問題提起3◎シンポジウム・身体表現とジェンダー

女性の身体へのこだわり文化規定としての女性の身体

浅野千恵 本学講師

 

 今マスメディアでは摂食障害のことがよく取り上げられています。摂食障害というのは、食べる量や種類を極端に制限する〈拒食〉、たくさん食べる〈過食〉、食べたものを自発的に自分で吐き出してしまう〈おう吐〉、下剤や利尿剤を使って食べたものを体外に意識的に出す〈浄化〉という行為をまとめて、摂食障害と呼んでいます。「やせたい」という欲求や、太ることへの恐怖心を持っている人が多く、特に若い女性に多く見られる心因性の病だと言われています。

 今日、「摂食障害」という行為は、非常に多様な意味合いを持っています。人が生きて行くうえで対面するさまざまな問題、それを対処する方法として、〈食〉と〈体〉の両方のコントロールが行なわれているのではないかと思います。摂食障害を論じるときに、ともすると「家族が原因なのか」あるいは「メディアが問題なのか」と、単一の原因を求めがちですが、現在の社会で生きる個人が抱えるさまざまな問題を照らし出す鏡として捉えることができるのではないかと思っています。今回の報告では、特に《ジェンダー》の視点から《女性の身体とアイデンティティを巡る問題》として摂食障害を捉えたいと思います。

 摂食障害になるのは、これまで圧倒的に女性が多いと言われてきました。「女らしさの病」と言われることもありますが、女性性の拒否や受容がこの病のテーマだというふうにも言われてきました。伝統的に、拒食症の女性には「成熟拒否」や「成熟嫌悪」が見いだされることが指摘されてきました。最初にそのことを指摘したのは、ピエール・ジャネという精神医学者です。ジャネが拒食症のナディアという女性の言葉を記述しています。「わたしは体重を増やしたり、成長したり、女のように見えたくありません。いつも小さな女の子のままでいたいからです」。ここから、拒食症というのは、成長して性的に成熟することを恐怖する病として捉えられるようになりました。しかし、なぜ性的に成熟することを恐れたり、拒否したりするのかについては、必ずしも十分な理解がなされてこなかったのではないかと思います。

 日本でも一九六〇年代から七〇年代にかけて拒食症に関する医学論文がたくさん書かれています。八〇年代以降は〈過食症〉や過食しておう吐するケースが増えたと言われています。六〇年代、七〇年代に書かれた論文を見ると、拒食症になるのは、自らのからだが持っている感官性とか肉体性に耐えられないような繊細な娘であると書かれたりします。この場合、女性は「感官性を帯びた存在である」ということを、医者が書いているわけです。最近になって、摂食障害者の中には性的虐待の被害者も少なくないと指摘されるようになりました。実は昔書かれた医学論文の中にもそういった記述はありました。例えば「伯父からの性的ないたずらを受けた」というエピソードが書かれていたりしますが、そう書かれていても、それは重要視されていませんでした。拒食症になるのは、その少女の〈性的な潔癖さ〉やそういう潔癖さを生み出す家族の在り方のためと考えられていました。

 日本で性暴力と摂食障害との関連を最初に指摘したのは、鈴木裕也さんという内科医です。『彼女たちはなぜ拒食や過食に走る。』の中に、性的な被害を受けたショックで拒食症になったケースが出てきます。この女性は鈴木さんのところにくる前に、精神科医の診察を受けていました。ところが自分が受けた被害について医者にも家族にも話していなかったので、カルテには家族関係に原因があると書かれていたそうなんです。これまでの精神医学の枠組みでは、摂食障害は親子関係の問題や乳幼児期の発達の問題と固定的に捉えられてきたために、こういった女性のケースが排除されてきたのではないかと、鈴木さんは指摘しています。

 それで、先程紹介したナディアという女性は、ボーボワールの『第二の性』の中にも登場します。ボーボワールはナディアの拒食という行為を、周囲の視線を通して自分という存在が一個のモノに化せられてしまうことに対する抵抗として捉えています。成熟拒否とか成熟嫌悪という概念には、自分のからだの成熟や女性性を受け入れられない未熟で未発達な女性が摂食障害になる、そういう意味が込められてきたわけですけれども、それに対してボーボワールは女性の身体に対する周囲の暴力的な視線とか、女性の体に対する意味付けに対する女性の側の抵抗や闘いとして拒食症を捉え返したわけです。

 現代では、スージー・オーバック(Susie Orback)というイギリスのフェミニストの心理学者が、拒食症を社会に対する女性たちの体を張った抵抗、すなわちハンガーストライキとして解釈しています。『Fat is a Feminist Issue』(肥満はフェミニズムの問題)の中で、過食して太るのは過剰に性的なイメージを付与されたり、性的存在として社会から規定されることに対して、逃れようとしているからと論じています。やせたり太ったりというボディーコントロールは、女らしさの文化規定から逃れて、女性が自分自身の自律性を保つための行為という側面が含まれているのではないかと思います。

 

 この資料は九〇年一一月三日の朝日新聞の記事です。過去四〇年間の『BMI』(体格指数)をグラフ化したものです。いわゆるBMI(ボディー・マス・インデックス)は体重を身長の二乗で割った数値で、肥満度を計るのに使われています。これを見ると、すべての年代の男性と、五〇代以上の女性は過去四〇年以上、ほぼ一貫して太り続けています。これに対して二〇歳の女性は、日本人の全体の傾向とは全く逆で、ひたすらやせ続けています。このまま行くと、やせ過ぎにいってしまうんではないかと記事に書かれています。糖尿病との関係が記事の中で問題にされていますが、糖尿病にかかりやすいかに男女差はないそうです。ところが日本では男性に患者が多く、欧米の多くの国では女性に患者が多いそうです。この違いは一つに日本の女性の多くがダイエットに励んできたことがよくわかったと書かれています。しかし、確かに糖尿病にはなりにくいが、骨粗しょう症など将来深刻な事態になりかねないと心配されてもいます。

次に、この図表は千村典生さん(杉野女子大学教授)の本から採らせていただきました。二〇歳の女性、男性の身長と体重の変化をグラフ化したものです。男性も女性も身長は戦後一貫して徐々に増えています。しかし、男性は身長に比例して体重も増えているが、女性の体重は戦後四二年間、ほぼ五〇㎏前後に終始しています。身長はずっと増加しているわけだから、二〇歳の女子はよりスリム体型に変化していることが分かります。

 さて、さっき笠原さんが『Fat Feminizm』をご紹介してくださいました。『Women En Large』という写真集を撮ったカメラマンの女性は拒食症だった女性です。この表紙の被写体の女性は評論家で、二人でこの仕事をしています。この写真集では、いろんな年齢、人種、障害がある女性などが被写体として登場します。つぎはパトリシア・シュワルツ(Patrisia Schwarz)さんの『Women of Substance』です。こちらはカラーで撮り方も全然違います。シュワルツさん自身も太った女性で、自分とは異なるやせた女性を撮ってきたけれども、彼女自身も太っていることで、ウェイト・コントロール専門のクリニック、ダイエットの専門医、太った人びとのための施設、ダイエット薬、ダイエット食品、減量のための新しい方法論を説く本や雑誌など、身体に対して永遠に不安を抱かせることで儲けようとしているのです。ダイエットはうまくいかないし、減量に何度も格闘する人びとをみることはいたたまれません。私の場合もそうでした。

 アメリカの代表的な医療関係雑誌によれば、ダイエットを始める人で、成功するのはわずか五%にすぎず、九五%は五年の間に元の体重に戻るばかりではなく、通常さらに数キロ増えてしまうのです! 悲しい現実です。私は皆太るべきだと言っているわけでも、治療の一環として減量しなくてはならない人もやめたほうがいいと言っているわけでもないのです。ただ極端なダイエットと自分の自己嫌悪の人生に陥るよりは、自分を愛し、自分の体型を受け入れることのほうが究極的には健康ではないでしょうか。定期的に起こる社会のダイエットへの執着は、ありのままの自分を愛するというよりは傷つける(身体と心を)ことになるのです。ファッションに流行があるように、女性の身体にも、時代によって理想とするサイズと体系が変わるということを覚えておくことは、女性にとって大切なことなのです。この写真は摂食障害の女性のセラピーにも使われているそうです。

 今日、若い女性の間で、やせた身体が非常に求められるようになっているのは一言でいえば、他者から侵犯されない自律性のある身体の獲得、それが今のやせた身体のブームにあるんではないか、と私は思います。しかし、やせた身体を求めることには落とし穴もあります。まず、やせることは身体的にも心理的にもすごく負担がかかることです。無理なダイエットを続けるうちに、コントロールが効かなくなって拒食症になってしまったり、反動で過食するようになったり、おう吐することを覚えていく人も非常に増えています。ダイエットから摂食障害になるとしたら、それはその個人に問題があるからと言われてきましたが、そうとばかりは言えなくなってきています。

 美容のためのダイエットと摂食障害は切り離して捉えるべき、というのが専門家の意見だったわけです。「ちょっとくらいやせたいというのは女なら当たり前」とか、「ダイエットくらいでは摂食障害にならない、その証拠にダイエットした女性がすべて拒食症になっているわけではない」とか、「摂食障害はやせてきれいになりたいといった表面的な理由からではなくて、もっと深刻な問題なんだ」ということが必ず言われるんですね。もちろん、ちょっとやせたいと思ってすぐに摂食障害になることはないと思いますけれども、やせたいと願うのは女性なら当然だよね、という価値観を私たちは共有していて、それは確実に摂食障害を生み出す一つの社会的な基盤になっている、と私は思います。

 現象学者の鷲田清一さんが書いていらっしゃいましたが、ファッションについて研究していると、服とか、衣服というのは人間にとって非常に重要なものなんですけれども、その問題を扱うとうわべの問題、外見の問題、と軽く見られて、衣服について考えているというと〈見かけを気にする人〉〈流行に弱い人〉と見られるらしいんですね。私が話を聞かせてもらった摂食障害の経験をもつ女性たちの中にもそういった意識を抱いている人は少なくありません。つまり、「おしゃれがしたくてやせようとした私は自分はなんて愚かなんだろう」と言うんですね。そして、摂食障害になった自分を責めて、自己嫌悪し続けるわけなんです。外見の重要性って、だれもが認めているはずなんですけれども、一方で「見た目より中身」という、そういった言葉で実態がごまかされているような気がします。

「やせることによって、自分を受け入れてもらいたい」という気持ちは、自分の存在意義や自分のアイデンティティをかけた死活的な問題です。ダイエットを始めて、実際にやせると、とたんに服が選びやすくなった、周囲からも評価されるようになったということを、摂食障害の経験をもつ女性たちは口々に語っています。

 自尊心を奪われた自己が、やせることを通して再び他人や社会に受け入れてもらおうとしても、実際これはなかなかうまく行かず、むしろ自己嫌悪を強める結果に終わっています。そもそも、やせなければ受け入れてもらえないという状況が、その人たちを苦しめているからです。

 身体を加工したり、変容させたりすることには、新たな自己を創造して行く積極的な面もあると思います。でも、今の現代の女性が行なっているダイエットは、自分自身をいじめる行為という側面が大きいと思います。自分で自分の体に加える暴力、と言ってもいいでしょう。やせる達成感に酔いしれて、その行為にのめり込んでいってしまうのです。しかし、フッとこう自分がやっていることに気づいた時に、なんて愚かなことをしたんだろうと後悔する女性もいます。やせることによって、結局は自分自身の存在を破壊しようとしていた。そんな自分が許せない、と言っている女性もいます。

 終わりに、ということでまとめますが、今回の私の話は摂食障害という現象の一局面を切り取ったものに過ぎないかもしれません。私自身は、それぞれの個人が語る自己の経験という、詳細な部分、ディーテイルに関心があって、聞き取り調査というのを行なってきました。そういう部分は理論的に捨象されてしまったり、なかなか表には出てこない部分なんですけれども、もしご関心をもたれた方がいたら、私の『女はなぜやせようとするのか』をお読みください。

 最後に、私自身は摂食障害という現象を、根本的には女性の身体がこの社会において肯定されておらず、女性自身のものになっていないことの一つの表れとして捉えています。本の中で私はこう書きました。「この社会において女性であるということは、かぎりなくその体におしこめられてしまうことを意味しており、しかもその場合の身体は、女性にとってパワーのみなもとであるというよりは、他者からの評価や攻撃や欲望の対象であるというかぎりなく疎外された身体なのである」。

 この異性愛中心社会の中で、女性の身体やセクシュアリティーは搾取され続けています。女性同士が自分たちの体について不安も劣等感も喜びも全部含めて語り合い、自分の身体を見、慈しんでいくことが必要です。


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