問題提起3◎アジアのなかの教科書裁判

中国からみた教科書裁判

殷燕軍 一橋大学客員研究員

 

私は、小学校はもちろん大学まで北京で勉強したわけで、歴史認識という意味から申し上げますと、間違いなくあの戦争は日本の侵略戦争ということで、今でもそうですけれども、そのことに全く疑問はなかったのです。初めて日本に来たのは一九八七年でしたが、たまたま仕事の関係で広島、長崎の国際会議に出席して、原水爆禁止世界大会にも出席させていただきました。その場でショックを受けたのは、日本は被害者だったということです。それが最初の印象でした。しかし問題は原爆という、いきなり一九四五年八月六日ではなくて、一九三一年、一九三七年は何だったのかということから問題を提起しなければ、原爆の話も始まらないのではないかということでもあります。

今の教科書裁判につきましては、家永三郎先生が三二年間闘ってきた、そういうことに対しては深く敬意を表したいと存じますが、中国においては今年、教科書裁判そのものに対しての評論が多くはなかったというのが現状です。というのは、今年は日中国交正常化二五周年という節目の年にもなりますし、また、一九九五年からぎくしゃくしてきた日中関係が今まさに肝心のところに来ているんです。それから中国政府の今までのやり方は、問題があったときにその場で問題を提起したわけで、その意味で今回の教科書裁判について、政府レベルで正式な見解は出さなかったのです。

各新聞にはいろいろな記事はあります。例えば八月三〇日の『人民日報』海外版には、「歴史教科書、内容の削除は違法である」という裁判の報道があります。裁判所で支援者が勝利の幕を掲げる写真つきですが、事実関係を述べるだけで論評はしていません。国内版では八月三〇日に、三二年間闘ってきた家永教授は今回正しい道理というものを取り返したというタイトルで、今回は小さな勝利であって、必ずしも全面勝利ではないという家永先生の話を載せています。またこの裁判は、ある程度日本の司法界の歴史問題に対する認識をあらわすもので、これからの日本の教科書検定にも大きな影響があるのではないかという論評をしていました。また、上海の『解放日報』、知識人向けの『光明日報』なども、ほとんど事実関係だけをとり挙げていて、詳しい説明はほとんどなかったのが現状です。

そこで今日はもう少し歴史的ないきさつ、今年九月に至ったいきさつについてお話をさせていただきたいと存じます。例えば八二年の教科書問題に中国のほうはかなり強い関心を示したわけですけれども、なぜ教科書問題にそんなにこだわるかという問題です。例えば一九八二年八月一五日の『人民日報』は社説で、「前事を忘れざるは後事の師なり」というタイトルで教科書問題をとりあげました。その中で、「日本の文部省は教科書の改訂を通じて日本軍国主義の犯した侵略罪に対する判決をひっくり返そうとしているが、これはカイロ宣言、ポツダム宣言、降伏文書、極東国際軍事裁判判決書、国連憲章など、一連の厳粛な国際文書を無視しようとするものではないか、またそれは日中共同声明と日中平和友好条約の原則に背くものではないか」と述べています。また、教科書を改悪することによって日本軍国主義の侵略行為と日本人民に与えた災害を人民に忘れさせようとする日本文部省のたくらみは、日本人民を愚弄するものであり、中国やアジア太平洋地域の各国人民に対する挑発、脅威と言わざるを得ないというような論評もありました。

その後、先ほど佐藤先生がおっしゃったように宮沢官房長官の談話を通して一応事態を収拾したと、日本ではそういうふうに報道されたんですけれども、しかし八月二六日に発表された宮沢内閣官房長官の談話は、「今日、韓国、中国などよりこうした点に関する我が国の教科書の記述について批判が寄せられている。我が国としてはアジアの近隣諸国との友好親善を進める上で、これらの批判に耳を傾け、政府の責任において是正する」というものでした。

それに対して『人民日報』は八月三〇日に、「日本政府は具体的に誤りを是正すべきである」というタイトルで評論員の論評として、「日本政府は批判を十分に聞き入れ、責任を持って教科書記述を是正すると述べてはいるが、具体的かつ確実な措置は明白に講じられていない。このようなあいまいな態度に我々が満足できないのは言うまでもない」と論評しています。また、「日本政府は、過去において戦争を通じて中国人民に重大な損害を与えたことを深く反省するとの立場は少しも変わっていないと、重ねて表明した。それならば教科書検定での侵略美化、戦争の罪状隠しが完全に誤っていることを素直に認めるべきである。日本政府はそうするのではなく、日本が過去の中国で行なった戦争が侵略戦争であるかどうかの判断を回避し、批判に耳を傾けたいなどとごまかしている。それでも厳粛な態度と言えるだろうか」と、かなり厳しい論評で続けて批判したわけです。

九月一〇日、これも同じく『人民日報』評論員の評論ですが、「日本政府に約束の履行を望む」という論評の中で、「従来の日本政府の説明に比べると、満足できるものではないが前進している」、また「教科書の検定制度は確かに日本の内政問題であり、これに干渉する意思は中国政府には毛頭ない。だが、文部省が教科書の検定に当たって、日本の中国侵略、南京大虐殺などの歴史上の事実を改ざんし、軍国主義を美化したことは、中国人民の民族的感情を傷つけ、日中共同声明と日中平和友好条約で日本政府が表明した基本原則、つまり日本政府は日本がかつて戦争によって中国人民に重大な損害を与えたことを深く反省するということにも背いた」としています。ですから、なぜ歴史問題にこだわかるかということですが、それは日中共同声明で決められた基本原則、過去の侵略戦争に対する深い反省という立場に立った上でこそ、日中友好関係はできるという立場でした。中国国内では、そういう意味でずっと取り上げていたわけです。

話題を最近のことに移しますが、中国は教科書問題というものが単独の問題ではなくて、日本国内全体の問題として保守的な傾向が強まっていることに警戒心を高めています。例えば、一九九七年六月一七日の『北京週報』の論評ですけれども、「戦後の日本はどこへ行くのか」というタイトルで、「橋本首相は戦後の日本の歴史において危ない前例をつくった。橋本首相は、昨年、首相の身分で日本の戦争犯罪者の亡霊を祭っている靖国神社に参拝し、閣僚たちも何回も第二次世界大戦の歴史をほしいままに歪曲する言論を発表して、世論を騒然とさせた。日本の歴史教科書の中の日本軍の侵略の史実に関する詳説を削除するよう圧力をかけ続けている。また、日本の内閣がたびたび交代しても、日本の軍事支出は増え続け、今や世界第二位にのし上がった。日本の軍隊も機構改革を進めており、その戦略配備の能力と応急対策の能力を高めようとしている。日米安全保障条約体制の再定義とともに、日本の海外への軍事介入はさらに大きな一歩を踏み出すことになった。こうした新しい体制のもとで、日本は公然と直接派兵して、海外での軍事行動に加わることができるようになった」と述べています。

つまり、ただ一つの教科書問題というのでなく、一連の政治的な保守的傾向、軍事的なガイドラインの見直しに関する動き、特に台湾海峡に関して今でもあいまいなままにしていること、それらの姿勢にかなりの警戒感をもっているのが現状です。

教科書問題に関してさらに見ておくと、『北京週報』の一九九六年九月一〇日に、「歴史尊重か、それとも歴史歪曲か」というタイトルで日本の教科書問題をとりあげ、「今回、日本の七つの出版社の歴史教科書が、例えば南京における日本の残虐行為、暴行を基本的に認めたこと、あるいは、初めて従軍慰安婦問題を取り上げていることで一定の進展は見られる。しかし、今回の検定にパスした教科書の歴史問題に対する認識は、進歩が見られるとはいえ、依然として例えば南京大虐殺で殺された中国人の数を縮小し、教科書にあった『いわゆる』という表現は、検定者が具体的な数字は今なお論争があるということを理由につけ加えられたものである。これは編集、審査する人が依然として歴史を正視する勇気が欠けていることを示している」と批判しています。

また、日本のこのような教科書はもちろん満足できる教科書ではないんですけれども、不十分な歴史教科書でさえ、右翼勢力の激しい反対にあったとして、いろいろ反発の例を伝えています。例えば蘆溝橋事件に関しては一人の兵士が亡くなったが、それは中国側から発砲したからだとか、あるいは従軍慰安婦は根本的に存在しないとか、南京の当時の人口は一〇万人しかなかったのだから、二、三〇万人の大虐殺が発生するのは不可能だとか言っているが、これらのでたらめな言い草は反発する値打ちすらないと述べています。

このように、教科書裁判はそういう一連の問題の中の一つの闘いの問題として注目するものであって、むしろ日本は全体的にどの方向に向かおうとしているのかに中国では重大な関心を持っているわけです。昨年、橋本首相の靖国神社参拝のときに、一九九六年八月一三日に『人民日報』は「日本の政界要人は補習しなければならない」というタイトルで論評を出しました。「橋本首相は公式参拝はしないという談話を発表して間もなく、舌の根も乾かぬうちに氏は繰り上げて靖国神社に行ってしまい、しかも内閣総理大臣という身分をいささかも隠そうとはしなかった。これは実に驚くべきことであり、遺憾であり、憤慨すべきことである。なぜ一国の首相がこのような信頼できない話、あるいは不誠実な話をするのか」と、かなりきびしい不信感を表明しました。さらに一九九五年の国会不戦決議に対しても、「その場凌ぎの決議を採択し、世界の人々を前にして、日本は過去に別れを告げ、未来に目を向ける絶好のチャンスを失い、侵略の歴史をねじ曲げ、侵略戦争を美化する災いの根源には触れなかった。どうやらかつての歴史をいかに正しく認識するかということで、日本の政界要人はなおも補習しなければならないようだ」というきびしい論評でした。

また、最近の安全保障上のガイドラインの見直しや台湾問題に関して、日本はこれからどういう出方をするのかということをかなり厳しく見守っていくのではないかと思います。最後に、これからの和解という問題ですが、今までの正しい歴史認識を定着させて、繰り返しのような発言とか暴言とかをやめないと本当には進まないでしょう。冒頭で申し上げたように、中国が最初から積極的に取り上げたのではなくて、現職の閣僚が問題発言をするなどいつも日本側から問題を起こし、中国側はそれに反発しなければならないということの繰り返しだったわけです。ですから歴史的な認識というものを日本はもっと考える必要があるのではないかと思います。

つぎに今までの補償問題ですが、例えばドイツは今まで少なくとも九〇〇億マルクぐらいは出しました。もちろん個人に対しても出しました。それに対して日本政府はその一〇分の一しか出していない。しかもほとんどが政府に対してであって、個人には一切出していないというのが現状です。これからの日中関係、あるいはほかのアジア諸国との関係に関しては、どうしてもそのような未解決の問題、私の記憶ですけれども、少なくとも中国人に関する訴訟、補償問題に関する訴訟は今、東京地裁で一〇件以上ありますが、そういう問題について、日本政府はもっと真剣に考えるべきだと思います。

今、「いつまで謝るのか」ということが議論になることがありますが、今まで本当にどの程度心の底から謝ったのか、聞いてみたいですね。坂本義和氏が「細川首相、村山首相などのごく常識的な反省の言葉がアジアや欧米でニュースになったということは、この問題についての日本への国際的な期待が絶望的なほど乏しくなっていることの裏返しにほかならない」と指摘しましたが、私もその通りだと思います。


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