「満州国」成立後の戦略体制と鉄道建設

原田勝正

 経済学部教授

 

本稿は「日本の中国東北支配における鉄道の軍事的利用とその機能」(全三章)の第二章にあたる。この論文は、一九三一年九月の柳条湖事件以降、一九四五年八月の敗戦まで、傀儡国家「満州国」における鉄道の軍事的利用の推移を通じて、それが鉄道本来の輸送機能をいかにゆがめたかという鉄道史研究の課題を解明することを主な目的としている。しかし、それと並んで、中国東北を支配した関東軍の軍事支配の実態、これに抵抗する「反満抗日」闘争、また関東軍と南満州鉄道株式会社との対立など、中国東北支配が生み出した植民地支配史の問題にも触れることを意図している。

ちなみにこの論文の章建てを挙げると、次のようになる。

第一章 中国東北駐屯日本軍隊と作戦輸送

第二章 「満州国」成立後の戦略体制と鉄道建設

第三章 軍事輸送力の整備と崩壊

このうち第一章は『鉄道史学』第一三号(一九九四年一二月二〇日)に発表した。第三章は一九九九年三月までにまとめて完成させる予定である。

なお本稿は、文部省科学研究費補助金(基盤C、一般)による「日本における鉄道の軍事的利用に関する研究」の一部である。

一、関東軍による「満州国」の鉄道支配

1―中国東北への兵力集中輸送体制

第一章で、一九三一年九月一八日軍事行動開始直後における軍事輸送の概要を取り上げた。この軍事輸送は、中国東北全土における支配権確立のための戦闘行動を前提とするもので、一九三三年春の熱河地方占領まで、この方式による軍事輸送が繰り返された。その全体の規模は、当時、軍事輸送の中心として位置づけられていた奉天駅における取扱量の集計から推測することができる(*1)。

日本国内におけるこの軍事行動にともなう鉄道の軍事輸送について見ると、一九三五年まで、兵力の派遣・帰還について参謀本部の発した命令(臨参命=臨時参謀本部命令)は二四件に達し、準戦時体制というべき状況となっていた。

移動の規模は大きく、師団の派遣・帰還それぞれ七件、混成旅団、独立混成旅団の派遣五件帰還三件、騎兵旅団派遣三件(帰還なし)となっている。

このうち、一九三二年四月五日臨参命第二〇号による第八師団、第一〇師団派遣の場合、兵員合計六六〇〇名、馬六〇〇頭、また一九三二年第六師団派遣のさいは、兵員五五〇五名、馬六三五頭となっていて、それぞれの場合に一定の数量が認められているとはいえないが、師団の派遣・帰還で約七万名、馬約八〇〇〇頭、器材一団約一万トンとして、約一四万トンという数量が考えられる。また旅団の場合、一九三四年四月一六日臨命(臨参命にもとづく具体的指示)第二一〇号独立混成第一旅団派遣の場合には兵員二五八七名、馬はないが車両九七両となっている。

これらの臨参命による鉄道輸送は、中国東北に限って見ても一九三一年から一九三六年二月までに二五件に達していて、日本国内、朝鮮、中国東北それぞれの鉄道輸送、日本国内と朝鮮、中国東北との船舶による連絡輸送に大きな負担がかかっていった。

この輸送の実態を明らかにすることのできる史料はまだ発見できないが、輸送ルートの概略を見ることはできる。すなわち、日本国内における出港地(帰還の場合、入港地)は、大阪、宇品が中心で、局部的に、青森、船川、舞鶴、門司、長崎がこれに加わる。朝鮮の場合は釜山が中心で、まれに馬山が加わる。さらに、これが新ルート設定の契機となるのだが、清津、羅津、雄基が、日本海ルートの要港湾拠点として登場してくる。また中国東北との直接の航路輸送の場合は、大連が入港地(帰還の場合は出港地)となっている。

このようにして、日本国内と中国東北とを結ぶルートは、朝鮮海峡を渡る釜山ルートが第一に挙げられ、これが主要ルートとなっていた。第二のルートは、大連との航路輸送ルートである。そして、これに日本海沿岸とのルートとして、清津などと結ぶ第三のルートが登場する。この第三のルートは、羅津の築港により、新潟・羅津間の定期航路をふくめた新ルートを構成することになる。

すなわち、柳条湖事件以降の軍事輸送は、この三つのルートを並列して使うという態勢を成立させた。この場合、各ルートの鉄道輸送距離を見ると次のようになる。

[1のルート]

日本国内

高崎・品川   一一二・七

宇都宮・品川  一一七・二

松本・品川   二五一・九

水戸・品川   一三七・二(日暮里・新宿経由)

品川・大阪(浪速)五五五・六

品川・宇品   八九三・九

品川・下関  一〇九一・三

富山・大阪   三五七・三

富山・宇品   四四四・四

朝 鮮

釜山・新義州(安東)九四七・二(九四九・八)

中国東北

安東・奉天   二七五・八

安東・新京   五八〇・六

安東・哈爾浜  八二二・六

航 路

下関・釜山   二四〇・〇

[2のルート]

日本国内(1参照)

中国東北

大連・奉天   三九六・六

大連・新京   七〇一・四

大連・哈爾浜  九四三・四

関連航路

神戸・大連  一五八一・六

門司・大連  一一三五・九

[3のルート]

日本国内

盛岡・青森   二〇四・七

盛岡・船川   四二八・一(青森経由)

富山・舞鶴   二三八・〇

松江・舞鶴   二九八・二(福知山経由)

朝鮮・中国東北

雄基・新京   六八五・五

清津・新京   六六〇・五

関連航路

敦賀・雄基   九八一・‐

新潟・羅津   九七五・‐

 

以上のような日本国内と中国東北との輸送ルートの確保だけでなく、その距離の短縮のためにも中国東北内部では、一九三二年以降積極的な新線の建設が実施された。その建設は、関東軍の対ソ侵攻作戦、ないしはソ連による侵攻にたいする防御作戦における軍事輸送に備えることを第一の目的としていた。

この建設については次節で述べることとするが、このようにして、中国東北における鉄道の軍事的利用は、柳条湖事件以降二つの機能を要求されることとなった。すなわち、第一に日本国内と中国東北との連絡輸送態勢の確立、そして、第二に中国東北内部における兵力輸送のための線路網の整備とその利用態勢、この二つである。

本章では、以上の二つの機能のうち、新線建設の計画とその実施の推移とを概観し、その戦略的意味を考察する。そして、これら各線における輸送力強化の方策がどのようなかたちをとって実施されたかを見ることにする。

 

2―関東軍の戦略と鉄道支配の意図

中国東北における日本陸軍の戦略態勢は、日露戦争後、一貫してロシア(革命後はソビエト連邦)にたいする進攻または防御というように、ロシアを前提として成立していた。それは、一九〇九年の帝国国防方針において、アメリカ合衆国と並んでロシアが仮想敵国とされていたことから、基本的な戦略として確立していたと考えられる。

中国から租借権を得た関東州における陸軍の組織が一九一九年に関東軍として独立したのち、中国革命の進行に対抗するための戦略を具体化する課題が大きな意味をもつようになったが、その場合、関東軍内部で、ロシア(ソ連)に対抗するための兵力輸送は緊急の課題として取り上げられていた。その課題解決のために、長春以北の中東鉄路だけでなく、中東鉄路を使うことができない場合の兵力輸送路の確保のために、関東軍は一九二四年満蒙五鉄道改築要綱を立て、いくつかの路線を建設する計画を立てた(*2)。

もちろん、兵力輸送を表面の名目に掲げてはいなかったが、その建設区間その他から、関東軍の戦略体制や作戦計画を十分に読み取れることのできるものであった。さらに、一九二七年一〇月田中義一首相は山本条太郎満鉄総裁を仲介として、張作霖に五つの路線の建設権を認めさせた。この、いわゆる「満蒙五鉄道」は次の通りである(*3)。

1、敦化・図們江江岸

2、延吉・海林

3、吉林・五常

4、長春・大賚

5、南・索倫

さきの満蒙五鉄道政策要綱とこの五鉄道建設案とは相互に重複している区間があって、その間に関連があると思われる。すなわち北西部大興安嶺への兵力輸送(南・索倫間、長春・大賚・安達間)、日本海ルート・朝鮮北部・中国東北北部への兵力輸送(図們・敦化、延吉・海林)など一九二〇年代後半における参謀本部の戦略が、これらの計画に反映している。

柳条湖事件ののち、関東軍は中国東北全土支配のための軍事行動を展開し、日本政府は「不拡大」方針を掲げながら、この行動を容認していった。そして、一九三二年三月一日、清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀を執政とする傀儡国家「満州国」が建国宣言を発した。この「国家」は「独立」による意思表示手続によって、日本側に一定の措置の委託を提議する「自発性」を規定されていた。この方式は植民地支配のあらたな典型をつくりだしていくものであったが、それによって政治・経済・軍事などすべての分野について日本側が「委託」による権限行使を保証されることが可能となった(同年九月一五日、日満議定書として定式化)。

交通についても同様であった。三月一〇日執政溥儀は、関東軍指令官本庄繁に書翰を寄せ、「満州国」の国防、交通については、日本側が「満州国」政府の委託を受けてその運用に当たることを求めた。これを「承諾」する旨の関東軍指令官の回答は五月二二日に発せられている(*4)。

しかし、この間閣議は四月一五日、この「委託」について承認を与え、四月一九日関東軍指令官と満鉄総裁との間に「鉄道港湾河川ノ委託経営竝新設等ニ関スル協定」が結ばれ、さらに満鉄にたいする最高権限をもつ拓務大臣が五月九日には許可指令を発している(*5)。政府はいちはやく、執政による「委託」にたいする事実上の承諾を与えたのである。これにもとづいて関東軍指令官は八月二〇日、満鉄にたいして指令を発した(*6)。この指令は、建設する線を全面的に軍事輸送線として規定していた。

しかし、これにたいし、さきの四月一九日の協定を無効とすべしとする主張が満鉄内にはあった。それらは関東軍の姿勢にたいする不信感や不満の欝積をうかがわせるものがある(*7)。この不信感や不満には、この問題をめぐる関東軍側の姿勢がかなり大きな原因をなしていたと思われる。すなわち四月一九日の協定には、関東軍が鉄道港湾河川の経営について指揮監督権を持ち(第三条)、したがってこの建設計画とその実行に当たっても、軍事上必要な指示を発し(第一二条)、また将校を配置すること(第一三条)、強い監督権を持つこととなったこと、さらに満鉄は別に協定する金額を日本政府に納入することとされ(第一〇条)、これは別の協定により、経営にかかる利益金から一九三三年度以降年間七〇〇万円が支出されるものとされたが、この納入金の使途は、四月一五日の閣議決定「満州国鉄道港湾河川ニ関スル処理方針」により、「守備ノ為満州国ニ駐箚スル国軍費用ノ財源ニ充当スルコト」とされていた。政府自体が交通手段によって得られる利益金から関東軍の費用を賄う体制を認めていたのである。

それだけではなく、四月一九日協定締結の当日に、関東軍指令官と満鉄総裁との間に上記のものと別の協定が結ばれ、本協定第一〇条にもとづき一〇年後あらたに協定を結んで、一、兵営その他設備のため一億円を支払うこと、二、経常費四九〇〇万円を支払うこと(支払い時期について記載なし)が決められた(*8)。この金額は合計一億四九〇〇万円となり、さきの一九三三年度年間七〇〇万円を仮に一〇年間支払う場合の二倍以上に当たる。

満鉄社内には、四月一九日の協定(社内ではこれを「軍満取極」と呼んでいた)は、関東軍指令官にその権限はないから無効であり、あらためて日本政府と満鉄との取極め、満鉄と「満州国」政府との間の協定を成立させるべきであるという意見を述べる者がいた(*9)。さらに九月七日鉄道部では、前記拠出金は「満州国」政府が負担すべきものであり、一九三三年度七〇〇万円の支出は不可能であるという返電を関東軍指令官、拓務大臣に発送すべしとしていた(*10)。

これらは、同年八月七日関東軍指令官と「満州国」国務総理(鄭孝肯)との間に「満州国政府ノ鉄道、港湾、水路、航空路等ノ管理竝線路ノ建設管理ニ関スル協約」が締結されたことを受けたかたちのものであるが、この八月七日の協約にしても、外交権を持たない関東軍指令官が協約主体となることは不可能であり、関東軍の越権行為は柳条湖事件以降つづいていて、しかも日本政府はこれにたいして何らの規制を加えていないとするものであった。このような事情から満鉄の当局者が不満を抱いたと考えられるのである。

 

このような対立にもかかわらず、建設線は決定され、計画は実行に移されていった。まず、四月一九日の「軍満取極」においては、第八条、第一一条の規定により、第一次三線(Ⅰ)、第二次三線(Ⅱ)、その後の建設(Ⅲ)を決定した。その各線は次の通りである。

Ⅰ、1、敦化・図們江線

2、拉法站・哈爾浜線

3、克山・海倫線

Ⅱ、1、通遼又は錦県・赤峰・熱河線

2、長春・大賚線

3、延吉・海林・依蘭・佳木斯線

Ⅲ、1、大賚・

2、斉克線の一駅・黒河、

3、安・素倫・満州里(又は海拉爾)

4、開原・西安、

5、(満鉄)撫順・(瀋海)撫順、新邸・義州および巨流河、公主嶺・伊通、鉄嶺・法庫門、瓦房店・錦州

 

この時期にはいると、関東軍は、前述のような資金拠出問題だけでなく、新線建設問題についても独自の戦略にもとづく建設区間を提示してきた。この動向は一九三二年後半に入って顕著となり、とくに第二次建設線の他に計画されていた路線について、これを早急に具体化する方向に進んだ。満鉄側は、一九三三年一月から参謀本部第三部長と佐藤応次郎技師との間で協議を重ね、三月には一定の方針が決定し、七月から八月にかけてその具体策がまとめられつつあった(*11)。しかるに八月一四日付、関参一発第六八五号で関東軍参謀長から満鉄副総裁宛ての通牒が八月一八日満鉄に送達され、ここで第二次、第三次線を同時に契約するむね通知された(*12)。

その内容は不明であるが、第三次線に輯安線、虎林線、魯北線、林西線、拉浜線が付加され、これを一九三八年度まで六年間に完成させることが求められていた。満鉄側では建設の経済的建設速度を一五年としていたから、これはその速度を超える。しかも、これらの線区は収益を挙げることが困難であり、これらの路線の建設は、満鉄にとって大きな損失となることは明らかであった。さらに収益を予測される(満鉄)撫順・(瀋海)撫順間や、公主嶺・伊通間、鉄嶺・法庫門間、瓦房店・錦州間は削除され、開原・西安間は四平街・西安間に変更されて満鉄の収益可能な線区は失われ、しかもこの通牒では一切の付帯事業が禁止された(*13)。

この通牒について参謀本部が同意していたか否かは不明である。しかし、七月三一日参謀本部第三部長は副総裁宛ての電報で「(満鉄)田辺次長ノ計画ニ基キ協議ヲ終レリ。茲ニ之ニ関スル豫テノ御配慮ヲ深謝ス」と述べていた。このことを考え合わせると、八月一四日付の通牒は関東軍参謀長が参謀本部の了解を待たずに発したものとも考えられるのである。

このような変更は、一九三一年一一月中旬参謀本部が立てた「時局ニ伴ウ対ソ支両国作戦計画」(約二個師団で南部ウスリーに上陸、約一個師団を間島、琿春に展開して攻勢をかけ、約六個師団で大興安嶺方面に侵入してくるソ連軍を阻止して攻勢に転ずる)が、一九三三年の中央計画では、開戦と同時に沿海州方面のソ連軍(戦時四~五個師団)を撃滅し、大興安嶺東方地区において主作戦をとるというものに変更され、このような作戦計画の変更によって、たとえば東部の各線(虎林線、輯安線)、北西部の各線(魯北線)などが付加されたのではないかと考えられる。

これにたいする満鉄重役会議の決定内容は不明であるが、ともかくもこの通牒に従うほかないという結論が出されたものと考えられるのである。

関東軍の中国東北における鉄道支配の意図は、こうして見ると、一九三三年八月までに完全に具体化したと見られるのである。以後満鉄は関東軍の指示にもとづいて、鉄道建設に従事するほかない状態に追い込まれていった。

このような鉄道建設の推移を見ると、中国東北における鉄道建設計画は、日露戦争後の戦略体制が、一九二〇年代後半にいたって中国革命の進展とソ連の成立によって一方的に危機意識を強めることによって具体化し、この間に鉄道建設計画も路線・区間ともに兵力の集中輸送のための計画としてその用途が単一化していった。そして柳条湖事件以後の段階では、ソ連との戦争を前提とする以外の用途はまったく考えられることなくその計画が推進された。そこには地域開発や流通の促進を前提とする鉄道の機能は無視されたというほかはない。満鉄の立場も鉄道本来の経済的な輸送機能をそこに実現する目途はまったく立たない状況であった。軍事的機能しか認められないこのような建設計画の性質は、世界の鉄道史においても極めて異常なものということになるであろう。

二、新線建設の実施

1―線路の建設と中東鉄路の接収

上記のように、柳条湖事件をきっかけとする全面的軍事行動により、中国東北全土の支配が実現すると、関東軍はソ連にたいする戦略体制を実現するために、中国東北全土の鉄道の包括支配を推進した。しかもその計画は、既成路線の利用だけでなく、膨大な距離の新線建設と、帝政ロシアが建設した東清鉄道の後身、中東(北満)鉄路の接収と、この両者を一挙に実現することを目的としていた。

前節で触れた「満州国」政府との交通網委託協約、新線の建設および運営の満鉄への委託は、この線に沿うものであった。そこで、ここではまず、一九三二年以降における関東軍の戦略体制と、それにともなう兵力集中のための鉄道利用の構想を検討し、そのうえで、個々の路線の建設の推移を概観する。そして、その過程で実行された中東鉄路の接収と、接収がもたらす軍事的効果について考えたいと思う。

陸軍の対露・対ソ戦略は、前節で触れたように、日露戦争直後までさかのぼる。すなわち一九〇五年の日露戦争終結直後に参謀本部第一部員田中義一中佐がまとめた「随感雑録」で将来の対露作戦を攻勢主導と定め、この立場が「明治三十九年日本帝国陸軍作戦計画要項」として採用されてから、一貫して攻勢主導の立場をとってきた(*14)。そして、その場合、田中が同文書で「我陸軍兵力ノ決定ハ徒ラニ其増加ヲ希望スルヨリモ先ツ交通機関ノ整備ヲ急務トセサルヘカラス、交通機関ノ整備ハ兵力増加ト効果等シケレハナリ」(*15)、と述べていることは、とくに注意をひくところである。ここに提示された交通機関=鉄道・船舶の機能の重視の立場は、兵力の絶対量を増加させることが困難な日本軍部、とくに陸軍の戦略において不可欠のものとなり、それは、一九三〇年代初頭までつづいていた。

このような交通機関重視の立場は、一九三二年に立てられた一九三三年度の対ソ作戦計画において、とくに緊急の課題とされるにいたった。この作戦計画は、「満州国」との間に「日満議定書」を締結した政治的条件と、中国東北全土を軍事支配のもとにおくという軍事的条件によって従来の計画を立て直したもので、主作戦は大興安嶺を中心とする西部に置く点で従来とは変わっていなかったが、その主作戦の前に、開戦初頭に沿海州各地のソ連軍を殲滅するという第一会戦を入れた点が大きな変化であった。

この作戦計画によって、東部正面を中心とする作戦兵力輸送のための鉄道建設は緊急の課題になって来た。すなわち、一九三二年四月一八日関東軍指令官と満鉄総裁との間に結ばれた「鉄道港湾河川ノ委託経営竝新設等ニ関スル協定」の第一次建設線のうち、敦化・図們間、拉法・哈爾浜間、第二次建設線のうち延吉・佳木斯間が、この作戦計画に直接かかわる路線として意味を持つこととなったのである(*16)。これらの路線は、長春、哈爾浜付近に展開する部隊を、中東鉄路によることなく、東部正面に輸送すること、また、朝鮮北部からこの方面に部隊を敏速に輸送すること、この二つの使命を持つものとされた。

一九三三年二月九日「満州国」政府と満鉄は、第一次建設線についての建設借款および委託経営を結んだ(*17)。このうち、敦化・図們間については、すでに一九三二年五月一一日拓務大臣が満鉄総裁にたいして吉敦延長線(敦化・南陽間および朝陽川・上三峰間)建設の通牒(殖二第三〇五号)を発していた(*18)。これは、政府が日本海航路を介して東京と長春との短絡線建設の構想を持っていて、この構想によって立てた計画と解される。この拓務大臣の通牒が軍部の構想に同調したものか否かはわからないが、たまたま同一のルートを政府が構想していて、これが第一次建設線と結合したと見てよいのではないかと思う。

このようにして、敦化・図們間は日本政府の植民地経営構想と関東軍の戦略構想とが重複するかたちで計画され、その建設が進められた。敦化・図們間の営業キロ一九一・七キロ、測量開始一九三一年一二月三日、軌道工事竣工一九三三年四月一八日、仮営業一九三三年五月一五日、本営業開始一九三三年九月一日で、その開業は第一次建設線のうちでもっとも早い。この路線の開通によって、日本海航路経由の東京・新京(長春)間短絡ルートが成立し、「新経済動脈線」(*19)と評価された。この線は、一九一〇年の韓国植民地化とともに開始された中国東北をふくむ植民地経営計画からはじまっていたから、その点では長年の懸案を実現したという意味をもっていた。しかし、その建設にあたっては、これまで見てきたように軍事的要請がもっとも大きな力で実現を促進したのである。

この線にくらべると、同じ第一次建設線の拉浜線はその事情を異にしていた。敦図線が前記のように一九一〇年代からすでに計画されていて、一九二四年の鉄道建設政策や一九二七年のいわゆる「満蒙五鉄道」の張作霖にたいする要求の中にも盛り込まれていたのにたいして、拉浜線は、これらの計画や要求には含まれていなかった。この線は柳条湖事件以後にはじめて計画されたものであった。すなわちこの線は、中東鉄路の哈爾浜以東を経由することなしに、図們と哈爾浜とを直結し、哈爾浜周辺はもちろん、将来建設を予定される路線を利用して、黒河を中心とする北正面に兵力を展開することを構想した戦略鉄道としての性格を帯びていた。このような戦略的意味の強い路線が第一次建設線に編入されたことは、当時、作戦計画が東正面だけでなく、北正面の兵力展開をふくめていたことによるものであろう。しかし満鉄鉄道建設局編『拉浜線建設紀要』は、さきの張作霖にたいする要求の中にあった吉林・五常間の起点・終点を変更したものとしている(*20)。たしかにこのような見方も可能であるが、中国東北全域を支配下に収めてからは、かつての外交交渉はもはや不要となっていて、関東軍の必要に応じてこのような路線の建設が進められたのである。

第一次建設線の第三番目、克山・海倫間についても同様に戦略鉄道としての性格が指摘される。ここでは、哈爾浜以西の中東鉄路を利用することなしに、斉斉哈爾方面への兵力の展開を進めるための斉克、四昂各線がすでに建設されていたが、克山・海倫間の路線は、これらの各駅と接続して、斉斉哈爾を拠点とする兵力を、北正面にも展開させるという作戦計画に対応するものとして計画されたのである。

これらの路線は、拉浜線が一九三四年九月一日、克山・海倫間が一九三三年一二月一日に開業して、第一次建設線がすべて実現した(表1)

以上の第一次線にくらべると、第二次、第三次建設線は、より以上に鉄道の持つ経済的効果を無視するかたちで計画が進められた。両者ともに一九三二年四月以降、参謀本部、拓務省などいわゆる中央と関東軍、満鉄との間の交渉によって計画が進められたが(*21)、前節で述べたように、一九三三年八月一四日関東軍参謀長小磯国昭の通牒によって収益困難を予想される路線を追加し、地域活性化をはかるための路線を削除し、かつ開業線に関する付帯事業を完全に否認することが指示された(*22)。これによって、これらの路線は当初の計画が大幅に変更されたのである。

第二次、第三次建設線計二五線は、ソ連にたいする作戦正面に加えて、いわゆる「内モンゴル」から中国河北省に侵入するさいに利用されるべき路線をも含んでいた。正面別に分類すると次のようになる。

第二次~第三次建設線の合計は二一八三・七キロメートルとなるが、このうち東正面各線の合計は九六三・一キロで、西正面各線の合計五九八・六キロがこれに次ぐ。このキロ程は、作戦正面の重点をそのまま表しているように見える。とくに東正面について、牡丹江および佳木斯といった軍事拠点が、そのまま鉄道線路網の集中点として位置づけられ、さらに牡丹江から北東の虎林に向かって線路が延長されたことが注目される。すなわち、虎林がウスリ江をはさんで、ソ連の軍事拠点イマンにもっとも近接していたところから、一九三五年以降ここに巨大な要塞の建設が開始され、一九三九年までにウスリ江岸の虎林の市街地を西方約六〇キロの黒咀に移し(*23)、従来の虎林は虎頭と改め、要塞地帯の中心としたのである。

沿海州にたいする攻撃の正面は、中東鉄路の国境綏芬河の南にある東寧のさらに南からウォロシロフを衝くとされたが(*24)、虎林付近の要塞はこれを北方から支援する助攻拠点とされた。この鉄道の建設は、要塞建設のための労働者、資材の輸送をさしあたりの目的として急がれたというべきであろう。

東寧南方の主攻局面については、当時はまったく鉄道網がない状態であった。牡丹江・綏芬河間の中東鉄路がロシア軌間で、標準軌間との直通ができない条件のもとでは、この主攻局面への鉄道建設が緊急の課題ではなかったかと考えられるが、別表に見られる綏寧線の建設は、中東鉄路の接収(一九三五年三月二三日)、軌間の標準軌間への改軌(一九三七年六月一八日)後である。

開戦当初の第一次会戦を東正面に変えるこの時期において、建設区間のキロ程は、他の正面に優越していたとはいえ、建設の中心は前記のように、牡丹江、佳木斯といった後方にあり、主作戦正面への兵力の集中のための線路の建設ははるかに遅れていたのである。

北正面については、アムール川(黒竜江)岸のブラゴウェシチンスクから対岸の黒河を経て南面に進み斉斉哈爾に達し、また黒河から南下して哈爾浜に進むソ連軍の予想進路にたいし、これを阻止する兵力展開のための鉄道建設が構想されていた。一九二四年の満蒙鉄道政策要綱には、斉斉哈爾・墨爾根(嫩江)間、哈爾浜・海倫間の鉄道建設が構想されていた。このうち、前者については克山にいたる斉克鉄路が一九三〇年三月泰東まで開通、後者については一九二八年六月までに哈爾浜の東部、三樹から海倫まで呼海鉄路が開通していた(*25)。第一次建設線に含まれた海克、泰克両線は、この両者を結んで北安で連絡させるもので、泰東・克山間約三一キロ、克山・海倫間約一六二キロ、両者は一九三三年一二月一日開通した。この線路を北に延長したのが、第二次建設線の北辰(北安・辰清間)、辰黒(辰清・黒河間)両線で、この線路は北辰線が一三六・八キロ、辰黒線が一六六・〇キロ、この両線は北黒線三〇二・九キロとして建設され、一九三五年一一月一日全通した(*26)。この線の開通によって北正面にたいする斉斉哈爾、哈爾浜からの兵力集中が可能となった。これにたいし、墨爾根(嫩江)方面についての線路は、第一次線の中に拉哈・訥河間の拉訥線が含まれていて、一九三三年一一月一日開通(寧年・拉哈間は斉克鉄路として一九二九年一二月開業)、これに第二次線訥墨線として訥河以北の建設が進められ、一九三七年三月二八日訥河・墨爾根間一八〇・三キロの仮営業を開始した(*27)。なおこの線は黒河までの延長が計画されたが、一九四一年に緑神まで仮営業を開始、のち途中の霍竜門・山神府間の線路を撤去したので、寧年・霍竜門間、山神府・緑神間が仮営業を行なっていた(*28)。

西正面については、日露戦争後中東鉄路哈爾浜以西の使用が不能のため、大興安嶺地域への兵力展開を可能とするための線路の建設が必要とされ、長春・安達間、四平・満州里間など、満鉄線から北西に向かう何本かの線路が計画された。そのうち、四鉄路(四平・南間)は一九二七年、昂鉄路(南・斉斉哈爾間)は一九三一年に開通したが、長春から北西に向かう線路は安達に向かう方向を改め、大賚までの京大線二一三・六キロとして建設、一九三五年一一月開業、そこから白城子を経てハロン・アルシャン方面に向かう線路として建設された。この変更は、中東鉄路の接収や、西部国境の緊迫といった状況の変化によるものと考えられる。阿爾山までの開業は一九三七年九月であったが、その後西部国境地帯のハルハ川をめぐるいわゆる「ノモンハン事件(一九三九年)」などが起こるに至って、線路を延長し杜魯爾まで一九四一年五月に仮営業を開始した。この線路は、長春・白城子間三三二・六キロ、白城子・阿爾山間三五七・〇キロ、阿爾山・杜魯爾間三九・五キロであった。

以上のほかに、南西正面熱河を中心とする「内モンゴル」地域の各線が建設されたが、ソ連にたいする戦略鉄道とは異なる性格のものであり、ここでは別表に線名を列挙するに止める。しかしこれらの線路は、河北省への侵入のための線路として、奉天(瀋陽)・山海関間の線路(「満州国」国有鉄道の路線名としては奉山線)とともに、戦略的性格を付与されていたことは無視できないであろう。

これらの線路の建設と並行して、ロシアが東清鉄道として建設し、ソ連がこれを引き継いだ中東鉄路の接収が一九三五年三月二三日に実施された。この接収実施により、この鉄道のロシア軌間(一五二〇ミリ)は国際標準軌間(一四三五ミリ)に改築された〔新京(長春)・哈爾浜間は一九三五年八月三一日、哈爾浜・満州里間は一九三六年八月二日、哈爾浜・綏芬河間は前記のように一九三七年六月一八日〕。線路網の充実にさいして、中東鉄路を使用しないで兵力を展開するための線路を構想する必要はなくなった。また図們・牡丹江間の建設にさいして中東鉄路の牡丹江駅を使用しなくてもよいように、牡丹江駅の北にまったく別の寧北駅を置いたが、この寧北駅が牡丹江駅とされ、軍事輸送のターミナル機能も旧寧北駅に移され、旧牡丹江駅は哈爾浜との直通不能とされるほどの変更工事が行なわれた。この中東鉄路の接収に軍部の力がどのようなかたちではたらいたかについては、関東軍が終始主導権を握って進めようとしていたことが「八田文書」から推測される(*29)。そこには満鉄にたいする関東軍の不信が底流としてあったことをうかがわせる要素があり、それは一九三三年以降のいわゆる満鉄改組問題にもあらわれているが、この中東鉄路接収は、軍事輸送の面でも大きな転換をもたらした。東部国境の綏芬河駅から三一キロの綏陽駅にかけてはロシア軌間の線路が併設され、綏陽付近にはロシア軌間用の車両が留置されていたことが、一九四一年七月関東軍作成の「東部方面駅施設一覧図」から推測される(しかし、満州里付近にロシア軌間用のいくらかの測線があるが、進攻用の車両留置線としては規模が小さい(*30)。この両者のちがいが何によるものかはわからないが、軍事輸送の重点が東正面に置かれていたことは容易に推察できる)。

 

2―建設のための組織・建設費・規格

建設のための組織は、一九三三年三月一日、まず満鉄に鉄路総局が設置されて、国有鉄道の業務を統括することとし(*31)、同時に満鉄の鉄道建設局が大連に設置されて建設業務を担当することとした。これは、建設のための資金の計画とその運用という点で満鉄の会計と別建てにする必要から採られた措置と考えられる。じっさいに、表2のように建設費の線路別予算額は計上されているが(*32)、その決算額は記録として見ることができない。その算定については別の機会にゆずることとするが、このように別建ての会計方式をとるためにも、鉄路総局のような別組織をつくる必要があったと思われる。

この鉄路総局は、一九三六年一〇月一日鉄道総局となる。それは、満鉄が、同社固有の線路(社線)、国有鉄道線(国線)、図們・羅津間など朝鮮北部の線路(北鮮線)の統合的経営を実施するために設置されたもので、これにより満鉄は「満州国」内における鉄道運営の唯一の機関としての地位を確立した。中東鉄路接収当時、国線を満鉄から切り離そうと考えていたと思われる関東軍の意向は、これによって挫折した。ここには軍事輸送のために不採算をかえりみずに鉄道を建設させた関東軍と、企業としての採算を放棄できない満鉄との対立がある。日本国内で一九一〇年代終わりからはじまる不採算承知で業務拡大のために建設を進めようとした政友会の建主改従政策と、これにたいする一部国鉄官僚の抵抗(改主建設政策)に傾いた要素が見られるのである。

関東軍は、このような問題に止まらず、1で述べたように、新線から上がる利益金の関東軍経営費への繰り入れを協定していた。しかし、一九三三年八月一四日の関東軍参謀長の通牒(*33)に見られるように、採算よりも戦略を重視する方針を定め、さらに新線区間における付帯事業を禁止した。これは満鉄側にとって大きな打撃となるが、しかし、同時に関東軍にとってもこのような措置は、経営費への繰入れ金の減額をもたらすことになったはずであり、このような措置は関東軍みずから自己矛盾を冒していたことを示すものといえよう。

この新設線には、たとえば索倫・南興安のように各駅のホームを省略した駅舎(*34)、橋架に木橋を架設した場合(*35)など、建設費軽減のために施設を省略したり、または略式のものとした例がいくらもある。

しかし、このような「節約」にもかかわらず、柳条湖事件以後、反満抗日集団による抵抗は激化し、その攻撃の目標は、鉄道にも向けられた。建設作業もその例外ではなく、敦図線の建設のさいには、一般事故の数名もふくめて殉職者は五六名に達し、その中には、「満州国」軍や、満鉄所属の中国人もふくまれていた(*36)。満鉄がまとめた襲撃による殉職者数は一九三一年一一月以降一九三五年度までに七五人(うち日本人五三人、朝鮮人六人、中国人一六人、このうち請負労働者日本人三〇人、朝鮮人六人、中国人一一人)であった(*37)。このほかに工事列車遭難によるものとして日本人死者五人、中国人死者四人、請負労働者朝鮮人二人、中国人一六人が挙げられているが、これが襲撃によるものか否かは不明である。またこの表の欄外には、工事掩護部隊の戦死者一三六人、日本人警官三人、「満州国」軍隊・警察二〇人が挙げられている。また「出現」件数六〇回として計上している密虎線(虎林県)では、社員一人、請負人一人、軍人四人の死者を出している(*38)。さらに梅可口・通化間の梅通線では襲撃回数三四回、日本軍の死者一四人、負傷者一一人、「満州国」軍死者三人、負傷者一七人と軍隊の損害が大きく、さらに中国人一〇人が拉致された(*39)。これらの各線では、兵器、軍用資材、食糧が奪われ、馬もその例外ではなかった。これらの襲撃に対抗するために関東軍は橋架や停車場に警備設備を建築する要求をもっており(*40)、拉浜線の建設にさいしては、各駅に看視塔を建て、特殊駅、一等駅に銃眼つきの防護壁を設け、特殊駅、二等駅以外には、入口に防弾鉄扉を設け、三等駅以下の事務室の窓、出入口にも銃眼つきの防弾鉄扉を設け、五常駅には別個に独立した防護用の建物を建てた(*41)。

このような設備のための費用は、明らかにされていないが、一九九〇年代初めでも中国東北の沿線地で見られた独立の防護建造物はおそらくRC製の堅固なもので、個数から見ても、その建築にはかなりの費額が必要であったと思われる。

建設費の軽減は、これら各線の規格の統一を求めたと考えられる。一九三三年一二月二〇日「図們・佳木斯鉄道外五鉄道建造借款及委託経営契約」(満鉄総裁:「満州国」政府交通部総長間)の付表としてつくられた「鉄道建造計画書」では線路は単線、軌間一四三五ミリとし、線路によって最急勾配は一・二五~二・〇〇パーセント(一二・五~二〇パーミル)、最小曲線半径は三〇〇~三六〇メートル、停車場における上下本線路の有効長五〇〇メートル、橋架の強度はL二〇(E四五)の永久構造(一部仮構造可)、トンネルは永久構造、軌道は本線三二~四〇キロレール、側線三〇キロレールとすることが決められた(*42)。この規格は第一次建設線の最小曲線半径三六〇メートル(一部例外)、軌道は本線四〇キロレール以上など、「第一次線建造・借款及委託経営契約ニ関スル指令細目」(*43)にくらべると規格が低下している。これらの規格は関東軍の要請、すなわち、満鉄所有大型車両編成による軍用列車の連続運用可能、現車四〇両編成の軍用列車に対応する停車場有効長(*44)によるものと考えられるが、満鉄側は、平時の輸送量が小さい線路では、できるだけ規格を下げるものとして、規格を定めたようである(*45)。

これらの施設以外にも、満鉄は抗日武装集団の襲撃による被害を防止するため、「鉄道愛護村」の設置などの作業を負担した。それは、一九三三年九月関東軍参謀部による「鉄道愛護宣伝計画案」の提案によるもので、沿線両側五キロの地帯を「鉄道愛護村」とし、現地住民を自発的な保護防衛に参加させるというもので、各駅長がその作業を実施、一九三三年一〇月までに九五の「鉄道愛護村」を設立(関係村数三〇〇〇)した(*46)。この「愛護村」は、鉄路総局の警務処が管轄、鉄道総局設置にともない鉄道警務局に移管、のち鉄路警護部隊さらに鉄路警護軍に改編された(*47)。

 

以上のようにして、「満州国」成立後の鉄道建設は関東軍の戦略体制にもとづく要求によって進められた。その建設は一九三八年までに主要線区の建設を終わり、一九三九年度以降は、その補充段階に入っていった。この間、関東軍の鉄道支配の意図と体制は、より明確なものとなり、関東軍と満鉄との間の対立は深刻なものとなっていった。そこには鉄道を権力強化の手段として利用することから生ずる矛盾の露呈がはっきりと示されていた。しかもこの矛盾は、このような戦略鉄道の建設が植民地経営にとっても障害となることを示していた。しかし、関東軍は、日中戦争開始ののち、戦局の行き詰まりからこれを打開するという意味からも対ソ戦の構想を具体化していった。そのため、これらの鉄道の輸送力増強方策が、次の課題となっていったのである。


*1 満鉄奉天駅編『奉天駅』369頁以下、一九三一年九月~一九三三年八月の間、発送列車四五三六、到着列車四六〇六。

*2 防衛庁戦史室『関東軍』一、66頁

*3 前掲『関東軍』一、67頁

*4 「満州国有鉄道諸契約竝主要契約」、「八田嘉明文書」〇〇三三―一一(以下「八田文書」と省略)

*5 「八田文書」〇一四五など

*6 「八田文書」〇一六九

*7 「八田文書」〇一七〇

*8 吉林省社会科学院編『満鉄史資料』第二巻路権篇第四分冊、一一五三頁

*9 「八田文書」〇一七〇

*10 「八田文書」〇一七一

*11 「八田文書」〇〇〇三―一二〇

*12 「八田文書」〇〇〇三―一三四

*13 「八田文書」〇〇〇三―一〇一

*14 防衛庁戦史室『大本営陸軍部』一、121頁

*15 前掲『大本営陸軍部』171頁

*16 「八田文書」〇〇〇三―一一

*17 「八田文書」〇〇〇三―四六

*18 「八田文書」〇〇〇三―三四

*19 本田康喜『敦図線建設史』一九三九年、1頁

*20 満鉄鉄道建設局編『拉浜線建設紀要』一九三六年、1頁

*21 「八田文書」〇〇〇三―一〇三~一二四

*22 「八田文書」〇〇〇三―三八、一〇二

*23 満鉄鉄道総局建設局編『密虎線建設概要』一九三七年、4頁には行政機関の移転計画のあることを述べている

*24 一九三七年度の作戦構想、前掲『関東軍』一、264頁

*25 前掲『関東軍』一、67頁、満鉄『満州鉄道建設誌』一九三九年、前編、141頁、150頁

*26 満鉄鉄道建設局編『北黒線建設概要』一九三五年、38頁

*27 満鉄鉄道総局建設局編『訥墨線建設概要』一九三七年、1頁

*28 市原善積他編『南満州鉄道』一九七二年付載「満鉄所管線駅名表」による。同書、556~557頁

*29 「北満鉄道接収要綱」「八田文書」〇四〇一以下

*30 関東軍作成「北西部方面駅施設一覧図」一九四一年七月

*31 「鉄路総局概要」一九三三年一二月、「八田文書」〇一八〇

*32 「八田文書」〇〇六三―四一、「第二次線及第三次線建設ニ関スル通牒」付表一九三三年二月九日、「満州国鉄道借款及委託経営契約」成立時のもの

*33 「八田文書」〇〇〇三―三八、一〇二

*34 満鉄鉄道建設局『索興線建設概要』一九三六年、13頁

*35 満鉄鉄道建設局『京大線建設概要』一九三五年、21頁、同『四西線建設概要』一九三六年、21頁

*36 前掲『敦図線建設史』246頁

*37 「八田文書」〇〇〇四

*38 前掲『密虎線建設概要』27頁

*39 満鉄鉄道総局建設局『梅通線建設概要』一九三七年、39頁

*40 一九三二年五月一五日後宮(淳)大佐「満鉄ニ対スル指令案第一稿」、「八田文書」〇一六三

*41 前掲『拉浜線建設紀要』61頁

*42 「八田文書」〇〇〇三―九〇以下

*43 「八田文書」〇〇〇三―三二以下

*44 「昭和七年四月一九日付鉄道港湾・河川ノ委託経営竝新設等ニ関スル協定ニ基ク指令」[指令案第三稿]一九三二年八月二〇日、「八田文書」〇一六九

*45 「鉄道ニ関スル作戦上ノ要望案ニ対スル技術的調査書」、「八田文書」〇一七七

*46 一九三五年五月満鉄鉄道部「対満事務局総裁ニ対スル説明資料」13頁以下、「八田文書」〇〇〇二。鉄道総局編『国線鉄道愛護村概要竝愛護村現勢』一九三六年によると、一九三六年三月現在で村数三一五〇とされている

*47 哈爾浜旅史編纂委員会編『秘録満州鉄路警護軍』一九七七年、33、97、203頁