「アジアを知ること」と大学教育

 

石原静子 人間関係学部教授

 

 「高等教育の総合的研究」チームは一九八六年発足で、この研究所に属する十数チームの中では最古参に属し、内規に従って一九九六年度限りで共同研究を終えることになる。そこでこれまでの仕事を振り返り、得たことをまとめて今後の研究や教育の方向についていくらかの提言をしたい。

 チーム十年の研究領域は二つで、授業研究と大学訪問やアンケートによる大学調査だが、それらをただ並べて懐古しても仕方がない。表題の角度に絞って、後者の領域を中心にまとめ、提言しようと思う。授業研究の方は九六年五月に一応単行本にすることができたが、訪問調査の方は毎年の研究報告にしたとはいえ、アジアとの関わりで総括したことは一度もないからである。

 わがチームの研究方法は、二領域共に実践的でフィールドワーク風だったといえる。大学の授業といういわば立ち入り禁止区域にあえて立ち入って、大学教育の中心部分にメスを入れようとしたし、国内外合わせて五○余の大学に足を運んで、資料を集め聞き取り見取り調査を重ねたからである。自賛ではないが、和光大学の成り立ちや三〇年余の歩みからいっても、本学の今後の研究は旧来のアカデミズムを超える実践性を持ち、事実に基づく具体的な提言のできることが、望まれるのではないだろうか。

一、アジア三カ国の大学訪問で得たこと

 一九九三〜九六年に訪れた四カ国のうち、三つがアジアだった。もちろん偶然ではなく、身近な日本侵略の被害二国と、いわゆる途上国の一つである。訪問で知ったこと考えたことを、できるだけ簡単に記すことにする。

・中国……少数民族問題と日本加害の跡、学生交流

 別の本学学生研修旅行に便乗しての試行だったのが幸いして、以後のアジア訪問の視座を定める貴重な旅となった。最初の訪問・宿泊先が北京の中央民族学院で、中国全土五○余の少数民族から学生を集め、諸族の歴史・文化等を研究し指導者を育てるのが目的の大学だった。しかも一九五一年創立だから、人民共和国の建国間もない頃からこのように少数者を大事にする施策をしていたのか、と感心して話を聞き、広いキャンパスを見て回った。

 便乗した学生研修団の目的が、中国東北部を中心に少数民族、特に朝鮮族の生活や教育の実態を調べることにあったため、移動に伴い瀋陽や延吉周辺で、大学だけでなく朝鮮族専用の小、中学校その他を訪れることになった。もう日本ではあまり見ない素朴なおじいさん校長と話し、元気な子どもたちと会ううち、前述のような単純な感心ばかりしてはいられないことが判ってきた。先生も生徒も全員朝鮮族で授業のほとんどは朝鮮語なのに、教える内容は漢族のもの、つまり毛、鄧思想等を学ぶのである。学習指導要領?ゆえ仕方ないことは分かるが、結局は巧妙柔軟な民族同化策が進みつつあるのが実状かもしれない。別の少数者である回族の中・高校にも行ったが、国策に沿う理科教育の重点校に指定されているそうで、広大な中国の隅々まで教育計画を行きわたらせようとする国の意志が感じられた。

 学校訪問の間を縫って、日本の侵略の爪跡を訪ねた。柳条湖の九・一八記念館、瀋陽郊外の鉄路に立つ張作霖爆殺記念碑等である。瀋陽の遼寧大学では、大学入試は全国一律の国家試験だが、学生の人気は国際金融やコンピューターなど経済開放関連のコースへと集中しがちなことなどを知った。また延辺大学では日本語科二年生二十数名と、一夜自習の教室で学生交歓の数時間を持った。ほとんどが朝鮮族で、驚くほど日本語がうまく、聞くと中学から日本語必修とのことだ。いま習っているという「幸せなら手を叩こう」を一緒に歌って拍手や足ぶみを共にし、話すうちすっかりうちとけて、翌日の自由時間に寮に遊びに行った学生も多い。女子にも軍事訓練があるそうで、珍しがって軍服を借りて撮った写真を、あとで見せてもらった。

・韓国……大学改革の激流とアメリカ化、侵略の跡と学生交流

 韓国には九四〜九六年に計三回訪れた。初回はチームの教員だけで大学訪問、あと二回はプロゼミの学生を連れての体験学習旅行である。

 初回はソウルで四年制大学約一五〇校の元締めといえる半官半民の連合組織をまず訪れて、いま全国の大学をまきこんでいる改革の嵐を実見実感した。一九四五年までは京城帝大一校きりだったのを、解放(光復)後増やしたが、内容不充分な大学が多かったのを、一挙にレベルアップしようという強力な施策である。続いて訪問した四大学(漢陽、西江、釜山、釜山外国語各大学)の現場では、この性急さにとまどいながらも、改革には同調の気運だったから、日本追い越せは経済面だけでなく、大学教育にもみるみる実現しそうな勢いである。

 改革のキーワードは国際化・情報化・民主化で、日本と似ているが中身はアメリカ志向が強い。訪問大学どこでも英語の学力増進に懸命だし、シラバスや学生の授業評価等も着々実施の方向だ。日本悪玉観が今も強い分、アメリカ善玉に傾く風があると、一夜懇談した史学の教授が話してくれた。

 ソウル南郊の民族独立記念館、三・一運動発祥のパゴダ公園、村民大量焼殺の堤岩里など、日本加害の跡々を学生と訪れた。さらに元慰安婦、ヒロシマで被爆の老人と会って話す機会を設けた。「戦争を知らない」若者にとって、初めて会う歴史の証人たちで、後述する通り感銘は深かった。

 若者同士の交流は、二回とも実現した。漢陽、檀国各大学生で、YMCAの青年たちとも一夜語った。二〇歳になると兵役で二年余りも大学を離れねばならない不安と苦悩を率直に話し、しかし国のためにはやむをえない、と言い切る彼らは、学生たちにとって未知の世界の衝撃だったようだ。檀国大の学生は、翌日の独立記念館見学にも同行して小グループでの解説役をしてくれたし、バスの数時間は日韓学生の歌合戦でにぎやかだった。

・タイ……開発途上国での大学の位置とスラムの現実

 タイは、開発盛んな途上国に共通な諸矛盾を抱えると同時に、日本とも前世紀末アジアで独立を保った「王国」という共通点を持っている。チームの教員だけの訪問で、対象は日本なら東大・京大に当たる国立大学二校(チュラロンコン、タマサート)だった。教授たちが政府機関の委員等になる機会が多く、大学が国の動向に発言する威信は日本以上に保たれている。その反面、外資系を含む企業活動隆盛のなかで、人材を奪われがちで大学の未来が心配だ、という声を、両校共通に聞いた。

 一九三〇年代の民主革命で専制政治から立憲君主国に移行してからも、王は国民の親和のカナメであり、九二年の民衆と国軍の衝突の際にも、王が仲介して収拾を果たした。街には托鉢の僧たちと合掌の慣習があふれ、女性も社会を支える実力を持つことは、女性首相が東南・南アジアに多い事実に表われている。

 タイ訪問の最大の収穫は、予定外にクロントイ・スラムを訪れたことから生じた。開発盛んな途上国はどこも同じだが、貧富の差は拡大の一途で、農村からの出かせぎ者が住む貧しい地区が、都市周辺を中心に何百とある。不法居住ゆえ立ちのきを迫る政府とのあつれきは絶えず、住民票もなく学校に行けない子どもたちが群れて遊んでいた。

 このスラム出身で志を立てて夜間の教員養成学校で学び、こうした子らのための小さな学校を作るかたわら、住民が自治組織を作って政府と交渉するよう助力している女性と、好運に会うことができた。日本からボランティアで来ていた青年と恋をして結ばれ、二人の子がある。このボランティア団体のバンコク事務所にも行ったが、保育所、図書館のほかに成人のための識字学級、印刷や縫製を教える技術研修施設などをやっていて、居合わせた日本人青年に話を聞くことができた。日本のレベルでいうと安いが、有給の職員という。

二、国内の大学訪問で知った大学……特にアジアとの関わり

 外国大学訪問を始めるより前のチーム発足すぐから約十年、国内大学訪問は延べ四三校に達した。アンケート調査の回答やマスコミの報道等をもとに、意欲的な試みをしている大学を選び、資料を求め話し合って改革の志を確かめ合うのである。ここでは外国、特にアジアとの関わりの面に絞ってまとめていこうと思う。

・外国に提携校を持つ大学は多く、特にアメリカに多い

 訪問を始めた八〇年代半ばにはまだ外国大学との提携は珍しい感じもしたが、次々同様の例に出会ううち、すっかりこちらも提携校慣れして記述も簡単となった。中身はというと、一番多いのが休暇を利用して学生を連れていく数週の語学研修、次は数カ月の短期留学に人数を定めて年単位の交換留学、教員の方は年度ごとの交換教授や随時の研究交流、といったところである。

 偶然の四〇校ほどだから統計にはならないが、試しに全記録を見直したら、全訪問先の四〇%弱が該当した。懇談のとき話題に上らなかったり、対談者が無関係なポストで問いに答えられなかったりのケースも当然あるから、実数はもっと多いだろう。提携相手の最多はアメリカ(カナダを含む)で例外は一校のみ、アジアはそれに次ぐ約六〇%で、ヨーロッパとオーストラリアは各三校と少ない。アジアの中では韓国五、中国三例をトップに、あとは散発だ。これも日本の大学の対外国態度を、サンプル的に示しているといえよう。

・アジアの途上国に数週滞在する体験旅行例

 そうした中で数は少ないが、アジアの発展途上国に学生を数週間滞在させて、現実に触れることを求める体験学習旅行の例がある。八八年に訪れた四国学院大学と、九一年の九州国際大学とである。

 四国学院大学は当時文学部だけの小規模私大だが、社会学科に当時日本で最初の国際平和学コースがある。平和とは単に戦争の反対概念ではなく、貧困や差別を日常生ずる「構造的暴力」を除くことを意味し、従って平和学は実践的な新しい学問なのだ。そこでコースの学生を発展途上国、例えばフィリピンの農漁村に数週間、キリスト教の粗末な宿舎や農牧場等に生活させて、アジアの現状に直接触れて考えさせる体験旅行が、カリキュラムの中心的な位置を占める。

 九州国際大学は八幡製鉄の職員研修所から発展した北九州の私大で、八九年新設の国際経済学部がわがチームの訪問先だった。地の利を生かして最初からアジアに焦点を定め、中国、コリア、東南、南アジアの四地域を系として言語を学び地域研究をするコースを設けた。三年生の数週は現地で生活して、言葉の使用に磨きをかけ既習の諸事柄を深める。例えばインドネシアでは各人当地の大学生の家にホームステイしたそうで、中にはすっかり気に入られてムコにと望まれたり、イスラムへの改宗を迫られたりした者もいた。そんな美談珍談が、空港での涙の別れの光景と共にローカル紙をにぎわせた。

 また、本チームが訪れたのではなく文献で見た話だが、立教大学では、全学向け自由参加の数企画の一つに、学生をフィリピンのへき地に直行させて貧しい農家等に分宿し、生活と労働を共にさせる試みをしている。数週後初めて都市、例えばマニラに戻ると、日本だけでなく世界や人類、文化を見る目が根底から変わる、というのだ。九国大の分宿先は安全を配慮して日本語科の学生宅、つまり多くは都市の中流家庭だったのに比べると、かなり思いきったアジアの現実への直接投入といえる。

・立命館大学のアジア太平洋大学設立構想

 一九九五年度の国内大学訪問は、立命館大学ただ一校だった。同じ年度に韓国第三回とタイの大学訪問をしてその方に力を入れたせいもあるが、あれこれ複数校を回るよりここへの集中がベターと判断したためで、実際の訪問もこの期待を十分に満たすものとなった。

 本稿のテーマであるアジア関連についてまず述べよう。立命館大学は数年内に大分県と市の協力の下に別府に新しくアジア太平洋大学を創立する計画で、準備を進めている。アジア太平洋学部など二学部構想で、日本語とアジア諸語の学習、諸地域研究、情報リテラシー熟達などにより、当該地域を十分に理解してその発展に役立つ技能と行動力を備えた人材を育てるのが目標だ。しかもこの計画のユニークな点は、学生定員の半分をアジアからの留学生とすることで、彼らのための寮や日本語学習・相談施設等々が設計図にちゃんと入っている。別府にしたのも九国大と同様地の利を考えてのことで、私大のこうした計画に県と市が全面協力する例は珍しいという。

 しかも立命館大学のこの計画は、単独に思いつかれたものではない。明治期の創学以来大切にしてきた二部(夜間)を生かして、昼夜にわたって学べる社会人用のコースをいきなり三二〇人の定員で設け、科目だけ選んで学ぶいわゆる聴講制度も有効に学べるメニュー方式に改めた。京都にある三二大学が連合した単位互換システムでは中核校の一つだし、海外の提携校は欧米アジアなど各地合わせて二三の大学、うちアメリカの一校とは共同学位制度と名づけて、両校に二年ずつ在学して必要単位をとれば両国の大学卒業証書がもらえる、未聞の留学制度を創始した。

 つまりアジア太平洋大学は、高卒進学者に限定されがちだった日本の大学の現状を脱して、社会にひらかれ地域や世界と結ぶ雄大な大学改革構想の一環なのだ。とりわけアジアに焦点を据えて、その未来を共にひらく若者を同じキャンパスで学ばせ生活させようという計画なのである。

三、外国での体験学習旅行で学生たちは何をどう学ぶのか

 前二章で見た通り、学生を国外で生活させ学ばせる試みが各大学で増えてきたが、その効果の実証的研究はほとんどない。休暇中にまとめて連れていく集中語学研修などなら、前後のテスト点数の比較もできようが、もっと複雑で全人的な感銘や行動の変化などは、捉えにくい。感想文や旅行記を集めて文集を作るあたりがせいぜいで、それも全員でなかったりかなり遅れて編まれたりのことが多い。異国で暮らして「人が変わったようになる」といった任意の観察や、参加者の偶然の言動などをもとに教員が、自身の思いこみをこめて「効果あり」と判定するケースが大部分だ、といえるのではないだろうか。

 そこでわがチームでは、韓国に学生を連れていった二回目の機会に、いくらかでも効果を客観化する試みを行なった。一九九六年三月、人間発達学科のプロゼミの一つ「平和を学び調べ表現する」を受講した一年生を中心とする一九名が対象である。表題で分かる通り平和関連の文献を読み初歩の韓国語を習うなどの予備学習をしてから、正味五日の旅に出た。中身は前二章の当該項で触れた通り、日本加害の跡を見、歴史の証人たちと語り、韓国学生と交流することが主な内容であった。

 旅行直前と帰国前夜とにアンケートをし、後者と平行して二千字をメドとする自由な感想文を書かせて、当日その場で回収した。事前アンケートはこの旅への期待を、見たいこと会いたい人したいことの三項で自由に書かせ、事後アンケートは、印象深かったこと、自分に生じた変化、予備学習は有効だったか、及び韓国再訪の意思を問い、「あなたにとって韓国とは」と全体的なイメージを聞いた。

 結果の詳細は別論文にゆずり、本稿に必要な部分を摘記しよう。別行動等で三データ揃わない者を除く一五名が対象で、アンケート各答の数量的分析と感想文の事項集計ののち、各人の三データを総合して体験のうけとめ方に個人ごとのタイプがあるかどうかを見た。

・教員の意図に合う回答は五○〜七○%、予備学習は有効

 旅行前に韓国行への期待を問われて、プロゼミのテーマに沿う平和関連の事柄を一つでも答えた者は参加者の六○%、あげた項目数でも買物、見物等の楽しい期待の方が多かった。現地で得た印象もほぼ同様で、韓国の全体イメージで親近感を答えた者は半数強、再訪を望む者は七○%強であった。各人のデータを総合したタイプ分けでは、次項に述べる通り終始消極的態度だった者と自己や趣味にこだわり続けた学生が、合わせて五名つまり三分の一いた。

 以上をまとめて、教員の意図を学生がうけとめ表現した度合は五○〜七○%で、一見低いようだが、わがチームが別に研究した日常の授業でのそれらと、ふしぎなほど一致している。前述の通り偶然の観察や教員の思いこみで「効果あり」としがちだった従来例の中で、この数字は学生の実態を示す貴重なデータといえる。

 そうした中でも、予備学習を有効だったと答えた者は八○%に達し、残る数名も「もっとすべきだった」「実見は机上学習に優る」というむしろより積極的な答で、これらを含め全員が有効と認めたと判定できる。しかも熱心に学習して日本の加害を知るあまり、韓国人の恨みや報復を恐れる気持も生じたらしく、現地に来て「意外にやさしく接してもらえた」意外感を記した者が四○%に上った。事実を知ることが逆の偏見を生ずる場合も、あり得るのである。

・韓国での体験のうけとめ方には六タイプあり多彩

 事前事後アンケートと感想文の三データを個人ごとに総合して、韓国での体験のうけとめ方を見たところ、六つのタイプが見分けられた。前項の数量的扱いと違って研究者の主観混入は避けられないが、公平誠実を期したし、学生たちと平生の関わりの少ない方の教員が基準作りも判定もしたから、主観は最小限にとどめ得たと思われる。

 終始消極的で再訪も望まない消極型と、自分の交友関係や音楽趣味にこだわり続けた者が、合わせて三分の一いたことは前に記した。あとの四タイプと各々の人数は次の通りである。

 平和関連の予備学習に精を出し、楽しい期待共々心豊かに韓国にきて、諸施設を見、歴史の証人たちと会って、日本とアジアの関わりについてまじめに考え、認識を深めたと判定できる者が三名、積極型とでも名づけられよう。反対に平和学習にあまり関心がなく楽しみの期待一方で韓国に来たが、現実とくに元慰安婦に会ったショックで急速に問題意識を持つようになった、「めざめ」型が二名。平和と楽しみの期待半々で来て、見聞きした事物にもほぼ等分に反応し、感想文もあれこれ過不足なく書いたバランス型が三名。一通り予備学習をして韓国に来たが、見聞きする事毎に自分の勉強不足や、これまで学校で学んできたことの偏りを実感し、「もっと勉強してからもう一度来る」決意を表明する〈勉強不足痛感型〉が二名いた。

 各タイプほぼ均等の人数だが、つじつま合わせをした訳ではなく、全く自然に六タイプに分かれたのだ。ほぼ同じ旅程で共通の体験をしながら、学生のうけとめ方は各人の資質や経験に基づいてだろうが、このように多様なのである。

・学生が体験から得るのは、人とのつながりを通してのことが多い

 自由に書いた感想文は、日記風に経験順に書き並べる式と、思い浮かぶままに書いていって所定の字数に達したらやめるやり方とがあって、後者が多かった。そこである事柄を書いた人数と、各人の書いた量・質との両面から、それが学生たちに与えたインパクトの強さを推量することができる。

 言及人数が最も多かったのは檀国大学生との交流で、これに触れなかったのは一名だけだった。次は言及一名ずつの違いで元慰安婦と被爆者の老人の話とが続き、上位四位までのすべてを具体的な対人体験が占めた。平和関連の諸施設見学は、対象多数だし日記式なら必ず名が出るはずにもかかわらず、一カ所でも言及した者は約半数にとどまった。事後アンケートで印象を問われたときはこれらをあげた者はけっこういたのだが、感じたこと考えたことを自由に書く感想文では、やはり人間同士がふれ合い語り合った体験の方を書きたくなり、内容も豊かになるのであろう。

 中でも学生間の交流は、事前の「会いたい人」、事後アンケートでの印象項目でも、群を抜いて多い。また韓国再訪を望む理由としても多くあげられ、具体的な氏名を書きそえた者もいた。旅行前教室での予備学習では、韓国の大学事情や学生生活について特に調べた様子はなく、交流大学や方式は現地に行ってから決まったのだから、学生たちのこの期待や印象の強さは、多分に自発的である。過去の不幸な歴史や現在の政治状況等から、いま両国の青年たちは不自然と思えるほど隔てられて暮らしている。会えそうな機会に臨めば期待がたちまちふくらみ、会って歓談すれば一ぺんにとけ合えて、あすも会いたい、一緒にバスで、見学の説明役も、となり、楽しい歌合戦へと自然に発展するのだ。

 元慰安婦や被爆者ははるかに年長のいわば異世代だが、共に一名違いで言及が多く、例のめざめ型の学生に見る通り豊かで真剣な記述を伴った。つらい過去をのりこえて、残り少ない人生を「私たちのような人が二度と出ないために」語る人びとの重みが、日本では接し得ない力で学生たちに迫ったのであろう。体験の受けとめ方は個人ごとに多様でも、人を通しての効果は共通で最大、と結論することができよう。

 ついでだがこの前年、韓国に学生を伴った初回のときは、アンケートはしなかったし感想文の回収も厳格でなかったから、文をよせたのは六名だけだった。しかしうち五名が漢陽大学生との交流、元慰安婦との会見、及び見学に同行したり韓日近代史を自らの体験を交えて講じてくれた史学の教授に、そろって言及した(残る一人は別のある韓国人について集中して書いた《こだわり型》)。事前学習も翌年ほど充分でなかったためか、平和関連の施設等への言及は一人にとどまった。少数のデータだが、学生たちの体験の意味は人との関わりの中で生じ深まる、という前述の結論ないし仮説を、補強する結果といえる。

四、「アジアを知ること」の意味とこれから

 以上「アジアとの関わり」を焦点に、三つの角度からわがチームのこれまでの訪問関係の仕事を見てきた。それをふまえていよいよ、今後の研究、教育の方向について提言する段階に進もうと思う。アジアにも教育学にもしろうとの者の方がチームには多く、筆者もその一人だから、以下は全くの試論である。というより体験に基づく感想の羅列、といった方がいいかもしれない。

・アジアは谷間

 第一章に記した通り、チームが外国大学訪問を志してアジアの国々を訪れたとき、受けた印象は予想以上に強烈だった。それまでの国内大学訪問でも初めての地に行くことはあったが、そのときとは質の違う強烈さなのである。第三章に扱ったプロゼミの一年生たちも、揃って韓国は初めてとのことで、同じように異質の強い印象を、それも人との関わりを通して得ていた。第二章は国内他大学の話だが、参加した学生たちはおそらく同様だったと推測できる。

 なぜこんなことに、と考えてみた。中国と韓国の間の年にはアメリカの大学訪問に行ったが、ここも初めてという点では同じなのに、どちらかというと既知感が強かった。なぜだろうか、と考えていて、テレビその他でニューヨークもハワイもワシントンも、めまぐるしく交差する高速道路網も、つまりは映像として見慣れていたのだ、と気づいた。

 アジアは日本と地理的に近く、歴史上の関わりも深いのに、われわれの認識世界ではすっぽり抜け落ちた谷間のようなのだ。自分の国のことはとにかく一通り知っているし、西欧の事柄は知らず知らずこうして見聞きして親近感を持っている。それはテレビを初めマスコミがとり上げる量だけでなく、質とも関係がある。西欧の国や人の動きは、世界の動向と重なって重要なこととして扱われがちだからだ。本屋に行ってみると分かるが、アジアの棚は少量で、うち観光用の案内書がかなりの比重を占める。マスコミのアジア報道はというと、民主化運動の弾圧、飢餓や買春、不法労働に犯罪と、社会の陰画的な像が多い、といえるのではないか。

 マスコミ関係者の責任だけではない。日本の社会全体、日本人の認識の方向が、明治百数十年来アジアをとび越して、西欧に向かっている。学校教育もその線で、世界史にアジアの頁は少なく、音楽はもっぱら洋楽だ。こうした西欧重視の偏りは、言い古されてふだんは気にもしなくなっていたが、アジアで受けた印象の強烈さの由来を考えているうちに、改めて新しい現実として浮かび上がってきた。

 それではそうした偏りを是正して、アジアに関する情報を増やし、負の面だけでなく明るい方もバランスして、学校でも街や家庭でも不断に接することができるようになればいいのか。基本的に大切なことにはちがいないが、そうなったからといってイコール日本人が「アジアを知った」ことになるだろうか。問題はそう簡単ではなさそうだ。

・大学が果たしてきた役割と今後

 本稿の表題に即して、日本の大学がこうしたアジア観百余年の偏りに果たしてきた役割を考えてみよう。戦前戦中までの大学が象牙の塔だったことは事実だが、だからといってこうした世情に超然としていたなどとは、到底いえない。なぜなら西欧への傾倒の大もとは大学であり、指導層を送り続けて社会の方向を定めた当事者だからだ。諸学は一見中立公正に見えるが、深く修めるほど知らず知らずのうちに西欧の目がわが目になっていく。アジアを弱い遅れた地域として蔑視し傍観し、あるいは科学では測れない神秘観を抱く。日本が国として孤立していく中でも特に大学人知識人たちは、拠り所不安定な浮遊する存在だったといえるのではないか。

 第二章で見たように、わがチームがこの十年に訪問した国内の大学のうちかなりの数が、外国に交換留学や研究交流の提携校を持ち、相手はアメリカ、カナダに次いでアジアが多かった。そのときも記した通り偶然の少数例だが一応のサンプルにはなるだろうし、外国語教育に関しても、旧来の英独仏語に中朝などアジアの言語を加える大学が、確実に増えている。

 こうした流れの中でアジアとの関わりを深めようとする大学、またそれに応じて選択し学ぼうとする学生たちの動機は、一様ではないだろう。考えられるうちの一つは、これまで谷間にあった未知部分の多い近隣の国々に対する好奇心である。科学で測れないと見えるものに、あこがれを含めて接近し解明したい動機だ。二番目は、交通通信が発達し日本からの資本や企業がアジア諸国に進出している現実に対応して、かなり近い将来それらの地域に旅行し或いは滞在して活動する可能性を想定しての、実用的な選択である。第三に考えられるアジアとの向き合い方は、諸情報から察するアジアの貧しく遅れた状況を何とかしたい、経済大国の余裕と成功のノウハウを知る先達者として手をさしのべようとする、広義の善意である。最近増してきたアジアへの加害感が、これを助長しているといっていい。

 さすがに戦前戦中のアジア学にあったような、やがて戦う或いは侵略し支配する対象として詳しく知ろうという動機は、少なくとも表向きはなくなった。しかし前述二番目の実用的設定は、現実の状況に合わせて形は変えたが本質は似たものであり得るし、状況が変われば元の姿に戻る可能性もない訳ではない。また第三の善意に基づく関わり方にも、問題の根が潜んでいる。というのは、同情や援助は無意識にせよ優越感に裏打ちされていることが多く、支配と同じコインの一面でありうるからだ。西欧的価値観を無思慮に持ち込む援助が、現地に無用ならまだしも、ダム建設に伴う環境、生活破壊のように害を及ぼす例は、たくさんある。

 さらに最近、大学設置基準の緩和や細分化した諸学再統合の気運などを反映して、新しい総合的な学部学科があちこちで生まれている。その中には、一定地域を多角的徹底的に調査研究し、未来予測に基づく政策立案を試みる総合研究がある。これがアジアの諸地域に焦点を据えるきざしが、出てきている。

 一時的な好奇心や部分関心でなく、対象地域を総合的に見て理解を深めるのはいいことだし、的を射る計画はその地域の発展に役立つだろう。しかし当地外の人間が外からデータを集めてする総合研究や政策立案は、一歩誤れば新しい支配者の出現と紙一重である。力による侵略より巧妙で反発しにくい、その意味で一枚うわ手の支配だ。立命館の新大学構想は、ひらかれた大学をめざす他の諸施策や民主的意思決定方式に支えられているから、その危険はまずないだろうし、留学生を半数入れるというのは歯止めになり得る。

・新しい層の学生に期待し、「共に歩む者」を育てる研究

 戦後の学制改革から半世紀、今や当該年齢層の約半分が大学にくる時代になった。彼らのうちかなり高い割合の者が、伝統的な講義方式で伝授される「学問」になじめず、私語は花ざかり、丸うつしリポートで単位クリアの者が多い、というのが否定できない現実だ。教員たちの知る学問の城としての大学像からすると、異邦人の群れのようだが、昔はよかったと嘆き合ったところでどうにもならない。

 発想を転換してこの現実を逆手に取ることは、できないだろうか。彼らは大学にくるまでの学校生活で、西欧の学問が万象を切り刻んだバラバラな成果を憶えさせられ、しかもこの記憶競争において必ずしも勝利者ではなかった。大学に来て又今度はその大もととつき合わされるのは、正直うんざり、というのももっともな面がある。言いかえれば、むりやり憶えた事柄の多くを入試が終わるとアッサリ忘れ去ることで分かるように、西欧的分断的な物の見方が相対的にだが彼らには深く浸透していないことを、意味するのではないか。非エリートたちはもともと、言葉や符号を空に操る抽象的思考はどちらかというと不得手で、自分の感性や行動で直接知ったことに動かされやすい資質なのだ。

 抽象的思考操作にたけた学生は現在もいるが少数で、右のような新しい傾性の者が進学率と共にますます多数を占める現実は、もう後戻りしないだろう。ならばこれを活用して、いわば行動的知性を生かした大学教育、さらには新しい実践的な研究が、もっとひらかれ工夫されていいのではないか。

 さらにもう一つ、学制改革に伴って大学に来ることになった学生たちが、戦前戦中までの先輩と違っている点がある。同年齢者の数パーセントだった先輩たちは、どの領域にせよ大学を了えれば社会の指導者層になれる、いわば予約席にいたのに対して、今の学生たちはそうではない。社会の構造や動きが激しく変化している上に、高校までの決まった勉強の中で自分を確かめ得なかった者が多いから、自分が今後社会にどんな位置を占め得るのか不分明で、模索が続く。あらゆる学生調査のトップに出る「自分さがし」の熱望は、だから必然で、やめさせることはできない。時間の巻き戻しはここでもできないのだ。

 これは第三章で見た、学生たちにとってアジア体験が強烈であると共に、その多くが人との関わりを通じて得られていることと、関係がありそうだ。南北分断のなかで悩む若者、つらい体験を未来に生かそうと語る老人たちの姿が、表面「平和」な日本に育ってきた学生たちの生き方をゆさぶる。教室で教えられた単なる知識と違って、本当に「学んだ」気がするのだろう。自分の中に根づいて、わが生を豊かにしていくものが本当の学びで、いわば学習の原点に帰ることだろう。抽象的な知識をたくさん得て世界の覇者と同じ目を持つことも、歓びであり得るが、彼らの資質はそうではないし、歴史もそうでない未来を指し示している。

 十何年かにわたり学校という競争社会を勝ち抜く少数者でなかった、ということはまた彼らに、人を上から見る習性を学ばせなかった、といえる。例えばアジアの途上国で農業の改善が必要になって、いわゆる先進国に助力を求めたとき、欧米の技術者や日本の役人は、数字を優先して上からあれこれ指図をするだけだが、一般人から応募した協力隊などだと、一緒に田畑に入ってまず現地の農法を学び、日本のやり方を提供して改善を共に考えることが多いという。こうした資質というか同じ地平に立つ姿勢も、戦後の新しい学生層に期待できるものの一つではないか。かつての満州開拓団のように、国の施策によって知らず知らず威圧者に変わる可能性にも留意しながらのことだが。

 前節の終わりに近く述べた、アジア地域の総合研究がもしかしたら転じ得る「紙一重」の危さは、ここにあるといえよう。外から集めたデータで研究した成果の発展計画を、当地域のためのつもりで結局は指図する新しい支配者になるか、それとも現地人の状況や方法に身をよせながら、共に考え実行していく共働者になるか、の境目だ。二回の韓国行で学生たちが見せた人なつこさ、生来的と思える目線の低さは、和光大生だけの特性ではないだろう。これまでの大学のジョーシキでは見落とされがちだった、貴重な資質である。

 こう見てくると、われわれの目の前にいる学生たちが、高校までの知識ためこみ競争に勝てず、大学に来てもさらに抽象的な学問体系の伝授を受け入れ難くしているのは、百八十度転回した別の可能性を示している、といったら逆説に過ぎるだろうか。さらにいえば、明治以来日本の学校での学習がアジアをなおざりにした結果、学生たちがこの近い国々や人びとに対して白紙に近い、ということも、活用できる条件の一つかもしれない。いまアジアの国々は、二十年前……一九七五年以前には想像もつかなかったほど変動し発展し、タイでわれわれが実見したような大きな矛盾を露呈しながらも、たしかに活発に未来へと進んでいる。その事実を自分の目や耳で感じとり共に歩む意思を持つには、彼らの無知は白紙に新しい絵を描くように、プラスの一面を持つかもしれない。

 第三章で触れた通り、韓国行の前に教室で行なった事前学習は、参加学生全員がニュアンスの差はあれ有効と判断した。このプロゼミのテーマ名が示す通り、予備学習は日本の加害史の具体的事実や初歩の韓国語と易しい歌、或いは目立たない史跡の持つ意味など、およそ高校までの学習指導要領にはない内容だった。これが学生たちのかなり熱心で自発的な学習を促し、旅にほぼ全員が参加する熱意に実ったようだ。その分韓国人の恨みを恐れる気持も生じたが、意外にやさしく接してもらえてほっとした解放感が、韓国への新しい親しみとなり、元慰安婦たちの話も素直に心にしみた、と見ることができる。

 これらから分かることは、これまで谷間だったアジアを「知ること」は、単に情報を増やし大学に関係した科目をおくだけでは達せられない、ということだ。現実のアジアをまっすぐに見、日本との過去現在の関わりを初め現状の由来を率直に語り、人びととの交流を大切にする、という未来を見すえた実践性が必要なのだ。交流は何も現地へ行くだけではなく、留学生や在日の人びと、外国人労働者等々とそれぞれの場で知り合うことをもっとやっていいし、文通という手もある。要するに顔が見えて直接話せる名前のある交流が、特に若者同士のそれらが、これから共に担っていくアジアの未来を、底で支えるだろう。

 二一世紀は、アジアの世紀であり民衆の世紀だ、という予感は、多分誤りではないだろう。アジアが予想を超えた急発進中なことは、誰の目にも明らかだ。それに伴う歪みは、同じ目線の人びとの手で是正されていかなくてはならない。あちこちの国で、弾圧されながらも民主化の運動は続いている。一応民主化の形は整いながら中身の不充分だった日本では、情報公開や住民投票、市民運動等が徐々に実って、知事や役人や、政治家など上から人を見る習性の人たちが権力を私物化することが難しくなりつつある。患者の治療同意やら葬儀遺言ビジネスまで、一人一人の主体性が尊重されるように、少しずつだがなりつつある。

 日本がもし発展急なアジアに、この面で見本になることができたら、こうして力をつけ行動的知性を磨いた人びとが、それらを同じ目線で提供できたら、経済的成功のノウハウを教える以上にアジアの未来に役立つし、本人たちも資質にふさわしく自分の体でアジアを「知る」ことになるだろう。くり返すが現地に行くことが前提ではなく、交通通信の発達した現在、日本にいていくらでもできる。

 問題はむしろ、大学では学生でなく教員にある、といえるかもしれない。西欧偏重の伝統の元である大学に長年いて、それがしみついてしまっているのに、そう自覚することが少ない上に、抽象的な知の優越に慣れきって、新しい層の行動的知性を認めず異端視を続けがちだからだ。学生たちはアジアと世界の現実を体で知る可能性を持つが、教員には無知である自由もない、といえるかもしれない。しかも学生たちが、無知のまま社会の偏見をうけついだ大人になるか、それとも道を得て同じアジアの人びとと共に歩む者に成長し得るかのカギは、多分に大学教員の手にある、といっていい。これは単に教育の問題ではない。専門が文学だろうと経済や経営学だろうと、研究の視座を今後どうつくり変えていけるかという、次の世紀に向かう研究者としての基本的な問題でもあるのだ。    (「高等教育の総合的研究」チーム代表)