芸術学科公開講座

南ウズベキスタンにおける仏教遺跡の考古学的調査

ドミトリー・ルサーノフ

 タシュケント芸術科学研究所研究員(考古学)

 

現在のウズベキスタン共和国は、旧ソ連領中央アジアの中央部から北部にかけて位置する独立国です。ウズベキスタンには原始、古代、中世にかけて遺跡が数多くありますが、その形成や発展においては隣接する国々であるアフガニスタン、インド、イラン、そして中央アジアの様々な国々と密接な関わりがあります。ウズベキスタンの多くの遺跡は人類の歴史、文化を保存しています。ウズベキスタンにおいて、歴史的に発展を遂げるのに大きな意味があったのは地勢的な便利さです。このような便利さを備えたのがサマルカンド、ブハラ、テルメズ、フェルガナで、これらの都市は常にシルクロードの要衝でした。キャラバンの道に沿って芸術や文学などももたらされました。商人とともに旅行者や芸術家が訪れてきたのです。

ウズベキスタンの最も南の州はスルハンダリヤ州です。この名称はそこを流れる川の名にちなんでいます。この行政上の州はテルメズを州都としています。スルハンダリヤ州は東西一四〇キロメートル、南北に二〇〇キロメートル延びており、全体の面積は二万平方キロメートルあります。州の西側はクギタング、バイスンタウなどの山々、東側にババタグ山、北と北西側にヒッサール山脈、そして南に中央アジア最大の川アムダリアが流れ、自然の障壁となっています。ここでは、独特の地形と恵まれた気候によって、早い時期から人間の居住が促進されました。彼らの芸術を残している最も古い遺跡は中石器時代のものです。この遺跡はテルメズから北へ一〇〇キロメートルのザラウト・サイという山の渓谷にあります。そこにはたくさんの岩壁画がオーカー(黄色土)で描かれています。

次の青銅器時代(紀元前三千年紀末〜前二千年紀)には集落が出現します。紀元前一七五〇〜一五〇〇年頃には山麓の小さな河川の流域に複雑な構造を持った集落が発生するのです。それらの遺跡がサパリ・テパ、ジャルクタンです。

最初の国家の出現は、南ウズベキスタンでは紀元前八〜七世紀になります。この時期の集落は、クィズィル・テパ、ダンディハン2などの遺跡にみられるように規模が大きく、複雑な防御システムを施した内城をもちます。このことから、都市の建設が中央集権的な国家の力のもとにあったことが推測できます。この時期は歴史学では初期鉄器時代と名づけられています。鉄製品はクチュク・テパやキジルチャという遺跡の紀元前五〜四世紀の層から発見されています。紀元前四世紀にはこの地域でテルメズやダルヴェルジン・テパのような都市が築かれるようになります。都市建築に使った材料は土、木材、葦、石などです。

ところで現在パキスタン、アフガニスタン、タジキスタン、トルクメニスタンなど語尾にスタンとつく国はイスラム教徒の国家であると理解されていますが、ウズベキスタンもその例にもれません。住人のほとんどはイスラム教を信仰しています。しかし、それはずっと昔からのことではありません。イスラム教が主要な宗教となる以前に、中央アジアにはさまざまな信仰があったのです。

それを伝えてくれるのがダルヴェルジン・テパで発掘されたさまざまな寺院です。たとえば女神ナナの神殿や、土器製作工房地区にあるバクトリアの女神の神殿、城壁の外側と内側にある二つの仏教寺院などです。クシャン朝の保護の下で仏教は広まりましたが、仏教が国教であったかどうかは未だ不明です。

ウズベキスタンでは、仏教に関係する遺跡が現在まで一九カ所発見されています。その大部分は南ウズベキスタンに分布しています(図1)。このうちで主要なものについてこれからお話していきたいと思います。

 

南ウズベキスタンの仏教研究は一九二六〜二八年に始まりました。この年、デニケは古テルメズ近くの仏塔(ストゥーパ)の考古学的調査を行ないました。この巨大な建造物は学術的には「ズルマラの塔」と命名され、その後、多くの研究者の研究対象となりました。A・C・ストレルコフ、B・N・ザスィプキン、B・A・シシキン、M・E・マッソン、L・I・アリバウム、G・A・プガチェンコワ、Z・A・ハキモフなどの研究者です。

研究の次のステップとなったのは一九三二〜三三年の発見でした。アイルタムの都城址から楽器を持った人物の彫刻(フリーズ)が発見されたのです(図2)。その後の調査によって、ここで発見された石製品の性格が明らかになりました。これらの石製品の中には、小型のストゥーパと思われるものや巨大な建造物の中に位置していた仏教聖堂を飾っていたアラバスター製の彫像の破片などが含まれています。

戦後、一九四六年にウズベキスタンの仏教遺跡の調査が再開されました。ソヴィエト連邦にあった学術センターがウズベキスタンに研究者を派遣したのです。これらの機関がエルミタージュ美術館、東方民族芸術博物館、ソ連邦科学アカデミー考古学・民族学研究所です。二〜五世紀に属する仏教の中心地の発見とそれらの遺跡の長年にわたる調査によって、カラ・テパは中央アジアで仏教が最も栄えた場所の一つであることが確認されました。この遺跡ではモスクワとサンクト・ペテルブルグの研究者の努力によって一九九四年までに石窟と中庭の複合体が一〇グループ発見されました。砂岩の丘にはアーチ形天井を持つ回廊状の部屋が掘り込まれ、その前面のひらけた場所には日干しレンガで中庭付きの建物が造られていました。中庭の周囲には屋根付の回廊がめぐり、その屋根は石製の柱礎を持つ柱に支えられています。壁の表面には漆喰が塗られ、その一部には壁画が描かれていました。何人かの研究者は、建築物の装飾である壁画の断片や彫像などの興味深い資料を紹介しています。建築と仏教美術の芸術性の高さは、カラ・テパが中央アジアにおける仏教の中心地の一つであったことを示しています。

仏教の伝播によって、この地域に新しい建築形態が出現しました。これが僧院です。この僧院を完全な形で残しているのが、古テルメズ内のカラ・テパ付近に位置するファヤズ・テパ遺跡です(図3・4)。この建造物のプランは三つの区画に分かれ、伝統的なバクトリアのスタイルを持ちます。これは中庭を囲むそれぞれの部屋が全て中庭に向かって開いた入り口を持つというスタイルです。こうしたプランを持つ僧院は宗教的活動のみならず、居住空間としても機能的であったと考えられます。

中央アジアの仏教の歴史にとって重大な意味を持つのはスルハンダリヤ川中流域の低地における調査研究の実施です。このような研究を行なってきたのがタシュケントの芸術科学研究所で、その対象となったのがダルヴェルジン・テパでした。

ここではすでに都城内で二つめの仏教建築が発掘されています。この建物址は完掘されていないため結論を出すのはまだ早いのですが、これまでの成果によってこの遺構の性格を確定することができます。

最近になって、喜ばしい動向がみられます。それはウズベキスタンの遺跡において国際的な共同調査が行なわれるようになったことです。フランス、日本、ドイツ、ポーランド、イタリアなどの参加によって最新の発掘技術が用いられるようになり、発掘における多くの問題が解決されるようになりました。

早くからウズベキスタンとの学術的共同調査を行なった国の一つは日本でした。一九八九〜一九九四年に行なわれたダルヴェルジン・テパの仏教寺院の共同調査では、大きな成果が上がっています。この調査はタシュケントの芸術科学研究所と日本の創価大学が企画し、橿原考古学研究所の協力を受けて行なわれたものです。調査によって寺院のかなりの部分の平面構成とその建築物が明らかになり、粘土や石膏製の彫像、土器、青銅器、鉄器が発見されました。仏教遺跡の建物群を覆っている文化層の研究は寺院の年代決定に重要な意味を持ちます。仏像の図像学的研究と出土品の研究によって、この寺院はクシャン時代後期に属するものであると推定されています。次のクシャノ・ササン時代(三世紀中頃〜四世紀中頃)には、廃棄された寺院の上に別の建築物が建てられています。

順調にスタートした学術的な共同研究は現在も続けられています。一九九六年初めにはタシュケントの芸術科学研究所と日本の鎌倉にあるシルクロード研究所の間に共同調査の約束が交わされました。それに基づいて、一九九六年九月にはダルヴェルジンのチタデル(内城)で発掘が開始されました。日本―ウズベキスタン調査団の構成は次の通りです。日本側の団長は金沢大学の田辺勝美教授で、古代オリエント博物館やその他の学術機関の研究者が参加しています。ウズベキスタン側の団長はウズベキスタン芸術科学研究所のバハディル・トゥルグノフ研究部長です。調査の課題の一つはチタデルの年代決定、そして、もう一つは北バクトリアで二番目の規模を誇るダルヴェルジン・テパにおける仏教の出現と伝播の時期を明らかにすることです。

一九九八年春には仏教建築群であるカラ・テパの調査が再開されました。この調査団は加藤九祚氏によって組織されました。ウズベキスタン側からはサマルカンド考古学研究所とタシュケントの芸術科学研究所のスタッフが参加しました。この調査ではカラ・テパ北丘における仏塔の発見に成功しています。

 

ここからスライドを交えて、いくつかの遺跡についてお話します。

―ズルマラの塔

これが先程説明しましたズルマラの塔です(図5)。日干しレンガと練土で造られています。基壇は約九×八メートルです。調査の結果、塔の中に更に小さな塔があることが確認されました。塔の表面には漆喰が塗られ、赤く彩色されていました。

 

―カラ・テパ

カラ・テパという仏教建築群です。アムダリヤ(アム川)の傍に位置しています。この遺跡は北丘、西丘、南丘の三つの部分に分かれています(図6)。現在までに西丘と南丘で岩窟寺院が確認されており、北丘では僧院が見つかっています。また、岩窟の前面には中庭があります。こちらは岩窟の内部の写真ですが(図7)、漆喰が塗られているものもあれば、その上に彩色が施されているものもありました。また、壁面には壁龕が掘られ、ランプが置かれていました。

次に南丘です。この部分は最も調査の進んでいる地区です。岩窟部分とその前面にある中庭の複合的な構造をみていただけるでしょう。いくつかある中庭の一つでは、床面に絵が刻まれていました。この絵には花瓶とそこに入れられた三本の花、二つの卍文が表現されています。

また、それぞれの岩窟の入口部分には、入口の一つ一つを隔てる日干しレンガの壁(ピロン)が構築されていました。九八年の春には、この日干しレンガの壁が雨で著しく崩壊しました。また、土の中に埋もれた仏陀の座像も発見されました。芯は粘土で作られており、表面に石膏が塗られ、更にその上に赤色塗色が施されています。

こちらは寺院のプランです。ゼイマリという学者によって発掘調査されました。興味深いのは丸天井の部屋です(図8)。中央アジアにおける丸天井の構造物としては最も早いものの一つ(二世紀〜五世紀)になります。

日本との共同調査によってこの寺院の調査が続けられています。この調査では一三×一二メートルの日干しレンガの基壇が確認されました。基壇は二段構造です。更に、この中から小さなストゥーパが検出されました。現在までの調査によれば、基壇だけでも高さが四メートルあると考えられます。周囲で出土した石板は階段などに使用されたと考えられます。今のところ、九八年に調査されたストゥーパとそれ以前に調査された建築物との関係については明確になっていません。

次にこの遺跡から出土している石製の加工品ですが、これらは建築部材として使用されたものと考えられます。加工部分と未加工部分がありますが、この未加工部分を日干レンガの建造物に入れ込んで、加工された部分だけが表面に見えるようにしていたのでしょう。同じ様な石製加工品はズルマラの塔でも出土しています。また、湾曲しているものは、円筒形もしくは半円形の日干しレンガ建造物(ストゥーパなど)の壁面を飾っていたものでしょう。石製の柱礎も見つかっています。

―ダルヴェルジン・テパ

次は、古テルメズに次ぐ大きさを持つ都城址ダルヴェルジン・テパです(図9・10)。チタデル(内城)と下町(シャフリスタン)に分かれています。

この遺跡では、城壁外で仏教寺院が発見されています。発見された当初、既にかなりの部分が壊されていました。この仏教寺院ではストゥーパの周囲を回廊状の部屋がめぐっています。この部屋の中で崩壊した多くの塑像が発見されました。クシャン朝王侯の頭部といわれる像(図11)、供養者の像などもここから出土しています。

また、この遺跡では城壁内でも仏教寺院が発見されています。この寺院址では、時が経つにつれて部屋の使用状況が変化していく様子が観察されます。最後の時期には、ある一つの部屋でのみ宗教的な活動が行われるようになるため、そこにさまざまな像が集められました。その部屋からは最も大きな仏像が出土しました。その他、菩薩像や供養者の像なども出土しています(図12)

 

―ザル・テパ

最後は、ザル・テパという都城址です。ここでは二つの仏教建築が確認されています。一つは小聖堂で、像が発見されています(図13)。もう一つは都城址から二五〇メートルほど離れたところに位置するストゥーパです。特に興味深いのはこのストゥーパに隠穴が掘られていることで、その中から五〇三枚のコインが発見されています。クシャン朝時代最後の王のコインでした。これらのコインから、この遺跡は三〜五世紀のものと考えられます。

 

最後に南ウズベキスタンの仏教遺跡についてまとめますと、この地域の遺跡は、トルクメニスタンなどの西方へ伝播していく出発点となったと考えられます。僧院やストゥーパにおける仏教建築の新しい様式は南ウズベキスタンで生まれ、更に西へと広がっていったのです。

通訳=近藤さおり(都立大学大学院)

 

注・遺跡が埋もれて丘状になったものを「テペ」と通称するが、ここでは現地音である「テパ」のまま表記した。