芸術学科第二回宮川寅雄記念講座

ヨーロッパとアジアの交錯 私の仏教学への歩み

ジャン=ノエル・ロベール フランス国立高等学院宗教学部教授

 

ギリシア語で最初に「哲学者」[ピロソポス]という言葉を作ったと伝えられているピュタゴラスが、謙遜から自分のことをソポス「賢者」[智恵を持つ者]と呼べなくて、代わりに「智恵を愛する者」[ピロソポス]と呼ぶにとどめたという伝説は、日本でもよく知られた話です。つまり、自分は決して智恵の持ち主ではないけれども、一生懸命それを求めているという気持ちを表したわけです。

それと同じく、今日ここで私が仏教学者として紹介されているのを聞きますと、ピュタゴラスの謙遜とはまた違いまして、本当に恐縮し、抑えがたい恥を感じてしまいます。何故なら「学者」という語には、「学ぶ者」、「勉強する者」という元々の語源にもかかわらず、ある程度自分の研究分野を把握している人物を指しているからです。私がその理想からいまだ遠くにとどまっていて、どんなに初歩的な疑問と問題の中で迷っていることか、それが今日の話を聞いて下さる皆様には、おのずと明らかになることと思います。

遠い昔から今日に至るまで、日本の学問を飾った歴代の仏教学者たち、あるいは一九世紀に仏教学の基礎を築きはじめ、一五〇年という時間をかけて仏教学をゼロから他の専門分野と肩を並べる学問へと作り上げたヨーロッパの学者たち、特にビュルヌーフ、シルヴァン・レヴィ、ラ・ヴァレー=プサン、ラモットなどというフランス語圏の碩学(コンツェというドイツの仏教学者が彼らの業績を讃えて「フランス語は、サンスクリット語、中国語、チベット語に次いで大乗仏教の第四の言葉になった」と書いたほどです)と比べますと、私が仏教学者と呼ばれるのは、本当に過分な名誉です。

そこで古代のピュタゴラスに習いまして、私は決して仏教学者ではなく、疑いもなく仏教学を愛している者である、そう強調したいと思います。私はそろそろ四七歳になりますが、二〇歳前後から二七年間にわたって、仏教にかかわる勉強をしない日が一日としてないといっても過言でないほど、それほどに仏教学を愛しています。その割には、本格的な仏教学という最後の目的に達する可能性が毎日のように遠ざかっていくことをますます痛感しています。こんな歳になっても優れた進歩の見込みがありませんので、永遠に「仏教学を愛する者」でありつづけなければならないかもしれません。

「愛する者」という語は、ヨーロッパの古典語であるラテン語では「アマートル」といいますが、その語がフランス語を通じて、英語の「アマチュア」として現代の日本語にもなりました。私はたぶんいつまでも仏教学を愛する者としてのアマチュア、すなわち素人のままに勉強をつづけるしかありませんけれども、素人のままでも仏教思想とその思想を伝えるさまざまな言語の勉強に一生を捧げることが可能であれば、この上のない幸せであろうと確信します。

こんな素人の話を皆様に聞いていただいて、いったい何の役に立つのでしょうか。今日の講演の副題を「私の仏教学への歩み」としたのも、文字通りに理解していただき、一生かけても成し遂げられない仏教学への道を歩もうとしている私の例を、一種の実物教育(英語のケース・スタディという言葉の方がふさわしいかもしれませんが)として捉えていただきたいからです。私の数え切れぬ躊躇、疑問、失敗を皆様に知っていただき、同じあやまちを繰り返さずに、厳しい学問の上に築かれた本格的な仏教学の道を歩む志を起こさせるという効果がありましたなら、私の話も無意味ではないでしょう。

 

私が仏教学への道を歩み始めたきっかけは、子ども時代から抱いている二つの関心に基づいていると思います。それは言語と宗教への関心です。面白いことに、私にとってこの二つの関心は切り離せない関係にあり、非常に早い時から結びつけられておりました。その原因の一つとしては、いま顧みますと、やはりカトリックの教育にあるのではないかと思います。私の生まれた頃は、九〇%のフランス人にとって、カトリック教徒というのがフランス人の別名というほどでしたので、私も皆と同じく洗礼を受けさせられました。私の名付け親(代父)は、戦争時代に父の上官であったフランス軍の大尉でした。その人は終戦の時、浮世を見限り、軍人とは違う方法で自分の隣人を助けようと、カトリック教会の神父になりました。私には彼の影響が大きかったと思いますが、それをはっきりと描写するのはなかなか難しく、ただ子どもであった私に特定の宗教的な雰囲気をもたらしてくれたということだけ、ここで言っておきたいと思います。

カトリック的な雰囲気の中で育てられた子どもにとって、一〇歳から一五歳前後までの時期は決定的な過渡期になります。中学校に入る頃になると、自分がこの世界のなかで存在することの意味を説明してくれたカトリックの教義が段々と信じ難くなります。自分なりの世界観が広がっていくとともに、独立した考え方が発展していきますので、少年や少女になった大部分の子どもが宗教(ここでは特にカトリックのことですが)の甘美であると同時に恐ろしい信条の要求に対して無関心になってしまいます。

私も、皆と同じようにこの通過期を通りすぎました。ただ幸いなことに、そうした疑問を抱く時期が、私にとってはとても重要な意味をもつ本を手に入れた時期と重なったのです。その本とは、当時(六〇年代の初め)新刊として出版された『エルサレム・バイブル』のポケット版でした。このヘブライ聖書のフランス語訳は、文体的に優れていただけでなく、エルサレムの聖書研究院で活躍していた学僧たちによって、非常に詳しい歴史的、神学的、さらには言語学的な注釈が加えられた学問レヴェルの高い出版物でした。その『エルサレム・バイブル』は、私に聖典の新しい読み方を教えてくれました。小学校時代の教理問答の授業で習ったこととは違いまして、聖書は神様の言葉として無条件に拝まなければならない経典ではなく、歴史的に研究できる一定の成立過程を経たテクストとして、かつては想像のできなかったほど新鮮な姿に変身して見えたのです。神様の言葉としての絶対価値を失いかけていた聖書が、まったく新しい種類の知識を与えてくれる原典としての価値を帯びるようになったのです。

特に、今日の話と関連して強調したいのは、『エルサレム・バイブル』のおかげで、私は初めて宗教と言語のあいだに存在している密接な関係を鋭く意識するようになったことです。具体的な例として、こんなことを思い出します。

『旧約聖書』創世記の第二句には「地は混沌なりき」という有名な言葉があります。注釈を読みますと、原文のヘブライ語では〈混沌〉にあたる語が「トフー・ヴァ・ボフー」であるということが分かりました。ところが現代のフランス語には、混乱状態を形容する語として「tohu-bohu」という言い方があります。つまり、聖書の原文の冒頭に現れるヘブライ語の一単語が、そのまま日常生活にも使える、ごく当り前のフランス語になっているという事実を発見した時、言葉で表現できないほどの喜びと興奮を感じました。私の信仰対象であったキリスト教が、信者としての観点とは異なり、歴史や言語学という角度から近づこうとすると、意味がなくなるどころか、むしろあの当時の私にとっては、より深くてより面白い、照明に浮き出すような存在となり、かつてなかった豊満な知識を得たと感じさせてくれました。これこそ仏教学をめざす以前に出会った宗教学への入口、文化現象を研究する学問としての宗教学の世界への私の第一歩だったのかもしれません。

聖書の言葉であるヘブライ語とギリシア語を勉強しはじめた原因は、そういうきっかけでしたが、それと同時にヨーロッパ文化圏以外の言語や文字にも興味をもちはじめ、オリエントと極東のさまざまな言語を無鉄砲に勉強しだしました。ほとんど独学で、決まった方法に従って勉強しなかったため、大した進歩はしませんでしたが、比較的によく進んだのは中国語の勉強でした。

中国語にひかれた原因は、他ならぬ漢字という文字の不思議な美しさに魅せられたからでした。最初は、東洋のさまざまな宗教に興味を感じていたとは言えません。あるいは感じていたのかもしれませんが、東洋文化の一部分としての宗教に対する漠然たる好奇心にすぎませんでした。東洋の言葉を勉強しましても、私の宗教上の問題と疑惑は、すべてキリスト教の枠を出ないものでした。

 

私の覚えている限りでは、仏教に出会ったのは、東洋の言葉を勉強しはじめてからかなり時間がたった後のことです。しかし、その最初の出会いは幻、または蜃気楼と呼んでもいいような物語との邂逅でした。いま顧みますと、その体験は最近(二、三年前)アメリカで出版された本に書かれているエピソードに非常によく似ている気がします。そのエピソードとは、次のようなものです。

アメリカではフロイト資料館の館長として有名なジェフリー・メーソン氏は、フロイト思想に関する新しい資料を公開し、心理学の世界をはるかに超えてスキャンダルに近い事件を起こしただけでなく、自分の私生活やら恋人との裁判沙汰やらのため、新聞記者に追い回されているような人ですが、そのメーソン氏に『マイ・ファザーズ・グル』(父の恩師)という題をもつ回想録があります。メーソン氏は、マスコミ界で広く知られるような精神分析史の優れた学者とプレイボーイを兼ねるだけの人物ではなく、西洋では比類ないほどのサンスクリット語学者でもあります。彼のサンスクリット語への造詣の深さは、書き言葉と話し言葉の両面にまでわたっています。彼のサンスクリット語会話がきわめて流暢なことは、インドの論理学者から直接に確かめる機会がありましたので、その点については疑いないと思います。

さて、その回想録で、メーソン氏は自分の子ども時代のことを思い起こしています。彼の家族は、祖父の時代から宝石の貿易で大変な金持ちになりました。お父さんは家業を継ぎましたが、一方で神秘主義やオカルトに深い興味を持ち、カリフォルニアにむらがる無数の風変わりな人物に引かれるような性格の人でした。なかでもインドのヨーガや神秘哲学について大衆的な本を次々と書き、その世界ではなかなかの権威者であったあるオカルト作家を、長年にわたって家に住まわせたりしていました。賢者ぶったずる賢い男が億万長者の家で居候していたものですから、当然その家の子どもたちに対して家庭教師に似た役割を果たすようになりました。一番親しくなったのが、この家の次男であったジェフリーです。

ジェフリーは毎日のように、夢中になってその不思議なお爺さんの口から、自分が金星や火星に住んでいた頃の思い出話やら、古代エジプトのファラオの朝廷で大司祭を務めていた前世のことなどを聞かされました。そうして成長したジェフリー少年は、お父さんのお金で「金星人の」お爺さんを連れ、夢の国インドで大巡礼を行ないました。インド各地の賢者、ヨーガの修行者、さまざまな行者で少しでも名のある者がいると聞けば、そのもとへ教えを求めに行きました。一五、六歳でありながら大きく神秘主義に傾いていたジェフリー少年にとって、このうえなく楽しい生活だったにちがいありません。

自分の関心に正直で熱心だったジェフリーがインド学に真面目に向きあい、高等学校を卒業して、すぐさまサンスクリット語の本格的な勉強に着手したのも、そのグルのもたらした影響の当然の結果だったかもしれません。しかし勉強が進めば進むほど、居候の教師の口から聞いていた教えがなにもかもデタラメだったことにようやく気がつきました。そのうえ、そのお爺さんがサンスクリット語の一語もまともに知らないという悲しい事実も悟ってしまいました。幻滅と恨みと憤慨が極まりまして、もう自分にとってはペテン師の居候にすぎない老人と縁を絶つことになりました。

ジェフリー・メーソン氏はこの回想録を書いた時、すでに四〇歳を超えていました。成熟した学者の観点から自分の子ども時代の不思議な経験を顧みて評価しようとした後書きでは、消極的に判断することを避けて、むしろ自分の経験の希有なことを悟って、偽物のグルに対する一種の和解の気持ちを表しています。幻の上に生まれた彼のインドへの熱情が、本格的なインド学を学び取るきっかけになったわけです。

スケールがずいぶん違いますが、決して億万長者の息子ではない私も、仏教に引かれた最初の動機は、一種の文学的な幻でした。一九六五年の夏、父の故郷で夏休みを過ごしていた一五歳の私は、フランスの東部地方の小さな町で、奇蹟的にも、じつに不思議な本を手に入れました。この本の著者がロブザン・ランパと名乗るチベット人の偉いお坊さんであるということは、裏表紙の宣伝文句から知りました。その本の題は『第三の目』というものでしたが、内容はと言いますと、まことしやかに書かれたチベット人の思い出話という形の、奇想天外でありながら独特の純粋さをたたえた物語でした。主人公がどのようにして両目の真ん中に木のくさびを打ち入れて「第三の目」を開き、そのおかげで超人的な力の持ち主になり、過去、未来、現在のすべてを見通せる神僧になったかという過程をこまごまと描写していました。のみならず、何百年も前に現れたチベットの古い予言を引用して(チベット語の原文までイラストに出ていました)、自分がブッダの教えを西洋に普及させる使命を負託されたことまで打ち明けていました。

夏休みが終わってパリに帰ると、英語の専門書店を歩き回って、まだフランス語に翻訳されていないロブザン・ランパの作品を手当り次第に買いました。そこで、チベットについて書かれたますます摩訶不思議な事実を読みました。ダライ=ラマの住んでいたポタラ宮殿の下の洞窟には人類以前に存在していた巨人のミイラが保存されているとか、伝統医学を勉強している学僧の神秘的な記憶術など、数え切れないほどの感嘆と驚きがページをめくればめくるだけ、次々と出てきました。

無我夢中になった私は、今度は東洋学の専門書店へ走って行きまして、チベット語の文典をあわてて買いました。幸いにもそのとき手にしたのは、薄っペらな小冊子の形をした文典でしたが、これが古典チベット語、特に仏教経典のチベット語を覚えるためにはもっとも効果的な早道でした。この文典は、マルセル・ラルーという女性学者の書いた『チベット語の実用教科書』でした。純粋なチベット語を紹介するより、むしろサンスクリット語経典の翻訳語として用いられた仏典チベット語に重点を置いていました。それを覚えようとしていると(二、三年のあいだはたいして進歩しませんでしたが)、ここで学んだチベット語の背後にある仏教が、もちろん『第三の目』で発見した超自然の教えとは非常に違っていたとはいえ、尽きることのない興味をもたらしてくれました。それと同時に、あの自称ラマの作品を少しずつ疑わしく感ずるようになりましたが、それでも何となく一種の未練を感じまして、ランパの本を捨て去るのはなかなか難しかったのです。

私の見方を決定的に一変させたのは、そのころ通いはじめた中国語の校外講座で知りあったお爺さんでした。学校の帰り、そのお爺さんと一緒に駅まで歩きながら話をする習慣ができました。そんなとき、たまたま私が頭一杯に詰め込んでいたあのラマのことを口にした途端、そのお爺さんは吹き出しました。そして「ランパはチベット人なんかではない。イギリス人の水道屋にすぎないぞ」と、ぶっきらぼうに言い放ちました。私はなぜ、その経歴さえよく知らない老人から聞いた言葉をそのまま信じたのでしょうか。今から思いますと、本当は自分で分かっていたにもかかわらず、愛読していた著者が偽物だと認めるほどの自信がなかったことが理由なのではないかと思います。第三者からその判断を聞くのは、一種のカタルシスに似たような効果をもたらしたとも言えるでしょう。もちろん幻滅は感じましたが、同時に、あの大風呂敷の神僧の話と、もっとさっぱりしたラルー女史の本のあいだにぼんやりと感じていた矛盾から解放されたような気持ちでした。それはジェフリー・メーソン氏の経験に似て、幻から生まれた仏教への関心でした。しかし、その後しばらく、オカルトめいた東洋学の本からはなるべく遠ざかるように努めました。

 

六七年に高校を卒業しましてから、長年の夢を実現して、東洋語学校にすぐ登録しました。そこでようやく私の憧れの的だった東洋の言語の勉強に耽ることができました。二年生の時、私の仏教との本当の出会いがありました。その出会いのお陰で、仏教学をどう学んでいくべきかと見当が付くようになりました。その仏教との出会いは、一人の人物に象徴されました。それは、私の恩師ベルナール・フランク博士でした。あの当時、博士が教鞭を執っておられたのは、フランス国立科学研究院の第四部「歴史と文献学」でした。その学院の授業は、週に一回行なわれるゼミの形を取っていました。

博士のゼミは「日本の古典文化」でして、そこで丸三年をかけて、平安時代の源為憲が編んだ『三寶絵詞』という説話集を読みましたが、その説話集を中心にして平安時代の他の説話、特に『今昔物語』に関係する説話の抜粋をいくつも読み、研究の範囲は漢訳仏典の出典にまで広がることが多かったのです。それだけでなく、フランク博士は仏教用語の意味などを説明する時は、かならずサンスクリット語の語源までさかのぼり、仏教以外のインド宗教と哲学における使用例も調べておられました。

フランク博士は、日本学についてはフランスにおける日本学の創立者シャルル・アグノエール氏の弟子であり、中国語については中国・チベット仏教史の大家ポール・ドゥミエヴィル氏の弟子であり、またサンスクリット語文法の碩学ルイ・ルヌー氏の弟子でもあられました。ルヌー氏は、フランスのみならず全ヨーロッパから見ても、もっとも完全なサンスクリット文典を編纂した方です。このようにフランク博士は広く東洋を学んでおられましたが、ご自身としては日本学者という意識しかありませんでした。けれども、博士の主な研究分野であった平安時代の文化と広い意味の図像学(特に世界でも唯一といえる「お札」の研究)は、彼自身にとって仏教の研究とは切り離せない学問でした。つまり仏教を中心としていた平安時代の文化、文学、思想、図像を理解するためには、インド、中国の仏教と文学も顧みる必要があるという原則をおもちで、講義中に言葉で表現されることがなくても、私たち学生には先生の研究方法を見ていれば分かることでした。

フランク先生に蒙った一番ありがたい教えを一言でまとめようとすれば、それは仏教研究における統一的な観点、見方であった、そう言っていいと思います。インドに生まれ、中国で独特な発展を果たし、高麗を通じてようやく日本に伝わった仏教という宗教的・文化的な現象は、最終的に日本文化の中に結晶しているという意識でした。その結晶の中には、インド・中国・高麗という三国の文化だけでなく、日本本来の言葉、文化、信仰も収められました。博士の方法に学んで、私はやっと仏教に対する関心と言語に対する興味を統一して勉強を進める中心的な立場を見つけることができました。

フランク先生は、非常に苦しい病気の果てに、一九九六年一〇月一五日に亡くなられました。先生の人間として、学者としての優れた業績については、また別の機会に、より詳しく述べることにします。先に、ヨーロッパにおける仏教学の大先輩たちの名前を挙げましたが、彼らにとっての仏教学とはインド学の一部にすぎませんでした。それはサンスクリット語とパーリ語の勉強ではじまるものでした。たとえばラモット氏の卒業論文は、『バガヴァッド・ギーター』に関する研究でした。まずサンスクリット語などインドの言語を把握してからチベット語や漢文の勉強にたずさわる決まりでしたが、チベット語や中国語に求めていたのは、チベット語経典や漢訳経典の基礎となっていたインド諸語の原文を復元する道具としてだけでした。チベット人や中国人の学僧の書いた、独創的なインド思想の本流からほど遠い注釈と論文にはあまり興味がなかったという事実を認めなければなりません。ドゥミエヴィル氏とラモット氏のように日本語を習った学者もいましたが、それも現代日本の仏教学者による研究を読むためだけのものでした。

シルヴァン・レヴィ氏について弟子たちが書いた回想録には、こうした初期の学者たちの態度をありありと描写する場面があります。レヴィ氏がチベット語の文章を読んでいた時、目前にあるテクストの文章を指でさしながら、口ではサンスクリット語の原文に直して読んでいたというのです。言葉を変えて言いますと、この偉大なインド学者にとって、チベット語は透明なものでした。肝心だったのは、その透明な言葉の奥に見えるサンスクリット語でした。この不思議な同時通訳とも呼べるチベット語テクストの読み方は、インド学者の典型的な立場を明らかにすると思います。なおレヴィ氏については、ほかにも面白い有名な話があります。第一次世界大戦がはじまった頃、チベット政府がイギリスの外交筋を通じて、フランス政府あてにチベット語で書かれた書簡を送りました。当時のフランスでは、チベット語を読める人はごく少数しかいませんでしたが、まずフランスの最高の教育機関で教授を勤めているレヴィ氏に翻訳が依頼されました。あいにくサンスクリット語の翻訳語としてのチベット語については名人の域にあったレヴィ氏も、チベット人自身の書く純粋なチベット語は苦手でした。挙句の果て、翻訳にとまどって何もできなかったそうです。その書簡は結局どうなったか、私は全然わかりません。

それと同様に、『倶舎論』や『成唯識論』を漢文からフランス語に翻訳したラ・ヴァレー=プサンや『大智度論』、『維摩経』などの画期的なフランス語訳を完成したラモットも、漢訳仏典以外の中国語をあまり読んだことがないといっても言い過ぎではないと思います。特にラ・ヴァレー=プサンの場合、その翻訳にわずかでも誤りがあるとすれば、その大部分は普通の文学的な漢文を十分に知らなかったという原因から起きました。ここで挙げた二、三人の碩学の例から、ヨーロッパの仏教学者の特異な姿勢が十分に伺われると思います。

私は、フランク博士の影響の元で、その観点を逆さまにしました。つまり、仏教東流の終点ともいえる日本から仏教を調べることにしました。インド、中国、高麗の伝統が日本の領土に結晶されて、現代の東洋ではおそらく比類のない宝物として保存され、大陸では独立する宗派の形を失ってしまった天台宗、真言宗、法相宗などなどの区別を現代まで守ってきた日本仏教こそ、まさしく研究対象に値するのではないかと深く感じました。チベットを除けば、六世紀の中期から現代まで絶え間なく存在しつづけた仏教伝統は、確かに日本だけという事実から考えますと、もっと広く研究されないのは不思議なことです。

このアプローチの具体的な例を挙げるため、私の修士論文について一言触れたいと思います。いま述べましたような観点をつかまえたとき、日本と関係する仏教テクストで、なるべく短く、素人の私でも一年間で研究し、翻訳もできる小論がないかと『大正新脩大蔵経』のページをめくって見たところ、まったく偶然に、その第四六巻に、これぞという文献に行き当たりました。一〇世紀高麗の学僧・諦観の編纂になる『天台四教儀』という題をもつ、六ページほどしかない天台教理の入門書でした。さっそく『仏書解説辞典』を調べますと、『諦観録』とも呼ばれるこの本の注釈書の表題だけで数ページを満たしています。もう少し歴史的な背景を見てゆくと、まるで私の理想が実現したという気がしました。かの諦観という高麗の僧侶が、中国の呉越王の要請に応じてしたためたこの入門書は、数世紀たってから日本に伝来され、日本天台宗では、現在まで熱心に研究されています。つまり中国、高麗、日本という漢字文化圏の三大国は(ベトナムについては現在まだ不案内ですが)この『天台四教儀』によって非常に象徴的に統一されているという気がしました。

 

その修士論文は、私の仏教学への歩みが具体化された第一歩でした。それから大した進歩があるとはいえませんが、ここで二四年間を飛び越えまして、今年の夏にようやく完成した最近の仕事に言及したいと思います。それは鳩摩羅什が翻訳した『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』の漢訳、すなわち『妙法蓮華経』のフランス語訳なのです。皆さん、これを聞きまして、たぶん驚くのではないかと思います。先ほどコンツェが大乗仏教の第四の言語として賞賛したことをご紹介しましたフランス語なのに、極東仏教の歴史ではもっとも重要な経典と見なされている『法華経』が、なぜいままで翻訳されなかったのか、そういう疑問をもたれるのも不思議ではありません。正直に言えば、私もその疑問に答えるべき返答をもちません。まず念頭に浮かんでくる答えは、さきに申しましたフランスの伝統的な仏教学に、この現状の原因があるのではないかと思います。

ヨーロッパの仏教学の大創立者とも呼ぶべきウージェーヌ・ビュルヌーフ(一八〇一〜五二年)は、イギリスのホジソンが一八三七年にネパールから持ち帰ったサンスクリット語経典のなかからもっとも特徴のあるテクストを選び、『法華経』をサンスクリット語からフランス語に訳すことにしました。ビュルヌーフは、その仕事を三年に満たない短い期間で完成しまして、一八四〇年にこの翻訳を印刷しましたが、いまだ仏教について何にも知らなかったヨーロッパの読者たちにこの奇妙な経典をそのまま紹介することはできないと気がつきましたので、経典の出版を先に伸ばして、まず『インド仏教史入門』と題された有名な研究書を著しました。

『法華経』のフランス語訳が出版されるのは八年後、一八五二年のことで、ビュルヌーフの死んだ年にあたります。当時は、現在の仏教学者が日常的に使っている参考文献、サンスクリット語辞典、仏教事典、索引などもまったくありませんでしたから、自分の記憶力と読書力だけに頼って研究しなければならないという非常に困難な状況でした。こうした事情を顧みますと、かくも偉大な業績を果たしえたビュルヌーフの学力に対して、感嘆の念を抑えられません。もちろん場合によっては、彼の仕事に細かい訂正を加える余地があることを否定できませんが、その業績の全体を見ますと、完璧に近いものだと認めるほかありません。それよりいい翻訳を完成したいと思うならば、より良いサンスクリット語原文を見つけて校訂版を準備する必要がまずあります。

伝統的なインド仏教学者の立場から見れば、もう『法華経』の問題は済んだものだと考える人が多いのではないでしょうか。正直に言いますと、その学者たちがサンスクリット語の『法華経』に関して、さほどの興味を示したとは思えません。サンスクリット語版の『法華経』について研究を続けている学者は、ほとんどが文献学と語学の観点からの興味を持つ人です。漢文からのさまざまな経典翻訳については、もちろん無視はしていませんけれども、より良いサンスクリット語の文章を準備するために漢文からの翻訳を使うようです。インド中心の仏教学から考えますと、鳩摩羅什訳『法華経』のフランス語訳など、まったく無用の長物にすぎないと感ずるようです。なぜならこれは翻訳の翻訳、すなわち重訳である限り、無用というだけでなく、さらに誤訳や誤解を広げるテクストとして、なるべくなら避けるべきものではないかと考える人も少なくありません。

それとは対照的に、英語文化圏では、鳩摩羅什訳『法華経』からの翻訳で広く流布しているテクストが、少なくとも六種類もあります。中でも一番読みやすいのはバートン・ワトソン氏の翻訳であり、この仏典に関する伝統的な理解をもっとも豊富に紹介しているのは、加藤・田村・宮坂氏その他の学者たちによる翻訳で、一方、インド学の立場をもっとも徹底的に示しているのは、久保・湯山両氏の翻訳だと思います。なぜフランス語圏と英語圏ではそんなに状況が違うのかという質問には返事ができませんけれども、さきに述べようとした私の立場から言えば、すなわち仏教東流の終点である日本で完成した天台教義という立場から考えますと、鳩摩羅什訳『法華経』という極東でもっとも広く流布した経典が中心的な地位を占めているのは否定しがたい事実だ、ということです。英語文化圏の仏教学者は生きている仏教の伝統を重視する傾向が強いので、おのずから鳩摩羅什訳のほうを研究対象に据えたという説明が考えられるかもしれません。鳩摩羅什訳がサンスクリット語原文の教理を正確に、忠実に伝えているかどうかは、私の立場から(早く言えば宗教学の立場ですが、信者の観点からも同じことが言えるでしょう)考えますと、まったく問題になりません。

ここでの根本的な課題は、独立した一定の宗教伝統を創立する土台となった経典としての鳩摩羅什訳『法華経』を出発点としながら、それ以後に発展していった極東の法華経文化を十分に理解できるように翻訳することです。天台大師[智碩]のいう三諦[空・仮・中]、あるいは聖徳太子の『法華義疏』、伝教大師[最澄]、日蓮聖人などの『法華経』注釈を理解する基礎となるばかりではなく、日本史上で盛んに作られた釈教歌の種子になった経典として、または天台宗で世々代々に行なわれた論議の題としての『法華経』の文句をフランスの読者に紹介するという使命感も確かにありました。

私自身も、自分の天台学の勉強の成り行きに任せて『法華経』の断片を翻訳したことがたびたびありますが、いつも時間にせまられて、文章の前後を十分に顧みないで、意味を適当に訳す場合が多かったと認めなければなりません。ですから、自分のこれからの天台研究のためにも参考になり、安心して引用することのできる翻訳の必要を痛感していました。幸いにも佼成出版社の援助に励まされて漢文『法華経』のフランス語訳という仕事に着手し、おかげさまでようやく完成しました。

漢文『法華経』のフランス語訳は、私にとっては二通りの意味があります。その一つは、いままで辛うじて積みあげてきた私の仏教理解を一冊の形でまとめることができたということです。非常に浅い理解力に基づく仕事だということは十分に意識していますが、あと数年で五〇歳になる私には、これまでの拙い学問の総括になる本と言えるかもしれません。そういった意味では、一つの終点になっているでしょう。もう一つの意味は、この翻訳が私の出発点にほかならないということです。これを縁に、やっと本格的に仏教学へ入っていこう、そういう喜びを招く心機一転の機会にもなったということです。

これが、いままで歩いてきた私の仏教学への歩みなのです。

ご静聴ありがとうございました。

 

                    松枝 到


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