研究会報告


アジア研究フォーラム

 

「アジア研究・交流教員グループ」を一度解散し、その交流機能を、アジア地域研究系に属する七つのプロジェクトチームのメンバー全員が担うこととし、そのアジア地域研究系の代表がフォーラムの代表を兼ねるという新方式を開始した第一年目であった。

春から夏にかけて、何度かプロジェクトチーム代表者会議を開き、秋にシンポジウムを開きたいという意見が早くから出され、まずは中国だろうということで中国の人権や法治の問題、一人っ子政策や「盲流(最近では「民工潮」と言う)」の問題をテーマとしたいという案がまとまった。誰を講師に呼ぶかということで、厚生省人口問題研究所の若林敬子氏をという声が出され、交渉したところ快諾していただいた。学内からも講師が出、学外からの講師と論争になるようでなければシンポジウムとは言えないという強い意見もあって、それなら私がと橋本尭氏に問題提起者を買って出ていただいた。こうした準備過程で、A系としての年度研究テーマといったものを設定できないだろうかという懸案も議論したが、その方は時期尚早ということで棚上げとなった。

シンポジウムは一一月二九日、「中国の近代化と人間」と銘打って開催された。若林氏は「改革開放体制下の人口問題」という話を、橋本氏は「伝統中国による人権概念」という話をされた。その記録は『東西南北』一九九七年号にすでに掲載・公刊した。学内外から約一〇〇名の参加で、沢山の質問や意見も出され、深刻なテーマだけに充実したシンポジウムとなった。ただ、系代表は計画を統括するだけのはずだったが、立案・交渉・司会など少々過重負担で、この点は次年度以降は是非とも改めるべきだろう。

「アジア研究・交流教員グループ」が出し続けてきた『アジア研究』が、第一〇号(終刊号)を九月一日に公刊した。これを読んで語る会を開きたいということで、年が明けてから二月五日に開催した。杉山、針生、水上氏らこのグループの創設者はじめ、終刊号執筆者ら一〇数名の参加であった。執筆者からはそれぞれに終刊号に寄せられた文章に対するコメントや思い入れが熱く語られた。針生一郎氏からはこのグループの歴史を語りながら、だいたい和光の教員には教授会でも真正面からの論争を避ける風があり、この研究会でも激論が交わされることがほとんどなかったという、辛らつな指摘がなされた。夕方以降、これも恒例の駅前モランボンに席を変え、思い出話と議論は夜遅くまで続けられた。

アジア研究交流フォーラムの九六年度の活動は以上であった。各プロジェクトチームの企画をはみ出し、数グループにまたがるような活動を支援していこうという「システム」だが、この主旨を十分生かす方策がまだ考え出されておらず、予算も使い残すこととなった。これも九七年度の重要な宿題である。

(佐治俊彦)

 

アジア太平洋地域と日本の役割研究会

六月一九日、九六年度研究活動方針についての打ち合せを行なう。

九六年度の基本方針は、東南アジアにおける経済活動の実態調査をすることを目的とすることで一致。出席者、梅中、岡本、伊東、武田。

研究会

九月二四日 一五:〇〇~一七:〇〇

講師に早稲田大学教授浦田秀次郎氏を招き「対日直接投資」について、講演をお願いし、議論を交わした。

浦田教授は、諸外国からの対日直接投資の現状を明らかにし、なぜ対日直接投資が低い水準にあるのかという問題について、他の先進諸国への投資と比較検討しながら分析された。また、日本と比較するなかで東アジアへの投資についても触れ、APECの高度成長の要因が対APECへの直接投資にあったことを明らかにした。

さらに、東アジアの占める世界貿易、外資系企業の直面する問題点についても報告がなされた。公演後、質疑応答を交わした。

出席者:梅中雅比古、山田久、伊東達夫、武田巧、ほか学生十数名。

 

海外実態調査

一、対象地域=シンガポール、マレーシア、インドネシア

二、調査内容=経済活動等の実態調査(日本の進出企業を中心に)

三、調査期間=九七年三月二四日~二八日

四、参加者=岡本喜裕、梅中雅比古、伊東達夫、武田 巧、岡本典子(自費参加)

・三月二五日 シンガポール視察

シンガポールでは、その国が国土が狭く資源が乏しいにもかかわらず、何ゆえに経済並びに文化的発展を遂げたかの原因について調査した。シンガポールは、第二次大戦前は英国の植民地としてシンガポール統督が統括していたが、太平洋開戦(一九四一年)で日本軍が英国を降し、占領したことにより、一九四五年まで「昭南島」の名称で日本により支配された。

戦後一九五九年には内政自治権を獲得し、リー・クァンユー氏が首相に就任した。六三年にはマレーシア連邦の成立と同時にそれに加盟したが、六五年マレーシア連邦から独立し独自の国づくりをはじめた。

日本の淡路島の面積とほとんど変わらない国土の広さしかなく、人口が少ないにもかかわらず、今日の繁栄を遂げることができたのは、リー・クァンユー氏の指導によるところが大きいように思われる。なお、今日のシンガポールを支えている産業や政策は従来の「仲継貿易」から「金融市場」、「観光」それに近隣国との提携による「工業団地の開発と海外企業の誘致政策」にある。

日本人であるわれわれが、このシンガポールに対して市民的感覚として感じたことは、一つには蕫車社会﨟に対する考え方の違いである。車を減らし環境への負荷を軽くするため、車に非常に高い税金を掛け、一般市民では容易に購入できない仕組が採られていたことである。ただし、乗用車の代りに他の交通機関を利用しやすいシステムになっていた。

また、街にゴミを捨てたり、落としたりすると罰金制度が設けられていること、それによって街が綺麗なことに感心させられた。われわれもおおいに学ばなければならない。

・三月二六日 マレーシア「ライオン工場視察・調査」

日本からの進出企業で、歯磨などトイレタリー製品で有名なマレーシア「ライオン工場」を視察、調査した。

ライオンは比較的早くから海外に進出した企業の一つであるが、この地域ではシンガポールを拠点にして活動している。われわれは、シンガポールの国境を超え、自動車で一時間程のマレーシア領ジョホールの工業団地に設置されている「ライオン工場」に向かった。

日本から現地に派遣されている従業員の案内で工場内に案内される。

工場見学では、蕫ココ椰子﨟の実を原料に用いた「環境に優しい石鹸やその他の製品」の、原料から製品に完成されるプロセスを目にすることを期待していたが、最初の原料の段階からみることはできなかった。最初の原料は東京工場に送られ、搾られ精製されたものを再び現地に取り寄せるシステムになっていた。つまり、現地での精製設備が整っていないということである。

生産設備は、日本の宮崎県の工場で使っていた中古の機械・設備を用いていた。つまり日本国内では人手を省き、衛生面の充実を図る必要から近代設備に切り換えなければならないが、マレーシアでは人手を使い、衛生面でも日本ほどには配慮する必要がないことから中古の機械・設備が用いられているものと感じとった。

おそらく、日本からの他の進出企業についても同じことがいえるのではないかと思われる。つまり、日本での古い機械・設備と現地の安価な労働力による一種の搾取形態が成り立っているという印象を受けた。

工場見学の後、オフィスで質疑を交わした。質問事項は、あらかじめ現地に送っていたが、期待通りの答えが返ってきたわけではなかった。

製造品……固形洗剤、粉洗剤、練歯磨、歯磨粉、流し用スポンジ。

雇用状況……現地での日本人従業員は二名、他は現地採用者

平均年齢……二四・五歳

平均給与……四〇、〇〇〇円前後

途中退社……給料の高い企業への転職が極めて高い。社内教育・訓練を積ませても給料の高い企業へたちまち転職し、定着率が低い。

従業員の衛生管理……「粉洗剤」の製造には粉塵がつきまとうので、従業員の健康に心配を感じた。

勤勉性……暑い国がら勤務態度は、きびきびしているわけではないが、概ね勤勉と感じとれた。

製品の販売先……ほとんどが現地販売で日本への逆輸入はごく僅か。

廃棄物処理……現在マレーシアのジョホール地域では廃棄物の投棄に厳しい取り締まりがないため、現時点では環境への配慮をあまりしてない返事であった。今後は、配慮の必要性を感じていた。

製品づくりとしては、現地の習慣や消費者の好みに合うような工夫がみられた。日本では、洗剤にプラスチック容器の「液体洗剤」を用いるが、シンガポールやマレーシアでは、「液体洗剤」を嫌うので固形洗剤が製造され、そのため固形をつけるスポンジが合せて製造されていた。つまり、小さなことではあるが、消費者ニーズへの対応をみてとった。

ライオンの従業員によると、日本企業の進出は現地の労働者の雇用を拡大し、現地の生活水準を向上させることには貢献しているが、雇用者は、賃金の高い所があれば、すぐに転職するという状況があり、現地労働者の管理は大変難しいということであった。

この視察・調査を通してのわれわれの感想は、日本からの進出企業の多くは、やはり安い原料、安い賃金、製品販売の現地市場確保に主要な目的を置いており、ライオンの場合も「環境に優しい製品づくり」を名目にあげているが、廃棄物の処理方法一つをみるにつけても、その名目とは程遠いものを感じた。発展途上国の環境問題が叫ばれている今日、進出企業は二酸化炭素の削減や廃棄物の処理に模範となって取り組んで欲しいと思うし、また労働者の健康管理に十分な配慮をすべきことを痛感した。

・三月二七日 インドネシア領バタム島工業団地見学

シンガポールの産業高度化を推進する国策会社(STIC)シンガポール政府技術工業公団の視察。

シンガポールの南東二〇㎞、高速船で四五分ほどの島がインドネシア領バタム島である。この島に工業団地を開発し、世界各国とくに日本企業の誘致に熱心なのがシンガポール政府技術工業公団である。これは、シンガポールとインドネシアが政府レベルで進めたプロジェクトであるが、シンガポールのもつノウハウを提供し、周辺国と協調することで相互経済成長をはかろうとするものである。小さな島国で土地や労働力に限界のあるシンガポールと経済成長・雇用の拡大を求めるインドネシアの利害が一致してなり立っている。

この島の開発がはじまったのは一九九〇年であるが、シンガポール政府技術工業公団は、この工業団地のインフラ整備、すなわち電力・水道、廃棄物処理、通信設備を整え、さらに労働者用住宅やリクレーション施設、タウンセンターを施工した。そして、一九九〇年まではジャングルだったバタム島の一角を、ASEANへの進出企業にとって最も便利な工業団地に変貌させたといわれている。

これは、シンガポールの企画力、資金力、インフラ、インドネシアの広大な土地、資源、労働力、さらにマレーシアのジョホールの長所を合せ、「自国の優位な点を他国に供し、互いに足らない点を補完し合いながら共に発展する」というコンセプトのもとに成長を目指すインドネシア、シンガポール、ジョホールを結ぶ、Growth Triangle(成長の三角地帯)構想の一つといわれている。

インドネシアのスハルト大統領は、バタム島を外資の手でシンガポールのように発展させたいとし、最初の五年間は一〇〇%の外資を受け入れ、その後は五%のみ現地資本を入れ、九五%は外資を認めている。

現在、進出企業七〇社余りのうち三〇社ほどが日本企業であるが、操業面積では全体の半数を日本企業が占めている。ちなみにこの工業団地への進出第一号の企業は日本の「住友電工」であるが、三洋電機、大阪の自転車部品メーカー「シマノ」、松下電器産業、住友ゴム、大林組など関西系の企業が多くを占めている。これは、このSTICのスイ・レイシン氏が在大阪シンガポール総領事を努めていた関係による。

日本企業が進出する有利な点は、安価な労働力、有利な税制、豊潤な土地などであり、一五年間にわたる外国人による一〇〇%の所有権、その後は一六年目に一度だけ一%の権利を返上するだけで、引き続き所有権が得られるという、魅力である。

労働者に支払う賃金は週四〇時間労働で月額平均二六一ドル支給、という条件で二年契約を結ぶことになっている。二六一ドルには、基本給、食事手当、ボーナス分などが含まれている。われわれの訪れた日は、ちょうど給料日の後だったので、会社内に設置された銀行の預金機から引き下ろしをする若い女子従業員の姿が目立った。

これらの女性従業員は、昼夜交代制の勤務を強いられており、普段は仕事が終わると工場団地内の宿舎に帰り、食事や残りの時間を過すだけで、島の外には容易に出られない。島には銀行やスーパーやレストランなどがないわけではないが、街らしいものはないので、休日にはシンガポールの街まで高速フェリーで出かけるのであろう。若い女性たちにとっては恐らくブロイラー的生活を強いられていると感じているに違いないと、感じとった。いずれにしても、日本企業との関係でいえば、日本の企業の資本・技術とインドネシアの労働力それにシンガポール(STIC)の工業政策がうまく合体していることを痛感した。

ただ今日、世界中で「成長か環境か」「開発か保全か」が問われ、地球環境問題が叫ばれてきているさなか、ブラジル・リオ「地球サミット」で合意した「持続可能な開発」が実行できるのか、この点が最も気にかかった。つまり、経済成長と雇用の拡大は、マングローブの樹木も含め無人に等しい島を、人間の経済活動にとって都合のよいようにしていくことであり、環境へのインフラ整備の重要性を痛感した。この、モノ造りの場所としての工業団地は一応「廃棄物処理施設」まで含めてインフラ整備を行なっていたが、果たして十分なものかどうかは分らない。

*注「シンガポール政府技術工業公団による提供資料」参照。      (岡本喜裕)

 

関東大震災研究会

関東大震災研究会は九三年度から研究活動を積みかさねて四年になる。その間、阪神大震災がおこり、そのことを契機に危機管理をはじめとする一連の救援事業、復興事業(もしくはそれらの遅れやゆがみ)などにさまざまにインスパイアされ、考えさせられることが多かった。しかし本研究会のもともとの趣旨は、一九二三年九月一日におこった関東大震災が都市〈東京〉にどのような災禍とその後の変化をもたらしたのかを、あらためて考えてみようというところにあった。「震災前はそうではなかった」とか、「こうしたことがらが特に目立つようになったのは震災後だ」とか、震災という自然災害を日本(ことに都市〈東京〉)の近代化の際立った結節点とみなし、くりかえし参照することによって、関東大震災は変化の原点として立ちもどるべき〈物語〉というか、日本の近代化の節目を形成する〈伝説〉として、従来、語りつがれてきたということがある。

〈東京〉の政治、経済、社会、生活、文化、風俗等に、関東大震災は本当に顕著な変化をもたらしたのだろうか。実のところは、そのような見え方・語られ方をしているにすぎないのではないか。そうしたいささか乱暴で、素朴すぎるほどの問題意識に立ち返ることから、本研究会ははじめられたのである。したがって、構成員もまた、政治学、経済学、文学、美学、自然科学等の各分野に横断するさまざまな人びとの寄り集まりから開始されたのである。なお、構成員は本学教員のほか、非常勤教員をはじめとする他大学、研究機関の方がたの参加をも得た。作業は研究会に参加する構成員の報告とディスカッションというかたちで進められた。

研究会は年度ごとに予算を交付されるから、それらの実積を「年報」のようなかたちで年度ごとに学内外に問うということも考えられたが、本研究会はその方式を取らなかった。関東大震災では一〇万人をはるかに超える人びとの生命が失われ、被災地や避難地で朝鮮人や中国人の多くの生命が奪われた事実は、アカデミズムの隠れ蓑を着ることで軽々しく文字化し、業績化することをためらわせる重みを持っていたからである。そうではなくて、資料の十分な蓄積および吟味と、討論の活発で慎重な積みかさねをもとに、それらの成果を上梓することで、研究会のありかたを世の批判に晒したい、と考えたからである。

最終的には、東京およびその周辺の一九一〇年代から四〇年代にかけての変化を取り上げるということになった。その作業は九六年度に集中的に行なわれたが、結果的には年度を越えて、『東京・関東大震災前後』(日本経済評論社、一九九七年九月一日発行、A四版四二三頁)というかたちでようやく結実した。以下に掲げる目次を参照していただければ、企図しながらも他日を期さねばならなかったもの、研究会の死角に入って扱うことのできなかったもの、構成員の能力を越えてしまって取りあげられなかったものの多さに呆然とするしかないことが理解いただけよう。多くの方がたのご叱声、ご批判をいただきたいと研究会一同が思っている。

 『東京・関東大震災前後』目次

はしがき

第一章 東京の市街地拡大と鉄道網(1)――関東大震災後における市街地の拡大

第二章 東京の市街地拡大と鉄道網(2)――鉄道網の構成とその問題点

第三章 東京西郊における農村民の生活――大正初期の駒沢村

第四章 関東大震災と煉瓦製造業

第五章 震災詩集の書法――「危機」の詩/詩の「危機」

第六章 震災復興と文学――『*東綺譚』の考古学

第七章 風致の聖と俗――東京の風致地区を中心に

第八章 総力戦体制と防空演習――「国民動員」と民衆の再編成

参考法令

(塩崎文雄)

 

計算機統計研究会

本研究会は、九六年度に発足した。初年度は、(一)SPSS「超」入門、(二)運動生理学のデータ解析の検討、(三)共分散構造分析の勉強会、(四)共分散構造分析のソフトAMOSの実習をおこなった。

コンピューターのハード面の向上により、ウィンドウズやマッキントッシュ上で、多変量解析がパソコンで手軽に利用できるようになってきたのが、九〇年代後半の特徴である。例えば、一九九四年に発売されたSPSS for Windowsは、ウィンドウズ上のメニュー選択をおこなうだけで因子分析やクラスター分析や分散分析などが計算できる。以前は、コマンド(実行命令)とオプション(実行技法の選択)をテキスト入力(英文)で記述しなくてはならなかった。この方式ではコンピュータに対する慣れとかなりの統計学的知識が要求される。しかし、ウィンドウズ版のメニュー選択方式では該当する手法をさっさと選んでマウスをクリックするだけで統計的分析の結果を出せるまでになった。

統計的計算過程がブラックボックス化してしまい、その原理や計算アルゴリズムに充分理解のないまま、統計的な結果が出てくることに対して批判の声もある。近年のコンピューターサイエンスの発達に呼応して、統計的手法が複雑化しており、たとえば共分析構造分析やMDSなどの利用者の多くは、統計原理を理解していないままに利用している状況がある。これは、テレビやビデオの工学的原理を理解していないのに、テレビ放送やビデオを楽しんでいるという状況に近づいているといえる。

記述統計であれ、推測統計であれ、計算結果を出したり、統計的検定をおこなったりすることは、ある事実や仮説、ひいては理論に対して何らかの判断をするために、複雑な情報を整理したり縮約したり加工したりして判断の材料とすることである。統計利用者にとって、統計的計算や検定をおこなうのは、それ自体が目的なのではなく、ある目的のための手段である。統計的計算を山登りに例えてみると、趣味の登山のように歩いて山を登るというプロセス自体が目的なのではなく、山頂がどうなっているかを知りたい、あるいは山頂からの眺めを展望してみたいということが目的なのである。途中の景色や草花を楽しむのは別のことだ。

三重県鈴鹿山脈に御在所岳という最高峰がある。筆者は高校生の頃自転車で一〇㎞以上の距離を走ってふもとまで行き着き、そこから登山靴で登山ルートを二時間以上かけて歩いて登り、山頂を散策し、また歩いて登山道を降り、自転車で帰ってくるという登り方をおこなっていた。これは金はないが時間と体力のある人間にとっては最も適切な頂上の極め方である。ところが、体力や充分な時間がなくても金銭的な余裕のある人にとっては全く別の頂上への到達の仕方がある。御在所ロープウェイに乗れば、登山道をはるか下に眺めながら、何ら体力を消耗することなく頂上にまで辿りつけるのである(ただし、数百メートルの標高差があるので防寒着を用意した方が良い)。

パソコンの画面上でメニュー選択しながら統計的処理をおこなうのは、まさにこのロープウェイ方式による登山と類似している。利点としては、第一に、時間がかからない、第二に体力(知識)のない者でも目標は達成できることであり、第三に楽な方法であるので余ったエネルギーは他の目的に使える、第四に道に迷うことがない(計算間違いがない)、ということである。乗り場と発車時刻を間違わなければ必ず目的地に到達できるのである。同時に欠点もある。第一にコストがかかるということである。手計算ならば計算式と紙と鉛筆で済むところを、統計ソフトに投資が必要である。第二の欠点は、機械が故障したり破損したりすれば、この方法はお手上げだということである。第三にこの方法では、山腹の途中の景色をゆっくり味わうということは期待できない。

統計の先生は、統計学の専門家であることが多い。統計学とは、結果をどう解釈するかということよりも、そのような結果を出すためにどのような手法があり、その計算の原理はどのようなものかというプロセスに関する学問である。即ち、登山のメタファーでは、登山の専門家であり、かつ登山道の細部にわたり知識をもった熟達した登山ガイドにたとえることができよう。学生時代汗をかいて頂上に達した私は、ロープウェイ経由で山頂に達し、ハイヒールで寒さにふるえている観光客を見て、「この人たちは、この山に登ったことにならない」などと軽蔑したりしたものである。しかし、今ふり返ると、それは余暇についての考え方や条件が違うからであって、山を楽しく経験する方法は様々なのである。

また、統計学者たちは統計の理論を理解するだけでなく、それを創造する人びとである。統計的計算や検定をフランス料理にたとえてみると統計学者とは、その料理を作るシェフ(料理人)に該当する。シェフたちは、教壇から料理法について見習いコックたちに知識と技法を教えるのである。しかし、よく考えてみると、プロのシェフを養成するような内容の教育を必要とする料理教室の生徒が、何人いるであろうか。むしろ大多数の学生は統計の利用者(ユーザー)であり、料理を作る側というよりも、料理を味わう人(グルメ)である。統計学の学び方にも、統計のプロセスや構造を重視するシェフ式アプローチと、料理を美味しく味わう方法中心のグルメ式アプローチがある。従来の統計教育はシェフ式アプローチ中心であった。フランス料理とはどういうものがあり、どうすればおいしくいただけるか(利用できるか)という学生の関心に対して、各料理の料理法について細かく教え実習し料理方法を教えていたのであった。昔は料理を食べるためには自分でそれを作るほか無かったのである。今は統計ソフトという様々なメニューが用意されている。

ロープウェイ方式か、登山道方式か、とシェフ方式かグルメ方式か、の二つのメタファーを比較し考察すると、学生のニーズ(興味・関心と社会的要請)と条件(数学的知識:統計利用の目的)に合わせた、統計教育が新しく求められているというのが筆者の考えである。以上のような問題意識から本研究会は、ロープウェイ方式により、グルメ的力量を高めるための研究活動をおこなってきた。なお、九七年度は、研究会の統廃合志向の方針により、「情報システムの教育・研究への支援」研究会に統合され、九七年四月から再出発した。

(伊藤武彦)

 

言語文化研究会

言語文化研究会は、異領域に属しながらも言語に関心を寄せる研究者がそれぞれ異なった視点から参加することにより、新たな言語論の開拓を模索する試みとして出発しました。

さしあたっては外部から招いた講師の報告に基づき、専門領域による切り口の違いから浮かび上がる言語の多様な相貌をかいまみる、という方針、構想のもとに、初年度と二年度は講演会を中心に活動しました。お招きしたそれぞれの専門家の報告は、いずれも示唆に富み十分な刺激を我々に与えてくれました。

次に、本学卒業生で研究者を志向する、大学院に在籍する若者たちに研究発表の機会を提供することを活動の第二の柱としました。研究発表に対する、参加した教員からの鋭い指摘や批評は、彼らを啓発するに十分な成果を挙げたようでした。

これらの試みはおおむね成功を収め、年次報告集も二冊刊行し、研究会の所期の目的通りに経過することができたように思います。

ところで、当研究会代表の松山と世話人の鈴木が偶然にも学術研修員となることが九六年度早々の段階で決定したため、九七年度は事実上活動が不可能となることから一年間活動を停止することにしました。それにともない、九六年度中の活動も従来の方式とは運営の仕方を変更せざるを得ず、講演会中心の企画は中止せざるを得なくなりました。当研究会では外部講師の講演や研究発表は記録に残して、冊子にまとめて翌年度に公刊することを基本原則としてきたからです。

したがって、九六年度はそれに代えて、市販のパソコンやワープロで用いられている翻訳ソフトについて、その使用価値と今後の可能性についての検証を行なうことにしました。具体的には、言語の文法的・語法的側面だけではなく、背景にある社会的・文化的差異が異言語に移し替えられるに際してどのように具現化されるかについて、研究の端緒を掴むための作業に着手してみることにしたのです。

このような検証作業を行なうことにしたのは、自然科学系の文書とは異なり、社会科学や人文科学の文書の場合は、翻訳に際して、背景となる社会的・文化的な差異を如何に読みとるかが、もっとも訳述上で苦心を要するという、我々のすこぶる個人的な体験がそのベースにあります。つまり、社会科学や人文科学などの文系の翻訳の作業とは、異言語間の単なる語彙や語法の読み替えではなく、翻訳者が自らの言語能力に加えて、それぞれの言語表現の背景をなす社会的・文化的差異を如何に咀嚼し内実化しているかが問われる、言語と文化の間題であると考えたのです。

今年度は、翻訳という行為が宿命的に担わざるを得ない、この言語的差異と社会的・文化的差異の読み替えという困難な課題について、一般の使用者を対象にした市販の翻訳ソフトがどの程度それを達成しているかを、個別的事例をもとにさまざまに検証・検討を重ねてきました。また、この課題は言語文化研究会が今後も担わなければならないものの一つであろうと考え、次年度以降も研究会の成員が共有しうる課題として、如何に引き継ぐかを模索した一年でもありました。

(松山幹秀)

 

現代社会と学校

一、九五年度にひきつづいて、和光小・中・高の教員の参加をもとめて、和光学園内各校の実態や実践を中心にして、報告し討論を行なった。それらは、中学校における「私語」の現状とそれに対する実践(和光中・星野氏)や和光大学における教育実践報告の批評などであった。

二、前年度からつづいた報告と論議において特に印象的であったのは、相互の討論と実情理解ができていないのは、大学と他校との間だけではなく、高校、中学校、小学校、幼稚園のそれぞれの段階間でも、かなり不十分であるということだった。もっと多くの論議が相互にできる機会があればよいし、必要だということが、研究会参加者の同じ思いであったと言えるだろう。

当初、私たちはこの研究会へ和光学園各校の教職員が自由に参加することによって、各校の実情について相互に理解し合うこと、それによって、学園全体およびそれとの関連で各校の課題が明らかになることも、この研究会の副産物として願ったが、各校からの参加者が、若手というよりも、中心的仕事をしているベテランに偏ってしまった。そのために研究会開催の日時の相互調整が極めて困難であった。

三、現代学校の実情と改革の実態を、和光学園外の学校について実地調査することは、前年度にはできなかったが、今年度の最後になって実現した。福島県三春町の町立中学各校において実施されている「教科教室型」といわれる形態についての調査である。三春町内で研究会を持ち、和光大学卒業生で近隣の中学校に勤務している教師なども参加して、二日間にわたり、報告と討論、そして見学調査をすることができた。校舎改造を含む三春町のこの実践は、NHKテレビでは一つの理想的な学校改革の形としてとりあげられてきたが、その実践の中心にいた教師による生々しい実態報告によって、多様な困難と課題を知ることができた。

この研究会は九六年度をもって閉じるが、和光学園研究としても構想を新たにし、条件を整えて再開しなければと思っている。

(奥平康照)

 

現代中国研究会

混沌の中国改革開放政策の展開を様々な切り口から共同研究し、マクロ的総合的な中国像を構築していこう、そのために中国実地調査を中心に置こうというのがこの研究会の基本姿勢である。その線にそって九五年度は上海をテーマに立て、研究会と上海・蘇州の実地調査を行なった。

九六年度は「上海」を引き続きメインテーマにしつつ、中国人留学生を何とかこの研究会に引っ張り込む方策を考えようということで出発した。夏休み前の何度かの打ち合わせ会で、返還前の香港を見ておきたい、改革開放の最前線都市深訓を調査したいという意見が強く出され、上海というテーマはそのままにしておいて、今年しか意味を持たないかも知れない香港・深訓調査旅行を年度のメインの活動に据えることが決まった。

中国人留学生を引っ張り込むというほうは一一月九日、北京出身の文学科一年生王蠑君に「文革後世代の見る改革開放政策」というテーマで報告をして貰った。

王蠑君は自分なりに文革とは何だったかをまとめ直し、人民にとっては実に分かりにくい運動だったことを再確認した上で、その批判運動の中で自己形成をしたこと、その当然の流れとして八九年の天安門前広場の民主化要求運動に参加していったこと、人民解放軍の文化部門にいる父親にその独善性を指摘され、「お上」に逆らった人たちの運命をいろいろ話されるうち、次第に広場から遠ざかっていったことなどが率直に報告された。それを聞きに来たほかの留学生から、それは違う、自分はこうだったと活発な意見が出されることを期待しての企画だったが見事失敗、参加者は非常勤も含めて教員だけだった。王君の話では、留学生たちがこういう場で中国のこと、特に文革や「六四」のことを話し合うのは難しいようで、今更ながら問題の深刻さを感じた。

香港・深訓調査旅行は、入試業務の合間を縫って、二月二〇日~二四日の五日間で実施した。参加者は種々の事情から佐治・劉・鈴木の三名だけになった。尖沙嘴のスタンフォードビューホテルに投宿、まず本学非常勤講師、有数の香港ウォッチャーでもある樋泉克夫氏から紹介いただいた(佐治は一二年前にも会っているが)ジェトロ(日本貿易振興会)香港副支配人李澤森氏をセントラルの事務所に訪ねる。一二年前とは場所も規模も全く様変りしていて、その立派さに驚いた。

この間の日本との交易の拡大、日本企業と中国資本の進出状況などをレクチャーしていただき、返還後についての香港人の見方、この朝世界を駆けめぐったビッグニュース、邪小平死去についての香港人の反応や感想などを質問した。

返還後については、脱出する人は脱出したので今は皆楽観している、長く二制度が続くでしょう、ただ今まで香港には社会保障制度が整備されておらず、年金制度もないのでそれが返還後大きな問題となろうというようなこと、邪小平の死については、「上海・深訓では株が暴落したそうですが、台湾と香港では少し騰りました」と言ってニヤリと笑われた。昼食を一緒にとって李さんと別れ、李さんに教えて貰った書店巡り。どの本屋も邪小平コーナーが大きな一画を占めているが、死去のため急遽特設されたものではなさそうだった。

二二日と二三日は羅湖の国境を通過して深訓に一泊旅行。深訓駅近くの富臨大酒店に入ると佐治のかねてよりの知己、凸版印刷の深訓工場営業部手塚裕之氏が出迎え、すぐに蛇口の工場に案内される。

この工場はいわゆる経済特区の外にあるが、地代、税金、雇用条件などから、そうした工場は大変多いらしい。市民の平均年齢が二一歳であるとか中国で一番治安の悪い都市であること、強盗殺人は日常茶飯事など、びっくりするような基礎知識を手塚氏よりレクチャーされながら工場到着。責任者から深訓進出の経過、香港工場との関係、現在の操業規模などを詳しく説明された後、工場を案内された。日本人スタッフ一七人、中国人正規職員約五〇〇人、臨時工千数百人、中国人労働者はほとんどが独身、全国から来ていて平均年齢二一歳、成績によって帽子や服が違い、そのため必死で働くという。最新の印刷技術と労働集約型手仕事の見事な組み合わせで、飛び出す絵本や慶弔電報の入れ物やキャラクター文具や豪華本が作られていた。ちょうど昼食時となり、食事風景まで見学させて貰った。

翌二三日は邪小平追悼に長蛇の列を作る市民の姿を参観、中国最大の本屋「深訓新華書店書城」で資料を漁り、再び香港に戻り、日程を合わせて香港に来ていただいた樋泉氏と合流、あちこち案内して貰う。特に、その数何千とも何万とも知れないフィリピン人メイドの集まり(ちょうど日曜日だったので。一日フェリー乗り場とその近くの公園に押しかけて食べ喋る)には、返還後のこの人たちの運命を思い、只々茫然とするばかりであった。

(佐治俊彦)

 

 

高等教育の総合的研究

略称「高総研」グループは、当初「入門研」の名で一九八六年度発足、研究所の内規により九六年度限りで共同研究十年余の幕を閉じることになった。研究領域は大きく分けて二つで、参観法による大学授業の研究と、国内外の大学訪問による実態調査である。前者の研究成果は、九六年五月に『語りあい見せあい大学授業』(大月書店)にまとめることができ、後者も五〇余大学の調査報告を積んで総括に至った。どちらも『東西南北1997』のそれぞれ一四~二七、一一四~一二七頁に、関係記事や論稿をのせた。

従って一九九六年度の研究活動は、(1)一一年にわたる共同研究を締めくくって、(2)残された課題を見渡し、(3)次の新しいプロジェクトへの発展をめざす、ダイナミックなものとなった。(1)は、四~五月にかけて右の本の完成・出版と研究所主催シンポジウムへの参加を内容とし、(2)は、六~七月から翌九七年三月までに行なった集中的な月例研究会、(3)は、九七年二~三月に実施したグループ最後の外国訪問調査である。

これら三期の研究活動の各々について、もう少し詳しく述べよう。

(1)まとめの本の出版とシンポジウム参加その他

本の章ごとの分担執筆と相互検討は前年度来の継続で、この作業のなかでグループのこれまでの研究を総合し深めることができた。また研究所のシンポジウム「二一世紀に向けて大学のあり方を考える」は、C系が中心で、内容的にも関係深かったため、九六年度初頭はその準備で忙しかった。シンポジウムは五月一八日に一定の成果を得てぶじ終了し、本も予定通り同じころに出版することができた。

大学で授業参観を体系的に行なった研究は珍しいためか、この本の書評はあちこちの雑誌や紀要、新聞等に載り、いくつかの大学に招かれてメンバーが講演活動をする機縁ともなった。これらは、年度を越えた九七年一一月現在も続いている。

その一方で九六年三月には、国内大学最後の調査として立命館大学を訪問したが、本学が当面する改組改革に参考になると判断したため、記録小冊子の作成が同じ時期(四~六月)の仕事となった。学内外に配布したところかなりの好評で迎えられ、本学の今後にいくらかの寄与をし得たと思われる。

(2)残る課題をめぐる連続研究会

グループ名である「高等教育の総合的研究」実現への手がかりと見通しを得るために、九六年夏から秋、冬にわたる数カ月間、計六回の月例研究会と、九七年三月総まとめの合宿研究会を行なった。実施月日とテーマ、問題提起者は次の通りである。

・五月二四日 『語りあい……』の合評後、残る課題の抽出と年度内研究会の計画

・七月五日 「体験学習の意義と効果測定」伊藤・石原

・一〇月一六日 「FDについて、及び授業をめぐる学生調査続報」石原

・一一月八日 「和光大学にふさわしい特色ある大学院について」伊藤

       「海外大学との交流を考える」鈴木

・一二月一三日 「大学開放―高等教育と社会・地域」山村

・九七年一月一七日 「これからの高等教育と研究の関わり」 内田

・三月一一~一二日 「農に生きる時代と大学教育」大塚(旧メンバー)

          「この一一年の共同研究総括」 全員

(3)ラオス・カンボジアの大学及び教育状況調査

九七年二~三月に、メンバー外の参加希望者も含めた七名で実施した。今回はこれまでと違って調査対象は大学だけでなく、教育状況一般とくに教員養成の実状に重点をおいた。というのは前年度のタイ訪問で、発展途上国における国立大学の役割を視察するのと並んで、スラムの子どもたちのための民間教育施設を訪れたのが直接のきっかけとなって、九六年一一月に「アジアの教育の現況を実地調査し、本学学生と現地の青年の交流をはかる」新しいプロジェクト「アジアの教育―研究と交流」計画が、本研究所としては初めてのメンバー公募により成立、準備が進んでいたためである。

ラオス、カンボジア両国では、国立大学、教員養成カレッジ数校と教育省を訪れて話を聞き、小・中学校、幼稚園、民間職業訓練施設等を見学した。各所で学生、生徒と話し授業を参観するとともに、教育を支える背景として民衆の生活や生産活動に触れ、歴史的事件の証人たちとも会った。多大な収穫を今後どのように学生や大学の未来に生かせるか、目下模索中である。

新チームには、「高総研」メンバーの半数強が進んで移行参加した。共同研究の単純な終了ではなく、「入門研」以来の蓄積を生かした新しい発展が、望めそうである。

(石原静子)

 

子ども文化研究会

「子ども文化研究会」では、九五年度に引き続き、学年誌『科学』の「教材」研究を行なった。

学年誌『科学』は前身である『たのしい科学』(一九四七年創刊)『科学の教室』(一九六〇年創刊)に続いて一九六三年四月に『○年の科学』と改題されて今日に至る月刊学年誌である。この『科学』は、子ども読者からは「ふろく」として認識されてきた「教材」が評判を取って、戦後の子ども文化に大きな役割を果たした。しかも、その三〇年を越す出版活動の動向は、戦後の子ども文化の史的展開のバロメーターとなりうるにも関わらず、これまで本格的な研究が一切行なわれてこなかった領域である。

昨年度「教材」と子ども文化との関わりの全体像を歴史的に把握するために開催された三回の討論会のテープ起こしをし、定期的(およそ月一回)に勉強会を行ない、理解を深めた。それと並行して「教材」のデータベース化を行ない、一定の成果が得られたので、研究会の活動を一旦終了する。

なお昨年度の討論会を踏まえた勉強会の結果、およそ三〇〇枚(原稿用紙四〇〇字詰)ほどの文書が作成されており、目下発表媒体を模索しているところである。

(酒寄進一)

 

 

シンボル文化研究会

一九八八年度に発足して以来一一年間にわたり活動を続けてきた「象徴図像研究会」は、昨年度でひとまず幕を閉じ、昨年は過去一一年の研究活動の集約の年と位置づけ、毎年出し続けてきた研究報告集『象徴図像研究』最終号(第XI号)の中で、これまでの歩みを含め研究活動の全体のまとめとなるものの刊行を目ざし、その作業に努力を集中した。この最終号は本年三月に刊行され、これまで大学の内外から研究会に加わってきてくださった方々の多様な報告を収録し、これまでの象徴図像研究会の集約をなす密度の濃い内容の論集とすることができた。

あとで概略的に述べる研究会の発展的な展開と係わるので、以下に第XI号(最終号)の内容をまず紹介しておくことにする。

象徴図像研究』第XI号(一九九七年三月一九日発行)

〈論文〉 ゾロアスター教における牛のシンボリズム……岡田明憲

〈ディスクール・図像〉 ガンダーラのヴァジラパーニをめぐる一考察……前田龍彦

  阿弥陀はなぜ振り向くのか?……北 進一

〈語彙研究〉diabeteという名称……E・バンヴェニスト(前田耕作訳)

  都市名「ガズナ」について……E・バンヴェニスト(前田龍彦訳)

  インド・ヨーロッパ語族の神話……V・イワノフ/V・N・トポロフ(川崎万里訳)

〈エセー〉 屈原〈と〉の対話……松枝到

〈らんこんとる〉 デルポイの鼎……前田耕作

〈フィールド・レポート〉 バローチスタン調査報告

  ・バローチスタン調査の大概……前田耕作/松枝到/村山和之

  ・ヒングラージ巡礼とパキスタンのヒンドゥー共同体……中村忠男

  ・ホラーサーン聖廟考……村山和之

  ・スタインによるラス・ペーラ踏考……前田龍彦

  ギリシア・テッサロニキにて……田井淳三郎

〈ディアローグ〉 オカルト・法華経・仏教研究……J=ノエル・ロベール/前田耕作/松枝到

〈コミュニケーション〉 モハメッドナリの石彫にみるいわゆるシュラヴァスティーの神変再考(英文)  ……A・M・クワリオッティ

象徴図像研究I~X号欧文総自次

この目次を概観すれば、象徴図像研究会が国内外の美術、考古学、民俗学、人類学、言語学に係わる研究者たちと学際的なグルーブを構成し、実地調査を大きな柱としながら、古今東西の部族文化や各国の祭祀、文学や美術・宗教など多岐にわたるシンボルを問題にしてきたことがおわかりいただけると思う。この作業の関連から、今年度の研究報告例会は、前号の年報に報告した二回のものにとどめ、これまでの研究成果の検討と今後の展開についで討議するための研究会を前後五回ほど開き、〈シンボル文化研究会〉という新たな視野からの研究集団へと歩を進めることで合意に達した。現在、大学内外の一八人の賛同者を得て発足し、もっと広義の〈シンボル〉を対象としながら、未開拓な分野にも踏み込んだ多様な研究作業を実践的に開始している。

(前田耕作)

 

一九世紀末研究会

一九九六年度は、一九九五年度の年度末に『東西南北』一九九七の「研究活動報告」で述べたように、「一九世紀末」の範囲をひろげて解釈し、二〇世紀初頭まで含めて考えるという時間の範囲を修正し、これにしたがって、日本元号で言えば、明治末年までか明治四〇年代前半までを視野に入れる方針を立てた。日本について見れば、義和団事件・日英同盟・日露戦争・日露条約・日英同盟改定という国際関係の推移と、日露戦争を境とする資本主義経済体制の重工業への推転、これにともなう寄生地主制の拡大、人口集中による都市の拡大、それらから生まれるいわゆる「社会問題」、それがもたらす支配体制の危機感と体制強化のための教育政策や地方改良運動に見られる対民衆施策などなど、その後の日本の進路にかかわる問題や施策がかなり多様なかたちをとってあらわれてくる。

その意味で、いきなり、この時期の問題を正面から取り上げることは、本来のこの研究グループの趣旨を逸脱するおそれがあるので避けなければならないが、このような視点は常に忘れないで保持することが必要となる。

年度が改まって、一九九六年四月一八日前年度の事業報告、調査報告とともに今後の方針について打ち合せの会合を開き、前述の修正方針を確認した。

研究会は、次のように二回開いた。

・六月二二日 橋本尭(本学人文学部教授)「一九世紀末における『大和魂』の成立」

       原田勝正(本学経済学部教授)「一九世紀末におけるモニュメント――平安神宮の造営を        めぐって――」

・一〇月二三日 松永巌(本学経済学部教授)「オリバー・トゥイストに見るロンドンの下層社会」

橋本報告は「大和魂」シリーズとして今後も研究を継続することとし、原田報告は九五年度末調査の報告でこれも継続を決め、松永報告は『東西南北』に発表することとした。

こののち、さらに一~二回の研究会を予定したが、メンバーの繁忙が重なり、予定していた研究会を開くに至らなかった。

一九九七年度は、一九九七年一二月までに二回研究会を開いた。次の通りである。

・七月四日 橋本尭(本学人文学部教授)「日本の近代化と大和魂」

     原田勝正(経済学部教授)「地域民衆の再編成」

前者は前近代において「武士道の本体」とされた「大和魂」が、明治以後武士から民衆に適用範囲を「拡大」し、教育勅語ともかかわりながら「国民的特性」にもとづく道徳的原理として定置された過程を検証し、これを当時の軍歌や、高山樗牛「大和魂と武士道」(『太陽』一八九八年一月)などで裏づけ、同時に夏目漱石『吾輩は猫である』に登場する風刺を引いて、二〇世紀初頭における知識人のこの問題についての姿勢を紹介した。

後者は、明治政府草創期の対民衆施策にみられる「大御宝」の想定から出発し、日露戦争後の地方改良事業における農村再建施策の推進にさいして、民衆組織再編の動きが急速に高まったこと、またそれは、自由民権運動抑圧直後、明治憲法発布前後における府県制、市制、町村制の施行過程で、旧来の村落共同体を「地方制度」上、解体するというかたちですすめられていたことなどを中心テーマとしてまとめた。

・一二月一〇日 橋本尭・原田勝正共同報告 「日本と中国の近代初頭における『天』の概念の変化」

宇宙観・宗教観の「天」と朱子学の「理」とを対比しながら、「天」概念が、日中両国それぞれにどのような展開を示したかを、近代の初頭にさかのぼって考え、日本の場合、一八九〇年代における教育勅語による教育理念成立期、中国の場合清末における「天演論」(進化論)導入前の状況を検討する。

なおこの間一九九六年一一月二九日、和光大学Jホールで開かれたシンポジウム「中国の近代化と人間」で、橋本尭教授が「伝統中国による人権概念」という問題提起を行なった。これは、古代中国にはじまり、明末の李卓吾を経て「清末」における譚嗣同にいたる人間把握の歴史を通観し、さらに、現在の中国における、いわゆる「人権問題」の歴史的背景に迫る巨視的な視点に立つ報告で、一九世紀末研究会としても、このような人権概念は、「天」概念とならべて追求する必要があると考えている。

(原田勝正)

 

朝鮮研究会

朝鮮研究会は、本年度、二つの柱(朝鮮人元従軍慰安婦と占領下の在日朝鮮人待遇に関する地域研究)を立てて行なった。

一○月二日に、フェミニズム・ジェンダー研究会との共催で、「アジアで女性として生きる」をテーマに、ビョン・ヨンジュ監督のドキュメンタリー映画『ナナムの家』(一九九五年)を上映した。「ナナムの家」とは、朝鮮語で「分かち合い」の家という意味で、ソウル市内の一軒の家に住んでいる六名の元従軍慰安婦たちの共同生活の物語である。お婆さんたちの日常生活における「つぶやき」に耳を傾けながら、このフィルムは軍事侵略、戦争とジェンダー、戦争責任・戦後処理の問題など多くのテーマを提供した。上映後、討論が行なわれ、教職員と学生の間でいろいろな意見、感想が喚起された。多くの学生が積極的に上映・討論会に参加したことは印象に残る。

本年度の研究会のメーン・テーマは「地域社会における在日朝鮮人と米国占領軍~宮城県と山口県の場合」であった。一九九四年度以来、本研究会は、目標をアメリカ占領軍(連合国最高司令官総本部、GHQ/SCAP)の対朝鮮人政策の分析(マクロ)から地域社会(ミクロ)研究へと移し変えた。というのは、阪神地方、島根県などの幾つかの例外をのぞけば、今までの研究の多くが、占領下の在日朝鮮人待遇に関して、GHQ・日本政府関係という「上」のレベルにとどまり、各地域での動態を把握しようとしてこなかったからである。

地域で主役を演じた占領軍の主力である第八軍やその軍政チーム、地方自治体・治安機関、在日本朝鮮人連盟(以下、朝連)、共産党などの動向、相互作用はどうであったか。また、諸地域間を比較した時、どういう格差が出て、その原因は何であったか、そして政策レベルでは、GHQの在日朝鮮人への対応にどのように響いたのか。こうした観点から、本年度も私たちは新しい問題提起を目指し、研究活動を続けてきた。

一九九五年度は、宮城県の場合を中心としたのに対して、本年度は山口県にも焦点を当てて比較しようとした。いずれの場合も、一九四八~四九年にGHQの対朝鮮人政策に大きく影響した。

山口県の場合、一九四七年から、民族学校などという「民族的自主権」を守ろうとした朝連は、第八軍、日本警察と真正面から衝突した。その結果、一九四八年三月末、阪神民族教育擁護闘争に先立って、警察はGHQの命令に従って朝鮮人学校の強制閉鎖を行使した。一九四九年九月の朝連解散までに、山口県での在日朝鮮人の動きはGHQ・第八軍、日本治安機関に厳しく監視された。

宮城県の場合、一九四八年の民族学校の閉鎖命令は大きな波紋を投げかけてこなかった。けれども、同年八月~九月に行なわれた朝鮮分断(南に大韓民国、北に朝鮮民主主義人民共和国の樹立)を機に、GHQによる人民共和国の国旗掲揚禁止は大事件を引き起こした。一○月に仙台市での朝連主催の運動会の際、国旗を掲揚した若者六名は第八軍の憲兵隊に発砲され、一人が重傷を受けた。同じ時期、山口県では、民族教育と国旗掲揚問題は一本化され、第八軍と地方警察の弾圧を呼び起こした。

結局、一九四九年九月~一○月、政府はGHQの指導の下に、仙台の国旗掲揚事件や山口県における民族的自主権の擁護運動などを口実に、朝連を解散し、朝連系の民族学校を閉鎖した。

こうした動向のダイナミズムを把握し、比較する目的で、本研究会は、一九九七年三月五日、朝鮮大学教授の孫文奎氏に「在日朝鮮人からみた仙台の国旗掲揚事件」について報告していただいた。

孫氏は、二○数年前から、この事件について資料を集め、人民共和国を数回に尋ねて、かつての朝連幹部にインタビューを採ったりして、精力的に研究を進めてこられた。同氏は、仙台事件の意義を朝鮮分断直後の日本国内外状況の中に位置づけて、日本各地で行なった民族教育や国旗掲揚をめぐる弾圧事件を、在日朝鮮人の立場から詳細に分析しているが、貴重な報告であった。かつて民族学校教員をしていた本学の李進煕氏も参加し、大事な指摘をしてくださった。

続いて、本研究会は山口県の事情に着眼した。三月二六日に、小学校教員の瀬上幸恵氏に「山口県における在日朝鮮人の民族教育擁護運動」について報告をしていただいた。瀬上氏は一教員として民族教育擁護の意味を捉え直す目的で、大学卒業論文の時に採録した朝連幹部とのインタビューを中心にお話ししてくださった。同氏の報告から、民族教育擁護は、日米双方が主張したようにイデオロギー的な「威嚇行為」ではなく、在日朝鮮人コミューニティにとって当然の権利であり、また、日常生活の中から出てきた素朴な願望でもあったことがわかった。討論の中で、近代国家における外国籍の民族による権利主張の可能性と限界という問題について活発な議論が行なわれた。山口県出身の孫文奎氏の参加・コメントも有意義であった。

来年度には、朝鮮研究会は今までの研究を補充し、各研究報告を整理し出版することにした。収集してきた書籍、ビデオ、映画などの目録を作成することも今後の目標である。       

(ロバート・リケット)

 

 

フェミニズム・ジェンダー研究会

本研究会は、フェミニズムとジェンダーについて、またフェミニズム・ジェンダー視点からの思想・文化・学問の潮流について、発表・交流・討論し合う場として、九五年度に発足した。

一九九六年度は発足二年目に当たるが、九五年度の事業としてとりくんだ「和光大学梅根記念図書館所蔵フェミニズム・ジェンダー文献目録」の作成が予想外に手間取り、年度を越して作業が続いたこと、および六月に日本女性学会春季大会を本学で開催したため、その準備に追われたことなどの理由で、前期は、『婦選は鍵なり』のビデオ上映会を実施した以外は、研究会としての独自な活動はできなかった。

秋学期の開始とともに会員で集まり、後期は、(1)ビデオ資料の収集と鑑賞、(2)専門的研究成果の発表・討論、(3)洋書文献目録作成準備の三種の活動をおこなうことを計画した。

以下に、後期の具体的活動内容を日付順に記録する。

・一〇月二日 映画『ナヌムの家』上映と討論の会(朝鮮研究会と共催)

・一〇月三〇日 英国オープンユニバーシティ・ビデオ教材「女性・子ども・仕事」およびビデオクリップ「女の歴史」鑑賞会

 一一月六日 講演討論会「刑事裁判の物語とジェンダー」講師秋田一恵氏(本学非常勤講師)(物語研究会と共催)

・一一月二八日 ビデオ鑑賞会「女たちが創るもうひとつのフィリピン2000」

・一一月二九日 講演討論会「経済のグローバル化とアジアの女性労働」講師広木道子氏(本学非常勤講師)

当初、年明けに数回の研究討論会を予定していたが、たまたまこの時期に本学の一教員による女子学生に対するセクシュアル・ハラスメントの嫌疑が浮上したため、当研究会として無関心でいることはできないとの判断から、一月末に当該教員を含む研究会所属の専任教員メンバーで緊急に会合し、意見交換の場をもった。当該教員と他の教員メンバーとの間に、大学における教師と学生との間の権力関係についての認識や、セクシュアル・ハラスメントに対する認識において、大きな隔たりがあることが明らかになり、話し合いは平行線を辿った。当研究会としては、事態の推移を見守りつつ、本学においてセクシュアル・ハラスメントが再発することのないように、相談窓口の設置、ガイドラインの設定等、大学がとるべき対応策について、他大学の事例を参考にしつつ検討することを次年度の課題に加えることとした。

その他、九六年度に行なった活動は以下の通りである。

ビデオ教材については、ジェムコの女性学関連ビデオシリーズを中心に収集した。

文献については、明治から敗戦までの間に発表されたさまざまの立場からの女性論を復刻・収録した『叢書女性論』(大空社)の内から、第一期一二巻分、および中国で出版されたフェミニズム・ジェンダー研究関連図書を中心に、基本文献の収集に当たった。

洋書文献目録作成については、九七年度中の刊行をめざして、今年度は図書館所蔵文献検索データの整理を行なった。

当研究会は、研究テーマを絞って独自の専門的研究成果をあげるというよりは、むしろ本学におけるフェミニズム・ジェンダー研究への関心の喚起、研究のための基礎的資料の収集、本学関係者の各専門領域におけるジェンダー視点での研究成果の交流など、いわばフェミニズム・ジェンダー研究のための地ならし的作業を行なっている。さらに九六年度はセクシュアル・ハラスメント嫌疑事件をきっかけとして、実践的課題への取り組みに一歩を踏み出した。目に見える成果がまとまったというわけではないが、九六年度の当研究会の活動はそれなりに意味ある活動であったと思う。

(井上輝子)

 

物語表現研究会

一九九六年度は「言語表現以外の分野における〈物語〉の機能」という全体テーマで全三回研究会を行なった。

第一回は、九月二一日、坂尻昌平氏(本学非常勤講師、映画論)に「映画はいかにして〈物語〉から自由になるか」というテーマで問題提起をしていただき、氏の専門であるジャック・タチの『プレイタイム』を鑑賞した。氏は映画の草創期の二大作者、リュミエール兄弟とメリエスの映画作法から説き起こされた。││リュミエールは〈ドキュメンタリーの元祖〉と言われているが、彼の映画にはすでに語られる内容と語る形式、それを現実の作品にする語り=物語行為が存在しており〈劇映画〉を作っていたとも言える。一方〈劇映画の元祖〉と言われるメリエスは、ニュース映画も作っていたのだから〈ドキュメンタリー作家〉とも言える。通常映画を分類するこの区別はすでにその起源の時より曖昧だったのである。この区別を支えて来た〈本当らしさ〉というイデオロギーをモンタージュによって透明なものとして、観る者に消費させる装置が〈物語〉なのである。こうした心地よい〈物語〉の欺瞞性を曝け出して、予定調和の世界の裂け目に〈リアルなもの〉を現出させようとする現代映画の冒険の一つとしてジャック・タチの諸作品を位置づける││というのが坂尻氏の映画的立場であった。タチは極めて精緻なシノプシスの下に、一見、人工的な技術を駆使して作品世界をすべて統括する監督のように思えるが、氏の解説の後で改めて見てみると、その人工性が〈物語〉の持つ人為性を逆照写しているように見えた。参加者の人数が少なく、活発な議論にならなかったことが惜しまれた。

第二回研究会は、フェミニズム・ジェンダー研究会との合同研究会として一一月六日、秋田一恵氏(本学非常勤講師、法学)に「刑事裁判の物語とジェンダー」というテーマでお話をしていただいた。三題噺のようだと秋田氏は嘆いて/面白がっておられたが、私たち物語表現研究会としては、裁判というものが事件に対する原告側の〈物語〉と被告側の〈物語〉の対決としてあるのではないか、という想定のもとに、以前より関心を抱いていた領域であったのである。当日は秋田氏が長年積極的に関わって来られた、女性が関わる刑事事件(タイ女性殺人事件)を例に採りながら、極めて具体的な手続きを含めて話してくださった。検事側の〈物語〉と弁護側の〈物語〉が真っ向から渡り合って一戦を交えるケース、検事の〈物語〉を認めつつ細部に異議申し立てを行なう(〈物語〉の筋の変更を申し立てる)ケースなど、いくつかの方法があること、第一のケースは検事側の〈物語〉の方が圧倒的に有利である(裁判官があらかじめこちらの物語に馴染んでいる)ことが多いこと、物語の素材(警察・検事の取り調べの詳細)が弁護側に入って来にくいこと、などをうかがっていると裁判を事件の真実追求と見るよりも、物語と物語の対決と見る方が、裁判制度を身近に引き寄せて考えられるように思えた。日本の精神風土は〈真実〉はひとつでその〈真実〉を発見することが何よりも大事であり、ルールがそのために少々歪められても仕方がないと考える傾向がある││らしい。ある事件が起きたとして、その事件は見る者によって幾通りにも読める(いくつもの〈物語〉が成り立ち得る)。そのうちのどれがより多くの人を説得するか、と考えるか、初めから唯一無二の〈真実〉の物語を追求するか。裁判という制度は前者を前提として成立しているのにという秋田氏の指摘に、不意を突かれたような思いがした。

秋田氏のお話は研究会の関心に当を得た刺激を与えてくださったばかりでなく、一般市民にはあまり馴染みのない警察の取調べ、裁判の実態に触れ得た貴重な機会であった。

第三回研究会は、精神分析と物語というテーマで、佐々木孝次氏(本学非常勤講師、精神分析)にラカンの精神分析における同一化の問題をお話しいただいた(三月七日)。ラカンの理論が極めて難解なため、報告者が氏のお話を的確に捉えているかどうか心許ないが、理解できた範囲でまとめておく。氏は〈象徴〉という問題を縦糸にしながら、ラカン理論による自己形成の二つの契機││想像的同一化と象徴的同一化││を横糸にお話を組み立てられた。かりに三人兄弟の子が「兄弟は何人?」と聞かれて「三人」(自分を含める)と答えるのは想像的同一化の段階(日本人は大学生でもそう答える場合が多いそうだ)、「二人」と答えて自分を全体の数から差し引く(自分を全体の概念から除外する、自己を主体として客観から区別する)のは象徴的自己同一化の段階である。段階と言ってもこの二つの同一化は時期でもなければ、上下関係でもない。想像的同一化が行なわれないと精神活動はないし、象徴的同一化が行なわれないと主体が成立しない。ただ日本の場合は西洋に較べて想像的同一化が機能する場が多い。続いて佐々木氏はこの〈象徴〉の問題を、日本の象徴天皇制の問題に添って進められ、戦争直後の「国体論争」での憲法学者佐々木惣一と哲学者和辻哲郎の論争、「象徴としての天皇は国民に含まれるか否か」を通して解説された。氏の「今の日本には天皇制の問題以外に真の問題はない」という断言は、掌を打つと同時に日頃の怠慢に鋭く突き刺さる一撃でもあった。

〈物語〉という概念は自分の問題系には入って来ない用語だ、と佐々木氏は仰言っていたが、この日氏が出された問題は〈物語〉という名こそ使われなかったが、〈事実〉とは予めあるのではなく、ある前提に則って〈事実〉と認定されて初めて存在するのだ、という和辻・佐々木論争の決定的相違点に〈物語〉と共通する視点が見られるし、またル・ヴレ(真なるもの)とル・レエル(現実なるもの)のいずれに価値を置くかによって文化の違いが生ずるといった指摘も、現実の物語化として考えることも可能であると思えた。

本年度の研究会はそれぞれに興味深く、考えさせられる点が多かったが、分野が多岐にわたり、論点が拡散しすぎたきらいがあった。来年度は、「電脳世界と〈物語〉」という年間テーマを据えて、現代における〈物語〉の消長について考えることに衆議一決して本年度の活動を終えた。

(杉本紀子)

 

共同研究・モンゴルの変容する社会と文化の諸相

一九九六年度は、夏に新彊ウイグル自治区調査、春に台湾調査を行なった。

一、新彊ウイグル自治区調査

前年度の中国東北部に於ける調査では、主として定住化して農耕に従事しているモンゴル族を訪問したので、今回は、新彊ウイグル自治区のホボクサイル・モンゴル自治県を訪問した。遊牧を主とした生活を知ることに加え、この地のオイラート・モンゴル部族は、モンゴル文字を改良した自分たち独自のトド文字を持つ民である。ウルムチからホボクサイルまでの道程には、広大な油田地帯があり、人びとの生活を潤していると同時に、その開発によって漢族の大量移入のあったことを、現地で説明されるまでもなく、知ることができた。この自治区の多くの地名がまた、モンゴル語の名称から来ていることを研究者に教えられた。以下調査結果で特徴的な点について箇条書きに書く。

(1)トド文字と口承文芸ジャンガルの研究

新彊ウイグル自治区では、モンゴル語の三種類の新聞と雑誌が七種発行されているという。また、口承文芸の叙事詩であるジャンガルの音声と語りの採集を勢力的に行なっていた。この叙事詩は、オイラート部族に固有の文化・風習も伝えているので、自分たちの文化の伝承と発掘という意義を持っている。しかし、今日ではその歌詞を若者が分らなくなっており、当然のことながら、継承者も育たない。研究者たちは、この点に僅かな苛立ちをみせた。トド文字はこうした研究には欠かせないものであるが、生活する上では、オイラートの方言はかなり薄れてきている。それでも、草原で老人の歌う歌は、伝統的なオイラート方言でチンギス・ハーンを讃えるものであった。チンギス・ハーンはこうして、今なお彼等の生活の中に生きているが、ジャンガルの中には、チンギス・ハーンの名前はない。こうした点では、事情がチャハル部族とかなりよく似ている。つまり、チンギス・ハーンの名前の登場しない口承文芸の世界を各部族がもっている。にもかかわらず、統一した意識を形成する上でチンギス・ハーンは重要な位置を占めているのである。こうした意識のあり方をナショナリズムということは出来ない。むしろ、遊牧の民としての共通感覚の確認と言った方が適切であろう。

(2)ジュンガル・ハーン国の歴史研究

現在ではホボクサイルの町外れの場所に、一つの遺跡がある。果たしてそこがジュンガル・ハーン国のかつての首都であったのか否かについては、国際的に論争がある。しかし、地元の研究者は、首都説をもって研究をしていた。我々はこの論争に加わる資格がないが、こうした研究が行なわれるようになったのが最近であることに大きな意味がある。文化大革命期には誰も注意を払わなかった遺跡に対する研究心の存在こそ、自分たちのアイデンティティを求める意識の現れである。

(3)牧民の生活

草原は、遊牧のためによく整備されていた。大草原に幾筋にもわたって作られた水路や、共同の羊の消毒場などの施設がそれを物語っていた。包(パオ)の形態は、モンゴル国のハルハ族のゲルとは若干違っていた。羊肉の味付け、食事の内容などにハルハ族との間に大きな違いは見られなかったが、食事時の作法に、ハルハ族よりも、チベット仏教に基づく風習が強く残っていた。なお、オイラート部族は、カルムィク自治共和国に住むオイラート部族の下位部族であるカルムィク部族との交流をもっている。もともと同じ運命を歴史的に共有しているからである。なおオイラート部族のみもっている中国における「最後の女王」と会見をしたが、その詳細は省略する。

(4)教育問題

中国では、モンゴル文字の使用に関しては、モンゴル国のような問題は生じないが、教育上では、やはり深刻な問題を抱えている。人文・文化系の教育は、高等教育まで用意されているが、自然科学系の高等教育機関がないのである。

 

二、台湾調査

(1)台湾に於けるモンゴル族の出発点と現状

台湾に住むモンゴル族は、蒋介石の軍とともに台湾に渡った、おおよそ五〇〇人の人びとから始まる。彼等は、政府関係者、将校など軍の中の重要な地位を占めていた人びとないし警察官などからなる。二世・三世たちの多くはアメリカ合州国に行っており、現在の在台湾のモンゴル人口は三〇〇人と減少している。しかもその九五%は台北に住んでいる。合州国のモンゴル社会も視野に入れる必要がある。

(2)政治的枠組みとモンゴル研究

台湾の政治的立場が極めて微妙であることは言うまでもない。清朝の版図を受け継いだ中華民国の地図には、モンゴル国すら存在しない。従ってモンゴルに関する研究は重視されているが、政治的な矛盾を抱えている。

(三橋 修)


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