香港・YMCA・インド人

 

松枝到 人間関係学部教授

 

 香港の冬は、暖かかった。香港に出かけたのは九六年の年末、クリスマスも過ぎたころである。とはいえ香港は北回帰線を越えていて北緯二二度に近く、たとえば猛暑で知られるバングラデシュのダッカよりも南なのである。インドのカルカッタとほぼ同じ緯度であるといった方がいいか。いずれにしても、この地は中国文化圏の最南端に位置する都市のひとつであるといってよく、海南島を別にすれば、山に深い雲南省の南部とともに中国の南の境界をしめしていることになる。

 しかし、そうした空間の位置づけは、同時に外部にさらされた柔らかな部分という意味をも担わざるをえなかった。正確にいっておくなら、香港島の中央に位置するセントラル地区(中環)、中央郵便局のかつてあった位置が北緯二二度一七分にあたるという。その総面積は沖縄本島よりも狭く、埋め立て地の異常な増大を考慮しても、一一〇〇平方キロを越えることはない。大小あわせて二三五余りの離島の集合が香港の空間的な全体であって、農業的には不毛な火山性の多島海が地理的な実態である。その島嶼部は、大陸側の九龍や香港島と比べて注目されることが少ないけれども、それら諸島は東南アジアの島々と同じく、きわめて素朴なアジア的文化圏にいだかれている。とはいえ、香港の中心は自由貿易港としての「ホンコン」に収斂しているのが事実であり、ヴィクトリア海峡をはさんだ地域における貿易・金融・商業活動が、香港経済を支えていることに異論はない。その経済学的な意味は複雑をきわめ、わたしの注釈できることではないが、表も裏も含みこんだうえでの社会的な生産性は、きわめて人工的なものである。ひとつの数字しかあげないが、香港における野菜の消費量は一日あたり一三〇〇トンに達することにたいし、その具体的な自給率は三五 %にすぎない(一九八二年の統計による)。九七年七月の中国返還をにらんで、ここ数年は中国「本土」からの野菜の供給がめざましく、中国から来た生鮮食料品を積載するトラックをいくつも見かけたが、その大多数は観光客の胃袋に消えてゆくのではないか。こうした土壌の貧しさは、そのまま近代における植民地主義の台頭と香港の運命とを裏書きしているように思えるのである。

 香港という空間の考古学的な意味は、それなりに重要であって、これらの島々で新石器時代の遺跡がいくつも発見・発掘されている事実は注記しておいていいかもしれない。その発見の大半が一九三〇年代のものであり、たとえばアイルランド人のフィン、イタリア人のマリオーニなどの名が考古学上の発見にかかわって見えてくるが、彼らはいずれも宣教師であって、その作業の意図は明確ではない。残された記録からすれば、紀元前三〇〇〇年期の土器や墳墓が最古のものであって、少なくとも新石器時代には香港の地が文明の波に洗われていたことが確認できる。中国の史書によればこの地は「百越」の一であって、紀元前二一四年、秦の始皇帝による広東平野の遠征にはじまる南方への漢族の進出をきっかけとして、香港もまた中国と太い紐帯を結ばされたのではないか。その真偽はともかく、後漢時代の遺跡が香港にはあり(深水▲にある李鄭屋邨古墳など)、その後の追跡がむずかしいものの、漢人世界との交渉がきわめて早い時期からのものであったことは確認できる(蕭國建『香港古代史』中華書局、一九九五)。

 そして、おもしろいことに、具体的な遺跡は発見されていないけれども、広州を中心とするイスラーム商人との交渉において香港も一役買っていたことは確かであると想像され、唐代の青山湾、宋代の鯉魚門などの港湾が担った意味を、さまざまな記録に散見することができる(香港市政局編『香港歴史資料文集』、一九九○)。香港の港湾を実見すれば即座に理解されようが、この地はすぐれて、そのまま自然の港なのである。したがって、植民地としての香港が歴史に浮上してくる以前にも、この土地の意味は中国南部にとって重いものだったはずである。

 だが、なんといっても香港が注目されるのは、一八四一年一月二六日、アヘン戦争の展開にともなってイギリス海軍部隊が上陸した時にはじまる。翌年、講和条約として南京条約が結ばれ、その第三条において清国が香港島をイギリスに割譲することを認め、さらに一八四三年六月二六日、イギリスは批准書の交換をおこなって香港の領有を正式に宣言することになる。このとき、香港島の人口は、村落に住む人々四三五〇人、町場の商業従事者八〇〇人、船上に暮らす「蜑民」(たんみん)二〇〇〇人、九龍在住の労働者三〇〇人が、そのすべてであったという。それが一五〇年ののち、香港の人口は五二一万人に達し、単純計算で七〇〇倍、さらに統計にのぼらない不法入国者や一時滞留者を含めると、その拡張率は爆発的というほかない。その間、イギリスは香港の植民地化をすすめ、九龍の割譲を一八六〇年におこない、アロー戦争、清仏戦争、日清戦争を経て、ついに新界の九九年租借を一八九八年に締結するにいたっている(この間の事情の詳細に関しては、たとえば矢野仁一『アヘン戦争と香港』『アロー戦争と圓明園』中公文庫、などを参照されたい)。こうして一九九七年六月末日をもっての香港返還という時限がセットされるわけだが、その後の香港の発展は、徹底したレッセ・フェール政策のもとでの貿易港としての歩みであった。その詳細はここでたどることをしないが、植民地となったがゆえの経済発展という矛盾は、現在にいたるまでの香港の苦悩を象徴化しているように思われる。

 そうしたなか、年末の香港を訪れたのだが、とくに香港YMCAを見学したことが印象として強い。それは香港島の上環、樓梯街(Ladder St.)にある古い赤煉瓦づくりのビルである。ちょうどこのビルは、香港に現存する最古の廟である文武廟の背後にある。文武廟の方は、文筆をつかさどる文昌帝と武をつかさどる関帝とを祀ったもので、釣り鐘状の線香でむせかえる廟内は、しばしば香港の代表的イメージとして近代的なビル街と対比的に扱われているものだ。そしてこの廟から道を降りてゆけば、世界でも有数の骨董品街である摩羅上街(Upper Lascar Row)、いわゆる「キャット・ストリート」に行きあたる。だからこの周辺には外国人旅行者の姿が多く見られ、甲高い嬌声が飛びかっている。しかし廟の脇の急な階段を登ってゆくと、とたんに街は静まりかえり、キリスト教系の幼稚園や老人ホームがたたずみ、そして山の斜面に張りつくように「男青年會」がある(その赤いレンガ造りのビルの正面には「基督教青年會」というモダニズム風の古いロゴが見えた)。この場所をとくにめざしたのは、ここで一九二七年二月一六日と一九日、魯迅が講演をおこなっていたからである。

 一九一九年の五・四運動、二一年の中国共産党創設を受けて、香港にも中国ナショナリズムの気運が高まり、二二年には蘇兆微、林偉民らの指導による香港海員ストライキがおこって、すでに香港の中国への返還が要求されている。そして二五年になると、上海における五・三〇事件に呼応するデモが広州で起こり、それにイギリス・フランス軍が発砲して、死者五二人、重傷者一一七人を出すという大弾圧事件に発展した。これによって劉少奇などの指導による大規模なストライキ(非武装経済闘争)が一七カ月にわたって続き、中国人の手によっては一個の貨物も動かなかったといわれている。この事件は、香港経済を完全に麻痺させ、二六年一○月、ようやく香港と革命政府との妥協によって収束した。この二波のストライキは、実質的に政庁機構のなかに中国知識人層の取り込みをうながす結果を生み、またイギリスと国民党との妥協政策を恒常化するきっかけともなった。こうした香港の政治的位置づけの変化が、日本にたいするABC戦線の要として香港を押し上げてゆくことになるのである。当時、広州の中山大学文学科主任であった魯迅は、このストライキを目の当たりにしていたわけだし、その後の中国の揺れ動きを実感していたことだろう。そうして彼は香港に旅立ち、若者たちの前で講演をおこなうことになるのだ(この旅には妻の許広平も同行しているが、おそらく広東語への通訳も彼女がおこなったと思われる)。

 その講演は、二月一六日が「声なき中国」(無声的中国)、二月一九日が「古い曲はもう歌い終わった」(老調子経已唱完)と題されている。最初の講演は、学習研究社版の『魯迅全集』で二段組み七ページに満たない、短い発話である。大雑把にその内容を要約すれば、今こそ若者はことばを語り出さねばならないが、そのためには古くさい文語ではだめであって、生きている口語、新しい表現を生み出さねばならない。永く中国は声を失っていて、文字は骨董品と化してしまった。もう孟子や韓愈の言葉づかいで話すことに意味はないのだし、孔子時代のことばでは「香港論」も書けないという事実を認識すべき時である。

わたしたちは現代の、自分の言葉を使うべきです。生きている口語を使って、自分の考え、感情をありのまま言えばよいのです。‥‥まず青年たちが、中国を声ある中国に変えるでしょう。大胆に話し、勇敢に進み、一切の利害を忘れて、古い人間をおしのけ、真の自分の心からの言葉を発表するのです。

 

 その講演の冒頭の言葉から、この日は大雨だったにもかかわらず、じつに多くの若者が集まったことを察することができる。彼らを前に、魯迅は北洋軍閥による内戦が続いていることを述べ、一方に「思想革新」を最優先すべきだと主張する人々のいることを暗示しながら、それにたいしてことばの革命、文学の革新を推し進めよと主張するのである。「わたしたちには、今後二つの道しかありません。一つは古文をいだいて死ぬ道、一つは古文を捨て去って生きのびる道です」(『魯迅全集』第五巻)。この講演の結語を、香港の若者たちはどのように受け止めたのだろうか。やがてこの講演記録は香港の新聞に掲載され、さらには漢口の『中央日報』副刊に転載されて、広く中国の若者の目にも触れることになるだろう(ちなみに『魯迅日記』ではこの講演をおこなった日付を二月一八日としており、こちらを正確とする人もいるが、ここでは『全集』訳文の日付にしたがった)。

 また、いまひとつの講演「古い曲はもう歌い終わった」は、やはり旧時代の遺物を捨て去ろうと呼びかけるものである。いささか長くなるが、ざっと要約してみよう。

 ロシアでも欧米でも、古い文学は捨て去られた。まだはっきりとしたかたちを取ってはいないが、やがて新しい歌が生まれてくることだろう。しかし中国は、どうして古い曲を捨てきれないのか。中国は「特別」だという人がいるが、もしそれが本当なら、その原因には二種類ある。第一には記憶力がないために古い曲も新しく聞こえてしまうということ、第二には古い曲を歌い終えていないのに国は何度も滅びたということである。曲が終わる前に国が歌いおさめられている。清朝も明朝も(漢人ではないのに)中国の歌を歌ったではないか、外国の人々も中国の古い曲はすばらしいと認めているではないか、などという人がいるが、それが一番危険なのである。有害なものは警戒できるが、そんなに害がないと思っていると、それが死に至る病と化すのだから。

 というのも「これが〈軟らかい刀〉だからです。〈軟らかい刀〉という言い方は、私が発明したのではありません。明代の読書人で、名を賈鳧西(かふせい)という人が、鼓詞(一種の民謡)の中で、殷(いん)の紂王に触れてこう述べました。『幾年(いくとせ)も軟らかい刀で首を切らるるも死をさとらず、殷の太白旗に懸けられしとき、はじめて余命のいくばくもなきを知りまする』と。我々の古い曲も、このひとふりの軟らかい刀なのです」。中国の古い文化を保存することに汲々とすることは、中国人を軟らかい刀の下で奴隷状態におくことになる。そうして古い歌を歌い続ける中国人は、やがて自分自身を歌いおさめることになるだろう。そこから出るには、いくらか危険が伴うことを承知してもらいたいし、どうしても危険を恐れるなら、もっとも安全な場所をお教えしよう。それは牢獄である。とはいうものの「牢獄にいるにしましても、一つだけ欠けるものがあって、それは自由であります。ですから、安隠を貪ると自由を失い、自由を求めると、必ずや危険にさらされるのであります。ただこの二つの道があるだけなのであります」(『全集』第九巻)。

 訳注にしたがうなら、殷の紂王を打ち破った周の武王は、入城して死んだ紂王の首を切り、大きな白旗に懸けたという(『史記』「周本紀」)。死んだのち初めて「余命いくばくもなし」と知ったというのは、時の中国人にたいする大いなる皮肉であるが、このゆるやかに迂回しながら語る魯迅の表現は、なかなかに痛烈であって、ぜひ全文を読んでもらいたい。いわゆる「軟らかい刀」は、いまそこにもあると思えるからだ。

 この講演は、微妙ではあるけれども、全体的にやさしい言い回しで語られている。しかし魯迅は、この講演に相当の力をそそぎこんだと思われ、一九二七年二月二一日付の李霽野あての手紙のなかで「このところ、どうにもならない忙しさで、飯を食う暇さえありません。数日前香港へ行って、二日間講演をしたので、頭がぼうっとしています」(『全集』第十四巻)と書いている。しかし、魯迅のこの香港訪問は重い意味を残したようで、同じ年に刊行された雑誌『語絲』(八月一三日)に「香港について」(略談香港)を発表している(『全集』第五巻)。そこで魯迅は、香港講演に相当の妨害があったことを語り、ぼやかすような表現ではあるが「まずはじめにかなりな横槍がはいった。つぎは反対派が入場券をもち去って、隠してしまい、他の人が聞きに行けなくした。そしてまた、講演原稿の新聞掲載が不許可となり、交渉の結果、ずいぶん削られたり書きかえられたりした」といった当時の状況を報告している。それもこれも魯迅が「国粋を攻撃したため一部の人の機嫌をそこねた」からなのだが、香港に向かう船上で、とある船員が刺客や逮捕といった事態を恐れてあれこれ忠告してくれた、などとも書いている。

 じっさい「香港への旅はとにかくこわい」のである。これを枕にして、魯迅は香港のメディアに見つけた三面記事や国粋主義者の演説を皮肉っぽく引用しながら、当時の香港の旧弊と外国人支配の矛盾を打っているのである。なお、この文章の原注(『而已集』収録時のもの)に、魯迅の講演を実際に聞いた辰江の感想が引かれており、そこには「香港政府は、魯迅が演説をしに来ると聞くと、あわててある団体の者に頼み、魯迅先生が講演に来られるわけや、意図を問いたださせた」とある。

 さらに三カ月後、魯迅は同じ『語絲』(一一月一九日)に「ふたたび香港について」(再談香港)を発表した。「わたしが〈鬼門〉視している香港を通ったのは、九月二八日が三度目であった」とはじまるこの一文は、香港での荷物検査の顛末である。そこでは「イギリス国旗をかかげた同胞」の態度が活写されており、梱包した本やバッグの衣類を放り投げ、いくばくかの金銭を要求する官吏の顔が見えてくる。そうして魯迅は「香港は一つの島でしかない。けれども数多い中国各地の現在と将来の縮図が、そこになまなましく描かれているのだ」と書く。船のボーイにいわせれば、荷物を徹底的に引っかき回されたのは、魯迅が痩せているからだそうだ。「あなたがあんまり痩せているから、阿片密売者じゃないかと疑ったんですよ」。いやはや驚いた、と魯迅はいう。「さて、人はあまり痩せていてもいけないとは、香港に着いてはじめて思い知った。以前は夢にも思わなかったことだ」。それに比べて、同胞の「税関検査」を監督していた西洋人の太っていたこと!

 それから七○年が過ぎ去ろうとしている。いま、さまざまな魯迅研究をひもといて魯迅と香港との関わりを追求する余裕はないけれど、この七○年とはなんだったのか。晩年の魯迅は、姚克あての手紙(一九三四年三月一五日付)で、新聞のゴシップ記事に言及している。いわく「天津の新聞に、わたしが脳炎を病む、と報道され、友人たちが驚き心配しているとのこと、たちの悪いいたずらです。上海のゴシップ新聞はわたしが香港に逃亡したというだけで、そこまでひどくはありません」と(『全集』第一五巻)。これも原注によれば、上海の『ホームズ』とかいう新聞に「左翼作家の盟主魯迅は●[福建省]に入らんとしたが、途中で●方面の勢力が倒れたことを知り、転じて香港に赴いた」との記事が呼応しているという。この「●方面の勢力」とは中華共和国人民革命政府のことであり、蒋介石に反対して中華ソヴィエトとの連携をはかっていたが、一九三四年一月には壊滅している。前年の一一月に福建省の独立を宣言したが、きわめて短命に終わった勢力である。三三年の三月には日本軍が熱河省を占領し、その翌月、中共軍は新疆に侵攻している。すでに中国国内の戦争は激化をきわめ、一九三七年の日中戦争の開始までは秒読み段階に入っている時期だったのだ。

 それにしても、なぜ香港なのか。じっさい、この時期から香港には大量の難民、亡命者が流れ込み、さらには企業の移転や、中共軍との対決姿勢を強めた蒋介石にイギリス・アメリカが物資を援助する拠点(いわゆる「援蒋ルート」)となったため、三八年に広東が陥落するまで、香港は不思議な活況を呈していたのである(この時期に関する新研究として關禮雄『日■時期的香港』三聨書店、一九九三、などがある)。やがて香港は日本軍に降伏し(四一年一二月二五日)、日本軍部はいまも悪評高い占領政策を実施するのである。一九三四年に世を去った魯迅は、日本軍による香港占領を知らなかったが、これこそ「軟らかな刀」が「鋼鉄の刀」に取って代わった時期である。

 ぼくは香港で二種類のカレンダーを買った。ひとつはカラーの観光写真を配したきれいなもので、一九九七年六月三〇日の部分には「HM The Queen's Birthday」とある。大英帝国女王陛下のお誕生日! そして翌日、七月一日には「China regains sovereignty over Hong Kong」(中国が香港の主権を取り戻す)とあり、さらに小さく「Handover to China」(中国への移譲)と記されている。ほかにはなにもない。もうひとつのカレンダーには、表紙から最後のページまで、人民服を着たパンダが描かれており、しかも日付のページの背景にイギリス国旗が描かれている。しかし、一月は全面がユニオン・ジャックであるのに、二月から徐々にその国旗が薄れてゆき、その下から少しずつ中国国旗があらわれるという仕掛けである。そして七月でははっきりと五芒星が見え、英国国旗は完全に姿を消す。その七月一日の部分には「China resumes soverreignty over Hong Kong」(中国が香港の主権を回復する)とあり、また漢語で「中國恢復對香港行使主權」とあって、欄外には簡潔な歴史事実の列挙がある。写真の部分は、セピア色をした今世紀初頭の香港風景とカラー写真による各地の民衆の姿が交互にしめされ、その姿勢ははっきりしている(ごていねいに、赤字に金の星が五つ置かれたキーホルダーがおまけについており、それは「1997」と打ち抜かれている)。たかだかカレンダーのことではあるけれど、象徴的ではある。そして、このセピア色の風景は、魯迅の見た香港なのだ。

 さて、ぼくにはもうひとつ見たいと思った香港の顔があった。それは漢人以外の香港人たちである。一九九四年に制作された香港映画「恋する惑星」は、クエンティン・タランティーノなどに絶賛されたこともあって、世界的な大ヒットとなったが、からみあう二編の物語からなっている。その第一部は、香港の知る人ぞ知る雑居ビル、重慶マンション(重慶大厦)が舞台となっているのだが、この九龍の目抜き通りに面した巨大なビルは、そのままインド=パキスタン人を中心とする外国人労働者の棲家なのである。この雑貨屋が固まったようなビルは、昔からバッグパッカーたちには有名で、一七階建てのビルのなかに個人経営の安宿が数多くある。ただ有名になりすぎて当局の指導が入り、実際には、けっこう高級なゲストハウスも増えている(もちろん程度問題ではあるけれど)。しかし、このビルはなにしろ尖沙咀駅のすぐ上にあり、香港最大の歓楽街である彌敦道(Nathan Rd.)に面しているのだから、その便利さはいうまでもない。そしてビルの住人は、ほとんどがインド系の人々であって、一階の店舗にもインド音楽の専門店やネパール料理屋、イスラーム教徒のための料理屋、あるいはインド=パキスタンの服飾品を売る店、エロティックな本やヴィデオを売る店などがひしめきあっている。一歩踏み込めば、そこはもう香港ではなく、強烈な香辛料の匂いとシタールの音に満たされたインド的世界なのだ。そして「恋する惑星」の第一部は、このビルのなかを駆け回り、パキスタン人を使って麻薬の密輸を計画する女性と警官とのすれちがいの恋を描いているのである。広角レンズを駆使した画面はスピード感にあふれ、さまざまな人種が渦巻くビルの迷路をよくとらえている。じっさい、この撮影はまったくの無許可・ぶっつけ本番で撮ったといわれる。監督・脚本のウォン・カーウァイは、その続編「天使の涙」(堕落天使)でもこのビルを活用し、人種の坩堝としての香港をするどく提示している。「恋する惑星」の漢語題は「重慶森林」であって、まさにこのビルこそが映画の主人公であるとわかる。

 しかし、こうしたインド系の人々を香港に引きつけたのは、もちろん昨今の香港における経済状態だけではない。香港のおおやけの統計では、その全人口に対する漢人の比率は九八%に達する。しかしその他の外国人はじつにさまざまで、現在に多数を占めているのがフィリピン人である。その大半は裕福な家庭でメイドとして働く女性たちで、約八万人に達する。またインド=パキスタン人については、統計にのぼっている数字では、インド人一万九千人、パキスタン人九千人であるといわれる。

 数字にのぼる多くの人々は、香港生まれの人々が多数を占める。すなわち、イギリスは香港を占領したのち、香港警察を設立する際にインド=パキスタン人を大量に導入したのである。それは「民衆の敵」としての植民統治者の顔をずらす効果、インドで実験ずみの間接統治の活用、そして英語を解することの便利さが理由であるといわれる。彼らの大部分はマドラス、チッタゴン出身の海軍兵であったと伝えられるが、漢人との混血も多い。その他、役人や商人としても多くのインド=パキスタン人が早くから香港に呼び寄せられ、そこからインド系の定住者が多数存在するわけである。またもうひとつの流入経路は、中国革命による本土からの移住者であって、各地の英国租界にいたインド=パキスタン人が香港に流れ込んできたいきさつがある。そうした定住者を核として、香港への西アジアからの人々の流入が加速化されているのである。しかし香港国籍をもつインド=パキスタン人にとって、九七年の中国返還は重要な問題であり、というのも、中国は外国人の帰化を認めていないため、返還後は子孫が無国籍状態になるおそれがあるからだ。これはグルカ兵として香港に移籍されたネパール人たちにもいえることで、彼らの場合は同じモンゴロイドであるだけに、より複雑な事情をかかえる場合も少なくない。現在、こうした人々はイギリス国籍とパスポートを求める運動を起こしているが、香港政庁の反応はにぶく、業を煮やして裏社会にパスポートを求め、それが原因で死傷事件に発展するケースが後を絶たないでいる。

 これらインド=パキスタン人の集まる地域やネパール人地区も歩いてみたが、半年後の返還をにらんでどう動くのか、表面的にはまったくわからない。しかし新聞・雑誌には、やはり事件が多数起こっていると報道されている。たとえば香港のさまざまな人々にインタビューをおこない、それをまとめた本、ゲルト・バルケ『香港の声』(片岡みい子・訳、晶文社)には、香港のインド商工会会長であるK・シタール氏のインタビューも含まれている。一九五二年に香港へ来たというシタール氏は、中国返還にたいして楽観的な面と悲観的な面とを合わせ持ち、基本的にビジネスの機会があるかぎり香港にいたいという。しかし、子供たちが無国籍になってしまうという現行の英国国籍法には苦慮していて、サッチャー首相(当時)に手紙を書き、それなりの言質を取ったというが、結局これも空手形だったのではないか(バルケの原著は一九八九年刊)。

 尖沙咀駅から彌敦道を北に歩いてゆくと、すぐに九龍清真寺がある。すなわちイスラームのモスクなのだが、これまた一番の目抜き通り、俗にいう「黄金の一マイル」に面していることが、不思議である。イスラームを国教としないアジア諸国では、モスクがあっても目立たない場所にあることが多いからであって、これが国策なのか、イスラーム教徒の経済力の強さを証すものなのか、いずれにしても印象的であった。しかもこのモスクは午後の数時間を一般の観光客にも開放しており、土足や露出度の高い服装でないかぎりは無料で自由に入場できることになっているのである。ちなみに、香港には三万人前後のイスラーム教徒がいるといわれるが、その大部分は漢人である(香港島にもモスクがあり、回教徒墓地も二個所ある)。また、ヒンドゥー教徒は約八千人を数え、香港島のハッピーバレーに寺院がある。香港島でヴィクトリア・パークにのぼる自動車道近く(湾仔)(ワンチャイ)には、シーク教の寺院もある。こちらは自由に見学できるものではないが、やはり一等地にあることは注目したい。この寺院は一九〇一年に建てられたものだが、戦時中に日本軍の爆撃によって教堂が破壊され、シンディー教徒、パールシー(ゾロアスター)教徒の支援もあって再建されている。またシナゴーグもひとつあり、これは実見することができなかったが、ボンベイのユダヤ商人の家系であるサッスーン一族の寄進になるもので、会衆は五〇〇人程度いるとのことである。ここで宗教寺院のことに触れたのは、その多様な外国人の存在をしめすとともに、香港への多様な民族の流入がきわめて歴史的であることを例示するためである。

 以上は、ごく短期間に見た香港からの印象であるにすぎない。いろいろ買い込んできた本もよく読んではいないし、この七月の中国返還を見つめるきっかけをつけるだけのものである。しかし、年を越えてくると、中国政府は香港の憲法にあたる基本法に干渉をはじめ、二月の全国人民代表大会で新提案を採択する方針を打ち出した。中国側は、つとに「内地の制度をそのまま香港に持ち込むことはできないが、外国のものを持ち込むわけにもいかない」と述べてきたし、イギリスの制度への批判を通して「人権主義」への反発を匂わせてきた。現在すでに香港映画は中国の検閲を必要としているし、返還後にそれが強化される可能性も危惧されている。財界人よりも芸能人に香港脱出の勢いが強いのも、こうした傾斜への危ぶみであろう。この文章を書いている現在も、香港の政治状況は激動を続けている。魯迅のことばを思い起こしたことが単なるメタファーとなるよう望みつつ、これからの香港を考えていきたい。

 

魯迅の引用は、すべて『魯迅全集』(学習研究社)に依ったが、各編の訳者は省略させていただいた。また本稿では「漢人」「漢語」という表現をもちいたが、香港の言語情況の特殊性と香港人の多くが必ずしも「中国」の語にアイデンティティを持たないため、あえてこうした語を使ったことをお断りしておく。