタも整えてくれたのである。そして皆お祈りを……、かと思うとそうではなく、お茶とキャンディ片手に会議が続行されたのであった。印象深い出来事である。

さてクエッタでは、概してカラチなどより露出度は低い。外国人(異教)女性であっても外を歩くときはドゥパッタを頭から被るのが良いだろう。郷に入っては郷に従えの言もあるが、宗教的意味合いだけでなく、気候条件に適したものでもあるから、被ったほうが精神的にも肉体的にも楽だと感じられる。

ドゥパッタについての話が長くなったが、こうして現地の女性をしげしげと観察したり、家の中にいる彼女たちと時を共有したりできるのは、女性であるわたしの特権である。男性である同行の先生方には許されない。バローチスターン大学の中でもそれは同じことで、女子学生に出会っても、まずわたしが特権を味わうこととなる。街ではなかなか出会って話ができないこともあり、女子学生と目が合うと、嬉しくなって話しかけてしまう。相手が英語を使ってくれるからなおさらだ。

 

美術学科 Fine Arts Department を訪れるのは三度目になるが、幸運なことに今回は初めて卒業制作展を見ることができた。和光大学のアトリエにも似た自然採光の(といっても光の質がまるで違うから、白壁に反射してとても明るい)、大学二階にある一室で、平面と立体の作品が合わせて三〇点ほど並んでいた。一部の作品には売約済みの札が付いていたから、展示販売も兼ねていたのだろう。(そういえば、以前訪れたイスラマバードやラホールのナショナル・アート・カウンシルでも、しばしば展示作品に値段が付けられていた。ちなみに値段は、卒業制作展では一万円から三万円、アートカウンシルでは二万円から六〇万円といったところ。)

展覧会は、「ファインアート」の学科だけあって、西洋的な「絵画」と「彫刻」で成り立っており、伝統的なミニアチュールや工芸などは無い。そして圧倒的に具象の油彩画が多い。一〇号から一〇〇号程度の大きさで、画材は中国やフランスのものが多いとのこと。モティーフは人物や静物、バローチスターンの風景などで、スタイルはさまざまである。

また、ハザーラ族の女子学生は、虐げられてきた自分の民族の歴史をモティーフとした油彩の大作やブロンズ像を発表していた。立体作品は、大部分が写実・具象の胸像と全身像。石膏着色やブロンズ鋳造で、いわゆる青銅色ではなく、赤銅色が目立つ。昨年訪れたおり楽しく話をした学生が「わたしの従妹なの」と言って粘土をつけていた少女の全身像も、ブロンズとなって会場を飾っていた。ドアの前に置かれた石膏像の顔にも見覚えがある。ぎこちなくデッサンのモデルをつとめていたおじいさんだ。直径三〇センチメートルほどの木材(パキスタン北部から運ばれてくるという。居合わせた人たちは種類を知らなかったが、見たところ広葉樹というところまではわかった)を使った抽象作品もあった。が、それにしても全体に具象の人物像が目立つばかりか、裸婦像も多い。

周知のようにイスラムの教えでは偶像崇拝が禁止されており、厳密に言えば、こうやって人のかたちを再現することは良しとされないし、まして裸婦像なんてもってのほか、のはずである。もちろん、伝統的な細密画には人物が描かれてきたし、美術館やギャラリーでは多くの人物像を観ることができる。けれどもそういった場では裸婦像にはめったにお目にかからないし、あったとしても非再現的なものである。傍らのアビード・フセイン・クレーシー先生に、遠慮がちに尋ねてみた。

「あのう、こうやって人体を表現しても構わないのでしょうか。ヌードもかなりありますけれど」。わたしの質問にクレーシー先生は一瞬目を見開いて、「もちろんまずいですよ。だから……」ちょっともどかしそうである。「だからああいうことになったんです」。

ああいうこと、というのは、卒業制作展会場に来る前にクレーシー先生から聞いた、ショッキングな事件のことである。

クレーシー先生は、パキスタンの古都、パンジャーブ州ラホールの出身。かつてフランスや東京芸術大学の大学院に留学されていたことがあり、帰国後二〇年以上経った今でも実に流暢に、何故か時おり関西弁を交えて日本語を操られる。長い歴史を持つラホールのパンジャーブ大学美術学科で講師をつとめた後、現在バローチスターン大学で油彩画を教えておられるが、パキスタンおよび周辺諸国の美術史にも大変明るく、先年はパキスタン独立五〇周年にあたって新聞にその美術の流れを書かれるなど、執筆も精力的になさっている。初めてお会いしたときには、パキスタンのアーティストに関するわたしの質問に明解に答えてくださり、貴重なアーティクルも下さった。そんなわけで今回もお会いするのを楽しみに教室へ向かうと、先生は開口一番「このあいだ、大変なことがありました」と、沈んだ面持ちで言われる。わたしは最初、このバローチスターン州で行なわれた核実験のことだろうと思ったのだが、さにあらず、学内に置いてあったクレーシー先生の作品群が、何者かによって火をつけられたというのだ。先生の指さす方を見ると、昨年この教室の壁を飾っていた絵が、半焼の痛々しい姿をさらしている。すでに警察による取り調べはおこなわれたが、さまざまな事情により、先生の心を多少なりとも慰める結果にはならないらしい。わたしは困惑しながら炭化したキャンバスを見つめて「それは……お気の毒なことでした」と言うしかなかった。

先生の絵が被害にあったのは、ご自身が言われるように、モティーフの問題が原因の一つなのだろうが、単純にそれだけとは言い切れない複雑な問題が背後に絡んでいるようでもある。卒業制作展には、クレーシー先生の教え子のものであろう、半分黒焦げになったキャンバスを描いた作品が出品されており、無言のメッセージを発していた。

 

アトリエを案内してもらった後、川添先生が制作を披露することになった。さっそく低めのテーブルが用意され、川添先生が持参した紙や筆、墨汁、水などを次々と鞄から取り出すうち、学生が興味津々の様子で集まってくる。まずは川添先生の長年のモティーフである、うごめく生命のような形の連続を、そして目の前に立つアクラム・ドースト・バローチ先生の顔を、合わせて二点、一五分ほどで描き上げると、取り囲んでいた学生たちから拍手がおこった。実際には存在しないかたちを描くこと、人物の顔かたちを一本の線で決めていくこと、そして画材そのものも新鮮だったのではないだろうか。

モデルを務めたアクラム・ドースト先生は、学生からしきりに絵と比較されて、いつも厳しい表情を崩さないのが、少し照れた様子。この先生はバローチスターン出身で、奥様と共にバローチ刺繍の収集を続けておられ、自作の木版画や油彩画には、刺繍の形や色が採り入れられるなど、バローチ族としてのアイデンティティを強く意識させるものが多い。一九八九年に福岡市美術館が開催した「第三回アジア美術展」では、パキスタン代表六人のうちのひとりとして選ばれ、三点の作品とともに日本国内にも紹介されている。

ちなみに、この六人のうち二人は女性の作家であるが、パキスタンでは女性作家の活躍や美術を学ぶ女子学生が目立つ。バローチスターン大学でも、いつ来てもアトリエでは女子学生が熱心に制作をしている。

しかしこれは必ずしも彼女らが社会で自由に創作活動をしやすい状況にあることを意味しないという。むしろ、抑圧された存在として、社会に対し強いメッセージ性をもつ作品を懸命に発表しているか、あるいは、イギリスの統治下で創設された、ラホールのメイヨー美術学校(現ナショナル・カレッジ・オブ・アーツ)が「政治や産業と無縁の」学校として当初女性のみを入学対象としていたように、あたりさわりのない教養として、嫁入り前に教育を受けさせてもらっている、といった両極(もしくは表裏)を看て取ることもできようか。わたしが女子学生とばかり話をしたくなるのは、「特権」を行使したいだけでもなく、彼女らの笑顔が魅力的であるためだけでもない。

ところで、これまで日本においてパキスタンの美術がどれだけ紹介されてきたかといえば、実に寂しい状況であることはすぐにご想像いただけると思う。「現在パキスタンと呼ばれる地域の」「造形遺物」は、ガンダーラやモヘンジョ・ダロなどのものが有名で、実物や図版を目にする機会もしばしばある。

けれども字義どおり「パキスタンの」「美術」と言ったとき、その約五〇年の歴史と現状は、ほとんど日本に紹介されていない。わたしの知る限り、協会誌などを除く一般向けのメディアとしては、一九五六年二月号の『美術手帖』(美術出版社)が「パキスタンの美術と生活」と題する、当時のパキスタン美術界について触れた一文を掲載した程度だ。さらに作品を目にする公の機会はと言えば、先述の「アジア美術展」が今までのところ唯一のものといえそうだが、その記念すべき第一回展の図録では、参加した十三カ国の内パキスタンだけ、残念なことに作品図版が抜け落ちている。期日までにパキスタンから写真が届かなかったためだという。

その後、福岡市美術館のたゆまぬ努力や九〇年代に入っての「アジア現代美術」(これは少々乱暴な括りだけれど)への関心の高まりの中で、インドとの分離前にラホールやカラチで生まれ、その後欧米で学び活躍するアーティストが何名か来日して新作を発表してはいるが、パキスタン国内の状況については、まだまだ情報は充分とはいえない。もちろんパキスタンにおける日本の美術情報も決して多くない。

表現が多様化している今日、数名の作家の幾点かの作品によってその国の美術全体を評することは出来ないが、地道な交流をひとつひとつ積み重ねてこそ、いずれ広くを見渡すことも可能になるのではないだろうか。

 

今回、川添先生がクレーシー先生とアクラム・ドースト先生に自作の絵を贈られたが、両先生ともたいへん喜ばれ、返礼として私たちめいめいに、それぞれの描かれた絵を持たせてくださった。一九九九年一月には和光大学図書館内で、川添先生が今回の交流中に描いたスケッチをベースに、報告を兼ねた展覧会が開かれる。バローチスターンからやってきた作品も、併わせて披露することができるだろう。土丘(ダンブ)ならぬ岡上の地で、彼の地に想いを馳せていただけたら、と思う。