〈こと〉としての写真 - 濱谷浩私論

小関和弘

 人文学部教授

 

いま、日本の近代詩歌を鳥瞰できる身近な全集としては唯一のものになっている中公文庫版『日本の詩歌』のカバーの表紙は、それぞれの巻に収められた詩人、歌人そして俳人の世界にふさわしい写真で飾られている(*1)。たとえば、萩原朔太郎の巻では利根川の流れを中心に、遠く群馬大橋を望む光景、宮沢賢治の巻では雪の上で躍る鹿踊りの「鹿たち」の姿が写されているというように。他社の文庫版詩集が、収めた詩の中味に当たらず障らずのデザインで済ませているのに較べて、大胆な選択とも言えるこの構えが僕は好きである。詩にゆかりの風景を写真で表現するなどどうかと思う、という意見もなくはないだろうけれど、今流行の銀色夏生の詩集の写真や、「鳩よ!」の詩に付けられた訳知り顔の写真などより、ずっと魅力的だと思う。

このシリーズはもともとB6版の単行本の体裁で刊行され、その口絵写真からピック・アップされたものが、カバー表紙に使われている。この文庫本を手にとる読者は、詩歌に向き合う前に、ちらっとだけでも、この写真を目にするに違いない。また、カバーの折り返しに眼を向けたなら、そこには収録詩人(あるいは歌人、俳人)の仕事とのどんな関連を意識して撮られたかを語る短いコメントがあることに気づくと思う。そのコメントと表紙写真は、日本の写真史の一ページを飾る写真集『雪国』(*2)、『裏日本』(*3)、そして六〇年安保の時に国会前で惨殺された東大生樺美智子さんが衝突の現場から運ばれる姿を写した写真も収める写真集『怒りと悲しみの記録』(*4)の写真家濱谷浩氏によるものである。

    *

『日本の詩歌』の写真は、詩人自身やその作品にゆかりの土地へ出むいた写真家によって撮られている。全国各地へ出かけるということ自体は苦にならずとも、この仕事は濱谷さんにとっては決してやりやすいものではなかったようだ。

回想記『潜像残像 写真家の体験的回想』(*5)に濱谷さんは次のように記している。

 

六七年秋、藤村、啄木、光太郎とはじまって、三百八十九人の詩歌に別巻日本歌唱集、全三十一巻、四百九十六頁分、今年(*6)の二月までかかって撮影した。その間延べ何万の詩歌を繰り返し読んだろうか。/詩歌の作られた時代と今日との差、入稿一ヶ月位前に渡される選ばれた詩歌の季節的なズレ。やはらかに柳あをめる 北上川は、鉱毒によって赤茶けており、眼に見ゆる岸辺はゴミ棄て場になっていた。日本のいたるところで、おもひでの山 おもひでの川 は詩歌を嘲笑うように破壊されていた。それやこれやで仕事は難渋した。おまけに私はジメジメしたり、メメしいことが嫌いで、憂鬱な詩、青臭いモダニズムの詩などを読むと、吐き気に襲われるようになった。耳鳴りもひどい。この仕事で旅に出ると、ガンガン鳴っているジャズ喫茶やゴーゴークラブに飛びこんで、詩の亡霊を払いのけないと眠れないまでになってしまった。(中略)しょせん、詩には詩の心、写真には写真のありようがあって、この仕事は難行苦行の連続だった(*7)。

 

引用の直前でも触れられているのだけれど、濱谷さんはこれより前の一九五八年に、『婦人公論』連載の室生犀星の『我が愛する詩人の伝記』にあわせた『詩のふるさと』という仕事を引き受けている。まんざら詩との縁がなかったわけではない。けれど、さまざまに移り変わってきた近代の詩歌の歴史に自らの感性をシンクロさせようと試みながら―それが「何万の詩歌を繰り返し読んだろうか」という言葉の意味するところだと僕は思う―、それが思うにまかせないなかで苦悶した濱谷さんの思いは、上掲の文章があますことなく伝えている。ただし、どちらかと言えば「ジメジメしたり、メメしいこと」が嫌いではなく、「憂鬱な詩、青臭いモダニズムの詩」に強いシンパシーを感じる僕としては、困惑するほかないコメントではあるのだけれど。

ともあれ、濱谷さんはそれぞれの詩人、歌人たちにゆかりの地を尋ね、そこでアングルを定め、シャッターを切った。その撮影自体は、数日、ひょっとしたら数時間の作業だったかも知れない。しかし、上掲の引用にあるように、濱谷さんはそれまでに当該の詩人の作品を繰り返し読んで、作品にあった絵柄を創り出そうと苦心を重ねているのだ。朔太郎のカバー写真には朔太郎の詩「利根川のほとり」の冒頭部分が、宮沢賢治のものには心象スケッチ集『春と修羅』のなかから「原体剣舞連」の一節が引用されている。また、木下杢太郎、日夏耿之介、野口米次郎、西脇順三郎の四人の詩を収めた巻では「今も長野県飯田市の日夏耿之介邸の居室にかかる聖母像」というコメントと一緒に、日夏の詩「黒衣聖母」の一節が掲げられている。「学匠詩人」と呼ばれ、近代の詩の歴史のなかで敬して遠ざけられていた感もなくはない日夏の呪文みたいな詩を、大岡信や清岡卓行が再評価するより前に、濱谷さんがこつこつと読み進めたということは、それだけでも特筆に値すると思う。このカバー写真の仕事は、濱谷さんの十分すぎるくらいの予備調査と取材にもとづいてなされているのだ。

僕は濱谷さんの仕事ぶりを高く讃えすぎているだろうか? 濱谷さんに限らず、優れた写真家は自分の取材対象について出来るだけ詳しい知識や情報を吸収し、そのうえでカメラを向けるはずだから……。まして、報道写真、記録写真の領域で仕事をする写真家はそういうものであるだろう。

    *

と、言いながら、僕がもう一方で頭の片隅に想い描いているのは、日本の写真家のなかで巨匠の一人と呼ばれる土門拳氏の次のような文章である。

 

ぼくが文楽座の記録写真を撮ろうと思い立ったのは、昭和十六年(一九四一)七月のことで、ちょうどその時、新橋演舞場に文楽座の引越興行が懸っていたのであった。

しかし、当時、ぼくにとって、芝居の世界は初めてだった。文楽座の誰がどんな人なのだ、その名前も地位も知らなかったし、もとより気質や気心については、まったく無知そのものだった(*8)。

 

なるほど、こうした大胆さがあればこそ、巨匠とも言われるようになるのか、と納得したり驚いたりもする。右も左も分からないで文楽の世界に飛び込んでいった土門氏が、直感的にその世界の豊穣さを見抜いていたらしい点は、さすがと思わざるをえない。けれど、ガムシャラに対象の懐に飛び込んで行くこうした土門氏の身の処し方は濱谷さんのそれとは随分違うようだという感じもしてならないのである。

いくら「絶対非演出の絶対スナップ」を提唱した土門拳だからといって、撮影に向かう際にこうした突貫スタイルをいつも採っていたわけではない。僕とても、『古寺巡礼』の「解説」に見られるように、土門氏が熱心な勉強家だということくらい知っている。また、「被写体についての自分の理解がまとまるまで研究し」という、内弟子の森下茂氏の証言(*9)があることも知らなくはない。けれど、土門氏の仕事をめぐる回想や証言をみて行くと、こうした研究熱心の一方で、素手で現場に飛び込んで行く大胆さも土門氏の持ち味だったことは確かなようである。ザラ紙に印刷した薄っぺらな、しかし写真史のなかでも重要な写真集『筑豊のこどもたち』(*10)の短い「あとがき」には

 

東京の街角で「黒い羽根」の募金風景を見かけたことがあるかないか、ぼくの記憶はハッキリしない。しかし「黒い羽根」運動が何を意味するか、ぼくはほとんど知らなかった。無関心だったといってもよい。それがこういう写真集を出すことになったのは、まったく思いがけないことだった。

 

と記しているくらいなのだから。

いま、この文章で土門氏について論じるつもりは更々ないのだけれど、ついでに言っておくなら、阿部博行氏が編纂した『土門拳エッセイ集 写真と人生』(*11)には、「社会派写真家として」の章を立てたなかに「日本各地の炭田地帯には、いま炭坑離職者の大集団がいる。貧窮のどん底にありながらなぜ、かれらが暴動を起さないのか不思議なくらいだった。」で始まる「著者の言葉(『筑豊のこどもたち』)」の方だけが収録されている。

土門氏のこの言葉は、これとして氏の真情に違いない。けれど、この文言―写真集『筑豊のこどもたち』では裏表紙に印刷された「著者の言葉」―だけを取り上げるのは、土門氏への評価を微妙に狂わせる恐れがないか、とも僕は思う。土門氏は、上に引用したように、同じ写真集の中で「「黒い羽根」運動が何を意味するか、ぼくはほとんど知らなかった。無関心だったといってもよい」とも述べていた。社会派的側面と、それとは食い違う「無関心」さとの並立、これが土門氏のもつ「大きさ」の一つの大事な要素ではないか、と僕は思うのだ。そして、彼はそのことをキチンと文章にしている。そうした懐の深さが彼の「社会派」の独特な位相だったんじゃないだろうか、と思う。そうした二つの面をかかえ持ったまま現場に飛び込んで行き、そこで―ほとんど直情的に―感じた憤りや怒り、悲しみを定着していったところが、土門拳のドキュメント写真の凄さなのではないだろうか。

『筑豊のこどもたち』の続編『るみえちゃんはお父さんが死んだ』(*12)のキャプションに土門氏自身が書いていることなのだけれど、筑豊の児童相談所の子どもたちが、ズボンをずり落としながら遊んでいる様子を見た土門氏は自腹を切ってベルトを買い、それを子どもたちに与えたという。写真家と被写体との間にある・距離・を取り払うばかりでなく、さらに踏み込んで、自身が撮影現場で感じた強いパッションを対象の世界に直接かかわらせて行くことをも辞さないところに、土門リアリズムの基底はあるのかも知れない。しかし、その基盤にあるパッションが、ともすると既成のセンチメンタリズムやステレオタイプな感情に接近する危うさを土門氏の長女の真魚さんは敏感に気づいていたようだ(*13)。

と、こんな風に客観的な事を書きながらも、ザラ紙に刷られた『筑豊のこどもたち』や『るみえちゃんはお父さんが死んだ』の写真をあらためて見ていると、こんな僕の胸にも迫ってくるものが確かにある。そして、被写体への土門氏の迫り方にはやっぱりもの凄い力があると思う。けれども、よくよく考えてみると、そこには僕自身の二つの思いあるいは記憶が渦巻いてもいるようなのである。

ひとつは、こんな酷い暮らしのなかで毎日を過ごす子どもたちへの同情、あるいは言い様のない悲しみ、のようなツーンと胸にくるもの。そして、もう一つは、僕よりも三つ年上なだけのるみえちゃんや彼女の周りの子どもたちの衣類や履き物なども、それよりは少しこぎれいだったかも知れないけれど、「テレビ」という符丁で呼ばれていた継ぎのあたった僕らの小学校時代のズボンや、親指の見えるズック靴の世界とさほど遠く隔たっていないんじゃないかという思い。弁当が持ってこられなくて、昼食の時間になると机の上に雑誌を立てて周りを見ないようにして過ごす筑豊の子どもたちの姿は、「虫歯予防」のために歯磨きの練習をするからと言われた日に、学校へ歯ブラシを持って来られないために青々とした「トクサ」を数本持ってきて、黙々と歯磨きをしていた僕の同級生のO君の姿に連なってゆく。そうした思いの場に立つとき、僕の心の中には、この『筑豊のこどもたち』へ同情と共感を寄せた当時の評論家や「知識人」たちへの違和と反発とでもいったものが、じんわりと湧き出してくる。

    *

話を戻そう。土門氏のこうした撮影対象への姿勢に対して、濱谷さんは―少なくとも、渋沢敬三氏との出会い以降の濱谷さんは―まるで違う姿勢をとったようである。そして、僕はそこに、濱谷さんの写真家としての要の部分を見出したいと思うのだ。そうした濱谷さんと、被写体となった〈もの〉、〈人〉、〈こと〉、との関係についての話に移る前に、ちょっとだけ、濱谷さんの写真家歴を確かめておくことにする。

年譜や回想記『潜像残像』の記述に拠れば、濱谷さんは「実用航空研究所」という航空写真を専門に撮る会社に就職することで職業写真家としてスタートしている。かつて体験したことのないスピードを出す飛行機に乗った、銀座上空からの撮影が初仕事だったという。もっとも、この会社は三カ月後には夜逃げしてしまい、失業した濱谷さんはオリエンタル写真工業に再就職した。そうしたなかで、暗室技術や撮影の基本を学びながら、入手したライカで銀座を中心とした都市の風俗を撮影して廻ったのである。二一歳の時には、東京競馬場へ出かけて撮った、作家菊池寛と女優の入江たか子のスナップが毎日新聞発行の家庭雑誌『ホームライフ』に掲載されて、ジャーナリズムへの足がかりを掴むことになる。そして翌年にはオリエンタル写真工業を退社し、次兄の(写真評論家の)田中雅夫氏と一緒に「銀工房」という写真スタジオを開いてフリーランスのカメラマンとしての道を歩み始めたのだという。それが一九三七年一〇月のこと。

それから約一年余の三九年一月に、グラフ雑誌『グラフィック』の取材で新潟県高田市の高田聯隊スキー部隊の冬期演習を撮影に出かけたのが、濱谷さんの転機となった。「二日間三六キロ、雪の山野をスキー部隊について撮影」し、カンジキをつけての従軍で「雪の重さを思い知らされた」濱谷さんは、「東京と越後雪国との環境の差に」「好奇と驚きの眼を見張った」という(*14)。上野生まれで都会育ちの濱谷さんにとって、豪雪の越後の冬は想像を超えたものだったようだ。取材後も東京へ戻らず「雪深い町の人間の暮らしを撮影してみたい」と思った濱谷さんの前に、人生を変えてしまうようなさまざまな人びととの出会いが訪れる。その一人が、濱谷さん自身、後年の文章で繰り返し言及する、地元の民俗学研究者市川信次氏であった。

高田生まれの市川氏は民間の民俗学研究家であり、濱谷さんの言葉を借りるなら「文学、美術は博覧強記、風流に長じ、奇人変人の知己多く、話術にたけて、折り目切り目の正しい人柄」であった。ちなみに『定本 柳田国男集 別巻五』の索引をつてに探ってみると、市川氏は柳田国男の『木綿以前のこと』に収められた「遊行女婦のこと」(一九三四年)という論文に、越後の瞽女の調査に携わる研究家として名前が見えている。当時、市川氏は渋沢栄一の孫で第一銀行の取締役をしながら民俗学の研究者としても活躍していた渋沢敬三のもとに出入りし、その「アチック・ミューゼアム(屋根裏博物館)」の同人の一人であった

    *

市川氏との出会いがきっかけとなって、東京三田の渋沢邸の一隅にあったアチック・ミューゼアムに出入りするようになった濱谷さんは、渋沢敬三氏の謦咳に接することとなり、民俗学への関心を深めて行った。この出会いのあった年には「深く感銘し、以来座右の書とな」る和辻哲郎の『風土 人間学的考察』とも出会っている。そうしたなかで、濱谷さんは翌四〇年の二月に市川氏の案内で新潟県中頸城郡谷浜村字西横山を訪れることになる。そこは現在は上越市に編入されている地区だが、周りに山の迫った場所である。いま、長岡方向から北陸自動車道を走って行くと上越インターチェンジを過ぎてしばらくして、長短一六のトンネルが断続的に連なる区間に入る。その三つ目のトンネルを抜けた後に渡る川が、横山の方から流れ下ってくる桑取川だ。その桑取川の右岸に、当時、戸数二五戸の小さな集落、西横山があった。

谷浜村の地形や当時の集落の配置については『雪国』の「解説」=「桑取谷」で濱谷さん自身が詳しく触れている。桑取谷西横山は「民俗学的にみて宝庫といえる」とし、「村の構成」の節では川や社寺の位置について行きとどいた説明が加えられる。また、「若木迎え」の節では正月初めて山へ入って木を伐ってくる一月一一日の「若木迎え」の儀式から「餅つき」「鳥追い」「水浴び」「嫁祝い・婿祝い」といった小正月に関する行事をめぐって民俗学の知見を交えた丁寧な説明がなされている。この桑取谷に濱谷さんは一九四〇年から一〇年間通い、生活や祭をカメラで記録したのである。

『雪国』に収められた写真のなかで一番よく知られているのが、古風な締太鼓を打つ年かさの少年を先頭に、子どもたちが雪の積もったなかを一列縦隊で進んで行く様子を二八ミリの広角レンズで撮った[歌ってゆく鳥追い]だろう。かなり強いライトを浴びた一五、六人の子どもたちのなかには、カメラの方に目線を向ける子も居たりするが、伝統の行事のなかで生き生きと活動するようすと、歩く道筋のほかにはほとんど踏まれた痕のない―一見、柔らかそうにも見える―雪面の広がりが、厳しい雪国の暮らしのなかではるか昔から・晴・の日に繰り返されてきた民俗の世界の伝統の厚みを伝えている。

この写真は一つの優れた記録写真であると同時に、子どもたちの列が画面のなかで占める位置と絶妙のバランス、そして漆黒の闇から雪の白さまでを見事に表現したモノクロの質感が美的な感動を呼び起こすものにもなっていると言えるだろう。たとえば、重森弘淹は『雪国』に触れて、「「生活の古典」に注目し、そこをもっとも意識的に、しかも集中的にカメラを向けた写真家は浜谷浩ただひとりであった。しかし、この記録は今日から観て、あまりに美しすぎる憾みがある。」(*15)とさえ述べている。そして、ナオミ・ローゼンブラムの『写真の歴史 第三版 A World History of Photography』(*16)のような写真史の基本書物にも、この写真が掲載されるのは、写真史的価値だけではない美しさが認められているからに違いない。

ついでに言えば、ローゼンブラムの本を含め、東京都写真美術館で一九九七年に開かれた《写真の世紀 濱谷浩 写真体験六六年》の図録などに載る、リプリントの[歌ってゆく鳥追い]は僕には、みなコントラストが強すぎるように思える。『雪国』のオリジナルでは、子どもたちの着る防寒着の模様や違いもよく分かるし、背景に並ぶ一〇本近い木々の幹も見えているのに、リプリントでは黒くつぶれてしまっているからだ。そんななかで、オリジナルに近いと思えるのが、一九八六年の四月から六月にかけてニューヨークの国際写真美術館で開かれた「Master of Photography(写真巨匠賞)」受賞記念の《濱谷浩展》の際の図録と、岩波書店から出た『生の貌 濱谷浩写真集成』(*17)の写真だと思う。

ところで、美的にも優れた濱谷さんの写真、と言うことに僕も異存はまったくないのだが、ここで確かめておきたいのはこの[歌ってゆく鳥追い]が、[お宮参り]から[堂ごもり]を経て「♪コーリャ どこの鳥追いだ/ダイロウドンの鳥追いだ……」と歌いながら歩く一連の行事のなかの一コマだという、ごく当たり前の事実である。こうした「鳥追い」の行事について、濱谷さんは「解説」のなかで、小若衆が大人へ成長して行く過程の節目として、また村の豊饒を願う予祝として、大きな意味があることを語っている。いわば、こうした民俗行事の記録としての意味を前面に打ち出した写真集が『雪国』なのである。「村の構成」の章の初っぱなに置かれた[村の前景]の写真も、雪に埋もれた山奥の村のたたずまいや眩しいばかりの光を反射する雪景を捉えた写真としてではなく、続く数ページに出てくる[水浴び(・禊ぎのための水浴)]をする河原や[サイの木の家とサイの木の田圃]が村全体のなかで、どんな位置関係にあるかを示す・鳥瞰図・的な役割を果たしているのだ。

    *

『雪国』は一九七七年に朝日ソノラマから、写真の差し替えやトリミングの変更、順序の若干の変更を施されて再刊された(*18)。その「あとがき」で濱谷さんは市川信次氏に連れられて桑取谷へ始めて訪れたときのことを、次のように書いている。

 

そこに私は日本常民の生活の古典を見た。人間が土着し、生産し、生きるということを考えさせられた。人間の土地、人間の条件、それを見極めたいと考えた。 

未知の生活を知るために、できるだけ狭い地域の短かい期間の年中行事を繰り返し体験し、観察し、記録することにした。

 

こうした記録写真としての意味を強く感じさせるものの一つに、「若木迎え」に山に入った男を捉えた数カットの写真がある。その年の「アキの方」(・恵方)に向かって山に入る男の姿から始まる「若木迎え」の章には[若木にハナをあげる][若木に餅をあげる][若木に祈る][若木を伐る]といった写真が収められている。いくぶんか、カメラを意識してしまっているらしい雰囲気を感じさせる被写体の男性は、伐り採ろうとする若木に山鉈で削り取った餅を捧げ、続いて木に手を合わせた後、片足を木にかけて山鉈で枝を伐り採っている。

実はこの写真は写真集にまとめられる以前に、一九四二年一二月号の雑誌『写真文化』に「・民俗・の記録―新潟県中頸城郡谷濱村字西横山の正月」と題して発表されている。柳田国男は、濱谷さんや土門氏も出席する座談会「民俗と写真」(*19)で、この写真に触れて、

 

相手に撮ることを意識させると不自然になる。(略)あなた(濱谷浩氏:原文注)の初山入りのところで木を伐つて居るところがありますね。あれは写真を撮られて居るなということを意識して居るものだから態度が違うのです。どうかしてそんなことにならないやうにヒョッと撮れないかというやうなことを私らも人と話して居るのだけれども、(以下略)

 

と発言しているが、それもこの掲載誌を見てのことだと思われる。

柳田の指摘は民俗学の資料ということを重んじる立場からは、もっともなものと言えるだろう。けれど、僕は、ここには文化人類学や民俗学がかかえる、フィールドワークの困難さと同じ問題があるのだと思う。言葉という武器も使える文化人類学や民俗学はそうした困難を「参与観察法」を踏まえた言語記述法でとりあえず乗り切っているようだが、カメラをかかえて被写体にレンズを向けないと撮影のできない写真家の場合には、どこまで乗り切れるのか、という問題がある。

    *

濱谷さんは、一九四〇年以降一〇年にわたって桑取谷を訪れたが、毎年の小正月を撮影し続けるなかで、上のような困難に、繰り返し出会い続けたはずだ。そのことを踏まえて、『雪国』の写真について、もう少しだけ見ておこう。

「若木迎え」の連続ショットは、よく見ると、カメラポジションが微妙に異なっていることに気づく(*20)。餅を山鉈で削っている場面のショット(犾)と、木に手を合わせているショット(猤)、そして木を伐っているショット(猪)とでは、伐られる木の後ろに見える木々の重なり具合や、伐られる木の向かって右下の雪中から姿を見せている小枝の見え方が違うのである。そうなった理由を推測させるのは、猪のショットである。このショットは犾、猤よりもやや左に寄り、犾よりは被写体に近づいているが猤よりはやや下がった位置でシャッターを切っている。猤と同じ位置で猪のカットを撮ったなら、若木を切る男性の顔(特に両眼)は、たぶん木の枝に隠れてしまっただろう。それを避けるために、ほとんど写真家の本能とも言える動きで、濱谷さんのカメラポジションは左に移動したというのが、まずポイントの一つだ、と僕は考える。人物を被写体にするとき、相手の目にピントを合わせるのは基本中の基本だ。上に挙げた柳田国男との座談会で濱谷さんは「機を織つて居るところを撮るとしますね。その中にいろいろ夾雑物があると、ぼくは整理する方なんですが」と発言している。どうしても、フォトジェニックな画面構成を求めるということを吐露したものとみることが出来そうである。

僕も昔むかし、あるところで写真の実習をさせられたが、そのなかのモデル撮影のときに、モデルのカメラ側の目にきちんとピントを合わせるよう、繰り返し言っていた講師の言葉が、今でも耳の底に残っている。まして、ちょっと動いてポジションを変えれば、被写体の目をきちんとフレームに入れられるのに、それを端折ってシャッターを押したりしたら、ただの怠け者のカメラマンと言われても仕方がない。

濱谷さんが「若木迎え」を撮ったとき、その身体は反射的により良いアングルを求めて動いてしまった。僕が思うに、木を伐る男性にとっては(ただでさえ、カメラがあることを意識していただろうけれど)、眼の前の雪の丘をカメラを構えながらジリジリと動き廻る人間の存在が気にならないはずはない。では、石のように固まっていればいいのか、と言えば、そう簡単に済むことでもないけれど、動き廻る写真家の姿は確実に「写真を撮られて居るなということを意識」(柳田)させた行動だったと思う。

    *

しかし、ここで面白いのは、柳田国男から上に見たような・クレーム・をつけられたこの一連のショットを『雪国』出版の際に、濱谷さんがほぼそのまま写真集に収めたという点である。一〇年も桑取谷へ通い続け、特に、敗戦直前の一九四五年七月に高田に疎開してから、五二年に神奈川県大磯へ引っ越すまで新潟に住み続けたことを考えてみれば、この年以外の小正月、若木迎えを濱谷さんが写していないとは考えにくい。そのなかには、柳田の求めるものにより近い写真があったかも知れない。それをこの「写真を撮られて居るなということを意識」していることの露わなショットにこだわったのは何故だろうか? たぶん、そここそが、濱谷さんの写真が「記録写真」でありながら、いわゆる民俗学の記録とも微妙に違う点なのではないか、と僕は思う。

柳田流に言えば、カメラマンが透明な存在であればあるほど、民俗学の資料写真としての価値は高まる。その可能性を濱谷さんが探ったと見られる徴は、たとえば、朝日ソノラマ刊の復刻版『雪国』の奥付に掲げられた「1945年2月桑取谷にて撮影」とある濱谷さん自身の立身像に見ることが出来るだろう。坊主頭で雪袴を着、足にはワラ製の雪ぐつを履いて、右手を腰に当てて雪の上に立つ濱谷さんの姿は、ちょっと顔の色が白すぎることを除けば、雪国に暮らす若者のそれと言っていい。桑取谷へ通うこと六年目の小正月、濱谷さんはほとんど山人の暮らしにとけ込んでいた。しかし、いくら姿形を地元の人のそれに合わせたところで、カメラを構えた途端に、濱谷さんは、被写体の世界の外に立たざるを得ない存在である。だが、その〈外・への立ち方には、幾通りかの可能性があるだろう。カメラマンだというのを前提としながらも、出来る限り、その被写体の世界のなかへとけ込むことを模索する道もある。前に挙げた土門拳氏のように筑豊の子どもたちにズボンのベルトを買って与えるというのも一つの方法であろう。あるいは、土門氏の『ヒロシマ』(*21)における被爆者自身の一人称の形式を採った「説明文」のスタイルもその一つと言っていいかも知れない。だが、そうした土門氏のような直接的、もっと言えば、直情的なとけ込み方だけでなく、時間をかけてゆっくりとそのなかにとけ込んで行く方法もあるはずだ。それが、濱谷氏の被写体の世界への関わり方であり、また、・外・への立ち方だっただろう。

土門氏には、「人の心なんて曖昧なものにはピントは合わせられない」という意味の・名言・があるけれど、濱谷さんはそのピントの合わないものに、あるいはピントの合わない・こと・そのものに焦点を合わせたいと思い続けた人なのではないか。そのピントが、「若木迎え」の場合には、写真を撮られる男性と写す濱谷さんとの間で共有された空間に合っていたということなのではないだろうか。「若木迎え」に写っている男性は、桑取谷の伝統行事をつつがなく執行するムラの匿名の誰かなどではなく、濱谷さんにとって個別具体的な桑取谷の・あの人・だった筈である。その「人」を写しとるためにも「若木迎え」のなかの木を伐っているショットは、ポジションを少し移動して、その「人」の表情のポイントとなる目を捉えたものでなければならなかったのだろう。

渋沢敬三氏が濱谷さんの写真には「心が写っている」と評価したというが(*22)、それは民俗的な信仰心に属する心という意味ばかりではなかったのではないか、と僕は考える。

濱谷さんは、復刻版『雪国』(*23)の「あとがき」で「人間の土地、人間の条件、それを見極めたいと考えた。」と書き、『裏日本』にも「人間の条件、人間の土地というものに、私は強い関心をもっている。」と書く人である。もちろん、濱谷さんはここでは和辻の『風土』でいうような「条件」を頭に置いているのだが、僕などは、カメラマンが眼前にいることに違和感や照れくさい気持ちを持ちながら、小正月の行事を進めて行く人びとの「違和」や「照れ」もまた、広い意味での「人間の条件」ではないか、と言いたくなる。ともかく、上に述べた見方で写真を眺めていると『雪国』に写っているかなりの数の人びとの表情が、なんだか照れくさそうな、面映ゆそうな面もちにも思えてくる。そういった表情も含めて、「人間の条件」が写っていると僕は考えたくなるのだ。少し言い方を変えるなら、小正月の行事という・こと・が記録されているのと併せて、記録行為から生じる撮影者と被写体との間に生まれた心の内の出来事までも、もう一つの・こと・として写されているような気がするのである。もしも、そう言えるなら、それは濱谷さんの写真が、民俗学のための記録というだけに終わらない、暖かみをもっている徴だと言うのと、ほとんど同じことになるだろう。

『雪国』の写真は、桑取谷の笠原彦兵衛さんの家に世話になるなかで撮影されたものが多い。また、そのなかには、たとえば桑取谷の洞泉寺で、濱谷さんより五歳年上だった住職の高嶺道隆師に撮影の助手やポンタキまで手伝って貰ったりするなかで撮影されたものもあるという(*24)。お坊さんにフラッシュ係(=ポンタキ)を頼んだりするなどという微笑ましい光景をも交え、地元の人の多くの協力を得て、この集は完成したのである。濱谷さんは『雪国』が完成すると、「村の全部の家に本を送り」見て貰ったという(*25)。わずか二五戸の集落とは言え、そうした関わりのなかで、これらの写真は写されてきたのだ。ここには、被写体というモノを光学的に記録として定着するといった冷たい関係はない。勿論、これが「記録写真」になっていないなどと言うのではない。繰り返しめくが、記録された・こと・と、記録する・こと・とが、そのなかで生まれた関係を壊さないで、定着されているのである。

ちなみに、昨年刊行された写真集『縁隨處の人びと』(*26)には、濱谷さんがおよそ五〇年のあいだに撮影した学者や芸術家の肖像写真が収められているが、そこには同時に、被写体となった人びとが濱谷さんの撮影台帳(「白雲牒」)へ揮毫、署名した墨痕の複写も収録されている。このポートレイトと揮毫は、濱谷さんの写真が単なる仕事ではなく、写真家と人とが出会った・こと・の記録を証しするものと言えるのではないだろうか。

    *

ところで、高田を訪れ、そして桑取谷の取材へと向かう撮影活動の深まりにほんの少し先行する一九三八年に、濱谷さんは瀧口修造を中心に結成され、永田一脩、阿部展也、それに濱谷さんの実兄の田中雅夫らの参加した「前衛写真協会」に加わっている。濱谷さん自身の思い出の文章には、

 

別に特別の政治的意図はなく、写真の可能性や進歩的な方向を研究するための会だったが、前衛という言葉は反体制的だとしてにらまれることになり、翌年、造型写真研究会と名前を変えた。あとにも先にも、私が芸術的な集団に参加したただ一つの会だった。滝口さんのお宅にまで押しかけて行って幼稚な質問をした。滝口さんは大きな目を小さくほそめて、苦悶の状態で、一語一語、言葉を探しだすように、誠実に親切に愚問賢答して下さった。

とある。かなりレトリカルな文章なので、正確なところはよく分からないのだけれど、瀧口氏の写真観を吸収しようとした青年時の濱谷さんの姿が彷彿としてくることだけは確かだと思う。また、同じ年の七月には「青年報道写真研究会」が土門拳、田村茂、藤本四八、杉山吉良、林忠彦らの参加によって結成され、濱谷さんはそこにも参加している。「前衛」写真について考え、「報道写真」についての研究会に参加する。単純化して言って、この時期の濱谷さんは、戦時色が強まって行くなかでフリーランスになった自分自身の歩むべき道を一生懸命に探していたという事だろう。

ちなみに、この時期の瀧口修造は「前衛写真試論」(*27)や「記録写真とアメリカFSAの写真」(*28)で、記録写真について次のような論を展開している。

 

今日「報道写真」が提唱され、新しい写真家が活躍し始めてゐることは心強いことである。私はことさら「報道写真」に「記録写真」を対立せしめようとは思はない。ルポルタアジユをあらゆる面に拡大してゆけば、広義の記録性を再確認することになるからである。たゞ今日の「報道写真」の特殊な意義が国策に動員されるのはやむを得ないことであつて、時には「記録写真」といふ広義な場合とは実際異なる場合もあるであらう。しかし、いづれにもしろ、「記録性」の新しい精神を確立することは、いはゆる「報道写真」の基礎をなすものである。(中略)前衛写真といふ題で、かういふ問題に触れるのを、意外に思ふ人があるかも知れない。しかし私は写真の「前衛」的な仕事を、かうした面にも見出したいと思つてゐる(*29)。

 

書かれた時代背景抜きに、この文章で言われていることを読みとるのは難しそうだ。土門氏などが、戦後に強い違和感を表明することになる、その実「プロパガンダ写真」であった一五年戦争下の「報道写真」の実状を頭に置いて読まないと誤差が生じるだろう(「いづれにもしろ」という言葉で細かな議論を打ち切らざるを得ないところに、瀧口氏の苦しそうなスタンスを見ることが出来ると思う)。そうしたことを踏まえたうえで、この文章で瀧口氏が言おうとするところを僕なりに押さえておくなら、レイヨグラムやフォトグラムのようなものや、コラージュしたモノを撮ったりした主観性の濃い写真ばかりが「前衛写真」ではなく、「記録写真」も立派な「前衛写真」なのだという点にある。

こうした議論が濱谷さんにどのような影響を具体的に与えたかは分からない。あくまでも僕の推測だけれど、上にみたように、自らの道を探ろうとしていた濱谷さんが、こうした「記録写真」観をもっていた瀧口氏の謦咳に接し、また、渋沢氏の民俗学への情熱に接するなかで、自分自身の進むべき「写真の可能性や進歩的な方向」の一つとしての「記録写真」という方向に自信を与えるものだったと考えることは出来そうだ。「記録」をしようという濱谷さんの立場は、民俗学を出発点とし、和辻哲郎の『風土』を媒介にした学問の目を持とうとしながらも、もう一方で、被写体との人間的なつながりを失うまいとしていたと、僕は考えるのだ。

長谷川明は「「報道写真」の行方」(*30)で、戦時下の青年写真家協会の設立や「報道写真/ニュース写真」をめぐる論争などに触れて、戦時下の報道写真が宣伝写真に堕する危機にあったこと、および、そのような状態に実際になったことを踏まえつつ、「戦前の報道写真の最大の結実は濱谷浩の『雪国』(毎日新聞社/一九五六年)である。」と述べる。そして「民族的なものの再発見と農村文化の称揚はむしろ国策のひとつであったが、そのほとんどは思想と方法の欠如のためなんの成果もあげられなかった。その中で、戦争からの逃避のようにして行われた濱谷さんの営為だけが、写真的成功を納めたということは、一種の皮肉とも言えそうである。」としているが、そうした「写真的成功」は、偶然に生まれたのでもなければ、学問的志向だけで生み出されるほど呑気なものではなかったはずである。結果論にはなるが、農村文化の称揚という、国策に足を掬われ兼ねない場に足を踏み込みながらも、濱谷さんは桑取谷という個別具体的な場所にこそ拘ったのであり、蕫「農村」一般﨟や蕫「民族的」なもの一般﨟という想念とは一線を画していた。

    *

民俗学への関心と記録写真への志向を強くもち始めた濱谷さんは、一九四一年の五月に木村伊兵衛氏の誘いを受けて、「一五年戦争」下の対外宣伝、つまり謀略宣伝のための『写真画報』をつくる東方社に入社する。だが、社の幹部と喧嘩をして、翌年にはさっさと辞めてしまう。第二次世界大戦中にも桑取谷を訪れ、写真を撮り続けるが、東京への空襲が烈しくなったので、一九四五年七月には高田へ疎開し、寺町の浄土宗善導寺の裏二階に間借りをして、敗戦の八月一五日を迎えた。その日、ラジオで敗戦の報を聞いた後、濱谷さんが中天にかかる太陽の写真を写したことは、濱谷さんの写真に関心を持つ者なら誰でも知っていることだ。

まるで、土星の輪のように光のスジが真ん中に見える真っ白な太陽の画像は[敗戦の日の太陽、高田]という題名がなければ、ただの太陽の写真としか見えない。

 

その時、どうして太陽を撮ったのか、いまもってわからない。写真を撮る行為に、理性や感性とは別の何かがあるのではないか、記録癖が奇妙な形で現れただけのことであるのか、いまもってわからない(*31)。

 

写した本人にも分からないながら、確かに一枚の写真が撮られている。僕のここまでの論理から言えば、それは被写体の太陽に意味があるのではなく、写すという行為自体、そしてそこに[敗戦の日の太陽]と題名を付けること自体に意味があったからだということになる。

〈こと〉としての写真。それは、写された事物を通じて象徴的な意味を予感させようとするのでもなく、被写体の細部まで詳細に写し出して、モノとしての存在感を表現しようとするのでもない。ましてや、戦前の日本の写真界で一定の力を持った、狭義の「前衛写真」―つまり、瀧口修造の言う意味よりも狭い意味の―のような主観性の強い写真でもない、撮る者による対象への、じっくりと腰を据えた理解と共感のうえに立った、撮る行為自体もその映像の中ににじみ出ているような記録写真のことを指す。民俗学者が記録こそを目的として、民俗行事をフィルムに定着する仕業とも、それは微妙に異なっている。

重森弘淹は「民族的視点と常民的視点―土門拳と浜谷浩」で、濱谷さんの方法論的基礎の確かさを述べたうえで、濱谷さんの雪国への視線について、「土門拳のように、すでに古典として評価されたものの再発見ではなく、日本の歴史のなかで常にネガティヴな側面としてしか扱われず、辛うじて左翼史観が階級的な見地から、絶えざる闘争の階級として発掘しようとしていた側面であった。」と述べて、土門氏の日本への指向と、濱谷さんの「日本人を知るため」の中味の違いを的確に指摘したが、それは被写体との関係の取り方に関する問題としても言い換えられる要素を含んで示唆的な指摘だったのではないかと思う。つまり、土門氏の場合は、世間的に広く「評価された」土台に乗って被写体に向き合うものであったのに対し、濱谷さんの場合は、学問的バックグラウンドを持つとは言え、被写体と自分との関係を自身でじっくりと時間をかけて作り出して行くものだったということだろう。

土門氏に関してもう少しだけ言葉を費やすなら、氏の写真の場合は、自らの怒り、感動(それらの感情が、既成のセンチメンタリズムやステレオタイプな感情といった、通俗性に通い合っていた点は、長女の真魚氏が見抜いていたとおりだろう)を軸に現場に飛び込んで行く道筋と、重森氏がいうような「古典として評価されたもの」をベースに仕事を展開して行く道筋という大きな二つの道筋があったのではないか、と僕は思っている。その二つは、一見、似て非なるもののように見えなくはないが、それらの基底にある価値意識は、よくも悪くも大衆に理解されやすいという点で共通していたのではないだろうか。

ちなみに言えば、濱谷さんの写真に写っている「伝統」は・こと・としての伝統であり、土門氏の写真に写っているのは・もの・としての伝統だという感じが僕には強い。確かに、土門氏の写真にも・こと・が写っていると言えなくはない。けれども、たとえば文楽人形のヅラを撮った土門氏の[文楽・老女形]などは、その首から上のアップであり、それを操る人形師の身体はフレームから外されていたりする。

    *

写真集『雪国』が刊行される二年前の一九五四年から濱谷さんは、青森、秋田から島根、山口に至る日本海側の各地を取材して廻った。その成果が三番目の写真集『裏日本』として、五七年に出版される。津軽半島の竜飛崎、その切り立った岩場の下の狭い土地にへばりつくように立つ寒村の光景から始まって、「裏日本」各地の風土と人びとの生活を写した七九枚の写真の集成である。

この写真集の冒頭、扉の次のページには、まるで詩のように行分けされて「人間が/人間を/理解する/ために//日本人が/日本人を/理解する/ために」という濱谷さん自身のことばが掲げられている。そして写真のページが始まるのに先立って「裏日本について」という写真家自身の解説が置かれる。一枚一枚の写真については、巻末の「写真解説」に二〇〇字を越える説明が付けられているが、「裏日本について」はそうした写真群をくくる、濱谷さんの立場と理念、そして意気込みを示したマニフェスト的な意味合いをもった文章である。

日本列島は世界でもっとも大きい大陸と、もっとも大きい大洋に挟まれている。それは北から南によこたわる北海道、本州、四国、九州の四つの主島と、千をくだらない多数の島嶼によって構成された弧状列島である。国土面積三十七万平方粁、人口は八千九百万を越える。人口密度はオランダ、ベルギーに次ぐが、農用地に対する人口密度は最高である。土地狭く、人多き国、それが日本である。

 

「裏日本について」はこのように始まる。まるで地理の教科書に出てくる文章のような感じさえするが、濱谷さんの筆はこうした地理的、風土的条件を背負った日本の姿を描き出し、さらに、その弧状列島の「太陽が背を向けた土地」としての「裏日本」へと進んで行く。「豪華も、虚栄も、建設も、混乱も、ひっくるめて、二十世紀第一級の花形都市に成りあがった」東京を一方で見据えながら、「深い雪の中にかすんでしまっている」「裏日本」を「日本人が/日本人を/理解する/ために」写してきた仕事の意味付けが、ここで行なわれている。巨視的な視点から書き起こされるこの「裏日本について」の文体は、後に濱谷さんが『日本列島』(*32)や『孤峰富士』(*33)などを経て『地の貌 濱谷浩写真集成』(*34)につながる、数多くの大山脈や氷河、島々などを空撮で捉えた雄大な写真の視点を連想させるものだ。そうしたスケールの大きさは、しかし、決して、目配りの荒っぽさへ向かう類のものではない。

「裏日本について」の端々に和辻哲郎の『風土』からの影響を見て取ることもたやすい。モンスーン型、砂漠型などの自然地理的な気候の類型化にもとづいて人や文化のありようを分析しようとした和辻風土論に、濱谷さんは大きく影響されていると言っていい。しかし、その類型論の危うさに踵を接しつつも、濱谷さんの写真はそれぞれの土地に暮らす人びとの姿をつぶさに描き出し、そうした類型化のワナを乗り越えている。

『潜像残像』によれば、濱谷さんは「裏日本」の取材の前に、菅江真澄の東北紀行の文章や、船遊亭扇橋の『奥のしをり』、鈴木牧之の『北越雪譜』、吉田三郎の『男鹿寒風山麓農民目録』、太宰治『津軽』、近藤康男の編著『貧しさからの解放』などのほか、さまざまな書物を読んでおいたという。こうした姿勢の根底では、渋沢氏や市川信次氏から影響を受けた民俗学的思考法との接合が行なわれていたに違いない。マクロの視野を持ちつつも、一方では、視線の先に捉える対象へのこまやかな理解のためのスタンスを持つということ。それが、「裏日本」へ向かう、濱谷さんの基本的な姿勢であった。言うまでもないが、それは『雪国』の、桑取谷の人びとへ向けられた視線と同じ質のものだ。学問的な理解を一方で踏まえつつ、その枠組みを絶対化せず、向き合った現場のなかで感じ、考えて行く姿勢。

 

「裏日本」は第三写真集になる。前の二冊(*35)と共に、いずれも現代から遠く離れた人間の生活が、対象となっている。私は、私自身の理解を深めるために、そのような土地と、悪い条件に向かっていった。

 

この「私自身の理解を深める」という言葉は注意して聞いておかなければならない。知的、学問的理解を深めるなどという浅はかなところに尽きるのでなく、自分自身という存在の根っこを探り当てるためにこそ、この仕事は為されているという自覚を語った言葉の筈だ。「学問」的理解のために対象を切り刻んだり、記述したりして、学問の体系化を至高の価値とするようなところには、濱谷さんは自らを立たせないと言っているのだ。足を地に着けて、この二〇世紀の日本に自らが生きていることの事実からスタートするということ、そして、その「日本」が「花形都市」の周辺だけで成り立っているのではなく、「裏」の「日本」の「太陽が背を向けた土地」とともにあることの意味を、これらの写真を撮ることを通して考えようとしたと言っているのである。

    *

『裏日本』のなかで、一番よく知られている写真は何といっても[田植女]と題された、富山県中新川郡上市町白萩の「アワラの田植」を写した一枚だろう。泥まみれの、まるで黒い粘土でこしらえたトルソのようなこの人物の右手には、稲の苗束が握られ、背景には植え付けられた苗が数条見えている。左右の肩のあたりに、わずかに絣の模様が見える以外は、泥また泥。巻末の「写真解説」には、

 

ここ、アワラの田植は凄い。ワラ屑をからだにまきつけ、ボロをまとって、泥沼に胸まで没して植えつける。ワラは保温と浮力のためにつけるのだ。山に囲まれた小盆地、全土火山灰からなる沼沢地で、水田というより底なし沼である。(略)日本の水田は父祖代々の血と汗によって、その多くは美田と化した。が、狭い土地、いまなお、こんなところにも稲作しなければならぬ山間の部落がある。(以下略)

 

と記されている。この写真は写真集に収められる以前に「中央公論」に掲載された。「そのためかどうか知りませんが」と濱谷さんは書いて(*36)、「その後、干拓工事が進められ、いまではあのような悲惨な田植はなくなったということです」としているが、実際に富山県当局が動いて干拓が進められたようである。一枚の写真が現実を動かしたと言えば、言い過ぎになるだろうか。

写真によって現実を動かそうと考えて、濱谷さんは写真を撮ったのではない。そんな下心をもって撮った写真は、戦時下のプロパガンダ写真と異なるところはなくなるだろう。だけれども、写した写真が結果として、現実を動かすことはありうる。そのことを目的とするのではなく、しかし、そうであり得る可能性を否定しない、現実に向けて開かれた濱谷さんのスタンスが「裏日本について」の文章を生み出し、「写真解説」の文章を生み出したのだと僕は思う。

この「アワラの田植」の写真の前のページ(見開きの左にこの写真があり、その右側のページだ)には、手ぬぐいを姉さんかぶりにして、更の野良着を着、腰に竹篭をくくりつけて畦道を急ぎ足で行く同じ白萩の早乙女の[畦道]という題名の写真が配されている。中望遠のレンズ(*37)で捉えられた彼女の背景には一面の水に覆われた田圃が写っている。以下は、この写真への「解説」全文。

 

田植は農耕のなかでも、とりわけハレの行事とされている。紺絣を新調し、早乙女姿もりりしく、水田に働く姿は美しい。だが、農民の年間労働量の比では、もっとも酷しい率を示す重労働である。日本の農業人口は四三%、耕地面積は国土の一四%、耕地当り農業労働力は一町歩約三・五人。アメリカの八八倍になる。ということは同じ面積の耕地で、アメリカの八八倍の農民が暮らしてゆかなければならない勘定になる。五反未満の農家数がほぼ三〇%をしめている。耕地の人口割も高率。

 

濱谷さん以前に、誰がこんな解説を書いただろうか。あるいは、書けただろうか。早乙女の姿を捉えた写真ならば、もっと明るいトーンの文章が書かれてもいいはずだろう。けれど、こうした「解説」の視点にこそ、写真家濱谷浩の真骨頂はある。情に流されたり、通念として共有されている「美意識」にもたれ掛かってキャプションを綴るのでなく(「早乙女姿もりりしく、水田に働く姿は美しい。だが、」という姿勢)、その被写体が在ることの根源へと遡ろうとする姿勢が、この文章を作り上げているのだ。そして、そうした見方のあることを写真を見る者の世界へ、声高にではなく、淡々としたスタイルをとって静かに伝えてゆく。

    *

ところで、僕は、先に「裏日本について」に触れて、濱谷さんの写真が「足を地に着けて」撮られているということを書いた。その文言を書きながら思ったのだが、濱谷さんの撮った人物写真には、足の爪先まで捉えたフル・ショット・全身像が比較的多いような気がする。そして、足先まで写していない場合には、そのことがむしろ・不在の足先・に意味があることを示しているのではないかと思ったりする。[アワラの田植]しかり、また[畦道」しかりなのである。[アワラの田植]では、泥のなかに埋もれた足先にも大きな意味がある訳だし、[畦道]の早乙女の足先(実は、泥にまみれていることが画面をよく見ると分かってくる)は画面の外に押しやられることで、その汚れのない上着の白さが次ページの泥まみれの田植の酷さを一層強めていると言える。

他の写真家のものときちんと比較してみたわけでもないのだけれど、たとえば[歌ってゆく鳥追い]は言うまでもないが、同じ『雪国』のなかの石仏を背にくくりつけて雪のなかに立つ少年を写した[地蔵様年始]、『裏日本』の吹雪のなかを歩く[赤子を背負った子]のショットなど、印象に残る作品の大半が、単に周囲の状況を説明的に写し出すために後景がただ写っているのでなく、その人物が立ち、歩く足元がきちんとフレームに収められているのである。わずか二日の滞在で写し廻ったという中国新彊ウイグル自治区のウルムチの町と人の写真集『邉境の町 URUMCHI』(*38)でも、鍛冶屋の親子や水運びをする子どもの写真など、印象に残る作品はみな、その足先まできちんと捉えている。三五ミリの広角レンズを使っていたからそうなりやすい、とも言えなくはないが、このポジションがどうやら、濱谷さんの対象を理解するための必須のものらしいのだ。

演出家の竹内敏晴氏の文章は、とても刺激的で僕の大好きな文章の一つだが、たとえば「からだそだて」(*39)という文章のなかで、氏は「姿勢とは孤立したものではない。相手と主体との間に成り立つ関係の表現なのである」と述べている。その姿勢の土台となっているのは脚/足だと言ってほぼ間違いないだろう。とするなら、足(脚)をどのように動かしているか、どのように使っているかを描くことは、その人が相手(竹内氏の言葉を拡大して、僕は「世界」と言いたくなるのだが)と作り上げている関係を端的に表現することになっているはずだ。

ところで、濱谷さんが実用航空研究所への入所からカメラマンとしての人生をスタートさせたことは既に触れたが、その時の航空写真に始まり、戦後の[東京の空の下](*40)(一九五三年)、[見下げた東京](*41)(一九五八年)といった空撮や『日本列島』(一九六四年)、独自の富士への視線を示す『孤峰富士』(一九七八年)の空撮写真など、濱谷さんは数多くの俯瞰写真を撮っている。そこに、東方社時代の一九四一年に横須賀の海兵団の行進を「梯子式の消防自動車を出してもらい四段伸ばしの梯子のテッペンから約三千人の部隊行進を撮影した」(*42)ことなども含め、濱谷さんは俯瞰撮影が好きなのかもしれないとさえ思う。そうした俯瞰のポジションは、一面では、被写体から自らを切り離した・客観・の位置を占めるものと言うことが出来る。人間を被写体とした場合、そこまでカメラを引いたら、人物はほとんど見分けのつかない点のようになる。しかし、その反面、俯瞰の位置は、対象から離れることによって、かえって対象の置かれた全体の布置を見渡すことが出来るようになる位置でもある。危うい位置であると同時に、魅力的な位置でもあるのだ。

民俗学や地学、地理学などの知見を広く学びとるなかから、濱谷さんは被写体の世界への関わりを深めていった。だが、それはその世界を学問的な記録に留めるためだけのものではなく、その写真を通して、撮った自分自身を、また見る者たちをもっと開かれた世界へ繋いでゆくものであった。学問を基底に据えたカメラの濱谷さんの位置は、おそらく、先に述べた空撮の俯瞰の位置と相通じている。一方が、理念的な俯瞰の位置だと言えるなら、もう一方は、実際的物理的な俯瞰の位置である。だが、濱谷さんはどちらの場合にも、そうした俯瞰の位置に留まり続けるのではなく、必ず、対象の体温の感じられるところまで降りてくる。そうした運動の中で、濱谷さんは写真を撮ることが現実の世界に対して持ちうる意味を、数多くの写真の実践として問い続けてきた。

    *

濱谷さんは「一九七一年ごろから写真を撮る気が失せてしまった。日本の様変わりの激しさを呆然傍観していた。」と述べている(*43)。一九七二年に日本写真家協会を退会した濱谷さんは、翌年二月二日付「東京新聞」掲載の「挫折したグラフ・ジャーナリズム」という文章で「社会派といわれ、正義の味方みたいな心情で懸命に写真を撮ってきたけれど、その役割は七〇年代混乱の渦のなかで翻弄され、潰され、流されてしまったように思えてならない」と述べ、「送り手と受け手という従来のジャーナリズム、マス・コミュニケーションのありようが崩れてしまった」と記している。濱谷さんが『雪国』『裏日本』などの仕事を通して、それを作り上げる一端を担ってきた、被写体と写真家と、そしてそれを伝えるジャーナリズムとの関係が根こそぎ変わってしまったというのだ。この文章のなかで、濱谷さんはテレビというメディアが「写真の一つの機能を封殺した」とも述べ、写真の社会的機能がテレビを代表とする巨大メディアの力の前で死に体になりつつあることを指摘していた。それはほとんど、記録写真家としての濱谷浩の敗北宣言とも見えるものであった。

しかし、その後の濱谷さんは、カメラを捨て去ったわけではなく、幾つもの仕事をし遂げている。そうした七〇年以降の仕事とそれ以前の仕事をあわせて纏めたのが、この文章のなかでも何度か触れた『地の貌 濱谷浩写真集成』であった。この『地の貌』は地球上のさまざまな地形を写した写真を集めた写真集だが、人びとの暮らしを写した写真をまとめたもう一冊の『生の貌』とセットになっての二冊本の集成をなしている。自然と人間との往還。そのどちらかに偏することなく、いわば、極大と極小の間を行き来する写真行為。そういった濱谷さんの写真行為を象徴するかのような構造を『生の貌』『地の貌』は作り出している。

飯沢耕太郎は、「濱谷浩『裏日本』」で「『裏日本』に限らず、濱谷の写真は単純な「記録写真」や「報道写真」の枠を超えて、見るものの感情を揺り動かし、記憶の中にずっと残っていくような蕫強さ﨟を備えているように思う」(*44)と記したが、僕の考えでは、その蕫強さ﨟は、上に述べてきたような、被写体と写真家との、あるいは環境と個人との間を往還することのなかから創り出されているのである。

一方で風景写真が隆盛を極め、もう一方で若者がプリクラや「写るんです」で仲間うちの写真を撮って楽しみあうこの現代の、どちらも閉塞と紙一重のこうした写真状況のなかで、人間と自然との間を行き来しながら濱谷さんが探り続けた、対象の世界に付くことと離れることとのバランスの意味は、もっと深く考えられていいはずだと僕は思う。

 

〈付記〉この文章で触れ得なかった濱谷さんの仕事はまだたくさんある。『怒りと悲しみの記録』について、『孤峰富士』の富士像についてなど、いずれ、少し別の角度から考えてみたい。

 なお、本稿には[歌ってゆく鳥追い]を含め、「若木迎え」の連続ショットなどを参照図として掲載したいと考えたが、筆者の依頼状に対して、濱谷さんの助手の方から丁重なお断りの電話をいただいた。ほんとうに残念だったが、諦めることにした。

〈追記〉本稿の印刷最終段階で濱谷さんの訃報に接した。心から、ご冥福をお祈り申し上げる。