問題提起3 旧ユーゴにおける民族紛争の背景

江川ひかり

 本学兼任講師

 

初めまして、江川ひかりと申します。

私の専門はオスマンの歴史でして、ユーゴスラヴィアの現代史が専門ではありません。そこで本日はオスマンの歴史を通して何が言えるかということでご容赦願いたいと思います。

まず、一番初めに、「旧ユーゴスラヴィアの戦争は民族・宗教紛争なのか」という問いを考えてみたいと思います。結論から言ってしまいますと、民族紛争あるいは宗教紛争であると言ってしまうのは誤りではないか。そういう側面はもちろんありますが、根本的な原因はそこではないと考えたほうがいいと思います。

これは私だけではなくて、東京大学の柴宜弘さん(*1)をはじめとして、ユーゴスラヴィア現代史を研究なさっている方の意見でもありますが、その原因をまとめると、以下の三点が考えられています。

一つは、一九八〇年のチトー大統領の死です。一九七四年に憲法ができまして、各共和国から代表者を出して、彼らが国を動かす連邦幹部会を組織する、そういった集団指導体制を築くわけですが、その体制がチトー大統領の死とともに崩壊しました。そして、この集団指導体制をリードしてきた共産主義者同盟の指導力が低下し、そこからユーゴスラヴィアの中に、各共和国自体に力をもたせる地方分権とユーゴスラヴィア連邦の中央へ力を集めていく中央集権という、二つの力の争いが生じてくるわけです。

このような背景を考えれば、旧ユーゴスラヴィアにおける戦争はクロアチアやスロヴェニアのような分権派と、セルビアを中心とする連邦派との、国家の形態をめぐる対立ととらえたほうがいいのではないか。もちろんそこに民族や宗教の対立がしっかりと当てはまっていったために、この国家形態をめぐる対立が民族紛争、あるいは宗教紛争へ、だんだんとすりかえられていったと考えたいと思います。

もう一つは八〇年代の経済状況の悪化です。ユーゴスラヴィアの問題をオスマン時代からずっと見ていきますと、経済問題が非常に重要な問題であると言えると思います。ユーゴスラヴィアでは一九八四年にサラエヴォオリンピックが開催されましたが、そのときの経済状況は非常に厳しい状態で、累積債務、貿易収支赤字が慢性化していました。

その結果、各共和国に経済力の格差が出てきます。オーストリアに一番近いスロヴェニアでは観光収入が入りますから西側を向いていきますが、一番南のマケドニアは非常に貧しい共和国でした。このような状況の中で、各共和国の指導者が民族主義的な発言を行なっていく。つまり経済的な格差であるとか国内の諸問題が、民族主義的な、あるいは宗教的な問題へとすりかえられていったのではないかと思います。

いきなりこのようなことを申し上げても、ユーゴスラヴィアという国がわからないといけませんので、地図1で確認したいと思います。

第二次世界大戦後のユーゴスラヴィアは、七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家というふうに俗に言われております。

「ユーゴスラヴィア諸国の現況」という表がありますが、これは第二次世界大戦後ではなくて一九九六年ですから、連邦が崩壊した後の状況ですが、各共和国にどのような民族がいて、どのような宗教を信じていて、どのような言葉をしゃべっているかということがわかるかと思います。

もう一つの地図2は、第二次世界大戦前の状況と書いてありますが、ユーゴスラヴィアの部分はほとんどセルビア人、クロアチア人で埋められています。そうしますと、たとえばボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国にいる「ムスリム人」はそのときはいなかったのかという疑問が出てきますが、「ムスリム人」というのは非常に新しくつくられた民族概念で、このときにはセルビア人、あるいはクロアチア人とみなされていた人たちです。

それはいつからかといいますと、表の「民族構成」の項目を見ていただくとわかると思いますが、一九九一年の国勢調査のときに初めて「ムスリム人」という概念が導入されました。ユーゴスラヴィアの国勢調査というのは自己申告制で、たとえば私はエジプト人だと申告した人たちもいるそうです。つまり、この時点で自分は「ムスリム人」だと考えた人が、ここに登録されているわけです。

もう一つ、この表に「ユーゴ人」という表記があります。ユーゴスラヴィアという言葉は南スラブ民族の国という意味です。チトー大統領が第二次世界大戦後に南スラブ民族の一体性を保持するために「ユーゴスラヴィア人」を新しい民族概念として設けた結果、ユーゴ人だと申告する人が出てきたのです。

自らをユーゴスラヴィア人だと申告する人は、まず第一に、共産主義者同盟を支えたリーダーたちで、つまりユーゴスラヴィアという国が大事だと思う人です。このように意識的にユーゴスラヴィア人だと申告する人のほかに、第二に、クロアチア人とセルビア人の間に生まれた人、あるいはムスリム人とセルビア人の間に生まれた人がいます。つまり、ユーゴスラヴィア人という民族概念は、意図的に広められ、他方で、各民族間の結婚が進む過程でユーゴスラヴィア人と言うしかなくなった人がいるわけです。

そのほかのところを見ていただきますと、セルビア人、アルバニア人、モンテネグロ人など、いろいろ書いてありますが、アルバニア人、ハンガリー人を除きまして、トルコ人はもちろん違いますが、あとは南スラブ民族に属しています。

ところで、ボスニアにだけユーゴ人がいますが、これはユーゴ人だと思っている人がボスニアにいるということなのです。ボスニアだけではなくて、クロアチアにもそう思っている人はいると思いますが、これは一九九六年三月の時点ですから、各共和国が独立した後でもなお自分はユーゴ人だと自己申告する人たちです。このボスニアというのは、おそらくサラエヴォだと思います。サラエヴォというのは非常にインターナショナルな、サラエヴォ気質のようなものがあって、自分はどこの民族にも属さない、かつてのユーゴスラヴィアのユーゴスラヴィア人なんだと自覚する人と、ユーゴスラヴィア人としか言えない人がサラエヴォに集中していて、この統計に出てきていると考えられます。つまり、ムスリム人という概念とユーゴスラヴィア人という概念は人工的につくられた民族概念であるということです。

 

ユーゴスラヴィアは先の戦争で解体してしまったわけですが、柴宜弘さんが文献(*2)の中で、その後に残された民族の問題を挙げています。

この民族問題には、第一に主要民族の対立という問題、たとえばセルビア人とクロアチア人の対立が挙げられます。第二に少数民族の問題、これは今年非常に大きく動いたコソヴォ自治州の問題です。そして第三に、複数の国家に分割されてしまったマケドニアの問題があります。

ただし、これらの民族問題の中で、ムスリム人については特に触れられていません。ムスリム人というのは、イスラーム教を受容した南スラブ民族ということですから、ムスリム人とはトルコ人ではないということです。このことはご承知かと思いますが、もう一度確かめておきます。

ここからがオスマンの話です。オスマン帝国が長い間ボスニア・ヘルツェゴヴィナ地域を支配していました。そして、今までの東欧史の文脈ですと、悪しきオスマン帝国に支配されていた、抑圧されたバルカン民族がやっと一九世紀に独立していくという文脈でした。しかし、先月出版されました『バルカン史』(*3)の中で、そういう見方は見直さなければいけないと、バルカン史専門の佐原徹哉さんが書いています。

では、オスマン帝国支配におけるユーゴスラヴィアは、どのような環境にあったのか。特に民族的、宗教的な環境はどうだったかということを考えたいと思います。

まず、オスマン帝国が支配する以前のことを考えますと、はるか昔にさかのぼってしまいますが、ローマ帝国の東西分割に始まるかと思います。

ローマ時代の東西分割線を見ますと、ボスニア・ヘルツェゴヴィナとセルビアの境界をきちんと通っていきます。つまりローマが悪かったと言うわけではなくて、歴史を見ていこうということですが、ローマ帝国が二つに分かれた三九五年の段階で、その後の正教世界とカトリックの世界とが線引きをされてしまったと考えられます。それがたまたまボスニア・ヘルツェゴヴィナとセルビアの間であったわけです。

中世のセルビア王国はアドリア海にも達する非常に大きな領土を持っていました。このセルビア王国の中央部にペーチというところがありますが、このペーチがセルビア正教の本山となっていたところで、そこがまさに現在のコソヴォ自治州なのです。

地図3を見ますと、コソヴォという地名が出てきます。

一三八九年六月二八日、オスマン軍が小アジアから攻めて行き、コソヴォでバルカン連合軍と戦いますが、セルビアはここで敗退します。

このコソヴォの戦いこそが六〇〇年間の憎悪の根源である、この日をセルビア人は怨念の日、屈辱の日としてずっと語り継いでいると主張する、一部のセルビア人が現れました。六月二八日は、セルビアでは「聖ヴィドの日」と呼ばれる、聖人のヴィドの日だったのです。

この議論の問題点とは、オスマン軍を率いていたスルタン、ムラト一世がコソヴォの戦いでセルビア人に切りつけられて死んでいることです。オスマン軍はその報復として、セルビア軍を率いていた王をはじめ多くの領主を殺しました。つまり、決してオスマン軍側も無傷ではなかったのです。

もし、このコソヴォの戦いが「民族の憎悪」だとしても、セルビア人たちが戦ったのはトルコ系あるいはギリシャ系の血も入っているオスマン軍でした。一方、先の内戦で戦ったのはムスリム人で、ムスリム人は民族的には南スラブ民族ですから、セルビア人の兄弟です。ですからオスマン軍とムスリム人とを民族ということでそれらの間の連続性を考えるのはおかしいと思います。

それから、問題点の二としては、佐原さんの文(『バルカン史』)に書かれていますが、オスマン軍が攻め込んだときに、イスラームの脅威に対してキリスト教徒たちが決して一枚岩ではなかったということです。一五世紀の段階でもヴェネツィア、ハンガリーはその混乱に乗じてバルカンへ勢力を拡大しようとしていて、セルビア人たちの中には、ローマに屈するよりはまだオスマンのほうがましだと主張する人もいたということです。

 

次に、コソヴォのアルバニア人の問題にうつりたいと思います。一三八九年のコソヴォの戦い以後、セルビア人は大挙して北方へ移動しますので、そこにアルバニア人が入ってきます。コソヴォの戦いのときがアルバニア人の入植の第一期としますと、第二期は、一七世紀の後半から一八世紀の前半にかけての移動です。そのときにはセルビア正教の総主教が正教徒住民を引き連れて北方へ移動しました。大体三万から四万の家族を連れていったと言われています。

もちろんオスマンが支配していたから彼らはそこを逃れたのですが、セルビア正教徒が北方に逃れたために、オスマン政府はまたアルバニア人を入植させたわけです。現在コソヴォにイスラームを受容したアルバニア人がたくさん住んでいるのは、このような歴史的背景に由来しています。

ただし、オスマンの政策は、住民を民族で把握するのではなくて、宗教で把握するという統治の方法をとっていますので、何々民族というとらえ方ではありません。オスマン政府の宗教別の統治を考えますと、東方正教会を国家の官僚機構の中にとりこむ形で認めていったほか、帝国内のカトリック教徒やユダヤ教徒などを迫害するとか、全員強制的に改宗させるという政策はとりませんでした。彼らがイスラーム教徒以外に課せられた人頭税を支払いさえすれば、別に改宗しなくてもいい、という統治方法をとったのです。

オスマン帝国支配後のコソヴォは、セルビア、アルバニアなどによる支配下におかれ、そして結局はユーゴスラヴィアの中のセルビア共和国の自治州になるわけです。コソヴォ自治州の中ではむしろセルビア人が少数派で、イスラーム教徒であるアルバニア人が多数派ですが、中央から役人が来るとどうしても支配層にセルビア人が多くなる傾向があって、アルバニア人の不満がだんだん募っていきます。

ただし、たとえば一九六八年のアルバニア人の暴動や一九八一年の学生の暴動など、コソヴォにおけるアルバニア人の暴動は、基本的には経済的な問題と考えられます。大学を出ても職がない学生がその不満をどこにぶつけるかというと、アルバニア人が差別されていること、さらにイスラーム教徒が差別されていることに向かっていきました。

現在のコソヴォの状況は、今年、非常にクローズアップされたのでご存じだと思いますが、まずコソヴォの中で独立をしようというアルバニア系住民の動きが起こりました。彼らは平和的にコソヴォ共和国の宣言をしました。ところがその中で飽き足らない人たち、つまり武力行使にうったえようとする勢力がコソヴォ解放軍を結成し、この勢力とセルビア人の軍隊との戦いが始まりました。そのために国際社会が介入し、つい先月ですけれども、一応平和的解決に向けて両者が合意したということになっています。やはりコソヴォ問題でもアメリカの仲介を必要としました。とはいえ、このコソヴォ問題には、アフガニスタンと同じように避難民の問題が残されていますし、事態は非常に難しいと思われます。

 

次に、オスマン帝国支配下のボスニア・ヘルツェゴヴィナの宗教的な対立という問題に移ります。

まず、ボスニアのイスラーム化についてはいろいろな説がありますが、長い時間をかけて行なわれたことは確かです。部分的には強制的な改宗もあったかもしれませんが、オスマン政府の政策としては強制改宗はなかった。つまり、ボスニアの人びとが経済的あるいは社会的な地位を改善するために、長い時間をかけてイスラームに改宗していったということです。

そして、もう一つの要因は、ボスニア国境の北方からイスラーム教徒が戻ってきたことが挙げられます。つまり、オスマン帝国は、一六九九年にはボスニア、セルビア、クロアチアの境まで撤退します。そうしますと、それまでオスマンの支配が及んでいたハンガリーやトランシルヴァニアからオスマン軍が撤退することによって、これらの国にいたイスラーム教徒がすべて南に移住することになります。撤退してくるわけです。そのイスラーム教徒とは、やはりスラブ系のイスラーム教徒で、南へ下ってきてボスニアに定着することになります。今日、ボスニアにイスラーム教徒が集中しているのは、このような長い歴史的経緯によっているわけです。要するに一七世紀末の状況とは、オスマン帝国とオーストリア=ハンガリー帝国との国境戦争、領土の争いです。その結果、たくさんのイスラーム教徒がボスニアに戻ることになったわけです。

 

このような過程を経て、一九世紀後半が一つの焦点になってきます。

一九世紀後半のボスニア・ヘルツェゴヴィナにおいて、一般的にはムスリム地主対キリスト教徒小作人の対立が非常に激しくなって、そこでキリスト教徒の小作人が農民反乱を起こし、イスラーム教徒が破れたという記述が見られます。正確には「その多くがイスラーム教徒であった地主たち」と、「その多くがキリスト教徒であった小作人たち」との対立でしたが、それを、まわりの諸国、特にカトリック諸国や正教諸国がムスリム対キリスト教徒の対立という形であおることになりました。

ですから、一九世紀後半の状況というのは、今回の状況に非常に似ていると思います。もともとの対立は政治的あるいは経済的な、つまり小作料が重い、年貢が重いから安くしてくれというような問題、今年は不作だったから小作料を減らしてほしいといった問題だったのです。たとえば、キリスト教徒とイスラーム教徒の農民が連帯して嘆願している事例が実際にありました。

このような事態のなかで、オスマン政府は小作料を全国統一化する、あるいは無償の労働を廃止していく、そういう方策に出ます。全国統一の小作料を決めたり、無償の労働を廃止するということは、一見近代的に見えるわけですが、実は非常に土地がやせているところだと全国統一の小作料というのは非常につらい。収穫物の三分の一を地主にあげるよりも、収穫物の五分の一をあげて無償労働したほうが、自分たちの取り分は多くなります。ですから、小作料の統一という、一見近代的に見える改革も、実際の農民にとっては負の改革となりえます(*4)。自分たちの食べ物の確保こそが大事なわけです。

国際的な世論は、無償の労働をさせることは奴隷労働であると非難します。つまり人権侵害であるという発言になってきます。オスマンもこのような非難に応える形で法律を整備していくわけですが、実際の現場の農民たちは不満です。その辺の状況はもう少し資料的に詰めていかないといけないのですが、要するに近代的な法改革、あるいは人権という名のもとになされた改革が、現場の農民たちにとってはたして良かったのか悪かったのかを考える必要があります。

また、ロシアやセルビアなど、周辺諸国の民族主義の高まりによって、オスマン帝国内部の民族主義への煽動が起こってきて、経済的、政治的な対立が、イスラーム対キリスト教、あるいはオスマン対セルビア民族といった民族の対立へと変えられていく。そういった変質が起こったのは一八七〇年代であったと言われています。

あるスイス人の医師が一九世紀のボスニアの回顧録を残しています(*5)。彼は、「我々が初めて宗教上の憎悪の光景を目撃し始めたのは一八七一―二年の時期だった」と記録しています。そのほかの資料ともつき合わせてみますと、大体一八六〇年代、七〇年代ごろから宗教的な対立というものが見えてきたというふうに考えられるわけです。

ですから、その前までは、キリスト教徒であれ、イスラーム教徒であれ、すべてが平和的に共存していたわけではないにしろ、少なくとも民族的、宗教的な理由による対立というものはわき上がってはいなかった。そのことが歴史の研究から言えるのではないでしょうか。

 

時間がなくなってしまったので、旧ユーゴスラヴィア戦争検証という話題にうつります。

去年出た『現代思想』(*6)という雑誌の特集で、ユーゴスラヴィア戦争を客観的にどうやって見直していくかということが、専門家によって語られています。その中で、ユーゴスラヴィアの対立は、結局ユーゴスラヴィズムとナショナリズムの内戦であったと、千葉大の小沢弘明さんが言っています。要するにユーゴスラヴィアを南スラブ民族の集合体としてとらえるのか、それともセルビア人、クロアチア人というように個別的にとらえていくのかの対立だった、と彼は言っています。

次に、ボスニア・ヘルツェゴヴィナにおける戦争激化の原因について、柴さんは、民族という観点で言えば、民族自決とは一体何なのか、そのことを問いかけています。それを相対化していかなければ、すべての民族が自決するということは成り立たなくなっているということです。具体的に言いますと、スロヴェニア、クロアチアという国を認めていくのは、民族自決の論理で認めていくわけですが、ボスニアというのは民族が混在しているわけですから、その同じ論理でボスニアを認めることはできません。そうすると民族問題を解決する普遍的理論がないわけです。そこをどうしたらいいのかということです。

三番目としては、ボスニアで非常に問題となった民族浄化にはいろいろな方法があったことが指摘されています。たとえば、強制収容所の問題ですとか、レイプの問題などが非常にセンセーショナルに報道されました。皆さんもご存じかと思いますが、『ニューズウィーク』に出たような報道もあります。

このような場合、トルコで出ている新聞などでは、「セルビア 死のキャンプ」という見出しが一面を飾るわけです。トルコという国は日本と違って、やはりムスリムの国、イスラームの国なので、セルビア人に痛めつけられる、死に至らしめられるムスリム人の収容所があると、報道がどうしても偏ってしまいます。

しかし、この収容所の問題にしても、レイプの問題にしても、どの民族もほかの民族に対してお互いに同様の行為をしているということも指摘されています。つまり、どちらが悪い、こちらが悪いとは言えない。どういう事実関係があったのかを見直すことも難しいと思いますが、客観的に検証していかなければいけないことです。

その中で集団レイプの問題について、民族主義というものを乗り越える一つの横の軸として、クロアチア人もセルビア人もムスリム人も女性が被害者になったということで、女性の連帯というものが、あるいは民族問題を解決していく一つの糸口にならないかということを、『現代思想』(*7)の中でマリーさんという方が言っています。女性というのは――私はそんなにフェミニストではなくて、いつもこぶしを挙げて叫んでいるわけではありませんが――民族を生んでいく、文化を生み出す機能を持っているということで、戦争という状況の中でそれを破壊することが文化の破壊になりえるという意味で、一つキーになると思います。つまり、民族を超えた女性の連帯が、民族紛争解決の糸口の一つの光なのではないかと思っています。

最後に、民族紛争を日本から考えるという問題にふれたいと思います。外交面は、日本は旧ユーゴスラヴィアの諸勢力と何の関連もなくて、カトリックでもないし、正教でもない、イスラームでもなく、地理的に特に近いわけでもない。そういう偏らない日本だからこそ、できることがあるのではないか。明石康さんと緒方貞子さんが日本代表のような形で活躍していましたが、我々も何かもう少し積極的に知っていくというか、バイアスをかけずに見て、何らかの努力をしていくことが大事だと思います。

同時に、旧ユーゴスラヴィア戦争を日本に置きかえて考えてみることが大事だと思います。たとえば、領土の問題であるとか、民族の問題というのは、現代の日本にとって決して他人事ではありません。

たとえば、レイプの問題で、組織的に集団レイプをしたことは、戦争という状況の中で仕方がなかったという主張がありますが、そのロジックは従軍慰安婦問題のロジックとも似ているのではないかということを、岩崎稔さんが指摘していました(*8)。

ボスニアと言うと非常に遠い国のことのように思われますが、我々はバイアスをかけずに見るということがまず第一の課題かなと思います。

 

*講演後、イギリスで制作されたビデオ「ユーゴスラヴィアの崩壊」の一部を上映した。


えがわ ひかり 東洋文庫研究員を経て本学兼任講師 お茶の水女子大学大学院人間文化研究科比較文化学(博士課程)専攻 専攻・トルコ近現代史 広範なイスラム世界の変動を調査するとともに、現代トルコの文化を広く紹介する 論文に「ダンズィマート改革期のボスニア・ヘルツェゴヴィナ」『岩波講座「世界歴史」』第21巻、岩波書店、一九九八年 訳書にノエルマルコム『ボスニア史』彩流社、共訳(近刊)などがある

*1 柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』岩波新書、一九九六年

*2 柴宜弘『バルカンの民族主義』山川出版社、一九九六年

*3 柴宜弘編『バルカン史』山川出版社、一九九八年

*4 拙稿「タンズィマート改革期のボスニア・ヘルツェゴヴィナ」『岩波講座「世界歴史」』21巻、岩波書店、一九九八年

*5 マルコム『ボスニア史』 Noel Malcolm, Bosnia-A Short History,London,1994、邦訳が近刊

*6 『現代思想』二五巻―一四、青土社、一九九七年

*7 前掲『現代思想』

*8 前掲『現代思想』