◎シンポジウム・身体表現とジェンダー

企画の趣旨

井上輝子 人間関係学部教授

 

 今日、司会をさせていただきます井上です。表象文化系の中のフェミニズム・ジェンダー研究会の代表をしております。

 今日のシンポジウム《身体表現とジェンダー》企画の趣旨などは、皆様にお配りしてありますチラシに簡単にまとめてありますが、チラシだけではお分かりになりにくい方もおいでと思いますので、開始にあたって私の方から、一言このシンポジウムの趣旨をお話ししておきたいと思います。

 特に《ジェンダー》という言葉は、聞き慣れない方もいらっしゃるかと思いますので、そのことからお話しします。ジェンダーとは一九六〇年代末以来のフェミニズム運動の学問版として始まりました女性学の中で生まれてきた言葉です。従来しばしば、男女は生まれつき身体の形や機能が違うのだから、その振舞いや役割が違うのは当然だと考えられてきましたが、しかしよく考えてみますと、生殖機能を除いては男女に特別の違いがあるわけではない。傾向性はあるとしてもそれ以上の違いはない。女はおしゃれに関心があるとか、男はスポーツ好きとか言われたり、あるいは夫は稼いで妻は家事・育児をするといった具合に性別で違う役割が割り振られたりしますけれども、それも歴史的、社会的に変化してきたことです。そういうことが段々に分かってくる中で、社会的、文化的につくられた性別を指す言葉としてジェンダーという概念が作り出されてきたわけです。また、男女の違いを違いとして認識する、男女の肉体の差異というものを違いとして意味づけていく、そういう物の見方自体を ジェンダーと呼ぶ、といってもよいかと思います。

 とはいえ、男らしい身体とか、女らしい容姿とか振るまいとかについては、社会的にかなりの人びとに共有されているものがあります。その結果として身体表現には、ジェンダーが影響を及ぼしているわけです。日常的な身体表現として女性は化粧をしたり、スカートをはいたりするわけですが、男性はそういうことはしないことになっているわけです、一般的には。そしてまた、さまざまな芸術表現の中でも、例えば近代の絵画や写真において、しばしばヌードというものが登場しますが、そこでは主には女性のヌードが描かれるのであって、男性は描かれない、という違いがあるわけです。テレビのCMや街頭の広告にも、しばしば女性のヌードが使われますが、「きれいだ」と見入る男性の横で、「不快だ」と目をそむける女性が多いのも事実です。

 このように身体表現には、誰が表現するのか、誰を表現するのか、またそれを見るのは誰なのかをめぐって、ジェンダーによる差異と確執があります。「見るのは男で見られるのは女」という関係が芸術表現においても、日常生活においても、あちこちで見受けられます。女性アーチストたちは、伝統的な「見る/見られる」関係への違和感をどのように表現しつつあるのか。男性作家は女性の身体をどう表現してきたのか、その表現は歴史的にどう変化してきたのか。「見られる」存在として自分を意識せざるをえない女性たちは、自分の身体イメージをコントロールしようとして、どのように格闘しているのか、といった話を切り口に、身体表現とジェンダーの問題を考えようというのが、今日のシンポジウムを企画した趣旨でございます。

 きょうは、このシンポジウムの紹介用チラシやポスターのために、ジョージア・オキーフの写真を提供して下さった東京都写真美術館の学芸員笠原美智子さんと、摂食障害体験者へのインタビューをもとに『女はなぜやせようとするのか』を著し、昨年度の山川菊栄賞を受賞された本学非常勤講師の浅野千恵さんをお招きし、さらに本学教授で、物語研究会とフェミニズム・ジェンダー研究会のメンバーでもある塩崎文雄さんに、問題提起をお願いしております。前半で三人の方から発表をしていただき、後半で討論という形にさせていただきたいと思います。


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