アジアに羽ばたけトットちゃん 現代子ども労働の一考察

石原静子 人間関係学部教授

 

トットちゃんアジアへ

黒柳徹子著『窓際のトットちゃん』*1は今から一五年余り前に出た本だが、ロング・ベストセラーゆえかなり多くの人が読んでいるだろう。第二次大戦末期に東京に存在した小さな自由教育の私立小学校の話だが、在学体験した本人の生き生きした語り口と、岩崎ちひろのさし絵が相まって、読む人に子どもの発達とあるべき教育といったことを、深く考えさせる力を持っている。

そのトットちゃんがなぜアジアか、しかも副題の蕫子ども労働﨟とは? いささか三題噺めいているが、これにはわけがある。われわれ「アジアの教育・研究と交流」共同研究チームは、一九九六年秋にスタート、たちまち実地調査にでかけたのが、九七年春のラオスとカンボジアだった。調査報告*2にある通り、意外貴重な見聞がいろいろあった中で、特に強かった印象は、日本と比べようもない本の乏しさ、文字文化の貧しさだった。首都ビエンチャンに本屋はほとんどなく、年間出版される本は子どもの絵本まで入れて五〇点以下(日本は約六万点)、教員養成カレッジに図書室はあるが、どこでも小部屋で棚はガラあき。校舎校具教科書すべて不足だが、それらは外国の援助金などで何とかなる。貧しい中から先生になろうと志す青年たちに、その助けとなる本を贈りたい。小中高で学ぶ子らにも、勉強が楽しくなるような本が学校にあったら。

「アジアの教育」プロジェクトはもともと、アジア各地の教育状況の現地調査と、各地と日本の青年の交流促進とが二大研究・実践領域だが、必要可能な教育支援を、という現実的な志も併せ持っている。といって日本語の本を贈ってもしようがないし、英訳本でも読める人は限られる。と困って本学非常勤講師のチャンタソンさんに相談したら、何と「トットちゃん」を目下ラオス語訳してる人がいる、と意外な話。おまけにこの訳者は、この春のラオス行で教育省に案内してくれ、夕食も共にした既知の人だ。渡りに舟ととびついて、この訳本の出版にできるだけの助力をしたい、と申し出た。

聞くとすでにタイほか数カ国語に訳されていて、黒柳さんはそのどれにも喜んでOKしたという。この一五年、トットちゃんは海を越えて、子どもの発達と教育について問題提起する旅をしてきたわけだ。タイにもわれわれは九六年春に訪れて、スラムの子たちの現況を直接見てきた*3。それぞれの国の子ども事情と出会い、こんど新しくラオスにも降り立ったとき、トットちゃんは何を見、語り、何を彼らにプラスするのだろうか。

「アジアの教育」チームは、外国にでかけるだけでなく、ちゃんと月一回の研究会をやっている。発足初年度の今年は、メンバーの問題意識を出し合い、相互理解を深めるために、順に問題提起することにした。まず井上孝代非常勤講師が、東京外語大で学ぶ留学生たちの諸問題を報告した。国費留学の当人たちは故国のエリート層が多いが、背景にはどこも貧しい働く子たちがいる。次に石原が、ラオス農村調査の文献紹介を中心に、ラオスの女性と子どもの現況と未来について話した。夏休み明けには松永が、一八~一九世紀イギリスの児童労働と、彼らを救った義務教育制度について語った。

トットちゃんの話が立つ鳥のように舞い込んできたのは、その直後の一〇月半ばだった。そこでチーム結成約一年のこの時点で、これまでの活動をふまえて表記の題で、子どもの労働と学校教育について考えてみようと思う。といってもメンバーで分担とか合議のヒマはないので、以下は私個人の考察である。これを問題提起の一つとして考え合い、次の活動を広げ深めていくのに役立てば幸い、と考えている。

アジアの子ども労働と学校

現代のアジアで、義務教育制度を持たない国はない、といえる。しかし大抵は初等教育段階どまりで、就学率完学率ともに低い国が多い。われわれが訪れた国でいうと、ラオスでこの二率は七四と四二%、カンボジアは八四と四二%、後で話の出るフィリピンは比較的高くて九九と七〇%。女子の就学率が低く中退率が高いことは、どの国も共通である。

なぜ子どもたちは、義務教育期間も学校へ行かないのか。理由の第一は親の関心の低さである。親自身が不就学や中退で、学校の効用を感じないため子を行かせる積極性がない。第二は貧しいためで、義務期間ゆえ無償でも(国によって違う)多少の教材・学用品費は要るし、着る物にも気を使うから。第三は学校自体の問題だ。校舎校具教科書すべて不備不足、教員は無資格だったり古い考え方で、字や数を教える以上の知識・意欲に乏しいことが多い。また学校の配置が悪くて、他町村まで行く遠さが通学の足を鈍らせる。第四は、人口移動や戸籍の不備が就学の機会を奪うケースで、スラムの不法居住家族や、中国の一人っ子政策で戸籍にのせ得ないいわゆる黒児が、その例である。後者の「ヤミの子」は、女児に多いという*4。

以上の四理由にもまして不就学や中退を生ずる最大の原因は、子どもたちの労働である。アジア諸国にほぼ共通だが、中身は地域ごとにさまざまだ。ラオスやカンボジアのような農業国では農業労働で、人手と畜力中心の自然農法だから、子どもの手伝いが不可欠である。次は農家の一室で或いは小規模に人を集めてする織物や木工などの家内工業で、ここでも子どもの器用な指が求められる。子どもの労働がより陰惨な形になりやすいのは、工場制工業である。紡績工場の糸切り、麻薬を丸める、マッチの箱詰め等々の単純な労働は、子どもでできるし安く使えるから、工場主にとっては有利だ。一〇何時間も働かせた上、粗末な衣食で工場の隅に寝泊まりさせたりする。これら児童労働の惨状を伝えて世に訴える本は数多く、テレビのドキュメンタリー番組として反響を呼んだものもいくつかある*5。

子どもの労働現場は、右にあげた以外にも広がっている。街で物を売ったり車を清拭したり、ゴミ捨て場で金目の物を拾うなどの零細な労働で、これらをストリートチルドレンやスモーキーマウンテンと名づけた報道で、多くの人が知るようになった。カンボジアでわれわれが行く先々で出会った物乞いの子たちも、未知の人にねだる勇気と演技を要するから、広義の労働といえるだろう。さらに、表面に出にくいが最も痛ましい労働は、子どもの性に関するものだ。貧しい農村や山岳民族の娘たちが、甘言で欺かれたり困窮した親に承知で売られたりして、都会の裏街で働く。エイズ恐怖や幼女嗜好増加のために、こうした子らの年齢は下がり、一〇歳未満の子も稀ではない。少年の性労働も増える傾向という。

売られさらわれ閉じ込められての労働という点では、先述の工場での子らも共通の面を持つ。どちらの子たちも、やがて健康を損ない発達を阻害されて、短命に終わるか生き延びても廃人のような生涯を送ることになりかねない。どこの国の政府も、こうした人身売買や幼少年労働を禁じ、就労最低年齢や就労時間を定めたりしているが、こうした現実をくつがえす力を持たない。義務教育制度があっても不就学や中退の子が減らないのと同じで、法は現実の前に無力なのだ。そして日本を含む先進国の人びとは、子どもへの直接の迫害者だったり、彼らの労働の果実と知らずに豊かな消費生活を楽しむ、間接の加害者なのである。

現"先進国"もかつては

産業革命で真っ先に工場制工業隆盛となったイギリスでは、一八~一九世紀ごろちょうど今のアジアと同じような、子どもの苛酷な労働が広がっていた。周知の通りエンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』(一八四五年)に詳しいし、ディケンズの小説なども実状を描写している*6。紡績工場の糸取り、レース編み、マッチ製造等々で、一日一二~一四時間も働き、夜は工場の床に寝る子どもたち。彼らの保護を眼目とする工場法が一八三三年にできたが、就労最低年齢は九歳、就労時間は一日一二時間までなど、今の考え方とはかけ離れているし、適用は繊維工業だけという不備なものだった。三〇年余り経った一八六〇年代でも、例えば煉瓦工場で子どもたちが朝五時から夜八時まで働き、中には四歳の子さえいた、とマルクス『資本論』は、児童労働調査委員会報告を引用している。

当時の住宅様式が必要とした煙突掃除は、体が小さいほうが向くからと、低年齢の子が使われた。転落や窒息死しないまでも健康被害は明らかで、ようやく一八四〇年に幼児使用禁止令が出たという。工場法は就労時間短縮と共に週一定時間の通学を定めたが、長時間労働に疲れた子らにその余裕はなく、見かねた教会などが日曜学校や慈善学校を設けたが、事態の解決には至らなかった*7。

子どもたちを救ったのは、一八七〇年「小学教育令」の名で公布された義務教育制度である。一三歳以下の子は必ず学校に通うこと、つまり非衛生不健康な工場から子らを学校に移すことを目的に、イギリスの義務教育制度は始まったのだ。これは画期的なことで、それまでヨーロッパの学校はキリスト教の教義を子どもに教え込むことが中心だったから、教義問答を口移ししたりして教え、憶え終わった子は年数に関係なく卒業だった。一九世紀イギリスの方は、教える中身より子どもを安全にすごさせる年数が大事で、中身も徐々に近代化への道を歩んだ。

もちろんここでも、制度がすぐ効力を発揮して、被搾取児すべてが救われたわけではない。工場と学校かけもちの子が増え、フルタイム登校に移り――の過程を経て、義務教育九年が完全定着したのは約半世紀後である。工場の生産力があがって産業全体が安定するプロセスと、並行してのことだった。

日本でも近代化のスタートは軽工業振興、中でも農村の養蚕と連動しての製糸・織物が中心だったから、若い女性たちが苛酷な労働条件の下に働いたことは、『女工哀史』、『ああ野麦峠』などに明らかである。一八九七(明治三〇)年に大阪の紡績工場を見てまわった横山源之助は、工女が一二歳から一四、五歳、年少者が多く七、八歳の幼女もいたこと、一四歳未満者の九割以上が教育を全く又は少ししか受けていないことを記している。日本に工場法ができたのは一九一六(大正五)年で、就労年齢一二歳以上、就労時間は一六歳未満は一一時間までと定めた。しかし職工一五人以下の工場には適用されなかったから、そうした小工場の多い日本ではなお低年齢長時間の児童労働が、長く続くことになった。

周知の通り日本の学制が小学校四年を「男女共必ス卒業スヘキモノ」としたのは、一八七二(明治五)年だが、就学率がすぐ伴ったわけではなく、四半世紀後つまり横山の見た明治三〇年には、男八一%、女五一%だった。完学率は先述の通りさらに低い。女子の不就学、中退が多いことは、現代アジア諸国と共通である。少女売春の歴史も、昭和初年不況期の農村での身売り哀話を含めて、厳然とした構造的事実である。

最近の研究書二例から

前二節で見たアジアの現状や現先進国百年余の経過などから、われわれは子どもの労働を、一律に悲惨ないわば人道にはずれるものとして、非難し嘆き是正の決意を固めがちである。もちろんそれは人間として当然の感じ方であり、そんな境遇にある子らを救う運動の出発点とも推進力ともなる貴重なものである。意思に反した労働で健康を損ない、早死にしないまでも無知の底辺に沈む子たちは、明るい表の世界で年齢にふさわしい生活を楽しむ権利がある。

しかしその一方でわれわれは、子どもをただ幼い保護を要する存在、環境に受け身で流されるだけの弱者、と一くくりに見る過誤に陥ることは、ないだろうか。実は最近、右のような世間一般の思い込みに修正を生じ得る研究書を二冊読んだので、簡単に紹介したい。

一つは、ラオスのホテル内の書店で偶然入手したラオス農村の社会調査報告書である*8。アムステルダム大学人類学社会学部助教授と、ラオス人の医療保健コンサルタントの二女性が、オランダの資金援助を得て一九九四年に実施した。ラオスの民族構成、地域差、集落の大小などを周到に考慮して各地にわたる四村を選び、延べ七一家族の主婦を面接対象とした。村や各家の来歴、土地所有などの基礎的事項に始まり、結婚出産時などの諸習俗、相続方式、さらに日常の労働分担や発言権の所在まで、こまかく聞いた。

小学校は、四村中義務教育全学年が揃う村と、三年生以上は数キロ歩いて隣り村に通う村とがあるが、学年が進むほど中退者が増え、女子に多いことは共通で、前節までの諸報道や統計と対応する。しかし主婦たちのどの答えをとっても、この中退に強制や悲劇の色合いはない。ラオス農村の子らは物心つくころから進んで、家族揃っての労働の中に自分を位置づけ、積極的に働くのである。

米作中心の自給自然の農法だから、男は耕し水牛の世話をし、女は稲や野菜を育て、収穫は共同だ。男女児ともこの分業および水汲みなどを受け持って、親と一緒に働くことを当然としむしろ誇りとしている。特に女児は農事家事のほかに、母を助けて作物の販売や織物で家の収入を図ることを歓びとし、「教育の機会を進んで弟妹に譲る」とある。一〇歳になると少女たちは自分の織機を持ち、母や祖母からその家に伝わる技を習って、民族固有の美しい模様布を織る。一人前の織り手へと成長していくのだ。

子どもが環境に適応して、矛盾を歓びと見誤る可能性はある。ところがこうして成長した女性たちは、成人後もその働きに応じた発言力を持つのだ。農事家事はもちろん大小諸事柄の決定者は誰かと問われて、「自分、もしくは夫と自分」と多くの主婦が、当たり前のこととして答えている。実はこうした女性の積極的労働とそれに伴う実力とは、ラオスに限らず東南アジア一帯に見られる。タイで懇談した大学助教授は、「女はよく働きその分社会を支えている」と話したし、街の宝石店から飲み屋に至るまで、女性が主人然ととりしきり、女児も人の言いなりでなく主体的に仕事をこなすのを、幾例も見た。

第二のデータは、フィリピンでのストリートチルドレンの面接調査研究である*9。フィリピン人の社会科学者(現在筑波大学客員教授)が、マニラに近いケソン市で二〇〇人近い街で働く子たちに面接し、その生活と意見を丹念に収集した記録である。仕事はタバコ、新聞、花、野菜などの立ち売り、車洗いにくず拾い等々で、前節までの諸報道と一致しているが、違うのは彼らの生活基盤や生活感情が意外なほど健康で前向きなことである。

七~八歳からいて、平均一〇歳でこの仕事を始め、平均七時間半働くが、九一%が午前か午後(途上国の小学校は二部制が多い)又は時たまでも学校に行っており、大半は家族と暮らしていて、収入は自分も使うが家族に渡す。今の仕事を「有益だと思う」と全員が答え、その理由はカネだけでなく、技術、規律、独立心等を得る、と答えた。彼らが語った言葉に即して分析しているが、自己に関しては肯定語が五四%、家族に関して六五%、仲間について肯定語の使用は八〇%に達した。成人の失業と不完全就業の率は、併せると八四年に四〇%を超えるから、家族をこうして助け得る歓び、仲間と共に働く楽しさを語る子が多い。得た金をためて大学まで行くつもりだ、と言う子もいた、とある。

たまたま読んだ二冊の本で、前節までの子どもの労働に関する歴史と現実を、否定するのではない。しかしそれらが事実だったのと同様に、この二書が示したデータも又事実なのである。しかも二書は、訓練された科学者が、公平に選んだ対象から得た事柄を、客観的に全部記述している。科学者に予見や主観がないとはもちろんいえないが、マスコミ特にテレビ番組あたりは、予見に合う対象を捜したり、一般受けする部分を強調しがちなことも、充分にあり得る。他方、この二書が子どもの労働の比較的明るい部類を扱っていて、先の記述でいえば最も悲惨な工場と性の労働でないことも、考慮に入れる必要がある。

子ども労働の二領域

となると、現代アジアで子どもが従事する労働は、一色でないことが分かってくる。大きく分けて二種あるとはいえないだろうか。

一つはラオスの四農村調査が代表する、家族と一緒に自分の位置を持って働き、成果が目に見え、自分の未来の成長に直接つながるような労働である。それに比べるとケソン市の子らは、家族と共に働くのでないから絆は比較的弱いし、成果は見えるが今の仕事が将来に役立つかの見通しは確かでない。しかし全員が「有益」と答えており、小さいながらほぼ自営で、部分的とはいえ社会の現実を見ているから、仲間と共に才覚を働かせて多少の工夫をする余地を持つ。

第二種の労働は、工場での労働に代表されるものである。糸とりその他単純な動作の反復で、将来に役立つ可能性は少なく、報酬は自分がとにかく食える、貧しい家計からの口減らし、わずかな仕送りの歓びにとどまる。仲間はいても並行労働だから、協力等の関係構築はなく、自分の位置づけも誰の役に立っているかの実感もない。発達を妨げることはあっても促す作用のない労働といえる。性に関わる労働はさらに、見知らぬ他人の欲望のために未熟な心身を委ねるのだから、子らの歓びや成長につながるはずもない。

こう見てくると先述の農業労働も、土地がその家族の所有か少なくとも小作料が妥当な線にあって、働くことが家族の生活を維持し向上させうる望みのあることが、前提だと分かる。今も各地に残る農奴風の収奪の下では、子どもの労働は親のそれと共に借金(借穀物)の穴埋めに消えて*10、将来への希望もない空疎なものとなる。工場での雇われ労働と、同列になってしまうのだ。

ではその前提が満たされれば、ラオス農村でのように子どもの労働は、自律のなかで将来に向けて実力を養う、望ましい労働だといえるだろうか。ある程度はそういえるが、反面の限界も見逃せない。それは子ども労働の行きつく先が、本人にとっても家族としてもほぼ一定で、変化発展に乏しいことだ。歓びの労働は、将来の農夫や織り手への道しか示さない。家族の生活に多少の余裕をもたらすとしても、その先はひらけていない。街の子たちの労働も、同様である。一応自営だし社会の一部に接しているから、多少の工夫と共に自分の世界を広げる可能性はある。しかし物売りやゴミ拾いの行きつく先は、やはり社会の歯車のすき間を埋める雑業の域を出ない。

これらの子ども労働は、先述した第二の工場・性労働と比べるとはるかにマシだが、共通に欠けているものがある。それは、決まった人生、既定の仕事以外の世界が在ることに気づく機会であり、自分に合いそうならそちらを選ぶ可能性である。それを提供するのが、学校の役割ではないだろうか。

どこの国どの時代でも、学校は日常生活と違う世界のあれこれを、子どもに教える。文字や数はさしあたって無くてもすむもので、現ラオスでのように、新聞や本を読む習慣がほとんどの家に無く、自然農法ゆえ初歩の数量的扱いで足りる場合、別世界の事柄でありつづける。日本でも、百姓や漁師の子に「学問はいらない」と親が中学に行かせなかった例は、戦後当分の間稀ではなかった。しかし文字や数は、日常の役に立つ道具であると同時に、さらに広い世界の諸事を知る入り口である。読むことで直接の見聞を超えた事柄や人びとの考えを知ることができ、数の世界は宇宙にまで科学的推測の道を開く。未知の時空が目の前の農作業や小労働以外に在ることを知り、そこで自分が果たせるかもしれない役割の可能性に気づく。学校は、その門を開く魔法のカギとなり得るのだ。他方、やはり農夫や織り手がいいと思う子にも、わが職業わが人生を広い視野から見直す目を開かせてくれるだろう。

現代日本の子らは強制労働?

アジアの一国である日本の子どもを、振り返ってみよう。小・中学校の就学率完学率は一〇〇%に近く、高校さえ実質義務化に近いといえる現在、一五歳以下で働く子は皆無といっていい。農家や商店に生まれても、生産・流通とも機械化大型化した現在、子どもの出る幕はない。父母の勤めは家庭の外なのが一般的だから、手助けの仕様もない。家事も機械化社会化されて、「おてつだい」は必要よりも幼年期のしつけの一つとなった。子どもすべてが労働からほぼ完全に解放され、校舎教科書など完備し多彩な文具あふれる学校で、何の不自由もなく学べる。次々と出る本や絵本を、好きなだけ読んでいい。高校・大学へと望んで反対されることはまずなく、二〇代後半まで労働の外にすごす者も珍しくない。現代日本の子どもは、史上例のないほど恵まれた幸福な暮らしをしていると、これまで見たアジアを初めとする諸例から、言うことができる。

しかしその割に、多くの調査が示す日本の子ども像は、あまり幸せそうでないのだ。例えば総務庁が一九九五年に全国三〇〇〇人の小・中学生を無作為に対象とした面接調査では、学校を「楽しい、又はまあ楽しい」とする子は男女とも九〇%前後だが、ではどの時間がと問われると、休み時間と答える子が約七〇%で最多(複数選択)、給食やクラブと続いて、授業はやっと六番目、一五%ほどだ*11。不登校の小・中学生は最近の一〇年で三~四倍に増え*12、いじめによる自殺があとを絶たない。少年非行・犯罪は低年齢化し、成人病(生活習慣病)の子が増えている。体格がいい割に体力や運動機能は伴わず、「鉛筆も満足に削れない」子はザラだ。完全に守られているはずの子どもの心身は、どうも必ずしも健康とはいえない状況なのである。

子どもが家事に興味を持って手伝いたがったり、ゲームや音楽に熱中したりするとき、親がよく言うセリフは、「あなたは勉強するのが仕事でしょう」だ。労働から解放されて全員が学校にフルタイムで行くようになった現在、子どもに割り当てられた仕事はまさしく「勉強」なのである。それも決まったクラス、教室、座席で、決まった時間割通りに次々一定量をこなさねばならず、出来高はテストの点と偏差値で測られる。不得手や嫌いな教科も一律に強制され、何のために学ぶのか疑問を持つことは許されない。とにかく片端から憶え込んでテスト時にアウトプットするという、単純な作業の反復だ。同じ室に仲間はいるが、並行作業だから協力関係はないことが多く、むしろ達成量を競う敵である。やっと得たわずかな点数を持ち帰って(仕送りして)、親を失望させないことがせめてもの報酬だ。何と前節までに描写した子どもの労働、それも工場での最も外在的な労働と、似ていることだろうか。

おまけに学校での六時間では足りなくて、小学五~六年生の約四割、中学生では三人に二人が塾に行く*11。往復や宿題を加えると、子どもの労働時間は日に一〇時間を超しかねない。中学校に多いこまかな校則や服装のきまりは、就業規則や一律支給の作業服に似ている。

しかも困ったことに、こうしてすごす義務教育プラスアルファの行きつく先が、文字や数や諸知識に英語まで学んだとはいえ無個性の人間、大抵の企業の雇用に耐える平均的サラリーマン像なのである。そこからいきなり本式の労働が始まり、その企業の色に染められていく。ラオス農村の子が家族と共に働く先が、農夫や織り手になる道しかないのと、その意味で大差はない。言いかえると、本来は日常生活と違う時空に可能性の道を開くはずだった学校に一〇年の余もいることで、日本の子どもは農民や織り手になる自由を失った。おそらくそれが適した道だった子もいただろうに、である。

以上のような日本の学校=強制労働説に、反論することは容易だ。反論の一つは、そんな学校ばかりではない、良心的で熱心な教員はいるし、児童中心教育の伝統を持つ学校は私学を中心にたくさんある、というものだ。その通りだが、それら少数派が全体の大勢を変えるには至っていない。児童労働の国々で、法が現実を変え得ないのと、同様なのである。

第二の反論は、大人の責任論だ。高度先進社会では、「一人前」の条件が多岐多量だから、基礎的な諸事柄は強制してでも身につけさせるのが、大人の愛情であり責任だ、というわけだ。一見もっともだがこの論には、大きな穴がある。身につけるべきものは、万遍なく用意された知識だろうか。学校を出てずっと続く人生を歩むのに、もっと必要なものが、見逃され損なわれるのではないか。すべての子が持つ生き生きした好奇心や行動力は、均らして強制することでいつしか萎えてしまう。年に何万点と出る本から、知識はいつでも得られる状況なのだから、萎えると取り返しがつかないのは、読みたい意欲そのものであろう。

トットちゃんが提起したものと現代

この本が出たとき、どうしてあれほど多くの人が引きつけられ、感動し、ロングベストセラーになったのか。答えは簡単で、一九八〇年代の日本の学校の状況に、皆がひそかに不満と不安を感じていて、みごとな対置物であるトモエ学園の諸事実が、不満不安の実質に光を当て、本当の教育とは何かについて、考えさせたからである。

敗戦と共に軍国主義教育が払拭され、子ども本位の自由な教育がやれるようになったと、人びとは期待し解放感にひたった。しかし残念なことに、それは戦後の一時期だけ雲間にのぞいた青空で、たちまち別の形の画一化が、学習指導要領や受験競争圧力で、日本の学校を工場労働化した。トモエの諸事実は、そうした戦後三六年目の現実と、正確に対置的である。校舎は子どもの好きな電車で席は決まっていず、その日の勉強をどれから始めどの程度力を注ぐかは、個人の自由だ。午後は自然や歴史の体験学習を兼ねた散歩。プールでは裸で泳いで男女の体をオープンに学び、校庭では各自専用の登り木に自分の名をつける。普通の小学校では問題児で退学になったトットちゃんが、毎朝待ちかねて登校する学校好きになったのは、この対照性から当然といっていい。

こんな自由な小学校が、最も戦争の激しい一九四〇年代前半に存在したこと自体が奇蹟のようだが、他面から見るともっともといえる。単に大正自由教育の名残とか、小さな学校ゆえ当局が見逃しても無害、などだけではない。ここに通う子と親が、当時数少ない上層階級に属したことにもよるだろう。トットちゃんの父は著名なバイオリニストでコンサートマスターだし、別の親の持つ別荘に全校で(といっても六学年合わせて五〇人ほど)行った話が出てくるし、巻末にある同級生たちのその後は、多くがエリートの道を歩んでいる。

普通の小学校が、男児はやがて強健で従順な兵士、女児はけなげな軍国の母へと道を決めて、教育勅語の暗記や兵式訓練を強いていた中で、枠外にいられた階層なのである。戦時でなければ小学校は、文字や数や一通り物を知って使いやすい労働者を造る工場だったが、トモエの子らは将来そうした下積みの労働をする予定はなく、従って学校も工場化する必要はなかったのだ。

戦後の一時期を除いて学校は再び、兵士や労働者に代わって無個性な平均的サラリーマンを造る工場となった。不合格品を極度に減らし、規格に合う品を大量に揃えて生産するのが、日本の製造業一般の特技である。子どもたちの労働は、そのための反復作業分担といえる。

しかし現代、ハイテクの急展開と共に諸業務のコンピュータ化、競争の国際化が進んで、平均的サラリーマンの需要は急速に後退した。定年まで勤め上げる無難な人生は保証されず、理想でもなくなりつつある。学歴信仰はなお根強いが、規格品でない個性やバイタリティが注目され、多品種少数生産の時代である。

人びとの生き方に多様性個性を認めるきざしが、あちこちで増えた。学校外で年齢不問で、何かを選んで学び、自分を作りかえたり職場や社会での位置づけを変えていく可能性が、生涯学習・生涯発達のかけ声と共に、少しずつ見えてきた。インフォームド・コンセントやら自分の墓の設計に至るまで、個別の生き方と本人の意思が尊重される時代へと変わりつつある。

子どもに一定枠で学習という名の労働をさせ、規格品に仕立てることは、もはや大人の愛情でも責任を果たす道でもなく、むしろ逆の作用をしかねないのが、現代である。日本政府もようやく同意した子どもの権利条約は、子どもは幼くても一個の人間であり、自分と周囲を見て言動を選び試みる主体的な存在であることを、基本としている。もちろん年齢に応じて大人の手助けや導きは必要だが、子どもは決して、何から何まで決めてやらなくてはならない無能な弱者ではない。むしろ幼いなりに試行と結果の体験を積ませること、将来へと結ぶ選択肢を豊かに用意することが、大人の責任であり愛情であろう。

日本でも他地域でも、選ぶ機会は平等でなければならない。ラオスの子は欲するなら学校に行くことを選ぶ権利、日本の子は現在の学校に行かない、あるいは意思に反する労働を拒否して別の世界を求める権利がある。そのためにラオスの学校は変わらねばならず、教員たちは文字や数が開く無限の世界の面白さを知って伝える人である必要がある。日本の学校もまったく同様だ。さらに教員たちは、指導要領や財界の意向がもたらす強制力をはね返す力と連帯を、みずからに育てなければならない。

ストリートチルドレン四〇〇人余の会議が一九九一年タイで開かれ、議員や大人たちに堂々と現状を訴えて対策を迫ったという*13。同様の会議は、フィリピンでも実現した。また彼らがNGO団体の支援の下自前のレストランを開いた例が、インドにある。稼いだ金で皆が食べ物を買うのだからと、自他の福利をめざす起業で、街の子たちに配達もする。子ども労働組合が結成され、全国に波及しているという。「有益な」労働から学んだことを生かして、自らの未来を選ぶことが、彼らの境遇でも可能なことの一証明といえよう。九七年六月人間発達学科で、ベトナムの同様境遇出身の高校生を招いたときにも、少女たちは教員や優れた織り手になる夢を、輝く瞳で話してくれた。

日本の子たちは、恵まれた環境ゆえにかえって孤立の度が深いようだ。他律的労働から未来を望見する主体的学習へ、子ども間連帯へと、やはりNGOならぬ大人の助力が必要だろう。誰かの役に立っている安定感は、家庭や学校に限らず地域も含み、さらに広がり得るものだ。前述の総務庁調査では、子どもの地域とのつながりは「お祭りに行く」七〇%、「そうじ」二〇%程度で、それも中学に行くと半減する。大学にきて突然、近い国の青年との連帯や共にアジアの未来をと言っても、ピンとこないのが当たり前だ。彼らの孤独は、来世紀以降も日本の孤立、アジアの分断が続きかねないことを警告している。

トットちゃんがアジアに行く意味

話を戻して最後に、トットちゃんが今の時点でアジアに行くことの意味を考えてみよう。おそらくアジアの大抵の国では、この本を読んだ人びとは、こんな学校が本当にこの地上に存在したのかと、八〇年代の日本人たち以上に驚き疑うにちがいない。しかし当然だがその先は、違ってくるだろう。

現在アジアの国々の教育事情は、もちろん国ごとにさまざまだが、大きく分けて二つの型が目につくようだ。一つは植民地以来の諸条件の下、内戦や貧困等々のために小学校さえ満足になく、校舎教科書等すべて外国の援助に頼らざるを得ない国で、ラオス、カンボジアほか発展途上の貧しい国々があてはまる。第二の型は、同じ途上国でも好運に恵まれたり経済努力が効を奏して、発展の階段をかけ登りつつある国だ。多くは一そう発展を加速し国力を増すために、政府が国民を一定方向に教化しようとする。軍事政権やら社会主義の墨守やら国情はいろいろだが、民主化はあと回しの抑圧が共通で、その意味では一九三〇~四〇年代の日本と通ずる所がある。

前者の遅れた国では、この本の背景を説明し実在を強調してもなお、夢物語として信じがたいだろう。後者の国々では、国民に小市民的自由思想を浸透させる危険な本として、悪くすると発禁になりかねない。実はラオスも一応社会主義国だから、検閲が問題かも、と言ってくれた人がある。その意味ではトットちゃんがさしあたって行こうとしているラオスは、二つの型を兼ねるといえる。

童話めく語り口と夢幻的なさし絵に助けられて、この本がうまくアジアの国々に訳され読まれることができても、そんなわけですぐに目立った効果は表れないかもしれない。しかし、成長中の子どもに適した栄養が徐々に体力をつけるように、ゆっくりとだが着実にプラスの効果を生じるのではないかと思う。

というのは、子どもが朝を待ちかねて登校するような学校があって、子どもの生活が楽しく生き生きしていたら、という願いは、貧富や社会体制とは別にすべての親が、意識下にでも持つと思えるからだ。どんな困った子劣った子も、小林校長のように「本当はいい子」と信じたい望みや、障害児も同じ人間と見るやさしさは、経済的精神的余裕さえあればどの国の人びとも、基本的に持ち得ると思うからだ。ラオスで偶然立ち寄った小学校の校庭で、わっと取り巻いた二年生たちの、身なりは貧しいが輝いた目と笑顔を、忘れられない。これを涙や失望で濁らせたくない思いは、単なる感傷や思いこみを超えて、万国の大人に共通であろう。

社会主義を信奉する国が、この本に階級敵の匂いをかぎとるのは、前節に述べた事柄からも正当な感覚といえる。貧しい国の人びとが夢物語としか信じにくいのも、同じ理由から生ずる別の半面である。しかしだからといって、この本の価値が下がったり、アジア各語に訳すことが無駄や不向きだということにはならない。当時上層階級だけがやれたことを「やった」のは自然な成りゆきで、それなりの勇気を要したにちがいないし、半世紀後に考える別の可能性はなかったのだから。

これが事実として存在し、諸事情の助けで万人の読める物語風記録として残ったことは、やはり好運だったと思う。日本だけでなくアジアの、そして世界の子どもの未来にとって。なぜなら、一九四〇年代には限られた階層にのみできたことを、子どもの権利というもっと広い地球的な理念の下に、実現をめざすことが可能になりはじめたのが、現代だからである。

日本でも軍国主義時代とは違う形で、今また子どもたちは囚われの労働をしているし、アジアの他の国々では今も前近代的、あるいは中世的とさえいえる苛酷な状況で苦しんでいる子が多いのは、事実だ。しかし子どもの権利への意識と行動は、少しずつだが確実に広がり、皆のものになりつつある。この本は、誰でも読めるやさしい表現で、この動きをはげまし進める手がかりの一つになるだろう。

「トットちゃん」は、あの時代と状況の限界を背負いながらもやはり、短い期間アジアの暗い空の一隅にまたたいた星だった。そしていま新しく姿を変えて、なお受難の続くアジアに希望を運ぶ鳥であり得ると思う。

(「アジアの教育―研究と交流」チーム代表)

 

 

*1 黒柳徹子『窓ぎわのトットちゃん』講談社、一九八一年

*2 「アジアの教育」プロジェクト・チーム『ラオス・カンボジアの教育・現地訪問調査記録』和光大学、一九九七年

*3 「高等教育の総合的研究」チーム『一九九六年春バンコク・王と僧の都に二大学とスラムを訪ねる』和光大学、一九九六年

*4 若林敬子『中国人口超大国のゆくえ』岩波書店、一九九四年

*5 ピーター・ライト、さくまゆみこ他訳『子どもを喰う世界』晶文社、一九九五年

松井やより『アジアに生きる子どもたち』労働旬報社、一九九一年

NHK取材班『いま、地球の子どもたちは』角川書店、一九九一年

A・アルスブルック、A・スィフト、甲斐田万智子訳『未来を奪われた子どもたち』 明石書店、一九九〇年

*6 松永巌「オリヴァー・トゥイストに見るロンドンの下層社会」和光大学総合文化研究所年報『東西南北』一九九七年

*7 梅根悟『世界教育史』新評論、一九六七年

*8 Loes Schenk-Sandbergen, Outhaki Choulamany-Khamphoui, Women in rice fields and offices: Irrigation in Laos, Empowerment 1995

石原静子「不思議の国ラオスの女性優位と今後」和光大学人間関係学部紀要二号、一九九八年

*9 M・L・ピケロバレスカス、河口和也他訳『フィリピンの子どもたちはなぜ働くのか』明石書店、一九九一年

*10 ロジャー・ソーヤー、西立野園子訳『奴隷化される子供』三一書房、一九九一年

*11 総務庁青少年対策本部『日本の青少年の生活と意識』一九九六年

*12 日本総合愛育研究所『日本子ども資料年鑑』一九九六年

*13 喜多明人他編『子どもの参加の権利・〈市民としての子ども〉と権利条約』三省堂、一九九六年


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