研究報告

一九世紀末の日本と英国

原田勝正 経済学部教授


なぜ「一九世紀末」か

  ここ数年、二〇世紀が終末にさしかかって、「二〇世紀の検証」やら、さまざまな議論が論壇をにぎわしている。これらを見ていると、この一〇〇年の間に日本もまた一定の「世紀意識」というか、一〇〇年を区切りとする歴史意識をみずからのものとして持つようになったという感想が湧いて来る。

  たしかに、二〇世紀は、人類の歴史のなかで、マクロな宇宙認識からミクロな身体意識にいたるまで、かつてない認識分野を開拓した。また自然環境や社会システムについてもあらたな認識の立場が構成され、それはまた人間の生存のための権利意識のあり方にも画期的な段階を築き上げた。日本は、このような画期的変動の中にみずからを巻き込んで、いった。ほぼその前半は明白な加害者ないし侵略者として、その後半は、あらたな理念をかかげる一方で、依然として前半以来の基本姿勢を脱却することなく、「進歩と向上」を目指す「優等生」として、「大国」へのつよい執念を燃やしつづける力が大勢を占めている。

  こうして、二〇世紀のこの一〇〇年間は、日本にとっては、世界史の舞台の上にみずからを投じてきた時代であり、世紀末を迎えた現在この一〇〇年の日本の進路をふりかえり、その事実を確認する作業は、そのままこの一〇〇年の世界史の進行と結びつくのである。義和団事件にはじまり、日露戦争さらに韓国併合と、二〇世紀初頭の一〇年間に日本は一気に対アジア侵略の進路を突き進む態勢をつくりあげ、それはそのまま「一等国」として世界の「大国」への仲間入りを果たそうという目標に結びつけられた。それは明治維新直後に展開された富国強兵・殖産興業・文明開化政策の延長線上に定置された路線であった。「進歩と向上」を目指すその路線は、二〇世紀に入って一挙に世界史の舞台の上に展開されることになったのである。

  このような日本にとって、一九世紀末は、いわばこのような展開の準備段階として把握されるのではないか。その準備段階に、日本は、何を、どのように準備したのか。もちろん、あらたな世紀における全面的な展開を予定して準備を進めるという意識はなかったであろう。もともと西暦を基準とする世紀の意識など、当時どれほどの日本人が抱いていたかは考えるまでもない。たまたま二〇世紀初頭に世界史の舞台に踊り出す機会が重なったと見るのが妥当というべきである。

  しかし、とくに一八八〇年代後半以降の一五年ばかりの間に、日本の支配体制が選んだ進路は、彼ら自身がつねに不安に駆られ、危機意識にさいなまれながら、予想外というべき「成果」を彼らにもたらしたのである。

  こうして一九世紀末における日本の進路は、世界史への舞台への登場を目指す準備段階として、進行していったということになる。そして、それが、欧米世界における世紀末とたまたま時期のうえで符合していたこと、このことを「文明」史というべき視点をもとにして跡づけて見たい。そうした視点に立つ歴史に関心を抱いたこと、それがこの研究組織のそもそもの出発点となったのである。


日本における一九世紀末

  いま見てきたように、一八八〇年代後半以降の日本の進路は、明治初年に敷かれた「進歩と向上」の軌道をさらに前進させるという課題意識に立っていた。それは一面で「野蛮から文明」へのコースとして認識されると同時に、「被支配から支配へ」のコースとして認識されていた。明治日本の支配体制にとって、文明への道はそのまま支配への道を意味していた。百姓一揆・打ちこわしから世直し一揆に展開した民衆運動を利用しつつ権力を奪取した彼らは、権力奪取の過程でこれを弾圧し、その「根」となる民衆を、反政府士族とともに、文明化にさからう野蛮と位置づけ、その民衆を基盤として自由民権運動が社会的影響力を持ちはじめ、近代国家のあるべき姿を提示すると、文明化の主導権を確保するためにも、これを圧服する必要に駆られたのである。その圧服の過程に目途が立ったのが一八八五年であった。この段階で、彼らの文明化の体制保証としての明治憲法の草案は完成し、内閣は組織され、華族制度は実施段階に入り、これに引きつづいて皇室財産の確立によって、天皇制の政治的経済的基礎は完成期に到達した。

  そしてこの過程は、ペリー艦隊来航以来不平等条約による被支配からの離脱を目指す過程でもあった。一八六九年木戸孝允らの対朝鮮侵略論は、世直し一揆による危機回避の方策として主張されたものだったが、それだけでなく、そこには支配国家への目標がすでに据えられていた。そして、いわゆる征韓論、台湾への出兵、江華島事件とつづく一連の対外行動は「蝦夷地」を「北海道」と名付け、琉球を「沖縄県」とする一連の領土化作業と並行していた。自由民権運動の昂揚につよい危機感を抱きながらくり返された朝鮮におけるクーデター策謀は、政府存立の危機意識が深まれば深まるほど、緊急性を強めていったのである。

  このような支配国家への道は、一八八四年以降、とくに清仏戦争における清国の敗北を契機に、朝鮮から中国にその目標を拡張するかたちで進められた。不平等条約の改正交渉が難航するという状況のもとで、一方で鹿鳴館を代表とする欧化主義に文明化へのポーズを見せつつ、他方で、朝鮮、中国支配の実現による文明化の「実力」を見せ、それによって条約改正への足がかりをつけようとする姿勢はさらに強められた。一八八五年三月に発表された福沢諭吉の「脱亜論」は、この基本路線をそのまま支持したのである。

  一八八九年の明治憲法発布を前に、軍部は対清戦争の本格的準備に入り、参謀本部の派遣する将校による中国情報の収集、鎮台から野戦集団としての師団への改編、清国の巨大戦艦に対抗するための高速船の増備、小銃、弾薬自給態勢の確立が一八九三年を目途に実現された。これらの戦争準備はようやく芽生えた資本主義生産体制の軽工業生産水準をはるかに超える軍事産業部門の偏倚的発展をもたらしたが、それらすべてが文明化の名のもとに容認されていったのである。

  一八九四年八月イギリスの中立保障を最高のよりどころとして日清戦争は開始された。この保障は、条約改正への道をひらくという点もふくめて、日本の支配体制にとって一石二鳥の効果をもたらすが、もうひとつ、彼らにとっては、「文明国日本」の保証証明書の意味を持っていた。だからというべきか、福沢諭吉は、この戦争を「文明の野蛮にたいする戦争」と意義づけた。

  俗謡は「恨み重なるチャンチャン坊主」と、中国文化にたいする長い伝統的追随を一挙に逆転して文明的優越の地位に立ち、強い侮蔑の立場を歌い上げていった。このような俗謡も、かつて「オッペケペ」で民権論を鼓吹した川上音次郎の舞台「壮絶日清戦争」も、戦況を報告する錦絵も、それらはすべて日の丸から四方八方に光芒を放つ旭日旗を背景に持っていた。連隊旗、軍艦旗にデザインされた旭日旗は、この戦争を通じて新興「文明国」日本の象徴としてその存在理由を確立したのである。

  台湾割譲によってアジア最初の植民地保有国となり、老大国清国から三億円の「賠償金」を獲得した日本は、一九世紀末をまさに「旭日昇天」の時期として過ごしていく。条約改正はすでに目標の間に迫り、朝鮮支配の強化は通貨支配と鉄道建設によって実現を約束され、「三国干渉」によって手離した遼東半島の再奪取は、明治天皇みずからが伊藤博文にたいして実行目標として確認する。


いわゆる「世紀末」への挑戦

  「旭日昇天」の日本は文明国となったのか。伝染病は根絶の域に近づき、初等教育の普及率は向上の一途を辿り、衣生活における洋風化はその緒につき、東京の官庁、企業街の整備は急速に進む。しかしそれらは条約改正実現の手段とされるものが多く、とくに伝染病予防法や東京の中心街整備は文明国の体面保持を主な目標としていた。だから、伝染病患者は搬送から治療にいたるまで人権を無視され、東京の市街地には江戸にくらべてはるかに大規模なスラムが周辺部に拡大する。外に向かっては、日清戦争中の旅順(?)における住民大量虐殺事件にはじまり、朝鮮における閔妃殺害事件、さらに台湾支配における反抗民族の集団虐殺と、とうてい文明国とはいえない凶行が連続する。

  それでも日本は、文明国としての地位の確立に奔走する。義和団事件にさいして出動した八カ国の連合軍兵力二万の八〇%を出動させた日本は、軍紀の「厳正」を列国に誇示し、かつてアジア、アフリカ、アメリカで植民地支配に蛮行をくり返した欧米文明国の後継者としての立場を示した。日本軍将校の汚職などはたくみに隠蔽され、「極東の憲兵」日本の地位はゆるがないものとしてその声価を得た。そこには、かつての欧米諸国が植民地支配においてひたすらに追い求めた文明国の虚像に追随する「文明化優等生」日本の姿があったというべきであろう。

  しかも、かつての植民地支配の覇者には、しだいに疲労の色が濃さを増しつつあった。いわゆる世紀末現象は、その疲労の表白とも見られる。フランスにもイギリスにも、その疲労は蓄積されつつあった。イギリスは、ついに「名誉ある孤立」の地位を放棄するに至る。そのイギリスの孤立放棄の最初の相手国がほかならぬ日本であった。一九〇二年に結ばれた日英同盟は、「文明国」の地位継承という重要な事件であった。

  このような地位継承によって、日本は、あらたな文明国として、疲労を増し、世紀末現象を生みつつある欧米、とくにヨーロッパの「文明」にあらたな挑戦の立場を固めようとする。義和団事件のさい、北京の城壁にたどりついた日本軍の部隊長は、同時に城壁を登ってきてユニオン・ジャックの旗をかかげようとしたイギリス海軍水兵を城壁から突きおとし、指を傷つけてハンカチに日の丸を描き、これをかかげたという。そこには、単なる軍功争い以上の意味が含まれていると言うべきであろう。のちに旅順口閉塞戦で戦死する広瀬武夫小佐がモスクワ駐在中に柔道の手でロシア軍人を投げとばしたといったエピソードがある。それらは「旭日昇天」の「文明国」が、「疲労退癈」の「文明国」にとって代わっていく過程を示してはいないか。

  一九三〇年代前半からはじまる「日本回帰」の潮流、そして一九四一年度にはじまる「大東亜戦争」への布石は、すでに一九世紀末、二〇世紀初頭にはじめられていたのではないか。このように見てくると、日本の「挑戦」の内容は何か、その目標は、いったいどこに置かれていったのかといった問題意識が、少なくとも二〇世紀前半における日本の進路という時代のスパンを通視するかたちで生まれてくるのである。


世紀末問題への視点

 一九世紀末を考えたいという問題意識は、日本を通じて見てきたこのような推移の中から生まれてきた。すなわち文明開化以来の欧化主義が、鹿鳴館の狂燥を頂点として国粋主義にとって代わられていく過程は、そのような潮流の一典型と見られるが、しかしまた、そこに成立する国粋主義は、基本的な脱亜入欧路線を踏み外す方向をとるものではなかったこともうなずかれるのである。しかも、そこで唱えられる「入欧」は、場合によっては欧米を踏台として利用しつつ、欧米的近代を超克するという方向を目標として意識していたのではないかと考えられる。そこにこそ、尊皇攘夷論以来の「中体西用論」の本質的展開があったのではないか。

  このような論点を具体化するために、まず思想・文化といった分野から切り込んでみようということになり、一九九五年度には、導入文化としての唱歌から軍歌が生まれ、それが普及していく過程を、日清戦争期を中心に考え、また、和漢洋の文化を吸収した知識人夏目漱石の国字論を考え、さらに、「廃娼」という当初は多分に宗教的または慈善的動機から開始された運動が、女性の人権を中心に展開していく転回について考え、このようなテーマから、一面で一九世紀末におけるある特定の方向、とくに体制化の方向と、それとならんで起こってくる近代社会の走着の方向と、この二つの相克を考えてみた。

  一八九六年度に入ってからは、日本「精神」の結晶とされた「日本魂」の成立、都市近代化事業の中に天皇制を公式に持ちこんだ平安神宮の造営をまず取り上げ、さらに「帝国主義の疲労」を見せはじめたイギリスの問題をロンドンの下層社会に見るという試みを行なった。この第三の視点は、一九世紀末における日本のいわゆる都市下層社会の分析との対比を前提としており、前年の廃娼問題を継ぐかたちで、これまでの思想・文化の分野から社会の分野に一歩踏み入れるという混交視角の展開を予想するものである。もうひとつ、これに加えて、平安神宮造営期における京都の織物業を中心とする中小企業の経営と、そこにはたらく労働者の問題を取り上げる計画がある。それは、経済・労働の分野というべきか、一九世紀末から二〇世初頭にかけて日本社会の基盤に起こった変動を把握したいというのが、その趣旨である。

  多分に大風呂敷をひろげて収拾がつかなくなることを恐れてはいるが、いま述べてきたような日本の「挑戦」をひとつの軸に据えて、朝鮮、中国などアジアにおける変動と、さらにイギリスだけでなく、フランス、ドイツなどヨーロッパにおける変動も視野に入れながら、「世紀末」問題にたいするあたらしい視点の構成を試みたい。これが、わたくしたちの構想である。



研究報告

一九世紀末における大和魂の成立

 

橋本 堯 人文学部教授

 排外的で狂信的な〈愛国主義〉を煽った「大和魂」という概念は、いつごろ、どんな事情で成立したのかを明らかにするのがこの発表の目的である。残念ながら現在の研究段階では、江戸時代末期ごろの状況しかわからず、いわば「大和魂」の前史にすぎないことをお断りしておく。

 ともあれ、前記のような意味合いの「大和魂」はすでに日清戦争期には成立していたらしい。幼少年期の回想文学として名高い中勘助の『銀の匙』(後篇・二)にその状況が活写されている。

「それはさうと戦争が始まって以来仲間の話は朝から晩まで大和魂とちゃんちゃん坊主でもちきってゐる。それに先生までがいっしょになってまるで犬でもけしかけるやうになんぞといへば大和魂とちゃんちゃん坊主をくりかへす。私はそれを心から苦苦しく不愉快なことに思った。……」

 『日本国語大辞典』(小学館)の「やまとだましい」の項いうところの、「日本民族固有の気概あるいは精神。朝日ににおう山桜花にたとえられ、清浄にして果敢で、事に当たっては身命をも惜しまないなどの心情をいう。天皇制における国粋主義思想の、なかんずく軍国主義思想のもとで喧伝された」という定義はこの段階(一八九四年ごろ)で実体をなしていたように思われる。

 明治維新以前、幕末の資料として「大和魂」の成立にかかわって重要な文献資料は次の三つであろう。

(1) 武陽隠士なる人物による『世事見聞録』(一八一六年〈文化一三〉序)

(2) 会沢安の『新論』(一八二五年〈文政八〉序、一八五七年〈安政四〉刊行)

(3) 吉田松陰『孔孟余話』(一八五六年〈安政三〉著、一八七一年〈明治四〉刊行)

 (1)では「大和魂」を「武士の気象」「武士道の本体」などと言って明確に「武士道」と定義づけていることが注目される。しかも、「大和魂」は久しく衰微して「幽(かす)かに見ゆるばかり」の存在になっていたものを「神君様」(徳川家康)が幕府を起して再び興起させたものである、と主張する(同書七の巻〈日本神国といふ事〉)。〈武陽隠士〉はまだ武士道が地に堕ちたことを問題視するだけで、新しい政権構想は示していないが、この立場が下級武士の世界観から出発していることだけはほぼ確実と見てよいだろう。

 (2)は明確に天皇の権威の回復を訴え、これを中心とする「公武合体」的な権力の形成を主張し、そこへ向かっての国民全体の意思統一が重要であるという主張がみられる。しかも、「公武合体」的でありながら、その実質は明治の「藩閥政府」を支えるイデオロギーにも即応できる、という「近代的」性格を先取りしている。内容的には(3)をうわまわる過激なところもあるのではないか。

 (3)は中国の儒学の代表的古典「四書」の一つの『孟子』の吉田松陰独特の〈読み〉とそれに基づく想いをエッセー風に書き綴ってある。これも「公武合体」の立場から「孟子」に潜む〈易世革命〉の思想――徳川幕府権力の転覆の容認につながる――を回避しながら大筋としては(2)と共通の主張を述べている。だが、ここに見られる何よりの特長は下級武士の気概をふるい立たせ、国事に参加する意識をもたせようとして方向づけている点にある。吉田松陰はこの著書の中では「大和魂」という言葉はただの一度も使用していない。そのかわりに「真の武士」道という考え方を提起したのである。同書巻之四上、四月三日の条には言う、

 「………武士道を以て考ふべし。武士たる所は国の為に命を惜しまぬことなり、弓馬刀槍銃●(筆者注:●は砲と同じ)の技芸に非ず。国の為めに命さへ惜まねば、技芸なしと云ども武士なり」

「弓馬刀槍銃砲」(傍点は筆者)の習熟が武士にのみ課された特権的な暴力装備、操作技術であるとすれば、この主張こそ、のち松陰のあとを受けついだ高杉晋作らの「奇兵」の発想に道を開き、武士階級だけでなく、農民・商工民をも含めて「富国強兵」の方向に参加させてゆくイデオロギー的根拠を与えたもの、と言えるのではないか。

 会沢安も(2)の中では一言も「大和魂」と言わない。しかし『新論』は吉田松陰と同じく「尚武」を説き、(1)とちがって「尚武」の精神は国初から天皇にあったもので、武士道は「国体」と切り離せないものであるとする主張が特色である(同書上、国体中)。

「天朝武を以て国を建て、戎(えびす)を詰(をさ)めて方行せしこと由来旧(ふる)し」(筆者注:方行は権力を広く自由に行使すること)

 この短い一文にもみられるように、会沢の見解は吉田松陰にくらべて排外主義がいちじるしく、武士道をも、初めから天皇支配の中にあった精神であるとして、国家主義の中に組み込んでゆく姿勢を持っている。会沢が他国、他民族をすべて〈虜〉という語で括り、仏教などの外来宗教(思想を含む)をすべて全否定したほどの徹底性は吉田松陰には見られない(筆者注:〈虜〉とは中国で用いられた異民族への蔑称である)。

 しかし〈虜〉とは蔑視であるだけではなく、敵意をも含む表現であって、じっさいに『新論』の〈虜情〉の部分を読むと、そういう視点がよくわかる。日本を取りまく他国他民族の武力や文化的力量と、それが日本の民衆に与える影響力を非常に恐れている。だから敵意を含むのである。一方では日本の民衆に対する強い不信感を会沢は率直に表明する。

 「夫れ天下の民、蠢愚甚だ衆くして、而して君子甚だ鮮(すくな)し。蠢愚の心一たび傾かば、則ち天下固より治むべからず」(同書上、虜情)

 これこそ会沢自身が『新論』の中で認めてきたように、徳川三百年の〈愚民〉政策の成果であり、その結果生じた他民族の軍事的、文化的力量との間にある深刻な矛盾であった。この民衆観を引きつぎながら、政策的手直しをすすめ、民衆を国事に参加させてゆこうとするとき、本来武士のみの「日本魂」であったものを、いかにして民衆の中に植えつけてゆくか、それが支配者にとっての一九世紀末の課題であった。