◎シンポジウム・身体表現とジェンダー

ディスカッション

杉本紀子 人文学部教授  酒寄進一 人間関係学部助教授

永澤 峻 人文学部教授  井上輝子 人間関係学部教授/司会

 

司会 それではディスカッションを始めます。まず、本学の三人の教員から議論の口火を切っていただき、問題提起者の方に簡単に応答していただいて、その後全体の討論に入りたいと思います。それではフェミニズム・ジェンダー研究会の世話人である酒寄進一さんからコメントをお願い致します。

酒寄 僕はこれから始まる熱いディスカッションの口火を切らしていただくに当たって、《身体表現とジェンダー》というタイトル自体に立ち戻りたいと思うんです。

 「身体表現」という漢字、しかも四字熟語が並び、そしてその横にカタカナ言葉があって……。そしてこの漢字とカタカナというものの対比が単に意味だけではなくて形としてもあるのではないかと僕は思います。そして塩崎さんが図らずも「閨房」という言葉を使われ、先ほどそれを「ベッドルーム」と言い換えたのですが、「閨房」と「ベッドルーム」とをイコールに取れるかというと、だいぶイメージが違いますよね。しかも塩崎さんはそれを閨房生活というふうに「生活」という言葉まで入れるのですが、例えばベッドルーム生活だなんて、皆さん言うことがありますか。たぶんないと思います。何かそこに大きなズレがあるんですね。そういう対比があって、漢字とカタカナにはそういう意味がこもっている気がするんですね。そしてジェンダーという言葉で僕らが今の社会を色々問い直そうとする行為の中には新しい思想、新しいものの考え方で今を捉え直そうという試みがあって、その一方で身体表現というのはずっと長い僕らの人類の歴史の中で行なわれ続けてきたものです。そういうアルカイックな部分を僕らはジェンダーという視点からどう照明を当て直せるのか、ということがおそらく今日の問題だろうと思います。

 初めにジェンダーについて、肉体としての性の差ではなく文化的な社会的なところで規定されたものである、ということは井上さんからお話がありました。だいたいそれで共通項は作れると思うのですが、身体表現とは一体何なのかということは僕はいまだに疑問なんです。

「表現」という言葉はとりあえずおくとして、問題は「身体」という言葉です。からだのことなのですが、この「体」という言葉を使った熟語として二つくらい想定できると思うんですね。一つはこの「身体」なのですが、もう一つは「肉体」。肉体といいますと例えばマリリン・モンローなんかがいて、肉体派女優という言い方がありますが、身体派女優といったらちょっと奇妙ですよね。同じ「体」なのですが、肉体と身体というのには何かのズレがある。さらに「体」という言葉を引いて、「身」とは何なのだろうということですが、やはりアルカイックなんですね。例えば「身を固める」という言葉がありますよね。結婚する。学生たちは身を固めるなんて言葉使いますか? たぶん死語に近いのではと思うのですが。それから「身売り」……ちょっと危ない言葉ですが。「身売り」なんて言葉もたぶん今使わないと思うのですが、塩崎さんどうでしょうね、僕は自分では使ったことはないのですが。やはりこの「身を売る」、これも例えば身と肉とを同じだといって「肉売り」といったら全然違う意味になってしまいますね。あるいは「肉を固める」といったら、かなりやばい話になってくるという、そういう意味の違いがあると思うんですよ。

 それから「身繕い」、身を繕う。「繕う」って裁縫の時の言葉なのですが、これは結構大事な言葉だと思いますよ。僕は今日の摂食障害のことで考えますと、ピアスなどは最近男性でも多いですし、入れ墨が少女たちの間で流行しています。勿論、シールみたいな入れ墨ですけれども。先ほど自傷行為と浅野さんはおっしゃっていましたが、そういった傷つける行為に走るというのは何なのだろうってすごく気になっているんです。「繕う」というのも再生行為ですよね。どこかに傷口ができたときにそれを繕い直すという意味です。

 その他にも、ある行為は「身になる」であるとか、また、お母さんから裁縫の道具を貰って何か色々作ってみると、何か社会生活で「身につく」ことがある。「肉」につくではなくて「身」につくという時に、そこには実際に自分の体に何かが付くのではなくて、生活であるとか社会であるとか何かに自分が機能できるという意味合いがあるんですね。そういう意味で「身」という言葉の中には、単なる肉体というだけではなくて社会との関わりの中で意識されていく自分の体というような意味合いがあるのではないかと思います。

 もう一つ、気になるのが「身だしなみ」という言葉なんですね。「身」はとりあえずいいにせよ、「たしなむ」という言葉、これをもう少し言い換えると、そこらへんでいたずらしている小さい子がいたら、「オイ、お前そんなことしたらダメだぞ」と言うことを「たしなめる」って言うでしょう。語源が同じかどうかは知りませんが、イメージとして重なっていて、「たしなむ」という言葉には自己規制の要素が入ってくるのではないかと思うんですね。そして自己規制も単に自分から選んだよりも社会の中でこういう約束だからということで、たしなめるものとして、つまり自分の身体というものがたしなめられているというのが実は身だしなみで、僕らの服装というのもそういう社会の制約、あるいは浅野さんの言葉を借りると文化規定の中で起こっている行為なのではないかなと思います。

 それから「身」という漢字はそのまま使われませんけれど、今の子どもや若者の文化を見ていて気になるのが「禊ぎ」という言葉なんですね。少し古い言葉ですけれど「身」を削ぐんですね。少女論というのが八〇年代以降だいぶ流行りましたが、その中で「少女は巫女である」論のようなものが出てくるんですね。その例が八〇年代半ば頃流行った朝シャンであるとか、その他自分の体をきれいにしていたい、浄化したいという行動に民俗学的な視点から巫女というイメージを重ねていくんですね。そしてその先にあるのが「禊ぎ」なんです。それは中身としては身を削ぐということで、切り刻んでいく行為なんです。

 フェミニズムの観点から考えると、昔から女性には女性特有の服装の文化があり、例えばコルセットの問題など、それを脱ぎ去るということが、男の側の女性観から脱出するという意味を持ってた時期があったと思うのですが、それが今は服だけでは済まなくなって、身体まで自由になりたいという行為がやはり自傷行為に繋がっているということがあるように思うんです。その他傷つける行為、そこが今すごく逆説的になっているのではないかなと思いますが、自分をどんどん否定していくことでしか肯定の道がないんですね。

 そういう関係で、浅野さんの本を読んでいたときに思った小説があるんです。一九九〇年に書かれた作品で、主人公が一七歳の女の子で、タイトルが『ぼくはかぐや姫』。「かぐや姫」には僕らの共有できるイメージがかなりあると思いますが、「ぼく」と名乗っている女の子、「ぼく」という言葉自体が男の子の文化を背負っているのにそれを敢えて選んでいる女の子たちがいるというので話題になった時期があります。「ぼく」と名乗っている子が最後に「わたし」に行き着くという過程を心理的に描写した作品なんですね。その中で繰り返し言われているのが男でもなく女でもなく、あるいは大人でもなく子どもでもない「わたし」に行き着きたい。それは無色透明で、誰から見られても中が透き通っていて、つまり自分の実態、身体が見えなくて通り抜けてもらえるような透明な自分を保ちたい、それが最終的に「ぼく」という名乗りにつながる、という話になっているのです。

 この作品が僕にとっては特に摂食障害を絡ませた身体の問題の核心をついていて、今の若い人全員とは言えないと思いますけれど、そこに何か気づき始め、そこにこだわりたいと思っている人たちが行き着く方向を指し示しているような気がします。摂食障害や傷つけるということもそうですし、その先には浅野さんのコメントにもあったと思いますが、キーワードとしては例えば浄化であるとか、自律性のある身体といっているところが、この身体の問題とどう絡むのかということが僕はすごく気になっていることなんですね。それはピアスもそうですし、入れ墨なんかもそこに絡むのではないかと思います。

司会 それでは次に物語研究会の世話人、杉本紀子さんに同じく企画グループの一員としてコメントをお願いします。

杉本 コメンテーターというのは初めてなので何を言っていいのかわからないんですけれど、コメントというのは触媒だろうと、これから後でフロアの方から色々な意見が出るためのまずは呼び水だろうと思っています。前もっての打ち合わせでは私は塩崎さんの発表に対してコメントをするということでしたので、ちょっと申し上げます。

 私は日本文学の専門家でもないし、谷崎の専門でもありません。そこで、女が『鍵』を読んだらどう読めるか、ということの一つの例として申し上げたいんですね。私が一番最初に『鍵』を読んだのが高校生の頃でして、ほとんど出てすぐの二、三年たった頃でしょうか、色々な性描写が描かれ、しかも中年の男女の夫婦生活を書いたものである、ということでちょっと覗き見的に読んだんですが、最後まで読み通せなかった記憶があります。

 今度何十年かぶりに読んでみて、やはりあまりいい感じは受けなかったんです。高校生の時に読んだ印象とは違うんですけれど、一つは夫が妻を裸にするのはお酒によって意識を失って無抵抗の状態である、それをベッドの上で蛍光灯という新しい、普通の電灯よりもかなり明るく人工的に見えるところで素裸にして前だの後ろだの全部見るという、それはほとんど死体を見ているように、死体を検査するように見ているのです。本の中にも「マルデ死骸ノヨウニ」と書いてあるのですが。それから先ほど塩崎さんは夫は妻の身体の中に何も読みとらないとおっしゃっていましたけれども私は、夫は妻に年月とか老いとかを見ることは拒否している、つまり人形として見ているのではないかと思うんですね。膚が染み一つないという、純潔だというのは人形としてみているからなのではないだろうか、死体として見ているのではないかと思います。つまりネクロフィリー、死体を見ると性欲を感じるというのと、私にはほとんど同じに見えてしまって、それが一つ気になります。

 ところが妻が夫を見る視線もこれとほとんど同じなのです。夫は四月一七日に発作を起こして五月二日に死んでいくのですが、やはり夫が寝たきりの死体同然の時に初めて妻が夫を見るんです。夫は妻のことををO脚で西洋の女性の様ではないけれど、僕はそれが好きだと言っているのですが、それと同じように妻が夫をガニ股であると見る。また夫は妻の膚を今、申し上げたように「一点ノ汚レモナイ素晴ラシイ裸体」と見ますが、一方、妻は夫の膚を「肌理の細かい、アルミニュームのようにツルツルとした皮膚」と形容します。これは夫が妻の膚に対する認識と同じではないか。ただし、評価は全く逆ですけれど。つまり夫と妻は、ほとんど並行関係を持っているのではないかと思うんです。『鍵』における夫と妻は、男女というお互いに対等の他者として存在しているのではなくて、夫は妻をそそのかして自分が見たいように見る、また、妻も夫に従うように見せかけながら実は夫の欲情を充たすためにほとんど夫と同じことをする。最後は夫を死に至らしめる訳ですから妻の方がはるかに悪辣なのですが……。

 夫の日記には鍵が付いているのですが、妻に盗み読ませるようにわざと落としてあって、妻は夫の生前は、夫の日記を「読まない、読まない」と書き続けるのだけれど、夫が死んでから実は見ていたんだということを告白するんです。四月一七日の発作までは妻の日記も夫が読むことを前提とし、夫の日記も妻が読むことを前提に書かれています。そうしますと夫が妻を古風な女だというのはやはり一つの布右なのではないか。夫はそういう貞女に、女性を裸にして意識のないまま、ほとんど死体と同じような状態で見たりいたずらをする。殊に相手を弄ぶ。つまり物として扱っているという性的悦びを感じるのです。

 夫が倒れて知的活動ができなくなった一七日以降、妻は夫の日記と自分の日記とを突き合わせて、実はこうであったと実態を明らかにしていきます。その辺りの一連の出来事の総括―女に理性的な総括は出来ないなどと言うつもりは全くありませんけれど。事態を分析し、評価をするという作業に私は非常に男性的視線を感じます。谷崎としては、妻と夫の閨房生活の総括を妻にさせている、夫の代理をさせているという心積もりがあったのではないでしょうか。そういうこともあって私は夫と妻というのは異性とは読めなかったんです。

 むしろ私が気になったのは娘の敏子、明敏の敏です。敏子はもちろん誰からも見られる対象ではなくて、一方的にお父さんとお母さんの閨房の秘事を覗き見る存在であり、お母さんをそそのかして木村という夫の傀儡のような男と性行為を行なわせ、お父さんが発作を起こした時に妻の日記を探してこいと頼まれるとお父さんの使い走りをしているんですね。 ですから父の側にも立ち、母の側にも立っているけれども、彼女自身はそういう意味では異なる存在として位置づいています。彼女の部屋には鍵がかかっているんです。鍵というのは夫の日記の鍵でもあり、敏子の部屋の鍵でもあるということから、両方とも鍵を持っているということは対等なわけで、そうするとこの世界の中で他者というのは敏子なのではないかと思うのです。谷崎は敏子を若い世代として描いているんですね。異質な、不気味な妻は娘のことを私以上に陰険であると言っていますよね。そういう意味では、敏子は不気味な他者として二人から見られていて、夫と妻の間を往き来し、双方の特性を持つ存在としてある他者なのではないかと思うんですね。

 そういう意味でこの小説は夫と妻の閨房の話というよりも老と若の世代の対比と読めると思います。結末の妻の不安(いずれ敏子が夫と同じように木村との間に自分を介入させるのではないかという)は読む者を陰湿な悪循環に陥れずにはおきません。でも敏子は確かに陰険ですから新しい世代、新しい女性のタイプとは見たくないのですが。塩崎さんのおっしゃるように、谷崎が旧道徳のイデオローグというふうには私には読めませんでした。感想や反論をお聞かせ下さい。

司会 『鍵』の読み方は色々あると思うんですが、塩崎さんの読み方と杉本さんの読み方と、また、会場の方々から色々な読み方を聞かせていただけたらと思います。それでは次に永澤さんからコメントをお願いします。永澤さんはやはりこの企画グループの中のシンボル文化研究会の世話人でいらっしゃいます。

永澤 私は笠原さんが提起した冒頭の写真・絵画における身体表現の問題へと立ち戻るとともに、最後の浅野さんがお話しになった内容と重なる問題を、テキストを紹介しながらコメントしたいと思います。最近の新聞で見たプリクラについての短い文章と、笠原さんの議論の前提になる『人の〈かたち〉人の〈からだ〉│東アジア美術の視座』(平凡社)というシンポジウムをまとめた本の一部をプリントでお配りしておきました。これを参考にしてコメントしていきたいと思います。

 私が古風な人間なのかもしれませんけれど、笠原さんの女性の過激なヌード写真をめぐる問題提起に始まり、塩崎さんの「閨房」の分析を経て、浅野さんの身体の具体的な調節のあり方の現状、というように、インフレーションを起こしていくぐらいに、過激な言葉が出てくるようになったことを若い人たちがどのように感じてらっしゃるのかなと思いながら、もう一つ別の視座からの映像論があり得るのではないかと感じたのです。これは先週の日曜日の朝日新聞なのですが『ふむふむぷんぷん』というコラムの「プリクラにはまる」という、高橋なお子さんという作家が書かれたテキストがありまして、短いものですので紹介しておきたいと思います。

「私の夫は写真が下手だ。なので結婚式の写真を最後に私が写っている写真の枚数は激減した。家族はふたり。私を撮る人はいない。反対に写真が大好きな父に写真を撮られまくって育った私は家族の写真を撮るのが習慣になっている。その結果夫は結婚以後突然多量のスナップ写真を所有することになった。自分の写真というものはなんとなくうれしいものである。何年も経つと自分でも意外なぐらいに懐かしく、撮ってくれた人のことを優しい気持ちで思い出したりする。けれど撮ってくれた人のことを記憶できるような年になると写真の枚数は減っていくものだ。親だって子どもの写真を撮らなくなる。写真は時に心の中まで写すもの〈これがキーワードになると思うんですけれど〉だから。カメラを通して相手をのぞいていたり、相手にのぞかれたりするのが怖くなるのかも。ところが写真を撮られなくなるとそれがとても淋しい。誰も自分を見てくれないと感じる淋しさである。二度と来ない今日という日の自分を誰かに撮ってもらいたいと焦る若者たち。わかるなあ。私結婚してから全然写真が残っていないから。自分が存在していたという証拠がまるでないような気がするもの。女優たちが写真集を出したがる。時に裸になってまでカメラを向けてもらおうとするのも淋しいからなのかもしれない。かくして、人々はプリクラにはまったのである。誰に心を覗かれることもなく、納得のいく顔をつくり、それを自分で撮って人にも渡す。自分がその時確かに存在したという証拠を自分で作って大事に抱えて生きるのだ。ナルシスティックな自分への愛を満たし、孤独を癒す笑顔のシールがつくるさびしがり屋の写真集は全て自作自演の自費出版である。」

 クールでもっぱらナルシスティックな視線からの身体表現の問題に立ち戻ってみたらどうなるのかということを、最新のプリクラという現象に即して紹介してみました。

 そして次に長い文章ですが、お帰りになって読んでいただきたいと思います。「ヴォワイユール(voyeur)」、覗き見という概念を新しい美術史、或いはイメージ文化全体を考える際にキーワードとして、日本でも何度もワーク・ショップをやったノーマン・ブライソンという人のです。剥ぎ取られた裸体をネイキッドといい、美しい裸体をヌードという言葉で定義した有名なケネス・クラークという美術史家がいますが、その人の視点をもう一度ここで新たに問い直すということで、先ほどの覗き見にあたる独特な視線を「ゲイズ(gaze)」という概念から捉え直した研究者です。ノーマン・ブライソンは、日本の洋画の始まりの時期に、パリへ行った画学生たちがヌードモデルをどのように描いていたのかということを問題としており、私はここでの議論での歴史的な出発点を確認したいと考えました。

 今言った、視線のポリティックスということは笠原さんの問題提起でも核になっているわけですし、私ども日本人がこの分野の議論をする際に、いわばこのポリティックスが「視線の刷り込み」とされながらも、現象面での言葉だけが過激になって使われていると感じ、この点を明確にしたかったわけです。あとのブライソンの論文ではごく自然にみえる黒田清輝の「読書をするヨーロッパ女性」の油絵の図版の下に、これはジェロームという画家のアトリエの女性ヌードや、オリエントに設定した上で女性の裸を覗き見するというところから始まり、次の図版を見ていただきますと、物語性を削られて、単に野原に横たわっている女性というように段々文化的なものが剥ぎ取られていった経過がわかります。

 ちょうどこの時期に留学した日本の洋画家たちはどういう存在だったのかという貴重な写真が残っていまして、パリでヌードモデルを囲み日本の画学生たちがこういう形で修業をしていた。西洋に追いつき追い越せという時代の流れの中で、裸体画を見ていく視線というのでしょうか、こういう刷り込み現象が私たちの中にひょっとしてあるのではないかということを、時代を少し遡って浅野さんと笠原さんが話された起点になるものと、プリクラという一番新しい現象、そこではナルシスティックなのかもしれませんが、意外に軽やかな感じのする今の若者たちの身体観、この二つの点を紹介しながら振り出しに戻し、皆さんの質疑の叩き台になればと思い、コメントした次第です。

司会 今三人の方からそれぞれコメントがありましたけれど、一対一という形ではなくて三人のコメントについて発表者の方々からそれぞれ補足やご意見があればお願いしたいと思います。ではまず浅野さんの方から順にお願いできますか。

浅野 鷲田清一さんが人間大学で始めた『ひとはなぜ服を着るのか』という講座の中でピアスとか入れ墨のことを書いていたんですけれど、親からもらった肉体に傷をつけていく、それによって自分が軽くなる……。本当は傷つけてはいけないと、親あるいは社会から教えられてきたものを傷つけることによって、社会規範なり家の伝統なり自分を縛っているものから自由になっていく感覚があるんじゃないかなと思いました。

 もう少し摂食障害の人の具体的な話をしますと、浄化というのは本当に自分自身を浄化していくということなんですよね。単に行為というのではなくて、食べ物をお腹に詰め込むというのはお腹の中に汚い物がドロドロとたまっていて、それをバーッとまた出すのが非常にしんどいことなのですが、人によっては快感なんですね。私がお配りしたインタビューの資料を見ていただきたいんですけれど、「過食をして御飯をもどしちゃうっていうのは、なんていうのかな、自分が『いい子だ、いい子だ』といわれつづけて、体のなかにたまったドロドロの気分みたいなものを、たべものといっしょに出しちゃうような、そういう一種の爽快感があった、そのころは」というふうに過食嘔吐をかつてしていた女性が語ってます。

 最近お話を聞かせて下さった女性ですと、その方は結婚していて、姑と同居しているんですね。夫は一人息子で、自分はその夫を非常に愛していると言うんですね。でも愛している夫を産んでくれた義母なのに愛せない、姑が大嫌いだとも言うんです。彼女は過食嘔吐しながら、その時だけ「鬼婆々ーっ」と叫びながら吐き戻すんですね。一方で彼女は非常にガリガリなんです。彼女の理想は華奢な、透明な少女なんです。あくまでもきれいで透明な自分でいたいのです。だけど愛している夫のお母さんを愛せない自分、「鬼婆々ーっ」って言ってしまう自分は汚い自分で、そこが非常に分かれてしまっていて、受け入れられる自分と受け入れられない自分とに分裂していて、ある意味で過食嘔吐がそれを繋ぐ、と言ったらわからないんですけど、そういう行為として存在し続けているんですね。

 また、Dさんという女性がいまして、彼女は冷蔵庫の中のものを全部食べてしまうほど一度にすごい量を食べるのですが、それをまたバーッと出してしまうのが非常に楽しかった、と言っていて、隠れた行為でそういうことをやっているのが楽しいという場合もありますし、逆にAさんという女性は朝目覚めた時に「またこの世界に来てしまった」という感覚を過食していた大学生の時に持っていたと言っています。目が覚めるとパニックに陥ってしまって、それを抑えるためにタバコを吸うとか、「朝のヤケ食い」と彼女は称しているのですが、朝にバーッとヤケ食いし、彼女の場合は吐くのではなくて下剤で流すんですね。浄化させるんです。それをやると、安定感が得られ、この世界にもう一度戻ってこられるという感じがして、一つの世界と自分の身体を取り結ぶ回路として使っていたんです。彼女は日常において混乱する時とか物事を決められないときには必ず過食浄化をすることで決断をしていたと言っているんです。

 そのことと先ほどの自分の身体が軽くなるというのとどう結びつくのかはわからないんですが、日本でウーマン・リブが七〇年に銀座で旗揚げしたわけですが、ウーマン・リブの旗手の田中美津さんは『いのちの女たちへ││とり乱しウーマン・リブ論』(河出書房)という名著を書かれていますけれど、そこではドロドロとした感情や激情をすごく表出させている。とり乱しつつ、とり乱しつついくんだ、矛盾は矛盾として受け止めて、論理一貫性を拒否しても良いという感覚だったんですね。そういった感情を出すということが段々となくなっているという気がするんです、若い人を見ていると。ボディピアスをする人とか、入れ墨のシールでもバーコードの型が紹介されていましたけれど、自分にバーコードの入れ墨シールを貼って、ある意味で自分自身を商品として提示すると言うか、商品になることの軽やかさがあるのだろうと思うのですが、私がインタビューした摂食障害の人はまだそこに抵抗があるというか、そこまではいっていないのかなという感じがしていて、今の若い世代の人たちの身体感覚というのはそういうものを通過した以降の身体なのかという感じもしますが、軽やかでいいのか、非常に希薄化して言葉がないのか、それをどう評価したらいいのかちょっとわからないです、私には。

塩崎 杉本さんにお答えしなければならないのですが、その前に酒寄さんが身だしなみということをおっしゃった。おしゃれと身だしなみということはたぶん違っている。『鍵』の中にも身だしなみという言葉は出てくるのですが、身だしなみと言う言葉はおそらく既にある、公認された、既定の身の振る舞い方に自己の身体を合わせていくことだ、というふうに私は位置づけたいと思っています。ですから『鍵』の妻が夫に、あるいは父母に教え込まれた身の振る舞いをなぞることを彼女は身だしなみと言っているのだと思っております。「身体で」「身体を」というところなのですが、作中人物たちはそれぞれに「身体で」表現をするわけです。『細雪』の四姉妹たちはそれぞれの身だしなみを整えることによって、たとえば父母の法事に出かける場面がありますけれども、長女は薄色の一越縮緬、次女のさち子はもう少し濃い色の一越縮緬である、というように長女から四女までが家父長制の中で、あるいは長幼序列の中でそれぞれに自分の身丈に合った形で身体を表現していくんです。そういった作中人物たちを通して、作家は身体を表現していくのだと思っています。たぶんそういう形で、「身体で」表現するということと「身体を」表現するということは言語表現の中で、あるいは文学表現の中でクロスするのだと思っています。

 杉本さんのコメントに関して申しますと、読みのすれ違いがいくつかあります。まず『鍵』について申し上げますと、鍵自体は夫は書斎を持っておりまして、その書斎で日記をしたため、袖机か何かにそれを収めて鍵をかけるんですね。妻は茶の間で夫の目を、あるいは娘の目を盗んで日記を付け、へその緒書きや由緒書きなどが収まっている鍵のかからない用箪笥の引き出しに入れるんですね。タイトルの『鍵』には鍵を所有している者としていない者との価値序列が既に含められているということなんですね。そこで娘の敏子が部屋中に鍵をかけるということをおっしゃって、そうするとまた作品の読みが変わってくるかなと思っているのですが、今日はとりあえず先ほどから愛用しています閨房生活を前に押し進める何かという形で娘の敏子とその許嫁である木村はこの作品の中に挿入されているので、彼女たちにある役割を読むという方法はとりませんでした。つまりきっかけだと受け止めました。

 それからネクロフィリーについてはおっしゃるとおりです。ただそれは死体愛好なのか。日本の文学において、一九五〇年代の春本とか地下出版とかいうマイノリティではなくて新聞や雑誌、単行本という形態をとる小説表現の中で女性の裸の身体、あるいは妻の裸の身体というものをネクロフィリーという形でしか書けなかったという時代的な制約というようなものを、一方に私は考えております。ただ、問題なのは、結論の部分で申し上げたように、脱がせることではなくて、いったん脱がせておいた上で、男の身勝手な文化規制を、「女の道」とかいう演歌などでも愛好されているような文化規制を無理やり女に着せかけることだと思うんです。ですから死体愛好と言う方向へダイレクトに拡大していくとちょっと違うんじゃないかな、と。そこは意見の分かれるところだと思います。

笠原 ノーマン・ブライソンさんの『人の〈かたち〉人の〈からだ〉』の中の論文を永澤先生がコメントして下さったので、文字については後で読んでいただきたいのですが、私が最初にお見せした作品を見た後に、ここに表れている裸体像を見ると非常に安心すると思います。特に二番目の、留学生と裸体モデルは非常に象徴的だと思いながら見ていたのですが、こういう形での一対一の人間関係であるとか一対一の女性の身体表象ができるわけがないとよくわかりますね。先ほど塩崎先生がネクロフィリーということを言っておられました。「ネクロフィリーとしか書けなかったのではないか」と言われたのですが、私は谷崎は何回かトライしたのですが数ページで投げ出した口で、中身については言う資格はないのですが、ネクロフィリーとして女性の裸体、もしくは女性を書いてもどこからも文句を言われなかった、もしくはそのように書いても世の中が自然に思っていたという社会の認識の違いなのではないかと思います。今そういう形で「書く」こと自体が問題にされつつあるんですね。写真で言えば、先ほど私が示したようなヌードは非常に少数派で、ほとんどがネクロフィリーとして現代でも流通しているものが多いです。それについて自然に受け入れている、もしくは顔をしかめながらも慣らされている方の意識の問題なのではないかと思いました。

 もう一つは、これまで身体表現を三人で話してきているのですが、全く出てこなくて不思議だなと感じていたキーワードがあるんですね。それは、この話をしている時に私たちはヘテロなセクシュアリティを前提にしてしまっている、という不思議さなんです。勿論『鍵』もそうですし、去年ジェンダーの展覧会をやった時に私はかなり意識して、そこまではできないと思って入れなかったのですが、『Women En Large』はレズビアンのカップルのお二人の作品なんです。カミングアウトしているわけです。どうしてそこのところをちゃんと言ってくれなかったのかと非常に文句を言われたことがあります。私たちが当たり前にヘテロな関係で男と女を前提にして話をするのはおかしい、男と男、女と女、そしてそれ以外の関係も当然あり得るものとして同等に扱っていかねばならないのではないか、特に身体表現をする時にはセクシャリティの問題は避けて通れないんじゃないのかな、ということを感じていましたので一言言っておきたいと思います。

司会 今日のシンポジウムでは色々な問題が錯綜していまして、分野も、文学から写真表現から身体で自己をどう表現するかという現実の女性の自己呈示の問題まで様々ですし、時代的にも五〇年代から九〇年代まで長い時代にかかわって、問題が飛び交っています。私たちはこのシンポジウムがどのような議論になってどのように流れていくのかということはあらかじめ全く作っていません。色々な問題が色々な形で出されて、議論されて各自が自分の問題を発見できればいいのではないかと思います。全くアナーキーな状態でここに臨んでおりますので、正直言って私もどういうふうに展開していくのかわかりませんが、ストーリーのないところでどうぞ皆さん自身にストーリーを作っていただきたいと思います。だいぶ長くこちらの方で話が進んできていましたのでジリジリしている方もいらっしゃるかと思います。ご質問でもご意見でも結構ですので自由に発言して下さい。

参会者 大変楽しく拝聴致しました。司会の方がおっしゃったように非常に多岐にわたってかなり視点も色々ですから、私も先ほどから色々考えながら壁に囲まれてしまったような感じです。表現ということですからたぶん頭の中にあるものを外化するということで表現していない部分も沢山あるかと思うんですが、その中でも結局脳の中にあるかなり人間的な論理性の高い部分の問題が中心になるかと思います。先ほどから出ているピアスや入れ墨の問題は人間の脳のどういう部分が先行しているのか、あるいはもっと論理的な部分で割り切れる話なのか。そういうものが同じ次元で語られる時にかなり混乱が出てくる感じがしました。特に最近の若い人は論理的な部分の脳を使うことばかりが学校や親から強制されていますから、本来の動物的な部分の感覚が疎外されている気がします。そういう部分がある日突然論理を飛び越えてぱっとそういう行動に出てしまったりすることが多いのではという気がしました。

司会 ピアスや入れ墨が若い人たちになぜこれだけ流行っているのかということに関する一つの解釈を出されたと思います。この問題について若い方々はかなり関心を持っているのではないかと思うのですが、ご意見ありますか。摂食障害の問題や若い人たちの身体の文化についての研究をされている方たちも何人かいらしていると思うのですが、いかがでしょうか。ピアスだけに限らずエアロビクスなどのスポーツについても身体へのこだわり、身体の改造ということで共通の傾向があると思いますが、いかがでしょうか。

参会者 私はスポーツ社会学を専門にしている者です。スポーツと言うと筋肉とか、先ほど笠原さんもおっしゃっていましたがギリシアの筋骨隆々というイメージがあるかと思います。特にエアロビクスをやられている女性にインタビューをするのですが、痩せた身体といってもガリガリにはなりたくなくて引き締まった身体になりたいということを往々に聞きます。エアロビですと女性が多く、ハイクラスのスポーツジムやフィットネスクラブになると男性が増えてきますが、公民館などでやられているのは女性が多く、年齢層もばらばらですね。中年の方々は音楽にのって身体を動かすことで充分という感じですね。インストラクターの方は「老化現象は止められないけれどスポーツをすることによって老化現象を遅くすることはできる」と言っています。若い人たちが痩せるためにエアロビをやってはいるのですが、中年の方たちも「見られる」ということを意識して、女はあがっていないということを証明したいのかどうか、まだちょっとそこはインタビューしていないのでわかりません。エステになると年配の方は少なく、若い女性が多くいらっしゃいます。というのは、OLさんたちはお金と時間にも余裕があり、若い方が多いと思うんですね。エアロビをしている方たちは摂食障害やエステに通っている人たちを、楽をしてやせている人たちだと批判するんですね。実際は楽ではないと思うのですが、楽をしているということと健康的ではないということを必ずおっしゃいます。

笠原 私も実はいまエアロビにはまっていて、時間があると行っています。肩凝りなので、マッサージや鍼に通っていたのですが四〇に近くなって、ずっとマッサージと鍼を続けるのは嫌だな、やはり少しは自助努力でやっていかなくてはならないとエアロビを始めました。多少はやせたいですけれど、実際は一キロもやせていません。痩せたいという動機ではなくて、例えば写真やアートに結び付けますと、女性の表現が出てきた時に自分自身がヌードになること自体が一つの主張であったり、パフォーマンスにしても身体で何かを表現すること自体が新しい表現になっているということがあります。身体的な快楽と言いますか、汗をかくとすごく気持ちいいんです。私は、学芸員という士農工商の下にその職があるような、女工哀史のような状態で働いていますから、身体は疲れきっているのだけど、身体を動かして汗をかくという状態、つまり身体的な快楽が現代社会においてエアロビやスポーツクラブがはやる原因なのではないのでしょうか。私が通っているところにも私のような中年の女の人やそれ以上の方もいますし、男の人も多いんです。中年の男性も老年の男性もいます。だから身体の表現において快楽的な要素もすごく大事なのではないかと思うんですね、自分の頭ではまとめきれていないのですが。ジョギングなどアメリカでもはやっていますけれど、そういうことがかなり大事な要素なのではないかと思います。

司会 エステに行ったことがあるという浅野さんはどうでしょうか。

浅野 私は痩身コースを試したのですが、あれはすごくしんどかったですね。サウナに初め一五分入れられて、揉み出しはすごく痛かったですし、ホイルに包まれて保温されると自分がお料理されているような感じだったです。身体というよりは肉体という感じを意識しましたね。バチバチと叩かれたり温められたりして、ふらふらになって意識を失いそうにもなりました。それは私にとってすごくハードだったんです。でもエステでもアロマテラピーなどのリラクゼーションはもしかしたら気持ちいいのではないかなと思います。そういう意味では身体的快楽を得るためということになりますね。よく男性の行く―女性用もあると思いますが―性風俗なんかでも、ファッション・ヘルスとかファッション・エステなどと名づけていて、かなり身体的な快楽を得るという技術を言っていると思うんですね。そういう点では私はエステをつい男性の性風俗と比較してしまうんです。

司会 「身体を改造する」といっても、かなり苦しみを伴いつつ、改造しなければならないという義務感とか自己管理意識によって行なわれる身体改造と、自分を発散させて身体を解放して身体的な快楽を味わうという、スポーツや身体を鍛えるという身体表現があるわけですね。

参会者 今お話を聞いていて、二〇代など若い世代の人にダイエットで拒食症になることが多いということはよくわかったのですが、三〇代、四〇代、またそれ以降の人もダイエットに関心を持っていると思うんですね。中高年の人たちは単に見た目というだけでなく、健康を維持するために痩せる努力をしなくてはならないという部分があると思うんですが、若い世代の人のような摂食障害が起こることもあるのでしょうか。

浅野 先ほどご紹介したオーバックは、拒食症が若い女性の病と表象されてきたこと自体、作られてきたイメージで、若い女性だから未熟でそういった問題があるのだと言われているが、実際には年配の女性でも摂食障害になっているということを書いています。私が先日聞き取りに行ったグループで、北海道にある摂食障害者の自助グループは、メンバーの方が四〇代が多かったのですが、日本の摂食障害の第一世代の人たちかなという感じがしました。摂食障害になったのは二〇代の頃で、症状がずっと続いてきている人もいれば、途中で回復なさった人もいらっしゃいます。四〇代で突然摂食障害になったという人に私自身は出会ったことはないのですが、夫嫌悪症と言いますか、『婦人公論』に夫がぬれ落ち葉の状態になった時に夫が嫌で仕様がなくなった高齢の主婦が拒食症になっているという記事はありました。

参会者 それは要するに見た目を変えるというよりは夫に対する不満から精神的に摂食障害になったということですか?

浅野 はい、そうです。

塩崎 ぬれ落ち葉の話になりましたが、私なんかはまさにそうです。ダイエットのためにはタバコしか吸っていませんし、何にもできませんので。『鍵』はまさに妻が夫のインテリの色気のなさを暴いていて非常に身につまされながら読むというのがありますので、ちょっと発言をしたいと思います。今問題になっている身体の快楽というのが自己完結的なんですよね。例えばエステに通い汗をかくことが職場のストレスに対する自己解放とか、ピアスで自分の鼻に穴を開けるということによるアイデンティティを確保するとか、それらはひっくるめて非常に自己完結的なんですね。私は、友だちでもいいし恋人でもいいし妻でもいいですけれど、相手の肌の温かみとか息の芳しさといった身体と身体との関係、肩を組んだ時の安心感とか嫌悪感といったものが今日の話の中で欠落している問題だと思います。先ほどヘテロの問題に極限されているというご指摘が笠原さんから出されたのですが、もう一つはそういった複数の人間たちの関係の橋として身体を考え直せないかというのが敢えて発言した意味です。

参会者 《写真表現のなかのジェンダー》という題で発表された最初の方は、「女性の」「女性による」「女性を」表現したということでしたよね。谷崎の場合は男の人の目を通した女の人といいますか、女の人の方は精神は全然なしでそれこそ身体表現だけという感じなのですが、『鍵』に関して私がお聞きした範囲ですと、妻は人間の女性というよりはお人形さんで、今までは衣装の着せ替えをしていたのだけどそれに飽きて着物を剥がし、中の肌を見たという感じしかしなかったんですね。摂食障害に関してもやはり女性の場合がほとんどですよね。今「関係性がない」とおっしゃいましたが私もすごく感じています。男性側には「目」であるとか「見る」であるとかそれしかないんですね。身体表現というのは男性側の自分好みの女性の表現であって、女性も「見られる」というか女性である自分を使って表現をしているんですね。自分の身体のふくよかさや痩せたいという感情が先行してしまい、男女の関係性が全くないような気がしました。

笠原 裸体表現にとっては、関係性というのは一つのキーワードなんです。よく浮世絵などで女性が見ても不愉快でないものがあるんですよね、どんな裸体、どんなヌードであっても。写真においても同じで、ヘアが写っているとか性器が写っているとか縛りがあるとか何とか、何が写っているかというよりは何が描かれているかということなんですね。

 例えばスティーグリッツのジョージア・オキーフを撮ったヌードの写真は全く嫌じゃないんです。女性が自立した女性として描かれているんですね。それはやはり共同作業なんですね、表現される方も見る方も撮影する方も見られる方も。作る側と作られる側―これは男と女の双方向の話だと思うのですが―の関係がいかに成り立っているか、まさに関係性があるかないかで決まると思います。

 もう一つ例を言いますと荒木経惟さんという悪名高き(?)写真家がいますよね。私は荒木さんに対して非常にアンビバレントな立場です。と言うのは、荒木さんの緊縛写真は私は大変嫌悪するものです。ですけれども荒木さんの亡くなった奥さんである陽子さんを撮った『センチメンタル・ジャーニー』は本当にきれいな二人の愛の交流が描かれている、非常にいい作品です。同じ描かれ方をしても、同じ主題を扱っても描く側との関係性で全く違ったものが出てくるというのは非常に大事なこととしてあると思います。

司会 最初に酒寄さんが出された「肉体」と「身体」との違いという問題にちょうど関わっているお話だと思います。写す側と写される側、或いは見る側と見られる側との関係性によって作品なり表現なりの持つ意味が違ってくるということですね。確かにヌード写真は日本では八〇年代から次々に出て売られ、私も全部見ているわけではありませんが、見ていて気持ち悪い、とても見たくはない写真と、見てそれなりに美しいなと思ったりすごいなと思ったりする写真があります。写す側と写される側、或いは写される側の主張や自己というのはどれだけ滲み出ているのかということで写真の持つ意味が違ってくるように思います。

小関(人文学部教授) 関係性について考えてみたのですが、《身体表現とジェンダー》という看板にも関わってくる問題です。僕も物語研究会のメンバーでこの企画に少しは関わっていながらこういうことを言うのはまずいかもしれませんが、身体表現と身体という言葉が飛び交っていて、それで本当に関係性とか世界が捉えられるのだろうかという問題があるような気がするんですね。ある学問的な捉え方をするときに確かに身体というふうにおさえなければいけないということはあると思いますけれども。例えば酒寄さんがおっしゃた「身」ということは市川浩さんが『身体の構造』の中で身というのは身内といったように常に関係性を含んだ言葉である、と。人間関係学部の三橋先生が「跳べない身体」という言葉である領域をおさえられるというような言い方をされています。「身」というとある種封建的な身分制度などの「身」まで含み込みますから「身」という言葉で何が押えられるかというと難しい、危ない問題があると思いますが、身体表現というところでこぼれ落ちる世界があるのではないかという気がします。具体例は時間の都合でやめておきます。

司会 予定の時間が過ぎ、外も暗くなってきましたのでそろそろ終了にしたいと思います。今日の議論の中で、近代社会の身体に関わって「見る/見られる」の政治学があるということ、それに反逆して見られる側からの新しい動きが芸術表現やその他の中で試みられているわけですが、同時に多くの女性たち男性たちが「女らしさ、男らしさ」といった作られたイメージに自らがとらわれてそこに合わせなければならないという意識を持たされて日々苦しんでいるという現実が浮かび上がってきたと思います。「身体とは何か」という根本的な事柄について問題が投げかけられたところで終わってしまいますが、今後何かの時に考える材料にしていただければと思います。色々な問題が提出されたままでうまく整理できませんが、皆さん、色々な疑問やら意見やらお持ち帰りになって、是非この話の続きをどこかで誰かと語り合っていただければ幸いです。

 今日はこんなに多数の方々が、最後まで熱心に参加していただき、ありがとうございました。


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