問題提起1◎アジアのなかの教科書裁判

教科書裁判三二年の争点

佐藤伸雄 歴史教育者協議会副委員長

 

一九六五年に訴訟が提起されまして以来、この裁判は三二年という長い年月にわたりました。戦後の五二年間のうちの三二年と申しますと、大体三分の二近くの長い年月にわたったわけです。

家永先生がなぜ教科書訴訟というようなことをなさったのか、幾つかの理由があるわけでございますが、その根底に流れていたのは、戦争中、あの侵略戦争に抵抗することができなかった、なかんずく、家永先生は当時旧制高等学校の教授として、自分の教え子が学生服を軍服に着がえて、戦陣に赴くというようなことに抵抗し得なかったのを大変くやしく反省をされたということをしばしば話されておりました。そして、教育の国家統制というものがいかに日本人を軍国主義者に、また超国家主義者に仕上げていったか。そしてそういう体制の中で、それに対して批判を持つ者が声を十分に挙げることができない、抵抗し得ない、抵抗すればたちまち弾圧をされるという状況になってしまっていたということに対して、再びそういうことがないようにという強いお気持ちをもたれた。特に一九五〇年代の後半から教育統制が極めて激しくなる中でそう思われました。

同時に、家永先生は日本史専門の研究者として、大変幅の広い研究をしておられますけれども、専門の研究論文や著書を書くのと同じような比重の、意義のある仕事だということで教科書の執筆に携わられた。いかにしてよい教材を生徒たちに与えるか、それが自分たちの任務ではないかという考えがあった。たとえ学者として業績を認められなくても、業績として認められるような論文と一向に変わらない意義のある仕事だということで、ものすごくエネルギーを消耗する仕事なんですが、それに取り組まれたのでした。国家統制があるがゆえに、それに対しての闘いに取り組まれたのだということを最初に踏まえておきたいと存じます。

家永先生が最初の訴訟を提起されました一九六五年は、どういう年であったのか。ともかくいろいろ問題はあるけれども、日韓の間に国交が結ばれたのが一九六五年で、この教科書訴訟が提起された直後であります。そしてまた中国で文化大革命が荒れ狂う直前でありました。それからの三〇年はどういう時代であったのか。韓国との関係で申しますと、日本と韓国の間に国交が結ばれて、従来のような特殊な人だけ渡航し得るという状況ではなくなったのですが、その当時の朴正煕政権のもとでは大変厳しい状況があったのです。また中国では文化大革命がやがて始まる時期ですから、これまた自由に往来できるという状況などは到底考えられませんでした。その中国との間に一九七二年に国交が正常化し、七八年には平和友好条約が結ばれます。その時期に中国ではいわゆる文革路線を一掃して改革開放路線に踏み切りました。韓国でもその時期に民主化運動が発展しやがて実を結んでくることになります。こうして、中国、韓国と自由に往来できるようになるのは一九八〇年代になってからだということが申せます。

そして、一九八二年に、俗に「侵略―進出問題」と言っておりますが、日本の教科書検定による教科書記述の歪曲が国際的な批判を浴びて、特に韓国、中国からは正規の外交ルートを通しての抗議が寄せられた。これに対して宮沢官房長官が官房長官談話として、政府の責任においてこれを是正すると約束するという、いわゆる政治的決着をつけるという事態が起こりました。この一九八二年の問題は大変大きな意味を持った事件であったわけですけれども、この段階での検定というものが大変また厳しいものになってきまして、それが第三次訴訟ということの大きな前提となるわけであります。

さて、一九六五年、六七年の第一次訴訟、第二次訴訟は、日本の教育上においてはどういう時期であったのか、八四年の第三次訴訟というのはどういう時期であったのかということを、少し振り返っておきたいと存じます。日本は敗戦後、アメリカの占領下に置かれます。実はこれは評価そのものが大変難しいけれども、日本を占領したアメリカ軍は、二重の性格を持っていたと言えます。一つは、連合国の代表としてのアメリカという側面、これはポツダム宣言に基づいて日本を非武装化し、民主化するという役割を担ったアメリカであり、もう一つは、アメリカの国益で、アメリカ帝国主義の日本支配を代弁するアメリカ軍であったという側面があったと思います。

アメリカの占領下で明らかに幾つかの大きな改革が行なわれていく。しかしながら、その間には、占領軍そのものの中に左派と右派の激しい対立があったわけでございます。それが戦後の二つの世界の対立、冷戦構造が形づけられることによって、一九四八年には占領政策の転換が行なわれ、民主化路線から反共の防波堤へと、目下の同盟国化という形になってまいります。そして、追放されていた人間をその時期からどんどんと復活させ、日本の戦争責任についての追及も中途半端な形で終わらせられた。これは日本の同盟国であったドイツの場合とは大変違った様相を呈してまいります。いっぽうアジアにおいては一九四八年に朝鮮半島において南北の国がつくられ、一九四九年には中華人民共和国政権が成立した。そして一九五〇年には朝鮮戦争が起こった。この段階で急激に日本国内の反動化が進んでまいります。

しかしながら、教育の反動化は一般政治の上での反動化よりもややずれがあって、最初の改訂があった一九五一年の学習指導要領が一番自由があったわけです。教育の上での反動化が極端なまでに一挙に推し進められるのが一九五五年の段階だと見てよろしいと思います。そして、学校教育における教育内容というものを詳しく定めた学習指導要領が、最初は文部省の試案という形で出されていたのですが、「試案」という字がなくなり、さらにこれが官報で告示されて、法的拘束力を持つ国家基準となったのが一九五八年です。これが小学校、中学校の学習指導要領であります。高校の場合は六〇年の指導要領です。それと同時に教科書検定が大変厳しくなりました。最初は教科書法案というのを出したのですが、野党の反対もあって時間切れで審議未了、廃案になりました。だが、実はその内容は予算が通っていたものですから、結局通ったのと同じ形になりまして教科書調査官という制度ができました。第一次訴訟、第二次訴訟は、初めての官報による学習指導要領のもとで、しかも教科書調査官という役人による検定のもとでなされたということを申し上げておきたいと思います。

少し話が前後しますけれども、第三次訴訟は八四年でございます。八〇年代についてふれますと、八〇年代の初めから教科書問題が大変大きな社会問題、あるいは政治問題になりました。その一つは教科書攻撃であります。教科書攻撃というのは、検定を通って実際に学校で使われるようになった教科書に対して、これはけしからぬ内容だという形で、文部省ではなく右翼グループといいましょうか、そういうところを中心として教科書に攻撃がかけられたことを指しております。

教科書攻撃の第一次は実は一九五五年でありまして、それは社会科の小・中学校教科書、四種類に対して偏向教科書であるという攻撃でした。石井一朝という人物が、与党であった日本民主党(後に日本自由党と合体し自民党)と一体となって三部作のパンフレット『うれうべき教科書』として発行したのです。たまたま私が嘱託として編集にかかわった教科書がやり玉に上がったわけです。小学校の六年生の歴史のところで、卑弥呼の話が当然出てくるわけですが、卑弥呼の話を出すなんていうこと自体が国辱ものだといわんばかりの攻撃でした。例えば生口という奴隷が献上されたと書いていることに対して食いついてきたり、聖徳太子の遣隋使の国書で、「日出ずるところの天子、書を日没するところの天子に出す、つつがなきや」という、『隋書』に載っている有名な文書がありますが、これはよく知られているから別の文書を出そうと「大和の天皇、慎みて唐土の君に申す」という『日本書紀』の記述を使ったら、中国の文献を使うのはけしからぬということを言ってきました。

それから、中国の抗日戦争のところで、蒋介石も毛沢東も一緒になって戦ったんだということを、国共合作の問題を出しまして、蒋介石と毛沢東の写真を両方掲げたら、毛沢東の写真を掲げるとは何事だと。蒋介石の写真も入っているんですけれども、そのことは抜きにしてそういう攻撃をするのです。大変とんちんかんではあるけれども、知らない人は本気にしてしまう、極めてひどい中傷でした。同じ人物が一九七九年に再び教科書攻撃を始め、八〇年になると自民党の機関誌『自由新報』に連載したわけです。それが歴史の問題よりは公民であるとか国語教科書の中身になってきて、これは国会でもさんざん審議されるという事態になりました。そのときに当時の民社党の書記長であった塚本三郎氏が、公民の教科書の口絵写真はデモばっかりだというデマを飛ばしたので、私の友人の本田公榮君がその数日後に、教科書にはこのとおり、このような写真が載ってるんだということを知らしめて引っくり返したこともあります。

そういう攻撃があった時期の検定は、七〇年代に一時かなり自由に書けたのに、ぐっとひどくなってきていました。それがいわゆる「侵略」と書くのを「進出」と書き直させた、いわゆる「侵略―進出問題」でして、教科書検定の問題が新聞、ラジオ、テレビなどで大きく報道され、それがまた外国から批判されることになり、先ほど言ったような宮沢官房長官の政治的決着の談話という形になったわけです。そして、その時期に初めて「アジアへの配慮」ということが言われましたが、実際はただ口先だけでそれを糊塗するということであり、検定の中身は変わってはいなかったし、むしろ日本の加害責任問題に対して書くとそれをチェックするという状況がありました。それでとうとう家永先生が第三次訴訟を起こすことになったということでございます。

もう一つ、これはあまりにも内々の話のようなことになるんですけれども、教科書調査官がだれであるかということも大きな問題でした。第一次、第二次訴訟のときの歴史関係の教科書の責任者は村尾次郎氏で、第三次訴訟のときの調査官が時野谷滋氏です。どちらも東京帝国大学の平泉澄氏の愛弟子で、超国家主義者であります。そういう人たちが戦後、文部省になだれ込んだということ自体、日本の教育反動というものの一つの象徴的な出来事であったということと言えるかと思います。

さて、教科書訴訟の争点は一体何だったのかということですが、まず第一に、現在の検定制度は憲法違反であり、違法であるということです。第二に、内容の問題でいえば、例えば『古事記』『日本書紀』の扱いの問題、大日本帝国憲法の問題、それから、大日本帝国憲法体制下での自由の抑圧、特に人文科学の問題、それから戦争体制の強化の中での無謀な戦争という、「無謀」という言葉に対する問題、さらに戦争の被害をできるだけ隠そうとし、戦争の実態を隠そうとしているという問題、そして日米安全保障条約によってアメリカ軍が日本に基地を持っているというと、あれは基地ではない、区域及び施設であるといったような、三百代言的なものの言い方に対してのものであったと言えます。これはやがて双方から証人が立って、激しい法廷闘争が展開されるのですが、同時に第二次訴訟が行なわれまして、そこの中身では、歴史を支える人びとという挿絵をめぐる問題とか、日ソ中立条約にかかわる問題であるとかいうようなことが出てまいります。

ところで、第一次訴訟、第二次訴訟の段階での、歴史上の問題の議論は古代から現代に及んでいるわけですけれども、特に今大きく問題にしなければならない近代史、現代史にかかわることで言うと、もちろん戦争、植民地支配の問題ですけれども、それは加害の問題だということに十分には触れていなかったという気がいたします。第三次訴訟になって、はっきりとそういう形になってきたわけです。

ここでちょっと加害、被害ということで申しますと、日本が加害者でアジアの人びとは被害者だという、そういう側面がよく言われまして、それは確かにそうなんだけれども、それだけではないんですね。被害者の中にも日本人がたくさんいるわけでありまして、日本人自身の被害の問題、日本人に対する加害の問題というのが、戦争責任の問題では十分に追及されてこなかったと思います。その典型的な例として、第三次訴訟では沖縄での問題が提起されました。今度の判決ではそれが十分には出てまいりませんでしたけれども、そういう問題があるということも、第三次訴訟の中で取り上げられ議論されたということを申し上げておきたいと思います。

アジアに対する加害の問題においても、一九八二年のいわゆる「侵略―進出問題」ということが、実は日本人の歴史意識を大変大きく揺り動かした。それまで戦争責任の問題は抽象的には言っていたけれども、どれだけのことをアジアの人びとに対して行なってしまったのか、アジアの人びとはそれをどういうふうに受け取っているのかということについての認識が、日本人は必ずしも十分ではなかったのではないか。それを大きく揺り動かされたのが八〇年代のことではなかったかと思います。

時間が来てしまいましたけれども、八〇年代の侵略進出問題と並んで、もう一つ、日本人の歴史意識を大きく動かした問題としては、昭和天皇から今の天皇への代がわりの時期の、昭和天皇平和主義者キャンペーンがありました。昭和天皇は立派な人だ、平和主義者だったと言ったものですから、逆に、改めて昭和天皇の戦争責任という問題が研究されるようになった。こうした問題もやはり大きなことではなかったかと思います。そして、韓国の盧泰愚大統領が日本に来られて国会での演説が紹介されて、日本の韓国への植民地支配ということについて認識を新たにした人が多かったのではないかというふうに思います。

そういうようなことが大変大きく進んだがゆえに、最近の一連の閣僚の中からの暴言が生まれたり、あるいは藤岡信勝グループの自由主義史観と称する、いわば日本の戦争責任を否定してそれで教科書や歴史教育を攻撃する動きが出てきているということも申し上げておきたいと思います。そういう問題と同時に、後でちょっと触れることがあるかと思いますけれども、それはソ連の崩壊という一つの大きな事件とかかわってのことでもあったと申しておきたいと思います。

大変中途半端ですが、三二年間を振り返って、どういうようなところに問題があったのかということを申し上げました。一つつけ加えておきますが、日本の小・中・高校の教育は学習指導要領によって内容が位置づけられておりますが、その中で日本の近現代史、特に近代史、戦争と植民地支配の時代をどのように扱うかに関しまして、わかりやすいので小学校のところを見ていただきますと、日本の明治以降の近代史を近代化と、日本の国際的地位の向上、国力の充実、こういう形でとらえるという視点が示されております。これではどうしても戦争を否定する、批判するという形にはなりにくいんですね。

ところが、八〇年代になりまして、微妙な変化が出てきました。平成元年版の学習指導要領では、日清、日露、韓国併合というような事態を扱う中で、「なお、これらの戦争に際し、朝鮮半島及び中国の人びとに大きな損害を与えたことに触れ、このような戦争の影の部分にも気づかせるようにしたい」と指摘し、昭和の戦争についても、「これらの戦争において、中国をはじめとする諸国に我が国が大きな損害を与えたことについても触れることが大切である」と、指摘されております。文部省がそういうふうに書くようになったのは、明らかに八〇年代の国際的な批判、あるいは国内での批判、そういうものが大きな力になったということを申し上げておきたいと存じます。


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