問題提起2◎シンポジウム・身体表現とジェンダー

女性の身体表現を『鍵』に読む

塩崎文雄 人文学部教授

 

今回の報告をお引き受けしたとき、すぐに思い浮かんだのが谷崎潤一郎の『鍵』という作品でした。そこで、もう迷うことなく、これでお話ししようと決めました。なぜ『鍵』でお話ししようと思ったのか。その理由は二つございます。 

一つは、谷崎が女性の身体表現に一貫して興味を抱き、描き続けてきた作家だからです。作中の女性たちが「お洒落に憂き身をやつす」とき、言いかえれば自己の身体表現に心を砕くとき、谷崎文学の真価は発揮されるようです。時・所・階層・境遇・年齢・性格、それらすべてに最もふさわしい衣装を作中人物たちは身にまとう。そこから作品の魅力は立ち上がる。たとえば『細雪』の冒頭は、三人の姉妹たちが着飾って音楽会に出かける。その際にどの帯を締めて行くかという悶着から、作品は始動する。幸子の締めようとした帯に、妙子が「中姉ちやんが息するとその袋帯がお腹のところでキユウ、キユウ、云うて鳴るねんが」とクレームをつけたので、「又箪笥の開きをあけて、幾つかの畳紙を引き出してはそこら辺へ一杯に並べて解き始めた」といった場面は、『細雪』の成否を決定しているようです。ですから、九二年に上野千鶴子・小倉千加子・富岡多恵子三氏の『男流文学論』でも谷崎は取り上げられています。もう少し補足しますと、中野重治が鴎外のことを「民主主義の最も優れた敵」と呼んだことがございますけれども、フェミニズム・ジェンダー論の側から言うと、谷崎は「最も優れた敵だ」と言っていい。この機会に、そうした問題を考えることができたらと思ったわけです。

二つ目は、ところが『鍵』はその衣装を身にまとわない、というか、むしろ着衣を剥ぎとるところに眼目があります。五六歳の大学教授の夫と、長年連れ添ってきた四五歳になる奥さん。二人の間には娘がある。娘は同志社卒とあります。短大卒なのか四大卒なのか分かりませんが、少なくとも二〇歳を越えるお嬢さんがいる。そういう妻の身体を隈なく見たい、という夫の欲望が明示されるところから作品は始まります。その意味で、『鍵』は夫婦の閨房生活――閨房というのは古い言葉でして、ベッド・ルームとか寝室でもよろしいのですが、私みたいに古い文学をやっているものは「閨房」と言うとそれだけで元気になるという事情がありますので、あえて「夫婦の閨房生活」と言いたいのですが、それを書いた作品です。妻のむき出しにされた身体を見ようとする行為に、どのような意味を読みとることができるか、というのが今日の問題提起でございます。

時間の関係もありますので、あらかじめ結論を申し上げておきます。『鍵』という作品は夫婦の閨房生活、性行為(そこには多人数性交まで暗示されているのですが)、それらを描くことに主眼はない。作品のモチーフは、夫つまり男が、妻つまり女の着衣を剥ぎとる身ぶりを過剰に演じることによって、逆に、女に文化規制としての性役割――しとやかで魅力的な女性はどうあるべきかといった文化の衣装を着せかけるふるまいをするところにある。一九五〇年代の文化状況ひいては男性の欲望のなかで、『鍵』は女性に与えられた文化規制の最も先鋭な表現だったと、九〇年代後半の現在、フェミニズム・ジェンダー論の立場から読み直すことができる、というのが結論でございます。

 

これからは資料に沿ってお話ししたいと思います。どういう時代に書かれて、どういう波紋を投げかけたかを見ておきたい。まずは、『鍵』の書誌について掲げておきました。

 『幼少時代』「文芸春秋」

     一九五五年四月〜五六年三月(計一二回)

 『鍵』「中央公論」

     一九五六年一月、五月〜一二月(計九回)

 『鴨東綺譚』「週刊新潮」一九五六年二月一九日〜

     三月二五日(計六回、未完)

『鍵』は五六年一月に第一回分が「中央公論」に掲載されます。その後、二、三、四月と中断し、五月から一二月まで連載される。三カ月休んだ背後に何があったのか。実は、『鴨東綺譚』という小説を「週刊新潮」に別途発表しておりまして、その間『鍵』を休載していた。その『鴨東綺譚』が中途で放棄されて、改めて『鍵』の連載が再開された。しかも連載を再開した途端に、「週刊朝日」が「ワイセツと文学の間――谷崎潤一郎氏の『鍵』をめぐって」(一九五六年四月二九日)という特集記事を組みました。

 

――君、谷崎さんの『鍵』(中央公論五月号)をよんだかい?/「ひどいね。どういうんだろうな。あれは」/――僕も、そう思ってるんだ。どういうんだろうね。/「これでいいのかな。何だか、ひどく悲しくなったよ」/国電の車中での二人の中年サラリーマンの会話である。/ほんとに「これでいいのかな」――文壇も編集者も。

 

ごらんの通り、ちょっと悪意のある、挑発的なキャプションが施されています。それに対する過敏な反応として、売春防止法案を審議中の国会の法務委員会で質問が出され、政府委員が「老人たちが文芸の名のもとにああいういたずらをすることについて私は遺憾に思う」と答弁する。さらには新聞に投書が相次ぎ、『鍵』はにわかにスキャンダルとなって行きます。と申しますのも、この年五月二四日に売春防止法が公布されるという社会情勢があった。また、前年に石原慎太郎の『太陽の季節』(若者がペニスで障子を突き破る場面で一躍有名になった作品です)が世間を騒がせた。あるいは、チャタレー裁判の第一審判決が翌春に出るということもありました。後年(五七年三月)のことになりますが、チャタレー裁判の上告審の判決を掲げておきます。

 

要するに人間に関する限り、性行為の非公然性は、人間性に由来するところの羞恥感情の当然の発露である。かような羞恥感情は尊重されなければならず、従ってこれを偽善として排斥することは人間性に反する。

 

こうした情勢を背景に、老作家が夫婦の閨房生活を描くことに対して、ブーイングの声がにぎやかに起こったわけです。ブーイングについての感想はいろいろあるのですが、それに触れている余裕はないので、『鍵』と並行して書かれた『鴨東綺譚』の特色を押え、それとの対比によって『鍵』の問題を考えたいと思います。

大まかなところだけを申し上げます。『鴨東綺譚』は雑誌週刊誌のはしりであった「週刊新潮」の創刊号から六回連載されて、中絶します。この作品は疋田奈々子というアプレ女性(戦後現れて来た社会常識から逸脱した自由奔放な女性)を描こうとしたもの、もう少し言えばエキセントリックな女性の性的放縦を描こうとしたものです。ただこの作品は奈々子というヒロインに寄り添って書くのではなく、戦争中よその土地に疎開していて、戦後京都にやって来た乾夫婦が、京都という閉鎖的な土地にうんざりし、こんな偏狭な社会に、なぜ奈々子のようなエキセントリックな女性が生まれたのかを、京都の町でとりどりに囁かれるうわさを介在させることによって浮き彫りにしようとしたものです。

乾夫婦は京都に違和感を覚えます。その例を三つだけ挙げておきます。一つは京都人はつましいので、他人の余したおかずを食べるばかりでなく、仏壇のお供えものにまでしたというのが、夫婦が受けた異文化ショックの一つです。もう一つは、京都の女性は立ち小便をする。それも、戸を開けっ放しにして立ち小便をする。そのことにもショックを覚える。さらには、内にそうしたみみっちさ、あられもなさを抱えているのに、他人のうわさをするのが、また大好きときている。京都のそういう閉鎖的で偏狭な社会のなかで、PXに出入りしたり、ブローカーまがいのことをしたり、出入りの運送屋やら友禅の下絵書きやら中国人留学生やら「自分と階級を異にする社会の筋肉労働者の男性的な体格に好奇心を感じ」、彼らと次々に肉体関係を結んで行く「世にも珍らしい多情な女」を描こうとしたのが『鴨東綺譚』という作品です。

この作品はモデル問題の紛糾ばかりでなく、〈うわさの遠近法〉という方法的な限界もあって中絶し、谷崎は『鍵』に本格的に取り組むことになります。『細雪』の自作解説を挙げておきました。結論だけを申し上げれば、「本来あの小説はあの倍くらゐの長さにして、もつといろくな人物や事件を織り込み、醜悪な暗い方面をも描くつもりであつた」という「創作余談」にしましても、「実を云へばその頃の芦屋夙川辺の上流階級の、腐敗した、廃頽した方面を描くつもりであつた」という「『細雪』を書いたころ」にしましても、『細雪』の執筆動機を明かしたものというより、『鍵』を執筆していた当時の興味のありかを語ったものと考えられるということです。『幼少時代』は『鍵』と折り重なるように発表されたものです。早く『少将滋幹の母』で国経の老年の性を描いた谷崎は、『幼少時代』でも、月あかりのもとで見た「こんなにも年を取り、こんなにも貧乏をし、こんなにも色褪せた衣類を身に着けてゐる」中年の女性に「残んの色香」を見出しています。谷崎はおもむろに『鍵』の世界ににじり寄ろうとしていた、と言えるでしょう。

 

さて『鍵』という作品ですけれども、『鴨東綺譚』と対比していただくと、作品の特色がはっきりしてくるはずです。五六歳の大学教授の夫が書斎で、四五歳の妻が茶の間で、おのおの日記をつけている。夫の方は片仮名交じりの、つまり男文字の日記を、妻はひらがな交じりの女文字の日記をつけている。交換日記ではありませんで、それぞれは並行させられているのですが、夫婦は相手の日記を盗み読みする。そんなはしたないことはしないと強弁しながら、盗み読みをする。なおかつ、二人とも盗み読みされていることを知っているばかりか、盗み読みされることをひそかに望んでいる。そういう屈折した共犯関係――見る/見られる共犯関係のなかで、夫婦の閨房生活の記述のみが展開していく、というのが『鍵』の基本的な構造です。ちなみに玄人女性との性交渉、あるいは若い恋人同士のセックス場面が従来の小説になかったわけではない。荷風の『腕くらべ』などを思い浮かべていただければ、と思います。それに対して、正規の夫婦の閨房の営みを描いた小説は、それまでの日本の文学にはありませんでした。ですから、先の「週刊朝日」の例のように、まずは閨房描写の大胆さが取り沙汰されたり、顰蹙を買ったりするということがありました。

ところで、二人の性愛の物語というかたちで貫かれておりますので、『鍵』には外部世界が全く描かれません。大学の教師というけれども、何の教師かも分かりません。妻は何度か泥酔して人事不省に陥り、医者を呼んだりハイヤーで運ばれたりしますので、口さがない近所の人びとや同僚たちのうわさにのぼるはずなんですが、そのことも書いてありません。円地文子に非常に早い指摘(「婦人公論」五六年一一月)があるんですが、夫が脳溢血で倒れたときも、妻は夫の死後に訪れるはずの経済的危機について何の心配もしておりません。つまり、『鴨東綺譚』で書こうとした一人の女性を取り巻く外的状況といったものは、『鍵』では全面的に排除され、割愛されていて、「二人がどんな風にして愛し合ひ、溺れ合ひ、欺き合ひ、陥れ合ひ、さうして遂に一方が一方に滅ぼされるに至つたか」といった性愛の経緯だけが作品内部で紡がれています。

では、日記のなかで夫はどのように妻をまなざし、妻は夫をどう見ているか。夫は泥酔して人事不省に陥った妻を全裸にして、その身体を隅から隅まで見ようとします。なかでも「彼女ガ多クノ女性ノ中デモ極メテ稀ニシカナイ器具ノ所有者デアル」という記述は、当時の読者をびっくりさせるのに十分だったようです。にもかかわらず、夫は妻の身体になにものをも見出していません。さきほど、笠原さんが老いて行く、崩れて行く、あるいは変形して行く身体に注がれた視線をセルフ・ポートレートの発展のなかに見出して、そこにフェミニズム・ジェンダー論の新しい地平を読もうとされましたが、『鍵』の夫は妻の身体に老いとか崩壊とか変形とかいったものを何も見出しておりません。

 

而モ僕ノ想像ヲ絶シテヰタノハ、全身ノ皮膚ノ純潔サダツタ。大概ナ人間ニハ体ノ何処カシラニ一寸シタ些細ナ斑点、――薄紫ヤ黝黒等ノシミグラヰハアルモノダガ、妻ハ体ヂユウヲ丹念ニ捜シテモ何処ニモソンナモノハナカツタ。僕ハ彼女ヲ俯向キニサセ、臀ノ孔マデ覗イテ見タガ、臀肉ガ左右ニ盛リ上ツテヰル中間ノ凹ミノトコロノ白サト云ツタラナカツタ。……

 

人間は老いて行くにしたがって皮膚にしみや皺が現れてくるはずですけれども、この女性は子どもを産みながら、そして四五歳にもなりながら、「僕ノ想像ヲ絶シテヰタノハ、全身ノ皮膚ノ純潔サダツタ」「臀肉ガ左右ニ盛リ上ツテヰル中間ノ凹ミノトコロノ白サトヰツタラナカツタ」と言われています。妻の身体は〈成熟する身体〉や〈産む身体〉ですらなくて、「全身ノ皮膚ノ純潔」として固定的に捉えられています。固定的に捉えた身体に痴戯の数々を施したり、ポーラロイドで写したり、果ては娘の許婚を掛け合わせたり、自分の嫉妬を煽るさまざまなシチュエーションを実行に移していきますが、ついに妻の身体自体を見届けることがないというのが、夫のまなざした妻の身体ということになります。

それに対して、妻が見た夫の身体は、なかなかに秀逸です。

 

あの遠い昔の新婚旅行の晩、私は寝床に這入つて、彼が顔から近眼の眼鏡を外したのを見ると、途端にゾウツと見慄ひがしたことを、今も明瞭に思ひ出す。(略)夫の顔は急に白ツちやけた、死人の顔のやうに見えた。(略)その肌理の細かい、アルミニユームのやうにツルツルした皮膚を見ると、私はもう一度ゾウツとした。

 

『男流文学論』で富岡多恵子が「それにしても、なんでインテリの男性というのは色気ないの?」と述懐して、三人で大笑いしている箇所があります。ここでも、インテリの大学教授は、地位も名誉も知性も経済的能力もすべて剥ぎとられた、初老の貧弱な身体と気味悪い皮膚をもった存在として冷酷に見られています。ことには、彼が脳溢血で倒れた後、睾丸を割り箸でこすって麻痺の度合いを調べる。そのとき妻は、夫のガニ股の向こう側にある〈醜い身体〉を冷酷に見据えています。

 

蛍光灯の明るさの下で夫の下半身が露出されたので、二人はハツとしたらしいが、私の方が一層極まりが悪かつた。私は自分がつい一時間前まで、此の人の此の体を自分の体の上に乗せてゐたと云ふことが、何だか信じられない気がした。(略)私のことをガニ股だと云ふが、彼のガニ股は私どころの段ではないことが、かう云ふ姿勢で臥かして見ると、改めて合点された)それから児玉さんは、病人の左右の脚を一尺五六寸程の間隔に開いて、睾丸がよく見えるやうにした。(略)右の睾丸はゆつくりと鮑が蠢めくやうに上り下りの運動をするが、左の睾丸はあまり運動する様子がなかつた。

 

かてて加えて、妻が日記に没頭しているうちに、いつの間にか夫は死んでしまっていまして、「『死んだのだ』――私はさう思つて傍へ寄り、手に触れてみると、冷たくなつてゐた」と記す。これは『ボヴァリー夫人』の末尾とそっくりなので、きわめて冷酷な写実と言えるでしょう。要するに、夫は妻の身体にほとんどなにものをも見ず、妻は夫の貧弱な身体を冷酷に見届けていますので、妻と夫の関係を勝ち負けで言うならば、妻が勝っているに決まっている。この夫婦の言う「性生活の闘争」も妻の勝利に決まっている。時間もありませんので、そこは端折って結論だけを申し上げておきます。

 

さて、資料の〈脱がせること/着せること〉というところをごらんください。夫は一方で妻の着衣を剥ぎとる反面、夫は妻に言葉のシャワーを浴びせかけています。

 

古風ナ京都ノ旧家ニ生レ封建的ナ空気ノ中ニ育ツタ彼女ハ、今日モナホ時代オクレナ旧道徳ヲ重ンズル一面ガアリ、或ル場合ニハソレヲ誇リトスル傾向モアルノデ、マサカ夫ノ日記帳ヲ盗ミ読ムヤウナ司ハシサウモナイケレドモ、シカシ必ズシモサウトハ限ラナイ理由モアル。

 

モトく僕ガカウ云フ司ヲ書ク気ニナツタノハ、彼女ノアマリナ秘密主義、――夫婦ノ間デ閨房ノ司ヲ語リ合フサヘ恥ヅベキ司トシテ聞キタガラズ、タマく僕ガ猥談メイタ話ヲシカケルト忽チ耳ヲ蔽ウテシマフ彼女ノ所謂「身嗜ミ」、アノ偽善的ナ「女ラシサ」、アノ態トラシイオ上品趣味ガ原因ナノダ。

 

見られる通り、「古風ナ京都ノ旧家ニ生レ」とか「封建的ナ空気ノ中ニ育ツタ」とか「時代オクレナ旧道徳ヲ重ンズル一面」があるとか「アマリナ秘密主義」とか「彼女ノ所謂『身嗜ミ』」とか「偽善的ナ『女ラシサ』」とか「態トラシイオ上品趣味」等々、夫は妻に〈女らしさ〉のレッテルを性急に張り続けます。言葉のシャワーというゆえんです。要するに、夫つまり男は、妻つまり女の着衣を剥ぎとる代わりに、あるいは剥ぎとる身ぶりを過剰に演ずることで欲情する以上に、妻に〈女らしさ〉という性役割を着せかけることを欲望しているというのが、夫の言説の基本的なモチーフということになります。

ひるがえって妻の方です。「女はいつまでもあがらない、あがりたくない」とは笠原さんの発言ですけれども、『鍵』の妻は自己の自然な身体的欲望を「私の淫蕩は体質的なもの」とか「限りなく旺盛なる淫慾」とか「極度の淫乱」とかいう過激な言説によって方向づけています。夫が暗黙のうちに欲望する〈色情狂〉とでも言うべき規定をそのまま肯定していると言っても同じことです。さらには、「古い貞操観念」「因襲的な形式主義」「厳しい儒教的躾」にも縛られる。セックス自体に関わって言えば、「不倫」「堕落の淵」「貞操を汚す」あるいは「最後の一線」(「最後の一線」なんて古い言葉ですね)、そういう言葉を乱発するかたちで、妻は夫に張りつけられたレッテルの範囲内でふるまおうとします。

 

私は夫を半分は激しく嫌ひ、半分は激しく愛してゐる。私はほんたうは性が合はないのだけれども、だからと云つて他の人を愛する気にはなれない。私には古い貞操観念がこびり着いてゐるので、それに背くことは生れつき出来ない。(略)さう云はれると耻かしいが、しかし私の淫蕩は体質的のものなので、自分でも如何ともすることが出来ないことは、夫も察してくれるであらう。

 

まとめて申しますと、妻は夫の文化的視線を自己の本然の姿とみなすことで自分のあるべき姿――「貞女の道」「婦人の亀鑑」を学習し、身体の内部にストックして行く。言いかえれば、妻の身体的欲望という〈自然〉は、妻の性役割への欲望という夫の〈文化〉に馴致・回収されるわけです。〈脱がせること/着せること〉のサブタイトルを〈薫育の物語〉としておきましたが、〈薫育〉という概念は、そうした文化装置を逆照射してみようとする試みです。渡辺淳一の『失楽園』や川島なお美が主演するというので前評判もかまびすしい映画『鍵』が流通し、消費されている九〇年代後半の現在、そういう薫育・馴致の物語として『鍵』という作品は読めるのではないか。大急ぎで申しますと、五〇年代にアプレとして立ち現れてきた女性たちの性風俗現象に谷崎は一方で触発されながら、もう一方では〈女のあるべき姿〉という文化規制を『鍵』のなかで再構築している。そういうイデオローグとして谷崎は機能したのではないか、というのが結論でございます。

結論のところは大急ぎで申しましたので、理解の便宜のために図版を入れておきました。夏目房之介の『男女のしかた』からの借用です。夫もしくは男の欲望を、妻ないしは女が獲得し、体現して行く――自分の身体を男性の文化規制に馴致して行く。そういう典型的な例がここには示されています。こうした知見を参照することによって、『鍵』の読みは新たな地平に向けて開かれるように思われます。


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