研究活動報告


共同研究・モンゴルの変容する社会と文化の諸相

 この研究は日本私学振興財団および本学法人の資金的援助のもとで一九九五年度から三年間にわたって行なわれる共同研究で、メンバーは八人(本学専任教員七人、兼任講師一人)からなっている。各人の分担は次のとおりである。

三橋修  研究代表者
針生一郎「脱社会主義化のなかでの文化変容」
松枝到「モンゴル人の宗教意識」
鈴木勁介「モンゴル人社会における境界・境界意識」
篠原睦治「モンゴル社会における老若者・障害者」
ロバート・リケット「遊牧社会における「近代化」― 農耕地化地域の社会的変容」
フフバートル「モンゴル ― 分断民族の言語問題」
劉孝鐘「モンゴル ― 分断民族の民族意識 ― モンゴル人社会のなかの少数民族」

 実地調査を中心とし、全体としての研究成果発表は、研究会での中間発表およびメンバー各自の判断による個別発表をはさんで、三年間の研究期間が終わったあとにまとめてなされる予定である。

研究の目的

 モンゴル民族はモンゴル国、中華人民共和国、ロシア領内と大きく三つの地域に分散して生きている。しかも、彼らがマジョリティであるモンゴル国は、今脱社会主義化に向かっている。彼らがマイノリティである中国に於ても、いわゆる「改革・開放」路線が始まっている。ロシア領内のモンゴル系諸族も、新しい流れの中にいるマイノリティである。このように分かれているモンゴル民族は、今日どのようなアイデンティティを持っているのであろうか。しかもモンゴル国は、歴史上はじめての、脱社会主義化という人類が全く未経験な変化を生きている。こうした現状の中で何が変容し、何が求められ、どのようなアイデンティティが分断民族としてのモンゴル人たちに存在するのか。こうしたモンゴル人社会・地域の現状を知り、私たちが新しい歴史の一頁から学ぶことこそが研究の目的である。

研究の計画

 研究目的を達成するために、私たちはまず、モンゴル国の脱社会主義化の生活実態とその変容のあり様を明らかにすることから始めた。モンゴル国及び中国内蒙古自治区フフホトへの調査を平成七年七月から八月にかけて行なった。この調査では、首都ウランバートルを中心に様々な人々にインタヴューを行なうと共に近郊の牧民の生活実態の調査も試みた。こうしたモンゴル国の調査を通して、今後に行なわれる各地での調査結果と比較する基準とすることもねらった。その過程で、特にフフホトに於て基本的な文献を収集することも目的の一つとした。

 同時に初年度には、ロシアのブリヤート共和国に近い北部工業都市を第二の調査地域として選定し、訪問調査を行なう予定であったが、交通事情などの理由により計画を変更した。そこで、当初平成八年度に行なう予定であった中国東北部及び内蒙古地域のモンゴル族及び朝鮮族の集中居住地域の調査を平成八年三月に行ない、モンゴル族などの移住・定住化の現状を知ることに計画を変更した。私たちは、民族教育の実情を通して彼らの現在を知るように努めつつ、可能な限り、村の生活者へのインタヴューを試みた。

研究の成果

 すでに述べたように、初年度の現地調査を二回に分けて行なった。今後数回の現地調査を予定しているので、安易な総合を試みずに、ここでは、現地調査毎にその成果を報告する。

(1)モンゴル国現地調査

 この調査では、出来るだけ自由なインタヴューを通して、現状を知るように努めたが、以下のような三点に焦点を絞って結果を述べよう。

(イ)モンゴル文字の復活とナショナリズム:脱社会主義化の中で急速なモンゴル文字の復活がはかられたが、九五年段階では、一○年計画での復活という、緩やかな復活政策に変更されていた。キリル文字を知らない子供世代とモンゴル文字を知らない大人の世代の間に生じたギャップを、知識人層から庶民層に至るまで等しく危機と感じた結果であった。彼らは、新たな「文盲化」を恐れたのである。いずれの層に於てもこの緩やかな復活路線への変更が支持されていた。中でも注目すべきは、文字復活の急先鋒であった言語学者もまた新政策に賛成していることである。しかし、文字復活の穏やかさの底に、そうした形の上でのナショナリズムに惑わされることなく、確実な自民族の文化の復興を全ての人々が願っていることが率直に伝わってきた。歴史の研究に携わる学者あるいは知識人たちの共通の関心は、これまでの公式的な歴史叙述にかわって、一九二一年革命以前の動向を自らの手にすることであった。

 チンギス・ハン(成吉思汗)は、今では誰でも口にすることの出来る名前となっていた。とはいえ、そこに性急な大モンゴルの復活の如きナショナリズムを見ることは出来ない。内モンゴルの同胞への関心はそれ程高くはない。隣国の同胞の動きよりも、大国としての隣国の動向が、モンゴル国へ悪影響を及ぼすことへの危惧が上回っていると言ってよかろう。

 行政に携わったり、あるいはそこに近いところで仕事をしている人々の主要な関心は、以上のような文化的な側面に加え、脱社会主義化によってもたらされた基幹産業の不振、外貨獲得の方策の乏しさに向けられていた。こうした経済的な基盤の脆弱さは、行政組織そのものの保持にも影響を及ぼそう。

(ロ)生活実態:基幹産業の不振は、都市生活者層に於ては失業と治安の悪化(日本よりは良いが)という形で実感されている。一方、牧民たちにとっては、脱社会主義化は素直に喜ばれている。つまり、社会主義時代の分業型飼育ともいえる一種類の家畜のみの飼育に替わって、従来通りの牛・馬・ヤギ・羊の多種家畜同時飼育はモンゴル高原の自然の生態にかなったものであるため、牧民は早速伝来の放牧形態を復活させた。同時に家畜の私有化は、明らかに保有家畜数の増加をもたらしている。端的に、彼らが家畜を以前よりも大切にするようになったのである。この傾向は、純粋の放牧を行なっているゴビ地方に於ても変わらないと、インタヴューした都市近郊酪農家は言っていた。都市近郊酪農家は、牛乳 ・チーズなどの換金によって現金収入も安定しており、都市住民の生活よりも自然な形で脱社会主義化を受け入れている。

(ハ)教育問題:各階層の人々がおしなべて「教育の伝統」に触れる。彼らにとって教育の高さあるいは識字率の高さは、社会主義時代からの誇りであり続けている。この点は、彼らのアイデンティティの一要素と言えよう。それだけに、急激なモンゴル文字の復活が世代間の対立を生んだり、不必要な識字率の低下に繋がることを恐れ、穏やかな政策への転換にコンセンサスが得られたのである。また、脱社会主義化が教育への情熱を衰えさせることにも、多くの人々が危惧を表明した。また、これまでは旧ソ連圏内に留学先が限られる傾向があったので、知識人の中には、日本を含めたより広い世界へと目を向けさせたいと考える人々がいる一方で、牧民の中には復活された牧畜業に専念するあまり、教育への情熱が減少している傾向も見られた。また基幹経済の脆弱さは、現在では諸物価の高騰となっており、小学校の先生の現行給与水準では、生活がおぼつかなくなっている。これもまた教育を脅やかす一因である。私たちがウランバートルを訪れた時、小学校の先生たちはストライキに入っていた。詳しく述べる余裕はないが、訪れた小学校の生徒たちの立居振舞には、確かな教育の伝統が感じられた。

(2)内蒙古自治区と中国東北部の少数民族

 二回目の現地調査では、ハルビン近郊農村とそこにある朝鮮族学校、ホロンバイル盟ザラントン市チンギスカン鎮朝鮮族村及び朝鮮族学校、興安盟ウランホトの朝鮮・モンゴル両民族の村及び学校、吉林省前ゴルロス(郭爾羅斯)モンゴル族自治県など、学校訪問と村での生活調査を合体させた調査を行なった。二つの少数民族にわたった調査であったが、この成果を一括して報告する。

(イ)中国の少数民族政策:中国の少数民族政策は、少数民族自体から高い評価を受けていたと言ってよい。実際に学校の成り立ちの歴史を聞くと、この政策があってはじめて、自分たちの言語を教える学校を持つことが出来たという。言葉の教育に加え、伝統的な音楽(歌・楽器)教育、ダンス教育などが積極的に行なわれていた。しかし、複数の少数民族学校を調査していると、この政策にもいろいろな問題点のあることが自ずと明らかになる。例えば、教科書そのものの自主製作は、行なわれていない。従って歴史に大きく名前の登場するモンゴル族などの歴史は、既製の教科書でも教えるチャンスがあるが、固有の言語を持たない民族などについては、教えられるチャンスが極端に減少せざるを得ない。また、自民族の自治区内では優遇措置の対象となる少数民族も、他地域へ移動すれば優遇措置の対象外になる。耕地の広がりは、こうした矛盾を大きくしている。

(ロ)モンゴル・ナショナリズム:中国内部のモンゴル族は、自治区をもっている事実と言語教育によって一体感を抱いている。しかし、モンゴル族はモンゴル国に対して、朝鮮族が南北朝鮮のそれぞれの国・地域に対して「祖国」あるいは「出身地」として抱くような感情を強く持っているとは言えない。ここに両民族の生活実感の相違が大きく見られた。また中国政府は、いわゆる「民主化」の活動家に対する警戒心と変わらない警戒心を、大モンゴル・ナショナリズムに対して持っていることは確かなようである。

(ハ)生活:今回の対象地域ではモンゴル族も定住化し、稲作を中心とした農業に携わっている。どこの地域でも米のうまさを誇っており、何よりも「改革・開放政策」は、こうした農業者に有利に働いている。つまり従来の一種の供出物以外は、都市部の工場などの需要者との間に、限定的ではあるが自由価格制度が働いて換金される。従って年収も目に見える形で上昇している。とはいえ、需要者とのネットワークを持っているか否かによって、現実は大きく変わるようであった。

研究の反省・考察

 モンゴル国に於いては、脱社会主義化によってかなり自由にインタヴューが可能であったが、都市生活者の生活実態にもう一歩踏み込んで調査が出来なかった。統計類に頼ることが出来ないので、実際に失業者がどのように職を見付け、生活の急場をどのようにしのいでいるのか、といった点にもっと迫りたかったが出来なかった。また、牧民も広範な地域に分散しているので、近郊酪農家に調査対集が限定されたのも残念である。どの地域にどのように長く止まり得るかが今後の鍵と考えている。

 中国に於ては、モンゴル国のようには自由なインタヴューが不可能である。お国柄である以上、これは仕方がない。また、庶民たち一人一人と喋っていると、彼らが自分の意見を表明しないのは、上からの政策的なものとだけは断定出来ないと考えられる。つまり、個性的に生きてはいるが、その生活を自ら外側から叙述する習慣をもっていないという感じを受けた。それだけに中国に住む人々に対するインタヴュー調査を如何に行なっていくのかも今後の大きな課題である。

研究発表

(1)松枝到(人文学部・助教授)「図像学の構造:モンゴルの国家シンボルを視る」『武蔵野美術』武蔵野美術大学、一九九五年

(2)三橋修(人間関係学部・教授「モンゴル国調査報告」『アジア研究』第一○号、和光大学、一九九六年

(3)劉孝鐘(人間関係学部・助教授)「内モンゴル自治区の朝鮮人」『季刊・青丘』 二二号、青丘文化社、一九九五年

(三橋 修)


              


アジア研究・交流教員グループ

 私たちは、一九八三年度から「アジア研究・交流」の活動として、研究会・講演・シンポジウムを開催し、雑誌『アジア研究』を発行してきた。報告・講演・執筆などには、本グループの内外、学内外、そして国内外の方々の協力を得てきた。この二年間に、ゲスト・スピーカーを(以下に見るように)何人かをお招きした。またメンバー各自の問題意識を述べあい、討論することも大切にしてきた。このような討論を通して、この間、モンゴル研究の重要性と展望が見えてきて、現地調査は日本私学振興財団の基金を得て、三年計画で一九九五年度より開始した。また「韓国・朝鮮」への関心は、朝鮮研究会と連動するなどして一貫して続いている。 

 このグループの活動は、一九九五年度をもって、『アジア研究』一〇号の発行とともに終わるが、その目的と内容は、一九九五年度に発足した和光大学総合文化研究所のアジア・地域部門に「研究・交流」の場を設けて、引き継がれていくことになっている。なお、一〇号には当初から今日までを振り返り、これからの展望を探る論文、エッセイなどを載せる。 

 さて、当初から本グループのメンバーで、折々に代表を引き受けられてきた安永寿延先生が一九九五年九月二二日に逝去された。また、この間の代表だった針生一郎先生が定年で退職された。お二人の「アジア研究・交流」の志を大切にしなくてはと、思いを新たにしているところである。

 この二年間の研究グループの活動の概要はつぎのとおりである。

一九九四年度

五月一一日 針生一郎「ジア民衆の美術と文学 ― モンゴル研究の提言」

六月一五日 ロバート・リケット「〈脱亜入欧〉から〈脱欧入亜〉への現在 ― 日本における人権問題のゆくえ」

七月六日 篠原睦治「日本社会における人権と権利、そして共生の現在」

一〇月一四日 三橋修「在日と在米のコリアンを考える」

一一月三〇日 金恩栄(非常勤講師)「在米韓国人のコミュニティを考える」

一二月一二日 金炳鎬(中国・中央民族学院教授)・中生勝美(宮城女子大学短大助教授)・劉孝鐘による講演とシンポ(人間関係学科と共催)「現代中国への視座」

二月一〇日 ブルネンドラ・ジェイン(オーストラリヤ・グリフィス大学助教授「オーストラリヤにおけるアジア研究の動向」

一九九五年度

五月二四日 李進煕「遼東の高句麗山城を歩いて ― 古代日本の渡来文化を考える」

六月一四日 中生勝美「ライデン大学主催『東アジア・東南アジアの植民地人類学』シンポジウムに参加して ― 満州の植民地政策と人類学」

一〇月四日 李由美(ゲスト)「終わっていない戦後 ― ウトロに生きて」(朝鮮研究会と共催)

一一月二二日 王守華(中国・杭州大学教授、本学特別研究員)「日本神道の現代的意義 ― 中国人の視点から」

一二月一三日 水上健造「アジア経済圏の形成と国際環境の変化 ― 戦後五〇年を迎えて」

(篠原睦治)



アジア・太平洋地域と日本の役割研究会

 わが研究グループは、アジア太平洋地域の経済発展をはじめ、この地域の学問や技術、文化などの向上に日本がどのような貢献ができるかに関心をもっている。しかし、現時点でわれわれ研究グループは、明確なかたちで日本がどのような役割を果たしているかについて、答を出しえていないのが実情である。

 今年も、アジアの経済・経営に関する問題が中心になった。不十分ではあるが、ODAの問題やスリランカの社会・文化といった問題を手掛けることができた。研究会ごとの要旨は、つぎのようである。

 第一回目の研究会は、朝日大学の根岸秀行氏を招いて、わが国の衰退産業である縫製業界を題材にして、この業界がなにゆえに海外生産移転に踏み切らなければならなかったのか、その生き残り策とそれにともなって生ず る問題などを検討した。

 もとより、縫製業は労働集約的で、かつまた衰退産業の代表格として知られている。根岸氏は、わが国のなかでも縫製業が極めて集中している岐阜県の縫製メーカーをとりあげ、それらのメーカーの海外生産移転と安価な労働力を用いた経営方法などについて報告した。報告のなかで現地工場に技術指導を行ない、そこから日本のアパレルメーカーに製品を納入させ、加工賃を支払う方法であるが、そうした方法は当初のやり方であって、今日では通用しない。今日では、海外製品の脅威にさらされており、その対応が重要なことが強調された。

 第二回目は、中国からの研究生(本学経済学部研究生)付春波氏による「中国企業管理者の評価基準」の問題について報告を聞き、議論した。とくに黒龍江省における事例をもとに、とかく主観的な評価に陥りやすいこの問題をコンピューター評価を利用した客観的な評価の可能性について検討した。付春波氏の報告は、当人が中国人であるだけに現地の生の情報と資料に基づいており、それだけに最近の中国の経営管理の在り方の勉強になった。報告後質疑応答が交わされたが、「大地の子」がテレビ放映中だっただけに中国に対する親近感を覚える報告だった。

 第三回目は、北京外国語大で講義を終えて帰国した樋口弘夫研究員による同大学での体験談を交えた報告で、中国では市場化が進行し、大学経営にまでも「市場経済化」の波が押し寄せていること、政府の大学に対する支出が削減され、北京外国語大クラスで約半減したこと、必要経費の補填は各大学独自の課題となり、北京外国語大ではそれを出版と留学生受け入れによって乗り切ろうとしていることなどが指摘された。

 また、同大学での宿舎の様子や北京市民の生活実態などを伺うことができたが、とくに樋口氏の成果は、労働問題に対する学生へのアンケート調査にあって、中国における労働・仕事についての考え方についての一面を明らかにした。それによると、職業選択にあたり重要視することは「賃金」と「実力の発揮」であり、日本人が「会社の将来性」にかなりこだわるのに対し、その点が淡白であることが指摘された。報告の後、アンケート調査の結果を中心に質疑応答を交わした。なお、アンケート調査については、『アジア太平洋研究』第二号に掲載されているので、それをご覧いただきたい。

 第四回目は、本学の渋谷利雄研究員によるスリランカ、とくに「都市コロンボの様相」を中心に文化、宗教、気候、農業、商工業の分野にまで報告がおよんだ。

 報告は、この島への紀元前三世紀における仏教伝来から第二次大戦後、そして今日にまで及んだが、一六世紀以降の支配者の移り変わりに関心を引いた。すなわち、最初一六世紀に熱帯産スパイスを求めてポルトガルが侵入したが、やがてオランダ人が軍事力と商業活動を拡大して、ポルトガル人の植民地を奪い、東インド会社を通してシナモン交易で膨大な利益をあげていた。一八世紀末になると、支配はオランダからイギリスにとって代わった。一八一五年には全島をイギリスが支配し、一八四〇年には本格的なコーヒー栽培をはじめたが、一九世紀末コーヒーの木に病気が蔓延するにおよんでコーヒー栽培は終わりをつげた。代わって「お茶の栽培」となり、おなじみのセイロン紅茶に通ずるわけである。そして、イギリスによる支配は第二次大戦後まで続いたが、一九四八年にようやく独立を果たし、独立後五〇年近くになるが現在なお内戦が続いているという。

 スリランカというと、「セイロン紅茶の国」程度にしか知らなかったわれわれに、この島についての多くの知識を与えてもらえた。報告後はスリランカの経済や政治問題などさまざまな問題に質疑応答がなされた。

 ODAの問題は研究会のかたちがとれなかったが、安田信之助氏と柳下正和氏による話をもとに論文として『アジア太平洋研究』第二号に掲載した。

(岡本喜裕)



関東大震災研究会

 関東大震災研究会は九三年度から研究活動をはじめて三年になる。一九二三年九月一日午前一一時五八分におこった関東大震災が都市〈東京〉にどのような被害をもたらしたのかを、あらためて考えてみようというのが本プロジェクトの趣旨である。しかしそれ以上に、「震災以前はそうではなかった」とか、「こうした現象が特に目立つようになったのは震災後のことだ」とか、震災という自然災害をきわだった結節点とみなし、くりかえし参照することによって、関東大震災はつねに、ある変化の原点として立ち戻る〈物語〉というか、日本の近代化の節目を形成する〈伝説〉として機能したということがある。

 震災は本当に、〈東京〉の政治・経済・社会・生活・文化・風俗等に顕著な変化をもたらしたのか。実のところは、そのような見え方をしているにすぎないのではないか。そうしたいささか乱暴で、素朴すぎるほどの疑問に立ち返ることから、本研究会ははじめられたのである。作業は研究会に参加する構成員の報告とディスカッションというかたちで進められた。

 まず手はじめに、政界人・財界人・官吏・軍人・学者・作家・詩人・画家・演劇人・宗教家・教育者・児童生徒学生・市民・在日朝鮮人を含めた外国人・地方在住者など、各界のひとびとを可能なかぎり網羅したかたちで、かれらの震災体験記および日記を整理することからはじめた。そこからは生々しい罹災状況と活発な救援活動、したたかな生活の立て直しと仮構された美談の出発、天譴論に代表される世論操作と朝鮮人虐殺・亀戸事件等の差別のまなざし、などが浮き彫りにされることとなった。

 また、西条八十・水谷まさる共編『噫東京』、詩話会編『災禍の上に』、東京市編纂『市民の歌へる』、アララギ発行所編『灰燼集』等各種の〈震災詞華集〉という枠組において、関東大震災が日本の近現代詩にどのような転換点として存在しているかを検討し、さらにはそこに出現した〈われわれ〉意識が震災の罹災体験に淵源すると同時に、以後の一五年戦争を遂行していく要因ともなったことが明らかにされた。

 つぎに、後藤新平の努力にもかかわらず、復興院から内務省復興局に格下げされるなかで進められた震災復興事業を、さまざまな視点から検討する作業を行なった。その作業の大要は以下の通りである。

 (1)阪神大震災後に木造家屋の耐震性の問題が声高に叫ばれたのと同様に、関東大震災後にも煉瓦造の構造的弱さというデマをふまえて、公の建築物の多くが鉄筋構造に変化したこと。あわせて、煉瓦製造業を始めとする産業界への震災被害の影響。(2)同潤会の手によってこころみられた不良住宅のクリアランスとしてのアパートメントの建設。(3)大正初期から昭和初年にいたる東京近郊農村(西郊の駒沢村および東郊の淵江村)における農村民の生活の変動と俸給生活者を中心とする都市民の西郊の〈田園〉への流入。(4)そこに押し進められている職住分離とうらはらにある〈モダン東京〉における盛り場の誕生と繁栄。(5)都市のインフラとしての区画整理・道路および鉄道の敷設・地下鉄の開通・上下水道事業の進捗(もしくは停滞)。(6)それらの一応の完成を告げる帝都復興祭の挙行。(7)東京における私娼街・風致地区の転変。(8)人口移動による市街地の拡大と一九三二年に行なわれた五郡隣接八二町村を併合しての〈大東京〉という行政区域の誕生などである。

 さらには、大震災を教訓にして整備されていった危機管理の問題を一九三三年の関東地方防空大演習にまで、帝都復興計画の特色を京城・新京における都市計画にまで、広げて考えてみた。要するに、関東大震災およびその復興事業を、一九二三年から四〇年ぐらいまでの日本が抱えた近代化の諸問題の一環として捉えなおそうとこころみたのである。

 なお、九五年度までに積み重ねられた関東大震災研究会のこれらの成果は、九六年度にそれぞれに文字化され、『関東大震災と東京(仮題)』(日本経済評論社、一九九七年三月刊行予定)として公刊されるはこびになっている。

(塩崎文雄)



現代中国研究会

 混沌を極める中国改革開放政策の展開を、それぞれの専門を持ったものがそれを前提に共同研究し、マクロ的総合的な現代中国像を考えていこう、そのために中国実地調査を大事にしようというのが、この研究会の基本的スタンスであった。

 現代中国という研究対象は大きくしかも今日的・未来的で、研究の目標や期限を立てにくい。しかし、プロジェクトチームは三年位をメドにテーマを据えて研究のまとまりをつけていくのが、研究所の基本方針であった。そこで、改革開放の最前線をいく上海を当面のテーマとすることにした。グループの代表者が留学した地であり、フィールドワークの根拠地にしているという理由もあった。

 まずそれぞれの手持ちの上海研究を出し合おうということで、七月一二日、山村睦夫が「戦前の上海の在華紡について」という報告を行なった。殆ど宣伝もしなかったため、出席者はメンバーだけに限られたが、東洋綿花上海支店の一九三〇年代の経営動向を詳細なデータに基づいて分析し、在華紡と財閥系商社(この場合三井を中心に)との相互関係を検討し、日本の大資本の位置を上海から照射するという報告は意欲的で興味深かった。

 年が明けて九六年二月三日〜八日、入試業務の合い間を縫って、上海・蘇州に第一回中国実地調査を敢行した。参加者はメンバーの加藤を除く四人、佐治・山村・劉・鈴木であった。

 上海ではまず資料集めをしようと、社会科学関係の専門書店と古書店を回り、沢山の資料を買い込んだ(これは全て私費で)。二月五、六日は蘇州に足を延ばし、鈴木が以前からコンタクトをとっていた蘇州工業団地開発公司を訪ねた。公司幹部及びシンガポールからの派遣幹部の案内で、古都・観光のメッカ蘇州に、突然建設が始まったばかりの大工業団地を視察し、現地の建設の中心メンバー達とその意味について意見を交換した。

 一万人の農民を強制移住させ、その住居を建て、農地をならして工業用地とし、すべて外国資本の工場を誘致して地元の労働力市場を開発しようという深●とも上海浦東とも違う全くの新方式で、江沢民主席が最も気に入り推進している計画だという。このための資本はシンガポール六五%、中国三五%と決め、シンガポールではその資金集めの公社が国家によって推進されている。そのための税関、外国人現地従業員のための住居リゾート、上海空港からの直通高速道路などすべて完成済み。あとは、まだ約二○〜三〇%だが、外国からの投資を待つのみという進行状況をつぶさに見せられ、説明された。

 上海に戻って浦東開発区の視察に残りの時間を使った。上海では幾つかの失敗があった。まず一つは蘇州の幹部が浦東開発委員会に紹介状を書いてあげようと言ってくれたのに、蘇州で偉い人に頼って面倒かけすぎたため、つい遠慮して書いて貰わなかったこと。本当に糸の切れた凧のようなもので、見たいところがどこも見れなかった。日本の上海進出企業の模範と言われる上海アイリスの工場さえ、日本人責任者は帰国中と言って門の中に入れて貰えなかった。

 二つ目は進出資本としては最大級の森ビルの上海駐在員と何でも話しますよと、アポイントを取ってあったのに、何回かのすれ違いの末結局会うのを諦めざるを得なかった。  その他小さな失敗は幾つかあるが、この二つは今後の調査旅行の最大の教訓となるだろう。それでも、南浦大橋と楊浦大橋を行ったり来たりして、アジア最大のヤオハンデパート上海支店、ハイテク開発区、上海っ子自慢のテレビ塔(「東方明珠」)等を見学し、上海の変化を大いに認識し、予定通り全員無事帰国した。

(佐治俊彦)



一九世紀末研究グループ

 このプロジェクトチームが発足した一九九五年は、ちょうど日清戦争後一〇〇年ということで、この戦争に関する研究が活発化している状況にあった。しかも日清戦争だけでなく一九世紀末の日本は、近代の政治・経済・文化の基本路線を形成した時期であった。さらに日本だけでなく、アジア諸国の近代化の開始、西欧先発資本主義国にとっては政策的大転換をせまられる時期、というふうに一九世紀末をとらえたならば、そこに興味ある重要な研究課題が山積している、という理由からこの研究会を発足させた。

 第二年、すなわち一九九六年を迎え、研究会内部の若干の討論をふまえ、「一九世紀末」の範囲には二○世紀初頭、すなわち明治三〇年代から四〇年代の前半までを含めるほうが世界史的に見た場合にも妥当であろうというふうに修正された。

 九五年度は研究会を三回、研究内容や方法論をめぐる意見交換が三回、また調査旅行は京都市を対象に一回行なった(参加者三名)。九六年度の第一回目の研究会の発表報告の一本はこの京都市への調査の成果をふまえたものである。

九五年度の研究会は次のとおり。

五月二四日 原田勝正(本学経済学部教授)「日本における軍歌の成立」

七月一二日 田中征男(本学人間関係学部教授)「夏目漱石における国家と権力」

一二月一五日 小野沢あかね(津田塾女子大講師)「一九〇〇年前後における廃娼運動」

実際に行なわれた研究会はこの三回だけで、参加者も毎回五〜六名程度であったが、全体を通じて次のようにまとめることができるであろう。

一、どの研究も実証性をゆるがせにせず、単なる思いつきや感想ではなしに、具体的な史料に基づいて考察し、その史料(資料)をどう解釈したか(読み取ったか)について、発表者は責任ある態度、立場を保持したこと。

二、同時に巨視的視点を見失うことなく、今日の我々が今なお解決を要している課題から目をそむけることなく、問題の所在を明らかにしつづけたこと。

三、にもかかわらず、個々の発表テーマが学際的な分野にわたり、それ故にこそ研究グループによる研究の意味があり、新たな学問的興味を呼びおこし、問題発掘の意欲を引き起こすような研究会であったこと。

 以上のように日本でいえば、幕末から明治期にかけての文化史・政治・経済史上の研究にとっても新たな進展をもたらす内容であった。

(橋本 堯)



スリランカ研究フォーラム

 スリランカは海のシルクロードの要所にあり、古代より仏教の一大センターとして知られている。また、シナモンの主産地であり、アラブ人やヨーロッパ人が交易のために来島した。インドとの緊密な関係、ポルトガル、オランダ、イギリスによる植民地支配を経て、この島には多文化・多民族社会が形成された。近年では、シンハラ、タミル間の民族問題がしばしば世界を震撼させている。

 日本でもようやくスリランカ研究が本格化し始めているが、一九八〇年代からの混迷状況は、我々研究者の活動を著しく困難にさせている。そこで、スリランカの文化・社会に関心をもつ研究者が集い、研究者発表、討論、交流の機会をもとう、というのが本フォーラムの主旨である。

 スリランカは南アジアの小さな国であるが、その歴史的・文化的な役割は大きい。スリランカという特定の地域に対する考察を深めつつ、ナショナリズムと民族問題、宗教の活性化、開発と社会変化、経済援助をめぐる日本との関係など、より普遍的で広がりをもつテーマに取り組んでいきたい。

 アカデミズムにおいても大国中心的な研究が支配的であるが、小国ゆえに見おとされがちなスリランカ文化の動態を見すえながら、アジアを世界をとらえる視点をつくり出していきたい。一九九五年度は二回の研究集会をもった。いずれも内外から研究者多数が参加し、盛況であった。

七月一日 

蟹沢慶子「僧院における《食》― スリランカと日本の場合」

ナンダナ・ジャヤコディ「スリランカの民俗芸能 ― コーラムを中心に」

一〇月二一日 

林 明「スリランカの民族紛争とタミル・ナードゥ州およびインド中央政府との関係」

アヌラ・ウィクラマシンハ「Sokari:Uda Rata Sinhala Folk Drama」

(澁谷利雄)


   


朝鮮研究会

 一九九五年は第二次世界大戦終結の五〇周年を迎えた年であった。朝鮮研究会は、その二年前の一九九三年度から「戦後」の意味やイメージ(社会・経済的混乱、米軍の占領政策、朝鮮戦争、講和条約など)をとらえ直すために、「戦後の日朝関係」というテーマに取り組むことにした。一九九三年度は、米軍の日本占領における対在日朝鮮人政策に焦点を絞って、日米両政府と占領軍(つまり、連合国最高司令官総司令部 ― GHQ/SCAPと米極東軍総司令部 ― GHQ/FEC)の役割について検討した。

 一九九四年度は、最新の占領研究の視点から在日朝鮮人の法的処遇を一般政策のレベルで考えながら、地域社会におけるケース・スタディーの準備も始めた。同年一一月一八日、立教大学の荒敬氏に「占領軍の治安対策と在日朝鮮人〜資料を中心に」という主題で報告していただいた。同氏は『占領史研究序説』(柏書房、一九九四年)の紹介をしながら、占領史の基本的研究方法、特に占領軍情報部と日本警察と在日朝鮮人との関係などについて報告した。一一月二五日には、占領史研究者の笹本征男氏に「占領下の日本政府の来往信文書にみる朝鮮人問題」について最新の研究情報を提供していただいた。同氏は、他の研究者とともに一九九四年五月に、外務省保管資料をマスメディアに公表したが、それは日本政府がGHQの指令(SCAPIN)に対して提出した英文で、なかに在日朝鮮人関係の資料が多く含まれている。いずれの報告も詳細かつ緻密な情報分析に基づく検討であった。

 朝鮮研究会は、GHQの対朝鮮人政策が地域レベルではどのように執行されていたか、在日朝鮮人のコミュニティーにはどういう影響を与えたかなどを検討するために、ケース・スタディーを開始した。一九九三年度仙台市に在住していた金興坤氏を訪問して、一九四八年一〇月に仙台で起こった朝鮮民主主義人民共和国の国旗掲揚事件と占領軍による弾圧について証言を聞き、貴重な第一次資料を複写させてもらった。

 一九九四年度は、「地域社会における朝鮮人と米国占領軍」というテーマに着手し、一〇月一〇日に、金興坤氏の夫人・鄭達先氏を招き、在日朝鮮人女性の立場から仙台での生活や諸事件について話していただいた。鄭氏は、朝鮮人連盟に関わり、二度にわたって強制退去の窮地に立たされたご主人や家族について、また国旗掲揚事件などについて話された。

 一九九五年度は一九九五年一〇月四日に、地域研究の一環として京都の李由美氏を招き、「在日朝鮮人として生きる」をテーマに、同氏の体験と、「ウトロ」(宇治市)という小さな在日朝鮮人コミュニティーが大手企業や不動産業者による立ち退き命令に反対する運動について報告していただいた。李氏は戦時中、強制連行された朝鮮人の「飯場」に端を発したウトロの戦後史と現在が、戦後五〇周年の今なお戦争責任・戦後補償問題を解き得ていないことを明らかにした。

 一九九五年一一月二九日には、遠藤忠夫氏(共産党の元宮城県委員長)と高橋正美氏(共産党の元同県朝鮮人対策部長)を招き、「占領期における共産党の在日朝鮮人対策」という主題で報告していただいた。二人は宮城県の朝鮮人連盟を指導する朝鮮人対策の最高責任者で、当時の共産党の朝鮮人観、国旗掲揚事件などについてくわしく報告した。

 一九九六年度は、「地域社会における在日朝鮮人と米国占領軍 ― 宮城県と山口県の場合」をテーマにして研究枠を広げ、宮城県と山口県の場合を比較していくことにした。一九四八年から一九四九年にかけて、両県における在日朝鮮人運動は全国レベルでGHQの対朝鮮人政策に大きな影響を与えた。そのため、在日朝鮮人の地域活動とGHQの朝鮮人認識・対応に焦点を当てて検討した。

(ロバート・リケット)



言語文化研究会

 言語文化研究会は、一九九三年秋に鈴木勁介教授の呼びかけで、賛同教員一四名で発足した。外部から講師をお招きして研究会を開催し、「言語の本質に人類のあり方の根幹を問う」という基本的立場にたって、言語と文化、言語と人間の問題を講演や研究報告の内容に沿う形で議論の積み重ねを行なっていこうというものだった。

 また、発足に当たり当研究会は、外部講師の講演や研究会員の研究報告とともに、若手研究者に発表の舞台を提供することも主要な課題とした。すなわち、専攻科生や和光大学を卒業して他大学の大学院に進んだ、言語と文化の問題に関心を寄せる学生たちにも積極的に参加してもらい、発表および研究会報告書への執筆を慫慂することで、若手研究者を育成することを事業内容の一つとしたのである。この点は、他の研究グループには見られないユニークな活動目標と言えるだろう。

 こうして初年度の一九九四年度は、六月二四日(金)と一一月二五日(金)にそれぞれ、関西外国語大学の南不二男教授(「日本の談話 ・文章研究」)と早稲田大学の西江雅之教授(「クレオル語のこと」)のお二人を外部講師としてお招きして研究集会を開き、また、その前座ともいえる学生の研究発表については、それぞれ日本女子大学大学院生の平澤かおりさん(「政治戦略としてのメタファー」)と獨協大学大学院生の蒲地賢一郎君(「A Semantic and Pragmatic Analysis of the NP be sure to Construction」)の二人にお願いした。

 九四年度に引き続き、九五年度も三月七日(木)の午後三時から和光大学総合文化研究所共同研究室にて、中川裕氏(東京外国語大専任講師)を講師としてお招きして「グイ語のクリック子音について」という演題でお話しいただいた。講師を引き受けて下さった中川氏は、東京外国語大ロシア語学科、東大言語学科をへて東大大学院で音韻論を修められ、アフリカ南部のボツワナ共和国、カラハリ砂漠一帯に分布するコイサン諸語(所謂ブッシュマンやホッテントットの言語)の中のグイ語・ガナ語のフィールドワーク(音声学・音韻論・文法の共時的な記述とそれに基づく語彙や物語等テキストの言語的な資料の収集)を一九九二年から毎年行なっている、新進気鋭の記述言語学者である。

 中川氏は、中部コイサン語族に特徴的なクリック子音(舌打ちとか舌鼓のような音色をもつ子音)に従来の音韻体系では知られていなかった子音組織が五二種類もあることを国際会議の場などで発表されており、「もしこの発見が正しければ、一般音声学の言語音の可能性を考え直さなければならない」(中川氏)ほどの大きなインパクトをもつ研究を行なっておられる。

 中川氏の調査結果によって、こうしてグイ語は五二種類のクリック子音と三八種類の非クリック子音、一〇種類の母音、六種類の声調型が音韻論的に区別される、世界で二番目に音素目録の多い言語であることが分かったのである。今回の講演でこのような「世界的な」発見の一端に触れることができたのは研究会のメンバーにとって大きな幸せであった。講演では、OHP、テープなどを使って未知の言語を対象とした言語研究(記述言語学)の実際、コイサン諸語に特有のクリック子音(特にグイ語のクリック子音)の知られざる内部構造について詳しくお話しいただいたが、あわせて現地での体験や言語を通して見たグイクエ=ブッシュマンの文化についてもスライドを交えて話を伺うことができた。

 特に、中川氏が五二種類のクリック子音の違いをミニマルペア(クリック子音においてのみ対立を示す一対の語)を使って発音の実演をしてくださったときは、その神業とも言える実演に参加者からは驚嘆の声がもれるほどであった。中川氏は、このように学問的に見て極めて貴重なグイ語ではあるが、今日絶滅の危機に瀕しているということを話されて講演を締めくくられた。

 絶滅の要因としては、話者人口が少ないこと、エイズ感染の危険性、無文字文化であること、ボツワナ共和国の公用語であるツアナ語による文化変容などを指摘された。これなどまさに言語と文化、言語と社会、言語と人間の諸相の中でも最も先鋭的な形で顕在化してくる問題と言えるだろう。

 九五年度は、年度末の慌ただしい時期に研究会を開かざるをえなかったが、杉山学長をはじめ参加頂いた皆様には心から感謝申し上げたい。残念ながら、九五年度は種々の事情で若手研究者に発表の舞台を提供することができなかった。一つには、言語研究に携わっている和光大学の卒業生の絶対数が少ないことがある。そのような事情からも、今後は学部学生も含めた発表者への舞台提供を検討していかなければならないと思われる。

 九四年度に引き続き、九五年度も研究会の報告冊子『言語文化』の発刊を予定しているが、それには本学出身の大学院生数名の論稿を掲載する予定である。

(松山幹秀)



象徴図像研究会

 一九八八年度に発足して以来、十年あまり活動を続けてきた本研究会は、本年度をもって幕をいったん閉じることとなった。この間、本研究会の研究報告集『象徴図像研究』も一一冊を数え、その最終巻にあたる今年度の報告集では、これまでの歩みを含めた全体をまとめるものにしたいと考え、現在その作業中である。ここには、フランス、イタリア、アメリカ等の研究者による寄稿を含め、これまで大学の内外から本研究会に参加してくださった方々の報告を収録する運びとなっており、また総目次を付して、活動の概要を伝えたいと思っている。

 こうした作業との関連から、今年度の研究報告例会は二回ほどにとどめ、これまでの研究成果の検討と今後の展開について討議するための研究会を前後五回ほど開き、さまざまな意見を交換した。

 また、象徴図像研究会として私学振興財団の助成を受けた「バローチスターン調査」についても、本年度からは文部省科学研究助成を受けることで持続しており、研究報告例会の最終回も、今年度のバローチスターン調査報告をもってまとめるかたちとなった。

 この両調査研究の連携については、すでに『和光学園報』に研究会としての鼎談を掲載しているが、その総合報告については、次々年度の科学助成最終年度にまとめたいと思う。

 本研究会は、古今東西のシンボルにかかわる問題群を、具体的なフィールドワークをおこないつつ、さまざまな立場から報告してもらい、議論を深めることを目的としてはじまったものである。美術、考古学、民俗学、人類学などの学際的なグループを構成し、その対象も先史時代のヨーロッパから、ニューギニア、アラスカなどの部族文化、あるいは各国の祝祭や祭祀の実態調査とそれにかかわるシンボルの意味、また文学や美術、宗教に関するシンボル研究など、きわめて多岐にわたった。

 その間には、カリフォルニア大学バークレー校のカルロ・ギンツブルグ教授などの参加を得ることもあって、何回かの刺激的な公開シンポジウムも開催でき、広く内外の研究者と交流する機会をもち、これこそが本研究会の最大の成果であったといえるだろう。今年度の報告集をまとめる作業のなかで、再認識したところである。

 今年度におこなった研究報告例会は、以下のものである。

五月二五日(土)桜井万里子(東京大学大学院人文社会研究科・教授)「紀元前五世紀アテナイのベンディディア祭について」

一二月七日(土)村山和之(本学人文学部兼任講師)「バローチスターン調査報告」

 なお、本研究会からは複数の研究会が派生的に生まれており、早稲田大学、立命館大学などとの新たな共同研究も計画されつつある。本学の研究グループとしては発展的に解消することになるが、その成果は今後も持続的にさまざまなかたちで芽吹いてゆくことと思う次第である。

(前田耕作)



フェミニズム・ジェンダー研究会

 一九六〇年代末以来のフェミニズムの新しい波は、欧米諸国や日本のみならず、「国連女性の十年」を経て、今や全世界の関心事となっている。第二波フェミニズムと呼ばれるこの動きは、単に男女の社会的不平等ならびに性別役割分業を変革する政治・社会運動としてのみならず、従来自明視されてきた男性中心主義、白人中心主義、西欧中心主義等に基づく「近代の知」そのものを問い直す、思想・文化運動として進展している。

 男女関係の諸現象は、セックス(男女の生理学的性差)よりはむしろ、ジェンダー(男女に関する文化的・社会的とりきめ)に由来する部分が大きいことに気づいたことも、第二波フェミニズムの大きな成果である。この観点から、男女関係の諸現象を分析・研究する女性学ないしジェンダー研究が七○年代以後、世界的規模で蓄積されてきた。

 本研究会は、フェミニズムとジェンダーについての、またフェミニズム・ジェンダー視点からの思想・文化・学問の潮流について、報告・交流・討論し合う場として九五年度に発足した。和光大学にはすでに「女性学研究試論」や「女と男」「フェミニズム文学批評」などの講座があり、またジェンダー研究を主眼とするわけではなくとも、そうした視点を含む講座がいくつもある。こうした講座間の連絡・交流を図ることも本研究会の目的の一つであるが、同時にこの問題について関心はあるけれども詳しく知るのはまだという方々をも含めて、フェミニズムとジェンダーについて、広く情報や知見を交流し合うことが本研究会の趣旨である。

 初年度の九五年度には、公開の研究発表会を四回開催したほか、図書館所蔵のフェミニズム・ジェンダー研究関係文献目録の作成をした。研究発表会の概略は以下のとおりである。

第一回 一九九五年五月二六日

井上輝子「フェミニズム・ジェンダー研究の歴史と現状」女性学・ジェンダー研究を生み出す母体となった第二波フェミニズムに遡り、女性学の歴史を二期に分けて概述。また「ジェンダー」「性役割」等のキー概念と主要な研究の流れを紹介した。討論では特に戦争とジェンダーの問題に論議が湧いた。

第二回 一九九五年七月一五日

吉岡睦子「どうなる?家族法改正」戦後の民法改正以来の家族法改正の経過を振り返った後、現在進行中の民法改正要綱試案の内容と問題点を、大部な資料を基に具体的に指摘され、家族法をめぐる論点が明確化された。

第三回 一九九五年一〇月二五日

萩原重夫・井上輝子「北京女性会議に参加して」世界女性会議の歴史と北京会議およびNGOフォーラムの概況を説明した後、NGOフォーラムに参加した萩原・井上から、それぞれ感想や問題点を出し合い、「人権」のとらえ方等をめぐって討論がなされた。

第四回 一九九五年一一月二九日

江上幸子「中国の女性事情とフェミニズムの現状」当代中国文学における女性像の変遷、中国のフェミニズムの動向を語った後、一九八〇〜九〇年代の中国のフェミニズム文学批評について紹介していただき、討論。第二波フェミニズムと中国のフェミニズムとの関係等について議論がなされた。

 各回とも、会場は和光大学総合文化研究所会議室で行ない、参加者は二〇〜四〇名であった。なお、「和光大学梅根記念図書館所蔵フェミニズム・ジェンダー関係文献目録」は、今回は和書についてのみ作成した。洋書については一九九七年度中には作成する予定である。関心のある方のご協力を期待したい。既刊の「目録」をご希望の方、洋書目録作成に協力していただける方は、井上または酒寄まで連絡いただきたい。

(井上輝子)



物語表現研究会

 一九九五年度は代表及びメンバーが多忙であったため、活発な活動はできなかった。

 四月一四日初会合を持ち、本年度は外部から講演者を迎えずに、「物語」というものについてのメンバーの共通認識を得ようということで、ジュラル・ジュネットの『物語のディスクール』をテクストに選び、杉本が主たる報告者となって読書会を何度か行なうことに決定した。そして第一回目の読書会を六月一六日に設定した。

 しかしジュネットのテクストに入る前に、欧米における「物語論」の流れを概括的に把握しておきたいというメンバーの希望により、杉本がロシア・フォルマリスム、とりわけウラジミールのプロップにおける物語の構造分析の系譜、その西ヨーロッパへの伝播をフランスを中心として紹介し、質疑応答を行なった。

 第二回目の研究会は一一月二二日。ジュネットの本の序論部(「物語」の定義の部分)を中心に読み合わせをしたが、このテクストが仏文学の作品(マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』)の分析を詳細に行ないつつ、物語を分析するための操作概念も抽出するという種類のものであったため、文学を専門としないメンバーにはとっつきにくかったこと、またプルーストを原文で読んでいないとわかりにくいということもあって、期待どおりにはかどらなかった。

 第三回は三月一二日に時間をたっぷりとって行なった。まず二時間半あまりをかけて杉本が『物語のディスクール』の概要を報告したのち自由討論をした。

 結局本年度の活動を通じて「物語」の概念そのものの共通認識が得られたとは言い難いが、ジュネットが本書の冒頭で弁別した「物語」という三つの用法の基本的有効性を確認した後、本書(一九七二年)以後の西欧におけるテクスト理論の進展の中で、「物語」を静態的・実体的に捉えることの危険性を確認した。

 一九九六年度は、文学・芸術以外の分野で「物語」がどのように機能しているのかを見ることにし、本年度の基礎的研究をメンバーそれぞれの思考の中で発展させるべく活動を継続する決定をして散会した。

(杉本紀子)



高等教育の総合的研究グループ

 略号「高総研」(入門研、授業研)グループは、一九八六年発足以来一九九五年度でちょうど一〇年となる。研究所の〈共同研究はプロジェクトごとに年限を決めて〉の原則に従い、九六年度末で解散の予定である。従って九五年度は、これまでの研究を総括公表することと、残る課題への見通しをつける作業の開始とが中心となった。

 本グループの研究領域は、発足以来一貫して二つある。一つは授業研究で、参観法を用いて大学授業の実態を解明し検討し合うと共に、各授業種別のあり方を総合して大学教育の全体像を求める作業である。もう一つは他大学訪問調査で、全国四年制大学を対象とした三度にわたるアンケート調査に基づき又は平行して、直接各大学を訪問して資料を求め情報を交換し、広く大学改革の志を促すことをめざした。九二年度以降は外国大学をも訪問調査し、日本の大学改革への側面からの材料を得てきた。

 授業研究の方は、これまでの参観記録が五〇余例となり、平行して行なった学生調査や新しい授業評価法開発にも成果が得られたので、これらを集成して単行本にまとめることが、九五年度の主要な仕事となった。

 まず全記録を読み直して主要参観例を合議で選んだ上で、プロゼミ、一般教育語学……と授業種別に章立てして分担執筆することにした。月一回の研究会で、執筆内容のレジュメ・原案を順に持ちより、皆で検討した。これまでも参観のたびにミニ研究会をして記録を読み合ったものの、今年のように集中して授業種ごとに具体例と理論の両面をつき合わせて論じ合ったのは初めてで、集大成への作業は予想以上の内容検討の深まりを生じた。また先述の通り本グループの授業研究は個々の授業を超えて大学教育の全体像に迫ることをめざしていたから、こうした検討の深まりは、この究極の大きな目標にわずかずつでも近づくことのできる見通しをもたらした。

 九六年一月には原稿が揃い、大月書店から単行本として公刊できることになった。そこで九六年五月に、『語りあい見せあい大学授業 ― 小さな大学の大きな挑戦』の書名で発売された。同年一〇月現在、新聞や関係雑誌、学会誌等で書評あるいは記事としてとりあげられている。

 本作りの作業と並行して九五年度自体の授業研究としては、前年度に続きプロゼミをテーマとし、但し学科を限定してその全プロゼミに前後期反復実施して、当学科の入門科目のあり方を考え合う一助とした。さらにこのうちの一プロゼミが、九六年三月に韓国体験学習旅行をした機会を活用して、その効果を観察測定する試みをした。これも研究所の方針でグループごとの研究報告書は出さないことになったため、後者の試行研究に絞って人間関係学部紀要にのせることにした。

 これまで通り国内外の両面で、大学訪問調査を行なった。国内は立命館大学で、私大改革のモデルともいえる的確多彩な諸施策を、詳細にわたり知ることができた。主要点は次の四項である。(1)既成の学科と調和しつつその変革を促す、総合的案インスティテュート・システム。(2)副専攻制、京都三二大学間単位互換制に代表される学習の幅と意欲を増す努力。(3)昼間主体で夜も学べる新システムに社会人三二〇人を受け入れ、短期のオープンユニバーシティ制と共に大学に生涯学習の機会を大幅本格的に導入。(4)全学協議会の最終確認書等から分かる、学生参加諸制度の実在。

 この立命館大学訪問の成果は、いま変革の機にある本学にとって参考になると判断した。そこで年度を超えた六月に、略装の報告書にして学内を中心に配布した。同年一〇月までに、参考になった、勇気づけられた等の感想が数人から寄せられている。

 外国大学の方は、アジアで日本と外国関係にあり王国という類似点もあるタイを選んだ。日本なら東大京大に当たる国立二大学を訪問し、急速な経済的社会的発展をとげつつある国で、大学が果たす役割を視察した。大学は社会を指導する力を保ってはいるが、人材を産業界に奪われる悩みを持っていること、私大の地位は低いことなどが分かった。さらに大学とは対照的に、スラムで義務教育さえ受け難い子供たちの教育施設を訪れて、日本人ボランティア等の話が聴けたのは予定外望外の収穫だった。今後の研究方向、研究所のAC系と関わり未来を望む実践的な研究の可能性が、ほの見えてきたのである。

(石原静子)



現代社会と学校研究会

 グループは現代学校改革の動向を検討するために発足した。研究会の活動は次のとおり行なわれた。

第一回 四月二五日 奥平康照「生活教育論再考・再生」

第二回 六月一三日 梅原利夫「カリキュラムにおける共通性と個性化」

第三回 七月一一日 秦葉文枝(和光中学校)「和光中学校のカリキュラム改革」

第四回 九月二五日 行田稔彦(和光小学校)「和光小学校の教育課題 ― 九四年度公開研究会基調提案を基にして」

第五回 一二月一三日 高橋廉(和光高校)「高校授業改革の現状」

 まず足下の和光学園各校の改革の現状を理解し検討することからはじめた。和光学園各校の実践の先進性は広く注目されている。たとえばその授業実践などを公開し、検討する公開研究会には、沖縄から北海道まで全国から数百名の人たちが参加する。そういう学校が身近にあるのだから、和光各校の教員にも恒常的に参加してもらった。そしてできれば、和光学園の幼稚園から大学までの教育研究を共同で行なう組織の基盤をつくり、全学園的な教育研究を発展させるための基礎となることはできないだろうかとも考えた。

1 最初に奥平、梅原が、いま学校・授業改革についてどのような理論的課題関心をもっているか、最近の自分の雑誌論文などを紹介しながら報告した。

2 和光各校の授業実践は、他の学校と比較すれば、先に述べたように先進的な例と見られている。しかしそれはすでに改革が終了して現代の学校の困難を乗りこえて進んでいるということではない。学園各校はまさに改革の途上にあり、困難と向きあっているのである。

 秦葉さんの報告は、現在進んでいる中学校カリキュラム改革論議についてであった。学校全体の教育のあり方やカリキュラムについての全校的な検討と論議は、中学では久しぶりであるとのことだった。全教員が参加して、全員が意見を述べながら、新しい中学校実践像を求めていこうとしているところが、和光らしい。子ども像、実践像についても意見の対立は多様であり、教師たち自身が相互に考えの違いの大きいことを知ることができたが、カリキュラム改革の実現は容易ではないことが良く分かった。

3 公立学校と較べれば、ましてや受験準備教育を引き受けていないとなれば、和光の授業とカリキュラム編成はかなり自由があるはずである。しかしこれまでの和光教育は、総合学習や特色ある行事などを除くと、内容面ではあまり大胆な見直しはしてこなかったようであった。いまそれが始まろうとしていることは、行田さんの報告からもうかがえた。

 現代学校の困難を引き起こしている大きな原因の一つに、教育行政の不当な学校支配、教育の自由の剥奪、過大学級の放置、受験競争などがあげられる。しかし和光の場合は、私学財政補助の不足から過大学級を抱えなければならないという困難はあるが、そのほかでは学校の困難を行政の責任に帰すことはできない。それにもかかわらず、授業が好調に進行し、子どもたちが自他ともに満足に育っているわけではない。困難は山積している。だからこそ、和光の教育の困難を探ることは、現代学校の一番見えにくい困難の原因を解明することにつながる。

4 和光高校は三年生の授業をほとんど選択制にするという大胆な改革に踏み切った。それにいたる経過を高橋さんが報告した。それが子どもたちの学校生活にどう影響をもたらすのか、今学外からも注目されている改革である。

 大学と高校以下との交流が少ないことはみんな知っている。しかし今回意外だったのは、高校以下もそれぞれの困難や課題について相互に必ずしも十分理解していないということである。その交流を活発にしなければ、各学校段階でのカリキュラム改革も大胆にできない。カリキュラム内容には重なりや連関があるのだから。

5 学園の外での新しい改革の試みをしている学校を複数のメンバーで訪問して共同討議することなどを計画していたが、それぞれのメンバーによる個別の訪問だけであった。みんな忙しいから、学校を異にする人たちが集まる日時を合わせるのが非常に難しい。

(奥平康照)



子ども文化研究会

 今年度は、ゼミ生有志と研究生に協力してもらい、昨年度積み残した『科学』教材のデータベース化を中心に活動した。具体的には昨年度に着手した小学四年生用の教材に加え、五年生用、三年生用の教材を加えたが、六〇年代から七〇年代前半の教材に散逸したものが多いことが次第に判明し、なかなか思うように進展しなかったのが現状である。

 なおデータベース化と並行して、昨年度行なった三回の討論会のテープ起こしを済ませ、月一回(毎月最後の土曜日)実際の教材を手にしながら、内容の検討を行なった。結果として、『科学』の教材の歴史的変遷と今後の課題(当初の「科学への期待」から最近の「科学離れ」への流れ)が確認できた。

 また『科学』が最盛期の七〇年代後半には毎月一〇〇万部を越えた巨大メディアに成長したこともあって、流通や経済、工業デザイン、商品の安全管理など子ども文化という射程を大きく越えた興味深い問題が見えてきた。なお、今回の研究活動は、当初より二年計画だったので、学研から借り出した資料は返却し、今後はデータベースの有効利用を考えていきたい。

 子ども文化研究会では、学習研究社の協力を得て、学年誌『科学』の「教材」研究を行なっている。『科学』は前身である『たのしい科学』(一九四七年創刊)、『科学の教室』(一九六〇年創刊)に続いて一九六三年四月に『○年の科学』と解題されて今日に至る月刊学年誌である。この『科学』は、子ども読者からは「ふろく」として認識されてきた「教材」が評判を取って、戦後の子ども文化に大きな役割を果たした。しかも、その三〇年を越す出版活動の動向は、戦後の子ども文化の史的展開のバロメーターとなるにもかかわらず、これまで本格的な研究が一切行なわれてこなかった領域である。

 初年度である今年度は、「教材」と子ども文化との関わりの全体像を歴史的に把握するため、「教材」開発に関わった歴代編集長や工業デザイナーを招いて討論会を開催し、並行して「教材」のデータベース化に着手した。

第一回討論会(聞き取り調査を兼ねる)

五月一九日 和光大学文学科資料室「六〇年代の学年誌『科学』の付録を考える」

講演者:柴田和夫氏(工業デザイナー)、渋谷一夫氏(元『科学』編集長)、不破政春氏(科学教材企画開発室長)

内容:六〇年代の『科学』の「教材」作りに直接携わった三氏から創刊当時の理念や「教材」作りの工夫や苦労、社会的要請、当時の子どもたちの反応、社会に与えた影響などが報告された。出席は教員、学生などおよそ二〇名。

第二回討論会(聞き取り調査を兼ねる)

六月一六日 和光大学文学科資料室「七〇年代の学年誌『科学』の付録を考える」

講演者:内田安茂氏(元『科学』編集部次長)、不破政春氏(科学教材企画開発室長)

内容:七〇年代の『科学』の「教材」作りに直接携わった二氏から「教材」作りの工夫や苦労、社会的要請、当時の子どもたちの反応、社会に与えた影響などが報告された。出席は教員、学生などおよそ二〇名。

第三回討論会(聞き取り調査を兼ねる)

六月一六日 和光大学文学科資料室「八〇・九〇年代の学年誌『科学』のキットを考える」

講演者:唐華徳氏(『科学』編集部局次長)、不破政春氏(科学教材企画開発室長)

内容:八〇・九〇年代の『科学』の「教材」作りに直接携わった二氏から「教材」の工夫や苦労、社会的要請、子どもたちの反応、社会に与えた影響、現在の「教材」の問題点などが報告された。出席は教員、学生などおよそ二〇名。

 現在、学研から借り出した「教材」(四年生向けを中心に約二○○点)及び映像資料などのデータベース化をすすめている。なお、九五年一〇月以降、隔週のペースで勉強会を行ない、三回開催された討論会をテープ起こしして、実際の教材の調査と並行してその内容を吟味する作業を進めている。

(酒寄進一)