問題提起2 多国間植民地問題としてのクルド紛争

松枝 到

 本学人間関係学部教授

 

和光大学の松枝と申します。

東西交渉史とご紹介いただきましたが、本来、大学院などで学んでいたのは西洋の美術です。西洋の美術とアジアとの関係というようなことをやっておりまして、その関係でアジアにも大変深い関心を持っていました。ですから、民族問題については素人といいますか、専門的な研究をしているわけではありません。

さて、クルドの人びと、もしくはクルドの人びとの国をあらわす「クルディスタン」という土地があります。ここに大雑把な地図がありますが、幾らか網がかかったようなところがクルディスタンと呼ばれている地域です。

百科事典などを見ますと、トルコ、イラク、イラン、この三国にまたがる地域に住んでいる部族もしくは民族と呼ばれるのがクルドという人びとですが、実はもっと広く、さまざまなところに住んでいます。トルコにもっとも多く居住していますけれども、シリア、イラク、イラン、それからずっと飛んでイランの北方からトルクメニスタン、それから、下のほうに降りますとバルチスタンと書いてありまして、イランの南部からパキスタンにかけてもクルドの人びとが見られます。

このクルドの人びとに私がなぜ関心を抱いたかといいますと、たとえば、トルコにヴァン湖という湖があります。ここら辺は有名な絨毯の産地、あるいは特殊な猫の産地ですが、このあたりに大変古くからの遺跡があります。有名なのは、たとえばウラルトゥーという古代の国がありましたし、また、紀元前後に展開したコンマゲネという王国がありまして、一〇年ほど前に私たち和光大学のグループでそのコンマゲネ遺跡を訪ねたことがあります。トルコ東部のディヤルバクルという都市があり、ここから少し山に上がったあたりに古代都市の遺跡があるわけですが、そこに行きたいと思ったわけです。

ところが、日本で調べてみると、そこにアプローチできるのかどうかよくわからない。それではとりあえずトルコに行ってみようと、イスタンブールへ行きまして、イスタンブールで、昔コンマゲネと言われていたあたりを訪問したいと言ったら、どこの旅行社へ行ってもそれはやめなさいと言われました。なぜやめなければいけないのかと聞くと、クルドがいるからだと。クルドとは言わないで、山賊がいると言いました。つまり一〇年前はクルドという名前を言うことさえ禁じられていました。

トルコの側から言えば「山岳トルコ人」、もしくは「山に住むいなかの人」というような名前でしか、クルドの人びとのことは語れなかったわけです。ですから、山賊、盗賊、強盗、そういった言葉の同義語として語られていたわけです。

それで私も、そういえばそういうものを読んだことがあるなということをいくつか思い出しました。一九世紀から二〇世紀にかけて書かれたさまざまな中東冒険物語の中に、たびたびクルド族は出てきます。そして彼らは何をするかというと、剣を振り回し、銃を撃ち、とにかく人びとを襲う連中、ならず者、やくざというように描かれていました。

それでも、とにかく行ってしまおうというので行きました。シリア国境のすぐ北にあたるガズィアンテップという町からディヤルバクルのほうまで上がりまして、そこら辺で、はたしてコンマゲネへ行けるだろうかと、また旅行社へ行って聞きました。するとそこの人は「行けるに決まっているじゃないか。大変楽しいところである」と言います。それで、「クルド族がいるんじゃないの?」と聞いたら、「それはいる、おれもクルド族だ」と言うのです。「おまえはどこから来たのか」「イスタンブールから来た」「イスタンブール? あそこはだめだ。危険だ。トルコ人ばっかりだ」(笑い)というような話をしていました。それは何でだろうと思ったんです。

そのとき一緒に旅をした前田耕作先生、村山和之先生がきょうおられますから、後でいろいろ補足していただきたいと思いますが、そのことで私はクルドという人びとに大変興味をひかれました。

そして、日本に帰って、簡単なクルディスタン訪問記を書こうと思って資料を調べ始めると、ほとんどありません。旅行記の中の断片、あるいは、たとえば外務省の旅行禁止区域の説明、そういったものにしかクルディスタンに関する記述は見当たりませんでした。おそらく似たような状況が今も続いていると思いますが、私たちが出会ったクルド人はそれとはずいぶん印象が違ったということがあります。

調べると言っても、ごく限られた研究書しかありませんので、海外の研究書などを見てみました。そこでよくわかったのは、たとえばフランスにはクルドロジー、つまりクルド学、クルド人研究、クルド論といったような名前で呼ばれる一連の研究書があります。あるいは、フランスのオリエント言語研究所で最初にクルド語が教えられた、最初にクルド語の講座というものがフランス人に向けて開かれたのは一〇〇年近く前のことでした。それなのになぜ我々はクルド人のことを知らなかったのかということで、大変関心を持ちました。

あらためて地図をごらんいただければわかりますように、クルディスタンと呼ばれている地域は幾つもの国にまたがっています。幾つもの国にまたがっていながら、固有の領土を一つも持っていない。一センチ四方も持っていないということが大変な問題です。

たとえばアフガニスタンの問題についてなら内戦と言えることが、クルディスタンの問題については、トルコの内戦であり、イランの内戦であり、イラクの内戦であり、シリアの内戦であり、ソ連の内戦であるというような形でしか表現できません。クルドの人びとは常に排除される側に立っている、内在する異邦人であるというところが難しい問題だ、というわけです。

私としては現状について話そうと思ったのですが、そういう次第ですから、さまざまな国から国情にしたがって異なる見方をした、極めて錯綜した情報が入って来ている。ここ一〇年間の情報はどうも信用できないということもあります。つまり複数の情報を突き合わせて、正しいことかどうか裏が取れないということもあって、簡単な年表を書いてみましたが、これも一九九二年まででとめるしかありませんでした。ともかく、実にいろいろな事件が起きています。各国との確執があり、自治権の承認を取り付けたり破棄されたり、そういう細かな闘争が延々と続けられているということがわかります。

では、クルドというのはいつごろから知られているのかを、問わなければなりません。

私は、クルドの問題というのは、一つは歴史的問題として考えたいと思っています。現在のクルド族の先祖かどうか、はっきりとわかりませんが、おおよそ紀元前二〇〇〇年ごろからその名が伝わっている、極めて古い民族の名です。クルドと思われる名を記した資料があって、しかも彼らはすでに差別されていたことがわかります。

たとえば彼らは、「カルダカ」(シュメール碑文)であるとか、「クルティエ」(アッシリア)であるとか、「カルドウコイ」(ギリシア)であるとか、さまざまな名前で呼ばれていました。そして具体的に書かれた資料としては、まさにヘロドトスから、クセノポーンなどのギリシア資料にもそれらしき名前がずっと続いております。

そして、その中にさまざまな伝説が四〇〇〇年の昔から伝えられています。たとえば奴隷の子孫であったとか、悪魔の末裔であるとか、何かしらよからぬことをした結果分離された民族であるとか、そういう話です。あるいは古代ギリシアの説話で、「悪質きわまる盗賊」とか「ソロモン王の宮廷に向かう途上で悪魔どもに強姦された四〇〇人の乙女の子孫」とか言われたり、そういう話が満ち満ちております。

カール・マイの小説『秘境クルディスターンを抜けて』(エンデルレ書店)などもそうですが、クルド人をめぐるこうしたある種の先入観、悪口の連続がどうして生まれたのか。これはまさにクルド人が絶え間なく国を持ち得なかった、帰属する空間を確保できなかったということに問題があるのだろう。それと同時に、そうした漠然たる空間の中で絶えず自分たちの民族ではない王朝、自分たちの民族とはかかわりのない国家、イデオロギー、宗教、さまざまなものに取り囲まれながら、四〇〇〇年の間、民族の文化、言語、風習、そういったものをなぜ保ち得たのか。国家がなくても民族というものが持続するとすれば、これほど強烈な例もないだろうということで、大変関心を抱いたわけです。

現実には、クルドの人びと、少なくともクルド族であろうと思われる人びとの中で、小さな部族王朝はともかくも、はっきりと強大な国家をつくった人が一人だけおります。一一六九年から一二五〇年にかけて活躍した、サラディンというイスラームの英雄です。正式にはSalah al-Dinという名前を持っていますが、西欧にはサラディンの名で知られるこの人がファーティマ朝を倒して、アイユーブ朝という王朝を建てました。この人がクルド出身の人物です。

そして彼は何をなしたのか。キリスト教十字軍を打ち倒したことで大変有名なイスラームの英雄です。イスラームの人だったらだれでもがサラディンのようになりたいと思う人です。そしてまた、実は十字軍のほうでもサラディンについては大変尊敬の念を抱いていた。ダンテの『神曲』の中に、一人だけ異教徒ながら尊敬をもって語られている人物がいます。それがサラディンです。サラディンは川のほとりで悲しげに血の川を見ている。そうすると血の川の中でもがきながら沈んでいる男がいる。ダンテがあれはだれですかと聞くと、あれはムハンマドだという話がありますが、それでもサラディンは英雄だった。西でも東でも英雄だった男です。これがクルド人にとっての最高の誇りなんです。

私が最初に短い旅行記を書いたときには、まだクルド人の名は知られていませんでした。皆さんがお知りになったのはたぶん湾岸戦争のときですね。何百回、何千回にも及ぶ反乱、あるいはクルドが自分の国家を獲得しようというさまざまの試みの中でも、湾岸戦争は最大の試みの一つだったのですが、イラクのフセイン大統領によって弾圧され、毒ガスあるいは化学兵器によって大量のクルド人が殺された事件があります。

一九八七年五月七日、イラク軍によるクルドへの化学兵器の使用が初めて確認されましたが、サリンが使われたという説もありまして、大量の人びとが亡くなっています。そのときにクルドという名前が初めて世界をめぐって、そのとき日本にも知られたということになります。しかし逆に言うと、それまでは知られていなかったということでもあって、また今や徐々に忘れられつつあるかもしれません。そのレベルでも、やはり国家があるのかないのか、ここが微妙です。

クルド人は大きく三つの言語グループをつくっています。ザザ方言、クルマンディー語、クルディー語といった言語グループです。

紀元前一〇〇〇年から七、八世紀ごろまでは、クルド人の大半はゾロアスター教徒であったろうと考えられていますが、その後、アラブの侵入によって急速にイスラーム化していって、現在はほぼスンナ派のイスラーム教徒です。イスラーム教徒ですけれども、クルドのイスラーム教徒は、大変不思議な風習を持っています。

一つは徹底した一夫一妻、つまり一人の夫は一人の妻しか娶らないという旧来の習慣があります。

それから、もう一つは、たとえば兄がいて、兄嫁がいる、その兄が死んでしまうと、弟はほかにどんな恋人がいようと、その兄嫁と結婚しなければいけない。そういう古い制度があって、これが現代でもかなり強く生きていると聞いています。

トルコのユルマズ・ギュネイが監督した『道』という映画があります。刑務所から何人かの人びとが仮釈放されて、故郷を訪問する。その中の一人がクルド人です。そして、東アナトリアの平原をバスで走って、いよいよ故郷の村におります。村が見えたので、満面に笑みをたたえて駆け出すと、いきなり銃声が聞こえて、村では人がばたばた死んでいる。ようやく恋人に会うのですが、会った途端にお兄さんが死んだと言われ、仕方なく兄嫁のベッドに近寄っていく、そういうシーンがありました。劇的に描かれていますが、まさしくクルドがいかに古い習慣、伝統、文化といったものを残してきたかということを思わせるものです。

 

さて、一九世紀以降のクルドの歴史は、闘争に次ぐ闘争、あるいは抑圧に次ぐ抑圧という苦しみの歴史でした。

一九二〇年八月一〇日に、セーヴル条約が成立しております。セーヴル条約というのは、オスマン・トルコが疲弊しまして、その後いろいろな西方勢力の間でトルコ領土の取り合いのような事態になりますが、そのときに結ばれた一つの条約です。その第三節六二条から六四条に、クルド国家とクルドの領地の確定を示す「クルディスタン条項」というものがありました。

当時の世界協定の中で初めてクルドの国家というものが承認されたのがこの「クルディスタン条項」ですが、それがたちまち一九二三年六月二四日、つまり三年後に、トルコ建国の父ケマル・パシャのアンカラ政府がローザンヌ条約に署名したことで、セーヴル条約は破棄されてしまいます。ここで「クルディスタン条項」は夢と消えてしまうわけですが、おそらく二〇世紀中で国際的にクルドの領地の問題が語られたのは、一つはこの時期であり、そして湾岸戦争直後だったわけです。

湾岸戦争以後のことは皆さんご承知のとおりで、いまだに混迷を続けています。英字新聞を見ていましたら、イラクに対して、きょうあたり攻撃するかしないか、国連でいろいろ議論をしているようですが、なかなか難しいところです。

もちろん、こうした事態を受けてさまざまなクルドの政党が動きはじめています。クルドの政党と言っても、ほとんどは非合法化されています。時折合法化されることもありますが、現状ではほとんど非合法になっています。イランのクルド民主党、イラクのクルド民主党、コマーラ党、クルド友愛党、クルド労働者党などの政党=政治組織があります。この四グループのうち、特にクルド友愛党、略称でPUKといいますが、これはイラクの側にあるわけです。それからクルド労働者党、PPKと略称されますが、これはトルコ、イラク、シリアにまたがりながら活動を続けています。多くの報道ではテロリストと呼ばれている人びとの活動範囲です。

つまりさまざまなグループがあるわけで、アフガニスタンと同じように、国家をめぐるのではなくて、なんらかのヘゲモニー闘争でこれらの大きな党が互いに戦ったりしています。これまた避けようのない事実ですが、クルド人同士の戦いも多くあります。これはチャンスがあれば、説明いたします。

資料のなかにクルディスタンの西部、トルコ側に多く住んでいるクルド人の服装の図をあげておきました。イスラームの服装とちょっと似ていて、ちょっと違う、大変独特な服装を持っています。

また、現代のクルド人の画家たちの作品から二つ例を挙げました。一つは、平和なクルディスタンを求める、そういう絵です。下のほうには「私たちのことを考えて」というクルドの人びとの一種のメッセージとしての絵画があります。

本当はきょうはカラーでお見せしたかったのですが、クルドの子どもたちの絵が、今、インターネットでいくつか見られます。この絵にはかわいそうに首をつられている人びとがいっぱい描いてあります。子どもたちは大変傷ついているようです。インターネットにふれられる方は、ぜひ皆さんご自身でごらんになってください。

そういう次第ですので、なかなか政治的な統一見解が出せません。また人口もわかりません。一部の学者の説では六〇〇万から八〇〇万と言いますが、現場で働き、各地のクルドの人びとを見てきた学者のなかには、クルド系ということでくくれば二〇〇〇万と言う人もいます。そこは何とも申せません。人口動向、経済状況、そういったものも完璧な統計はできません。複数の国にまたがっているということは、そういう意味では姿が見えないということです。

クルド問題というのは何が解決になるのか。クルドの国家としての一定の空間を確保すればいいのか。しかし、これだけの空間を現代の国際社会の中で確保できるとは思えない。そうしたら国がなくてやっていけるのかどうか。これはパレスチナ問題と非常に微妙なところで違いを持っています。

ですから、何が解決か私には一切わかりません。わかりませんというより、軽々しい提案などできないのです。けれども、少なくともきょうは皆さんにこういう民族がいると、こういう歴史を持ちながら、国を持たない民族がいるということについて知っていただければ、とりあえずは十分であろうかと思います。


まつえだ いたる 一九五三年生まれ 和光大学人間関係学部人間関係学科教授 専攻・アジア文化、東西交渉史 トルコ、パキスタンなどの考古学遺跡を調査するとともに、アジアの文化史を講じている 著書に『アジア言遊記』大修館書店などがある