問題提起4◎アジアのなかの教科書裁判

教科書裁判と近現代史認識

永原慶二 一橋大学名誉教授

 

教科書裁判は実に三二年も続きまして、人の働き盛りの一世代をやり抜いてきたような長さです。私もその間、微力ながら訴訟の支援活動にかかわってまいりましたけれども、三二年もどうしてこういう裁判をやらなければならないのか。こんなことを三二年もやらなければならない国というのは一体どういうことなんだろうか。この間、家永さんの主張はきわめて明確でありますし、私どもも一生懸命支援をし、またものを言うべき機会には言ってきたつもりでありますけれども、一方では例の保守党政治家の妄言のようなものが繰り返し行なわれる。そしてまた、そういうものに密着してといいますか、ある意味ではけしかけられてと言ってもいいかもしれませんけれども、藤岡信勝さんのような言論が今日また頭をもたげてきている。何となく情けないといいますか、いら立たしいといいますか、そういう気持ちはもうどうしようもないものがあるわけであります。

そういうものを生み出す日本というのは一体何であったのか。そもそもそれは日本の近代史、現代史が生み出したものに相違ないわけでありますが、そういうようなものを生み出した日本の近現代というもの、そこでの平均的な日本人の国民意識の問題、あるいは平均的日本人の国家観の問題と申しましょうか、そういうことにすこし目を向けて考えてみたいと思うわけであります。

家永さんの教科書裁判と言われるものは、第一は検定制度の違憲性で、特に検定は思想審査性が非常に強いものであるということ。これこそ憲法違反であるという形での、制度そのものの違憲性を訴えるものでした。それから、仮に検定制度そのものが違憲でないとしても、家永教科書の検定そのものはやはり思想審査的であり、違憲であるということ。こういうような二段がまえの違憲という論理です。第三は、その両者が違憲でないにしても、文部大臣の責任において行なう検定の運用は、与えられた裁量権を超えた、裁量権の乱用に当たるものであって、不法であるという主張であります。

この三段階の論理に立ちまして、第三次訴訟が最高裁まで争われたわけであります。その結果は、制度の違憲性、家永検定の違憲性については残念ながら最高裁は踏み込まなかったわけでありますけれども、検定運用については、ご承知のように四点を違法と認めました。これはたった四つの点だけだというふうに見る方もありますけれども、たくさんの争点の中から最も政治的に重要な問題と思われるもの一〇点の中の四点であります。ただし、その中には、例えば沖縄における日本軍の住民殺害問題にかかわる記述が違法だとされなかったこともあって、そのために非常にがっかりされた方もあるわけですけれども、それは家永記述を最高裁が全否定したということではなく、検定が「集団自決」も書けと要求したことは違法でないというかぎりのことです。

また「日本の侵略」について違法とされなかったのはそもそも検定における絶対的な強制を意味する修正意見ではなくて、改善意見という、文部省側がいわば牽制球を投げるようなやり方でありましたので、家永さんはもともとそれを受け付けなかったことによるのです。つまり「侵略」の表現の変更を家永さんが受け付けていなかったんだから、違法とするには当たらないという意味であって、「侵略」という表現が悪いということを最高裁も判断したということではないのであります。こういうわけで一〇カ所中四つの点についての違法が認定されたことは、けっしてたった四つということではありません。そもそも八〇年の家永さんの教科書の検定については三〇〇カ所もクレームがついているわけですから、それについて、いかに多くの点において違法性があるかということもおのずからくみ取れるわけであります。

そういう法廷での直接の問題と同時に、訴訟のもう一つの側面は、それらの争点にあらわれた基盤にある歴史認識・歴史教育の思想の問題です。これは日本の歴史教科書の検定の問題でありますから、言い方を変えれば自国史像をめぐる家永さんの考え方にかかわることです。かなり広く言えば現在の日本歴史の研究家の多くの意見の集約という面もあります。そういうような自国史像と、それに対置される国側の自国史像、これを検定の中で露骨に示してきたわけでありますが、その対決という問題がありました。

きょうこれから申しますことは、以上の側面のうち主として後者の側面についてでありますが、その前に前者にかかわって注意しておきたいことは、第一次の訴訟が提起された六五年のときまでに既に問題が出尽くしていたのか、それをめぐって三二年間かかったのかというと、そうではないと思います。六三年の検定の不合格処分、それから六四年の条件つき合格についての問題、その三年後の四分の一改訂の検定についての問題。我々のほうから見れば、そこでの不法な修正意見に対する抗議が第一次、第二次の訴訟の内容ですが、その内容を見ますと第三次訴訟で問題になっている点とは随分違う面もあるわけです。第三次訴訟の争点は、ほとんどの問題が近現代史の問題に絞られております。特に戦争責任、戦争犯罪、あるいは植民地支配犯罪などに問題が絞られておりますけれども、第一次、第二次訴訟の争点はそういう形ではありませんでした。

第一次、第二次訴訟の場合には、検定が、例えば古代の歴史を紀記の神話をとりこんで書かせようという方向に対する批判的な歴史の見方とか、江戸時代では、家永氏は、元禄時代の美しい着物というものが女性を拘束するような性質を持っていて、これが封建的な秩序の中における女性の位置をあらわすものであるという書き方をしたことについて、これは一面的だとか、自国中心の戦前からの日本史像のパターンについての系統的な批判のような形で家永教科書が書かれていることに対して、検定は家永型の日本史像は一面的でけしからぬと、こういう形でありました。したがって争点となる問題は全時代にわたっているのです。家永教科書で戦前型の日本史像に対する批判的な見方が書かれたものに対して、またねじを逆巻きにしようとするような形で検定が行なわれたわけで、それに対する抗議という側面が非常に強かったと思います。

それに対して、第三次訴訟に集約された争点は、大きく変わってまいりました。もちろん第一次訴訟、第二次訴訟の場合にも近現代史の問題があったわけでありますが、第三次訴訟では近現代史についての国側の検定姿勢、検定が要求する日本史像が露骨さを増し、したがってそれに対して闘わなければならない争点も当然はっきりしてまいりました。同時に、それを支援する私ども多くの日本史研究者も極力意欲的に教科書執筆に取り組む努力をいたしました。特に七〇年代には、家永教科書を支援する歴史研究者が非常に積極的に教科書執筆に参加しました。

その中で家永教科書は、最も尖鋭に日本の近現代史における戦争責任の問題、戦争犯罪の問題、植民地支配をめぐる犯罪的な問題などを、いわば人権の視点からとりあげ、告発していきました。またその前提として、近現代史におけるそういう問題をめぐる事実研究を深める、これは学界全体の努力でありましたけれども、家永氏自身もその先頭に立って研究をされながら教科書を書きかえていったわけです。そういう意味で言うと、三二年のあいだには、最初に出された問題が固定的にそのまま継続してきたのではなくて、全体として争点も新しく設定され、それを展開するための研究の深まりというものがあった。そういうことで三二年続いてきたのだろうと思います。

そういうような中で、国側の姿勢というものを一括してみますと、これは既によく言われていることですけれども、自分の国の悪いことをそんなに書くことはないじゃないかという一語に尽きるような姿勢でありまして、公教育の教科書として自国に都合の悪いことを、あえて若い世代に教える必要があるか、それを書く必要はないというふうに考えるわけです。書く必要がないということをあからさまには言わないけれども、極力隠蔽するよう検定で誘導したり強制したりするわけです。

朝鮮の植民地支配のことについて争われた点は既にご存じだろうと思いますけれども、植民地支配の内実については極力触れさせないようにする。また、朝鮮人民のそれに対する抵抗についても極力触れさせないようにするという形です。今日的な問題になっております慰安婦問題についてもそうであります。そういう形で都合の悪いこと、つまり侵略の事実、あるいは侵略に伴う戦争犯罪の事実、植民地支配の犯罪的な事実、そういうことを極力隠蔽する。いわば日本の周辺民族に対する犯罪行為を「国益」サイドに立って弁明するということです。

今度の最高裁の判決のひとつの重要な意味は、そういうものに対する明瞭な批判、過去の日本の恥辱というものを隠すべきではないということをはっきり示したことです。特にそれは、争点に関して違法だと認定したほうの裁判官ではなくて、全体としては違法と言うには足りないという、つまり少数意見派だった人でも、国の恥辱をあえて隠すのはおかしいのではないかと明瞭に言っているのです。それは判決の少数意見として発表されましたので、皆さんもご存じだと思います。そういう点では問題の所在というものが明瞭になった。これは三二年の闘いの中で非常に大きな成果のひとつだろうと思います。

ところで、今回の第三次訴訟最高裁判決でも検定制度の違憲ということは認定されませんでしたけれども、九〇年代の検定になってからは、八〇年代の検定とは状況が様変わりいたしました。検定の修正意見は近現代史についてもほとんどつけられないようになりました。これは何も文部省検定が考え方を改めたということではなくて、今までの闘いの中で、今までのような修正意見の強要はできなくなったということです。それは法廷の闘いそのものでなくて、その外側にあった、いわば歴史の現実としての闘いの成果だろうと私は思います。ですから、三二年を決してむなしいなんていうふうにはもちろん考えませんし、よくもここまで闘えたと、またそれだけの成果を上げ得たというふうに思っております。

それにもかかわらず、国側が、これほどにわかりきったことをあえて隠蔽したり歪曲したりする、そういう方向で歴史教育を国民に押しつけていこうとしているのですから、これは一体何だということもやはり考えなければならないし、また、そういうものを可能にするような国民側の意識が問題だろうと思うわけです。そういうような問題意識に立って日本の近現代史を振り返ってみますと、四つぐらいの段階でいわば平均的な日本の国民の自国史像、あるいは近現代史観というようなものを規定する契機があったのではないかと思います。

第一は近代社会の形成の段階です。そもそも近代社会というものを考えると、それは国家という契機、民族という契機、社会という契機、この三つの契機が対抗しながら結合し合って現実の近代社会が基本的にはでき上がっているんのではないかと、私は仮説的に考えるのであります。その場合に、日本の場合には民族の問題というものが、非常に短兵急に国家に収斂されていったわけです。例えば言葉一つをとってみても、明治初年から国家が急激に標準語というものをつくり出しまして、教育を通じ地域語=方言は使わせないようにした。国家と民族というものを国家に一体化してしまう。これは実は言葉だけの問題でなく、ひろく文化の在り方、また地域・少数者の問題としての沖縄、、蝦夷地・北海道の問題、そういうさまざまな問題を含んでいたのですけれども、それがすべて急速な歴史過程で権力的に統合され、国家の中に収斂させられているという形で、日本の近代というものは民族の問題をいわば政治的に抹消してしまう方向が強かったと思います。

同時に社会、私がここで社会と言っているのは人民生活や権利にかかわるような問題ですが、それは日本の近代国家が自由民権運動の封殺の上に天皇制国家として出発したということにおいて最も象徴的だろうと思います。そういう意味で日本の近代化というものは、当初から「よく統合された近代国民国家」、中曾根元首相が、日本は単一民族であって初めから統合されていると、よく自慢げに言うことでありますが、一種の幻想的フィクションとしての「国家」「国民」の存在を自明のこととしていました。それを強く押し出すことによって、日本の近代が当初から国民国家イメージと「国家」優先観念をを国民に押しつけることで出発してきた。これが第一の段階であります。

第二の段階は、日本の近代化がほとんど同時的に帝国主義国家へ転化していく。こういう日本の特徴的な歴史過程、日清・日露、あるいはその前の朝鮮に対する不平等条約・日朝修好条規の問題も当然その大前提でありますが、そういうような歴史的な経過の中で、ますます欧米帝国主義国家に追随する道を露骨に歩んだということであります。そこで、アジアの諸民族の置かれた政治的立場と日本の立場は、特に民族の理解については否応なく正反対の立場になったわけです。位相が全く違う。民族の問題を侵略者が権力・国家の立場で考えるか、被圧迫者の民衆の立場で考えるかと言うことです。こういう条件の中で、日本国民のアジアに対する歴史的理解というものが、無理解というか非常に底が浅い、歴史を広い視野から見極められないものとなっていったのです。

第三の段階は、戦後の問題であります。これは先ほどのお話にもありましたように、日本は本当は敗戦のときにこそ、戦前の戦争責任や戦争犯罪、植民地支配をめぐる諸責任、犯罪などを徹底的に自己批判し、国家・民族としてけじめをつけるべきであったけれども、そうではなかった。一般的な国民の実感的なもの、生活経験的なものからしますと、空襲、原爆、あるいは抑留、そういうことによって国民の中では被害者感情のほうが非常に強く意識の中に残った。そして、戦争の責任問題のほうは、あれは軍部が悪いという形で軍部にすっかり押しつけてしまった。そういう清算の仕方をしました。またそれが戦後すぐに激烈になってきた冷戦の中で占領軍によって暗に了承されるという方向に進みましたので、国民の戦争責任意識、加害者意識の問題が非常にあいまいにされてきた。これはよく言われるとおりであります。

そして、第四の段階は、六〇年代に入って高度成長の時期に入ってのことです。日本は明治以来、欧米先進国家をモデルにした脱亜入欧の道を歩んでまいりました。封建制を克服して近代化を推し進めるというのが明治以来のことであり、また敗戦後の目標でもありました。戦前も戦後も脱亜入欧そのものであったと私は思うのです。同じ価値意識で、ヨーロッパモデルの近代を追求していった。そして少なくとも経済面においては高度成長の過程で、よく言われるような意味で資本主義を高度化し経済大国的な時代に立ち至ったのです。

そういうことによって、日本人の平均的な国民意識はどう変わったかといいますと、戦争でひどい目にあった、我々は犠牲者だ、戦後も苦労した、でも国の再興のために食うや食わずでせっせと働いて、ついに高度成長の成功を生み出したという満足感、これは一種の近代化の成功物語であります。それは素朴な人情としてみれば我々のような世代には皆あるわけですけれども、検定はそれを戦争責任の問題から切り離して、日本は明治以来、経済成長を見事に歩んできたんだという形で、近現代の成功物語を日本の近現代史像の基軸に据える。そういう日本人の自信とか愛国心、明るい日本のイメージ、これが大事なんだという形の押し付けをしてきたわけです。「戦争を明るく書け」というのが五〇年代終わり頃からの検定の思想でした。

ですから、その際に最も邪魔なのは日本近代史の暗部を摘発することであって、それを押えるために自虐史観だと非難するのです。自虐史観というのは何も藤岡氏の発明物ではありません。一九五三年の池田・ロバートソン会談を転機に検定が強化されましたが、そのときに戦前の思想的なイデオローグであった高山岩男という京都大学の哲学の先生が、覆面の教科書調査官でした。その方が既に、戦争をこんなに暗く書くことはおかしい、日本の近代を暗く書くことはおかしいじゃないかと言い出した。その人は覆面調査官でありましたので、F項パージと言われました。神奈川県知事だった長洲さんと今もお元気な社会学者の日高さんとか、そういう方々の書いた「明るい社会」という教科書はそれによってつぶされました。

そういうような形で、今日の藤岡氏の自虐史観攻撃の出発点はもうはるか以前、F項パージの段階からありまして、以降支配層の側は一貫して日本の暗部を露出するようなこと押えつけようとしてきました。要するにそれぞれの諸段階を通じて、支配層の側は一貫して自国中心的で無条件で統合された国民国家像を唯一の日本の近現代史像として押し出そうとするわけです。それは特に国家権力による教育支配というプロセス、パイプを通して押しつけてきたということが非常に重要だろうと思います。

日本は戦前、特に明治三〇年代になって教科書疑獄を理由に国定教科書制になりました。それ以前からそうですが、とくに国定化とともにして、教育と学問とは別であることが強調されます。学問の成果を教育に持ち込むなという方針をとりました。教育はあくまで国民道徳といいますか、国民意識の形成のための教科であり、国家の養成する日本人、それは天皇制に忠実な日本人ということですが、それをつくるためのものであるということで、特に歴史教育は修身と並んで最も重要な国民意識の形成の場であると位置づけられました。そこで、教科書が徹底的な国家管理のもとにおかれ、特に歴史教科書については天孫降臨・神武天皇から始まる形のものが強行されてまいりました。

戦後は、そういう教化型教育は誤りだったという反省から出発し、一九五三年、池田・ロバートソン会談を転機として、より自由にいろいろな形のものがつくれるということをねらって国定から検定へと転換しました。ところがそれが五三年以降は全く性質を変えて、検定を通じて思想審査をやるという方向になってきたわけです。そこでは、また自国中心的な国民国家の枠組みの日本史像を押し出し、「国益」的視点から史実を取捨するという方向で、非常に強権的な検定をすすめてきたという現実であります。だからこそ家永訴訟が提起されるということになるわけであります。

そのように考えますと、これから我々はどういう闘いをしなければならないか、三二年の訴訟が終わったから問題が済んだのではなくて、訴訟で提起された問題はより政治的な性質を強めて、これからも続いて展開していくだろうと思います。たとえば慰安婦問題ひとつをとっても何一つ解決しておりませんし、政治家の暴言は繰り返し次々に出てきております。靖国参拝も相変わらず平然として行なわれています。自国の歴史認識というものは非常に難しいもので、国民感情とか、安易な「国益的」な利害感情というものが当然入ってまいりますから、なかなか自国史というものを本当に客観的に認識することは容易ではないのですけれども、少なくとも教科書検定にまで持ち込まされてきたような明治以来の日本の国民国家の枠組みにおける国益基軸の日本史像というものを徹底的に見直すといいますか、その枠組みを解放して、自国史というものをアジア史、世界史の中で相対化する、こういう仕事が切実に要求されているのだろうと思います。

明治以来の自国中心史観は、日本史は独自のものであるということを強調しがちでした。それの最も極端なのは皇国史観です、日本民族は絶対的にすぐれたものであるとか、日本はアジアの指導者であるという、こういうものの見方を頭から押しつけてきた。そうした教育によって国民は無自覚のうちに国益基軸の国民国家的な価値基準、枠組みによる日本史像を心の奥底に刻みつけられてきました。

戦前と戦後では日本歴史を見る目が違うと言いますけれども、実は戦前の自国史像が確実に清算されているわけではなくて、なお根強く生き続いていると思います。それがあるからこそ政治家はちゃんと計算に入れて、国民のそういう心をくすぐったり、あるいはまた消えかかった火をおこそうとして、妄言を意識的に繰り返しているのだと思います。そういうようなものを打ち破っていくためには、教科書検定でも争点になりましたような植民地支配、戦争責任・犯罪を中心にするような歴史的な諸事実を事実として明らかにしていくことがまず第一に何よりも重要なことだろうと思います。また日本がもともと正義の立場に立っているかのような自国中心のいわれない思いこみから解放され、アジア諸民族の立場を歴史として認識し、自国の立場を相対化することが必要です。

史実の解明に関する限り、それは客観的な作業でありますから、これは国際的な協力のもとにやることができるし、国際的にもその成果を共有できるだろうと思います。しかしながら、太平洋戦争とは何であったのか、韓国併合はどうして実現したのかというような、大きな歴史現象の評価を含んだものはそう簡単に一致できるものではない。日本が見る目と朝鮮の側から見る目、中国が見る目は別個にありうるのでしょう。私はそこに忍耐強く踏み込まないで共通の認識に達し得るとは思われません。例えば伊藤博文がハルビンで安重根に暗殺された。あれは何であったかというようなことについても、朝鮮の側から見た目と日本の側から見た目とは、明治以来の日朝の関係の集約みたいなものですから、そう簡単に一致できないだろうと思います。

ですから、歴史認識の国際的な交流の問題というのはいま切実に要請されているけれども、これは息長く、互いに自由に、いろいろな見方を打ち出し合っていくような関係がないと、そう簡単にはいかないだろうと思います。そういう問題になると必ず国家の問題、それこそまともな意味でも国益とは何かという問題ともかかわってくることになりますから、そう簡単に白黒をつけるというわけにはゆかないと思います。

例えば太平洋戦争というものが一体どうして始まったのかという問題です。政治家たちは、私たちみたいな歴史研究者の見方に対し、お前さんたちは日本だけが悪いと言うけれどもそんなことはない、イギリスもシンガポール、香港を占領していたじゃないか、アメリカもフィリピンを領土化したり利権を求め中国に勢力扶植していたではないか、だから両方悪いんじゃないかと、こういう形で攻撃してくるわけです。そうすると日本の多くの人は、それはそうだな、すると歴史家のいう日本の侵略という見方は自虐的だという、こういう考え方はたえず出てくるんです。

もっと素朴に太平洋戦争は侵略戦争だったと言いますと、では戦死した人は犬死だというのかと、反問しますね。政治家はそれをまた利用する。こういう関係を本当に克服するのは、そう簡単なことではないと思います。そういう意味で、どこに困難な問題があるのか、なぜそういうものが歴史的に形成されてきたのかということを考えていきませんと、それの持つ重みということも理解できないし、またそれを克服する筋道も見えてこない。ただ声を大にしてお互いの立場の違いをぶつけ合うということだけでは、この問題は解決できない現実があるではないかと思うわけであります。


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